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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

今市

2008年12月31日 | 栃木県
(日光杉並木)


日光杉並木

 日光へ通じる街道には杉並木が整備されている。日光には日光道中(現在の国道119号線)と日光例幣使街道(国道121号線)、会津西街道の街道が通じており、いずれの街道沿いにも杉並木が残されている。杉の総数は実に一万三千本に及ぶが、往時は五万本を数えたという。東武日光線上今市駅から西側は杉並木公園として整備されている。

 この杉並木の中に、戊辰戦争の前哨戦で官軍が旧幕府軍を砲撃した際、砲弾が撃ち込まれた「砲弾打込杉」があるというので、探し回った。何千とある杉の中から、目当ての杉を探し当てるのは、広大な墓地で墓を探し出すよりずっと難易度が高かった。あとからデジカメの撮影時間で確認すると探していた時間はほんの十五分くらいだったようだが、気分的には1時間以上歩き回ったような疲労感が残った。


砲弾打込杉

 これが砲弾打込杉である。日光市のたてた駒札には「この杉の凹んでいるところは砲弾が当たって破裂したあとである」と説明されているが、何回見てもどこが「凹んでいるところ」なのか確定できなかった。要するに、外観からはほかの杉との区別ができなかったという次第である。


報徳仕法農家

 杉並木公園内には、報徳仕法により再興された慶応元年(1865)建築の報徳仕法(二宮尊徳による農村復興事業)農家や、南小倉村名主の江連家住宅などが移築・復元されている。

(回向院)


佐賀藩兵戦死之墓

 平成十七年(2005)に今市市や藤原町を合併して今日の日光市となった。旧今市市街に位置する二つの寺院を訪ねた。一つが回向院である。


土佐藩戦死者の墓

 回向院には、慶応四年(1868)四月末から閏四月、五月にかけての戦闘(瀬川・大桑・今市)で戦死した佐賀藩士および土佐藩士の墓がある。佐賀藩の戦死者は十四名。合葬墓に葬られている。土佐藩の方は十名で、個別に名前が刻まれた墓石が並べられている。

(如来寺)


如来寺

 如来寺の門前には、戊辰戦争の戦死者供養塔が建てられている。この寺では、安政三年(1856)二宮尊徳の葬儀が行われたことでも知られる。


戊辰役戦死者 供養塔

(報徳二宮神社)


報徳二宮神社

 二宮尊徳は、小田原の農家に生まれ、小田原藩家老服部家に仕え、同家の莫大な借財の整理に手腕を発揮した。名声を博した尊徳は、藩主大久保忠真の抜擢を受け、分家である下野桜町の復興を委嘱され、ここでも幾多の困難を克服して再建を成し遂げた。やがて関東各地の大名家から依頼が殺到するようになり、東奔西走の日々が続いた。ついで日光神領八十九ヵ村の復興の命を受け、老体を捧げてこの大業に従事したが、七十歳をもって今市に倒れた。尊徳はこの地に葬られ、墓も建てられたが、明治三十年(1897)尊徳を祭神として、その遺徳を称えて神社が創建された。


誠明院功譽報徳中正居士
(二宮尊徳の墓)


報徳像

 今市周辺には、ほかにも二宮尊徳ゆかりの史跡が散在しているが、時間切れで今日の史跡探訪はこれまで。いや時間はまだこの時点で午後四時を回ったところであったが、朝からほとんど飲まず食わずであったため、これ以上史跡を訪ねて動く気力が失せてしまっただけである。

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鬼怒川

2008年12月31日 | 栃木県
(鬼怒川公園)
 今市市街から鬼怒川温泉まで約12㎞の距離がある。殉難碑を見るために、鬼怒川温泉まで車で往復することにした。


殉難碑

 両軍の努力により日光山内での戦闘は回避されたが、代わりに戦火に曝されたのが現・鬼怒川温泉郷周辺の大原村および小原沢であった。東武鬼怒川線の鬼怒川温泉駅から北上して鬼怒川公園駅手前で右折するとすぐに戊辰街道公園である。途端に道路が雪深くなり、ノーマルタイヤでここまできた私には、これ以上進むのは無謀であった。まさにこの地がこの時期の史跡探索の北限ということだろう。


