(岩村田宿)
中山道の岩村田宿は、江戸から数えて二十二番目の宿場町であったが、宿場町としてはあまり大きくなく、むしろ岩村田藩の城下町として栄えた街である。街道沿いに商店街が連なるが、宿場町の風情を残す建物などは見当たらない。相生町の交差点に岩村田宿と書いたモニュメントが建てられているのみである。
中山道岩村田宿
(岩村田小学校)
岩村田藩一万六千石は、長らく城を持たず陣屋を置いて藩庁とした。幕末に及んで築城に着手し、元治元年(1864)に完成した。引き続き天守閣の建造も計画されていたが、間もなく幕府が倒れ、廃藩となったため城郭は破却された。城趾のほとんどは岩村田小学校の敷地となり、その一部が岩村田公園と招魂社となった。
岩村田小学校
小学校の正門脇に何故だか、西郷隆盛の漢詩碑が置かれている。

西郷南州作
耐雪梅花麗 経霜楓葉丹

岩村田城址
岩村田藩主は内藤氏。ほかの譜代大名と同様、日和見的な立場であったが、戊辰戦争が始まると、結局官軍に従うこととなった。一時謹慎を命じられている。
(八幡宿)
八幡宿もやはり中山道の宿場町である。江戸から数えて二十四番目に当たる。この周辺はかつての面影が残っており、町の名前の由来となった八幡神社も当時のまま残されている。
中山道八幡宿本陣
八幡宿本陣に和宮が宿泊している。和宮から下賜された品々が伝えられているというが、門は固く閉ざされており、中を伺うことはできない。
八幡神社 随神門
八幡神社本殿、拝殿、端籬門は宝永五年(1708)随神門は天保十四年(1843)の建立という。
(田口小学校)
佐久市を南に向かいJR小海線臼田駅周辺に至ると、この辺りは旧龍岡藩(田野口藩)の所領である。
龍岡藩の藩主は、大給松平氏。家康の五代前の松平親忠の次男に始まる家系で、代々徳川宗家の譜代として仕えた。江戸時代を通じて三河奥殿に藩領を有していたが、八代藩主松平乗謨(のちの大給恒)のとき、藩庁を手狭な奥殿から信州龍岡へ移した。乗謨は、この地に洋式要塞を築城することを申し出て、幕府の許可を得た。文久三年(1863)、建築に着手されたが、完成を見るまえに明治維新を迎えた。
田口小学校
松平乗謨は、どうしてこの地で洋式の要塞を築こうとしたのだろうか。乗謨自身は、決して西洋へ留学した経験があるわけではなく、蘭学を修めたわけではない。ペリー来航以降、激動の時代に若年寄、老中といった要職を経験し、軍の西洋化の必要性を痛感したに違いない。自ら西洋化を実践してみせたのが、龍岡の五稜郭だった。乗謨は、ここでフランス式の農兵を組織して、訓練まで実施している。
乗謨は、幕末ぎりぎりの時期に陸軍総裁職に就いていたが、直後に戊辰戦争が始まり辞任。帰国して謹慎するとともに、慶応四年(1868)四月には新政府に協力する形で北越方面に兵を出した。
五稜郭といえば、函館五稜郭が有名であるが、実は長野県の片田舎にもう一つの五稜郭が存在していることは存外知られていない。現在、龍岡城五稜郭跡地には田口小学校が建っている。一見、何の変哲もない小学校であるが、構内に龍岡城の遺構である御台所が移設保存され、更に敷地の外郭は特徴のある堀で囲まれている。近くの山に登って見下ろせば綺麗な星型をしていることが見渡せると思われるが、残念ながら周囲を歩きまわっているだけでは、それは見て取れない。展望台でも建てて、星型を一望できるようにすれば、観光資源としての価値もずっと高まるだろう。
御台所
史蹟 龍岡城址
堀
大給恒(おぎゅうゆずる)胸像
幕府との決別を内外に公表するため、松平乗謨は、大給恒と改名し、明治を生きることになる。明治政府に出仕し、賞勲局副長官や副総裁更には総裁を長く勤め、我が国の勲章制度を作り上げた。また、佐野常民とともに日本赤十字社の前身である博愛社の創立に貢献したことでも知られる。明治四十三年(1910)七十二歳で死去。
招魂社
田口小学校の構内に残る招魂社は、龍岡城五稜郭築城当時から存続しているものである(本殿は昭和二十八年(1953)に改築)。北越戦争で戦死した四名を始め、大東亜戦争に至る二〇七柱の英霊が祀られる。
中山道の岩村田宿は、江戸から数えて二十二番目の宿場町であったが、宿場町としてはあまり大きくなく、むしろ岩村田藩の城下町として栄えた街である。街道沿いに商店街が連なるが、宿場町の風情を残す建物などは見当たらない。相生町の交差点に岩村田宿と書いたモニュメントが建てられているのみである。

中山道岩村田宿
(岩村田小学校)
岩村田藩一万六千石は、長らく城を持たず陣屋を置いて藩庁とした。幕末に及んで築城に着手し、元治元年(1864)に完成した。引き続き天守閣の建造も計画されていたが、間もなく幕府が倒れ、廃藩となったため城郭は破却された。城趾のほとんどは岩村田小学校の敷地となり、その一部が岩村田公園と招魂社となった。

岩村田小学校
小学校の正門脇に何故だか、西郷隆盛の漢詩碑が置かれている。

西郷南州作
耐雪梅花麗 経霜楓葉丹

岩村田城址
岩村田藩主は内藤氏。ほかの譜代大名と同様、日和見的な立場であったが、戊辰戦争が始まると、結局官軍に従うこととなった。一時謹慎を命じられている。
(八幡宿)
八幡宿もやはり中山道の宿場町である。江戸から数えて二十四番目に当たる。この周辺はかつての面影が残っており、町の名前の由来となった八幡神社も当時のまま残されている。

中山道八幡宿本陣
八幡宿本陣に和宮が宿泊している。和宮から下賜された品々が伝えられているというが、門は固く閉ざされており、中を伺うことはできない。

八幡神社 随神門
八幡神社本殿、拝殿、端籬門は宝永五年(1708)随神門は天保十四年(1843)の建立という。
(田口小学校)
佐久市を南に向かいJR小海線臼田駅周辺に至ると、この辺りは旧龍岡藩(田野口藩)の所領である。
龍岡藩の藩主は、大給松平氏。家康の五代前の松平親忠の次男に始まる家系で、代々徳川宗家の譜代として仕えた。江戸時代を通じて三河奥殿に藩領を有していたが、八代藩主松平乗謨(のちの大給恒)のとき、藩庁を手狭な奥殿から信州龍岡へ移した。乗謨は、この地に洋式要塞を築城することを申し出て、幕府の許可を得た。文久三年(1863)、建築に着手されたが、完成を見るまえに明治維新を迎えた。

田口小学校
松平乗謨は、どうしてこの地で洋式の要塞を築こうとしたのだろうか。乗謨自身は、決して西洋へ留学した経験があるわけではなく、蘭学を修めたわけではない。ペリー来航以降、激動の時代に若年寄、老中といった要職を経験し、軍の西洋化の必要性を痛感したに違いない。自ら西洋化を実践してみせたのが、龍岡の五稜郭だった。乗謨は、ここでフランス式の農兵を組織して、訓練まで実施している。
乗謨は、幕末ぎりぎりの時期に陸軍総裁職に就いていたが、直後に戊辰戦争が始まり辞任。帰国して謹慎するとともに、慶応四年(1868)四月には新政府に協力する形で北越方面に兵を出した。
五稜郭といえば、函館五稜郭が有名であるが、実は長野県の片田舎にもう一つの五稜郭が存在していることは存外知られていない。現在、龍岡城五稜郭跡地には田口小学校が建っている。一見、何の変哲もない小学校であるが、構内に龍岡城の遺構である御台所が移設保存され、更に敷地の外郭は特徴のある堀で囲まれている。近くの山に登って見下ろせば綺麗な星型をしていることが見渡せると思われるが、残念ながら周囲を歩きまわっているだけでは、それは見て取れない。展望台でも建てて、星型を一望できるようにすれば、観光資源としての価値もずっと高まるだろう。

御台所

史蹟 龍岡城址

堀

大給恒(おぎゅうゆずる)胸像
幕府との決別を内外に公表するため、松平乗謨は、大給恒と改名し、明治を生きることになる。明治政府に出仕し、賞勲局副長官や副総裁更には総裁を長く勤め、我が国の勲章制度を作り上げた。また、佐野常民とともに日本赤十字社の前身である博愛社の創立に貢献したことでも知られる。明治四十三年(1910)七十二歳で死去。

招魂社
田口小学校の構内に残る招魂社は、龍岡城五稜郭築城当時から存続しているものである(本殿は昭和二十八年(1953)に改築)。北越戦争で戦死した四名を始め、大東亜戦争に至る二〇七柱の英霊が祀られる。