史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「大奥の女たちの明治維新」 安藤優一郎著 朝日新書

2017年02月26日 | 書評
第一章「篤姫が住んだ大奥とはどんな世界だったのか」第二章「失業した三万余の幕臣はどうなったのか」第三章「将軍家典医・桂川家の娘が歩んだ数奇な運命」第四章「日本最初の帰国子女、津田梅子の奮戦」第五章「東京に転居した大名とその妻はどうなったのか」第六章「東京の街は、牧場と桑畑だらけになった」第七章「江戸を支えた商人や町人はどうなったのか」という七章から構成される。これまで安藤優一郎氏の著作は何冊か読んでいる。たとえば第六章で紹介される、ウサギのエピソードは「幕臣たちの明治維新」(講談社現代新書)でも触れられており、ややマンネリ感が漂う。
もっとも興味を引いたのは、第三章の桂川甫周の次女今泉みねである。将軍御殿医の家に生まれたみねは、維新後佐賀藩出身の今泉利春と結婚する。今泉利春は佐賀の乱に連座して投獄され、出獄した時には西南戦争も終結していた。利春は自分が死んだら南洲墓地に葬ってほしいという遺志を抱いており、それに従って、生前交友のあった河野主一郎に頼み、みねは夫を南洲墓地に葬ることができた。今も西南戦争の戦死者ではない唯一の例外として、南洲墓地の一角に今泉利春は眠っているという。
本書では明治に入って名を成した旧幕臣や商人を数多く紹介しているが、実際には成功者よりも新しい世に適応できなかった失敗者の方がはるかに多かったに違いない。本書でも一家で餓死した旧幕臣や大奥の歴史が終わったことで実家に戻った奥女中の苦難などが描かれている。明治維新という変革は、数え切れない悲劇を生んだのである。

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「その後の慶喜 大正まで生きた将軍」 家近良樹著 ちくま文庫

2017年02月26日 | 書評
「今さら何を言ってるの」
と馬鹿にされそうだが、最近になって幕末史の鍵を握っているのは徳川慶喜ではないかと思っている。この人がいなければ、安政の大獄は起こらなかったかもしれないし、とすれば桜田門外の変は無かったかもしれない。ということは幕末の政局は随分変わったものになっていただろう。さらに言えば、天狗党の挙兵や長州征伐も様相が変わったものになっただろうし、大政奉還という大芝居も慶喜だから判断できた曲芸かもしれないし、慶喜の強烈な政治力があったから薩長も武力倒幕にこだわった。この人がいなければ、戊辰戦争も起こらなかったかもしれない。一人の存在がこれほど政局に影響を与えたという例は、慶喜以外に思い当たらない。この人がいたから幕末史がより劇的になったし、後世から見て面白くなったのは間違いない。
本書はその慶喜の明治以降の姿を追った書籍である。慶喜が明治を迎えたとき、まだ三十一歳という若さであった。そこから四十年を越える長い後半生が始まる。
よく知られるように、明治期の慶喜は趣味三昧の生活を送った。銃猟、投網、謡、能、小鼓、油絵、囲碁、将棋、ビリヤード、刺繍、写真、自転車など多岐にわたった。晩年には自動車(ダイムラー製)を手に入れ、乗り回していたという。
慶喜は趣味に没頭する一方、政治には距離を置いていた。幕末期の存在感とは対照的に、まったく存在を消して生き永らえていた。もちろん、戊辰戦争に際して「逆賊」というレッテルを張られたことが大きな要因であったが、同時に勝海舟や大久保一翁、山岡鉄舟らによって「監視」され、行動が制約されていたという。長年にわたり彼の行動を制約していた重しが取り除かれたのは、明治三十年代に入って明治天皇との面会が実現し、大久保一翁、勝海舟らが次々と世を去って以降のことである。
一般的には明治期の慶喜は明治政府に対し嫌悪感を抱き、失意の日々を送ったとされる。しかし、著者家近氏は、明治期の慶喜は「将軍職にあったときよりもはるかに幸せであった」とする。慶喜は明治政府に対して感想やらコメントなどを残しているわけでもないし、自らの境遇についても幸せだとも不幸だとも言い残しているわけでもないので、何が真相なのか断定するのは難しい。家近氏は、慶喜家の家扶や家従が残した「家扶日記」を丹念に追うことで、明治期の慶喜の生活実態を明らかにする。そこから見える趣味三昧の慶喜の姿は、いかにも生き生きとしており、そこに不幸感を見出すことは困難である。
同じ著者に維新までの慶喜を描いた「徳川慶喜」がある。本来、読む順番としてはこちらを先にすべきだったかもしれない。次はこちらを読んでみたい。

