史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「草莽枯れ行く」 北方謙三著 集英社文庫

2012年04月21日 | 書評
長谷川伸の古典的名著「相楽総三とその同志」(中公文庫)が、絶版となって久しい。何とか復刊してもらえないかと、中央公論新社にメールを送ったりしたが、やはり一人の物好きのために一々応えてくれるわけもなく、なしのつぶてであった。
実は北方謙三という作家は、何となく肌が合わない感じがして、これまで敬遠してきた。しかし、相楽総三を主人公とした作品とあらば、話は別である。
幕末には多くの「謎」がある。その一つが「赤報隊が何故、偽官軍として追討されなくてはならなかったのか」である。赤報隊が掲げた年貢半減が、実行不能だったからという説もあるが、この小説では西郷隆盛と岩倉具視という二人の「悪党」により抹殺されたという小説家ならではの想定となっている。
さらには相楽総三の同志、伊牟田尚平も西郷によって抹殺されたとしている。この小説では、益満休之助は、辛うじて逃れてヤクザに転身するという、かなり無理な筋立てになっている(因みに史実では、休之助は上野戦争で流れ弾にあたって戦死したというのが定説)。
この小説では、新門辰五郎、山岡鉄舟、勝海舟、中村半次郎、板垣退助、坂本龍馬、土方歳三、そして山本長五郎(清水の次郎長)、黒駒の勝蔵、大政、小政といった実在の人物が、複雑に絡み合う。ほとんどが北方謙三の空想の所産であり、「そりゃないだろ」という飛躍もあって、ちょっと辟易するところもあったが、基本的には楽しめた。個人的には相楽総三の赤報隊の同志(落合直亮、権田直助、竹内啓、小川香魚、渋谷総司といった面々)をもっと描いて欲しかったという思いが残った。

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「世に棲む日日」 司馬遼太郎著 文春文庫

2012年04月21日 | 書評
「世に棲む日日」を初めて読んだのは、学生時代のことだったと思うが、その後も何度か繰り返して読んだ。今回改めて読み返したが、やっぱり何度読んでも面白い。
前半の主人公は、吉田松陰。挫折と失敗を繰り返しながら、この男はいつも前向きで絶望を知らない。雲一つない蒼天のように、どこまでも楽天的である。松陰の生涯は、安政の大獄の極刑によって終焉を迎える。本来悲劇的な最期にもかかわらず、この小説が飽くまでも明るいのは、吉田松陰の個性に拠るところが大きい。
松陰の遺志は高杉晋作に引き継がれる。この小説はどこを読んでも面白いが、最高の傑作シーンは、四カ国連合艦隊による下関砲撃のあと、降伏の使者として高杉晋作が派遣される場面である。晋作は、「宍戸刑馬」と名乗り、「鎧直垂に陣羽織を着、長い立烏帽子」という芝居じみた格好で登場する。宍戸家は、長州藩の家老を代々務める名家であるが、無論「宍戸刑馬」などという人物は実在しない。人を喰ったような疑名である。いかに今日の北朝鮮が常識外れであってもここまで人を喰ったような手は使わないだろう。百五十年前の日本ではこんなマネも有りだった。
晋作を迎えたアーネスト・サトウは「魔王のように傲然とかまえていた」と描写している。英国代表のクーパー提督が彦島の割譲を口にすると、魔王は突如として、古事記・日本書紀の講釈を始めた。同席した伊藤俊輔の怪しげな英語力では無論のこと、語学の天才といわれたアーネスト・サトウをもってしても、通訳しかねる日本語であった。晋作はこれを延々と続けて、とどまることが無かった。遂にクーパーが折れて、租借のことは撤回した。そばでこの一部始終を見ていた伊藤は、「高杉は狂ったのでないか」と思ったらしいが、いかに後の大政治家をもってしても、晋作の高度な政治的演技は理解不能だったに違いない。晋作の機転により長州は彦島の割譲を逃れることになった。
この小説のたくさんの登場人物の中でも愛人おうのは取り分け魅力的である。惚れてしまいましたね。

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千歳船橋

2012年04月15日 | 東京都
(東京農業大学)


榎本武揚先生像

 東京農業大学は、榎本武揚が明治二十四年(1891)、飯田橋に徳川育英会育英黌農学科を創立したのがその起源である。二年後の明治二十六年(1893)には、育英黌から独立して東京農学校と称した。校地も文京区に移転している。その後も移転を繰り返し、現在地に移転したのは戦後のことである。
 東京農大の正門を入ると、創設者榎本武揚の胸像が出迎えてくれる。さらにその奥には初代学長横井時敬の胸像も置かれている。


移転の歴史が刻まれたモニュメント

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墨田 Ⅲ

2012年04月15日 | 東京都
(牛島神社)


