史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大津

2016年04月23日 | 熊本県
(大願寺)


大願寺山門

 大津町の大願寺山門には西南戦争時の弾痕が残る。山門を観察したが、確かに小さな穴は空いているものの、これが弾痕という確信は得られなかった。


弾痕?

 今回の熊本の旅はここまで。今回は、玉名や山鹿の史跡を巡ることができて、満足度は高かった。予報では雨となっていたが、何とか終日雨には祟られずに済んだ。雨は降らなかったが、三月というのに真夏のような暑い日であった。春も近い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菊陽

2016年04月23日 | 熊本県
(菊陽杉並木公園)


頼山陽記念碑

 県道337号線沿い、菊陽町のバス停、その名も頼山陽記念碑前からJR線を越えたところに杉並木公園がある。その南東出口付近にお目当ての頼山陽記念碑が建てられている。
 文政元年(1818)三月、下関から九州各地を巡る旅に出た山陽は、十月肥後熊本から豊後竹田に向かった。その途中、大津街道の杉並木に感動して詠んだ漢詩が刻まれている。

 大道平々砥不如(だいどうへいへいともしかず)
 熊城東去総青蕪(ゆうじょうひがしにさればすべてせいぶ)
 老杉夾路無他樹(ろうさんみちをはさんでたじゅなし)
 欠所時々見阿蘇(かくるところときどきあそをみる)

(蘇古鶴神社)
 蘇古鶴(そこづる)神社は、寛永十二年(1635)、熊本藩主細川忠利がこの地に鬼門の厄を払うために勧請したものである。境内に西南戦争の殉難者慰霊碑がある。


蘇古鶴神社


西南戦争殉難碑

 殉難之碑は明治十三年(1880)に建立されたもので、池辺吉十郎ら熊本隊士の名前が刻まれている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

合志

2016年04月23日 | 熊本県
(二子山石器製作所遺跡跡)


二子山石器製作所遺跡


一号墳 薩軍砲台跡

合志市野々島の二子山石器製作所遺跡跡は、縄文時代後・晩期(約二千五百年から三千五百年前)の遺跡で、石斧などの石器が大量に発掘されている。その名のとおり、大小二つの丘があり、大きい方が一号墳、小さい方が二号墳とされている。一号墳丘上の凹状の溝は、西南戦争時、この辺り一帯が激しい戦闘となった際、薩軍が築造した砲台の跡である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菊池 泗水

2016年04月23日 | 熊本県
(菅原神社)
 菅原神社には西南戦争時の塹壕が残っているというので、境内を探してみたが、周囲は鬱蒼たる森になっており、それらしいものは発見できなかった。


菅原神社

(光徳寺)
 泗水町南田島の光徳寺には、官軍第三旅団の会計本部が置かれていた。本営跡がこのちかくにあるはずだが、探しても見付けられなかった。次の宿題である。


光徳寺

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菊池

2016年04月23日 | 熊本県
(菊池神社)


菊池神社

 田原坂、山鹿口における戦闘に敗れた薩軍は、三月二十四日、隈府(現・菊池市)まで後退してここでの守備を決めた。中町に本陣を置き、菊池本城跡や羽手ノ木、赤星口、花房、高塚袈裟、尾原西郷坂、米原、玉祥寺などに陣を敷き、薩隊や熊本協同隊、貴島隊等が守った。四月十日早朝、大津方面に撤退するまで、戦いは熾烈を極め、多くの戦死者を出した。


教育勅語記念碑

(菊池公園)


頼山陽歌碑

 菊池公園には文学碑や顕彰碑などが数多く建てられている。頼山陽の歌碑は、筑後川を下った折、南北朝時代に十五代菊池武光が征西将軍懐良親王を奉じ、筑後川で武家方と戦い、勝利を治め九州を平定した情景を漢詩にしたものである。

 菊池公園内に官軍墓地がある。菊池方面における官軍戦死者数は三十八名。これに対し、薩軍戦死者は三百名近くになったという。官軍戦死者は、菊池公園内の官軍墓地に葬られたが、薩軍戦死者は渕園墓地の楠の木を墓標として埋葬されたという。


官軍墓地

(西覚寺)
 薩軍は、西覚寺を陣地本営とした。門前に「西覚寺本陣跡」と記された石碑が置かれている。また、薩軍は、中町の盆屋や音光寺、広現寺、民家等を宿営所に当てた。


西覚寺


西南ノ役西覚寺本陣跡

(西照寺)


西照寺

 薩軍は、西照寺を野戦病院とした。

(西郷公民館)
 菊池市の西郷は、西郷隆盛の祖先発祥の地である。ここは、菊池十八外城の一つ、増永城址で、初代城主西郷太郎政隆は、菊池氏初代則隆の子で菊池一族であった。その後裔二十六代西郷九兵衛昌隆のとき、薩摩に移り住んだという記録があり、西郷隆盛は初代から数えて三十二代目となる。
 西郷は奄美大島に流罪となった際、「菊池源吾」と名乗ったが、菊池氏との縁に所以したものであった。


