史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「明治日本はアメリカから何を学んだのか」 小川原正道著 文春新書

2022年08月27日 | 書評

本書の副題は「米国留学生と『坂の上の雲』の時代」とされている。我が国は日清戦争に勝利し、列強への階段を昇り始めた。アメリカもまた、1898年の米西戦争での勝利によって世界政治の舞台に躍り出た。十九世紀の世界では脇役だった両国は、二十世紀初頭、欧州列強とともに世界史の中心的な役割を演じることになった。

筆者によれば「その両国が出会い、密接な関係を構築して世界史を動かしたのが、日露戦争」としている。この戦争では多くの米国留学生が活躍した。いわば、アメリカ留学の集大成ともいえる出来事であった。

もっとも有名で、もっとも日露戦争終結に貢献が大きかったのが、福岡藩出身の金子堅太郎であろう。金子は明治四年(1871)、岩倉使節団に同行し、旧藩主黒田長溥の命で、團琢磨とともに長溥の養嗣子・長知に随行してアメリカに留学した。当初は、アナポリス海軍兵学校への進学を望んでいたが、健康上の理由からハーバード・ロー・スクールへ進学した。

この時期、アメリカへの留学生は挙ってロー・スクールを目指した。本書では「ロー・スクール黄金時代」と称している。金子のほかにも井上良一(東京大学法学部教授)、目賀田種太郎(枢密院顧問官)、小村寿太郎、栗野進一郎(駐仏大使)ら、いずれも米国ロー・スクール出身者である。当時の日本にとって、最大の外交課題は、江戸時代に幕府が欧米列強と結んだ不平等条約の改正であった。そのためには、欧米列強に受け入れられるだけの法制度を整える必要があった。いわば法整備は、国家の最重要課題でもあった。彼らは国家を背負ってロー・スクールで学んだ。

金子と同宿していた小村寿太郎は、医者から読書を止めるようにいわれるほど、勉学に励んだ。彼らはいずれも優秀な成績で現地の大学を卒業しているが、その陰には猛烈な勉強があった。彼らの勉学を支えたのは、自分が国家をつくるという強烈な自負心と使命感であろう。

金子は法律の勉強にとどまらず、積極的に社交界に繰り出し、上流階級の人々と交流した。土日には、現地の詩人、政治家、弁護士、学者などと晩餐を楽しみながら談論した。帰国しても会える日本人同士で交流するのではなく、アメリカでしか会えないアメリカ人と交際し、親密な関係を築くことが両国の「外交」に繋がるとの信念からだったという。この時、ハーバード内外で培った人脈は日露戦争で大いに役立つことになった。

宣戦布告と同時にアメリカに渡った金子は、ハーバード人脈を頼って積極的な広報外交を展開した。

金子の同郷の親友、團琢磨もMIT人脈を通じて日本への支持を呼び掛けた。ロシアに宣戦布告文を届けた駐露公使は栗野進一郎であったし、ポーツマス講話会議で全権を務めた小村寿太郎もハーバードで法学を学んでいる。戦費獲得のため欧米に乗り込んで外債募集したのは、日銀副総裁高橋是清であった。戦争の転機となった日本海海戦で日本海軍を勝利に導いた名参謀秋山真之も、アメリカに留学して海軍戦略家のアルフレッド・T・マハンに師事している。アメリカに留学したエリートたちは総力を結集してロシアとの戦いに臨み、勝利をつかみとったのである。

ところが日露戦争で勝利を収めた日本は、まるで目標を失ったかのように迷走する。新たな時代を担う学生や留学生の思考も変化をきたした。若きエリートたちの視線は、個人的な栄達を示す「出世」へと向けられていった。本書で引用されているように船曳建夫氏は「日露戦争後の若きエリートたちには、国家の発展の闘いよりも、目の前に個人の「出世」というゲームがおかれていたことである。そこでは国家が語られながらも、内実は彼らの周りを取り巻く「世間」における人生ゲームであった」と喝破している。

日露戦争後、多くのアメリカ留学生が関係悪化を食い止めようと腐心する中、もっともアメリカに知己を有し、「外交官よりもアメリカに精通している」と自負していた金子堅太郎その人が、日本人移民排斥運動が激化するとともに嫌米に傾いて行った。「アメリカを知っているからこそ、裏切られたと感じた際の絶望感は、親友に裏切られたそれに似た、深い悲しみを帯びていたに違いない。」と筆者は指摘している。「エリート間の秘密外交でことが決する時代は終わりつつあった」(酒井一臣「金子堅太郎と近代日本―国際主義と国家主義」(二〇二〇))。

本書では、金子堅太郎以外にも、吉原重俊、小村寿太郎、團琢磨、朝河貫一といった魅力的なアメリカ留学生を多数紹介している。彼らがいかに国家を背負って勉学に励み、国家に尽くしたかを知るにも非常に有用な一冊である。

「あとがき」で、中津藩出身の英学者小幡甚三郎について触れられている。当時、慶應義塾を代表する英学者であった小幡は、旧藩主奥平昌遇の従者として渡米したが、彼の英語は現地でまったく通じず、そうしたストレスの積み重ねが彼の心身を蝕んでいき、やがてフィラデルフィアで死去した。表舞台での留学生の華々しい活躍の蔭で、国家や郷里の期待を背負い、慣れない土地で勉学に骨身をすり減らして、あるいは病気にかかり志半ばで倒れた人も少なくない。こうした犠牲者にも思いを馳せたい。

エピローグでは、日米戦争の最前線で指揮を執ることになった連合艦隊司令長官山本五十六を紹介している。彼もまたアメリカに留学した一人である。山本は、アメリカの石油に関心を持ち、油田を視察し、関連資料を読み耽った。アメリカに関する知見を深めた山本が、長期戦は無理と判断した結果、航空機による奇襲攻撃へ結びついたのだという。

