史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

高知城北側 Ⅱ

2013年04月21日 | 高知県
(薫的神社)


才谷屋助十郎の名前のある石燈籠

 この燈籠は、嘉永三年(1850)に城下や在郷の商人たちが寄進したもので、坂本龍馬の先祖である才谷屋本家から暖簾分けした才谷屋助十郎の名前を見ることができる。才谷屋は酒造業で財を成し、城下に住む武家に金を貸す仕送屋も兼業していた。


才谷屋助十郎

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高知城西側 Ⅲ

2013年04月21日 | 高知県
(観音堂)


観音堂

 文久二年(1862)四月八日、那須信吾、安岡嘉助、大石團蔵の三名は、帰途途上の吉田東洋を待ち伏せし暗殺した。彼らは観音堂(当時は思案橋付近にあったという)で東洋の首を同志に預け、そのまま脱藩した。東洋の首は、雁切橋に晒された。

 高知を訪ねたのは、東京に転勤となって以来なので、実に八年振りということになる。この春、東京では桜の開花が例年になく早く、四月を迎える前に散り始めているが、東京より遥かに南にある高知の方が花の盛りは遅く、ちょうど見頃を迎えていた。
 かつて四国に住んでいたときは、いつも高知の史跡は自動車で走り回っていたが、今回レンタカーに乗る前(つまり朝の八時前)は、路面電車(土佐電鉄)で市内を移動することにした。土佐電鉄では、昭和三十年代に製造され、かつては東京で活躍していた車両が未だに使用されているというレトロな電鉄である。高知駅前から上町方面へはりまや橋電停で乗り換えることになるが、下車する際に「乗り換えです」と告げて、運転士から乗換券をもらうのがコツである。


(歴史墓地公園)
 丹中山の坂本家の墓地を訪ねたのも久し振りであった。丹中山墓地は、開発という名のもとに大規模な改修が施されることになった。歴史写真家前田秀徳氏らの運動により、坂本家墓地周辺は、歴史墓地公園として整備されることになった。二か所に分かれていた坂本家墓地も一か所にまとめられている。


坂本直墓

 高松順蔵の長男で、坂本家を継いだ坂本直(維新前は高松太郎)の墓である。
 高松太郎は、天保十三年(1842)、安芸郡安田町に生まれた。父は高松順蔵、母は龍馬の姉、千鶴である。土佐勤王党に加盟し、文久二年(1862)には藩主に従って上京し、大原重徳、三条実美、姉小路公知らの邸に出入りして、三条、姉小路が勅使として東下の際には警固役を務めた。文久三年(1863)には海軍操練所に入ったが、土佐藩吏井上佐一郎暗殺事件の嫌疑により薩摩に避難した。その後、海援隊にも加盟した。維新後は箱館に勤務して、箱館戦争でも軍功があった。明治四年(1871)、龍馬のあとを継いで坂本直と改名した。明治三十一年(1898)五十七歳で没。


坂本榮之墓

 昭和四十三年(1968)、坂本家の墓地に次姉栄が密葬されているのが発見された。上の写真は同年建立された坂本栄の墓である。栄は、文久二年(1862)龍馬が脱藩したとき、家伝の刀を渡したため、責任を負って自害したといわれている。「竜馬がゆく」ほか多くの小説でも取り上げられる悲劇である。ところが、昭和六十三年(1988)に近くで栄の墓が発見され(後述)、昭和四十三年(1868)の“発見”は疑問視されている。

 歴史墓地公園には、坂本家の墓所のほか、戊辰戦争参戦者の墓、楠山庄助ら勤王の志士の墓、井口事件関係者の墓、それに坂本龍馬の姉、栄の嫁ぎ先である柴田家の墓などがある。


戊辰戦争参戦者の墓
真邊(戒作)家累代之墓


長崎貫太頼房


田中煌之進重行

 真邊戒作は、御馬廻。迅衝六番隊長、第四胡蝶隊司令として会津若松攻城戦まで転戦した。のちに高知藩留学生団長として英国に留学したが、帰国後の明治十二年(1879)自殺した。原因は不明。
 長崎貫太は、小高坂出身の徒士。迅衝六番隊士として出征するが、白河口の戦争で負傷し、慶応四年(1868)七月二十七日、戦病死した。三十三歳。
 田中煌之進も同じく小高坂出身の徒士。迅衝一番隊士。慶応四年(1868)六月十二日、湯本街道にて戦死。二十五歳。


