史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

佐久

2010年07月28日 | 長野県
(岩村田宿)
 中山道の岩村田宿は、江戸から数えて二十二番目の宿場町であったが、宿場町としてはあまり大きくなく、むしろ岩村田藩の城下町として栄えた街である。街道沿いに商店街が連なるが、宿場町の風情を残す建物などは見当たらない。相生町の交差点に岩村田宿と書いたモニュメントが建てられているのみである。


中山道岩村田宿

(岩村田小学校)
 岩村田藩一万六千石は、長らく城を持たず陣屋を置いて藩庁とした。幕末に及んで築城に着手し、元治元年(1864)に完成した。引き続き天守閣の建造も計画されていたが、間もなく幕府が倒れ、廃藩となったため城郭は破却された。城趾のほとんどは岩村田小学校の敷地となり、その一部が岩村田公園と招魂社となった。


岩村田小学校

 小学校の正門脇に何故だか、西郷隆盛の漢詩碑が置かれている。


西郷南州作

 耐雪梅花麗 経霜楓葉丹


岩村田城址

 岩村田藩主は内藤氏。ほかの譜代大名と同様、日和見的な立場であったが、戊辰戦争が始まると、結局官軍に従うこととなった。一時謹慎を命じられている。

(八幡宿)
 八幡宿もやはり中山道の宿場町である。江戸から数えて二十四番目に当たる。この周辺はかつての面影が残っており、町の名前の由来となった八幡神社も当時のまま残されている。


中山道八幡宿本陣

 八幡宿本陣に和宮が宿泊している。和宮から下賜された品々が伝えられているというが、門は固く閉ざされており、中を伺うことはできない。


八幡神社 随神門

 八幡神社本殿、拝殿、端籬門は宝永五年(1708)随神門は天保十四年(1843)の建立という。

(田口小学校)
 佐久市を南に向かいJR小海線臼田駅周辺に至ると、この辺りは旧龍岡藩(田野口藩)の所領である。
 龍岡藩の藩主は、大給松平氏。家康の五代前の松平親忠の次男に始まる家系で、代々徳川宗家の譜代として仕えた。江戸時代を通じて三河奥殿に藩領を有していたが、八代藩主松平乗謨(のちの大給恒)のとき、藩庁を手狭な奥殿から信州龍岡へ移した。乗謨は、この地に洋式要塞を築城することを申し出て、幕府の許可を得た。文久三年(1863)、建築に着手されたが、完成を見るまえに明治維新を迎えた。


田口小学校

 松平乗謨は、どうしてこの地で洋式の要塞を築こうとしたのだろうか。乗謨自身は、決して西洋へ留学した経験があるわけではなく、蘭学を修めたわけではない。ペリー来航以降、激動の時代に若年寄、老中といった要職を経験し、軍の西洋化の必要性を痛感したに違いない。自ら西洋化を実践してみせたのが、龍岡の五稜郭だった。乗謨は、ここでフランス式の農兵を組織して、訓練まで実施している。
 乗謨は、幕末ぎりぎりの時期に陸軍総裁職に就いていたが、直後に戊辰戦争が始まり辞任。帰国して謹慎するとともに、慶応四年(1868)四月には新政府に協力する形で北越方面に兵を出した。

 五稜郭といえば、函館五稜郭が有名であるが、実は長野県の片田舎にもう一つの五稜郭が存在していることは存外知られていない。現在、龍岡城五稜郭跡地には田口小学校が建っている。一見、何の変哲もない小学校であるが、構内に龍岡城の遺構である御台所が移設保存され、更に敷地の外郭は特徴のある堀で囲まれている。近くの山に登って見下ろせば綺麗な星型をしていることが見渡せると思われるが、残念ながら周囲を歩きまわっているだけでは、それは見て取れない。展望台でも建てて、星型を一望できるようにすれば、観光資源としての価値もずっと高まるだろう。


御台所


史蹟 龍岡城址





大給恒(おぎゅうゆずる)胸像

 幕府との決別を内外に公表するため、松平乗謨は、大給恒と改名し、明治を生きることになる。明治政府に出仕し、賞勲局副長官や副総裁更には総裁を長く勤め、我が国の勲章制度を作り上げた。また、佐野常民とともに日本赤十字社の前身である博愛社の創立に貢献したことでも知られる。明治四十三年(1910)七十二歳で死去。


