史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「白い航跡」 吉村昭 講談社文庫

2009年03月28日 | 書評
 我が国最初の医学博士、慈恵医科大学の前身成医会講習所の創設者であり、海軍軍医総監として海軍の医務、衛生の改善に尽力した高木兼寛の生涯を描いた長編小説である。
 吉村氏が小説に取り上げるのは、尋常ならざる生への執着を見せる高野長英や関鉄之助であったり、ジョセフ・ヒコら漂流民であったり、或いは強固な意思で信念を貫き通した児島惟謙や小村寿太郎ら、いずれも超人的な執念を持った人たちである。「白い航跡」で取り上げられた高木兼寛も、ドイツ医学を支持する陸軍軍医部、東京大学医学部からの反発に怯むことなく、脚気の原因は食物にあると主張し続けた。大臣や天皇に直訴することは、まさに「命懸け」の行為であった。その結果、兼寛の主張がとおり、軍艦「筑波」は前年多数の脚気患者を出した「龍驤」と全く同じ航路を採用する。「筑波」から
「ビョウシャ 一ニンモナシ アンシンアレ」
との電文を受け取る場面は、感動的である。
 現代日本では、脚気などという病気はほとんど耳にしなくなった。わずか百年前の日本で脚気が国民病といわれるほどの存在だったというのは衝撃的であった。脚気が世の中から駆逐されるとともに、高木兼寛の功績も忘れられようとしている。高木の功績を刻んだこの小説は、非常に価値ある一冊となった。


報國院殿慈心行照大居士
慈明院殿温室全貞大姉

 高木兼寛は青山霊園に眠る。夫人は、手塚律蔵(瀬脇寿人)の娘である。


東京病院発祥の地
(新橋 東京慈恵医大病院前)

 新橋の慈恵医大病院の前に、東京病院発祥の地を記念する碑が建てられている。明治二十四年(1891)、高木兼寛がこの地に東京病院を設立した。のちに東京病院は慈恵医科大学付属病院となり、昭和三十七年(1962)に慈恵医大病院と改称された。


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「島津久光=幕末政治の焦点」 町田明広 講談社選書メチエ

2009年03月19日 | 書評
 ともすれば、西郷隆盛や大久保利通の引き立て役に回ることが多い島津久光であるが、幕末史を虚心に眺めれば、その果たした役割は西郷、大久保を遥かに凌いでいる。本作は久光の存在に改めて光を当てた好著である。
 筆者は、同時に久光の側近である小松帯刀、堀次郎(伊地知貞馨)、中山中佐衛門、大久保一蔵(利通)を“久光四天王”と称して、注目する。中でも小松帯刀については「幕末期を通じて大久保、西郷以上の存在であり、彼の存在なくして薩摩藩の活躍はあり得なかった。このような実績にかかわらず、小松は不当に評価が低く、久光同様、その功績を改めて可視化する必要があろう」と最大級の賛辞を送っている。
 私が“久光四天王”の中で個人的に興味を持っているのは、堀次郎という人物である。久光を一躍幕末史の表舞台に登場させた文久二年(1862)の卒兵上京には、事前の朝廷工作に八面六臂の活躍を見せた。この時点の存在感は間違いなく大久保を凌いでいた。
 堀次郎は、藩邸放火という大胆な策略が露見して一時鹿児島に送還された。慶応二年(1866)に上京して中央政局に復帰したが、その後はさしたる経歴を残せなかった。
 彼は、維新後伊地知貞馨と称して明治二十年(1887)まで生きた。堀次郎のほか、堀小太郎、堀仲左衛門などと頻繁に名前を変えた。これも彼の知名度が高くない理由かもしれない。
 一般には堀次郎は、藩論が討幕に転換したのちも公武合体に固執したため、その後目立った活躍ができなかったと言われる。筆者は、「西郷との確執が影響したもの」と推察している(因みに、伊地知貞馨こと、堀次郎の墓は、青山霊園にあるらしいが、未だ発見できない)。
 さて、この本では従来あまり着目されてこなかった朔平門外の変(猿が辻の変)の政治的意味合いを説いている。姉小路公知暗殺の黒幕を滋野井公寿と西四辻公業という二人の公卿と推定する下りは、まるで歴史ミステリーのようである。
 また佐々木克氏が「大久保利通と明治維新」(吉川弘文館)において、八一八の政変は大久保の指示によるものという見解を提示しているが、これを真っ向から否定している。本著では、当時の書簡を基に、高崎正風を首謀者とした在京藩士による実行だと断定している。私としては町田氏の見解に軍配を挙げたい。
 随所に目を開かれる一冊である。幕末維新の歴史を勉強する人には、必読の一冊といえよう。