彼が駐米日本大使館附武官時代、留学のために渡米してきた海軍兵学校後輩に「英語の本なら日本でも読める。アメリカにいるなら、アメリカでしかできないことをする、そのために旅行し、視察して回ること」とアドバイスした。

私も四半世紀ぶりの海外駐在を目前に控えている。山本の助言を胸に、できるだけ現地を自分の目で見て回りたいと思うのである。

 

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「上杉鷹山 「富国安民」の政治」 小関悠一郎著 岩波新書

2022年08月27日 | 書評

上杉鷹山といえば、名君中の名君。史上もっとも有名な殿様の一人である。

しかし、鷹山の事績は何かと改めて問われると、正確に答えられる人は皆無に等しいだろう。恥ずかしながら私もその一人であった。本書を読んで初めて鷹山の名君たる所以が理解できた。

鷹山が名君となったのには、彼を支えて実際に米沢藩の藩政を主導した、竹俣当綱(たけのまたまさつな)、莅戸善政(のぞきよしまさ)という二人の家老の存在を忘れるわけにいかない。実際に藩政を改革し、米沢藩の富強を実現したのは彼らであり、彼らのもとで奔走した北村孫四郎らの実務家であった。

本書では、鷹山や竹俣が学んだ「産語」という書物から書き起こしている。「産語」の著者は、荻生徂徠の高弟太宰春台(1680~1747)である。春台は経書の解釈学のみならず、政治・経済を論じる経世論の分野でも第一人者であった。彼の主張するところは、経済の問題を脇に置いて、礼儀や道徳を唱えても、天下の人の礼儀や道徳が正されることはない、ということである。つまり、まずは衣食足りて初めて礼節を語ることができるという主張である。それまでの学問というのは、得てして仁義礼智忠信孝悌を説くが、その前に庶民を富ませよというのである。日本思想史家によれば、春台のこの経世論こそ我が国初めての「富国強兵」論だという。

「産語」で展開される「富国強兵」論の主要な議論は「尽地力之説」である。単純にいえば、五穀にとどまらない様々な産物を土地の特性に応じて生産すべきだという言説である。一見農耕に適さない土地であっても、必ず何らかの地力を備えているので、無尽蔵である土地の力を最大限に引き出すことで、領地は潤うという思想である。今日的にいえば、総資本利益率とか使用資本利益率に近い概念かもしれないが、当時は資本といえばほぼ土地しかない時代であり、如何に領地をフル活用するかという考え方に至ったということだろう。

莅戸善政は、この考え方を実務的に発展させ、農民に養蚕・桑栽培を奨励した。その結果、幕末には米沢藩は「天下の富強の国」とまで称されるほどになった。そしてその改革を推進した鷹山は「名君・賢宰」として語り継がれることになった。

鷹山も最初から名君だったわけではなく、若き藩主は、「御政事には御心はまりせられず」という有り様で、行状を見かねた莅戸善政は、「近習との会話は鳥と馬との御評判や無駄話ばかりで「御はまり」が見られない。諸役人の鼓舞も十分ではない。細井平洲の講義を聞いても今日の御政事に引き合わせの御論もない。身なりは江戸風の色男の風体に見える。などなど、かなり口うるさい。生半可な若者であれば、叱責を無視して遊び呆け、うるさい側近を遠ざけてしまってもおかしくない。

莅戸は、鷹山に藩主としての心得を厳しく説き、諸集団、階層の人々からどのように見られるかを常に意識し行動することを要求し、慢心しおごった振る舞いを厳しく戒めた。莅戸は、君主はどうあるべきかを常に問い続け、藩主の誠実な言動と、その言わば「見える化」が必要だと確信していた。鷹山は、その期待に見事に答えたといえよう。

鷹山の言行録である「翹楚偏」は、鷹山の五十六の逸話を収録している。鷹山が責馬をしている際に、小便をしていた者に対し「責馬を見て居りし故に小便をする者を見る暇もなかりしぞ」と述べてその場を穏便に収めたとか、藩内に大規模な倹約令を発布した時、自ら一汁一菜と定め四民の手本となるように率先的行動をとったとか、一つひとつはさほど際立った逸話はない。それでも「翹楚偏」が「御家の為、御国民の為」という鷹山の姿勢を広く周知し、鷹山=名君というイメージを受け付けるのに大きな役割を果たした。莅戸は、人心を統合するためには、単に君主がすぐれた徳をそなえていればいいわけではなく、そのことを積極的に顕示していくことが肝要、と考えたのである。

「翹楚偏」は江戸時代後期、「上杉鷹山公の賢徳」を示す言行録として広く読まれ、各地の学者・藩士たちの間に出回った。現在にも多くの写本が残されている。「翹楚偏」の流布こそが、鷹山=名君という評価を確定し、定着、浸透させた大きな要因となった。ただし、「翹楚偏」を読めば、米沢藩の藩政改革が何故成功したのか、藩政改革がどのように進められたのか、という肝心な情報を理解できるというものではない。

鷹山や竹俣当綱、莅戸善政、そして善政の子である政以らが目指した「富強」は、言葉は似ているが明治政府がスローガンとして標榜した「富国強兵」とは本質的には異なるものである。

鷹山が主導した米沢藩の改革は、「富強」「兵農合一」「復古」「仁政」などが投影されたものである。その本質は、国民(藩領民)の暮らしが潤っているかどうかというところにあり、近代日本が経済力、軍事力で欧米諸国に追いつくことを目的とした「富国強兵」とは対照的なものであった。つまり、江戸時代の富国論は「士民を富ます道」を基本としたものであった。鷹山の改革を知ることは、近代日本が忘れた何ものかを再発見することなのかもしれない。

 

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国富

2022年08月20日 | 宮崎県

(宝光寺)

 

宝光寺

 

 国富町宝光寺に「法難三法師のものといわれる墓がある。三名は玉出宗中、樋口清徹、鶴樹綱といわれている。彼らは、山命を奉じて九州を巡錫中に鹿児島を経てこの宝光寺に逗留した。折から西南戦争が起こっており、薩軍は三人を官軍の間者として、計略を持って佐土原で彼らを捕らえ、三人を処刑した。三法師は従容と処刑されたと伝えられる。

