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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「群青」 植松美土里著 文春文庫

2011年11月14日 | 書評
幕府海軍総裁を務めた矢田掘景蔵(鴻)を主人公とした小説である。矢田掘景蔵は、無名とはいわないが、比較的目立たない存在である。
よく知られているように、勝海舟は、咸臨丸艦長として太平洋を横断している。本来、咸臨丸に乗って渡米するのであれば、矢田掘景蔵こそが適任であった。ところが彼は日本人だけで太平洋を横断することを無謀と主張し辞退する。
あるいは教え子の一人である榎本武揚は、新政府に徹底抗戦を主張し、旧幕艦隊を率いて函館五稜郭で戦った。矢田掘は、戊辰戦争に際して、日本人同志で戦うことの愚を説いて、海軍総裁でありながら一切抵抗をしなかった。その結果、彼は「逃げた海軍総裁」といった有り難くないレッテルを張られ、明治後を生きることになる。
この小説を読むと、矢田掘鴻という人物が、極めて高い技術力、見識、人格、信望を持った人間であったかがよく分かる。当然、小説であるから、著者の思い入れや創作はあるだろうが、巻末に掲載された参考資料を見れば、著者が矢田掘鴻およびその周辺について、極めて深く研究し、その人物像に肉迫したかが想像できる。
ことさら主人公を持ち上げるために史実に無いエピソードを挿入することもなく、安心感を持って読むことができた。勝海舟、岩瀬忠震、木村喜毅、佐々倉桐太郎、甲賀源吾、榎本武揚、荒井郁之助といった登場人物もよく書きこまれている。幕府海軍の人間模様を知るにも格好の小説である。

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「魔軍の通過 天狗党叙事詩」 山田風太郎著 ちくま文庫

2011年11月14日 | 書評
天狗党長征という史実に幕府若年寄の田沼意尊の妾、市川三左衛門の娘が人質として連行されるというフィクションを交えた小説である。実際に天狗党の軍列には女性用の駕籠があったという当時の目撃証言もあり、このことにヒントを得て創作されたものであろう。
天狗党は、尊王攘夷という旗印のもとに結集した軍団である。京都に禁裏守衛総督という立場で駐屯する一橋慶喜に尊攘の赤心を訴えるという一念で峠を越え、行く手を阻む敵軍を蹴散らした。しかし、結束を誇る集団に、女性がわずか二名交っただけで、統制は乱れ、喧嘩が乱発し、脱落者が続出する。情けないけど、男は女に弱い。
天狗党の最期は十分知っていたつもりであるが、三百五十二人が家畜のようにされる場面には、思わず目をそむけたくなる。人間はどこまで残酷になれるのだろうか。いかなる小説家でも、史実になければここまでの残虐シーンは思い浮かばないに違いない。
本書は、天狗党の乱から三十年後、武田耕雲斎の子、武田源五郎の口を借りて、当時の様子を生々しく語るという体裁を取っており、この仕掛けによってリアルな描写に成功している。維新を迎え、復権なった武田金次郎(耕雲斎の孫)が復讐の鬼となって、市川三左衛門らを嬲り殺しにするシーンは、凄惨の極み。もはや尊王攘夷とか、佐幕というイデオロギーを越えている。人類はこれに類した、無意味にして凄絶な殺し合いを幾度となく繰り返している。この本を読んでその愚を再確認した方が良いだろう。

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「上杉茂憲 沖縄県令になった最後の米沢藩主」 童門冬二著 祥伝社新書

2011年11月14日 | 書評
奥羽越列藩同盟の雄、米沢藩の最後の藩主、上杉茂憲。今春家族旅行で訪れた沖縄県。この二つがクロスオーバーした書籍であり、無視するわけにはいかない。期待が大きかっただけに、失望も大きかった。
上杉茂憲という人物の人生を俯瞰したというわけではない。沖縄県令時代のことは紹介されているが、その前後について触れられるところは少ない。
では、「琉球処分」など、本土とは違った独自の経緯をたどって日本の行政に組み入れられた沖縄県の生い立ちが詳述されているかと言えば、必ずしもそういうわけではない。要するに、中途半端で消化不良であった。
また、明治九年(1876)に山口裁判長に出仕した岩村通俊が「広沢真臣たち“萩の乱”に関係した連中の審問や裁判を行った」などとあんまりな誤りも見られる(言うまでもなく広沢は明治四年(1871)に暗殺され世を去っている)。