鬼怒川戊辰街道公園

 殉難碑の裏側には、この戦闘で戦死した両軍戦死者の氏名が彫られている。

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日光 Ⅱ

2008年12月31日 | 栃木県
(神橋)
 日光の社寺への入口に神橋という朱塗りの橋がかけられている。神橋は、日光に参詣する将軍と、修験者のみが通行を許された神聖な橋であった。


神橋(しんきょう)

 広い境内を持つ日光は、大軍を駐屯させるには絶好の施設であった。上野戦争に敗れた旧幕軍は、ここを拠点として態勢立て直しを図った。


板垣退助君

 神橋の近くに板垣退助の像が建っている。板垣退助は、慶応四年(1868)の戊辰戦争の折、東山道鎮撫軍先鋒参謀として従軍していたが、日光に立て籠る旧幕府軍の大鳥圭介らを説得して、日光の社寺を戦火から守ったという。この銅像は,その遺徳を称え昭和四年(1929)に建立されたものである。


日光金谷ホテル

 板垣退助像から坂を上った場所にあるのが老舗日光金谷ホテルである。金谷ホテルの創始者、金谷善一郎は日光山の楽人(雅楽師)であった。明治六年(1873)、ヘボン博士の勧めにより自宅の一部を宿泊施設として営業を始め、明治二十六年(1893)に現在地に移したもので、本館、新館、別館とも国の登録文化財に指定されている。

(日光奉行所跡)
 西参道の西側に日光奉行所跡の石碑が建つ。かなり広大な敷地を占めていたことが伺われる。全国に設置された遠国奉行の一つとして元禄十三年(1700)日光にも奉行所が置かれた。日光奉行は当初日光廟の警備、営繕、祭事を主な任務としたが、寛政年間以降は日光領の司政、裁判も担当するようになった。明治二年(1869)に日光県が置かれると、その庁舎に充てられ、明治四年には廃県とともに取り壊された。何か遺構があるのかと敷地を探してみたが、それらしいものは残っていない。


史跡 日光奉行所跡

(浄光寺)


浄光寺

 日光奉行所跡を真っ直ぐ南に下りた辺りに千二百年の歴史を有する浄光寺がある。本堂前に「戊辰戦争隊士の墓」という市の教育委員会が建てた標柱のある墓を見ることができる。

 墓の主は、幕臣小花和重太郎である。重太郎は、トミーこと立石斧次郎の実兄で、重太郎と斧次郎がにこやかにビールを酌み交わす珍しい写真が残されている。小花和は慶応四年(1868)四月二十一日安塚(現・下都賀郡壬生町安塚)での戦闘で重傷を負い、宇都宮で死亡した。墓の文字は、竹松と読める。


戊辰戦争隊士の墓


防火隊碑

 浄光寺の防火隊碑という石碑にも注目したい。防火隊とは東照宮を守るために編成された火の番のことであり、八王子千人同心がその任に当たった。この石碑は当地で亡くなった隊員を弔うために、天保五年(1824)に建てられたものである。八王子千人同心は、戊辰戦争の際にも日光まで出征し、そこで恭順の姿勢を貫き、日光を戦火から守った功績大とされている。現在、八王子市と日光市は姉妹都市の盟約を結んでいる。

(観音寺)


観音寺

 上鉢石町の観音寺から、木造四階建ての日光市役所日光総合支所庁舎(大正八年建造)の裏の道を歩くと、ここでも「戊辰戦争隊士の墓」という標柱を見つけることができる。会津藩士で大鳥軍参謀を務めた柿澤勇記の墓である。柿澤は四月二十三日の宇都宮の戦争で重傷を負い、日光和泉屋金右衛門宅にて死去した。三十六歳。


柿澤勇記藤原重任墓
戊辰戦争隊士の墓

(龍蔵寺)


龍蔵寺

 御幸町の龍蔵寺には新政府軍に従軍して戦死した安芸藩士の墓がある。本堂の横にいくつかの墓石が並んでいるが、そのうちの一つがそれらしい。墓石の表面は磨滅して文字が読み取れない。指でなぞってようやく「芸州戦死八士墓」らしき文字が確認できた。


芸州戦死八士墓

 御幸町から少し離れるが、日光駅の南側、志渡淵川を渡ったところに龍蔵寺の墓地が広がる。予想に反する広い墓地で、この中から目当ての墓を探し出すのは容易ではない。しかし幸いなことに、訪問者のために墓地の入口に案内があって、「戊辰戦争隊士の墓」の在り処はすぐに分かった。