 

法難三法師の墓

 

(本庄剣柄稲荷神社)

 本庄剣柄稲荷神社(ほんじょうけんのつかいなりじんじゃ)は、通称「剣の塚」と呼ばれる古墳の上に鎮座する神社である。

 

本庄剣柄稲荷神社

 

宮永家墓所

 

宮永真幸大人墓

 

宮永家墓所

 

宮永眞琴大人墓

 

 ここで宮永真琴の墓を探したが、なかなか見つからない。半ば諦めかけたとき、神殿の前で枯れ葉を掃いていた男性がいたので、「宮永真琴の墓をご存知ないでしょうか」と尋ねると、親切にも宮永家の墓所をご案内いただいた。この男性は、剣柄稲荷神社の関係者だったのである。

 しかし、最初にご案内いただいた墓所に宮永真琴の墓はなく(父宮永真幸の墓はそこにあった)、窮した男性は奥さまをご自宅まで呼びに行った。朝六時という早朝のことで、こちらは大変恐縮したが、実に親切な方であった。

 男性によれば奥さまはこの神社の八十何代目の神官だそうである。ご夫婦にご案内いただいた宮永家の墓所は、神社の向かい側の民家の敷地内にあった。

 

 宮永真琴は、天保八年(1837)の生まれ。少年の頃、郷里本庄の漢方医にして儒者谷山道一に詩文を学んだ。国学・漢学に通じ、詩文を能くし、和歌・俳句を嗜み、都都逸までつくった。文久三年(1863)、妹の夫である志士甲斐大蔵とともに投獄された。維新後、高岡の郷校の教授となった。剣塚神社宮司を継ぎ、八幡神社、赤池神社祀官を兼ねた。明治四年(1871)、本庄古墳群を調査し、平面図に土地の伝説を付して、日田県の本庄支庁に提出し、明治七年(1874)には側面図を作成した。のち宮崎県皇典講究分所東諸県組講究係となり、晩年は漢方医を営みながら、詩文に親しんだ。明治四十一年(1908)、年七十二で没。

 

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宮崎 清武

2022年08月20日 | 宮崎県

(安井息軒記念館)

 清武町は平成二十二年(2010)に宮崎市に編入され、宮崎市の一部となった。宮崎市中心部から九キロメートルほど南部にあり、大儒安井息軒の出身地として知られる。

 

安井息軒記念館

 

安井息軒像

 

 私が安井息軒記念館を訪ねたのは、例によって開館時間の前、八時四十分のことであった。幸いにして館長やスタッフの方々がおられて

「まだ九時になっていませんけどどうぞ」

と、ご親切に中に入れていただけた。入館料は無料。安井息軒の偉業や生涯を紹介するために設けられた施設である。敷地内には、佐代夫人供養塔や息軒廟などがある。

 

佐代夫人供養塔

 

安井息軒廟

 

郷校明教堂跡地

 

 記念館の隣地は、息軒の父滄洲や弟子たちの尽力により創建された郷校明教堂の跡地である。安井息軒自身も清武郷校明教堂で教鞭をとった。

 

(安井息軒旧宅跡)

 

安井息軒旧宅

 

 記念館の向かい側に息軒の旧宅跡が復元されている。

 安井息軒は、寛政十一年(1799)、飫肥藩校振徳堂総裁安井滄洲の二男に生まれた。十五、六歳のとき父滄洲から、一家の説ではだめであるから、和漢諸学者に学ぶべきことを教えられ、これが生涯の指針となった。背低く、顔にあばた多く、右眼がつぶれていたので、「猿が本を読んでいる」と揶揄されたが、屈せず勉学に励んだ。文政七年(1824)、江戸に出て昌平黌に入り、親友塩谷宕陰と出会った。文政九年(1826)、かねて私淑していた松崎慊堂の門に入り、藩主伊東祐相の侍読となった。これより祐相は息軒の進言を容れて善政をしいた。天保二年(1831)、日向国飫肥に藩校振徳堂が設立され、父滄洲は総裁、息軒は助教に任命された。息軒は藩政に寄与することも少なくなく、藩主に進言して間引きの弊風を改めさせた。天保九年(1838)、意を決して江戸に移住し、私塾三計塾を開いて多くの人材を育成した。異例の抜擢により、塩谷宕陰らとともに昌平黌教授となった、陸奥国白川郡塙の代官に任命されたが辞した。学風は古学の系統で、精密な考証に秀でたが、現実政治にも関心を持ち、海防や攘夷などにも憂国の論を立てた。明治九年(1876)、年七十八で没。墓は、東京文京区養源寺にある。

 

安井息軒旧宅上座

 

安井息軒像

 

湯地翁碑

 

 湯地翁碑は、元清武藩士で篤農家湯地平三を顕彰した石碑である。明治三十五年(1902)、建碑。

「湯地平三は、天保元年(1830)の生まれ。明治十年(1877)、西南戦争では、西郷軍に協力したため、戦後懲役刑に服した。帰郷後は、加納村、木原村、今泉村、船引村の戸長を務めた後、明治二十三年(1890)、大日本農会設立委員となり、県内の養蚕業勧誘、造林推進などに貢献した。明治三十二年(1899)、没。

 

安井息軒先生誕生地

 

 安井息軒誕生地碑は、昭和三年(1928)の建立。題字は徳川家達の書。台座の撰文は、息軒の外孫で、安井家を継いだ安井小太郎、揮毫は飫肥藩主伊東祐相の孫、伊東祐弘による。

 

(中野神社)

 中野神社は、明治十年(1877)の西南戦争により焼失したが、現在の社殿は昭和十五年(1940)起工、その二年後復元されたものである。

 

中野神社

 

(歴代安井家墓地)

 儒者安井息軒を輩出した安井家は、南北朝時代に上野国安井村(現・群馬県)から日向国に移り住み、伊東氏に仕えた。

 江戸時代には、十九代朝堯が清武奉行を務めるなど藩内で重用され、二十二代朝宣からは軍法指南役として清武衆となった。

 安井家墓地には、奉行職を務めた朝堯のほか、清武に居住した朝宣から息軒の曽孫の子、恭一に至るまでの墓が残されている。

 

歴代安井家墓地

 

息軒の兄 安井朝淳の墓

 

伊東家僑墓

 

 安井家墓地に隣接しているのは伊藤家僑墓である。清武郷住民が、盆、彼岸、正月の参拝に飫肥まで出かけずに済むように、分骨祭祀して建立されたもので、初代伊東祐兵(すけたけ)から十二代祐丕(すけひろ)(文化十一年年没)に至るまでの板碑形式の僑墓(きょうぼ)である。

 僑墓というのは、埋葬地が離れていたり、遺体の所在が不明のときに礼拝のために作られた墳墓のことである。

 

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宮崎 高岡

2022年08月20日 | 宮崎県

(高岡護国神社)

 

高岡護国神社

 

戊辰殉難戦亡招魂塚

 

丁丑戦死招魂塚

 

 糸原からさらに七キロメートルほど西に行くと、高岡の街に行き着く。ここも宮崎市の一部となっている。高岡小学校の裏山にある高岡護国神社には、戊辰戦争や西南戦争の殉難者招魂塚がある。

 

西南戦役 記念碑

 

(旧高福寺墓地)

 旧高福寺墓地は、その名前のとおり、廃寺となって墓地だけが残された墓地である。

 

池上市助墓

 

 池上家墓地に池上市助の墓がある。市助の墓の右隣は祖父市左衛門の妻の墓、その隣には市左衛門の墓もある。

 池上市助は、天保十三年(1842)、日向国諸県郡高岡に生まれた。幼時より祖父市左衛門に長刀術を習い、大いに熟達した。元治元年(1864)、禁門の変では鹿児島藩兵の一員として中立売御門に戦い、戦後首実検をとりしきった。首実検の作法は、祖父より伝授されたもので、その後戊辰戦争でも鳥羽伏見、会津などで同藩本田早苗とともに率先従事し、面目を施した。これより先、元治元年(1864)、長州征伐に際して、鹿児島藩は英式の軍隊を編成したが、市助は高岡城外一番隊の隊士として従軍した。精悍な市助は、戊辰役中も多くの武勇伝を残し、後年は訪れる青年相手に昔語りをするのを好んだという。西南役では、西郷軍に従い重傷を負った。明治三十五年(1902)没。

 

(穆園広場)

 穆佐(むかさ)広場は穆佐城跡にある。この城は、標高約六十メートルの丘陵の上に築かれた全長六百メートルの山城である。穆佐城は古くは穆佐院政所(まんどころ)が置かれ、南北朝時代には南朝方と北朝方の戦いの場となり、その後は島津家八代当主島津久豊が入り、文安二年(1445)に伊東祐堯の領地となったが、天正五年(1577)、伊東氏の没落後は、再び島津氏の領地となった。

 

高木兼寛

 

 穆佐は東京慈恵医科大学の学祖高木兼寛の生誕地である。高木兼寛の遺徳顕彰のため、穆佐城跡の一画を東京慈恵医科大学が確保していたが、昭和六十一年(1986)、整備して穆園広場と名付け、記念碑等を設置した。

 

高木兼寛生誕地

 

 高木兼寛は、嘉永二年(1849)九月、穆佐郷士高木喜助の長男に生まれた。雅号は穆園。明治二年(1869)、鹿児島医学校(藩立開成学校)に入学し、英医ウィリアム・ウィリス鹿児島医学校長につき、医学および英語を学んだ。明治五年(1872)、海軍省に出仕。同年富子夫人と結婚した。我が国初の神前結婚といわれる。

 

学祖高木兼寛先生生誕之地

 

穆園広場

 

高木兼寛先生之像

 

 明治八年(1875)、英国留学を命じられ、ロンドンのセント・トーマス病院医学校に留学、明治十三年(1880)に帰国すると、海軍中医監、東京海軍病院長を命じられた。兼寛が有志共立東京病院(東京慈恵会医院の前身)を設立したのは、明治十五年(1882)のことである。

 この頃、海軍では軍艦乗組員に脚気患者が俗続出しており、兼寛はこの撲滅に取り組んだ。当時、脚気は細菌による伝染病と考えられていたが、兼寛は食事の栄養欠陥が原因と考え、「ヘ兵食改善」により脚気の予防に取り組んだ。軍艦「筑波」の航海実験の結果、食事を改善した「筑波」から「病者一人もなし、安心あれ」という電報が届き、兼寛の予防法が正しいことが証明された。その後、ビタミンが発見され、脚気はビタミンB1の欠乏から起こることが世界に認められることになった。兼寛は「ビタミンの父」と称されることになる。

 明治十八年(1885)、海軍軍医総監。明治二十一年(1888)、我が国初の医学博士の学位を授与され、明治二十五年(1892)には貴族院議員に勅選された。明治三十八年(1905)には華族に列せられ、男爵。大正九年(1920)、七十二歳で没。

 

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宮崎 糸原

2022年08月20日 | 宮崎県

(谷村計介生誕之地)

 宮崎市糸原は、宮崎市の西、大淀川を渡ったところにある集落である。倉岡神社の鳥居のある交差点の北側に谷村計介誕生地碑がある。

 

谷村計介生誕之地

 

(下馬場ちびっこ公園)

 先ほどの谷村計介誕生地碑から二百メートルほど北に行くと、下馬場ちびっこ公園がある。この場所は谷村計介旧宅跡であり、ここに谷村計介の墓や誕生地碑がある。谷村計介は、嘉永六年(1853)二月、倉岡村の郷士、坂元利右衛門とウメの間の三人兄妹の末っ子として生まれ、幼名を諸次郎といった。のち谷村家の養子となった。