コメント (6)
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小山

2009年03月18日 | 栃木県
(大橋訥庵旧居跡)


大橋訥庵旧居跡

 JR間々田駅を出て、国道4号線をひたすら小山方面に歩く。約1時間で粟宮(南)交差点に行き着く。左手に見える蔵のある屋敷が大橋訥庵の旧居跡かと勘違いしてしまったが、こちらは「若盛」という日本酒の蔵元である。その隣の「大橋」という看板がある空き地が、大橋訥庵の旧居跡である。建物の類は一切残っていない。

 大橋訥庵は、文化十三年(1816)、兵学者清水赤城の四男として上野国高崎に生まれた。江戸に出て佐藤一斎の門下で儒学を学び、江戸日本橋の太物商大橋淡雅の娘巻子と結婚して婿養子となった。訥庵は、日本橋で思誠塾を開き、文武一致を説き、忠孝の大義を鼓吹した。安政の大獄で刑死した頼三樹三郎の屍体が晒されているのを悼み、密かに塾生を連れて小塚原回向院に葬った。文久年間に起こった和宮降嫁に反発して、老中安藤信正襲撃を画策した。しかし、事件の数日前に計画が露見し、捕えられて投獄された。獄中で病を得て、獄を出て宇都宮藩に預けられたが、間もなく病死した。顔色が青黒く変色していたことから、毒殺されたとも言われる。


大橋家の墓と大橋淡雅頌徳碑

 大橋訥庵旧居跡から国道4号線を挟んだ向かい側、粟宮公民館の横の墓地に、大橋淡雅の頌徳碑(東海院淡雅温郷居士頌徳碑)がある。
 大橋淡雅は、寛政元年(1789)の生まれ。初め医者を志したが、十五歳のときに宇都宮の豪商菊池家の養子となり、商才を発揮して一代にして巨富を築いた。商売の傍ら、渡辺崋山ら当代一流の文人墨客と交流した。嘉永六年(1853)六十六歳にて病没した。その死を悼み、会葬者は六千人を数えたという。

 粟宮から小山市街まで更に徒歩で1時間。路線バスもほとんど走っておらず、歩くしか術はない。幸いにして天気に恵まれ、ほど良いハイキングとなった。

(小山宿脇本陣)
 小山は、鎌倉から戦国期まで小山城(別名祇園城)の城下町として栄えたが、徳川家が江戸幕府を開くと、家康の寵臣本多正純が小山城に入った。ほどなく正純が宇都宮に移封されると小山城は廃城となった。江戸期の小山は、日光街道の宿場町として引き続き殷賑を続けた。
 間々田方面から歩いて小山市街に入ってくると、最初に出会うのが小山宿脇本陣跡である。


明治天皇小山行在所
明治天皇御駐輦之碑

 脇本陣跡には、明治天皇が奥州巡幸の際にここに立ち寄ったことを記念した石碑が建てられている。戊辰戦争では、ここに旧幕軍が本陣を置いた。

(常光寺)


