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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末史」 佐々木克著 ちくま新書

2014年12月23日 | 書評
数年前、半藤一利氏の同名の『幕末史』(新潮文庫)がベストセラーになった。或いはこの本に触発されたか、幕末維新史の第一人者である佐々木克氏が満を持して世に問うたのが本書である。
「攘夷」という言葉は、幕末史を語る上で一つのキーワードである。と、同時に場面やこれを発する人によって、微妙に意味が異なるという。
「破約攘夷」という用語がある。安政年間に結んだ条約を破棄して、直ちに夷人を撃退せよ、という文字通りの意味に私は理解していたが、本書によれば孝明天皇が目指した「破約攘夷」は、(当時はそのような言葉がなかったが)維新後使われた言葉に置き換えれば「条約改正」と同義だという。ここが本書の核心の一つであり、正直に言えば、もう少し根拠について明らかにして欲しいところであるが、個人的にはこれまで触れたことのない、新しい解釈であった。
たとえば元治元年(1864)の四国連合艦隊による長州攻撃は、てっきり前年の下関攘夷戦争の報復だと思い込んでいたが、本書によれば、報復のための攻撃ではなく、この攻撃の目的は、関門海峡の閉鎖を解除することにあったとする。確かに四国連合艦隊による襲撃を主導した英国は、前年下関では砲撃を受けていないのである。思い込みがいかに危険かということを思い知らされた。
本書では慶応二年(1865)から三年(1866)の激動の政情を解明することに多くの頁を割いている。慶応三年(1866)十月の大政奉還は、討幕の矛先をかわすための奇手だった。薩長勢力が振り上げた拳を交わすために慶喜が放った絶妙の奇策に、「討幕の密勅」を用意していた討幕派は煮え湯を飲まされたという俗説が語られてきたが、虚心に史実を見ていくと、薩摩の小松帯刀は大政奉還を積極的に推し進めている。小松と西郷・大久保とは路線を別にしていたともいわれるが、何か釈然としないものがあった。俗説では大政奉還と同日に発せられた討幕の密勅は空振りに終わったとされているが、実は討幕の密勅は薩摩藩主の卒兵上京実現するために必要な「秘物」であったという。この時点で薩摩藩は武力討幕ではなく、政変による政権交代を考えていた。そのためには討幕の密勅は不可欠なものだったというのである。
ただし、本当に国元から藩主と軍を呼び寄せることが目的であったなら、どうして「賊臣慶喜」を「殄戮(てんりく)せよ」といった過激な内容になったのか。単に「兵を率いて上京せよ」という文面ではいけなかったのか。この点についてもう少し解説が欲しかった。
著者「あとがき」によれば、佐々木先生も今は退官し、癌を患い治療を続ける日々という。それでも老け込まずに、今なお新しい視点で歴史を見ようという姿勢には、感銘を受けた。半藤一利氏の「幕末史」より、余程読む価値のある一冊である。

コメント (7)
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「明治維新と幕臣」 門松秀樹著 中公新書