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石川町 Ⅲ

2011年11月12日 | 神奈川県
(外人墓地)


モレルの墓

 イギリス人エドモンド・モレルは、初代鉄道建築技師長として明治政府に招請され、明治三年(1870)三月に来日した。新橋-横浜間を皮切りに神戸・大阪間の鉄道敷設事業等の計画、設計、工事の式にあたった。しかし、明治四年(1871)結核に罹り、死去した。三十歳という若さであった。


ジョン・イングランドの墓


ジョン・ダイアックの墓

 横浜外人墓地には、エドモンド・モレルのほか、我が国の鉄道創世記に来日し、鉄道建設、営業制度の確立、技術の伝承、教育育成に尽力した外国人技師が多く埋葬されている。ジョン・イングランド、ジョン・ダイアックともに鉄道建築副役として活躍。ダイアックは、モレルの下で測量に従事した。彼の打ちこんだ杭には、現在も0㎞ポストが建てられている。七十二歳で横浜にて死去。


ラムゼーの墓

 ラムゼーは航海士。日本近代海員養成に多大な功績を残した。


イギリス海軍兵士の墓

 イギリス軍人慰霊塔の近くには、幕末に日本に派遣され、命を落とした海軍兵士の墓石が集められている。

(大佛次郎記念館)


大佛次郎記念館

大佛次郎というと「天皇の世紀」である。文庫本で十七巻に及ぶ大作である。実は、私はかつて「天皇の世紀」に挑戦したが、途中で挫折してしまった過去がある。今回、大佛次郎記念館を訪ねて、「天皇の世紀」以外にも幕末を題材にした作品をいくつも残していることを知った。是非、一度読んでみたい。更にはもう一度「天皇の世紀」にもチャレンジしてみたい。

(イギリス館)


横浜市イギリス館

 港の見える公園では、大佛次郎記念館のほか、昭和十二年(1937)建築のイギリス館も見ておきたい。この建物は、旧英国総領事館公邸として建てられ、その後は市民の利用できる施設として活用された。白亜の建物には、周囲に咲き誇るバラがよく似合う。幕末、各地で攘夷の凶刃が猛威を振るったが、自国民を守るために各国は軍隊を駐屯させた。文久三年(1863)、現在、イギリス館がある辺りにはイギリス軍が、現在「フランス山」と呼ばれる場所にフランス軍が駐屯した。


ローズガーデンのバラ

(北方小学校)


ビール井戸

 北方小学校がある場所には、かつてキリンビール(当時はジャパン・ブルワリー・カンパニー)の、我が国最初のビール工場があった。工場が操業を開始したのは、明治二十一年(1888)のことである。当時、横浜には水道が整備されておらず、井戸水を使ってビールが造られた。

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関内 Ⅲ

2011年11月12日 | 神奈川県
(馬車道)


日本最初のガス灯

 安政六年(1859)の開港以来、横浜は西洋文化の玄関口となった。明治五年(1872)には、この地に我が国初のガス灯が設置、点灯された。


太陽の母子像
アイスクリーム発祥の地

 明治二年(1869)六月、横浜馬車道通常磐町五丁目において、町田房造という人物が氷水屋を開いた。これが我が国初のアイスクリームである。無性にアイスクリームを食べたくなったが、近くにそれらしい店は無かった。せっかくだから、ここでアイスクリームを売り出せば繁盛すると思うが…。アイスクリーム発祥の地には、日本アイスクリーム協会が建てたモニュメント「太陽の母子像」がある。ほかにも横浜市内には、「発祥の地」がたくさん在る。


日本写真の開祖
写真師・下岡蓮杖顕彰碑

 我が国の写真の開祖と呼ばれる下岡蓮杖が、慶應三年(1867)横浜太田町五丁目に写真館を開いた。当時、写真に移ると魂を奪われるという迷信があって、当初はなかなか写真を撮ろうという人はいなかったが、次第に評判を呼び大繁盛したという。


横浜郵便発祥の地

 我が国の近代郵便制度は、明治四年(1871)に制定されたが、横浜では同年五月、早くも横浜郵便役所に指定し、この地で郵便業務を開始した。この地は、安政六年(1859)より旅館鹿島屋が営業していた。鹿島屋主人山室亀吉は、慶應三年(1867)、横浜-永代橋間に初の蒸気船旅客航路を開き、定期運行させた。その所有家屋を政府が借り上げ、郵便役所としたものである。