柴田家の墓
(坂本栄の墓)

 昭和六十三年(1988)に発見された坂本栄の墓である。墓碑によれば、弘化二年(1845)九月十三日没となっており、即ち龍馬九歳のときのことである。

 坂本家墓所の隣は、「勤王志士ほかの墓」である。


真邉正心墓

 真邉正心栄三郎は、文政四年(1821)高知城下に生まれた。嘉永六年(1853)に安芸郡奉行に任じられ、以後近習目付、大目付を経て、吉田東洋に認められて文久二年(1862)には仕置役(参政)となった。東洋没後一時逆境に陥ったが、慶応二年(1866)には後藤象二郎に推されて開成館町方掛となり、長崎へ出張、さらに京攝長崎の商法掛となった。土佐藩の財政通として知られた。明治十二年(1879)五十九歳で死去。


楠山庄助 楠山庄助妻

 楠山庄助は、坂本龍馬も学んだと伝えられる楠山塾を開いた人物。龍馬は上士の子と争いを起こして退塾したが、楠山庄助は公平で優れた人物だったという。
 ほかにも土佐勤王党員島浪間の祖父、島弥四郎や、同じく勤王党員一瀬源兵衛の父、祖父、あるいは池内蔵太の一族で塾の師匠として多数の子弟を育成した池伴仙、池浩養兄弟の墓が整然と並べられている。

 そこから少し下に井口事件(永福寺事件)の関係者の墓が並べられている。


益永繁斉繁英墓

 文久元年(1861)三月に起きた永福寺門前における刃傷事件の際、山田広衛とともに池田虎之進に斬殺された益永繁斉の墓である。
 事件のきっかけとなったのは、郷士中平忠次郎と宇賀喜久馬が永福寺門前を歩いていたところ、上士山田広衛と益永繁斉が口論となったことである。その中平忠次郎の祖父中平九左衛門の墓も同じ墓地にある。

 坂本家墓所から少し離れたところに、龍馬の姉、乙女の婚家である岡上家の墓がある。乙女の夫、岡上樹庵(新甫)は医者。長男赦太郎の墓も並べられている。中央にあるのは、岡上菊栄の墓である。


岡上家墓地
岡上新甫墓(右)岡上赦太郎墓(右から三番目)

 乙女は岡上樹庵との間に男児赦太郎をもうけたが、赦太郎は十四歳で死亡した。赦太郎誕生の九年後の慶応三年(1867)、長女菊栄が生まれた。岡上菊栄は、社会福祉事業家として生涯を送った。昭和二十二年(1947)、八十歳で死去。


岡上菊栄の墓


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高知城東側 Ⅲ

2013年04月21日 | 高知県
(高知駅)


武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎像


龍馬伝 幕末志士社中

 少し見ない間に高知駅前はすっかり様子が変わっていた。まず目に入ってくるのが、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎像の巨大な銅像である。従来、この三人の像を見ようと思えば、須崎と桂浜と室戸岬を巡らないといけなかった。急いでも一日を要する行程である。それを思えば、駅前に降り立つだけで一度に対面が済んでしまうというのは、有り難いことである。
 その直ぐ横に龍馬伝 幕末志士社中という小さなテーマパークのようなものが作られており、盛んに呼び込みをやっていたので、つられて中を覗いてみた(入場料大人五百円)。先年のNHKの大河ドラマ「龍馬伝」で使われた龍馬の実家のテレビセットをそのまま移設したものを公開する施設である。

(岡本寧浦先生塾舎址)


岡本寧浦先生塾舎址

 はりまや町の一角に、岡本寧浦の塾舎跡を示す石碑が建てられている。岡本寧浦は、安芸郡安田町の出身で、十二代藩主山内豊資に用いられて、藩校教授館の教授となった。弘化三年(1846)官を辞し、当地に家塾を開いて子弟を教育した。門下に武市半平太、間崎滄浪らがいる。