招魂社

 田口小学校の構内に残る招魂社は、龍岡城五稜郭築城当時から存続しているものである(本殿は昭和二十八年(1953)に改築)。北越戦争で戦死した四名を始め、大東亜戦争に至る二〇七柱の英霊が祀られる。

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上田

2010年07月28日 | 長野県
(上田城趾公園)
 上田は真田氏の本拠地として知られる。上田の街を歩くと、真田幸村や真田十勇士ばかりが目に付く。幕末の遺跡があまり残されていないのは少々残念である。
上田藩は、元和八年(1622)に真田信之が松代に移封された後、仙石氏、松平氏へと引き継がれた。藩領は五万三千石で、老中を出す家格であった。幕末の藩主松平忠優(ただます。のちに忠固と名乗りを改めた)は、天保元年(1830)から安政六年(1859)までの長きにわたり藩主の座にあった。安政年間には老中として終始開国論を主張して開港問題に当たった。攘夷派の先鋒である水戸徳川斉昭の反発を招いたが、このとき斉昭を斥けたのは忠固の主張が通ったものと言われる。


上田城 東虎口櫓門と北櫓

 上田城は、天正十三年(1585)と慶長五年(1600)の二度にわたり、徳川の大軍を迎え討ち、見事に撃退したことで有名である。上田城は美しい天守閣を持っているわけでもなく、見上げるような石垣が組まれているわけでもなく、そういう意味ではあまり見栄えが良い城ではない。本丸の周囲に二重に堀を巡らせ、南部を流れる千曲川が自然の要害を成していた。最近の研究で、周囲の河川や城下町全体が防御に優れた構造となっていることが明らかになった。維新後、破却されたが、東虎口櫓門とその両側に南北の櫓が復原されている。


西櫓

 西櫓は、寛永三年~五年(1626~1628)に真田氏のあと、城主となった仙石氏が建てたもので、当時のまま残された唯一の建造物である。


戊辰役上田藩従軍紀念碑

 本丸跡地の広場にある石碑の中で、一番背の高いのが、戊辰役上田藩従軍紀念碑である。上田藩松平家は譜代の有力大名で、戊辰戦争に際しては時の藩主松平忠礼が徳川幕府とともに存亡をともにする旨藩士に言明しておきながら、北陸道鎮撫の官軍が城下に到着するとその麾下に従軍した。


贈従五位赤松小三郎君之碑

 石碑の書は、東郷平八郎による。
 赤松小三郎は天保二年(1831)上田藩士の家に生まれ、のちに同じ上田藩士の赤松家の養子となった。性格は磊落不羈、若くから経綸の才を示し、十八歳で江戸に出た。数学、蘭学を学んだが、当時木挽町にあった佐久間象山塾にも学んで影響を受けた。のち勝海舟の門に入り、長崎に出て兵学、航海術を修めた。江戸に戻って英学を修め、慶応二年(1866)に訳術した「英国歩兵練法」により、赤松小三郎の名を全国に知らしめることになった。この頃、鹿児島、大垣、会津、熊本、郡山、岡山などから招聘を受けている。京都三条烏丸衣棚に家塾宇宙堂を開き、薩摩藩京都屋敷に招かれ藩士の教育に当たった。門弟八百人と言われ、村田新八、篠原国幹、野津道貫、東郷平八郎、上村彦之丞らが門下にいた。赤松は幕府と諸藩の間を往来して公武合体を画策した。慶応三年(1867)九月、佐幕派の上田藩に召喚されたことを疑った桐野利秋らにより京都五条で斬殺された。

(上田第二中学校)


上田藩文武学校 明倫堂跡

 上田城跡公園から二ノ丸橋を出て直ぐのところに在る第二中学校は、藩校明倫堂の跡である。明倫堂の開校は文化十年(1813)。維新以降は、松平学校、上田学校本校、上田尋常小学校男子校、上田尋常高等小学校南校部、上田南小学校とたびたび校名を変えた末、昭和三十五年(1960)から上田第二中学校がこの地に移った。

(月窓寺)


月窓寺


良鑑院松屋赤心居士(赤松小三郎遺髪墓)

 京都で殺害された赤松小三郎は、黒谷の金戒光明寺に葬られたが、遺髪が上田に送られ、月窓寺に遺髪墓が設けられた。

(毘沙門堂)


