史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

ウィーン Ⅲ

2024年09月26日 | 海外

(リンク)

リンクRingはかつて存在していた城壁を撤去し環状道路として整備された道路である。リンク沿いには、王宮やマリア・テレジア広場、国会議事堂、ラートハウスパークなどが連なる。

リンクについて「米欧回覧実記」では次のとおり解説している。

――― 此都ノ旧部ヲ囲ミタル、五稜郭ノ墩塁ハ、内外部ヲ隔絶シ、市民ノ生意ニ不便ナルヲ以テ、仏国巴黎府ノ「プートワルイタリアン」ノ例ニナラヒ、一千八百五十七年、皇帝ノ命ヲ下シ、其墩塁ヲ取崩シテ平地トナシ、併セテ乾濠ヲ埋メ、闊(ひろさ)五十七「メートル」ノ大路ヲ修メ、名ケテ「リングストラセ」ノ通街ト云、今ニ猶修繕中ナリ、此大路ニハ、人道、馬車、重車道、及ヒ中央ノ軽車道、合セテ五条ノ道ニテナル、各道ノ界線ニハ、緑樹ヲウエ、猶伯林府(ベルリン)ノ「ウンテルデンリンデン」街ニ同シ、又街車ノ鉄規ヲシク、米利堅ノ都府ニ同シ、此ヲ府中ニ於テ第一ノ街衢(だいく)トス、両側ノ家屋モ、ミナ壮麗ニテ、気象甚タ優美ナリ、然レトモ甃石ノ設ケハ、未タ整備セズ、乾燥ノ時ハ塵土飛散シ、雨後ニハ泥淖(でいどう)ヲ掻キタテ、水道ノ設ケ足ラズシテ、水ヲ灑(ちら)シ塵ヲ鎮メル方法モ未タ完全セス、夜ハヲ照シテ、光華爛然タリ、電信柱ハ鉄ヲ以テ美麗ニ製セリ、

 

国会議事堂

19世紀に竣工したもの

 

ブルク劇場

ブルク劇場Burgtheaterは、やはり19世紀に建築された歴史的建造物

 

(軍事歴史博物館)

シェーンブルン宮殿から軍事歴史博物館へも地下鉄とトラムを乗り継いで移動した。

軍事歴史博物館(Heeresgeschichtliches Museum)は、当初兵器収蔵庫として建てられたもので、岩倉使節団がウィーンを訪ねた時もまだ兵器収蔵庫(武器庫=Arsenal)として使用されていた。使節団は熱心に武器庫を見学して刻銘な記録を残している。

明治六年(1873)六月七日、岩倉使節団は朝からウィーンの武器庫に赴いている。「米欧回覧実記」の記載に従えば、この武器庫はウィーンの南にあり、1849年より建設が着手され、およそ10年の歳月をかけて落成した。

――― 域中ニ建起セル、武器庫ノ屋造、尤モ高大ナリ、中央ニ円塔ヲ起シ、彎弧ノ法ヲ以テ輳合セル、高廠ナル巨屋ヲ縦横ニ造営シ、二層ノ高館ナリ、内景ハ摺金ニテ飾リ、光彩爛然ナリ、所所ニ画ヲ張ル、ミナ墺国ノ軍隊、隣国トノ戦争ノ図ナリ、造営ノ壮美ナルコト目ヲ驚ス

中ニ蔵セル武器ハ、古甲古兵ヲ玻瓈(ガラス)ノ箱ニ盛リ陳列ス、一千五百七十七年ヨリ、一千六百二十四年ノ間、普魯(プロシャ)王ノ著用セシ甲冑、及ヒ同時代ヨリ、一千七百四十年マテニ分捕シタル、独逸各王侯ノ甲冑、戎衣数領アリ、中ニモ一千六百七十八年ヨリ、同七百二年マテ、拝焉(バイロン)国公ノ著用セシ甲冑ノ如キハ、甚タ我邦ノ甲冑ノ製作ニ似タリ、(以下、略)

 

軍事歴史博物館

 

フランツ・ヨーゼフ一世胸像

 

 

 

 

 

 

熱気球

 

