史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

汐留 Ⅱ

2009年11月30日 | 東京都
(日本テレビ・プラザ)
 汐留の日本テレビ・プラザの前に、仙台藩上屋敷跡を示すプレートが掲げられている。そのすぐ近くに「新橋停車場跡」の説明を発見することができる。この場所は、新橋界隈でも最もおしゃれで往来の激しい場所であり、史跡とは縁遠い場所のようにも思えるが、このような説明が加えられていることは大変喜ばしく私は思うのである。


仙台藩上屋敷跡

 新橋汐留界隈は、現在、企業のオフィスビルが立ち並ぶサラリーマンの街である。この付近は江戸時代、大名家や旗本の屋敷が密集する武家屋敷の町であった。
例えば私が勤務している本社ビルのある新橋五丁目周辺には、テレビドラマで有名な遠山金四郎の屋敷があった。遠山金四郎景元は北町奉行および南町奉行を務めたが、北町奉行は現在の東京駅付近、南町奉行は有楽町付近にあった。電車など無い時代だから当たり前のことながら、職住接近していたわけである。
「遠山の金さん」といえば、桜吹雪の彫り物が連想されるが、あれはテレビドラマ用の作り話。ドラマのような見事な裁きをやってみせたのかどうか、実はそのような記録も残っていない。因みに遠山金四郎の墓は、東京巣鴨の本妙寺にある。墓の前には「名奉行 遠山金四郎景元の墓」とあるが、本当に名奉行だったかどうかも定かではない。確かなことは実在の人物だということだけなのである。
遠山の金さんの屋敷だけではない。本社ビルの西側にある塩釜公園は仙台藩の中屋敷跡の名残であるし、北側には志筑藩本堂家の屋敷があった。その西、日比谷神社の隣には岡山池田藩の屋敷があったと推定されている。この付近で現在マッカーサー通りと呼ばれる道路の工事が進んでいるが、先ごろ志筑藩邸跡に当たる工事現場から食器などが発掘された。この周辺であれば、堀ったらそこここに何かお宝が見つかるのかもしれない。
ここから少し西に歩けば、日比谷通りに浅野匠守終焉之地の石碑が建っている。この辺りは浅野内匠頭が切腹した田村右京大夫(陸奥一ノ関領主)の屋敷があった場所である。ここでは切腹最中という和菓子を売っている。中の餡がはみ出すほど詰まっているのは嬉しいといえば嬉しいが、これが「切腹」だと説明されてしまうと、ちょっとグロテスクにも見える。
毎日、訪れる新橋汐留界隈であるが、江戸時代の地図を片手に歩いてみると、また新たな発見がある。実は奥深い街でもある。

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田原

2009年11月28日 | 愛知県
(田原城趾)


田原城大手門

 豊橋鉄道渥美線に揺られて三十五分ほどで終着の三河田原に到着する。始発である新豊橋駅を出たときには、そこそこ乗客で埋まっていたが、最初の三つ目の駅まででほとんどの客は降りてしまって、そのあとの車内は閑散としていた。三河田原駅で無料レンタサイクルを借りて、市内の史跡散策を開始する。田原は小藩ながら、渡辺崋山という優れた先覚者を生んだ土地である。


二ノ丸櫓

 田原藩の石高は一万二千石。江戸初期は戸田氏、その後、寛文四年(1664)に三宅康勝が移封されると、三宅氏が廃藩置県まで十二代にわたり藩主を務めた。十一代康直は、文政十一年(1828)に藩主の座に就くと、藩政改革に着手した。康直は積極的に人材を登用したが、なかでも渡辺崋山を重用し、財政再建、農政改革、山積する難問の解決に尽くした。康直は嘉永三年(1850)に家督を康保に譲るが、明治二十六年(1893)まで長命している。享年八十三であった。幕末の難局にあたった十ニ代藩主康保は、戊辰戦争勃発時、江戸の藩邸にあって徹底抗戦を主張したが、藩士の説得を受けて官軍に恭順することになった。国許にあって崋山の次男、家老渡辺諧(かのう)が藩論を勤王に統一し、東海道鎮撫総督橋本実簗に帰順を表した。