常光寺

 小山宿脇本陣からすぐの場所に常光寺がある。本堂の向かいにある青銅製の阿弥陀如来座像は、戊辰戦争当時、幕府軍の流れ弾によって台座後部に当たった傷痕を留めている。明治元年(1868)四月十六日から十七日に大鳥圭介率いる旧幕軍は、小山周辺で東山道軍総督府大軍監香川敬三の率いる新政府軍と戦火を交わし撃退した。


阿弥陀如来座像

(光照寺)


光照寺

 JR小山駅のすぐ近くにある光照寺の本堂向かいに、舊笠間藩士海老原清右衛門徳教之墓がある。笠間藩は、代々寺社奉行や大阪城代、京都所司代、老中などの要職を務める譜代の名門であった。従って佐幕色の強い藩であったが、宇都宮攻略に向けて新政府軍が結城に入城するに至り恭順に決した。笠間藩では新政府軍に藩兵五百を送った。旧式の軍備だった笠間藩は、火力に勝る旧幕軍に圧倒された。海老原清右衛門はこのときの戦闘の犠牲者である。


舊笠間藩士海老原清右衛門徳教之墓

(興法寺)


興法寺

 興法寺には、戊辰戦争の際、被弾したお地蔵さんが残っている。お地蔵さんの左半身には銃痕と思われる凹みが数か所確認できる。


被弾の残る地蔵

(天翁院)


天翁院

 天翁院は、平安末期の創建と言われる名刹である。小山氏歴代の墓がある。小山氏は平安時代から続く名族で、南北朝時代に小山城を居城として勢力を張った。天翁院の境内参道沿いに、戊辰戦争で戦死した彦根藩士青木貞兵衛の墓を発見した。青木は一隊を率いて新政府軍に加わり、旧幕府軍大鳥隊と激突したが、包囲されて壊滅した。


彦根藩新組頭青木貞兵衛戦死之碑

 この日は、間々田駅から小山市街地まで約3時間、歩き通しであった。効率的にこの付近の史跡を回るには、小山駅近くにレンタサイクルを貸し出してくれる店があるので、自転車を使うことをお勧めする。