 

下馬場ちびっこ公園

 

贈従五位陸軍伍長谷村計介墓

 

贈従五位陸軍伍長谷村計介誕生之地

 

熊本城が包囲されたとき、援軍への連絡役を命ぜられ、見事その重責を果たしたのが陸軍伍長谷村計介である。

宮崎市の糸原は、宮崎市と高岡町との境に位置する。この閑散とした村にとって谷村計介は郷土の英雄なのであろう。過分なほど厚く葬られている。

 

(倉岡神社)

 谷村計介誕生之地碑のある交差点を南下すると倉岡神社がある。倉岡神社の横の道をそのまま直進すると、「倉岡城(池尻城)跡入口」と記された木柱があり、それを右手に見ながらさらに進むと、突き当りに谷村計介胸像がある。傍らの説明を読むと、この場所は谷村計介が少年時代、よくここで遊び、倉岡城跡(池尻城)に駆け上って、川に飛び込んでは、山の眺めを愛しつつ、心身を鍛えた場所という。

 

倉岡神社

 

 谷村計介は、二十歳のとき熊本鎮台に入隊し、明治七年(1874)の佐賀の乱、台湾出兵に参加し、明治九年(1876)の神風連の乱でも活躍した。

 西南戦争では、薩軍に包囲された熊本鎮台(熊本城)の官軍を救出するため、農夫姿に身をやつし、城外に脱出し、苦心の末に高瀬に置かれた征討旅団本営にたどり着き、救援依頼の密使役を見事に成し遂げた。

 しかし、その直後、田原坂の戦いで二十五歳の若さで戦死。冷静沈着に行動する勇気と胆力は軍人の鑑として賞揚されている。

 

倉岡城(池尻城)跡入口

 

 倉岡城は、応永七年(1400)、島津久豊によって築城された。その後、約二百年にわたって伊東氏と島津氏の間でこの城を巡って攻防が続いたが、慶長六年(1601)、島津氏の手に落ちた。その後、薩摩藩の地頭が城を預かっていたが、元和元年(1615)、一国一城令が出るに及んで廃城となった。それでも倉岡郷地頭は明治維新まで続き、その期間は二十四代二百六十年に及んだ。

 

谷村計介之像

 

 谷村計介胸像を目指して歩いていると、人の気配に驚いたキジが目の前で飛び立った。キジは、私の進もうとする方向に逃げるものだから、ずっとキジを追いかけて歩くことになった。

 

(慰霊塔)

 糸原の老人ホーム凌雲堂の駐車場の西側に慰霊塔や慰霊碑が建てられている。その中に西南戦争の招魂塚もある。

 

慰霊塔

 

丁丑之乱戦死塚

 

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宮崎 Ⅱ

2022年08月20日 | 宮崎県

(O‐VISION)

 

西郷隆盛翁駐在之跡

敬天愛人

 

かつて宮崎カトリック教会があった場所であるが、今は立派なマンションが建てられており、その前に敬天愛人碑とともに西郷南洲翁駐在之處碑も置かれている。二十五年前に宮崎市を訪れて以来の懸案であったが、ようやく探し当てることができた。

西郷隆盛がこの地に滞在したのは、約二カ月に渡った。当時この一帯は、広い草原で竹藪や農家が点在していた。西郷は、戦に直接関わることはなく、普段は隣家の亀松少年を可愛がり、愛犬を連れて一緒に狩りをし、捕ったウサギを自ら調理し、「ウサギ飯」を炊いて食べるのが楽しみであったと語り継がれている。

 

この日の宿泊は宮崎市内の橘通西三丁目(通称ニシタチ)という繁華街であった。これまで日田、竹田、延岡と、比較的静かな街で宿泊を重ねてきたが、さすがにニシタチは明け方まで若者の嬌声が絶えない街であった。

これまで近所の食事処(具体的には、吉野家、すき屋、松屋など)で夕食を済ませてきたが、どういうわけだかこれだけ繁華な街でありながら、ニシタチから宮崎駅周辺には私の御用達の食事処が見つからず、仕方なく駅ビル内のうどん屋で夕食を済ませることになった。毎度のことながら、史跡旅行では一切土地の名物は口にせず、とにかく食事を早く終わらせて早く寝て翌日に備えることを第一に考えた(毎日の就寝時間は決まって二十二時であった)。はたから見れば「おかしいんじゃないの」といわれるが、今や東京に居ながらにして全国のうまいものは食べられるし、そもそも食べ物にこだわりのない私にはこのスタイルが一番合っているのである。

 

(帝釈寺)

 宮崎市下北方町戸林の帝釈寺は、西南戦争時、西郷隆盛が陣を置いた寺である。墓地には、薩軍戦死者を葬った丁丑戦死者之墓がある。

 

帝釈寺

 

丁丑戦死之墓

 

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宮崎 佐土原

2022年08月20日 | 宮崎県

(金柏寺)

 

金柏寺

 

 佐土原は、現在宮崎市の一部になっているが、かつては佐土原藩という独立した藩であった。ただし、薩摩藩の支藩的存在であった。

 佐土原城は、十四世紀中頃に築城され、江戸時代には島津以久(島津貴久の弟忠将の子)が封じられ、以来佐土原島津氏の居城となった。二代島津忠興のとき、山上にあった城郭は破却され、麓に移された。

 さらに明治三年(1870)、佐土原城の建造物は全て破却されて、広瀬に移された。その広瀬城も完成の前に廃藩置県を迎えたため、すべて取り壊されている。

 

 佐土原小学校の東側に金柏寺がある。金柏寺は、伊東氏が佐土原を治めた十六世紀に、伊東義祐が自らの菩提寺として建立した寺と伝えられる。西南戦争の戦火により堂宇が炎上し、人々は釈迦堂の大仏を救おうとしたが、何とかその上半身だけを取り出すことができ、今も現存している。

 

