(大乗寺)
大乗寺
長谷川伸「相楽総三とその同志」(中公文庫)によれば、三田薩摩藩邸に集合し、庄内藩を中心とした幕府方に襲撃された浪士たちは、ある者は薩摩藩の軍艦翔鳳丸で逃走し、それに乗船できなかった一部の者は陸路を西へ向かった。そのうちの三名(栗林芳五郎、早川均、坂本嘉三郎)が「小田原藩の手により弥勒寺というところで斬られ、後に小田原竹ヶ鼻の大乗寺の住僧がその首を埋葬して墓碑を建てた」という。早速、小田原駅近くの大乗寺へ行ってみたが、残念ながらそれらしい墓碑は発見できなかった。無縁墓石群も舐めるように探したが、そこにもそれらしい墓は無かった。小田原市内にはほかに「大乗寺」という寺院はないので、ここで間違いないと思うのだが…。
(大連寺)
大運寺
戦死之墓
大連寺には遊撃隊士の墓がある。葬られているのが誰だか今のところ不明。
(鈍翁in西海子)
益田鈍翁in西海子
小田原文学館の近くの住宅街の中に益田鈍翁の茶具や掛け軸を展示する「益田鈍翁in西海子(さいかち)」がある。
益田鈍翁、すなわち益田進、のちの三井物産創始者益田孝である。鈍翁は茶人としての名前である。
個人的には、益田進が父益田鷹之助の従者として、十六歳の若さで文久三年(1863)の遣欧使節に加わったことが記憶に残っている。何かそのときのものが残っていないかと期待して入ったが、展示されているのは茶道具が大半であった。
中に入ると、館内は電気が落とされ、人の気配もない。直ぐに管理人さんが現れ、丁寧に説明してくださった。十六歳の時にフランスで飲んだ紅茶が忘れられず、のちに小田原板橋に掃雲台と称する別邸を建築したとき、敷地内に紅茶の栽培製造設備を構えたという。益田孝が、貿易や物流の重要さを学んだのは、若き時代に訪ねたパリにおいてではないのかと想像しているのだが、根拠はない。
大乗寺
長谷川伸「相楽総三とその同志」(中公文庫)によれば、三田薩摩藩邸に集合し、庄内藩を中心とした幕府方に襲撃された浪士たちは、ある者は薩摩藩の軍艦翔鳳丸で逃走し、それに乗船できなかった一部の者は陸路を西へ向かった。そのうちの三名(栗林芳五郎、早川均、坂本嘉三郎)が「小田原藩の手により弥勒寺というところで斬られ、後に小田原竹ヶ鼻の大乗寺の住僧がその首を埋葬して墓碑を建てた」という。早速、小田原駅近くの大乗寺へ行ってみたが、残念ながらそれらしい墓碑は発見できなかった。無縁墓石群も舐めるように探したが、そこにもそれらしい墓は無かった。小田原市内にはほかに「大乗寺」という寺院はないので、ここで間違いないと思うのだが…。
(大連寺)
大運寺
戦死之墓
大連寺には遊撃隊士の墓がある。葬られているのが誰だか今のところ不明。
(鈍翁in西海子)
益田鈍翁in西海子
小田原文学館の近くの住宅街の中に益田鈍翁の茶具や掛け軸を展示する「益田鈍翁in西海子(さいかち)」がある。
益田鈍翁、すなわち益田進、のちの三井物産創始者益田孝である。鈍翁は茶人としての名前である。
個人的には、益田進が父益田鷹之助の従者として、十六歳の若さで文久三年(1863)の遣欧使節に加わったことが記憶に残っている。何かそのときのものが残っていないかと期待して入ったが、展示されているのは茶道具が大半であった。
中に入ると、館内は電気が落とされ、人の気配もない。直ぐに管理人さんが現れ、丁寧に説明してくださった。十六歳の時にフランスで飲んだ紅茶が忘れられず、のちに小田原板橋に掃雲台と称する別邸を建築したとき、敷地内に紅茶の栽培製造設備を構えたという。益田孝が、貿易や物流の重要さを学んだのは、若き時代に訪ねたパリにおいてではないのかと想像しているのだが、根拠はない。