西郷南洲先生先祖発祥の地

 西郷公民館に建立されている西郷南洲先生先祖発祥之地碑は、昭和二十七年(1952)、徳富蘇峰の筆によるもの。


増永城跡

(渕園団地)


西南の役菊池の戦い・薩軍碑

 渕園団地に「西南の役菊池の戦い・薩軍碑」が建てられている。この石碑の近くに「史文」と題した碑が置かれており、菊池における戦闘経緯が述べられている。

(辺田天満宮)


辺田天満宮

 辺田天満宮には西南戦争の絵馬が掲げられている。中央に総督有栖川宮。それを取り囲むように十人の官軍幹部の姿が描かれている。


西南戦争絵馬
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山鹿 菊鹿

2016年04月17日 | 熊本県
(あんずの丘)
 山鹿市菊鹿町のあんずの丘は、とにかく広い公園で、そこにアスレチック用具や子供用の遊具などが設置されており、県外からの来客も多い。あんずの丘の南の小高い山の上に長野家の墓地がある。K氏、E氏とともに付近を探して、発見することができた。


長野濬平之墓


顕彰 長野濬平先生


讃長野濬平老

 長野濬平(しゅんぺい)は、文政六年(1823)、現在の熊本県山鹿市菊鹿町に生まれた。桑陰と号した。藩校時習館教授近藤淡泉の塾に入り、のちに横井小楠に実学を学んだ。弘化四年(1847)、南関に長野塾を開いて子弟を養成した。『養蚕富国論』はその時に著したものである。以来、諸国を歴遊して蚕糸の得失を視察し、桑園の開闢、桑苗の移植、その経営に尽力すると同時に、養蚕試験場を設け、器械製糸場を創立するなど、日本の養蚕製糸の振興に貢献すること少なからず。その間、苦心瘁励二十有七年。その功により緑綬褒章を授与された。明治三十一年(1898)七十五歳にて逝去。


 朝から山鹿の史跡をご案内いただいたK氏とE氏とはここで別れた。平山や椿井の史跡などは自力では絶対に発見できなかったであろう。単なる史跡マニアの旅に半日も付き合っていただき、感謝に耐えない。またお二人の山鹿の史跡に対する情熱にもとても感銘を受けた。こうした地元の方の熱意によって、貴重な史跡が保存維持されていることを改めて痛感した。またお会いできる日を楽しみにしている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山鹿 鹿本通

2016年04月17日 | 熊本県
(山鹿市墓地公園)


史跡西南の役協同隊士三人野満顕彰の碑


野満安親 野満富記 墓


野満家累代墓

 山鹿市墓地公園に野満三兄弟の墓がある。
 野満安親と富記兄弟は、従兄弟長太郎とともに植木学校に学び、自由民権思想の宣揚に尽瘁した。明治十年(1877)二月、薩軍起つや、一同集まって参戦の是非を協議したが、議論百出する中、死を賭けた安親の一声で参戦が決まり、協同隊が結成された。二月二十二日、熊本城総攻撃が始まると、安親、富記の兄弟は、まっさきに城壁に取り付き奮戦。「我らの死にざまを見よ」と叫ぶと、兄弟互いにその名を連呼しつつ、弾丸雨中の中、壮烈な戦死を遂げた。
 野満長太郎は、沈毅にして胆略があった。協同隊の幹部として各地を転戦したが、八月十七日、薩軍の解体宣言を受けて降伏した。投獄されたが、二年余にして放免され、爾来郷党の指導者として推重された。野満兄弟の一つおいて左の墓に合葬されている(周囲は野満家の墓がいくつもあって、どれに長太郎が葬られているのか簡単に特定ができない。K氏が縁者の方に連絡をとっていただき、ようやく判明した)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山鹿 西牧

2016年04月17日 | 熊本県
(西牧)


西南の役 薩軍熊本隊 安田兄弟顕彰之碑

 西牧地区は保多田や椿井よりさらに南に位置する。その墓地に安田兄弟の顕彰碑がある(墓はない)。
 三月十八日の佐伯の戦いは、激戦の中の激戦といわれる。この日の未明、実兄安田嘉七郎は田原坂付近七本原において篠原国幹の旗下の大隊長崎村唯雄の下にあって奮戦苦闘の末、銃弾に倒れた。二月二十六日に寺田にて戦死した実弟野田琢磨とともにこの地に葬られた。
 安田弾八は、戦後自宅に帰った。明治十八年(1885)五月、西牧村村会議員に就き、明治三十六年(1903)、六十五歳で死去。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山鹿 川辺

2016年04月17日 | 熊本県
(保多田阿蘇神社)


