史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣」 村上泰賢著 平凡社新書

2013年07月21日 | 書評
著者村上泰賢氏は、群馬県の出身で東善寺の住職。小栗上野介の顕彰会の理事を務め、熱心に小栗の顕彰をされている方である。本書でも丹念に小栗の生涯を追い、その功績を浮き彫りにしている。
小栗上野介には何枚か肖像写真が残されているが、いずれも知性を感じさせる風貌が印象的である。実際彼は幕府きっての開明派であった。万延元年(1860)の遣米使節団は、各地で熱狂的な歓迎を受けたが、その理由は、アメリカとは全く異なる、ちょんまげに着物という風俗だけでなく、当時の日本人の「落ち着きと知性(「タイムズ」一八六〇年六月二日)」が、アメリカ人の心をつかんだのであろう。それを象徴する存在が小栗であった。
先年――といっても平成十五年なので、かなり昔の話だが――NHKのドラマで小栗上野介を主人公とした『またも辞めたか亭主殿』が放映された。筋立てはほぼ史実に沿って描かれていたが、終始違和感があった。その要因は、小栗を演じた岸谷五郎という役者にあった。岸谷五郎は、小栗上野介を表情豊かに、熱演していたが、私の小栗のイメージとは、随分かけ離れていた。個人的かつ勝手な想像ではあるが、小栗という人は、喜怒哀楽を顔に出して、簡単に腹の底を他人に読まれるようなことはしなかったのではないだろうか。いつもポーカーフェイスでは、テレビドラマにならないかもしれない。しかし、小栗上野介の凄みが、あれではなかなか伝わらないような気がしてならない。
何だか、途中から書評ではなくて、TV番組評になってしまいましたが…。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「実録 天誅組の変」 舟久保藍著 淡交社

2013年07月21日 | 書評
「はじめに」によれば、本書は「確認できる事実をできるだけ客観的に記すことに努め」るとともに、「この十年間で出てきた新史料を盛り込むことによって、これまで通説とされてきた内容についても見直しを試みている」という。浅学である私には、どの部分が新事実なのか判別できなかったが、例えば変の勃発する以前に中山忠光が、真木和泉の釈放を求めて、久留米まで赴き家老と直談判したことが記述されている。中山忠光というと、どうにも先鋭的で危なっかしい印象が強いが、こうして身軽に行動し、重要な局面で公家としての影響力を発揮することで、自然と浪士たちの首領格に仰がれることになったのだという。
本書の記述は、極めて詳細である。天誅組が崩壊し、浪士たちが追い込まれていく様子がリアリスティックに描かれる。また、巻末には天誅組に参加した隊士たちの享年、死亡場所、墓所、贈位、辞世などがリスト化されており、これだけでも価値がある。
私が注目したのは、池田謙次郎という膳所藩出身の人物である。東吉野にも池田謙次郎(墓碑によれば謙治郎)の墓や戦死の地があり、それを鵜呑みにすれば、ほかの隊士と同様、鷲家口における激戦で戦死したものと思われるが、一説に御用金を紛失した責任を負って自害したともいわれる。
戦闘の混乱もあり、個々人の最期が不明瞭なことはあり得ることであるが、実は池田謙次郎の最期にはもう一説ある。彼は中村小次郎と変名し、戊辰戦争に参加。奥羽へ出陣したが、鎮撫総督府下参謀世良修蔵の下にあったため、世良暗殺の余波を受け、二本松領で暗殺されたというのである。確かに福島市内の宝林寺には、「長藩 中村少次郎」と刻んだ墓がある。これは天誅組生き残りの隊士の墓なのだろうか。誠に興味が尽きない。


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小野

2013年07月14日 | 福島県
(普賢寺)


普賢寺


薩摩藩吉井甚之助墓

 薩摩藩士の戊辰戦争戦死者は、概ね合葬墓にまとめられている。単独の墓が立てられているのは珍しい。普賢寺には、慶応四年(1868)七月二十八日、十九歳で磐城仁井町にて戦死した薩摩藩士吉井甚之助の墓がある。