(象の鼻防波堤)


象の鼻防波堤


明治三年頃の横浜港の様子
(横浜開港資料館蔵)

 安政六年(1859)の横浜開港と同時に、幕府は横浜港の中央部に波止場を設けた。強風による高波により、荷役作業がしばしば中断した。そこで慶應三年(1867)、幕府は東側突堤を延伸して弓状の防波堤を築造した。これが「象の鼻」である。これにより荷役作業の効率は飛躍的に向上したという。象の鼻は関東大震災で沈下水没したが、復元されて平成二十一年(2009)象の鼻パークとして整備、開園された。明治初年に描かれた錦絵にも、象の鼻が描かれている。

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大田原 黒羽

2011年11月09日 | 栃木県
(黒羽城址公園)


黒羽城 本丸跡

 黒羽城は、外様大名大関氏一万八千石の居城である。大関氏は、江戸期を通じて一度も改易・転封がなく、明治四年(1871)の廃藩置県まで約三百年間、黒羽を本拠とした。黒羽城は、廃藩置県とともに廃城となり、現在は公園として整備されている。城郭らしいものは一切残っていないが、土塁や堀といった遺構は、今でもよく保存されている。

 幕末の藩主、大関増裕は、外様大名ながら幕府の若年寄に抜擢され、陸海軍奉行等を歴任した。藩政改革にも取り組んだが、慶応三年(1867)十二月、帰城して遊猟していた際に病を発して急死した。三十歳という若さであった。


黒羽城 土塁跡

 黒羽藩は、奥州に接した場所にあって、いち早く新政府への恭順を表明した。この地域では珍しく、洋式化された近代的装備を備え、各所で善戦した。また那珂川を通して、食糧、武器、弾薬等を輸送し、越堀河岸から揚げて白河へと運びこんだ。これらの功から戦後の論功行賞では高く評価され、一万五千石という破格の賞典禄を与えられた。

(大雄寺)


大雄寺山門

 大雄寺(だいおうじ)は、戦乱により焼失したが、第十代大関忠増によって再建され、天正四年(1576)第十四代大関高増のとき居城を余瀬白旗城から黒羽に移したときに、現在地に移設された。以来、大関氏の菩提寺となり、墓所には代々の墓が整然と並べられている。


大雄寺本堂

 大雄寺は、曹洞宗の禅寺である。本堂など七つの茅葺の建物が非常に落ち着いた雰囲気を醸している。


戦死吊祭塔

 明治二年(1869)十二月、旧藩主大関増勤(ますとし)や藩士らが祭主となって、戦死した二十四名の藩士を弔う招魂場を大雄寺に設けた。その際、戦死吊祭塔(ちょうさいとう)が建立された。吊祭塔には戦死した藩士の名が刻まれている。同時に黒羽表忠碑と軍夫死亡之墓が建てられた。


黒羽表忠之碑

 黒羽表忠之碑は、黒羽藩が高い論功を得たのは、二十余士の力によるものと称える。


軍夫死亡之墓

 大雄寺には、黒羽藩主大関氏代々の墓がある。これだけの墓が一か所にあるのは全国的にも珍しい。東日本大震災で崩落した墓石もあり、私が訪れたとき、ちょうどユンボで復旧作業中であった。


従五位下肥後守丹治真人増裕公墓

 墓に刻まれた「丹治」とは大関氏の本姓である。
 大関増裕は、遠江横須賀藩西尾忠宝のニ男で、文久元年(1861)養子となって大関家を継いだ。文久二年(1862)には幕府の講武所奉行、同年十二月初代陸軍奉行、慶応元年(1865)海軍奉行といった幕府の重職を歴任し、幕府軍隊の洋式化に大きな功績があった。慶応三年(1867)には若年寄まで昇進した。黒羽藩主としては、富国強兵のスローガンを掲げて、藩政改革を断行した。特に殖産興業と農兵取り立てを中心とした軍制改革に取り組んだ。改革に対して、藩内の守旧派や農民の反対があったが、これを排除して推進した。慶応三年(1866)十二月に三十歳という若さで急死したのは惜しまれる。