田原市博物館

 田原城趾には、大手門や二ノ丸櫓などが再建されている。田原市博物館には、渡辺崋山を始めとして、田能村竹田、谷文晁、酒井抱一ら著名な画家の作品が並ぶ。地方の博物館と思えないほど充実している。

(市立田原中部小学校)


市立田原中部小学校

 田原城大手門前にある田原中部小学校は、藩校成章館跡に当たる。成章館が設立されたのは、文化七年(1810)九代藩主三宅康和のときである。

 写真では分かりづらいが、田原中部小学校の校舎の前には、十ニ歳の渡辺崋山をモデルとした「立志像」が置かれている。小学校にある像といえば、薪を背負って本を読む二宮尊徳と相場が決まっているが、さすがに田原では崋山がとってかわっている。渡辺崋山が十ニ歳のとき江戸日本橋にて備前候の行列に触れて、衆人の前で辱めを受けたときの図である。このとき崋山は王侯に屈しない人間になることを心に誓ったという。


藩校 成章館跡

(崋山神社)


崋山神社

 昭和四十一年(1966)に造営された崋山神社は、田原城趾に隣接している。いうまでもなく渡辺崋山を祭神とした神社である。渡辺崋山は寛政五年(1793)江戸の田原藩邸で生まれた。崋山は号で、通称は渡辺登といった。鷹見星皐、佐藤一斎、松崎慊堂といった著名な学者に入門するとともに、金子金陵、谷文晁といった一流の画家のもとで絵を学んだ。天保八年(1837)に描いた「鷹見泉石像」は、崋山のというより、我が国肖像画の頂点をなす作品である。現在、国宝に指定されている。
 崋山が家老になったのは四十歳のときである。崋山は報民倉の設置、藩校成章館の充実、人材の登用など、藩政改革に尽力した。その一方で、高野長英、小関三英ら、時代を代表する蘭学者と交わり、幕府の鎖国政策を批判した。このことが幕府の忌諱に触れ、天保十年(1839)、捕えられて北町奉行の揚屋に投獄された(蛮社の獄)。続いて在所田原における蟄居を命じられた。その二年後、累が藩侯に及ぶことを恐れて、幽居で自ら命を絶った。四十九歳。


渡辺崋山の碑

(報民倉跡)


報民倉跡

 報民倉というのは、領民の飢餓対策に天保六年(1835)に崋山の建言を受けて設けられた穀倉である。田原藩は、直後に大飢饉に襲われたが、報民倉のおかげで一人の餓死者も出さなかったという。

(池ノ原公園)


渡辺崋山像

 池ノ原公園には、渡辺崋山が蟄居を命じられて幽居生活を送った住居が再現されている。崋山は天保九年(1838)「慎機論」を著し、外国船撃ち払いの非を説いた。このことで幕府に在所田原蟄居を命じられた。池ノ原は天保十一年(1840)から翌年十月の自刃まで、崋山が幽居生活を送った地である。崋山は、ここで日々論語、易経を読み、絵を描き畑を耕す毎日を送った。
 画弟子福田半香らは、崋山の絵を売って恩師の生計を救おうとしたが、このことで藩内外の批判が高まった。藩主にまで災いの及ぶことを恐れた崋山は、この屋敷で自刃した。


渡辺崋山池ノ原幽居跡


崋山先生玉碎之趾

 池ノ原公園には東郷平八郎の書で、「崋山先生玉碎之趾」碑が建てられている。

(霊巌寺)


霊巌寺

 霊巌寺は、田原藩主三宅氏の菩提寺である。墓地奥にある三宅家の墓所には、徳川家康に仕え三河挙母城主となった初代三宅康貞のほか、田原藩主に移封された康勝(四代)、渡辺崋山を登用して藩政改革に取り組んだ十四代康直、最後の田原藩主となった十五代康保らの墓がある。