(細川潤次郎先生誕生之地)


細川潤次郎先生誕生之地

 細川潤次郎誕生地を探して、付近を走行していると、対向車の隙っ歯のオジサンに「ここは一方通行やぞ」とお叱りを受けた。高知市街の道路は一方通行が多いので要注意である。
 細川潤次郎は、天保五年(1834)土佐藩儒者細川延平の長男に生まれ、安政元年(1854)、長崎に留学しえ蘭学、兵学を修めた。安政五年(1858)には江戸に出て、幕府の海軍操練所に入り、また中浜万次郎に師事して英語を学んだ。文久二年(1862)、土佐藩の致道館教授、山内容堂の侍読を務め、藩政にも参与した。維新後は開成所学校権判事に任じられ、新聞紙条例、出版条例の起草に当たった。明治四年(1871)にはアメリカに留学。帰朝後、文部省、左院、元老院などの要職を歴任、枢密院顧問官、貴族院副議長のほか、女子高等師範学校長、学習院長心得なども務めた。公職を辞した後は、西洋印書術の輸入、農事改良法の講究、米国博覧会の賛同など、文化事業の興隆に尽くした。大正十二年(1923)、九十歳で死去。

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「幕末外交と開国」 加藤祐三著 講談社学術文庫

2013年04月14日 | 書評
買ったCDが、家に帰ってみると既に購入済みだったということがよくあるが、この本も実は以前ちくま新書で出ていたものを入手したものだったということを、読み始めてから気が付いた。
ここで紹介したいのは、日米和親条約の交渉の場にいた松崎満太郎という人物のことである。松崎は筆頭の林大学頭復斎とともに応接掛に選ばれた儒者である。特に交渉の場で目立った活躍や発言があった様子はなく、恐らく漢文の能力を買われて応接掛に任命されたのであろう。
ペリーは応接掛の人物評を残しており、松崎満太郎については、
――― 地位や称号は不明、六十歳くらい、背が高く痩せており、しかも大変な近視。外見はいかめしく無愛想だが、彼はむしろ、この世の華やかで善なるものを好むようである。これは、この国の高い地位にある人びとに共通して見られる特徴である。誰かの比較は控えるが(筆者注 欄外に「彼は美男子には程遠いため」と補記)、よく似た人物が思い浮かぶ。
交渉が一段落すると、ペリーは応接掛ほか日本人七十名を艦隊に招待した。彼らは熱心に艦内を見学した後、司令長官室や甲板でシャンパンやワインなどの酒類とご馳走による歓待を受けた。酒が入ると、お互いの距離が近くなるのは今も昔も同じである。ある米国人は「母国を出て以来、これほど屈託なく笑い楽しんだことはなかった」と述べている。
酒が入ると無礼講となるのは日本人の習わしでもある。交渉の場ではさしたる活躍を見せなかった、「無愛想で美男子にはほど遠い」松崎満太郎がこの場で大活躍をしてしまう。緊張の糸が切れた彼は、ペリーの首に腕をまきつけ、抱擁せんばかりとなった。ペリーはいやがるところか「彼が条約に調印するならキスさせても良かった」と答えたという。ペリーは鎖国日本を開国させた人物として歴史上の人物となったが、松崎満太郎はペリーにキスした男として危うく歴史に名を残すところであった。
アルコールが入ると正体不明になってしまう日本人の姿は同胞としてちょっと恥ずかしいが、日米交渉の一幕を飾るほほえましいエピソードである。

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恵比寿 Ⅱ

2013年04月13日 | 東京都
(東京都写真美術館)


東京都写真美術館

 職場の女性から「こんなのやってますよ」という情報をいただき、さっそく週末に恵比寿ガーデンプレイス内にある東京美術館の「夜明けまえ」展に行ってきた。
 今回の展示は、幕末から明治にかけて北海道・東北に収蔵されている古写真を公開するものである。
 展示は「であい」「まなび」「ひろがり」という三つのコーナーに分けられ、当然ながら「であい」(概ね安政年間~元治元年)は出品数は少ない。ここでは元治元年(1864)の遣欧使節団の池田長発らの肖像写真が目を引く。松前藩十二代藩主松前崇廣の鮮明な写真にも目を見張った。松前崇廣は、外様でありながら老中に抜擢されるなど、将来を嘱望されていたが、慶應二年(1866)、病により三十八歳の若さで世を去った。西洋の文物にも強い関心を抱き、写真撮影にも熱心に取り組んだ人物である。十九世紀前半にフランスで発明され、我が国には幕末にヨーロッパから伝えられた写真術であるが、この時代に間に合ったことに感謝したい。
 「まなび」は文久・慶應から明治初年の写真である。この時代に入ると、箱館で撮影された有名な土方歳三の写真のほか、有名無名の人物写真が多く残されている。
 最期の「ひろがり」のコーナー(~明治後期)になると、日本人写真家の手に拠る写真も増える。肖像写真だけでなく当時の風景や建物を撮影した写真も少なくない。ニ代目棚倉藩主の阿部正功や大槻磐渓、仁禮景範ら知った人物の肖像写真がやはり興味をひいた。

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西巣鴨 Ⅱ

2013年04月13日 | 東京都
(白泉寺)


白泉寺


藤原(久貝)正典之墓

 白泉寺には幕臣久貝(くがい)正典の墓がある。安政の大獄や桜田門外の変を調べていると、よく目にする名前である。
 久貝正典は、文化三年(1806)、旗本久貝正満の子に生まれた。文政十年(1827)、寄合火事場見廻を皮切りに、火消役、小普請組支配、小姓組番頭、書院番頭、大番頭を経て、安政二年(1855)講武所総裁、翌安政三年(1856)には留守居役を兼任。安政五年(1858)には大目付に転じたが、引き続き講武所総裁を兼帯していた。この間、安政の大獄では五手掛として、桜田門外の変では吟味役として対応に当たった。しかし、文久二年(1862)、吟味に不手際があったため、免職、差控を命じられ、隠居することになった。のちに再び用いられ、元治元年(1864)には再び講武所奉行に任じられたが、慶應元年(1865)没した。年六十。木村芥舟は「その身躯偉大にして才衆に過絶す」と評している。

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茗荷谷 Ⅱ

2013年04月13日 | 東京都
(智香寺)


智香寺


田村家之墓
(田村銀之助墓)

 智香寺に新選組隊士田村銀之助の墓(田村家の墓に合葬)がある。
 田村銀之助は、慶應三年(1867)十月の隊士募集に応じて入隊した。当時十二歳であった。鳥羽伏見の戦争を経て、江戸帰還後は流山から会津に向かい、仙台から榎本武揚の旧幕艦隊に合流して蝦夷地に渡った。箱館戦争では、春日左衛門や伊庭八郎の最期を看取ったと言われる。大正十三年(1924)、六十九歳で死去。

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両国 Ⅱ

2013年04月13日 | 東京都
(江戸東京博物館)
 両国駅前の江戸東京博物館(墨田区横網1-4-1)で、特別展「八重の桜」を開催しているという情報を入手した(開催期間:平成二十五年三月十二日~五月六日)。このところ花粉症がひどくて、週末は基本的に外出を控えていた。外出どころか、新聞を取りに行くのも億劫である。そこにきて持病の腰痛が悪化して、一時は起き上るのも、寝返りを打つのも苦しいような状態に陥った。まだまだ花粉症も腰痛も全快したとはいえないが、意を決して特別展を観に行くことにした。


江戸東京博物館

 大河ドラマ「八重の桜」は、ほぼ毎週視ている。これまでのところ、本来主役である山本八重よりも、実兄山本覚馬が物語の中心となっているが、それもそのはずで戊辰戦争以前の八重の動きについては、ほとんど記録が残っていないらしい。
 八重の初婚の相手である川崎尚之助についても謎が多い。大河ドラマと同様、この特別展でも川崎尚之助を出石藩出身としているが、実はこれも明確な論拠はない。最近の研究では、川崎尚之助は会津藩士とも言われている(「歴史読本」2013年3月号 「新島八重と幕末会津をめぐる史料発掘情報」伊藤哲也)。
 川崎尚之助と八重が離別した経緯も実のところよく分かっていない。戊辰戦争後、川崎尚之助は東京で謹慎生活を送った後、斗南に移住して、そこで貿易に手を染めるが、多額の借金を抱え、外国人から訴訟を起こされる。明治八年(1875)まさに不遇のうちに生涯を終えるが、大河ドラマではどこまで再現するのだろうか。
 大河ドラマと史実との最大の違いは、八重のルックスである。新島襄も書簡で述べているように、八重の外見は決して美人ではない。写真も残っているので、見比べてみれば一目瞭然、綾瀬はるかとは似てもつかない風貌である。主役があまりに不細工では視聴率に関わるだろうから、ここは忠実にはできないと思うが、何となく違和感がある。

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立川

2013年04月13日 | 東京都
(中島家)


中島次郎兵衛邸跡


中島氏碑

 立川駅南口を出て、諏訪通りを歩く。諏訪神社の鳥居前を少し過ぎた所に中島家の門が残されている。中島家は、柴崎村の名主を務める家で、幕末の当主中島次郎兵衛は、近藤勇とも交友があったという。門の奥には「中島氏碑」が建立されている。撰文は三島毅、篆額は西園寺公望。

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日暮里 ⅩⅧ

2013年04月13日 | 東京都
(谷中霊園つづき)


正三位子爵有馬道純卿之墓

 有馬道純は、丸岡藩主。天保八年(1837)の生まれで、安政二年(1855)に十九歳で有馬家を継いだ。文久二年(1862)には寺社奉行、文久三年(1863)に若年寄、さらに老中となった。同年将軍家茂に従って上洛したが、元治元年(1864)老中を辞職して京都の守護に当たった。維新後は藩知事に任じられた。明治三十六年(1903)、六十七歳で死去。【甲3号1側】


陸軍中将従三位勲一等男爵滋野清彦之墓

 滋野清彦は、弘化三年(1846)長州藩士の子に生まれた。維新前は奇兵隊に属して四境戦争小倉口や北越戦争などに出征した。維新後も軍人としての道を歩み、佐賀の乱、西南戦争に活躍した。西南戦争では、大阪で補給、部隊編成の任に当たり、明治十年(1877)二月以降、征討総督本営参謀として出征した。明治二十九年(1896)に病を得て五十一歳にて死去。【甲8号9側】


男爵足立君(足立正声)墓碑銘

 足立正声(まさな)は、鳥取藩士。文久二年(1862)に藩の国事周旋方に就任し、王事に奔走した。本圀寺事件にも関与し、一時幽閉されたが、慶應二年(1865)に脱走して長州に走った。維新後は、明治三年(1870)に伊那、浜田両県の大参事のほか、宮内省などに出仕した。明治四十年(1907)、六十七歳にて死去。【甲8号20側】


正三位子爵高松實村之墓

 高松實村(さねむら)は、天保十三年(1842)に京都に生まれた。父は、高松保實。慶應四年(1868)正月、無断で京都を出奔し、彦根藩兵を従えて甲州、信州に進出した。二月には東山道鎮撫総督府に鎮撫状況を報告したが、京都帰還を命じられ、無断離京の廉で謹慎を仰せつけられた。その後、若松県出仕、図書権小属、内務権少録等を歴任した。明治四十年(1907)、六十六歳にて死去。【甲10号1側】


正三位高松保實之墓

 高松保實(やすさね)は、文化十四年(1817)高松公祐の三男に生まれた。安政五年(1858)には、外交に関して幕府と折衝するために関東に赴くことを申請した。同年、日米通商条約を巡って起った廷臣八十八卿列参事件にも参加。明治十一年(1878)、六十二歳にて死去。【甲10号1側】


藤澤家之墓
(藤澤次謙の墓)