牛島神社

 かつて「王子権現」と呼ばれた牛島神社で、若き日の勝海舟が剣術修行に励んだという。なお、王子にある王子神社の公式HPには、「勝海舟も修行したと伝えられます」と記載されているが、さすがに両国から王子まで通うというのは無理がある。

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「義烈千秋 天狗党西へ」 伊東潤著 新潮社

2012年04月07日 | 書評
ある講演会で「明治維新は少数のリーダーによって成し遂げられた」と聞いて、違和感を覚えたことがある。恐らく「少数のリーダー」とは、西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允、高杉晋作、坂本龍馬といったスーパースターのことを指しているのだろうが、とても彼らだけの力で倒幕という大事業が完遂できたはずもない。手元にある「明治維新人名事典」には四千人を越える名前が連なる。辞典に掲載されるような人だけでなく、ほかにもたくさんの無名人の犠牲の上に討幕維新は成し遂げられたことを想起すべきであろう。
「義烈千秋 天狗党西へ」は、無名の人たちの物語である。吉村昭「天狗争乱」、山田風太郎の「魔群の通過」など、天狗党を扱った小説は数多ある。いかに小説家といえ、歴史を改竄するわけにはいかない。本書も、水戸藩領における戦闘に始まり、下仁田や和田峠での激戦、そして敦賀における悲劇的な最期を迎えるという「大きな流れ」は、歴史の語るままである。その中で天狗党に参加した人物の個性を細かく描き出した小説はこれが初めてではないか。
天狗党といえば、首領武田耕雲斎と思想的柱石である藤田小四郎ばかりが有名であるが、実は多彩な人物群によって構成されている。
老年ながら気概の人、田丸稲之衛門。小四郎の同志、竹内百太郎。不屈の軍師、山国兵部。一流の第一線指揮者である飯田軍蔵。剛力の怪僧、不動院全海。純粋で健気な野村丑之助。
この作品では、会話体を多用して、多彩な人物群を立体的に描くことに成功している。
この作品は、これまで戦国時代を題材にした小説が多かった著者が、初めて幕末を題材に取り上げたものである。天狗党に参加した人々の人物設定が極めて自然であり、諸資料を深く読みこんだことが伺える。
また、他書では見られぬ著者なりの解釈も面白い。たとえば…
・ 田中愿蔵が、無理な金策や放火など、暴虐の限りを尽くしたのは討幕を志向していたからであり、愿蔵隊の参謀、土田衝平がその黒幕であること。
・ 田沼玄蕃意尊率いる幕府軍が、常に二日の距離を置いて天狗党を追走しながら、決して戦闘には及ばなかった。その背景には天狗党という難題を一橋慶喜に突き付け、その出方を見ようという意図があった。幕閣は、あわよくば天狗党もろとも慶喜も破滅させようとしていたとしていること。
私の読書は基本的には通退勤の電車内である。持ち歩くのはできるだけ文庫本にしているが、天狗党を題材にしたこの本は分厚い単行本であったが、敢えてかばんに入れるになった。おかげでこの数週間、かばんは嵩張ってしまったが、読み応えもずしりと来るものであった。

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「司馬遼太郎の幕末維新Ⅱ」 週刊朝日編集部 朝日文庫

2012年04月07日 | 書評
先に紹介した「Ⅰ」の続編。本編では、『世に棲む日日』の吉田松陰、高杉晋作、『峠』の河井継之助、『花神』の大村益次郎を取り上げる。
幕末という時代を、長州藩の存在を抜きに語ることはできない。長州は、藩を挙げて狂気を帯び、一人攘夷を叫んで抗幕の機運を高めた。その淵源をたどっていくと、吉田松陰という一人の若者に行き着く。松陰が長州に点火したとすれば、晋作はその火を盛大にする役割を果たしたと言える。
たまたま門下から新政府の幹部となった人材が出たため偉人に祭り上げられたが、吉田松陰という人は、客観的に見ればエキセントリックな田舎教師である。同時代の目でみても、危険思想の持ち主であったであろう。恐らく松陰が生まれるのが十年早くても、十年遅くても歴史の舞台で活躍する場面はなかったに違いない。これは高杉晋作も同様。あの時代の長州に高杉晋作という革命児が存在したことがミラクルである。
本書で取り上げられた三作品は、いずれも主役となる人物に対して司馬先生の深い洞察と愛情を感じる。これが司馬作品の魅力である。ときに司馬先生の愛情が過多となって、主人公が実際以上に大きく描かれることがある。『峠』の河井継之助がその典型かもしれない。今でも長岡では、河井継之助のことを敬愛する人もいれば、城下を焼いた張本人として恨んでいる人も多いという。磯田道史氏によれば「歴史学者の立場からいうと、『峠』より短編の「英雄児」の方が史実に近い」という。司馬作品を読むとき、その辺りを心して読む必要があるだろう。