田原藩主三宅家墓所


十四代康直(左)
十五代康保(右)の墓

 三宅家墓所の入口付近に小さな二体の地蔵が置かれている。十三代藩主三宅康明の弟三宅友信の三男、貞三郎は藩士の娘於阿佐と深い仲となり、このことが藩主の怒りを買って切腹を命じられたという。於阿佐も自害を迫られた。せめて子供を産ませて欲しいと嘆願したが、容れられず首を刎ねられた。二人を哀れと思った人が、墓のそばに一対の地蔵を建てたが、不思議なことにこの地蔵の首は何度付け替えても落ちてしまうため、いつしか人々は首なし地蔵と呼ぶようになったという。と、解説されていたが、私が確認した限りしっかり首は繋がっているように見えた。


首なし地蔵


忠臣真木定前墓

 真木重郎兵衛定前(さだちか)は、藩の用人として、天保の飢饉では必死の働きをもって餓死者、流亡者を一人も出さずに切り抜けた。
 十四代藩主康直は、姫路藩から迎え入れられた。三宅家の血統が絶えることを懸念した家老渡辺崋山は先代藩主の弟友信を推したが、財政難に苦しむ田原藩では持参金目当てに養子を迎えることに決した。このとき友信の長男(のちの康保)を次代藩主にすることが誓約されたが、崋山亡きあと、康直はこの約束を反故にして実子に家督を継がせようとした。これに対して真木定前は敢然と諫言したため、次第に君前から遠ざけられるようになった。弘化元年(1844)、参勤交替の途中、金谷宿にて諌死した。四十八歳。この報を受け取った康直は、自らの不明から忠臣を失ったことを深く悔い、康保を後継とすることを決し、自ら「忠臣真木定前墓」の碑銘を書いて三宅家菩提寺である霊巌寺に墓を建てたという。

(城宝寺)


城宝寺


崋山先生渡辺君之墓

 三河田原駅のすぐそばにある城宝寺には、渡辺崋山の墓がある。中央が崋山の墓、向かって左が夫人たか、右は母おゑいの墓である。
さらに左手には崋山の次男、小華の墓がある。小華は、諱は諧(かのう)。父崋山が自刃したとき、わずかに七歳であった。十三歳のとき、崋山門下の椿椿山のもとで絵画を学んだ。元治元年(1864)に田原藩家老に任じられ、戊辰戦争にあたっては藩論を勤王に統一した。


小華渡辺先生之墓


渡辺崋山句碑
見よや春大地も亨す地虫さへ

 レンタサイクルを駅に返却したのは、ちょうど借りてから一時間後であった。慌ただしかったが、充実した一時間であった。

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岡崎 Ⅱ

2009年11月27日 | 愛知県
(岡崎城)
 天文十一年(1542)、徳川家康は岡崎城内で誕生した。桶狭間の合戦で今川義元が戦死すると、これを契機に岡崎城を拠点として地歩を固めた。本拠地を浜松に移したあとも、嫡男信康を岡崎城主とし、その後も重臣の石川数正、本多重次を城代に置いた。江戸幕府を開いた後は、石高こそ五万石前後であったが、家格の高い譜代大名が歴代岡崎城主となった。岡崎城が「神君出生の城」として神聖視されており、大名は岡崎藩主に任じられることを名誉にしていたと伝えられる。


岡崎城
写真右手前の亀型の台座は東照公遺訓碑
有名な「人の一生は重き荷物を負いて遠き道をゆくがごとし」が刻まれている

 開幕直後は本多氏(康重系統)、継いで水野氏、松井氏、本多氏(忠勝系統)と引き継がれた。幕末の岡崎藩主は、本多忠民(ただもと)。讃岐高松藩から養子に入った人であるが、天保七年(1836)、三河加茂で発生した百姓一揆の鎮定に功があり、以来、寺社奉行や京都所司代などの要職を歴任した。桜田門外の変から坂下門外の変の間、老中を務め、一旦、離職したが元治元年(1864)再度老中に任じられた。譜代中の譜代である岡崎藩の藩論の基本は佐幕ではあったが、重臣たちの多くは日和見であった。鳥羽伏見で幕軍が敗れると、忠民は朝廷につくことを決めた。このとき小柳津要人(のちの丸善社長)ら、一部の不満分子は脱藩して遊撃隊や榎本艦隊に合流したという。明治二年(1869)には版籍奉還を願い出て、家督を忠直に譲って隠居した。