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館林 Ⅲ

2017年02月19日 | 群馬県
(法輪寺)


岡谷氏之墓(岡谷瑳磨之介の墓)

 岡谷氏之墓に岡谷瑳磨之介が合葬されている。側面に「温譲院清涼勝益居士 俗名 瑳磨之介源勝益」とあるのがそれである。前回(一年前)、この墓を見逃したので、関宿まで往復した後、さらに足を伸ばして館林を再訪した。この墓を見るだけが目的である。例によって駅前の木村商店で自転車を借りて一路法輪寺を目指す。結果、わずか三十分で自転車を返却することができた。

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杉戸 Ⅱ

2017年02月19日 | 埼玉県
(杉戸宿)


杉戸宿

 東武動物公園駅は、埼玉県宮代町に所在するが、数分歩けば杉戸町に入る。商店街の周辺が、旧杉戸宿にあたる。
 杉戸宿は、奥州街道、日光街道の宿場町である。本陣跡や高札場跡などのほか、古い商家の建物がそのまま残され、今も往時の雰囲気が残漂っている。


明治天皇御小休所趾

 三井住友信託銀行の前に明治天皇小休所趾碑がある。これは明治十四年(1881)の東北巡幸の際に明治天皇がこの地で休憩をとったことを記念したものである。

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関宿 Ⅲ

2017年02月19日 | 千葉県
(実相寺)
 実相寺は、関宿藩主久世家の菩提寺である。本堂横の庫裡は、失脚した久世広周が蟄居した関宿城の新御殿を移築したものと言われる。墓地には鈴木貫太郎の墓もある。


冨田弘人政治墓

 実相寺墓地には、関宿藩の家老職を務めた富田家、奥原家、亀井家などの久世家家臣の墓がある。富田家の幕末当主富田弘人は江戸詰中老。元治元年(1864)、筑波党敗残の領民川連虎一郎らを密殺したとして、慶応四年(1868)九月七日、切腹。


鈴木貫太郎墓

 鈴木貫太郎は、終戦時の総理大臣。総理大臣就任時の年齢七十七歳は、これまでの最高齢である。終戦後の昭和二十一年(1946)九月、郷里関宿に戻った。時に八十歳であった。二二六事件の際には、数発の弾丸を身に受け、そのうちの一発は体内に残っていたが、矍鑠としていたという。郷里に戻った鈴木貫太郎は、この地に農事研究会を発足させ、青年を指導し、将来酪農を農業経営に採り入れて行くべきことを助言した。昭和二十三年(1948)四月十七日、「永遠の平和」のひと言を残し、八十一歳で死去した。

(宗英寺)


山崎彌五右衛門秀陽墓

 宗英寺二度目の訪問となった。今回は無縁墓石群に積まれている山崎弥五右衛門と上田浅之助の墓を訪ねるのが目的である。
 山崎弥五右衛門は、慶応四年(1868)東北にて戦死。四十一歳。墓碑によれば、没月日は四月二十日と刻まれている。


歸山良道信士旲位(上田浅之助墓)

 上田浅之助は、関宿藩足軽。慶応四年(1868)、東北にて戦死。墓碑によれば没月日は四月二十日となっている。


丹羽十郎右衛門墓

 関宿藩の佐幕派は、家老奥原秀之助を首領と仰ぎ、万字隊を結成して、彰義隊に合流。上野で官軍と戦った。丹羽十郎右衛門は上野で戦死した藩士の一人である。
 宗英寺の墓地で丹羽十郎右衛門の墓を八消したが、墓碑によれば天保十五年(1844)四十三歳で没したと記載されているので、この墓の主は、先代(もしくは先々代)の十郎右衛門のものだろう。

(鈴木貫太郎記念館)