気球は18世紀末にフランスで発明され、1783年には有人飛行に成功している。1794年のフランス革命時に敵情視察と着弾地点観測のためにガス気球を使用したという記録が残る。1870年の普仏戦争でも拠点間の連絡目的で気球が使用されており、戦争を視察した日本人もこれを目にしたかもしれない。明治十年(1877)の西南戦争において包囲された熊本城との連絡用に気球の活用が発案されたが、実用化の前に開城されてしまったため幻に終わってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

軍事歴史博物館

 

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ウィーン Ⅱ

2024年09月26日 | 海外

(ウィーン世界博物館)

ウィーン世界博物館Weltmuseum Wienにおける日本関係の展示品は、明治六年(1873)のウィーン万博の際、日本が出展した品々である。今回のウィーン訪問では是非見たかったものの一つである。

「墺國維也納府 スタイン殿」という書簡が目を引いた。このスタインとは法学者ローレンツ・シュタインのことだろうか。明治政府幹部とスタインの交流はこの頃から始まっていたのか。興味が尽きない。

 

ウィーン世界博物館

Weltmuseum Wien

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

墺國維也納府 スタイン殿

 

ローレンツ・フォン・シュタイン(1815~1890)はドイツ出身の法学者であり思想家。キールやベルリンで法哲学や歴史法学を学んだ後、パリに留学した。その後はウィーン大学で国法学者・行政学者・財政学者として名声を高めた。明治十五年(1882)、伊藤博文はウィーンのシュタインのもとを訪ね、2か月にわたって講義を受けた。その際、伊藤博文にドイツ式の立憲体制を勧めたことで知られる。シュタインのもとを訪ねたのは、伊藤博文だけでなく、山県有朋、谷干城、黒田清隆、西園寺公望、乃木希典、陸奥宗光ら錚々たる顔ぶれが含まれており、「シュタイン詣で」とまでいわれた。またキールに保管されている「シュタイン関係文書」の中には、日本人から送られてきた多数の書簡が含まれている。差出人の中には伊藤や黒田、陸奥、谷のほかに福沢諭吉、森有礼、松方正義の名がある。シュタイン自身は日本を訪れたことはないが、当時のお雇い外国人並みの信頼を集めていたことが伺われる。瀧井一博氏の研究によれば、「シュタイン関係文書」の中でもっとも古いものが明治十五年(1882)の福沢諭吉からの書簡というが、日本とシュタインとの交流はそれ以前からあったという。

明治六年(1873)、ウィーン万博の際、当時外務省通商政策局長を務めていたガーゲルン男爵(Maz von Gargern)の屋敷で開かれた園遊会に、「日本からの使者」や日本公使館員とともにシュタインも招かれており、そこで接触があったと考えらえる。瀧井先生は「(ウィーン万博で)醸し出されたウィーンの日本熱に、シュタイン自身も巻き込まれていたということが一つ考えられよう。」と述べておられるが、シュタインがこの頃から日本への関心を高めていったことは想像に難くない。

私がウィーン世界博物館で目にしたシュタイン宛の文書(切手が貼られていることから郵便物である可能性が高い)が、何時のものか、何が書かれているのか、残念ながら詳細は分からないが、非常に興味深いものがある。

 

 

 

(ホーフブルク王宮)

 

ホーフブルク王宮

 

明治六年(1873)6月8日の午後、岩倉使節団一行はホーフブルク王宮(Hofburg Wien)を訪い、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世および皇后エリザーベトに謁見している。ホーフブルク王宮は、「米欧回覧実記」では「ウルテボルク宮」と紹介されている。

――― 一時ニ宮内省ヨリ、御車三輛ヲ粧飾シ、馭者盛粧シ、護衛ノ騎ヲ備ヘ、宮内ノ貴官来リ迎ヘテ、帝宮ニ於テ、「フランシス・ショーセフ」皇帝、及ヒ皇后ニ謁見ス

 

(国立図書館プルンクザール)

国立図書館ブルンクザール(Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek)は、18世紀後半に建設されたもの。かつては王宮図書館であった。プルンク(Prunk)とは豪華という意味である。その名に相応しく大理石の柱と優美な天井画に囲まれた空間は紛れもなく豪華である。

 

 

国立図書館プルンクザール

 

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ウィーン Ⅰ

2024年09月26日 | 海外

ウィーンはいうまでもなく「音楽の都」である。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ブルックナー、マーラー、ヨハン・シュトラウスといった音楽の歴史を彩る錚々たる音楽家がこの街を拠点に名作を生み出した。岩倉使節団がウィーンを訪れた明治六年(1873)は、ブラームスやブルックナーが活躍していた時期である。

ところが、岩倉使節団の公式記録である「米欧回覧実記」(久米邦武著)では一切「音楽の都」という表現は使われず、それどころがベートーヴェンもモーツァルトも登場しない。彼らの興味は芸術や音楽よりも産業や兵器であって、ウィーン滞在期間中にコンサートに行った形跡はない。

ウィーンを漢字で書くと「維納」である。

――― 維納ハ英仏ニテ「ヴイヤナ」と云、多悩(ドナウ)河ノ西岸ニアリ、北緯四十八度十二分、東経十六度二十三分に位シ、人口八十三万四千二百八十四人アリ、其繁盛ナルコト、伯林府(ベルリン)に匹敵シ、其壮麗ナルコト、巴黎(パリ)ニ亜ス、多悩河ハ、此地に至リテ支派数条ヲ分ツテ流レ、河中に洲島ヲナス、当府ハ其西派ノ一流を含ミ、市屋ハ流ヲ挟ミ、洲上ニマテ溢レ、雲甍(ウンポウ)ヲ連ネ、府中ヲ流ルル、西多悩ノ支河ハ、其水勢甚タ浩汗(コウカン)ナラサルナリ、全府スベテ平地ニテ、市中ニ高低少ナシ、地気暖ニシテ、草木暢茂(チョウモ)ス

 

(プラーター公園)

プラーター(Prater)公園はウィーン万博会場となった場所である。 (Prater 99, 1020 Wien)久米邦武の「米欧回覧実記」でもウィーン万博について子細に報告されている。

岩倉使節団がウィーンに到着したのは明治六年(1873)六月三日のことであった。

――― 英、仏、両国の如キハ、ミナ文明ノ旺スル所ニテ、工商兼秀レトモ、白耳義(ベルギー)、瑞士(スイス)ノ出品ヲミレハ民ノ自主ヲ遂ケ、各良宝ヲ蘊蓄スルコト、大国モ感動セラル、普(プロシャ)ハ大ニ薩(ザクセン)ハ小ナルモ、工芸ニ於テハ相譲ラス、而シテ露国ノ大ナルモ、此等ノ国トハ、猶其列ヲ同シクスル能ハス、墺国(オーストリア)ノ列品ヲミレハ、勉強シテ文明国ニ列スルヲ得ルニスギス

と述べている。「国民自主ノ権利ニ於イテハ、大モ畏ルルニ足ラス、小モ侮ルベカラス」と主張する「米欧回覧実記」には一貫して「小国」への共感がある。根底には我が国も小国であっても、国民に「自主の生理」「自主の精神」があれば大国にも対抗できるという信念が感じられる。

博覧会場となったプラーター公園についての叙述。

――― 博覧会場ハ、維納ノ東北ナル、「プラーテル」偕楽苑ニ於テ、大円堂、長廊榭(ギャラリー)ヲ建起ス、此「プラーテル」苑ノ地タル、多悩(ドナウ)河ノ中州ニ位シ、全洲ハ五方英里(マイル)余、平坦ノ場所ナリ、此ニ細草ヲ播蒔(はじ)シ、樹木ヲ植エ、中ニハ茶亭ヲ中枢トシ、三条ノ斜線ヲ日脚状ニ劃シ、大路ヲ開ク、両側ニ「ホースチェストナット」〈楢ニ似テ緑陰愛スヘキ樹ナリ〉樹ヲウエ、毎条坦平、遠キニ連リ髪ノ如シ、其壮美ナルコト、仏国巴黎ノ「バーデブロン」(ブローニュの森)ニ比スヘキ勝地ナリ、今度其正中ニ於テ、会場ノ地域ヲ相シ、堂榭(どうしゃ)ヲ建築セリ、

プラーター公園

 

「堂榭」とは今でいうドームのことだろう。

 

残念ながら150年前のウィーン万博の痕跡を見ることはできなかったが、公園中央を貫く真っすぐな大通りは、万博の会場の名残かもしれない。この風景とそっくりな絵が「米欧回覧実記」に掲載されている。

 

プラーター公園

 

以下、日本の展示品に関する「米欧回覧実記」の記述である。

――― 我日本国ノ出品ハ、此会ニテ殊ニ衆人ヨリ声誉ヲ得タリ、是其一ハ其欧洲ト趣向ヲ異ニシテ、物品ミナ彼邦人ノ眼ニ珍異ナルニヨル、其二ハ近傍ノ諸国ニ、ミナ出色ノ品少キニヨル、其三ハ近年日本ノ評判欧洲ニ高キニヨル、其内ニテ工産物ハ、陶器ノ誉レ高シ、其質ノ堅牢ニシテ、制作ノ巨大ナルニヨルノミ、火度ノ吟味、顔料ノ取合、画法ノ研究等、ミナ門戸ヲモ窺(うかが)フニ足ラス、絹帛ノ類モ、其糸質ノ美ナルノミ、織綜(しょくそう)ノ法、多クハ不均ニシテ、染法は僅ニ植物ノ仮色ニテナルヲ以テ、光沢ノ潤ヒナシ、漆器ハ、日本ノ特技ナレハ、評判高シ、銅器ノ工モ精美ヲ欠ケトモ、七宝塗、鑲嵌(ぞうがん)細工ハ、大ニ賞美セラルル工技ナリ、画様ハ西洋ト別種ニテ、花鳥ノ如キハ、風致多シトシテ賞美スレトモ、人物ノ画ニ至リテハ、或ハ俳優ノ粉飾ヲ模シ、陋醜(ろうしゅう)ノ面目、人ヲシテ背ニ汗セシム、寄木細工モ評判ナレトモ、接合ノ際ニ術ヲ尽サス、漆ノ功ヲ恃ムノミ、欧洲ニテ此技工ヲナセルヲ一見シテ、更ニ発明スル所アラハ、一ノ国産トアンルヘシ、麦藁細工モ、亦評判アレトモ、元来価アルモノトハ看認スシテ雑作シタル物ユヘ、早ク損スルヲ如何セン、染革ノ製作ハ、反テ劇賞ヲ受ケタリ、是或ハ欧人ノ未タ知ラサル秘蘊(ひうん)ヲ漏セルカ、紙ト麻枲(まし)トハ看官ノ目ヲ驚カセタリ、紙ハ材料、抄法、共ニ別法ナレハナリ、越後枲皮ノ白質ニシテ光輝ナル、西洋人之ヲミテ賽絹(まがいきぬ)ノ織物トナサンコトヲ思付タルモノアリト、楮皮(ちょひ)モ亦大ニ貴重セラレタリ、油絵ノ如キハ曾テ欧洲ノ児童ニモ及ハス、本色ノ画法、反テ価ヲ有セリ、

 

久米邦武は努めて冷静かつ公正に記述しているが、総じて日本の出展は好評だったようである。久米が記しているように、西洋の展示品と比べて「珍異」であり、注目を集めたのであろう。ウィーン万博への我が国の参加は、この後世紀末に向けてヨーロッパで起こったジャポニズムの契機となったといわれる。

 

(ホテル・オーストリア)

地下鉄で一駅行って、ドナウ運河を渡って西側に出る。ホテル・オーストリアを訪ねる。

明治六年(1873)六月三日、ウィーンに入った岩倉使節団はホテル・オーストリア(Hotel Austria)に旅装を解いた。ホテル・オーストリアが現在も存続しているのか、よく分からない。同名のホテルが市内のFleischmarktにある。このホテルが150年の歴史を持つものか調べきれなかったが、看板にSeit 1955とあるので明治六年に所在したホテル・オーストリアとは別物と考えられる。

 

ホテル・オーストリア

 

(シュテファン大聖堂)