2014年12月23日 | 書評
本書の特徴は、「明治維新と幕臣」と銘打っておきながら、全六章のうち、第一章と第二章は、江戸時代の官僚組織の形成過程を詳述している点である。個人的には、幕末以外の歴史には馴染みがないので、非常に新鮮であった。
幕臣(旗本と御家人)は、幕府開闢以来基本的に世襲で受け継がれてきたものと勝手に想像していたが、そう単純なものではないらしい。四代家綱までは将軍の嫡子が将軍を引き継いできたが、五代綱吉は館林藩主として二十五万石を与えられていたため、綱吉が将軍に就くと同時に、館林は幕府直轄となり、その家臣も幕臣に編入された。同じように六代家宣も甲府藩から迎えられたため、甲府藩は実質的に幕府に吸収された。当然ながら、館林藩や甲府藩といった、言わば「出向先」から幕府本体に戻った元陪臣が突然幕臣となったことに、もとからの幕臣たちは感情的には面白くなかったようである。元陪臣と直参の幕臣との間に対立が生じることになる。
この問題を解決したのが、やはり紀州家から八代将軍に就いた吉宗であった。吉宗は紀州藩を存続させるとともに、御家人クラスの軽輩の者二百人のみを幕臣に加えるに止めた。
幕府の統治機構の確立は三代家光の頃といわれるが、吉宗は統治に必要な行政資料の収集、整理、保存に注力した。吉宗といえば享保の改革が有名である。享保の改革は、新田開発による増収や大岡忠相の登用などで知られるが、改革の一環として「公事方御定書」の編纂という事業も手掛けている。
ちょうどこの本を読んでいる時に、国立公文書館の特別展「江戸時代の罪と罰」を見た。ここでも「公事方御定書」に触れられていたが、これは裁判における判断基準を明確化するための判例集的なものである。今日の民法・刑法のように広く一般に公開されるものではなく、江戸町・勘定・寺社の三奉行と大阪城代、京都所司代にのみ閲覧が許される機密文書であった。
現代の我々の感覚からすれば、判例などは積極的に公開するのが当たり前であるが、江戸時代を通じて機密であった。これが公開されるようになったのは、明治十年代以降、つまり条約改正が問題となり、我が国でも近代法の整備が急務となった時期である。
現実には機密文書と言いながら、実際の行政・裁判を担当する者にとっては必携の書であった。いつしか世間には写本が出回るようになっていったという。(以上、国立公文書館特別展「江戸時代の罪と罰」より)
さて、本書の本題は明治維新以降の旧幕臣である。著者は、激動にさらされた箱館を取り上げる。幕府が設置した箱館奉行所から新政府の箱館府へと移行したが、榎本武揚が旧幕軍を率いて箱館を占領すると箱館府による統治は中断された。戦後四か月余りで開拓使が設置される。箱館は、激動の幕末・維新期にあって、最も目まぐるしく統治機関が交替した場所であった。
箱館府は大量に箱館奉行の役人を採用した。明治維新当初は、ほぼ幕府時代と変わらない統治が行われており、事務に精通した箱館奉行職員の手腕が不可欠であった。
ところが、明治十年(1877)前後から元・箱館奉行職員の採用が急減し、箱館奉行とは無関係の旧幕臣の採用に中核が移っているのである。
筆者によれば、その原因はいくつか考えられるという。①廃藩置県により、藩という枠組みを越えて政府が人材を登用することが可能になったこと ②黒田清隆の推進した「開拓使十年計画」により冗員の整理が求められることになったこと ③行政における世襲制の廃止など。
明治二十六年(1893)の文官任用令以降、東京帝国大学出身の高等文官試験に合格した、いわゆる学士官僚が主流となるが、それまでの間、薩長土肥といった藩閥と肩を並べる存在として旧幕臣が重用された。
幕府は、幕末(安政・文久)の諸改革により洋学などに秀でた人材を幕臣に登用し、彼らをヨーロッパに留学させ、さらに国内では洋学所や講武所、海軍伝習所などで人材の育成・教育に力を注いだ。徳川幕府が収集・養成した人材が、明治政府でも大いに活用されたのである。
明治政府で活躍した旧幕臣といえば、勝海舟、榎本武揚、大鳥圭介、渋沢栄一、西周、津田真道、加藤弘之、杉浦梅潭(誠)らの名前が挙げられる。一方で世間的には無名の実務官僚が明治政府の実務を支えたことで、政権を維持することができた。「無名の旧幕臣たちもまた維新の功労者」とする筆者の主張は納得感がある。

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半蔵門 Ⅲ

2014年12月22日 | 東京都
(ふくおか会館)
 現在、ふくおか会館のある場所に、幕末の儒学者安井息軒の海嶽楼があった(千代田区麹町1‐12)。


海嶽楼跡

 ふくおか会館の北側の角に近い植え込みの中に千代田区教育委員会が建てた説明板が建てられている。
 安井息軒がこの地に居を構えたのは、慶応元年(1865)のことで、西に富嶽を望み、東に金杉辺りの海が見えることから、海嶽楼と名付けたという。明治元年(1868)二月、類焼して焼失した。