鈴木貫太郎記念館


鈴木貫太郎像


鈴木貫太郎翁終焉之地碑

 関宿台町の交差点近くに鈴木貫太郎記念館がある。この場所は、鈴木貫太郎の屋敷跡であり、終焉の地でもある。
 この記念館は、終戦時の内閣総理大臣として活躍した鈴木貫太郎(1867~1948)の業績を広く紹介するため、昭和三十八年(1963)に開館したものである。館内には、「最後の御前会議」をはじめとした、鈴木貫太郎の事績を偲ぶための油彩画六枚のほか、書簡類や敗戦後の日記、愛用品などが展示されている。入場無料。

 腰の具合も少しずつ良くなっている。とはいえ、まだ自動車を運転して遠出するのは不安が多い。この週末は天気も良さそうだったので、電車を乗り継いで関宿を訪ねることにした。武蔵野線から東武電鉄に乗り換えて東武動物公園駅で下車する。因みに東武動物公園駅は、埼玉県宮代町に所在し、少し歩くと杉戸町に入る。この駅は、以前は杉戸駅と呼ばれていたそうである。
 ここからバスで関宿に向かう。事前に下車するバス停を調べた上で「関宿バスターミナル行き」のバスに乗ったのだが、この路線にある中学校前バス停は関宿からとんでもなく離れた場所であった。仕方なく終点まで乗ったが、関宿の街からは相当離れたところであった。そこから路線バスを乗り継いで、やっとのことで関宿中学校前に行き着いた。ほぼ一時間の時間のロスであった。腰に不安を抱えているのでわざわざ電車とバスを使ったというのに、結果的には腰に大きな負担をかけてしまった。
 帰りは鈴木貫太郎記念館の前の関宿台町のバス停から素直に東武動物公園駅に直行することができた。東武動物公園から関宿の街を訪ねるときは、境車庫行きに乗らなければならない。

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赤坂 Ⅲ

2017年02月12日 | 東京都
(サン・サン赤坂)
 Kさんからの年賀状で、赤坂の勝海舟屋敷跡に勝海舟と坂本龍馬の像「師弟像」が建立されたことを知った。
 まだ腰の状態は十分とはいえないが、間もなく仕事始めであり、いつまでも家の中でぐずぐずしているわけにいかない。身体を馴らすことも兼て、赤坂まで往復することにした。
 それにしても、海舟がこの場所に住んだのは明治五年(1872)以降のことであり、当然ながら坂本龍馬がここを訪れた事実はない。またしても、当人とは所縁の無い場所に龍馬像が建てられることになった。


勝海舟・坂本龍馬の師弟像

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東池袋 Ⅳ

2017年02月12日 | 東京都
(雑司ヶ谷霊園)


早矢仕有的之墓

 書店「丸善」創始者早矢仕有的の墓である。有的は、天保八年(1837)、山田柳長の子に生まれた。父が二十五歳で没したので、早矢仕家にて養われ、十二、三歳で実父の業を継ぐため美濃国大垣で医・蘭学を江馬俊卿に学んだ。安政元年(1854)、十八歳のとき養家で開業したが、まもなく近くの庄屋高折善六が彼の才を見込み、江戸で大成することを勧めて十両を贈った。屋号の中の「善」は、この恩を忘れぬためという。江戸で伊東玄朴の門に入ったが、師とは性格的に相容れなかった。慶応元年(1865)、慶応義塾に入門し、ここから医術から商業に転向し、明治元年(1868)十一月、横浜新浜町に書店を開いた。慶應義塾出版物の委託販売、柳川春三経営の中外堂の新聞雑誌の取り次ぎ、さらに医具・薬品にまで手を拡げた。明治二年(1869)、書物専門店を相生町に分離し「丸屋」とし、元の店は医具等の店として「玉屋」とした、ついで明治三年(1870)三月、東京日本橋品川町裏河岸に支店を設けた。洋服・洋傘・万年筆等の新外国品の輸入、販売の先鞭をつけた。明治三十三年(1900)十月には海外の新聞・雑誌の直接購読の取り扱いを開始した。明治三十四年(1901)、年六十五で没。【1種10号3側】