(大光寺)

 手元の「歴史読本 幕末維新人物総覧」(昭和五十一年(1976)十二月 臨時増刊号)によれば、能勢直陳の墓は「佐土原町大光寺墓地にある」と記されていたので、それを頼りに大光寺の墓地を歩いたが、発見に至らなかった。その後、小松山墓地で能勢直陳の墓を見つけた。どういう変遷をたどったのか不明であるが、この四十年の間に改葬されたのだろう。

 

大光寺

 

(広瀬中学校)

 広瀬中学校の正門を入って直ぐ左手に島津啓次郎の胸像がある。

 

広瀬中学校

 

島津啓次郎像

 

 島津啓次郎は、安政四年(1857)四月、佐土原十代藩主島津忠寛の三男に生まれた。寺社奉行の町田宗七郎の養子として訓育を受け、さらに鹿児島の重野塾で学び、のち上京して勝海舟の指導を受けた。明治初年に六年余りアメリカへ留学した。アメリカでは当初兵学中心の勉強であったが、国の将来を想い文学への道を志した。帰国すると、上級貴族の子弟教育者として「華族会館勤め」待遇を断り、佐土原に戻った。佐土原では、青年の学習の場「自立社」を結成し、自由平等の学校「晑文學」は明治十年(1877)二月、啓次郎の理想を実現して開校した。しかし、時を同じくして西南戦争が勃発。理を重んじながら、義を大事にする啓次郎は薩摩軍に参戦することを決意した。同年九月二十四日、鹿児島城山岩崎谷で佐土原隊総裁として西郷隆盛と運命をともにした。二十歳であった。その時代でいう、「新帰朝」の一人である。希望をもって人生を歩み始めた直後の戦死であった。佐土原の人に限らず、惜しまれる死といえよう。

 

 広瀬中学校の啓次郎胸像は、昭和三十八年(1963)、時の卒業生に呼び掛けて建立されたものである。

 

(広瀬護国神社)

 

広瀬護国神社

 

戦没招魂塚

 

 佐土原隊として西南戦争に参加したのは千百十四名にのぼり、そのうち戦死者は百六名に達した。佐土原藩では、島津啓次郎をはじめとして多くの若くて、有能な人材を失った。広瀬護国神社は、戊辰戦争の佐土原藩戦没者五十四名から日清日露戦争、太平洋戦争の戦没者を祀る神社である。

 

 神殿の背後の山の中腹に西南戦争に参加した佐土原島津藩の戦没者の慰霊碑が建てられている。正面には「戦没招魂塚」、側面に「島津啓次郎」、そして背面には戦没者の氏名が刻まれている。

 

(広瀬小学校)

 広瀬小学校は、明治二年(1869)、佐土原城を移し、広瀬城とし、一時は佐土原県庁が置かれた跡地である。しかし、明治四年(1971)、廃藩置県により未完成のまま築城は中止された。

 

広瀬小学校

 

広瀬城跡

 

(宮崎県埋蔵文化財センター本館)

 

「西郷札」製造所跡

 

 西郷札は、西南戦争で、軍資金に窮した薩摩軍が印刷して紙幣として使用したものである。西郷軍は、瓢箪島と呼ばれるこの周辺(広瀬村囲)にて西郷札を印刷した。広瀬の商人たちは、西郷札が紙切れ同然と知りながら、西郷札と引き換えに商品を売っていたといわれる。

 

(小松山墓地)

 小松山墓地には、籾木慥斎や小牧秀発(こまきひでのぶ)らの墓があることが分かったため、小林市の史跡探訪を終えた跡、高鍋町を経て、再び佐土原に戻った。

 この墓地には、ほかにも西南戦争戦死者の墓が多数ある。掃苔家にしてみれば、いうならば「釣り堀」みたいな場所である。

 早速、掃苔を開始する。椛木慥斎や小牧秀発に続けて能勢直陳の墓も発見。能勢については、大光寺で発見できなかったが、ここで出会うことができた。

 ここまでは順調であったが、そこから掃苔作業は思いのほか難航した。二段積みになっているブロックの上に乗ってミーアキャットのように周囲を見渡していたところ、そのブロックが崩れ、私はもんどりうってひっくり返った。立ち上がってみると、右肩と右肘、右の手首に傷を負い、手のひらは出血で真っ赤になった。右半身から着地し、そのまま一回転して傍らの石に頭をぶつけて止まった(「火曜サスペンス劇場」であれば、そのまま絶命していたところである)。幸いにして頭部は軽打で済んだが、一つ間違えば大怪我を負うところであった。

 「墓場でこけると早死にする」という俗説がある。これまで何回も墓場で転倒している身としては、今直ぐ死んでもおかしくないが、もはや「早死に」とも言えない年齢に達した。むしろ気になるのは、年々こけ方が派手になる傾向があることである。最初はつまずいてかすり傷を負う程度だったのが、二年前に福島県本宮市ではひっくり返って両手両足を負傷してしまった。もう少し気を付けなくてはいけない。

 まだ未発見の墓(有村武英、伊集院太郎、野村正道、村田正宣ら、いずれも西南戦争戦死者)があって後ろ髪引かれる思いだったが、飛行機の時間が迫っており、これ以上、小松山墓地で時間を費やすわけにいかなかった。次回、宮崎を訪れた際には、必ずや小松山墓地を満足行くまで探索したいものである。

 

小牧秀發之墓

 

 小牧秀発は、島津啓次郎らと西南戦争を戦い、戦後「西南戦争従軍日記」を著わした人。戦争途中、病気負傷により戦線離脱し、官軍に収容された。大正十一年(1922)三月、七十八歳にて没。

 

慥斎籾木先生之墓

 

 籾木武経(慥斎)は、広瀬小学校の初代校長を務めた。島津啓次郎も教えを受けた。明治三十三年(1900)六月、享年七十七にて没。墓は、島津啓次郎の長兄伯爵島津忠亮によって建てられたものである。

 