大関増勤公墓

 最後の黒羽藩主となった大関増勤の墓は震災で横倒しになったままであった。
 急死した藩主大関増裕の死はしばらく伏せられ、藩では養子探しに奔走し、ようやく慶応四年(1868)三月、丹波山家藩より増勤を迎え入れた。このとき増勤は十九歳であった。維新後は黒羽藩知藩事などを歴任。明治五年(1872)には米国に留学した。明治三十八年(1905)五十七歳にて死去。


官修墓地 高橋亘理墓


官修墓地 益子四郎墓


官修墓地 藪智次郎墓

 大雄寺墓地には、いつくか官修墓地がある。いずれも戊辰戦争で戦死した黒羽藩士のものである。
益子四郎は小隊長。慶応四年(1868)下野小谷村にて戦死。二十二歳。
高橋亘理も同じく小隊長。慶応四年(1868)若松城下にて戦死。三十五歳。
藪智次郎は、五月の白河での戦闘で負傷。翌明治二年(1869)四月に死去した。十七歳であった。

(常念寺)


常念寺


官修墓地 紀匡隆(益子理右衛門)之墓

 黒羽市街地の常念寺には、官修墓地がある。やはり戦死した益子理右衛門が葬られている。益子理右衛門は、慶応四年(1868)八月、下野駒返坂にて戦死。四十二歳。

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大田原

2011年11月09日 | 栃木県
(城山公園)
 下野における戊辰戦争での激戦地の一つ、大田原を訪ねた。激闘が交わされた大田原城跡は、どういうわけだかあちこちに虎ロープが張られ、本丸、二の丸といった城郭跡に近づけない。「怪しからん」と息巻いたが、この後、大田原神社、光真寺を歩いて事情が分かった。今年三月十一日に東日本を襲った大震災では、栃木県でも震度6強を観測した。東京では、震災による電力供給不足から節電一色の夏であった。「節電」が一種のブームだったが、九月九日には政府が電力使用制限を前倒しで解除したこともあって、急速に旧に復した感がある。依然としてテレビや新聞では、被災地の苦境を報じているが、もはや東京では他の国の出来事になっている。少なくとも私は、栃木県の山間の街が未だ元に戻っていないということは予想もしていなかった。今回、大田原で被災の現実を目の当りにして、改めて未だ被災地は復興途上にあることを痛感することになった。どちらかというとマスコミの報道では津波の被害甚大だった沿岸部を取り上げる傾向にあるが、実は山間部にも被害は及んでおり、しかも地震から半年以上が経過した現時点でも復旧していない。日本人は熱しやすく冷め易い。来年の夏は、節電や大震災があったことなどすっかり忘れて、被災地以外では今まで通りの生活に戻ってしまうことが容易に想像できる。夜の街ではネオンが煌々と灯され、室内は冷蔵庫のように冷やされるのではないか。地震のことを忘れないためにも、時折、被災地を訪れることに意味がある。


大田原龍城公園

 大田原城は、外様大名大田原氏一万千石の居城である。小さな丘(龍体山)の頂上に本丸が設けられ、その南側に二の丸、三の丸があった。三の丸には城主の居館のほか、弾薬庫、作事小屋や藩校が設けられた。
 戊辰の戦火が大田原に及んだのは、慶應四年(1868)五月二日のことであった。会津藩に白河城を占拠された新政府軍にとって、白河進攻への拠点として大田原は重要な意味をもった。閏四月二十二日、板室の戦闘で敗れた会津・旧幕軍は、大田原に進撃した。新政府軍とともに大田原藩は芦野宿、白河口に主力を進出させていたため、大田原城を守っていたのは二百名足らずの兵力であった。会津・旧幕軍は、二手に分かれて進撃し、守兵を簡単に突破して城下に至った。城下の侍屋敷に火が放たれ、大手門に迫った。大田原城は落城寸前かと思われたが、折からの豪雨により攻撃の行く手を阻んだ。この時、三の丸作事小屋で弾薬に引火し大爆発が起こった。これを後方からの伏兵と勘違いした会津・旧幕軍は、泥まみれになって逃げまどい、撤収を余儀なくされた。

(大田原神社)


大田原神社

大田原神社境内には明治十年(1877)に建立された招忠魂碑があるはずだったが、境内にあった石灯籠や鳥居などはことごとく崩落し、跡かたもない。残念ながら招忠魂碑も発見できず。