 藤澤次謙(つぐよし)は幕臣。天保六年(1835)の生まれ。父は奥外科医桂川甫賢。文久二年(1862)、小普請組より講武所頭取に進んだ。この頃、幕府に進言しフランスより幕府洋式調練の指導を受けた。慶應元年(1865)軍艦奉行並。翌年には軍艦奉行、歩兵奉行、陸軍奉行並を歴任し、慶應四年(168)正月には陸軍総裁勝海舟の下で副総裁となり、幕府陸軍を指揮した。徳川家の駿府移封に伴い、沼津に赴き沼津兵学校の開校およびその運営に尽力した。明治四年(1871)、沼津兵学校が兵部省に移管されると、職を辞して野に下った。明治十四年(1881)四十七歳にて死去。【甲13号2側】


従五位小野義真之墓

 小野義真(おのぎしん)は土佐宿毛出身。若い頃は緒方洪庵の適塾に学んだ。維新後は大隈重信に重用され、大蔵少丞、土木頭などを歴任した後、三菱会社の顧問となって、岩崎弥太郎の片腕として活躍した。明治二十四年(1891)には、岩崎弥之助、井上勝らと小岩井農場を開いた。明治三十八年(1905)六十七歳にて死去。【乙1号5側】


宏濟院悟山泰道大居士
(長谷川泰の墓)

 長谷川泰(たい)は、天保十三年(1842)に越後国古志郡新組村に生まれた。長じて佐倉の佐藤尚中に蘭学を学び、江戸に出て松本良順の塾や幕府の医学書で学んだ。慶應三年(1867)、帰郷して長岡藩に仕えたが、明治二年(1869)新政府に見いだされて、大学中教授に任じられた。ついで東京医学校、長崎医学校の校長を歴任。その後、内務省衛生局長、衆議院議員にも選ばれた。大正元年(1912)七十一歳で世を去った。【乙1号7側】


菊池家累代之墓
(菊池大麓の墓)

 箕作家の墓域に菊池家累代の墓がある。菊池大麓(だいろく)は、箕作秋坪の二男。蕃書調所にて蘭学、英語を学び、慶應三年(1867)、十二歳のとき、幕府の英国留学生の一人に選ばれた。しかし、幕府瓦解とともに召喚され、開成所に入学した。明治三年(1870)再び渡英してケンブリッジ大学で数学、物理学を修めた。明治十年(1877)帰国して、東京大学理学部の教授となった。明治二十三年(1890)、貴族院議員、枢密顧問官、同三十一年(1898)、東京帝国大学総長、翌年には文部大臣。大正六年(1917)、六十三歳で没。【乙5号2側】


鰐水江木先生之墓

 江木鰐水(がくすい)は、文化七年(1810)に庄屋の家に生まれた。福山藩医江木家を継いで、累進して儒官となった。京都で頼山陽に師事。山陽の没後、大阪で篠崎小竹に学び、天保六年(1835)には江戸に出て古賀侗庵に師事した。同八年(1838)、福山藩主阿部正弘に見いだされて藩校の講書を命じられた。正弘が老中となってからは、その政治顧問となった。正弘の没後も、正教、正方、正桓の三代に仕えた。第一次および第二次の征長にも出陣。戊辰戦争では長州勢の来襲に備えて、正方の柩を守った。箱館戦争では福山藩参謀として参加。廃藩置県後は、士族授産に尽力した。明治十四年(1881)、七十二歳で死去。【乙7号10側】


木村熊二 木村鐙子 之墓

 木村熊二は、弘化二年(1845)、出石の生まれ。若くして江戸に出て、佐藤一斎の門下で学んだ。静岡学問所や沼津兵学校のある静岡に一時移ったが、明治三年(1870)、森有礼らに従って渡米。帰国すると、熱心なキリスト教的教育者として活動した。この頃、鐙子(とうこ)と結婚して、明治女学校を開校したが、まもなく鐙子はコレラで死去した。その後、小諸に移って小諸義塾を創設した。昭和二年(1927)没。【乙8号2側】
木村熊二の墓は現在無縁となっている。何とか保存してもらいたいものである。