眞月院卓禅道軒居士(能勢直陳の墓)

 

 能勢直陳は、文政四年(1821)の生まれ。直陳は諱。通称は二郎、二郎左衛門。号は卓軒。父は佐土原藩儒者能勢軍治(明陳)。藩内の十文字郷学所授読であったが、のち江戸に上り、山口貞一郎(菅山・重明)について崎門学派の学問を修めた。藩校学習館教主となり、また藩政の改革にも参画し、ペリー来航に当たっては浦賀方面に出張し、情勢を視察した。文久三年(1863)、薩英戦争のときは、祇園洲砲台を守り、横浜におけるイギリスとの和議にも参画した。翌元治元年(1864)、藩の兵制改革に従事し、その費用として幕府から金七千両を借り入れた。慶應四年(1868)の戊辰戦争にも活躍。戦後は、藩大参事となり、明治三年(1870)には藩庁の佐土原から広瀬への移転を断行した。明治二十七年(1894)、年七十四にて没。

 

能勢陳常遺髪之墓

 

 能勢直陳の横にある能勢陳常なる人物の墓である。直陳の縁者だと思うが、どういう関係があるのか不明。

 

壱岐佐平太之墓

 

 壱岐佐平太も西南戦争の殉難者。明治十年(1877)、七月三十一日、戦死(場所は不明)。享年四十三。

 

三島貢遺髪之墓

 

 三島貢も西南戦争殉難者。鹿児島城山にて戦死。享年三十八。

 

(前牟田墓地)

 

児玉平格翁諱實徳之墓

 

児玉平格の墓である。児玉平格は佐土原藩儒者。江戸で山口菅山、御牧直斎に師事した。藩校学習館の学頭からのちに島津直寛の側用人兼教主となった。学者として、また教育者として藩士から尊敬を集め、佐土原藩文教の振興に大いに貢献した。藩主に勤王思想を勧めたともいわれる。

 

顯考靍田男之進祐業神霊

 

 戊辰殉難者である靍田力之進の墓を発見した。

 靍田力之進は佐土原藩士。北陸道口監軍。明治元年(1868)九月十五日、会津青木村(井出村とも)にて戦死。三十三歳。

 

 前牟田墓地については、時間切れでここまでとなった。この墓地も古い墓石が多い。掃苔するには歩き甲斐のある場所である。ここもいずれ再挑戦したい。

 ここを最後に宮崎空港に向かった。今回はほぼ予定された史跡を回ることができたので、十分満足している。ただし、宮崎県についていえば、えびのや五ヶ瀬、西米良、日之影といった山間部まで足を伸ばせなかったのは心残りである。何年先になるか分からないが、積み残した場所についてはいずれアタックしたい。

 

コメント (8)
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高鍋

2022年08月20日 | 宮崎県

(秋月墓地)

 秋月墓地(高鍋藩主秋月家の墓地)への登り口が分からなくて、愛宕神社の境内を探してみたり、高鍋町総合体育館の裏手まで進入してみたが、見つけることができずギブアップした。

 最終日、時間ができたので、再度高鍋町まで戻り、再アタックすることにした。最初に高鍋町を訪ねたのがちょうど月曜日だったこともあり、高鍋町歴史総合資料館や黒水邸は休館であった。尋ねるにも適当な人がいなかったが、この日は資料館も黒水邸も開館していた。

 ところが、資料館の受付で聞いてみると、

「私はこの辺の者ではないので、分かりません。隣の舞鶴神社の神主さんが詳しいので、訊いてみてください。」

という回答であった。

 舞鶴神社で御守を売っている巫女さんに神主さんに会いたいと申し入れたところ、「外出中です」というツレナイ回答であった。諦めきれずに黒水邸に移動し、そこで解説をしているボランティアの方に確認したところ、

「確か、町役場の向かい側にあったと思う。」

ということであった。何のことはない、行ってみれば直ぐに登り口は見つかった。

 

秋月墓地は大龍寺、安養寺、龍雲寺という三つの秋月家の菩提寺の墓地の総称である。三寺とも廃仏毀釈により廃寺となり、今では墓地のみが残されている。

 

秋月墓地(大龍寺跡)

 

 このうち大龍寺墓地には、二代秋月種春、四代種政、五代種弘、八代種徳、九代種任(たねただ)、十代種殷(たねとみ)の歴代藩主のほか、維新後明治天皇の侍読をつとめた種樹(たねたつ)の墓がある。

 

泰雲院殿前城州太守寶山宗真大居士

(秋月種徳の墓)

 

子爵正五位秋月種繁墓

 

俊徳院殿前筑前太守寛道宗裕大居士

(秋月種任の墓)

 

従二位勲二等秋月種樹墓

 

 秋月種樹は、天保四年(1833)の生まれ。父は九代藩主種任。少年時代、塩谷宕陰に学び秀才の誉れ高く、小笠原明山(長行)、本多静山(正訥)と合わせて「天下の三公子」と称された。文久二年(1862)、学問所奉行となり、翌文久三年(1863)、若年寄を兼ね、将軍家茂の侍読となった。外様大名の世子としては異例の抜擢であった。元治元年(1864)、病気という理由で幕職を辞したが、慶応三年(1867)六月、幕府は突然再び種樹を若年寄に任じた。幕勢は既に衰え、再興すべくもなく、側近である城竹窓、秋月種節、坂田莠らは辞退すべしと主張し、種樹も出仕の命に従わなかった。同年十二月になって辞任が許された。明治元年(1868)、新政府参与、ついで明治天皇の侍読となった。明治二年(1869)、版籍奉還を諸藩に訴え、また彼が建議して設立された公議所の議長や大学大監、左院少議官などを歴任した。明治四年(1871)、官を辞して、翌明治五年(1872)欧米を旅し、帰国後、元老院議官、貴族院議員などになった。漢詩を能くし、書は初め顔真卿を学び、山陽流を経て独特の書風に達した。絵は狩野派に学び、南画を経て富岡鉄斎に傾倒し、独自の境地に至った。明治三十七年(1904)、七十二歳で没。

 

高鍋藩知事秋月公霊(秋月種殷の墓)

 

 秋月種殷は、文化十四年(1817)の生まれ(文政元年説もあり)。父は高鍋藩主秋月種任。種樹の兄。天保十四年(1843)、封を継ぎ、翌弘化元年(1844)、法令六八条を発布し、藩内を整えようとした。また学問を奨励し、嘉永年間、邸内に寄宿寮切徳楼を設け、優秀な学生を収容し、学費を与えて勉学させた。安政五年(1858)、入牢罪人取扱規則を、文久元年(1861)には大赦施行法を定めて仁政をしいた。一方、囲いもみを強化し、砂糖製造や部分林制度も始めた。同時に武備にも心を用い、延岡藩と協力し、細島砲台を築き、幕府に賞された。横浜住まいの外国人が使者を本国に派遣する機会に、幕府が種殷に内密の海外渡航を命じたが辞した。慶應四年(1868)の戊辰戦争では藩兵を東北に出征させ、賞典禄八千石を永世下賜された。明治二年(1869)六月、高鍋藩知事に任じられ、明治四年(1871)七月、廃藩によりこれを免じられた。明治七年(1874)、没。

 

(黒水家住宅)

 

黒水家住宅

 

籾蔵

 

 黒水家住宅(高鍋藩家老屋敷)は、高鍋藩秋月氏の家老職を勤めた黒水家の家で、家老屋敷と呼ばれている。黒水家は代々藩の兵法家としての家柄であった。

 黒水邸に移設されている籾蔵は、明治十年(1877)の西南戦争の際、薩軍に好意的ではない九人を閉じ込めた仮牢として使用された建物である。藩政時代は籾蔵として使われ、現・高鍋農業高校のテニスコート(明治時代は郡役所)に立っていたのを、黒水長慥が譲り受けて、この地に移設したものである。

 

(舞鶴公園)

 高鍋城は、その地形が、鶴の羽ばたく姿に似ていたことから、舞鶴城とも呼ばれた。その名前に因んで舞鶴公園と呼ばれている。現在、史跡公園として整備され、園内には高鍋町歴史総合資料館や秋月種樹の邸宅を復元した萬歳亭、護国神社、舞鶴神社などがある。

高鍋城は、平安時代中期に土持氏の所有となったのを皮切りに、伊東氏、島津氏に引き継がれ、島津氏が豊臣秀吉に降伏したのち、明治の廃藩まで秋月氏の居城となった。

 

高鍋町歴史総合資料館

 

 萬歳亭はなれは、秋月家十一代当主種樹の住まいである。昭和十七年(1942)には本家を新築、別棟をそのまま残し屋根を瓦葺にして秋月種英(種樹の次男)が書斎として愛用していたものである。

 

萬歳亭はなれ

 

高鍋護国神社

 

 高鍋護国神社は、戊辰戦争以来の高鍋出身者の殉難者を祀る神社である。戊辰戦争における高鍋藩の戦死者は十四名。うち十一名の墓は、ここから少し離れた谷坂墓地にある。

 西南戦争への高鍋出身者の戦死者は七十八名にのぼる。

 

高鍋城跡

 

高鍋市街

 

戊辰役殉難招魂之碑

 

 この石碑は、谷坂墓地にあったが、西南戦争後、ここに移された。明治元年(1868)篤月、高鍋藩に出征の命が下り、武藤東四郎を総指揮、鈴木来助を隊長に高鍋隊を編成し、北越、東北を転戦した。碑文は秋月種樹の書。明治七年(1874)八月の建立。

 

西南之役丁丑戦亡記念碑

 

 丁丑戦亡記念碑は、風雨による劣化が甚だしかったため、戦後旧碑に似せて再建されたものである。碑文は儒者城勇雄の書。明治十四年(1881)の建碑。

 西南戦争が起こると、高鍋では官軍につくか、薩摩軍につくかで二派に別れたが、郷土が孤立することを恐れ、最終的には薩摩軍に参加を決した。

 高鍋隊は、熊本田原坂の激戦をはじめ、各地を転戦したが、終に官軍に降伏した。城勇雄は、参戦に反対し、同士とともに一時は苦境に陥ったが、戦後、この碑文を書くことを請われたときの事情が碑文に記されている。

 高鍋から西南戦争に参加した者は、七百余名。戦死者は七十八人、受刑者二十人という甚大な傷痕をのこした。

 

(谷坂官軍墓地)

 

谷坂官軍墓地

 

谷坂官軍墓地

 

 谷坂官軍墓地には、高鍋藩より出征し、戊辰戦争で戦死した以下の十一名が葬られている。

 

 大塚安節(医師)

 鈴木来助(隊長)

 吉田兵太郎

 福崎良一(小隊長)

 小嶋和兵衛

 綾部弟蔵

 綾部末五郎

 杉畩太郎

 坂田正太郎

 山内才次郎

 甲斐金吾

 

平林墓碑(平林忠恕の墓)

 

 平林忠恕は、上江戸長から県議会議員、村会議員として活躍した人。養蚕、製糸業の振興に尽くした。秋月種樹の書。明治二十四年(1891)の建碑。

 

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川南

2022年08月13日 | 宮崎県

(トロントロン)

 「トロントロン」とは、けったいな地名である。振り返れば、今回の旅でも「会々(あいあい)」(大分県竹田市)だとか「妙(みょう)」(宮崎県延岡市)という地名に出会ったが、九州の地名はなかなかユニークである。

 トロントロンの由来は、西南戦争の際に敗走する薩軍が、ぬかるんだ地面を「トロントロンとしている」と言ったとする説、もう一説に、近くの湧き水の音が「タランタラン(トロントロン)」と聞こえたとする説という二説がある。

 

トロントロン

 

トロントロン

 

知名の由来「トロントロン」

 

 

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