戊辰戦争隊士の墓

 膝丈ほどしかない小さな墓は、甲府の住人臼井清左衛門のものである。清左衛門は官軍の斥候として日光の奥深くまで潜入したが、捕らわれて処刑された。二十五歳であった。

(七里)


大草保助 廣田銊太郎 墓
戊辰戦争隊士の墓

 日光から今市方面に向かう国道119号線沿いの杉並木の中に、小さな墓地がある。そこにも「戊辰戦争隊士の墓」がある。四月二十三日の宇都宮の戦争で戦死した大鳥隊士大草保助と広田銊太郎の墓である。上官である陸軍士官兼軍察高野熊之助が建てたものという。

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日光 Ⅰ

2008年12月31日 | 栃木県
 年の瀬の12月29日、一日のお暇をいただいて日光方面に出かけることにした。本当をいえばもっと北に行きたかったのだが、積雪のことを考えると日光辺りが冬の史跡訪問の北限であろう。
 冬は寒いし、日が落ちるのも早い。史跡訪問には本来適さない季節かもしれない。でも考えようによっては、この時期も悪くない。空が澄んでいて、青空を背景に綺麗な写真が撮れる。それに年末の忙しい時期に呑気に旅行している人間はあまりいないので、普段は混んでいる観光地も意外と空いているのである。この日、早朝未だ暗いうちに自宅を出て、2時間半後には日光に到着した。途中、全く渋滞に遭わなかったし、東照宮の駐車場もガラガラであった。

(日光東照宮)


東照宮陽明門


神厩欄間彫刻(三猿)
有名な「見ざる 言わざる 聞かざる」

 日光といえば東照宮である。
 東照宮は、徳川家康の遺言に従って建立された家康の廟所である。日光を訪ねたのは、中学校の修学旅行以来であった。何だかケバケバしい印象だけが記憶に残っているが、三十数年振りの東照宮はやはり絢爛たるものであった。同時に建造物に施された彫刻は、実に精緻にして壮麗なもので、改めて感銘を受けた。


輪王寺 黒門

 輪王寺の表門(通称黒門)は、天海により創建されたもの。明治四年(1871)に火事により本坊が焼失したときも唯一焼け残ったものである。

 日光山内というのは、二荒山神社と東照宮それと輪王寺の二社一寺のことを指す。輪王寺の歴史は古く、奈良時代に修行道場として開かれて以来、信仰を集めてきた。江戸初期、家康、秀忠、家光の三代にわたって宗教顧問として仕えた僧天海が、死に際して自分の後継者に皇族を迎えたいと遺言したことを受けて、承応三年(1654)後水尾天皇の第三皇子守澄法親王を門跡として迎えた。翌年、朝廷からの院宣により輪王寺宮の称号が与えられ、以後、法親王が輪王寺門跡を務めることになった。歴代の輪王寺宮は、比叡山延暦寺天台座主を兼ね、東叡山(上野寛永寺)に居住した。
 天海が朝廷から皇子を迎えようとしたのは、天台宗の統一を図るという、純粋に宗教上の理由だったようであるが、幕末に至って政治的な意味を帯びてくる。鳥羽伏見の戦争に敗れた旧幕府軍は、第十三代輪王寺宮能久親王(のちの北白川宮)を擁して上野の山に立て籠った。上野戦争で敗退すると輪王寺宮は品川沖から旧幕艦長鯨丸に乗艦して常陸に逃れた。更に奥羽越列藩同盟の盟主に仰がれて、米沢、仙台等、東北各地を転々とした。官軍に対抗して旧幕軍が担ぐには、恰好の旗印であった。幕末に変のあることを予期して二百年に渡って皇子を朝廷から迎え、人質として養っていたとすれば、これほど時間と金のかかったリスクマネジメントはあるまい。


輪王寺 三仏堂


逍遥園


明治天皇日光行在所

 輪王寺三仏堂の向かい側に、輪王寺本坊の庭、逍遥園がある。入口には明治天皇日光行在所の石碑が建っているが、これは明治八年(1875)東北巡幸の際、木戸孝允を伴って日光に臨幸したことを記念したものである。

 逍遥園の命名は、幕末の儒者佐藤一斎によるものである。京都から下ってきた宮様を慰めるため、庭園は京風に造られたという。私が訪れたとき、池には氷が張っていて、冠雪した男体山や大真名子山を遠くに臨むことができた。隣接する輪王寺宝物殿では、「輪王寺宮」を常設展示している。こちらも是非見ていきたい。


護王殿


能久親王塔

 この日、日光を訪れた最大の目的地は護王殿である。西参道から林道が延びており、その林道を進むこと十分、静かな木立の中に護王殿が佇んでいる。その裏側には輪王寺宮能久親王の分霊墓がある。

 輪王寺宮能久親王は、旧幕軍の敗色が濃くなると、慶応四年(1868)九月二日、白河口総督四条隆謌に謝罪状を送り、謹慎に処された。一年後に赦され伏見宮に復籍した。その後、ドイツに渡ってプロシア陸軍大学に学び、陸軍軍人としての道を歩んだ。明治二十五年(1892)には陸軍中将に任じられ、その間戸山学校教頭、東京鎮台司令官、歩兵第一旅団長、第六師団長、第四師団長と要職を歴任した。明治二十八年(1895)近衛師団長として台湾島民の叛乱の鎮圧に出征したが、台湾省台南において病を得て薨去。波乱に満ちた四十九年の生涯であった。


北白川能久親王銅像

 吉村昭の「彰義隊」は、能久親王を主人公とした長篇小説である。かつて吉村昭の「生麦事件」を単行本で買った途端、文庫化された苦い記憶がある。決してケチで言っているのではない。文庫本は経済的というだけでなく、かばんの中に入れておけば、通勤や出張の途上でも気軽に読むことができる。ベッドサイドで読むにも疲れない。「彰義隊」も文庫本になるのを、首を長くして待っていた。先日、新聞広告で文庫が発刊されたことを知ったので、すぐさま本屋に走って手に入れた。今は頁を開くのが楽しみでならない。

 護王殿の隣の奉安殿には、騎乗姿の能久親王の銅像が安置されている。格子の間からレンズを入れて、何とか写真を撮ることができた。国立近代美術館工芸館前にも能久親王(北白川宮)像が建てられているが同じものか?

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関内

2008年12月26日 | 神奈川県
(横浜開港資料館)


薩英戦争記念銘板

 久しぶりに横浜開港資料館を訪ねた。資料館の壁面に「薩英戦争記念銘板」なるものを見つけた。これは文久三年(1863)の薩英戦争の犠牲となったイギリス将兵を記念して、横浜在住のイギリス人が作成して建物に備え付けたものである。


旧居留地90番地の大砲

 開港広場に面して、鋳鉄製11ポンドキャノン砲が置かれている。この大砲は、外国人居留地90番地の、シーベル・ブレンワルト商会(スイス)の倉庫の入口に備えつけられていたものといわれる。シーベル・ブレンワルト商会は、主に生糸の輸出や時計の輸入に従事していたが、戊辰戦争時には武器の輸入にも携わっていた。この大砲は武器を取り扱っていた記念だという。

(英一番館跡)


史跡 英一番館跡

 開港広場の向い側、シルクセンターのある場所が居留地一番館のあった地点である。安政六年(1859)、横浜が開港すると、イギリス人ウイリアム・ケズウィックはこの地にジャーディン・マセソン商会を設立した。この建物は当時から「英一番館」と呼ばれていた。

(神奈川県立歴史博物館)


神奈川県立歴史博物館

 馬車道沿道には多くの歴史的建造物が残されているが、青銅製のドームを備えた神奈川県立歴史博物館は一際目を引く威容を誇っている。この建物は明治三十七年(1904)に横浜正金銀行本店として建てられたものである。関東大震災の際に内装と屋上のドームを焼失したが、建物本体は地震に耐えた。

 1階から3階まで、古代から現代に至るまでの神奈川の歴史に関する展示が常設されている。やはり注目は、開港以降の横浜近代化の展示であろう。エスカレーターを上がると、いきなり青銅80ポンド陸用カノン砲が出迎えてくれる。この大砲は、湯島馬場大筒鋳立場で鋳造され、品川台場に備えられたものである。

(日本郵船歴史博物館)