徳川家康銅像


本多平八郎忠勝銅像


岡崎城 堀と神橋

(藩校允文館跡)


岡崎藩校允文・允武館跡

 藩校允文館・允武館趾の場所を知りたいと思い、岡崎公園内の観光ガイド案内所を訪ねた。観光ガイドの方々は忙しそうであったが、わざわざ現地まで連れて行ってくださった。年配の観光ガイドの方の説明によると、以前この場所には学校があったらしいが、今はショッピング・センターが建てられており、かつて藩校があったことを知るよすがとしては、石碑があるだけである。
 岡崎藩校允文館と武芸を教える允武館は、時の藩主本多忠直が明治二年(1869)この地に江戸の藩校を移して開設したものである。允文館、允武館が存続したのは、廃藩置県までの数年間であったが、県立額田郡小学校に発展し、岡崎における最初の学校となった。

(大樹寺)
 新幹線を三河安城で下車して、東海道線で岡崎に出る。そこから愛知環状鉄道に乗り換えて十分ほどで大門駅に至る。大門駅から十五分ほど歩くと大樹寺の巨大な山門が見えてくる。


大樹寺 山門

 大樹寺は、松平家、徳川家の菩提寺として隆盛を極めた。この巨大な山門からは、かつて境内の一部であった小学校にある総門を通じて、遥かに岡崎城が望まれるように建てられている。「大樹」とは、唐名で将軍を意味する。松平氏の発展とともに寺運は栄え、松平清康が三河統一を成し遂げた頃、伽藍や多宝塔が建立されている。桶狭間の戦いで今川義元が戦死した際、今川方についていた家康がこの寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとしたが、住職から「厭離穢土 欣求浄土」と諭され、再起したという。
 「位牌は三河大樹寺に祀るべし」という家康の遺命により、以後歴代将軍の等身大の位牌が安置されることになった。ただし、十五代将軍慶喜は神式で葬られており、法名を持っていない。つまり位牌が存在していない。


位牌堂

 本堂内で拝観料を支払うと、位牌堂や文化財収蔵庫を見ることができる。歴代将軍の背の丈の位牌が並ぶ様子は壮観というほかはない。大樹寺の歴代将軍の位牌のことは「徳川将軍家 十五代のカルテ」(篠田達明 新潮新書)で知った。この本を一読して大樹寺を訪問されることをお勧めしたい。

 収蔵庫には奇跡的に火災による焼失を逃れた絵師冷泉為恭の襖絵が展示されている。これも一見の価値がある。


岡田為恭の位牌

 本堂に冷泉為恭(ためちか)の位牌が置かれている。冷泉為恭は別名を岡田為恭ともいい、大和絵を得意とした絵師である。
 絵師として京都で活躍していたが、文久二年(1862)頃、所司代酒井若狭守に近づいたことから、尊攘浪士に狙われるところとなった。為恭は紀州粉河寺に逃れ、さらに堺の商家や大和丹波市の永久寺などに身を隠した。しかし、元治元年(1864)五月、長州の浪士大楽源太郎らに斬殺された。司馬遼太郎先生の短編小説「冷泉斬り」(文春文庫「幕末」所収)に詳しく描かれているが、ほとんど無抵抗のターゲットを執拗に追い、命を奪おうという刺客の精神状態は狂気というほかはない。

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松山 Ⅲ

2009年11月23日 | 愛媛県

松山駅前 子規の句碑
春や昔 十五万石の城下かな

(坂の上の雲ミュージアム)


坂の上の雲ミュージアム

 平成十九年(2007)四月、坂の上の雲ミュージアムがオープンした。作家の博物館は全国に多々あるが、一つの作品をテーマにしたものはあまり聞かない。小説「坂の上の雲」の人気の高さがうかがい知れる。ミュージアムの建物は司馬遼太郎記念館の設計も手がけた安藤忠雄氏。重量感のある立派な施設である。
 小説「坂の上の雲」の愛読者には、時間が経つのも忘れる空間であろう。松山という土地柄しかたないかもしれないが、展示が松山出身の秋山兄弟と正岡子規に偏っているのは少々残念である。「坂の上の雲」には、実に多彩な人物が登場している。この人間群が小説の魅力であると私は思う。明治日本がロシアを破ったのは、言うまでも無く秋山兄弟の力だけではない。明治日本の総力を挙げて勝利をもぎ取ったのである。「坂の上の雲」ミュージアムと称するのであれば、もっと小説の登場人物を幅広く取り上げて欲しかったというのが率直な感想である。