女医荻野吟子之墓

 我が国の医師免許を得た近代女性医師第一号荻野吟子の墓である。吟子の墓は、右から二つ目の墓石。中央の「荻野家之墓」を挟んで左手には吟子の石像、さらにその左手には平成従三年に建てられた「命燃えて」と題された荻野吟子の顕彰碑が置かれている。
 荻野吟子は、嘉永四年(1851)、埼玉県大里郡妻沼町に生まれた。私立医学校好寿院(東京)で医学を修めたが、当時は女子の医術開業試験の受験が認められていなかった。吟子は自らの努力でその門戸を開き、明治十八年(1885)、医籍に登録され、最初の女性医師となった。東京湯島で産婦人科を開業した後、北海道瀬棚に移り、開業の傍ら開拓事業に従事した。牧師であった夫の死亡により、再び東京に戻り、江東新小梅町で診療を続けた。かたわら、基督教婦人矯風会風俗部長、大日本婦人衛生会幹事、明治女学校教師兼学校医など社会的な活動も行い、女医第一号としての開拓者的な生涯を送った。【1種5号23側】


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湯島 Ⅱ

2017年02月12日 | 東京都
(三菱史料館)


三菱史料館

 旧岩崎邸庭園のちょうど裏側に三菱史料館がある(台東区湯島4‐10‐14)。入場無料、土日・祝日は休館。
 三菱史料館は、平成七年(1995)、三菱創業百二十五年を記念して建設されたもので、三菱創業以来の貴重な資料を保管し、同時に専門家によって産業史・経営史の研究が進められている。展示スペースは決して広くないが、三菱の歴史が分かり易く解説・展示されている。受付で「三菱のあゆみ」「岩崎彌太郎小伝」などの小冊子を安価で販売しているのもうれしい。
 ここで手に入れた「岩崎彌太郎小伝」を読んでいて面白かったのは、ことさらコラムと称して「政商とは」何かについてページを割いている点である。もちろん、我々が「政商」と聞いて真っ先に連想するのが岩崎弥太郎なわけである。政商といえば「政治と特別な関係を利用して企業の発展拡大を実現した経営者」のことで、どうしてもダ―ティでマイナスのイメージが付いて離れない。「小伝」の筆者は、政商は岩崎弥太郎に限らない、三野村利左衛門(三井)、安田善次郎、大倉喜八郎にしても時代を代表する政商であるし、広い意味でいえば、三井、住友、鴻池、藤田、浅野、古河、川崎など、明治期に巨富を築いた商人は皆「政商」である。だから岩崎彌太郎だけを悪者扱いしないでねといいたいのかもしれないが、やはり岩崎彌太郎は政商の典型であり、「小伝」がいくら弁護に努めようとも、簡単にそのイメージは覆らないものである。


岩崎彌太郎像

 展示室前に置かれている岩崎彌太郎像は、大熊氏廣の手によるもの。大熊氏廣は、東京三大銅像の一つ大村益次郎像や有栖川熾仁親王像などを手掛けている。大熊が明治二十一年(1888)ヨーロッパに留学したのも、岩崎彌之助(彌太郎の実弟)の援助があったからといわれている。


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目黒 Ⅶ

2017年02月12日 | 東京都
(長泉院)


慊堂先生之墓

 松崎慊堂(こうどう)の墓を訪ねて、目黒の長泉院を再訪した。まだ腰椎ヘルニアの手術の傷が癒えず、少し歩くと腰が痛んだ。しかし、退院から一週間が経ち、毎日テレビでワイドショーを見ている生活に耐えられなくなってきた。久しぶりの史跡訪問である。
 松崎慊堂は、江戸中期の儒学者。明和八年(1771)九月、肥後益城郡木倉村に生まれ、十五歳のとき儒学を学ぶため江戸に出て、昌平黌(昌平坂学問所)に入った。やがて林述斎に見出され、佐藤一斎とともに学び、享和二年(1802)、遠江掛川藩前当主太田資愛(すけよし 大隆院)招聘により藩校北門書院の教授となった。肥後熊本藩主細川斉茲(なりしげ)から掛川藩主太田資始(すけもと 道醇)に対して慊堂を熊本藩に復したい旨申し出があったため、慊堂は板挟みとなったため辞任して「石経山房」(現在の渋谷区広尾3‐4の東端)に隠居し、学問一途に専心した。弘化元年(1844)四月、七十四歳で死去。著書に「慊堂日暦」「慊堂先生遺文」「残叢小話」「論性書注」「夜雨瑣記」など。長泉院の墓標は篆額掛川藩主太田資功(すけかつ)、撰文海野予助(掛川藩儒)、書は小島成斎(備後福山藩主阿部正弘の命により対露国書を清書したことで知られれる能書家)によるものである。

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