(イギリス大使館)
 イギリス大使館の正門横に、やはり千代田区教育委員会の説明板がある。こちらには「サトウ公使植桜の地」とある(千代田区一番町1)。
 アーネスト・サトウは、明治十六年(1883)まで日本に滞在し、その後シャム駐在総領事代理やウルグアイ駐在領事などを務めた後、明治二十八年(1895)駐日特命全権公使として再び日本に戻った。明治三十一年(18989)、イギリス公使館前の空き地に桜を植え、東京府に寄附した。のちに桜並木となって人々に親しまれたが、戦災により枯死してしまったため、戦後再びこの辺りに桜が植えられた。今や、千鳥ヶ淵公園周辺は、桜の名所としてシーズンには多くの人で賑わっている。


サトウ公使植桜の地

(一番町)


一番町

 地下鉄半蔵門駅の5番出口を地上に出た辺りが一番町である。江戸時代には城の守りを固めるために大番組に属する旗本を住まわせたことから「番町」の地名が生まれた。維新後は政府役人の官舎や華族の屋敷が並び、その中の一角に山縣有朋の屋敷もあった。また、イギリス公使として着任したアーネスト・サトウも長くこの地に居住していた。

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両国 Ⅳ

2014年12月22日 | 東京都
(共立学舎跡)


共立学舎跡

 両国小学校の南側のコイン・パークの傍らに尺振八の共立学舎跡を示す説明板が建てられている(墨田区両国4‐8)。
 尺振八は、天保十年(1839)、下総高岡藩の医師の子に生まれた。万延元年(1860)、二十二歳のとき、ジョン万次郎や英学者西吉十郎から英語を学び、文久元年(1861)から幕府外国方に通弁として務めた。文久三年(18163)の遣欧、慶応三年(1867)の遣米使節団に随行し、西洋文明に接する機会を得た。アメリカでは福沢諭吉、津田仙とともに教育施設を視察し、帰国後、福沢は慶応義塾を、尺は共立学舎を開くことになった。
 尺がこの地に塾を開いたのは明治三年(1870)七年。共立学舎は寄宿制の英語塾であったが、英語にとどまらず和漢の学問も教授したため、開塾後わずか半年で百名を超える生徒が集まった。尺はスペンサーの「教育論」を翻訳し「斯氏教育論」を刊行した。この本は自由民権運動の理論書として多くの人々に愛読された。未完の「明治英和字典」や多くの人材を輩出した実績から“現代英学の祖父”とも称される。明治十九年(1886)、十一月、四十八歳の若さで世を去った。

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町田 Ⅱ

2014年12月22日 | 東京都
(小島資料館)

 ふと気が付けば、今日は第一日曜日、つまり小島資料館の開館日である。ということで、急に思い立って町田市小野路までドライブすることになった。約一時間で到着する。
 入館料は大人六百円。当主小島政孝氏自ら館内を案内いただけるが、ひっきりなしに訪客があるので、休む暇も無さそうである。月に二回の開館といえ、個人で資料館を運営管理するのは大変であろう。
 小島政孝氏によれば、昭和四十年(1965)頃まで幕末当時の母屋が残されていたそうだが、現在は古い建物を改造して住居としている。かつての正面玄関は広い板の間を備えた縁側となっている。旧建物(下図)は大きな屋根を有有していた。この屋根裏では養蚕が行われていたという。小島政孝氏が
「近藤勇がよくこの家に来て、庭で剣術の稽古をしていました」
という語り口には妙なリアリティがあった。


旧小島家の銅版画(明治十八年)

 庭には小島鹿之助と近藤勇の胸像が置かれている。旧玄関前の巨大な石灯籠は、上野戦争後に寛永寺から移設されたものだそうで、上野戦争の弾痕が残る。


小島韶斎(鹿之助)翁


近藤勇先生

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四ツ谷 Ⅵ

2014年12月21日 | 東京都
(新宿歴史博物館)