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「幕末を生きた女101人」 『歴史読本』編集部 新人物文庫

2012年04月07日 | 書評
我が国では女性の活用が叫ばれて久しいが、世界的に見れば日本の女性の社会進出は驚くほど遅れている。三世代同居家族が少なく、託児所などのインフラが整備されていないこともその原因であろうが、男尊女卑の風土は随分と長い間、この国の社会を支配してきた。これを覆して欧米並みに変貌させるのは並大抵のことではない。
この本の裏表紙には、「幕末・維新を強く生き抜いた女たちの知られざる物語」と記載されているが、残念ながら幕末維新期において女性が主導的な役割を果たした例は極めて少ない。田井友季子氏(故人)が本書240頁で語っているように「その活動は身柄をかくまうとか、経済的に支援するとか、所詮、内助の域を出ない」というのが実態である。
本当にタイトルのとおり百一人が紹介されているのか、一々数えるほどヒマではないが、この本では有名無名の女性がたくさん紹介されている。いずれも個性的ではあるが、必ずしも歴史において大きな役割を果たしたとはいい難い。
中には唐津の奥村五百子や福岡の高場乱(おさむ)のように、男まさりの活躍をした女傑も存在したが、このような女性がもっと活躍していれば、幕末史も遥かに艶やかで華やいだものになっただろう。

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益子

2012年04月03日 | 栃木県
(亀岡八幡宮)


亀岡八幡宮

 益子町の亀岡八幡宮の創建は、康平七年(1064)というから、千年以上の歴史を有する神社である。日本には長い歴史を持つ神社が、あちこちにさりげなく存在している。
 戊辰戦争の際、新政府軍はこの神社で戦勝祈願を行った。




 境内には、大小様々の石造りの亀がたくさん置かれている。

(鶏足寺)


鶏足寺


長棹速水之墓

 長棹速水は、黒羽藩士。斥候に出て官軍に捕えられ、蓼沼村で斬首された。

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那珂川

2012年04月03日 | 栃木県
(乾徳寺)


乾徳寺


北條重春(斧四郎)之墓

 馬頭の街並みから、さほど離れていないにも関わらず、乾徳寺の境内は深い森に覆われている。かつてこの裏手の山は、武茂城があって、宇都宮氏の有力な豪族であった武茂氏の本拠地であった。乾徳寺には武茂氏歴代の墓があるが、その直ぐ横に北條重春の墓がある。
 『下野の戊辰戦争(大嶽浩良著)』では、北條重参(しげみつ)と表記されているが、墓碑では「重春」と読める。北條重春は、水戸藩諸生党郷士であり、市川三左衛門のもとで北越、会津を転戦した。会津落城前に脱出し宇都宮に至ったが、敵兵に見つかり自刃した。当初、宇都宮の桂林寺に埋葬されたが、門弟たちにより明治十六年(1883)に乾徳寺に改葬された。

(大森元徳碑)


大森元茂碑

 小口村(現那珂川町馬頭)の大森家は、水戸藩の郷士であり、天狗党に属した。市川三佐衛門の率いる諸生党が、水戸帰還のために馬頭を通過した際、小勢のために敵せずその後を追って水戸に進んだ。十月に入って弘道館の戦いで天狗党は勝利を収めたが、大森元茂は戦没した。三十四歳。道路沿いに建てられた顕彰碑は、明治三十五年(1902)に建立されたものである。

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塩谷

2012年04月03日 | 栃木県
(斉藤家)


斉藤家四脚門

 慶應四年(1868)八月七日、鬼怒川東岸の舟生村(現塩谷町舟生)を旧幕軍が襲った。舟生には新政府軍が駐屯していたが、たびたび旧幕軍の襲撃を受けたため、西舟生と熊ノ木に陣所を設けていた。主力は宇都宮藩と壬生藩。戦闘は小一時間で終了し、この間に三集落三十三戸が略奪、放火された。


土塁

 舟生の戦いで西舟生村の名主斉藤平作方は、二度にわたって兵火にあい、母屋や蔵などを焼き払われた。四脚門は焼失を逃れた。門前には土塁も往時のまま残されている。

(西古屋霊園)


大島利平(右)
大島治郎左衛門

 慶應四年(1868)八月七日の舟生での戦闘で戦死した軍夫大島利平(五十三歳)と大島治郎左衛門(三十八歳)の墓である。二人は西古屋の出身で新政府軍に徴発されて道谷原地内に設けられた見張り小屋で見張りをしているところを旧幕軍の急襲を受けて戦死した。後年、二人の霊を弔うために明治政府が建てたものである。

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