日本郵船歴史博物館

 海岸通りに面して日本郵船歴史博物館が在る。この建物は、昭和十一年(1936)に日本郵船㈱の横浜支店として建築されたもので、アメリカ式古典主義様式を採用した堂々たる建物である。その一階全体が歴史博物館として公開されている。一民間企業の博物館としては他に例がないくらい充実したものであるなお、無料であればもっと素晴らしいところだが、惜しいかな入場料は大人五百円である。
 日本郵船は、土佐藩が長崎に開設した九十九商会が三菱商会へ発展し、のちに共同運輸㈱と合併して生まれた会社である。三菱グループの源流企業といわれる所以である。岩崎弥太郎率いる三菱商会が巨大化したのは、台湾出兵や西南戦争で兵や武器の輸送を請け負ったことが背景にあった。当時、外国航路をアメリカやイギリスに独占されていたため、自国で航路を確保したい明治政府のバックアップを受けて発展を遂げた。現在では世界に冠たる海運企業となった。


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桜木町

2008年12月26日 | 神奈川県
(JR桜木町駅)
 桜木町の改札の手前の壁面に、イギリス人エドモンド・モレルの肖像が飾られている。モレルは、植民地の鉄道建設の経験を持ち、初代鉄道建築技師長として明治政府に招かれた。明治三年(1870)三月に来日し、彼の監督下で新橋―横浜間の鉄道建設が着手された(開通は明治五年九月)。更に神戸~大阪間の鉄道敷設事業ほかの鉄道建設全般にわたり、計画・設計・工事を指揮したが、結核のためにインドへの転地前に死去した。三十歳であった。彼の誠意溢れる人柄について、伊藤博文も激賞している。墓は横浜外人墓地にある。


エドモンド・モレル肖像

(ガス事業発祥の地)


日本ガス事業発祥の地碑

 明治三年(1870)、高島嘉右衛門はこの地にガス会社を設立した。高島はフランスから技術者を招き、明治五年(1872)、神奈川県庁付近および大江橋から、馬車道、本町通り沿いに至るまでの間に、ガス街灯十数基を点灯させた。これが我が国のガス事業の発祥といわれる。この事業はのちに横浜市瓦斯局となり、昭和二十九年(1954)東京ガスに引き継がれた。

(神奈川奉行所跡)


史跡 神奈川奉行所跡

 神奈川文化センターの前に、神奈川奉行所跡石碑が建てられている。安政六年(1859)、横浜開港に伴い、神奈川奉行所が置かれた。同時に開港場建設事務の携わった外国奉行酒井忠行、水野忠徳(癡雲)、村垣範正(淡叟)、堀利煕、加藤則著に神奈川奉行所兼務が発令された。万延元年(1860)には神奈川奉行所職は専任となり、松平康直、都築峰暉が就任した。維新政府により裁判所が設置され、奉行所の業務も引き継がれた。

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「風雲回顧録」 岡本柳之助著 平井晩村編 中公文庫

2008年12月24日 | 書評
 「自序」にいう。自分の半生には誤られた事実も多い。しかしかつて他人の話を打ち消したこともなければ訂正したこともない。聞きたいという貴需に応じてもよい頃と思うから、これからぼつぼつ老人の記憶を辿ってお話しよう、と。竹橋事件の黒幕といわれる岡本柳之助が、事件の暗部についてどのように証言しているのか、大いに興味をそそられるが、結局、岡本自身は竹橋事件についても、閔妃暗殺事件についても、敢えて触れていない。山中で駕籠かきに襲われ短銃をぶっ放して危機を脱したとか、西南戦争のときに薩軍の本営を衝くことを建策したが実現しなかったことなど、老人の自慢話に終始しており、肩透かしを食らった感を否めない。
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「戊辰戦争とうほく紀行」 加藤貞仁著 無明舎出版

2008年12月20日 | 書評
 著者は福島県の出身で、新聞記者として秋田支社に長く、本書以外にも東北を舞台とした戊辰戦争や幕末を題材とした著作がある。本書では新潟県を含む東北七県の戊辰戦争の戦跡をくまなく紹介している。東北地方の戊辰戦争関連史跡ガイドブックとしては完璧といっても良いだろう。この本を片手に東北を巡る夢が膨らむ。
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「残響」 田中和夫著 北海道出版企画センター