高須四兄弟の写真

 新宿歴史博物館にて『高須四兄弟の特別展』を開催しているという情報を田中様より頂戴した(新宿区三栄町22)。開催期間は、平成二十六年九月十三日~十一月二十四日である。私が訪れた時、ちょうど学芸員の方によるギャラリートークがあり、三十分ほど展示を案内していただけた。
 どうして新宿で「高須四兄弟」の特別展が開かれたのかというと、津の守坂周辺には、かつて高須松平家の上屋敷があった。高須家は江戸常府が許されていた家で、四兄弟とも荒木町の屋敷内で生まれたという新宿との縁があるのである。父は高須家十代藩主松平義建(よしたつ)。母は兄弟それぞれ別である。二男慶勝は文政七年(1824)生まれ。八男である松平定敬は弘化三年(1846)生まれなので、兄弟といっても二十二歳も離れている。
 四兄弟はそれぞれ数奇な人生を歩んだ。一人ひとりが個性的で、一人だけでも特別展が開けるほどで、四兄弟まとめて一つの展示というのはそもそも無理な企画なのかもしれない。会場では高須藩が所在していた海津市などからも資料が提供されていたが、何よりも見どころは高須藩江戸上屋敷の庭園図や下屋敷角筈邸(魁翆園)で焼かれた御庭焼きであろう。
 当時の高須藩上屋敷は、敷地面積二万坪を越え、大きな池の周りには滝や東屋などが配置され、相当大規模な邸宅であったことがうかがい知れる。石高三万石にしては過分な屋敷であり、高須家の家格の高さを実感することができる。

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牛込柳町 Ⅱ

2014年12月21日 | 東京都
(林氏墓地)

 年に一度だけ公開される林氏墓地であるが、いつも気が付いたらその時期を逃していた。今年は、半年も前から手帳に書き込んで、何があっても逃すまいと決めていた。一週間前になって、タイガースの日本シリーズ進出が決定し、甲子園観戦のお誘いがあった。激しく動揺したが、初志貫徹して林氏墓地を断固優先することにした(結局、タイガースは四連敗して甲子園に戻って来ることはなかった)。
 この日は生憎の雨であったが、予定とおり林氏墓地を訪ねた。当初、林家の墓地は上野忍ヶ岡にあったが、元禄十一年(1698)に牛込に屋敷を賜り、墓地も当地に改葬された。以後の当主はこの墓地に儒葬された。本墓地は時代の経過とともに縮小しており、現在八世述斎から十一世復斎までの四代の墓が儒式の原型をとどめている。普段は壁の穴から覗くしかないが、公開日はボランティアの方が墓地を案内してくれる。


文毅先生林府君之墓(林復斎の墓)

 林復斎は、林家十一代。述斎の六男で名を韑(あきら)といった。林氏の支族を継いでいたが、林壮軒の死後、本家に復し、大学頭を称した。嘉永七年(1854)、ペリー来航時に幕府の全権の一人として交渉に臨み、日米和親条約に調印した。ついで安政四年(1857)にはハリスが米国総領事として来日すると、上府用掛となった。同年十二月、幕府が米国との通商条約を締結すべきことを上奏する使者として上洛した。安政六年(1859)、六十歳で没した。


林復斎墓碑

 復斎の墓から、十世壮軒、九世檉宇(ていう)の墓を挟んで、初代羅山の前に林述斎の墓がある。


快烈先生林府君之墓
(林述斎の墓)


 八世林述斎は、美濃岩村藩主松平乗薀(のりもり)の三男。七世錦峯が二十六歳で急逝したため、幕命により林家を継ぎ、大学頭となった。述斎は林家の私有であった昌平黌一帯を幕府に献上して官学としての設備を増強する一方、学制を改革して振興に努めた。幕府の信任は厚く、家禄は千五百石から三千五百石に加増された。林家の中興と呼ばれた。天保十二年(1841)、七十四歳で没。鳥居耀蔵、林復斎は実子である。

 林氏墓地の入口正面に林鶯渓(おうけい)の墓標がある。書は永井尚志によるもの。鶯渓は、復斎の長男で、第二林氏を継いだ。明治維新後、静岡に移った。明治七年(1874)、一月十日、五十三歳で没。


林鶯渓先生之墓碑


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三島 Ⅲ

2014年12月20日 | 静岡県
(楽寿園)


楽寿園

 この日、楽寿園の中の梅御殿で研修があったので、初めて園内に入ることになった。
 楽寿館は、明治二十三年(1890)、小松宮彰仁親王の別邸として建てられたもの。建築様式は京風の数奇屋造りで、内部には幕末から明治期に活躍した日本画家の競作が一堂に集められている。
 楽寿館の前の小浜池は、富士山の雪解け水が湧き出して作った池である。かつて一年中枯れることはなかったが、昭和三十年(1955)代中頃から、上流地域の地下水汲み上げ量の増加とともに年々地下水位が低下し、今ではほとんど枯渇している。
 研修が開かれた梅御殿も同じく小松宮親王の別邸で、かつて楽寿館とは渡り廊下で繋がっていたそうである。

(三島神社神道墓地)


故神主前矢田部式部伊豆宿禰盛治之墓

 白滝公園の少し北側に三島神社神道墓地がある(三島市一番町3)。周囲は住宅にかこまれており、少しわかりにくい場所にある。
 三島神社神道墓地は、慶応四年(1868)九月、矢田部盛治が新政府に三島神社社家一同の神葬祭変更と檀家寺からの離檀を願い出て、明治元年(1868)、別当寺であった愛染院境内墓地の一部を神葬墓地と定めたものである。埋葬されているのは、明治二年(1869)から明治十八年(1885)の間、神主家、社家、宮司のほか、一般の三島神社氏子崇敬者のうち希望者も含め、三十七柱である。
 入口近くの立派な墓石は、矢田部盛治のもの。矢田部盛治は、遠州掛川藩家老橋爪彌一右衛門の第三子に生まれ、長じて三島神社神主矢田部盛正の嗣子となった。嘉永七年(1854)当地を襲った東海大地震により倒壊した三島神社本殿以下の建物を、十年の歳月と巨費を投じて再建し、官幣大社に列格せしめた。明治維新に際して伊吹隊を編成してその盟主となり、明治天皇東幸を警護して人心安定に努めた。また、三島宿を兵火から救った恩人の一人である。明治政府から幾度も招聘を受けたが、神明奉仕を怠らず、明治四年(1871)、四十八歳で世を去った。

(長圓寺)
 長圓寺には、世古本陣の門が移築されている。墓地には本陣を代々務めた世古家の墓があり、その中に幕末の当主世古六太夫の墓がある。


長圓寺


本行院直道日壽居士
(世古六太夫の墓)

 世古六太夫は、天保九年(1838)、川原ヶ谷村(現・三島市川原ヶ谷)に生まれた。父は栗原嘉右衛門正順。栗原家は甲斐源氏の一族で、甲州山梨郡日川村下栗原に館を持つ城主だったという言い伝えが残り、この旧家で六太夫は少年時代を過ごした。十四歳の時、世古家に入った。世古家は江戸初期より代々三島宿本陣を務める家で、六太夫は本陣主のほかにも三島宿の問屋役などを務めていた。慶応四年(1868)五月、旧幕兵(遊撃隊)約二百余が沼津・霊山寺に陣取った。一方、新政府軍は三島宿明神前に陣をひいた。この時、世古六太夫は矢田部盛治とともに両者の間を調停し、三島宿を戦禍から救った。六太夫は幕府方に通じているとの嫌疑を受け新政府軍に捕えられている。維新後は実業家として三島の通信運輸事業を展開して、この地域における郵便事業の基礎を築いた。また、教育にも力を注ぎ、明治五年(1872)には私立学校開心庠舎を開いた。晩年は沼津牛臥に旅館三島館を建て、各方面の著名人と交遊を深めた。大正四年(1915)七十八歳で死去。

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入間

2014年12月20日 | 埼玉県
(豊岡高校)
 豊岡高校の角に一つの小さな石碑がある。傍らの入間市教育委員会による説明によれば
――― 慶応四年(1868)三月二十九日、彰義隊士十三人が当地扇町屋に軍資金調達に訪れたところ、偽隊士と間違われ、村人に殺害される事件が起こった。本碑は大正十年(1921)に当地を訪れた旧彰義隊頭取(隊長)本多晋が事件を記録して建てたものである。
 碑には「舊臣源助及圓應寺徒弟佛眼入彰義隊以事與同志十一人走來此地遭害時明治元年五月也 里人憫之為建石地蔵於墓上余恐事蹟湮滅以識焉 大正十年十二月 本多晋」と刻まれている。


彰義隊遭難者の碑

 この石碑に地蔵が添えて建てられていたが、道路の拡幅工事のために現在黒須の蓮花院に移されている。


(蓮花院)