 今回のGWの旅行は以上で終了である。総走行距離は二千三百㎞におよび、撮影した写真は六百枚を超えた。毎日、昼食もとる時間もなく、日の出から日没まで走り回ったが、実に充実した時間であった。これにて福島県下でいうと、いわゆる浜通りだけが残されることになった。浜通りの大半の地域は、現状では福島原発事故により立ち入りが許されない。この場所で史跡廻りができるのはいつのことか分からないが、その日を夢見て当面は調査に時間を費やすことにしよう。
小野から磐越自動車道、常磐自動車道経由、三時間余りで八王子に帰り着いた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郡山 Ⅲ

2013年07月14日 | 福島県
(大久保神社)
 今回の旅では、福島県会津方面と宮城県仙台周辺の史跡を回ったが、それで終わりではない。帰路郡山の大久保神社に立ち寄る計画であった。東北自動車道を郡山南ICで降りて二㎞ほど南の牛庭に向かう。


大久保神社

 牛庭公民館の敷地内に大久保神社がある。神社と名づけられているが、鳥居や神殿があるわけではない。中央に「大久保公追遠碑」が据えられているだけである。鹿児島や酒田の南洲神社は、西郷隆盛を神格化したものであるが、当地の大久保神社は安積疎水の開削に尽力した大久保利通に感謝しようという地元の人たちの厚意の結晶のように感じる。


牛庭原 旧松山藩士族 入植者の碑

 この地は牛庭原と呼ばれる原野であったが、明治十五年(1883)、安積疎水の開通とときを同じくして、十五戸の旧松山藩士族が入植して開拓した場所である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丸森

2013年07月06日 | 宮城県
(旗巻古戦場跡)


旗巻古戦場之碑

 宮城県と福島県の県境に位置する旗巻峠は、その昔、源頼義、義家父子が軍を率いて、安倍貞任を討つためにこの地を通過しようとしたとき、森林が深くて通行を阻まれ、旗を巻いて通ったという言い伝えがある。時代が下って戦国時代、伊達政宗はこの地を藩境を定め、故事に因んで旗巻峠と名付けた。
 戊辰戦争では、駒ヶ嶺城が落城して以降、旗巻峠は北進する西軍を阻止する、仙台藩最後の拠点であった。慶應四年(1868)九月、細谷十大夫率いる仙台衝撃隊(鴉組)を含む仙台藩軍は、石田正親を隊長とし、参政鮎貝太郎平が指揮をとった。さらに庄内藩、米沢藩の応援を得て、兵千二百で守備していた。急峻な山を前に西軍は攻めあぐねていたが、椎の木方面から奇襲をかけ、一気に山上に迫った。東軍は後方を遮断される危険を感じ、旗巻峠は総崩れとなり、陣屋を焼いて退却した。態勢を立て直して反攻に出ようとしたところに、仙台藩の降伏を知らせる使者が到着し、当地における戦闘は終焉を迎えた。仙台藩にとって、この地が最後の戦場となったのである。


明治戊辰戦死者供養碑

 旗巻峠における戦闘での戦死者は、仙台藩四十六名、米沢庄内十五名。旗巻古戦場之碑は、明治三十三年(1900)、三十三回忌供養慰霊祭の折、当時参謀兼副隊長であった細谷十大夫の揮毫によるもの。


北砲台場跡

 旗巻峠古戦場は公園として整備され、陣屋跡、砲台跡などには看板が建てられている。陣屋跡から北砲台跡まで四百メートル。階段が通じており、あっという間に到達する。北砲台には、山下、亘理方面の海外防備に使用されていた旧式海岸砲(球形弾)を外して引き揚げ、俄かに配備した。


北砲台跡からの眺め

 山頂からは相馬市街を見下ろすことができる。


南砲台場跡

 陣屋跡に戻って、そこから南砲台場跡までは片道八百メートル。旧道から鬱蒼とした林を抜けると、少し広くなった空間があり、そこが南砲台跡である。


戦死塚
(仙台藩士の墓)

