著者は三重県立博物館の職員の方であり、自然桑名藩の記述が中心となっているが、注目すべきは同じく朝敵とされた会津藩との対比であろう。桑名藩、会津藩とも幕末の政局では幕府のために動き、鳥羽伏見でも幕府軍の主力として戦っている。徳川慶喜の謹慎を受けて、ともに恭順の姿勢を明らかにしたが、桑名藩は藩領を保全され、最終的には宥免、藩再興に至っているのに対し、周知のとおり会津藩は征討の対象となって多くの血を流すことになった。さらに戦後、斗南へ「挙藩流罪」という過酷な処分を受けることになった。
会津藩が恭順を示し、間に立った仙台・米沢両藩が嘆願したにもかかわらず、それが拒絶された経緯については、「無慈悲で強硬な主戦派」である奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵抜きには語れない。通説では世良修蔵は、征討の姿勢を改めず、その傲慢で無礼な態度に憤った仙台藩士らが世良を暗殺したことから会津戦争へと突入したことになっている。まさに先日放映された大河ドラマ「八重の桜」もそのとおりの筋立てになっていた。世良修蔵は、会津藩および奥羽諸藩にしてみれば不倶戴天の悪役として認識されている。
しかし、本書では仙米両藩の嘆願を受け取った奥羽鎮撫総督府における書簡の応酬を追いながら、九条総督以下参謀の意見は共通していて「嘆願」を受け入れる方向で動いていたと結論付ける。一方で会津藩が表では恭順と言いながら、武装解除せずに戦争の準備を進めていることが問題視されていた。これが徹底恭順を貫いた桑名藩と、戦争に突入してしまった会津藩の大きな違いである。因みに本書では桑名以外にも朝敵とされながら征討を回避した姫路藩、備中松山藩、高松藩、伊予松山藩のケースも紹介している。いずれも徹底恭順を貫き、平和的解決を見ている。会津藩は意地や信念を貫くことはできたが、その代償はあまりに大きかった。
著者は、この方の性格なのだろうか、終始控え目に主張しているが、これまであまり明確にされることのなかった会津処分の経緯を明らかにしてみせた本書は非常に価値があると思う。
会津藩が恭順を示し、間に立った仙台・米沢両藩が嘆願したにもかかわらず、それが拒絶された経緯については、「無慈悲で強硬な主戦派」である奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵抜きには語れない。通説では世良修蔵は、征討の姿勢を改めず、その傲慢で無礼な態度に憤った仙台藩士らが世良を暗殺したことから会津戦争へと突入したことになっている。まさに先日放映された大河ドラマ「八重の桜」もそのとおりの筋立てになっていた。世良修蔵は、会津藩および奥羽諸藩にしてみれば不倶戴天の悪役として認識されている。
しかし、本書では仙米両藩の嘆願を受け取った奥羽鎮撫総督府における書簡の応酬を追いながら、九条総督以下参謀の意見は共通していて「嘆願」を受け入れる方向で動いていたと結論付ける。一方で会津藩が表では恭順と言いながら、武装解除せずに戦争の準備を進めていることが問題視されていた。これが徹底恭順を貫いた桑名藩と、戦争に突入してしまった会津藩の大きな違いである。因みに本書では桑名以外にも朝敵とされながら征討を回避した姫路藩、備中松山藩、高松藩、伊予松山藩のケースも紹介している。いずれも徹底恭順を貫き、平和的解決を見ている。会津藩は意地や信念を貫くことはできたが、その代償はあまりに大きかった。
著者は、この方の性格なのだろうか、終始控え目に主張しているが、これまであまり明確にされることのなかった会津処分の経緯を明らかにしてみせた本書は非常に価値があると思う。