著者一坂太郎氏が偶然東大赤門前の古書店で見つけた古い新聞のスクラップ帳。そこには西郷隆盛を知る薩摩士族やその妻など同時代人の証言が詰まっていた。
冒頭紹介されているのは、生麦事件や薩英戦争の体験談である。
先導組で鉄砲組に所属していた久木村治休(のちに陸軍に入って日清戦争では第十三連隊中隊長、日露戦争では第六中隊長)は当時十九歳。「異国人を斬ってみたい」と切望する若者であった。馬上の英人(リチャードソン)が片腹の傷口を抑えて近づいてくると、治休は抜き打ちに切り払った。治休によれば、「真っ赤な傷口から血の塊がコロコロと、草の上に落ちだ」というのである。「奴の心臓らしかった」と証言するが、心臓が転げ出るようなことがあるのだろうか。大正元年(1911)「鹿児島新聞」に掲載された記事である。治休は悪びれる様子もなく、自慢げに当時のことを語っているが、この事件が薩摩とイギリスの間の戦争を引き起こしたのである。
森元休五郎は薩英戦争で西瓜売りに変装してイギリス軍艦に乗り込んだ決死隊の一人である。休五郎の回想談によれば、十人一組が編成され、彼は海江田(信義)組に編入された。同じ組に黒田了介(のちの黒田清隆)、西郷信吾、大山弥助(巌)、木藤市助、赤塚源六らがいたという。彼らは首尾よく旗艦ユーリアラス号の甲板に上がったものの、陸からの合図の号砲が鳴らなかったため、何もせぬまま引き上げた。勢い込んで乗り込んだものの、決死隊の誰一人刀を抜くことなく終わってしまったのは、やはり怖じ気づいてしまったのであろう。
西郷隆盛と島妻愛加那との間に生まれた西郷菊次郎は、当時京都市長を務めていた。たくさんの人間が父(隆盛)に書を所望したが、その多くは西郷家に居候していた川口雪蓬の代筆だったと告白している。このエピソードは、西郷の身近に生活していなければ証言できないものである。
戊辰戦争や西南戦争からおよそ半世紀を経た大正年間に、西郷を知る人たちからヒアリングした記事が中心となっている。維新時には若者だった人たちが、すっかり老人となっているわけで、記憶というものは間違いがあったり、美化されたりするものなので、こういった証言の史料的な価値は低いのはやむを得ないが、それはさておき、体験したものでなければ残せない情報が山ほど記述されており、とても興味深いものであった。