 一旦、公園入口まで戻り、そこから西へ六百メートルほど行くと、仙台藩士の墓がある。明治元年(1868)九月十日の戦死者(以下、十二名)を葬ったものである。

 吉田義六・渡辺庄造・松本嘉十郎・荷田沢五郎・半田安五郎・庄司伊右衛門・阿部保之助・石川栄三・高橋与右衛門・吉田孫三郎・佐藤是三郎・星村初三郎

(常照寺)


常照寺

 筆甫の常照寺に仙台藩が一時本陣を置いた。


戊辰戦場之碑

 筆甫で行われた戦闘により仙台藩十二名、西軍三名が戦死している。

(遊仙寺)


遊仙寺

 遊仙寺本堂裏の墓地には、小斎邑の領主であった佐藤家代々の墓がある。その一番奥にあるのが佐藤宮内の墓である。


佐藤宮内墓

 佐藤宮内恒信は、小斎邑領主。千石。戊辰戦争の際は、会津攻撃のため当初は藤田(福島県国見町)の守備につき、その後、会津藩が白河城を乗っ取る際には白河城の三の丸にあったが、根田に退き、須賀川に引揚げた。閏四月二十五日には福島を発し、白河口大隊長として出陣し白河に至り、白河口の戦いで奮戦。その後、数度の奪還戦にも奮戦。棚倉の危急には会津藩の小森一貫斎等と棚倉に向かい奮戦。中村藩が寝返ると、旗巻峠に出陣し奮戦した。明治八年(1875)没。五十五歳。

(真龍院)


真龍院


招魂碑

 戊辰戦争から大東亜戦争に至る、丸森出身の戦死者の招魂碑である。

(神明社)


神明社

 神明社境内には、大東亜戦争、戊辰戦争、日露戦争の慰霊碑が並んで建てられている。


戊辰戦死之碑

 戊辰戦死の碑は、明治二十七年(1894)の建立。

 今回の旅の最終日は、ホテルを取っていなかったので、神明社の近くに車を停めてここで夜を明かした。五月というのに意外なほど冷え込み、寝袋はあったものの、それでは寒さは凌げなかった。ほとんど一睡もしないまま夜明けを迎えた。
 まだ完全に日が上がったわけではなかったが、活動を開始。神明社の境内は、まだ薄暗かった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山元

2013年07月06日 | 宮城県
(金泉寺)


金泉寺

 山元町高瀬の金泉寺には菊池美作、荒庄三郎の墓がある。


菊池美作・荒庄三郎碑

 荒庄三郎は、亘理郡高瀬の人。慶應四年(1868)七月二十八日、磐城熊川にて戦死。二十三歳。


菊池美作墓

 菊池美作は、亘理郡高瀬の人。慶應四年(1868)七月二十六日(墓碑銘によると二十八日)、磐城熊川にて戦死。三十四歳。

(徳本寺)


徳本寺


碩寛院殿竹堂翠雨大居士
碩貞院殿竹窓香雨大姉
(大條孫三郎墓)

 徳本寺には広大な墓地がある。その広い墓地ではなく、現在裏山を削り取る工事が行われている、その一角に亘理郡坂本邑主伊達氏の墓がある。
 大篠孫三郎は、維新後本姓である伊達氏を名乗り、伊達宗亮と称した。仙台藩勤王派であり、仙台藩に抗戦を求める榎本武揚、土方歳三との談判に臨み、交渉は決裂した。大正十三年(1924)八十七歳にて没。

(山元町歴史民俗資料館)


