史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「『朝敵』から見た戊辰戦争」 水谷憲二著 洋泉社

2013年08月25日 | 書評
著者は三重県立博物館の職員の方であり、自然桑名藩の記述が中心となっているが、注目すべきは同じく朝敵とされた会津藩との対比であろう。桑名藩、会津藩とも幕末の政局では幕府のために動き、鳥羽伏見でも幕府軍の主力として戦っている。徳川慶喜の謹慎を受けて、ともに恭順の姿勢を明らかにしたが、桑名藩は藩領を保全され、最終的には宥免、藩再興に至っているのに対し、周知のとおり会津藩は征討の対象となって多くの血を流すことになった。さらに戦後、斗南へ「挙藩流罪」という過酷な処分を受けることになった。
会津藩が恭順を示し、間に立った仙台・米沢両藩が嘆願したにもかかわらず、それが拒絶された経緯については、「無慈悲で強硬な主戦派」である奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵抜きには語れない。通説では世良修蔵は、征討の姿勢を改めず、その傲慢で無礼な態度に憤った仙台藩士らが世良を暗殺したことから会津戦争へと突入したことになっている。まさに先日放映された大河ドラマ「八重の桜」もそのとおりの筋立てになっていた。世良修蔵は、会津藩および奥羽諸藩にしてみれば不倶戴天の悪役として認識されている。
しかし、本書では仙米両藩の嘆願を受け取った奥羽鎮撫総督府における書簡の応酬を追いながら、九条総督以下参謀の意見は共通していて「嘆願」を受け入れる方向で動いていたと結論付ける。一方で会津藩が表では恭順と言いながら、武装解除せずに戦争の準備を進めていることが問題視されていた。これが徹底恭順を貫いた桑名藩と、戦争に突入してしまった会津藩の大きな違いである。因みに本書では桑名以外にも朝敵とされながら征討を回避した姫路藩、備中松山藩、高松藩、伊予松山藩のケースも紹介している。いずれも徹底恭順を貫き、平和的解決を見ている。会津藩は意地や信念を貫くことはできたが、その代償はあまりに大きかった。
著者は、この方の性格なのだろうか、終始控え目に主張しているが、これまであまり明確にされることのなかった会津処分の経緯を明らかにしてみせた本書は非常に価値があると思う。

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「新解 函館戦争」 兵頭二十八著 元就出版社

2013年08月25日 | 書評
夏休みの函館旅行を前に、もう一冊箱館戦争に関する本を手に入れておこうということで見つけたのが、この本である。著者はフリーライターで函館在住の兵頭二十八氏。やや癖のある文体で、読みにくさを感じる部分もあったが、箱館戦争を時系列で記述した本にはこれまで出会わなかったので、函館旅行には大変強い味方になりそうである。
ほぼ七か月に及ぶ箱館戦争を以下の七つの段階に分けたのは、著者のオリジナルであろう。一見すると広範で複雑な戦争の経緯を分かり易く見せるには有効な工夫であった。
第1章 鷲ノ木上陸から、府知事の逃亡まで
第2章 松前藩軍が降伏して、徳川脱籍軍が蝦夷地を実効支配する
第3章 政府軍は逆上陸作戦を準備する
第4章 単艦敵港奇襲攻撃の壮挙
第5章 政府軍の乙部上陸から松前城奪還まで
第6章 矢不来と二股口の防衛ラインが崩壊する
第7章 箱館湾海戦と五稜郭の攻囲
明治元年(1868)の箱館占拠までは榎本軍の圧勝。逆に、明治二年(1869)四月、新政府軍が乙部に上陸して以降、榎本軍にはほとんど良いところがなかった。江差で開陽を失った時点で、勝負があったのかもしれない。将棋に例えればこの時点で「投了」すべきであった。
それをいうなら、この戦争そのものが、援軍も増強も無い榎本軍には勝ち目がないもので、合理的に考えれば、仕掛けてはいけない勝負であった。しかし、人間の社会において、時には負けると分かった勝負でもやらざるを得ないときもある。人間には、誇りとか面子とか、美意識とか意地というものがある。旧徳川家臣団にとって、箱館戦争はそういうものだったのだろう。それにしては多くの人命が失われた。
なお、本書P315に和平交渉の任に当たった人物を「秋田藩士の田島敬蔵」としているのは、薩摩藩士の誤りではないか。本書のほかの頁では「薩摩藩士」と紹介しているし、他書でも田島敬蔵を秋田藩士としているものは見たことがない。田島敬蔵は、秋田藩から借り受けた軍艦の艦長だったための誤記だろうと思われる。

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目黒 Ⅲ

2013年08月25日 | 東京都
(国立自然教育園)
 国立自然教育園は、地下鉄白金台駅のすぐ近く、ここまで来るとJR目黒駅へも歩いて七~八分という場所である。二十三区内の真っただ中に広大な原始林が広がっている。東京は意外と緑の多い都会であるが、そのほとんどがかつての大名屋敷跡の名残である。自然教育園の地にもかつては高松藩松平讃岐守の下屋敷があった。維新後は陸海軍に引き継がれ、火薬庫が置かれていた。園内は椎や松、楢、欅などの巨木が生い茂り、武蔵野の原野の面影をとどめる森である。園内を散策していると、「大蛇の松」や「物語の松」など、高松藩の屋敷跡であることを伝える遺跡を見つけることができる。