毘沙門堂

 上田駅近く、常田の毘沙門堂には、佐久間象山先生勉学之地と記された大きな碑が建っている。活文(鳳山)禅師は若い頃長崎に出て修学した後、住職として信州各地を転々としたが、文政十二年(1829)五十歳のとき毘沙門堂で私塾多聞庵を開いた。門人千人を越えたというが、その中に若き日の佐久間象山がいた。活文禅師は弘化二年(1845)七十一歳で没した。


佐久間象山先生勉学之地碑


鳳山禅師追福之碑

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浦賀 Ⅳ

2010年07月24日 | 神奈川県
(徳田屋跡)


吉田松陰佐久間象山相会処(徳田屋跡)

 東浦賀の渡船場の近くに徳田屋跡を示す石碑が建てられている。徳田屋は松平定信が、相模・伊豆沿岸の視察のために宿泊したという記録も残っているという老舗である。幕末には吉田松陰がペリー艦隊を実見するためにここに泊り、ここで佐久間象山と面会している。ほかにも浮世絵師の安藤広重や長州藩士桂小五郎らも徳田屋を利用している。残念ながら大正十二年(1923)、関東大震災のとき倒壊して姿を消してしまった。


渡し船

 東西の浦賀を結ぶ渡し船は、享保七年(1722)には渡し船が文献に登場しており、それ以前に創業されたものと推定されている。時刻表などはなく、渡し船場に行くと対岸からでも迎えにきてくれる。片道150円。私が乗船したとき、乗客は老婆が一人だけであった。老婆は「暑いねぇ。こっちに座った方が涼しいよ」と声をかけてくれた。わずか数分で西浦賀に着くが、なかなか風情があって楽しめる。

(浦賀郷土資料館)
 西浦賀に渡ってしばらく歩くと、浦賀郷土資料館がある。二階の中島三郎助関係の資料展示が充実している。


高橋由一画 中島三郎助像


中島三郎助遺書

 三郎助には、ともに箱館で戦死した長男恒太郎、次男英次郎のほかに、当時二歳だった与曾八と名付けられた三男がいた。遺書は与曾八に宛てられたものである。官軍の総攻撃の前夜、死を決した三郎助が書いたもので、形見として短刀を送ること、徳川家への恩顧を忘れず忠勤を励むことなどが記されている。


鳳凰丸

 鳳凰丸は、中島三郎助が建造主任となって嘉永七年(1854)に完成させた洋式軍艦で、外国からの技術指導も無しに、造船書のみを頼りに作り上げたものである。
 ほかにも黒船(サスケハナ号)、咸臨丸の模型の展示など、非常に充実した史料館である。観覧している間、ほかに誰も来なかったが、もっと多くの人に見てもらいたい内容である。

(大衆帰本塚碑)


大衆帰本塚碑

 浦賀郷土資料館から、更に浦賀駅方面に歩を進めると、左手に大衆帰本塚碑が移設されている。
 この碑は、元治元年(1864)に建てられたもので、中島三郎助の文と筆跡がそのまま碑文となっている。碑文の概要は、「かつてこの辺りはのどかな湿地帯であったが、開発により家が建つようになった。これによって傍らに眠っていた無縁仏をひとまとめにして供養することになり、時の浦賀奉行大久保土佐守が大衆帰本塚を設けることを決めた。これに喜んだ奉行所付大工棟梁の川島平吉は、この事実を伝えるために良い石材を選び、周囲には桜の木を植えて無縁になった人々の魂を慰めようとした」というものである。

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横須賀 Ⅳ

2010年07月24日 | 神奈川県
(ウェルニー公園)


ヴェルニ―胸像

 梅雨明けのこの日、強い日射しにめげそうになりながら、横須賀、浦賀、大津、横浜を散策した。ヴェルニ―公園に足を運んだのは、多分5~6年振りだろうと思うが、この日は海が青くて、公園も一段と綺麗に見えた。