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「山県有朋 愚直な権力者の生涯」 伊藤之雄著 文春新書

2009年03月14日 | 書評
 筆者は「明治維新から現代までの政治家の伝記を執筆するのをライフワーク」としており、ほかにも西園寺公望や伊藤博文を取り上げた著作がある。四百七十頁を超えるこの本は新書としては異例のボリュームで、山県有朋の八十三年に及ぶ、起伏に富んだ人生を真正面から描いている。
 山県有朋というと、「陸軍と官僚を支配下において山県閥をつくり、デモクラシーに反対し、みんなに憎まれて世を去った」というイメージが定着している。山県は、元藩士としては伊藤博文、大山巌に継いで三人目となる国葬で送られた。国葬の当日は雨であった。参列者は千人にも満たず、国葬というにはあまりにも寂しい葬儀であった。山県の不人気は、彼の存命中から今日まで継続している。
 筆者は、山県のことを「愚直な権力者」と位置づけ、従来のイメージを覆すことに力を注いでいる。
 この本を読み終えて、ではイメージが変わったか、山県のことを好きになったかと問われると、正直なところそれほど印象が変わったとは言い難い。維新の動乱で若くして命を落とした人たちと比べると、山県は生き延びた勝者であり、挫折や苦悩を抱えながらも、一方では椿山荘や古希庵、無鄰庵などの別荘を所有した成功者である。昔から日本人には成功した権力者は人気がない。坂本龍馬や吉田松陰、西郷隆盛のように志半ばで非業に斃れる人物の方が好まれるのである。
 話が飛ぶが、先日、戦前の録音でカラヤンのブルックナーを聴く機会があった。日本ではブルックナーの人気が極めて高いが、その中にあってカラヤンのブルックナーに対する評価は著しく低い。しかし、この古い録音を指揮者を伏せて聴いてみて、「嫌い」と断定できる人がどれくらいいるだろうか。カラヤンが嫌われるのは、「帝王」と呼ばれ、自家用ジェットや高級車を乗り回していたから、つまり栄光を手にしたからではないのか。山県が日本人に人気がないのも、同様の「嫌われる理由」が背景にあるように思う。
 山県有朋は幼くして両親と死に別れた。このことが、「生真面目だが猜疑心の強い、少し暗い性格」の形成に影響しているという。陰気なキャラクターというのも日本人には受けない。豊臣秀吉は、権力の頂点に登りつめた者でありながら、日本人に非常に人気がある。秀吉の人気を支えているのは影のない陽気さにある。
 西南戦争以降の山県は、軍人から政治家へと脱皮した。日清戦争に出征したことが唯一の軍人らしい履歴である。明治二十年代からあとの記述は、個人的にはあまり馴染みがない時期なので、理解するのに骨が折れた。山県が、陸軍元帥、元老筆頭として、時の総理大臣や内閣の人事に絶対的な影響を及ぼし続けるのは、現代の民主主義社会の常識から見ると、違和感を禁じ得ない。晩年には、皇太子(のちの昭和天皇)妃の“人事”にまで介入し、さすがに轟々たる非難を集めている。
 権力を欲しいままにした山県であるが、一貫しているのは、郷里の同胞が多くの血を流した末に生まれた明治国家を絶対に守り抜こうという強力な意思である。そこには国を私物化しようという意識は全くない。批判の多い軍の独走と許す組織・体制を作ったのは山県であるが、山県が存命中は問題がなかったのだろう。彼の死後、この仕組みを悪用した昭和の軍人が国を滅ぼしたのは周知のとおりである。
 筆者は、山県のことを手放しで褒め称えているわけではない。欠点は欠点としてありのままに指摘している。例えば、
① 欧州留学中に外国語の修得をあきらめ見聞が表面的なものになってしまったこと
② 背景となる欧州各国の立憲制発達の歴史を含めて、各国と日本を比較し深く考えるという志向が弱かったこと
③ 原敬や加藤高明のような、政党政治への理想を持って骨のある優秀な人材は、山県の下に参じなかったこと
④ 日露戦争のあと詠んだ和歌には、犠牲となった多くの将兵に対する心の痛みが全く表れてこないこと、即ち普通の人間が持つ感受性を失いつつあるということ
⑤ 山県は後継者育成に励んだが、結局は能吏ばかりで、真に気骨があり頼りになる者は育成できなかったこと
などなど、いずれも山県への辛辣な批評であるが、こういった姿勢がこの本の奥行きを深いものにしていると思う。

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銀座

2009年03月07日 | 東京都
(銀座六丁目 松坂屋前)
 新橋に勤めていながら、何故か銀座は縁遠い街である。特に用事がないのである。
 休日出勤したこの日、春の陽気に誘われて銀座を歩いてみることにした。街にはたくさんの人が溢れていた。


商法講習所跡

 明治八年(1875)、駐米日本代理公使を終えて帰国した森有礼が、渋沢栄一、福沢諭吉、大久保一翁(当時の東京府知事)の協力を得て設立した私塾である。その後、改称、改編を繰り返し、一橋大学に発展した。

(木村屋)
 銀座四丁目にある木村屋総本店に掲げられている「木村屋」の大看板は、山岡鉄舟の揮毫によるものである。明治八年(1875)、明治天皇が向島の水戸徳川家下屋敷に行幸の折、当時侍従を務めていた山岡鉄舟より、木村屋のあんぱんが献上された。天皇、皇后両陛下は非常に気に入り、引き続き上納するようにとの栄誉を賜った。


木村屋

(銀座二丁目 東京銀座通電気灯建設之図)


東京銀座通電気灯建設之図

 銀座二丁目の交差点近く、ビルの壁面に目立たぬレリーフが埋め込まれている。明治十五年(1882)十一月、当地に初めてアーク灯が灯され、銀座に不夜城が現出した。当時の模様を描いた錦絵を彫刻したものである。