自然教育園 「物語の松」

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泉岳寺 Ⅱ

2013年08月25日 | 東京都
(大石良雄ほか忠烈の跡)


大石良雄外十六人忠烈の跡

 泉岳寺裏手の都立アパートの前に「大石良雄等自刃ノ跡」と記された石碑があり、そこを奥に進むと突き当たりに鉄製の扉が現れる。赤穂浪士大石内蔵助ら十七人が自刃したのは、元禄十四年(1701)熊本藩肥後細川家の下屋敷であった。屋敷の敷地は広大だったらしく、現在高松中学校となっている辺りまで広がっていたらしい。学校内には当時から残るシイの木が立っている。


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田町 Ⅲ

2013年08月25日 | 東京都
(セレスティンホテル)
 セレスティンホテルの裏側に「芝さつまの道」と題された大きなモニュメントが置かれている。かつてこの付近に薩摩藩の上屋敷があったことに由来している。


「芝さつまの道」


庭園などで使われていた石が椅子として再利用されている

(都立三田高校)


都立三田高校

 都立三田高校の場所には、かつて久留米藩芝三田屋敷があった。表から見た限り、それらしき形跡は見当たらない。校舎の横に立つ巨木は、その時代からのものだろうか。


(亀塚公園)


亀塚公園 亀山碑

 亀塚公園は、沼田藩土岐家三田台町下屋敷の跡である(三田4‐16‐15)。敷地内に亀塚と呼ばれる古墳があり、その山頂に沼田藩第ニ代藩主土岐頼熙(よりおき)が建てた亀山碑が残されている。


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岡山 Ⅱ

2013年08月25日 | 岡山県
(曹源寺)


曹源寺

 岡山駅から西大寺行のバスに乗って三十分余り、曹源寺バス停に行き着く。出張の帰りだったので、荷物をコインロッカーに預けたが、台風が近づいているというのに傘までそこに入れてしまったのが、間違いの元であった。曹源寺に着いたときは、小雨だったのだが、次第に雨脚が強まり、全身びしょ濡れになる始末であった。

 曹源寺は、岡山藩主池田氏の菩提寺である。本殿の裏に歴代藩主の墓が整然と並んでいるが、入口の扉は固く閉ざされていた。まったく「濡れ損」であった。
 曹源寺には、七代藩主池田斉敏(薩摩藩主島津斉興の息、斉彬の実弟)らが眠る。

 雨は強まるばかりであった。岡山市内に友人がいるのを思い出し、電話で救援を要請したが、あっさり断られた。いかに閑人であっても、平日の朝にいきなり電話をしてスケジュールが空いているほどではないのである。

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木見

2013年08月25日 | 岡山県
(五流山尊瀧院)
 瀬戸大橋線木見駅から徒歩十五分。五流山尊瀧院には大久保利通が暗殺された折に使用していた馬車が奉納されている。鹿児島で開催された「西南戦争120年展」で見たことがあるが、それも今から十五年前になる。
 訪ねた時間が早かったためか、普段は公開していないのか、理由は定かではないが、事務所にも人影はなく、馬車を実見することはできなかった。


尊瀧院

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鴬谷 Ⅲ

2013年08月05日 | 東京都
(太郎稲荷神社)
 太郎稲荷神社が、周囲の建物に挟まれるようにして建っている。この場所は、かつて光月町(こうげつちょう)と呼ばれ、筑後柳川藩主立花家の下屋敷跡である。


太郎稲荷神社

(朝日弁財天)


朝日弁財天

 朝日弁財天は、寛永年間に備中松山藩(のちに下館藩に転封)の水谷伊勢守が下屋敷邸内に創建したものである。現在境内には遊具が置かれ小さな公園と化しているが、良く見ると弁天池が残されている。


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御徒町 Ⅱ

2013年08月05日 | 東京都
(佐竹商店街)


佐竹商店街 佐竹上屋敷跡

 佐竹商店街(台東区台東2~4)は、日本で二番目に古い商店街なのだそうである。商店街組合が結成されたのが明治三十一年(1898)とされる。確かにレトロな雰囲気が漂う。
 この地に秋田佐竹家の上屋敷があったことが商店街の名前の由来となっている。屋敷地は広大で、現在の台東三丁目・四丁目の東半分に相当する。


佐竹秋葉神社

 この地に佐竹家の屋敷があったことを示すものとしては、邸内社であった佐竹秋葉神社が残されている程度である。

(八幡神社)


八幡神社


庭園遺構

 御徒町駅近くの八幡神社とその周辺の公園や庭園は、旧大洲藩下谷御徒町下屋敷の遺構である(台東区台東4‐13)。大洲藩は、加藤家六万石の外様大名であったが、藩士に洋学を学ばせ、勤王の藩論を統一して維新を迎えた。戊辰戦争でも官軍として出兵し、奥羽を転戦した。


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浅草橋 Ⅱ

2013年08月05日 | 東京都
(銀杏岡神社)


銀杏岡神社

 浅草橋駅の北側一帯は、かつて浅草福井町と呼ばれた。越前福井藩江戸屋敷があった名残である。駅の東口の近くの銀杏岡八幡神社は、福井藩屋敷内社である。

(忍岡高校)


忍岡高校 大銀杏

 都立忍岡(しのぶがおか)高校正門に立つと、大きな銀杏が見える。銀杏の根元には日本庭園がある。いずれも平戸松浦家浅草鳥越上屋敷の遺構である。平戸松浦家は、六万五千石の外様大名である。


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