開港碑

 小栗上野介忠順とヴェルニ―の胸像の周囲には、二人の功績を顕彰する開港碑、小栗が斬首された烏川水沼河原(群馬県倉渕)の石が置かれている。


記念石


ヴェルニ―記念館

 横須賀製鉄所(造船所)を建設し、日本近代工業化の礎を作ったとされるヴェルニ―を顕彰するために建てられた記念館である。館内には、慶応元年(1865)オランダ製の巨大なスティームハンマーなどが展示されている。
 ヴェルニ―は1837年にフランスのアルディッシュ県オブナに生まれ、リヨンの国立高等中学を卒業後、パリのエコール・ポリテクニクに入学。1858年には海軍造船大学校に進んで、造船技師となった。海軍のエンジニアとして中国寧波の造船に従事していたが、幕府の招きにより慶応元年(1865)来日。維新後も引き続き製鉄所の建設とその運営の任に当たった。観音崎灯台、走水の水道の建設、レンガの製造のほか、製鉄所内に技術学校を開いて日本人技術者の養成に努めるなど、多大な足跡を残して、明治九年(1876)に帰国した。1908年、故郷オブナにて死去。七十一歳。

(信楽寺)


信楽寺


龍馬とお龍 木像

 久し振りに信楽寺を訪ねたが、以前と違い京急大津駅から信楽寺に至るまでの道には、「龍馬の妻、お龍の眠る街」と書いた幟が立てられ、少し賑やかになっていた。以前は公開されていなかった龍馬とお龍の木像を見ることができた。


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横浜

2010年07月24日 | 神奈川県
(田中屋)
 横浜駅の喧騒から少し離れた旧東海道沿いに文久三年(1863)創業の老舗、田中屋が佇んでいる。周囲は高層マンションが立ち並び、昔の風情を残す建物はこの田中屋だけといっても良い。思わず「頑張れ」と声をかけたくなる。田中屋は、前身を旅籠「さくらや」という。「さくらや」は「東海道中膝栗毛」にも登場する由緒ある料亭である。高杉晋作やハリスなどもここを訪れている。


田中屋

 明治七年(1884)、勝海舟の紹介により、坂本龍馬未亡人、お龍がここで働いたという。英語も話せ、月琴を弾くことができたお龍は、外国人の接待に重宝された。

(神奈川台関門跡)
 安政の通商条約を受けて、各国の領事は横浜に公館を置いた。外国人が殺害される事件が相継ぎ、幕府を非難する声が高まった。そこで幕府は、安政六年(1859)、横浜周辺の要地に関門や番所を設け、警備を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が設置されたが、西側の関門が神奈川台関門である。

神奈川台関門跡 袖ヶ浦見張所

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烏丸 Ⅲ

2010年07月15日 | 京都府
(京都文化博物館)
 京都文化博物館は、平安遷都千二百年を記念して昭和六十三年(1988)に創立されたもので、明治三十九年(1906)に竣工した日本銀行京都支店の建物を別館として利用している。


京都文化博物館

 愛媛松山で会社の部下の結婚式があったので、大阪高槻の実家から日帰りで列席してきた。新幹線と在来線の特急を乗り継いで、片道の所要時間は五時間弱。さすがに疲れた。
翌日は、京都文化博物館で開かれている特別展「龍馬伝」を見てきた。これまでも国立博物館や霊山歴史館で坂本龍馬は幾度となく取り上げられており、展示されているものは概ねこれまでどこかで見たことのある代物ばかりであった。展示物には新鮮味は無かったが、開館前から行列ができる龍馬人気の方には驚かされた。子供たちの口から、平井収二郎や加尾などといった人物の名前が普通に出てくるのを聴いて、改めて大河ドラマの影響力の大きさを実感した。
龍馬の身長は、当時としてはかなり大柄だったと言われているが、残された紋服から173㎝と推定されている。同じく中岡慎太郎は153㎝という。近藤長次郎はかなり背が低かったようである。当時の日本人はとてもちっちゃかったということを、この展示会で思い知った。

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一乗寺 Ⅱ

2010年07月15日 | 京都府
(薬師堂)
 薬師堂の前に忠誠公隠棲之地と書かれた石碑が建っている。忠誠公とは、三条実美の父、三条実万(さねつむ)の謚号である。
 実万は条約勅許に反対し、一橋慶喜の将軍擁立に奔走したことから、安政の大獄で落飾謹慎の処分を受け、安政六年(1859)三月よりこの地で隠棲を強いられた。その七ヶ月後、同年十月失意のうちに亡くなった。死の直前、謹慎を解かれ従一位に推叙された。


忠誠公隠棲之地碑


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「慶応四年新撰組隊士伝」 あさくらゆう著 ふるさと文庫

2010年07月10日 | 書評
タイトルに「慶応四年」とわざわざ年号が入っている。慶応四年(1868)は、言うまでも無く鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争があった年である。新撰組といえば、文久三年(1863)から明治二年(1869)五月の土方の死までの約六年間の活動期間があるが、慶応四年の鳥羽伏見前後で、その性格が異なる。それまでの新撰組は、市中警護が主な活動であったのに対し、それ以降は旧幕歩兵諸隊と同じく、戦闘を主目的とした組織となった。本書は、慶応四年に転機を迎えたという共通点を持つ六人の隊士を列伝風に紹介したものである。
ここで取り上げられた六人の隊士―――土方歳三、島田魁、市村辰之助・鉄之助兄弟、近藤隼雄、安富才輔―――のうち、土方、島田以外はあまり知名度は高くない人物である。
市村鉄之助は土方の小姓である。箱館戦争終戦間際に土方の命を受けて遺品を日野の佐藤彦五郎に届けた人物、といえば思い当たる方も多いだろう。
近藤隼雄という名前は、本書で初めて知った。近藤隼雄は、新撰組隊長という肩書きまで残っており、中心的役割を果たしたようだ。幕臣出身で、家の方は家臣に任せて単身戦争に参加したという異色の隊士であった。
安富才輔は、新撰組の勘定方や兵糧方として重きを成した人物である。実務能力が高くて重用され、実質的には組織のナンバー2まで上りつめた。筆者は備中足守に安富才輔の墓を見つけたという。差し詰め天文フアンでいえば新惑星発見に匹敵する出来事であろう。
なお、どうでも良いことながら、本書72頁に「イスラエルのパキスタン侵攻」という表現が見られるが、イスラエルが侵攻したのはパレスチナ自治区である。改版する際には修正していただきたい。

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「戊辰戦争を歩く」 星亮一+戊辰戦争研究会著 光人社

2010年07月10日 | 書評
そもそも「戊辰戦争研究会」という組織が存在していることが小さな驚きであった。どちらかというと、研究会のメンバーは、敗者である幕府や奥羽越列藩同盟に同情的な方が多く、本書における叙述も敗者の側に立ったものとなっている。それだけ敗者には言い分だとか、恨みつらみだとか、悔恨・反省など、現在まで脈々と受け継がれているということだろう。
本書では、日本各地に残る戊辰戦争の戦蹟を紹介している。各コーナーにより筆者が異なるので、「深さ」にばらつきがあるのがやや気になるが、これまでこういった書籍がなかったので、この本の意義は大きいと思う。
戊辰戦争は、日本国内、特に東北地方に大きな傷跡を残した。日本を二分して、多くの血が流れたこの内戦に対する評価は難しい。焦土から新国家が生まれるという思想を有していた西郷隆盛は、「戊辰戦争がわずか1年ですんだのは残念だった」と考えていたらしい(司馬遼太郎『翔ぶが如く』(ニ)「好転」)。一方で星亮一氏がいうように「無用の戦争だった」と評価する声もある。私自身、まだ答えを見出せていない。今しばらく戊辰戦跡を歩きながら、考えてみたい。

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東京 Ⅱ

2010年07月07日 | 東京都
(北町奉行所跡)


北町奉行所跡

 東京駅八重洲北口から徒歩数分、丸ノ内トラストタワーというビルの在る辺りに、かつて北町奉行所があった。平成十二年(2000)以降、発掘調査が行われ、遺構が発見された。現在、屋敷北東隅の道路と下水溝の一部が復原されている。因みに南町奉行所は有楽町駅付近である。
 北町、南町奉行所は、江戸の司法、行政を管轄すると同時に、寺社奉行、勘定奉行とともに幕政にも参画する重職であった。テレビドラマで有名な遠山景元は天保十一年(1840)から天保十四年(1843)、この職にあった。ほかにも歴代奉行には、ペリー来航時に応接掛を務めた井戸覚弘、陸奥白河藩主でありのちに老中も務めた阿部正外、川路聖謨の実弟でハリスとの条約交渉に尽した井上清直、箱館奉行としてアイヌ盗骨事件処理にあたった小出秀実などといった幕末を代表する能吏が並ぶ。

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