我が国最初の医学博士、慈恵医科大学の前身成医会講習所の創設者であり、海軍軍医総監として海軍の医務、衛生の改善に尽力した高木兼寛の生涯を描いた長編小説である。
吉村氏が小説に取り上げるのは、尋常ならざる生への執着を見せる高野長英や関鉄之助であったり、ジョセフ・ヒコら漂流民であったり、或いは強固な意思で信念を貫き通した児島惟謙や小村寿太郎ら、いずれも超人的な執念を持った人たちである。「白い航跡」で取り上げられた高木兼寛も、ドイツ医学を支持する陸軍軍医部、東京大学医学部からの反発に怯むことなく、脚気の原因は食物にあると主張し続けた。大臣や天皇に直訴することは、まさに「命懸け」の行為であった。その結果、兼寛の主張がとおり、軍艦「筑波」は前年多数の脚気患者を出した「龍驤」と全く同じ航路を採用する。「筑波」から
「ビョウシャ 一ニンモナシ アンシンアレ」
との電文を受け取る場面は、感動的である。
現代日本では、脚気などという病気はほとんど耳にしなくなった。わずか百年前の日本で脚気が国民病といわれるほどの存在だったというのは衝撃的であった。脚気が世の中から駆逐されるとともに、高木兼寛の功績も忘れられようとしている。高木の功績を刻んだこの小説は、非常に価値ある一冊となった。
報國院殿慈心行照大居士
慈明院殿温室全貞大姉
高木兼寛は青山霊園に眠る。夫人は、手塚律蔵(瀬脇寿人)の娘である。

東京病院発祥の地
(新橋 東京慈恵医大病院前)
新橋の慈恵医大病院の前に、東京病院発祥の地を記念する碑が建てられている。明治二十四年(1891)、高木兼寛がこの地に東京病院を設立した。のちに東京病院は慈恵医科大学付属病院となり、昭和三十七年(1962)に慈恵医大病院と改称された。
吉村氏が小説に取り上げるのは、尋常ならざる生への執着を見せる高野長英や関鉄之助であったり、ジョセフ・ヒコら漂流民であったり、或いは強固な意思で信念を貫き通した児島惟謙や小村寿太郎ら、いずれも超人的な執念を持った人たちである。「白い航跡」で取り上げられた高木兼寛も、ドイツ医学を支持する陸軍軍医部、東京大学医学部からの反発に怯むことなく、脚気の原因は食物にあると主張し続けた。大臣や天皇に直訴することは、まさに「命懸け」の行為であった。その結果、兼寛の主張がとおり、軍艦「筑波」は前年多数の脚気患者を出した「龍驤」と全く同じ航路を採用する。「筑波」から
「ビョウシャ 一ニンモナシ アンシンアレ」
との電文を受け取る場面は、感動的である。
現代日本では、脚気などという病気はほとんど耳にしなくなった。わずか百年前の日本で脚気が国民病といわれるほどの存在だったというのは衝撃的であった。脚気が世の中から駆逐されるとともに、高木兼寛の功績も忘れられようとしている。高木の功績を刻んだこの小説は、非常に価値ある一冊となった。

報國院殿慈心行照大居士
慈明院殿温室全貞大姉
高木兼寛は青山霊園に眠る。夫人は、手塚律蔵(瀬脇寿人)の娘である。

東京病院発祥の地
(新橋 東京慈恵医大病院前)
新橋の慈恵医大病院の前に、東京病院発祥の地を記念する碑が建てられている。明治二十四年(1891)、高木兼寛がこの地に東京病院を設立した。のちに東京病院は慈恵医科大学付属病院となり、昭和三十七年(1962)に慈恵医大病院と改称された。