蓮花院


彰義隊遭難者の碑付(つけたり)地蔵

 ということで、春日町二丁目の蓮花院を訪ねる。境内は広いが、地蔵は無縁墓を集めた一角に置かれていて、すぐに所在は分かる。

 この地蔵は、扇町屋で起きた彰義隊士殺害事件のあと、村人が隊士たちを供養するために建立したものである。台石には正面に「北 くろすみち」、右側面に「西 町屋道」、左に「東いりま川道 かわこえ道」、裏面には「南 とうきょう道」と刻まれ、当時の道標を兼ねていたことが分かる。

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日暮里 ⅡⅩⅠ

2014年12月14日 | 東京都
(谷中霊園)


冬崖川上先生之墓

川上冬崖は、文政十年(1827)信濃国水内郡福島新田村の生まれ。十八歳のとき養家を脱して上野東叡山に仕えた。四条派の大西椿年に師事して画を学んだ。二十五歳のとき御家人川上家を継ぎ、絵図調査役を命じられ、西洋画の指導と研究に当たった。維新後は兵学校、大学南校、文部省編輯所、陸軍省兵学寮等に出仕して西洋画を教えた。我が国洋画界の先覚となったが、明治十四年(1881)参謀本部の地図紛失事件の責を負って自殺した。年五十五。【甲8号20側】


神田家之墓
(神田孝平の墓)

 神田孝平は、天保元年(1830)美濃国岩手村に生まれた。弘化三年(1846)、京に上り、牧善輔に漢学を学んだ。嘉永二年(1849)、江戸に出て塩谷宏陰、安積艮斎、松崎慊堂ら儒学者の門へ通った。嘉永六年(1853)、ペリー来航を機に蘭学を志し、杉田成卿、伊東玄朴、手塚律蔵らから教えを受けた。のち長崎に遊学。文久二年(1862)幕臣に取り立てられて、蕃書調所の教授方出役にあげられ、同所が開成所と改められると、教授職並、明治元年(1868)には頭取となった。維新後は新政府に仕えて、一等訳官、徴士、議事体裁取調御用掛となり、さらに会計官権判事、公議所副議長、制度取調御用掛、集議員判官などを歴任した。明治三年(1870)六月には地租改正を建言した。明治四年(1871)以降、兵庫県令、元老院議官、文部少輔、憲法取調委員を経て、明治二十三年(1890)貴族院議員に勅選された。明治三十一年(1898)六十九歳で病没。養嗣子で英学者の神田乃武も同墓に合葬されている。【甲12号左1側】


正五位勲四等黒岩直方之墓

黒岩直方は、天保五年(1834)の生まれ。土佐勤皇党に属した。文久三年(1863)八一八政変の際、三条実美らを護衛して長州まで落ちた。その後も土佐と長州間の密使として奔走した。戊辰戦争では奥羽に出征した。明治五年(1872)東京府七等出仕を皮切りに、司法省検事、東京裁判所判事、大審院判事。宮内省七等出仕して宸翰御用掛、主猟官等を歴任した。明治二十二年(1899)山階家令に転じた。明治三十三年(1900)死去。【甲8号14側】


細川家累代墓
(細川潤次郎の墓)

細川潤次郎は、天保五年(1834)土佐藩儒者の家に生まれ、家学を修めた。安政元年(1854)、長崎に留学して、蘭通詞らに蘭学・兵学を学んだ。ついで安政五年(1858)、江戸に出て幕府の海軍操練所に入り、また中浜万次郎に師事して英語を学んだ。文久二年(1862)土佐藩致道館蕃書教授となり、山内容堂の侍読を務めて藩政に参与した。維新後は開成所学校判事に任じられ、新聞紙条例や出版条例の起草にも当たった。明治三年(1870)民部省に務め、翌年工部省に転じて米国に留学した。帰朝後、文部省、左院、正院、元老院などの要職を歴任し、また枢密顧問官、貴族院副議長となる傍ら、女子高等師範校長、学習院長心得なども務めた。西洋印書術の輸入、農事改良法の講究、米国博覧会の賛同など建言・主張多く、我が国の文化事業の興隆に尽力した。大正十二年(1923)、年九十にて没。【乙13号右4側】

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