正四位勲二等日下義雄墓

 日下義雄は会津藩士。藩儒安部井政治に漢学を学び、ついで藩校日新館に学んだ。戊辰戦争では鳥羽伏見の戦いで負傷、のち大鳥圭介の隊に投じ箱館五稜郭で戦い捕虜となり、江戸芝増上寺に収容された。明治三年(1870)大阪英語学校に入学。井上馨の知遇を得て、明治四年(1871)岩倉使節団に同行して欧米を視察した。明治七年(1874)帰国して、紙幣寮に入った。明治九年(1876)、井上馨に従って欧州に赴き経済を研究した。帰国後、太政官権大書記官・農務省権大書記官などを歴任。明治十九年(1886)初代長崎県令。明治二十五年(1892)には福島県知事。明治二十九年(1896)第一銀行監査役に就任。衆議院議員。明治三十二年(1899)に会津若松と郡山間に蒸気鉄道を走らせたことでも知られる。大正十二年(1923)、七十三歳にて死去。【乙8号7側】


従三位勲三等吉川重吉之墓

 吉川重吉は、岩国藩主吉川経幹の三男である。明治四年(1871)の岩倉使節団に随行して渡米。帰国後は外務省に出仕した。のちに男爵、貴族院議員となった。大正四年(1915)、五十七歳にて死去。【乙12号2側】


秋元氏之墓

 舘林藩主六万石秋元氏の墓である。
 秋元志朝(ゆきとも)は、文政三年(1820)に、徳山藩主毛利広鎮の二男に生まれた。長州藩の世子、毛利定広の実兄にあたる。天保二年(1831)、十二歳のとき山形藩主秋元久朝の養嗣子となり襲封。ついで舘林に転封された。長州藩との関係から、尊王の志厚く、水戸、宇都宮と交わり、関東の尊攘藩として重きをなした。元治元年(1864)の禁門の変では、幕府の嫌疑を受け、江戸にて幽居させられた。明治九年(1876)、五十七歳にて死去。

 秋元氏の墓域には、「清徳之鑑」と題した秋元禮朝(ひろとも)の顕彰碑が建てられている。
 秋元禮朝は、嘉永元年(1848)に掛川藩主太田資始の五男に生まれた。安政六年(1859)に秋元志朝の養子となり、元治元年(1864)志朝が致仕させられた後を受けて襲封した。戊辰戦争では勤王の態度を決し、関東諸藩に率先して上洛の途上、東山道先鋒総督に遅参を責められ、大砲、軍資金を献上することになった。以後、関東、奥州に藩兵を派遣した。維新後は舘林藩知事、皇宮警備に任じられた。明治十六年(1883)三十六歳という若さで世を去った。【乙14号1側】


清徳之鑑碑


海荘菊池翁墓碑銘

 菊池海荘は紀伊国有田郡栖原村の商家の出身である。兄が仏門に入ったため家業を継いだが、天保七年(1836)の飢饉の際、大阪にあって大塩平八郎と救民の策を建議したが容れられず、郷里に戻った。嘉永三年(1850)には海防の急務を藩主に建白して、有田、日高二郡の文武総裁に任じられ、農兵を組織した。慶應年間には、大原重徳を頼って国政意見を上陳して叡聞に達した。維新後は有田郡の民政局副知事に任命された。辞職後は東京に移り住んだ。明治十四年(1881)八十三歳で没した。【天王寺墓地】


貫堂河田先生墓
(河田熙の墓)

 河田熙(ひろむ)の墓である。貫堂は雅号。もともと幕臣で儒家であったが、文久二年(1862)に外国奉行支配組頭となり、翌年には横浜鎖港談判使節同行を命じられ、正使池田長発らとともにパリへ渡った。帰国して鎖港の不可を建言したため、免職、閉門を命じられた。のち許されて陸軍奉行並支配、慶應三年(1867)には開成所頭取となった。明治後は静岡に移住して、静岡藩少参事。廃藩後は、徳川家の家扶として東京に移った。明治十年(1877)には徳川家当主家達に従い英国に渡り、明治十五年(1882)に帰国した。以後、徳川家の子女の教育にあたった。明治三十三年(1900)、六十六歳にて死去。【天王寺墓地】

(羽二重団子)


羽二重団子


官軍の砲弾

 団子は「焼き」と「餡」の二種類。五本で千三百円と決して安くはないが、値段以上の満足感がある。入口を入ったところに上野戦争当時の砲弾が展示されている。

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