保多田阿蘇神社

 保多田阿蘇神社前の空間が、官軍が繃帯所を置いた場所である。軍夫として従軍した松本万次郎氏(当時十九歳)、坂本道博氏(当時十四歳)が無事に帰郷し、昭和初期までその頃のことを村の方々に語り残した、官軍が野戦病院とした場所である。


西南の役 官軍仮繃帯所跡


史跡西南の役官軍仮繃帯所跡

(椿井 徳永三兄弟の墓)
 畑の中に椿井村出身の徳永三兄弟の墓がある。


史跡西南の役協同隊士徳永三兄弟顕彰の碑

 徳永三兄弟は、徳永熊七、佐茂子の子として生まれた。徳永家は旧家で、旧藩時代は庄屋をつとめ、長男慎太郎は明治七年(1874)二十九歳の若さで大六区十一小区の副戸長に選任されている。自由民権を標榜する植木学校に学び、民権運動の先頭にたって活動し、西南戦争が起こると、二兄弟を率いて、民権派の同志とともに協同隊に投じて戦い、三兄弟とも戦死した。


徳永重蔵の墓


徳永慎太郎 政次之墓

 徳永慎太郎 五月二十四日戦死 於水俣郷釘野村 享年三十二
 徳永政次 四月九日戦死 於菊池郡城山 享年二十四
 徳永重蔵 十一月二十三日死亡 於鍋田にて重傷を負い死没 享年二十九

(椿井激戦の地)


史跡 椿井方面激戦の地

 椿井は、山鹿口の戦いでは西南端に位置し、鍋田と菰田の中間に当たる。また、椿井~六枝、椿井~麻生野道が通り、豊前街道や車坂を側面から攻撃する戦略上の要地であった。官薩両軍とも精鋭を派遣して本集落を奪取するために、取りつ取られつの攻防戦が行われた。「椿井方面激戦の地」の木柱の周りには古い墓石が置かれているが、激戦を物語る弾痕が残っている。

(正泉寺)


正泉寺


史跡西南の役正泉寺戦跡


弾痕

 三月三日、官軍の一隊は、菰田の渡しから椿井の間に転々と堡塁を築いて薩軍を迎撃した。官軍は、東京一聯隊一個小隊と大阪八聯隊一個中隊で、正泉寺並びにその周辺に陣を敷いていた。薩軍は、鍋田から麻生野を通って近づき、台地方面から激しく攻め立てた。数時間の激戦ののち、官軍は菰田方面に退いた。正泉寺にはこの時の弾痕が壁や柱、墓地の墓石にのこっている。柱の弾痕には、白いペンキで印がされており、見つけやすい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山鹿 平山

2016年04月17日 | 熊本県
(平山温泉)


西南の役平山本営跡

 K氏によれば平山温泉は、黒川温泉や湯布院に並んで、九州で人気の温泉だという。私は平山温泉ではなく、市内のビジネスホテルに宿泊したが、そこの泉質もヌルヌルとしたアルカリ泉で、所謂「美肌の湯」である。平山は官軍の南関本営と山鹿の中間地点に当たり、二月二十五日から三月二十二日まで官軍の陣営が置かれた。それが湯山の牛島順蔵宅であったといわれる。これも平山温泉街の一角であるが、K氏、E氏の案内なくして行き着けなかったであろう。

(薩軍仮繃帯所跡)


西南の役 薩軍仮繃帯所跡

 笹原の路傍に薩軍仮繃帯所跡の木柱が建てられている。かなり文字は読みづらい。
 この地域でも官薩両軍の攻防戦が繰り広げられた。今田房男氏の祖母テキさん(明治十年当時十三歳)の話によれば、この付近一帯は薩軍の宿泊所となり、今田家は繃帯所となった。

(平山城址)


平山城址

 平山地区での戦闘は、第三次、第四次の戦いがもっとも激しく、官軍の戦死者は三十二名、家屋の毀損三十一戸を数えた。岩村の本隊に対士、平山には支隊が置かれ、要所には陣地が築かれた。平山城跡はその一つである。写真は城址に至る入口であるが、城址にはここから十分ほど登る必要がある。三月十二日の第三次戦は、早朝四時半より始まり、平山の官軍の一面隊は小群村より城村に進撃し、薩軍の陣を奪ったが、側面から薩軍の攻撃を受け、夜になって平山に戻った。

(堂ヶ原口)


旧街道(至十町)堂が原口
史蹟 西南の役台場跡

 堂ヶ原口は、もはや山鹿市の北端に近い。木柱は根元から折れてしまっているが、記述によればここを通る道は、十町(現・和水町)へ通じる旧街道のようである。
 ここから東に一・五キロメートルの山の中に薩軍の台場があったそうである。



 E氏が「多分、あちらの山の中に台場があった」と語る、そちらの方面の風景を参考として掲載しておく。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする