(日光杉並木)
日光杉並木
日光へ通じる街道には杉並木が整備されている。日光には日光道中(現在の国道119号線)と日光例幣使街道(国道121号線)、会津西街道の街道が通じており、いずれの街道沿いにも杉並木が残されている。杉の総数は実に一万三千本に及ぶが、往時は五万本を数えたという。東武日光線上今市駅から西側は杉並木公園として整備されている。
この杉並木の中に、戊辰戦争の前哨戦で官軍が旧幕府軍を砲撃した際、砲弾が撃ち込まれた「砲弾打込杉」があるというので、探し回った。何千とある杉の中から、目当ての杉を探し当てるのは、広大な墓地で墓を探し出すよりずっと難易度が高かった。あとからデジカメの撮影時間で確認すると探していた時間はほんの十五分くらいだったようだが、気分的には1時間以上歩き回ったような疲労感が残った。
砲弾打込杉
これが砲弾打込杉である。日光市のたてた駒札には「この杉の凹んでいるところは砲弾が当たって破裂したあとである」と説明されているが、何回見てもどこが「凹んでいるところ」なのか確定できなかった。要するに、外観からはほかの杉との区別ができなかったという次第である。
報徳仕法農家
杉並木公園内には、報徳仕法により再興された慶応元年(1865)建築の報徳仕法(二宮尊徳による農村復興事業)農家や、南小倉村名主の江連家住宅などが移築・復元されている。
(回向院)
佐賀藩兵戦死之墓
平成十七年(2005)に今市市や藤原町を合併して今日の日光市となった。旧今市市街に位置する二つの寺院を訪ねた。一つが回向院である。
土佐藩戦死者の墓
回向院には、慶応四年(1868)四月末から閏四月、五月にかけての戦闘(瀬川・大桑・今市)で戦死した佐賀藩士および土佐藩士の墓がある。佐賀藩の戦死者は十四名。合葬墓に葬られている。土佐藩の方は十名で、個別に名前が刻まれた墓石が並べられている。
(如来寺)
如来寺
如来寺の門前には、戊辰戦争の戦死者供養塔が建てられている。この寺では、安政三年(1856)二宮尊徳の葬儀が行われたことでも知られる。
戊辰役戦死者 供養塔
(報徳二宮神社)
報徳二宮神社
二宮尊徳は、小田原の農家に生まれ、小田原藩家老服部家に仕え、同家の莫大な借財の整理に手腕を発揮した。名声を博した尊徳は、藩主大久保忠真の抜擢を受け、分家である下野桜町の復興を委嘱され、ここでも幾多の困難を克服して再建を成し遂げた。やがて関東各地の大名家から依頼が殺到するようになり、東奔西走の日々が続いた。ついで日光神領八十九ヵ村の復興の命を受け、老体を捧げてこの大業に従事したが、七十歳をもって今市に倒れた。尊徳はこの地に葬られ、墓も建てられたが、明治三十年(1897)尊徳を祭神として、その遺徳を称えて神社が創建された。
誠明院功譽報徳中正居士
(二宮尊徳の墓)
報徳像
今市周辺には、ほかにも二宮尊徳ゆかりの史跡が散在しているが、時間切れで今日の史跡探訪はこれまで。いや時間はまだこの時点で午後四時を回ったところであったが、朝からほとんど飲まず食わずであったため、これ以上史跡を訪ねて動く気力が失せてしまっただけである。

日光杉並木
日光へ通じる街道には杉並木が整備されている。日光には日光道中(現在の国道119号線)と日光例幣使街道(国道121号線)、会津西街道の街道が通じており、いずれの街道沿いにも杉並木が残されている。杉の総数は実に一万三千本に及ぶが、往時は五万本を数えたという。東武日光線上今市駅から西側は杉並木公園として整備されている。
この杉並木の中に、戊辰戦争の前哨戦で官軍が旧幕府軍を砲撃した際、砲弾が撃ち込まれた「砲弾打込杉」があるというので、探し回った。何千とある杉の中から、目当ての杉を探し当てるのは、広大な墓地で墓を探し出すよりずっと難易度が高かった。あとからデジカメの撮影時間で確認すると探していた時間はほんの十五分くらいだったようだが、気分的には1時間以上歩き回ったような疲労感が残った。

砲弾打込杉
これが砲弾打込杉である。日光市のたてた駒札には「この杉の凹んでいるところは砲弾が当たって破裂したあとである」と説明されているが、何回見てもどこが「凹んでいるところ」なのか確定できなかった。要するに、外観からはほかの杉との区別ができなかったという次第である。

報徳仕法農家
杉並木公園内には、報徳仕法により再興された慶応元年(1865)建築の報徳仕法(二宮尊徳による農村復興事業)農家や、南小倉村名主の江連家住宅などが移築・復元されている。
(回向院)

佐賀藩兵戦死之墓
平成十七年(2005)に今市市や藤原町を合併して今日の日光市となった。旧今市市街に位置する二つの寺院を訪ねた。一つが回向院である。

土佐藩戦死者の墓
回向院には、慶応四年(1868)四月末から閏四月、五月にかけての戦闘(瀬川・大桑・今市)で戦死した佐賀藩士および土佐藩士の墓がある。佐賀藩の戦死者は十四名。合葬墓に葬られている。土佐藩の方は十名で、個別に名前が刻まれた墓石が並べられている。
(如来寺)

如来寺
如来寺の門前には、戊辰戦争の戦死者供養塔が建てられている。この寺では、安政三年(1856)二宮尊徳の葬儀が行われたことでも知られる。

戊辰役戦死者 供養塔
(報徳二宮神社)

報徳二宮神社
二宮尊徳は、小田原の農家に生まれ、小田原藩家老服部家に仕え、同家の莫大な借財の整理に手腕を発揮した。名声を博した尊徳は、藩主大久保忠真の抜擢を受け、分家である下野桜町の復興を委嘱され、ここでも幾多の困難を克服して再建を成し遂げた。やがて関東各地の大名家から依頼が殺到するようになり、東奔西走の日々が続いた。ついで日光神領八十九ヵ村の復興の命を受け、老体を捧げてこの大業に従事したが、七十歳をもって今市に倒れた。尊徳はこの地に葬られ、墓も建てられたが、明治三十年(1897)尊徳を祭神として、その遺徳を称えて神社が創建された。

誠明院功譽報徳中正居士
(二宮尊徳の墓)

報徳像
今市周辺には、ほかにも二宮尊徳ゆかりの史跡が散在しているが、時間切れで今日の史跡探訪はこれまで。いや時間はまだこの時点で午後四時を回ったところであったが、朝からほとんど飲まず食わずであったため、これ以上史跡を訪ねて動く気力が失せてしまっただけである。