(光真寺)


光真寺

 大田原氏十三代大田原資清が光真寺を墓所と定め、以来二十八代勝清に至るまで、この寺に埋葬された。ここでも墓石が倒壊したまま手が付けられていない。実は光真寺の墓地には官修墓地があるが、墓地はとてもまともに歩ける状態になかった。また出直すことを誓って、この日は撤退した。


官修墓地 阿久津又次郎忠順墓
完全に倒壊している


二十七代 大田原冨清公墓

 二十七代大田原冨清は、丹波綾部藩九鬼家の出身であるが、大田原藩主広清の死去とともに家督を継いだ。駿府城加番、大阪城加番などに任じられたが、文久二年(1862)大阪加番として任地に赴いて間もなく、大阪で病のために逝去した。二十七歳であった。


二十八代 大田原勝清公墓

 大田原勝清(別名一清)は、大田原藩最後の藩主である。戊辰戦争当時未だ八歳であった。戦火が城下に迫ると城を脱して領内の片府田村や下郷陣屋等に匿われた。維新後は大田原藩知事に任じられたが、廃藩置県により免官。昭和五年(1930)七十歳で世を去った。

(観音堂)


早川先生墓

 元町二丁目の観音堂(といっても、掘立小屋のような祠が建てられているだけであるが…)に、大田原城坂下門の攻防で戦死した戦士隊組頭早川永宣(ながのり)の墓がある。早川永宣は、会幕軍の二ノ丸進攻を阻止するため、土塁上で奮戦するところ、銃弾を浴びた。

(宝寿院)


宝寿院


戦死供養塔

 大田原南郊片府田・佐良土は、水戸諸生党と新政府の命を受けた大田原藩、彦根藩、阿波藩が遭遇し、激戦となっている。
 市川三左衛門の率いる水戸諸生党は、会津から越後へと転戦したが、水戸藩尊攘派が海津に出陣したことを知り、水戸城を奪還するため、三斗小屋宿を経由して南下した。二時間足らずの戦闘で、諸生党の戦死者は、十名。新政府軍の戦死者は四名であった。
片府田での戦死した水戸諸生党と長岡藩兵を弔うために、二十一回忌に当たる明治二十一年(1888)、村の女性たちの手によって宝寿院に戦死供養塔が建立された。台石に「村女人中」とある。

(佐良土)


戦死塔

 佐良土(さらど)でも水戸諸生党と黒羽藩兵との戦闘があった。佐良土交差点の側の小川のほとりに「戦死塔」と刻まれた自然石の墓碑がある。道路拡幅のために現在地に移されたもので、以前は道路に面していたという。建立されたのは、明治元年(1868)九月二十七日。半ば草に埋もれている。

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矢板

2011年11月08日 | 栃木県
(山縣有朋記念館)


山縣有朋記念館

 山縣有朋記念館は、矢板市でもかなり外れにある。明治十八年(1885)山縣有朋はこの地に山縣農場を開いた。山縣有朋記念館の建物は、明治四十二年(1909)に建設された小田原にある別荘古希庵を大正十三年(1924)に移築したものである。


水琴窟

 山縣有朋記念館内には、山縣有朋の遺品などが展示されているらしいが、残念ながら休館日に当たっており、拝観することはできなかった。

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那須

2011年11月08日 | 栃木県
(與楽寺)


與楽寺

 那須町寄居の與楽寺には、黒羽藩士松本忠左衛門と阿久津廣之助という二人の戊辰戦争戦死者の墓がある。


松本忠左衛門金吉の墓

 黒羽藩士松本忠左衛門は、慶應四年(1868)九月五日、会津若松城下河原町で戦死。同年九月十一日に同じく会津若松城下材木町で戦死した阿久津廣之助とともに、與楽寺の官修墳墓に葬られたが、第二次世界大戦で鉄柵が供出され、忠左衛門の墓も一時松本家墓域に移祀されることになった。平成二年(1990)、子孫の方々が在りし日の姿に近い形で墓を復旧したものである。


阿久津廣之助の墓

 阿久津廣之助の墓も、與楽寺の阿久津家の墓域に建てられている。墓石正面には、「曠雲道越信士」という戒名が刻まれ、側面に「阿久津廣之助 四十一歳滅」とある。

(峯岸館兵従軍の碑)