2008年12月14日 | 書評
 薩摩英国留学生の一人で、サッポロビールの前身、札幌麦酒醸造所を創設した村橋久成の生涯を描いた力作である。札幌麦酒醸造所を立ち上げ、開拓使として一定の成功を収めたかに見えた村橋が、突然官を辞し諸国放浪を始めた人生は謎に満ちている。彼が日記や遺書を残しているわけでなく、ここは小説家の出番であろう。しかし著者田中和夫氏は、空想を積み上げるのではなく、圧倒的な史料を調べ上げ、その上で村橋の心理を見事に描いた。あとがきに依れば、「資料集めから完結に至るまで五年余りを費やした」といい、その間「公文録・申奏録・会計書類などの閲覧数は私の取材ノートにあるだけで、約四百三十冊になっている」そうである。小説「残響」は著者の執念の集大成と言える。
 今となっては、官を辞した村橋の心境は、推理するしかない。
① 麦酒醸造所北海道産物会所など、大きな仕事をやり遂げたあとの空虚さ
② 役所社会における政治的な策動や人間関係に対する嫌悪感
③ 官有物払下げによって私服を肥やす周囲の顕官の薄汚さ
④ 藩政時代には自分より下位であった黒田清隆や安田定則らに頭を下げなくてはならない屈辱
⑤ 離縁した妻への想い
など色々複合的理由があるというのが、田中氏の見解かもしれない。因みに「薩摩英国留学生」(中公新書)で、犬塚孝明氏は「村橋は、その真摯実直な性格ゆえに、官界をとりまく虚偽と策謀の渦中にその身を置くことに耐えられなかったのであろう」と総括している。
 なお吉村昭の小説「夜明けの雷鳴」(文春文庫)は、高松凌雲を主人公とした作品であるが、新政府軍監軍村橋久成は高松凌雲をとおして榎本武揚に降伏を説く重要な役回りを演じている。村橋の死を知った高松凌雲は、箱館戦争の折の悲惨な風景が村橋の胸に焼きつき「高官の地位を得て豊かな生活をしていたかれは、生まれ育ちが良いだけにその折の記憶が年を追うごとに増幅し、人間の生命の儚さ、世の無常が胸にせまり、官を捨て飄然と家を出たのではあるまいか」と推察している。
 さて放浪の旅の果てに野垂れ死に同然に亡くなった村橋に対し、田中氏は「今も神戸のどこかで無縁仏になってはいないか」と心配したようである。しかし、彼の死に際してかつての北海道開拓使時代の同僚たちは意外にも暖かい手を差しのべていた。開拓使長官の黒田清隆を始め、湯地定基、永山武四郎、堀基、時任為基、山内隄雲らが、村橋の葬儀に参列し、別れを惜しんだという。今も青山霊園に村橋久成の墓を見ることができる。


正七位村橋久成墓

 村橋の墓前には、「残響」の一節が刻まれた墓標が建てられている。
――― 村橋は、成功を伝えられる札幌麦酒の名を、息絶える瞬間まで決して忘れることはできなかっただろう。開拓使麦酒醸造所建設こそ、村橋の過ぎた青春への挽歌だったのだから。

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船橋

2008年12月14日 | 千葉県
(了源寺・慈雲寺)


了源寺


盛忠院釋貫義居士
(徳川家臣菅野元資の墓)


慈雲寺

 船橋大神宮周辺、了源寺、慈雲寺といった寺院には船橋における戦闘で戦死した徳川方の兵士の墓がある。
 了源寺の鐘楼堂は、享保年間に大砲が据えられ試射が行われていた。射撃場が廃止されたあと、鐘楼堂が建てられ明治四年(1872)まで時を告げていたという。その鐘楼堂の傍らに徳川家臣菅野元資の墓がある。「行年二十八才」とある。


徳川家臣 綿貫元吉の墓

 慈雲寺本堂正面に無縁墓の墓石が積み上げられている。その一角に徳川方の綿貫元吉の墓がある。

(法宣庵)


法宣庵

 武蔵野線船橋大典駅から徒歩で八分くらい東に行くと、法宣庵という小さな寺がある。参道に、やはり船橋における戦闘で戦死した徳川方の兵士、鈴木梅之輔の墓がある。


蓮思院廣徳日通信士霊
(鈴木梅之輔の墓)

 ここまで歩いてきて、会社に向かう。新橋に着いた途端、腰に激痛が走り動けなくなってしまった。持病のギックリ腰が再発したのである。これまで何度もギックリ腰にはなったが、今回はもっとも重症のようだ。しばらく横になっているしかない。

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