萬翠荘

 坂の上の雲ミュージアムからさらに道を登ると、ネオルネッサンス様式の洋風の建物に出会う。松山藩十五代藩主久松定謨(さだこと)の別邸萬翠荘である。久松定謨は、明治五年(1872)に家督を継ぎ、明治二十年(1888)には旧松山藩士の子である秋山好古らを伴ってフランス・サンシール陸軍士官学校に留学した。帰国後は軍人として経歴を積んだ。


萬翠荘踊り場のステンドグラス

 ハワイから取り寄せたという大きなステンドグラスは、今でも美しさを失っていない。


愚陀佛庵

 萬翠荘の裏の石段を登ると、正岡子規と夏目漱石が同居し、ときに句会を開いたという愚陀佛庵が再現されている。愚陀佛というのは漱石の俳号である。

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「本当は偉くない?歴史人物 日本を動かした70人の通信簿」 八幡和郎著 ソフトバンク新書

2009年11月15日 | 書評
著者には「江戸三〇〇藩 最後の藩主」(光文社新書)という、幕末において全国の藩がどう行動したか詳細に解説した著作がある。本書では幕末にとどまらず古代から現代に及ぶ長い範囲にわたって歴史上の人物七十人を取り上げている。著者の博覧強記には感心するほかない。いったいどういう経歴の方かというと、もとは国土省、通産省の官僚だった人である。歴史を専門に学んだ人ではないが、“歴史大好き少年”だったらしい。
本書では卑弥呼から小泉純一郎まで、歴史に登場する七十人について、著者独自の観点で通信簿をつけている。豊臣秀吉、上杉鷹山、岩倉具視、明治天皇には十点という高い評価を与えている。一方で、河井継之助には二点という大変厳しい評価を下している。概ね著者の評価要素は、政治的、経済的、外交的対策がその時代に有効、有益だったのかというモノサシがメインで、その点はいかにも元官僚らしい見方である。その観点でいえば、近藤勇や河井継之助の評価が低くなるのも当然といえるだろう。ただし、世の中の人気というのは、政策だけで決まるものではなく、その人の生きざま、死にざまに大きく左右される。読者としては、その辺りを加味して通信簿を補正しながら読む必要があるだろう。

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「徳川慶喜と幕臣たち」 田村貞雄編 静岡新聞社

2009年11月11日 | 書評
本書は、編者田村貞雄氏(静岡大学情報学部教授)以下、七名の静岡在住の作家、郷土史研究家らが執筆している。「沼津兵学校のあとさき」を書いた樋口雄彦氏は「旧幕臣の明治維新」などの著書があることで知られている。
それぞれ興味深い内容であるが、個人的に面白かったのは、前田匡一郎氏の「旧幕臣の墓所を訪ねて」である。静岡県下に存在している、無名の幕臣の墓を丹念に探訪してきた著者が、その成果の一端を披露する。朽ちた墓の裏にあるそれぞれの幕臣の歩んだ人生。ほとんど知られることなく埋もれていった彼らの生き様が心を打つ。
松浦元治氏の「元町奉行 鳥居耀蔵の清水日記」も一読を勧めたい。鳥居耀蔵が老中水野忠邦のもとで陰湿な権力を振るったのは、天保九年(1838)から弘化元年(1844)までの六年であった。この間、蛮社の獄では多くの著名な蘭学者を死に追いやり、名奉行といわれた矢部定謙を憤死させた。鳥居耀蔵は二十四年間におよぶ幽囚の末、明治元年(1868)に正式に釈放された。一時東京に住んだが、明治三年(1870)清水に移住している。鳥居耀蔵の日記は、死の直前の明治六年(1873)まで続くが、天保年間に「妖怪」と恐れられた当時の自己顕示欲、権力志向も涸れ果て、政論・主張の片言も無い。丸亀における二十四年間の幽閉の反動か、気ままに知人を訪ね、ときに外泊している。日記には何の感慨も記されていないが、きっと町奉行として権力を振るっていた時代よりも幸せな日々を過ごしていたのではないだろうか。
この本の末尾、135ページから178ページにかけて、静岡藩に移住した旧幕臣の名簿となっている。ここには各役職の頭・頭並以上の者を中心に八百名以上が網羅されている。氏名のほか、幼名、通称、字、号、生没年、幕府時代の役職、戊辰戦争との関わり、静岡藩時代の役割等を掲載したデータベースとなっている。まだ完成途上らしいが、執念の結晶というべきである。

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「黒船」 吉村昭著 中公文庫

2009年11月07日 | 書評
この長編の主人公は堀達之助という名も無き通詞である。小説の主人公といえば、スター性を持っているものと相場は決まっているが、堀達之助は、ペリー来航時に通訳の任にあったことと、我が国初の英和辞典「英和対訳袖珍辞書」を著したことにより歴史に名前を刻んだが、彼の人生は失敗と挫折の連続であった。
小説は、浦賀沖に黒船が出現することから幕を開ける。中島三郎助や森山栄之助(多吉郎)といった著名な人物が活躍するが、肝心の達之助は際立った活躍をするわけではない。中島三郎助を艦に上げてもらうために、咄嗟に身分を偽り、そのことを幕府から咎められるのではないかとびくびくする小役人である。この先この物語はどう展開するのだろうかと要らぬお節介ながら心配になってしまう。
物語は、達之助が下田に転勤してから意外な展開をみせる。ドイツ商人リュドルフと親しくなった達之助は、彼から幕府に通商を求める願書を手渡される。国主からの信任状もない、正式な国書の体を成さない文書である。達之助は、リュドルフの名誉のためにもこの文書を取り継がない方が良いと判断した。ところが、通詞の一存で願書を握りつぶしたことが問題となり、達之助は投獄される。
達之助は牢名主になるが、このことは決して成功物語というわけではない。達之助は、火事によって切り放しがあっても、決められた期日に戻ってくる模範的な囚人であった。牢の外では安政の大獄や桜田門外の事変など、さまざまな事件が立て続けに起きる。小伝馬の牢でも、吉田松陰らが処刑されるが、達之助は極力政治と関わろうとしない。
獄中にあること四年。古賀謹一郎(茶渓)の骨折りにより、達之助はようやく娑婆に出る。蕃書調所(のちに洋書調所)で、達之助は「英和対訳袖珍辞書」を完成させる。これが彼の人生のピークだったのかもしれない。その後、乞われて箱館に転勤するが、ここでも屈辱を味わうことになる。
イギリス人によるアイヌ人盗骨事件や小出(大和守秀実)奉行の活躍については、この小説で初めて知った。幕吏というと、外国人公使の恫喝にいつも萎縮しているイメージが強いが、小出奉行は、逆に領事を鋭い舌鋒で攻め立てる。小出奉行の活躍は痛快であるが、その影にあって英語が理解できずオタオタする堀達之助は惨めである。役に立たないという烙印を押された達之助は、その後、一切通訳に立つことがなかった。
次男孝之は、薩摩藩の五代友厚の知遇を得て、ロンドンに留学している。ロンドン大学の日本語で記された石碑に刻まれた「堀孝之」の名前と本書の主人公堀達之助がここで結びつく。しかし、このことは晩年の堀達之助には何ら関係のないことであった。
達之助は、美也という美しい女性と出会い、再婚を果たす。束の間幸福を味わうがそれも長くは続かなかった。美也を失った達之助は急速に老いを迎える。吉村昭は達之助の人生に「なにか物悲しい気配」を感じたという。黒船の出現により針路が狂わされた彼の人生は、実は大多数の人間が歩む失敗と挫折の連続の人生である。ありふれた人生が静かな共感を生むが、同時にずしりと重い読後感のある小説である。

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シンガポール

2009年11月05日 | 海外
(マーライオン公園)


マーライオン
写真右手がフラトン・ホテルである

シンガポールは平成元年(1989)から平成六年(1995)まで五年半に渡って駐在した、私にとって想い出深い土地である。
この国がシンガポール共和国として、マレーシア連邦から分離独立したのは昭和四十年(1965)のことで、まだ誕生して五十年に満たない若い国である。マレー半島の先端という地理的条件から、いにしえより要衝として知られた存在であった。十九世紀にはイギリスが植民地化を進めた。
文久二年(1862)一月十九日、我が国初の遣欧使節団は、ヨーロッパに向かう途中、当時英領だったシンガポールに寄港し、三使節(正使 竹内保徳、副使 松平康直、目付 京極高朗)とその随員は上陸してホテルに宿泊している。
記録によると、彼らが上陸したのはコーリア・キーで、現在もシンガポール河口付近にその地名が残されている。恐らく使節一行は現在のマーライオン公園辺りから上陸したのであろう。
このときフラトン砦から祝砲十五発が放たれた。現在砦は跡かたもないが、マーライオン公園の道を挟んで北側に、平成十三年(2001)にフラトン・ホテルが開業している。この場所がフラトン砦の跡地と推定される。砦は明治六年(1873)に取り壊され、その後は商品取引所などが建設されていたという。
一行はシンガポールで珍客の訪問を受けている。音吉という日本人である。音吉は尾張知多郡小野村出身の舟子(かこ)で、天保三年(1832)難破して太平洋を漂流し、カリフォルニアに漂着し、その後イギリスに渡り、さらに上海を経てシンガポールに移り住んでいた。妻帯しておりマレー人妻との間に三人の子供がいた。
安政元年(1854)にはイギリス軍艦の通詞として長崎に来たことがあり、そのとき長崎に遊学中の福沢諭吉と知りあった。通詞として使節団に加わっていた福沢とここで再会している。海外渡航は国禁だったこの時代、音吉は帰りたくても日本に足を踏み入れることはできなかった。音吉が日本を離れて三十年の苦労と望郷の想いを聞いて、使節一行は涙したという。(参考「幕末遣欧使節団」宮永孝著 講談社学術文庫)

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「坂本龍馬一〇一の謎」 菊池明・伊東成郎・山村竜也著 新人物文庫

2009年11月01日 | 書評
来年の大河ドラマは坂本龍馬が主役である。さっそく本屋の店頭には龍馬本が並べられている。まさに玉石混交といった状態で、中にはブームに便乗した粗悪な本も見かけるが、本書は菊池明、伊東成郎、山村竜也という、当代きっての龍馬・新選組研究家が共著したマニアックな書物である。
タイトルとおり101の謎が並ぶが、いずれも龍馬ファンでなければ、謎というより疑問にも思わないような問題について、一つ一つ緻密な解説を加えていて、ひたすら感心するばかりである。こうした地道な研究の積み重ねによって歴史の真実が見えてくるのだと思う。一方で、龍馬を偉大だと信ずる人たちは、さらに龍馬の存在を大きくしようという方向になってしまい勝ちである。美化された龍馬の虚像が歩きだしてしまうのではないかと危惧する。
たとえば63番目の謎「八万三千五百両 ――― 賠償金の行方は?」では、いろは丸を沈められた龍馬と紀州藩との賠償金交渉の経緯について説明している。薩摩藩の五代友厚の仲裁により、およそ八万三千五百両という裁定が下ったが、大洲藩に支払う船体代を除くとそのうち四万八千両が積荷の賠償金となるはずであった。最終的には、海援隊には約一万五千両が支払われることになった。当初の四万八千両から比べると随分と目減りしたが、積荷である銃器が記録のとおり四百挺とすればその損害は約五千両にしかならず、「龍馬は実損の倍額を要求していた」という。龍馬は賠償金が目減りすることを想定して、最初からかなりふっかけていた。その結果、予想とおり目減りしたが、それでも補償金としては十分なものを手に入れた。本書では龍馬の交渉上手を賞賛するような解説である。
実はいろは丸の引き上げ調査によると、積荷の銃器は発見されていない。米や砂糖といった積荷は海の藻屑と消えたのだろうが、銃器四百挺が溶けてなくなるわけがない。最初から積んでいなかったと考えたほうが自然であろう。つまり龍馬は「ふっかけた」のではなく「あざむいた」のである。これは交渉上手の域を出て、詐欺だというと言い過ぎだろうか。
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「龍馬と新選組」 菅宗次著 講談社選書メチエ