峯岸館兵従軍之碑

 峰岸館とは、黒羽藩が藩内に設けた農兵教練所の一つで、戊辰戦争では官軍の要請を受けて三十六人が駆り出されて出征し、うち十一名が負傷したと記録されている。



 峯岸館兵従軍の碑は、明治二十七年(1894)の建立。撰文は黒羽藩出身の陸軍少将大沼渉である。

(高徳寺)


高徳寺

 近所の方によれば、高徳寺には住職がいないそうである。いかにもうらぶれた寺であるが、少し高くなった墓地に官修墓地があり、そこに黒羽藩士渡辺慶次郎の墓がある。


官修墳墓 渡辺慶次郎の墓

 渡辺慶次郎は、慶応四年(1868)九月三日、会津関山村にて戦死。二十一歳であった。

(芦野宿)


奥州道中 芦野宿

 芦野宿は奥州街道の宿場町の一つ。問屋場跡に石碑が建てられている。往時の芦野宿は旅籠四十軒を数えた。
 同じ場所に明治天皇行在所記念碑もある。書は陸軍大将奈良武次。


明治天皇行在所記念碑

(西光寺)


西光寺


官修墳墓 柘植善太夫の墓

 柘植善太夫は、幕末に活躍した武術家である。天保十二年(1841)の生まれ。忍藩士。真影流の剣、無辺無極流の槍を修めた。戊辰戦争では官軍に加わったが、慶応四年(1868)五月一日、白河口の戦闘で戦死した。二十八歳であった。

(最勝院)


最勝院


十六羅漢

 最勝院の墓地には徳島藩塙祐七の墓がある。塙祐七は、慶応四年(1868)八月三日、戦病死。二十九歳。


官軍 阿州 塙祐七藤原好孝墓

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那須塩原 Ⅲ

2011年11月07日 | 栃木県
(大山別邸)
 明治十四年(1881)、大山巌と西郷従道は、共同でこの地に加治屋開墾場を開いた。明治三十四年(1901)、大山農場と西郷農場とに分割され、この地で牧畜、林業などを経営した。大山巌は、農場開設間もなく和風平屋建ての和館を建て、のちに農場で焼いたレンガを利用して洋館を建てた。現在、大山記念館として利用されている。


大山別邸

(大山家墓所)


大山家墓所

 大山別邸から北へ約七百㍍の場所に大山家の墓所がある。参道は両側に紅葉を植えた並木道になっている。墓所には、先妻沢子、後妻捨松も眠る。


議定官内大臣陸軍大将元帥
従一位大勲位功一級侯爵
大山巌之墓

 扉は固く閉じられており、中には入れないが、隙間から覗くと正面に大山巌の墓が見える。

(那須野ヶ原博物館)


那須野ヶ原博物館

 那須野ヶ原博物館は、「那須野ヶ原の開拓と自然・文化のいとなみ」をテーマに地域、文化の拠点として平成十六年(2004)に開設された総合博物館である。
 この地は、三島通庸らが明治十三年(1880)に開いた肇耕社という開拓農場の事務所があった場所で、かつて木造二階建ての事務所があった。三島通庸は三代栃木県令を務め、道路建設など土木工事に手腕を発揮した。


三島農場事務所跡

(三島神社)


三島神社

 那須野ヶ原博物館の西側に鎮座する三島神社は、明治十四年(1881)八月の明治天皇東北巡幸に際して、「那須野開墾の状を視よ」という聖旨により、有栖川熾仁親王が派遣され、親しく見学をした場所である。その後も岩倉具視など顕官の視察が相継いだため、時の県令三島通庸はこの地に神社を建立した。

(松方別邸)


萬歳閣 松方別邸

 西那須野塩原ICを降りて間もなく、千本松牧場の広大な敷地に至る。松方正義は、明治二十六年(1893)東西4.5㎞、南北7㎞という広大な牧場を開いた。松方は、西洋式の大農具を使用した大農法を推進した。現在は遊園地などを併設した観光農園になっているが、その一角に萬歳閣と呼ばれる松方正義の別邸が残されている。明治三十七年(1904)皇太子(のちの大正天皇)がここに滞在していたときに遼陽陥落の報が届き、一同が万歳をしたことから、この名が付いた。

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