(銀座一丁目 煉瓦銀座之碑)
 明治五年(1872)二月、火事により銀座は全焼した。延焼は築地にまで及んだという。当時の東京府知事由利公正は、銀座全域にわたって燃えにくい煉瓦造りで再建することを建言し、政府はこれを容れて煉瓦造り二階建てアーケード式洋風建築を国費で建造した。煉瓦銀座之碑の床面に敷き詰められた煉瓦は当時使用されたもの、背後に建っているガス灯の灯柱も明治七年(1874)製の実物を使用し、当時の灯具を忠実に再現したものである。


煉瓦銀座之碑


ガス灯

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取手

2009年03月06日 | 茨城県
(旧取手宿本陣)


旧取手宿本陣染谷家住宅



 取手には旧本陣の住宅が保存されている。江戸初期、取手宿は水戸街道が整備されると利根川の渡船場に隣接する重要な宿場として発展した。染野家は、代々名主をつとめ貞享四年(1687)には水戸徳川家より本陣を命じられた。現存している住宅は、寛政六年(1794)に焼失した翌年に再建されたものである。


徳川斉昭歌碑

 敷地内に徳川斉昭自筆の歌碑が建てられている。天保十一年(1840)正月、水戸へ帰還途中の徳川斉昭が、利根川を渡る船の中で詠んだものである。

 指て行さほのとりての渡し舟おもふ方へはとくつきにけり

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牛久

2009年03月06日 | 茨城県
(牛久宿)


牛久宿

 牛久は、水戸街道の宿場町として繁栄した街である。水戸街道は、ほぼ現在の国道6号線と重なるが、日露戦争の忠魂碑がある交差点から分岐する旧道を進むと、かつての宿場町に至る。今はまったく街道の面影は失われているが、黒塀と立派な門構えの飯島家が目を引く。門前には「明治天皇行在所」の石碑がある。明治十七年(1884)明治天皇が牛久に行幸し、近衛砲兵大隊による演習を天覧したことを記念した石碑である。


飯島家


明治天皇牛久行在所

 牛久宿には、天狗党も宿泊した記録が残っている。

(牛久陣屋跡)
 河童の碑がある付近には、江戸時代牛久藩陣屋があった。牛久は、譜代大名山口家一万石の藩地であった。幕末の藩主は、山口弘達。戊辰戦争に際して、官軍と旧幕府軍の間で混乱を来たしたが、最終的に新政府の方針に従った。


河童の碑

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「白雲の彼方へ ~異聞・橘耕斎」 山上籐吾著 光文社

2009年03月03日 | 書評
 このところ、少し難しい本ばかり読んでいて、読了まで時間がかかってモドカシイ思いをしているが、この小説はほぼ一日で読破できた。
 著者は、「新人作家」らしいが、何よりも橘耕斎(増田甲斎)という目立たないが、極めて波乱に富んだ人生を送った人物を題材に選んだ時点でこの小説の成功は約束されたと言えるだろう。新聞広告でこの本の存在を知ったとき、思わず「やられた!」と唸ってしまいましたね。
 著者は、ディアナ号の遭難やプチャーチン以下ロシア人たちが戸田の住民の協力を得て帰国する史実、さらには橘耕斎とゴシケヴィッチとの交流を縦糸に、耕斎と旧友板倉与一郎の妹との恋愛を横糸にして、幕末を舞台にした青春小説を書き上げた。本を読むのを途中で休むのが惜しいくらい物語の展開はよくできている。この本のページをめくる前に、ディアナ号の遭難やヘダ号造船のこと、そしてロシアに密航する橘耕斎のことなど、予備知識を仕入れておくと、この小説をもっと楽しめるだろう。
 小説は橘耕斎がロシア船に乗って姿を消すところで終わっている。実は耕斎の人生は、ロシアに密航したのち、明治の世に帰国するまでが、面白いのである。小説の題材になりえるか分からないが、是非続編を読みたいと思わせる小説であった。

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