2009年11月01日 | 書評
今や龍馬と新選組は研究し尽くされている感がある。それでもまだこんな切り口が残っていたのか、と思い知らされる一冊である。筆者は、武庫川女子大(因みに、地元ではムコジョと呼ばれている)で国文学を教える先生である。本書では龍馬と伊東甲子太郎が残した文書、具体的には和歌や書簡、日記、建白書などを解析することから始まるが、本来難解な内容を、軽妙洒脱な語り口で解説してくれる。きっと菅先生は武庫川女子大でも人気の高い先生なのだろうと想像する。
前段は坂本龍馬が題材である。我々は、龍馬は無学で教養がないが故に自由な発想と奔放な行動力で時代の扉を開いたと刷り込まれているが、筆者は龍馬の残した和歌を証左に、彼は決して無学で教養がない人間ではなかったと断言する。確かに漢学の教養はなかったかもしれないが、国学に関する素養は高いものが備わっていた。龍馬の残した和歌、そして坂本家の人々(父である八平や姉乙女ら)の教養レベルから推しても、高い教養を有していたはずだというのである。龍馬が嬉々として歌会に出席していたこと、そしてあるときは歌会で二等をとったエピソード、或いは和歌にしても伝統を踏まえたテクニックを習得していたことなど、興味深い指摘ばかりである。
筆者はインテリがお好みのようで、本書後段では新選組随一の教養人である伊東甲子太郎を取り上げている。新選組といえば近藤勇と土方歳三である。近藤勇の教養水準は、懸命な努力の末やっとのことで漢詩を作れるようになった程度。土方に至ってはチマチマと発句を帳面に書き記していた程度で、教養と呼べるような代物は持ち合わせていなかった。彼らに比べれば、伊東甲子太郎はまず家柄が違う。筆者によれば教養は一人一世代で成るものではなく、代々積み重ねられて醸成されるものという。伊東の実家は、れっきとした武家であり、付け刃で身に付けた近藤らの教養とはわけが違う。新選組にあって頭抜けた教養人であった。
司馬遼太郎は「燃えよ剣」の中で、伊東甲子太郎の歌について以下のとおり評している。
――― 伊東甲子太郎は、歌才があった。歌におもしろ味はないが、古今、新古今以来の歌道の伝統を律儀に踏まえた、教科書的な短歌である。
菅先生はこれに対して躍起になって反論している。伊東が長歌を残していたことから、古今調というより万葉調であるという指摘は、さすが専門家というべきである。ほかにも「燃えよ剣」の誤りを指摘することを通じて、伊東甲子太郎の名誉回復に尽力している。この結果、伊東甲子太郎の復権が成ったかどうかは読者の受け止め方次第であろう。
筆者は、伊東甲子太郎の容姿、人格、識見、言葉を尽くして絶賛するが、果たしてそこまで完璧な人物だったのだろうか。私は決して新選組の信奉者ではないが、それでも伊東甲子太郎が、思想信条が明らかに異なる組織に身を投じたのは大いに疑問である。新選組を踏み台にしたと批判を浴びても言い訳の余地がないだろう。人間として最低限の誠実さに欠けていたように思えてならない。伊東は油小路で殺害されたが、これには当人にも原因の一端があるのではないか。
なお蛇足ながら、筆者が「あんなの短歌じゃない」と批判する俵万智さんは、私の高校の演劇部「劇団アポロ」の後輩である(その縁でうちには「サラダ記念日」の著者サイン入り初版本がある)。同じ演劇部の出身でありながが、私は短歌とは全く無縁である。菅先生によると、人間は韻文型と散文形に分類されるらしいが、それに従えば私は完全に散文型である。
私は短歌というものを十分理解しているとはいえないが、短歌という伝統文学を庶民にも卑近な存在に転換した彼女の実績は、千年を越える短歌の歴史において大きな革命であることは間違いない。このことはきっと後世からも大きく評価されるに違いない、と思う。

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