シュテファン大聖堂はウィーンのシンボル的存在である。

「米欧回覧実記」において「セント、スチーブル」あるいは「セントテュヴン」と表記さえているのが、シュテファン大聖堂(Domkirche St. Stephan)のことである。「米欧回覧実記」中に挿絵が掲載され、そこには(高さ七十四間)と注記が付されている。一間は約1.82メートルなので、これをもとに計算すると135メートルほどになるが、実際の南塔の高さは137メートルである。当初南塔と同じ高さで建設されるはずだった北塔の方は、経済的な理由から途中までで断念されてしまったとされている。

 

入場料を払うと南塔を登ることができる。螺旋階段は343段。勢いよく駆け上がると目が回るので、ゆっくり上るのがコツである。

下るときは昇ってくる人とすれ違うことになる。

「あとどれくらい?」

「まだまだ」

と会話を交わしながら行き来するのが楽しい。

昇り切るとお土産屋さんのある少し広い空間になっており、四方を眺めることができる。自分の足で登った末の眺望は格別である。それに

しても、ここで著しく体力を消耗した。既に両脚がガクガクとなる。

 

「米欧回覧実記」によれば

――― 皇帝ノ菩提寺ニテ、高塔ノ尖ハ、四百四十五尺(やはり約135メートル)ニ及ヒ、欧洲ノ大寺中ニテ、第三等ニオル高塔ナリ、市街稠密ニテ、微(かすか)ニ高低ノ地アリ、街路不規則ニテ狭隘ナリ、其広街ハ濶(ひろ)サ七八間ニスキズ、家屋ハ五六階ノ層楼ヲ森列シ、街路尽ク堅石ヲ甃シタリ、人歩車行ノ喧闐(けんてん)ナルコト、此部ヲ最トス

とシュテファン大聖堂周辺の繁華な様を描いている。なお、「甃」とは石畳みのことである。

 

 

シュテファン大聖堂

 

 

 

 

 

 

南塔からの眺望

 

南塔を昇ると、展望台の手前に鐘楼跡があり、何体かの石像が置かれている。

 

南塔 見張り台

螺旋階段を昇り切ったところにある売店

 

 

 

壮麗な内陣

 

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フランクフルト

2024年09月22日 | 海外

ロシア、北欧を周遊した岩倉使節団一行は、明治六年(1873)五月三日、フランクフルト(漢字表記は仏蘭克弗)に到着した。五日の朝十時半にはミュンヘンに向けて出立しており、フランクフルト滞在時間はわずか数日であった。

以下、「米欧回覧実記」の記述

――― 仏蘭克弗「オンセ」米因府トハ、普国(プロシャ)ノ仏蘭克弗「オンセ・オデル」ニ分別セル名称ナリ、北緯五十度十分東経八度三十七分ニ位ス、人口九万〇九百三十二人ノ都会ナリ、元ハ独立都府ニテ、共和政治ヲ以テ、聯邦ニ加わハリ、且独逸聯邦ノ政府モ、此府ニ設ケタリシニ、一千八百六十六年ノ戦ヒニ、普国ニ滅サレ、今ハ其州県ニ隷ス、此政府ハ米因(マイン)河ノ下流ニヨリ、日耳曼(ゲルマン)ノ中心ニ位シ、貿易ノ要衝ナレハ、豪富ノ商賈(しょうこ)多ク、殊ニ猶太ノ族多ク、蓄財最モ富ムト云、其市街ハ、久シキ名都ナレハ、古時ノ規制ニヨリテ、街路狭隘ニテ、不規則ナリ、古キ屋造多クシテ、皎美(こうび)ナラサレトモ、中間ニ大路ヲ通シ、四囲ニハ星形状ノ土壁ヲ匝(めぐら)シ、狭長形ナル花園ヲ処処ニ修メ大路ハ塢上(おじょう)ヲユク、米因ノ河岸ニハ、向岸ノ平原広濶ニテ、遠巒(えんらん)ヲ望ミ、流水清ク、中ニ長橋ヲ架ス、風景美ナリ、

短い滞在時間であったが、岩倉使節団は「ハリマ・ガーデン」(Palmengartenのことか?)や禽獣園(動物園)、大聖堂、紙幣工場を見学している。

 

フランクフルト国際空港

 

フランクフルト市街:マイン(Main)川が東西に走る。

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