山元町歴史民俗資料館


戊辰之義人之碑

 山元町歴史民俗資料館の前に「戊辰之義人之碑」という碑が置かれている。この石碑は、平成四年(1992)に建立されたものである。
 ここで義人とされているのは、山下村の百姓彦左衛門と長左衛門の二人である。慶應四年(1868)八月十一日、伊達領駒ヶ嶺館が落城寸前に陥ると、亘理館主伊達邦成は講和を請うため、彦左衛門と長左衛門の二人を降伏の使者として相馬の西軍に送った。二人は、笠野八重垣神社で水盃を交わし、義兄弟の契りを結んだ。相馬に向かう途中、二人は間諜として囚われた。西軍は真偽を確かめるため、彦左衛門を人質として、長左衛門を帰村させた。約束期限に戻らねば、彦左衛門は刎首されることになっていたが、この約束期限寸前に家老を伴って戻り、彦左衛門は九死に一生を得た。この結果、亘理は戦火から免れることができた。伊達家はこの挙に対し、紋章入りの羽織と金百五十両を下賜し、名字帯刀を許したという。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

角田

2013年07月06日 | 宮城県
(長泉寺)


長泉寺

 長泉寺の門前に戊辰戦死之碑が建っている。角田領主・石川邦光家中の戦死者二十三名の慰霊碑である。


戊辰戦死之碑

 この日は、角田に至ったところで日没を迎えた。残念ながら長泉寺の墓地を歩く時間は殘されていなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

亘理

2013年07月06日 | 宮城県
(大畑墓地)


佐伯新之丞墓

 「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、佐伯新之丞は、亘理郡大畑の人。伊達藤五郎邦成の家来。慶應四年(1868)八月十六日、磐城駒ヶ峰にて戦死。
 佐伯家墓標によれば、法名は「忠源了義信士」、死亡日は同年八月二十三日となっている。

(亘理神社)
 石高二万三千石の亘理は、他藩でいえば「支藩」ということになるが、仙台藩では「藩」という呼び方はせず、亘理領である。さらに仙台藩には「城」と呼ばれるのは、仙台城と白石城しかなく、ほかは「要害」と称される。亘理要害もその一つである。幕末の亘理領主は、伊達藤五郎邦成。慶応四年(1868)四月、出陣の命を受けた伊達藤五郎は出陣式を挙げて七カ宿街道湯の口まで進出したところで、奥羽越列藩同盟結成の報を受けた。驚愕した藤五郎は、伊達家に対して反省を求める建白書を送った。のちには熊本細川藩との間で終戦工作を行うなどしたことが、戦後亘理藩士が大挙して北海道に移住した背景にある。明治初年に移住した亘理藩士は、領主藤五郎以下約二千七百人という。現・伊達市の起源である。


亘理神社

 亘理神社は、旧亘理要害(御館=おだて)の本丸跡に立地している。明治維新まで本丸跡には二十棟以上の建物があったというが、維新後全ての建物は取り壊され、資料も残っていないため今となっては詳細不明である。
 この場所で、戊辰戦争時、仙台藩の降伏の調印式が行われた。


戊辰戦役碑

 仙台藩亘理領の戦死者三十三名の慰霊碑である。明治三十三年(1900)、戊辰戦争当時の亘理領主伊達藤五郎邦成の嗣子男爵伊達基が建立したものである。


戊辰殉難五十年祭紀念碑


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大河原

2013年07月06日 | 宮城県
(最勝院)


最勝院


浅草宇一郎墓

 大河原町の最勝院には浅草宇一郎の墓がある。浅草宇一郎は、文政元年(1818)、大河原村に生まれた。のちに福島に移って目明しとなった。戊辰戦争では、仙台藩による世良修蔵捕縛処刑に協力した。明治二十三年(1890)、七十五歳で死去。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柴田

2013年07月06日 | 宮城県
(大光寺)


大光寺

 大光寺は、十五世紀半ばに起源をもつという古刹で、柴田家の菩提寺である。その中に柴田中務の墓がある。


解脱院鋒安常担居士
(柴田中務墓)

柴田中務は、戊辰役大隊長として磐城口に戦い、明治元年(1868)十月、家来小松亀之進が占領軍の広島藩兵を殺した責により切腹した。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする