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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

鳥栖

2016年07月09日 | 佐賀県
(朝日山)


史跡 朝日山城趾

 鳥栖市は九州自動車道と長崎自動車道の交わる交通の要衝であるが、それは現代に限らず、昔からそういう存在であった。その中にあって四方を見渡せる朝日山は軍事上重要な拠点でもあった。現在山頂付近は公園として整備されている。
 朝日山は標高132・9メートル。山というより丘のような山である。建武元年(1334)、少弐一族の朝日但馬守資法が山頂に朝日山城を築き、天正十四年(1586)薩摩の島津勢に攻め落とされるまで、朝日一族や筑紫一族の居城であった。明治七年(1874)の佐賀の乱では、佐賀軍と政府軍の間でこの山を巡って激しい攻防戦が展開された。


聖駕駐蹕之地

 私が鳥栖の朝日山を訪ねたのはもう午後七時が近い夕暮れ時であった。公園には誰もいないと思っていたら、山頂の展望台にはカップルが一組、眺望を楽しんでいた。そこにぜえぜえ言いながら登ってきたオジサンは、明らかに邪魔な存在であったと思われる。カップルには一切構わず、四方の写真を撮影して速やかに撤退した。


朝日山山頂からの眺望
手前は新鳥栖駅
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神埼

2016年07月09日 | 佐賀県
(伊東玄朴旧宅)


伊東玄朴旧宅

 神埼町的(いくわ)の伊東玄朴旧宅である。庭に眼光鋭い玄朴の胸像が置かれている。
 伊東玄朴は寛政十二年(1800)、農家の長男としてこの地に生まれた。十一歳のとき、不動院玄透法印について漢学を学び、十七歳の時、自宅で漢方医を開いたが、新しい医学へ憧れて長崎の鳴滝塾でシーボルトに師事し、学識を飛躍的に向上させた。二十五歳で江戸に出て、当時不治の病とされていたジフテリアを治したことから蘭方医として名声を博した。天保四年(1833)、蘭学塾象先堂を開設し、人材の育成に努めた。天保十四年(1843)、佐賀藩主鍋島直正の御匙医となり、「牛痘種痘法」を翻訳する一方、牛痘接種を強く献言した。尚正は意見を取り入れ、藩医楢林宗達を通じて蘭医モーニッケより牛痘苗を取り寄せた。嘉永二年(1849)、藩主の長男淳一郎に、同年江戸屋敷にて長女貢姫(みつひめ)に接種して、いずれも成功した。のちに十三代将軍家定の奥医師となり、文久元年(1861)には、西洋医学所(現在の東京大学医学部の前身)を創設した。明治四年(1871)、七十一歳で病死。我が国における近代西洋医学の父と仰がれる。


伊東玄朴之像


伊東玄朴先生誕生之地


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佐賀城西側 Ⅲ

2016年07月09日 | 佐賀県
(延命院)


延命院

 延命院は佐賀の乱の際、征韓党が集合した寺院である。本堂は建て替えられてコンクリート造りになっており、歴史を感じることはできない。

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佐賀城北側 Ⅲ

2016年07月09日 | 佐賀県
(八幡小路)


久米邦武誕生地

 武雄の平山醇左衛門の墓を訪ねた後、佐賀市内の八幡小路の久米邦武誕生地に着いたのは午前七時前であった。ここには歯科医院があって、老婦人が掃き掃除をされていた。写真を撮っていると「記者の方ですか」と聞かれた。たまに取材に来るらしい。御夫人に「よくここが分かりましたね」と褒められてしまった。

 久米邦武は、(1839)佐賀八幡小路に生まれた。号は易堂。藩校弘道館で学んだ後、昌平坂学問所遊学。藩主鍋島直正の近習となり弘道館教諭、のち佐賀県大属。明治四年(1871)上京、岩倉使節団に随行し、明治十二年(1879)、「特命全権大使米欧回覧実記」を刊行した。翌年、修史館に転じ、「大日本編年史」編纂に従事した。明治二十二年(1889)、帝国大学文科大学教授となり、史学会設立に尽力したが、明治二十五年(1892)、いわゆる筆禍事件により依願免官。その後は東京専門学校(現・早稲田大学)講師となり、大正十一年(1922)まで早稲田大学で教えた。文学博士。日本古文書学をはじめ、我が国近代史学の基礎を築いた功績は大きい。
 「特命全権大使米欧回覧実記」は、今から百三十年以上も前に書かれたものであるが、西欧からできる限り吸収しようという情熱と、緻密な観察力と記録への熱意を感じることができる歴史的名著である。海外に行くときは必ず行先の記述を読むようにしている。

 久米邦武誕生地の向かい辺りに、古い武家屋敷門が残されている。旧鍋島監物家の潜戸付長屋門である(建築年代は不明)。


武家屋敷門
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武雄 Ⅱ

2016年07月09日 | 佐賀県
(平山醇左衛門の墓)


體道玄用居士(平山醇左衛門の墓)

 一年前の佐賀旅行で見付けられなかった平山醇左衛門の墓である。
 武雄淳氏よりブログ上でコメントをいただき、平山醇左衛門の墓の正確な位置を教えてもらったので、福岡旅行の四日目、日の昇る前に福岡を出発して武雄まで直行した。約一時間のドライブで、朝六時前に無事醇左衛門の墓に行き着くことができた。
 平山醇左衛門は、武雄領主二十八代鍋島茂義に見いだされて、我が国における西洋砲術の元祖高島流砲術(のち威遠流と改める)を武雄領に導入して、洋式砲の鋳造を行った。しかし、師高島秋帆が謀叛の疑いで幕府に捕えられるに及び、武雄領にて洋式砲を鋳造したことが本藩佐賀藩に迷惑をかけることを恐れ、醇左衛門を犠牲にして天保十四年(1843)十一月、白木寨(しらきのさい)にて処刑した。享年三十四。法名は「體道玄用居士」

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嬉野

2015年08月16日 | 佐賀県
(嬉野温泉)


シーボルトの湯

 シーボルトはオランダ商館長の江戸参府に随行した際、嬉野温泉で、通常藩主のみが使用する温泉場(現・古湯温泉)で寛いだ。シーボルトが訪れた頃、古湯温泉は鍋島藩の温泉場であり、隣接する東屋は鍋島藩の「湯の番所」であった。シーボルトはここで温泉玉子を食したと記録が残る。また、現在この地域の特産品である嬉野茶も、シーボルトが当地に伝えたといわれる。

(俵坂)


俵坂

 俵坂まで来れば、長崎県まであと少しである。江戸時代、ここは佐賀藩と大村藩の藩境であった。この地に番所が置かれ、平時は侍一人、足軽九人が常駐していたという。現在、関所跡に建つ石碑は、当時の門柱の石材を使用している。
 この関所のことを吉田松陰も日記に記しているし、坂本龍馬もこの道を往復したことであろう。ここから見る風景は、江戸時代とさほど変わっていないのではないか。


俵坂関所遺跡

 俵坂をあとにして大村空港を目指す。今回の長崎・佐賀の旅(五泊六日)は以上で終了である。寝坊した一日を除いて、連日日之出前に起きて、日没まで走り回った。この間、ほとんどまともな食事も取らず、ひたすら史跡を追った。無精髭を伸ばして、朝から汗だくになって撮影した画像は約千三百枚に及んだ。嫁さんからは連休中ずっと家を空けていたことに呆れられ大いに顰蹙を買ったが、個人的には夢のような時間であった。これで長崎・佐賀の史跡を全て回れたというわけではない。また機会を作って、両県の史跡を歩いてみたい。
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有田

2015年08月16日 | 佐賀県
(正司考祺生家)
 有田町岩谷川内の山の中、有田中学校の西側に正司考祺の旧宅がある。正司考祺(碩渓)は、寛政五年(1793)、この地に生まれた町人学者である。父は正司正三郎。出雲の尼子氏の家系と伝えられ、肥後を経て有田西山村に移り、その後、有田皿山に移り住んだといわれる。曽祖父の源七郎のときに絵筆の販売を業とするようになり、兄儀六郎は窯焼きとなって、考祺が家業を継ぐことになった。考祺は家業の傍ら、読書を好み、勉学に励んだ。儒学を基にした経世論などを残している。天保三年(1832)、「倹法富強録」を著し、佐賀藩主側近の古賀穀堂に提出した。ほかに「経済問答秘録」「家職要道」などを著した。文政十一年(1828)、皿山(内山)の大半を焼失し、死者数十人を出した大火の際、私財をなげうって救済したという。


正司考祺生家

 ここで写真を撮っていると、正司家から住人が出てきて、言葉を交わした。
「随分、早いですね。」
と言われたが、確かに私がここを訪れたのは、午前六時にもなっていない早朝で、この時間にここを訪問しようという人は稀有といえるだろう。


正司考祺旧宅

(正司家墓地)
 旧宅から徒歩数分の場所に正司家の墓地がある。その中に正司考祺の墓もある。


碩渓先生之墓(正司考祺の墓)

 正司考祺は安政四年(1857)十二月、六十四歳にて死去。

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武雄

2015年08月16日 | 佐賀県
(儒者河原幡平の墓)


寶屈道珠居士(河原幡平墓)

 実は平山醇左衛門の墓を求めて、武雄市山内町鳥海を早朝から走り回ったが、行き当らず。代わりに?河原幡平の墓を偶然発見した。
 河原幡平は、松浦党の一族、河原道助、貞の子で享和三年(1803)に生まれた。武雄領主二十代家信の家臣栗原帯刀の苗跡を継ぎ、栗原姓を名乗り、武雄鍋島家の家臣となった。武雄領内の第一儒学者であり、また政治家でもあった。号を思斎といった。蔵方役人や武雄藩校身教館の教授を務めた。しかし、領民救済の行動が領主の意思に合わず、家禄を没収され、浪人となった。以後、もとの河原姓に復し、文政年間は武雄に私塾を開いて、その後船ノ原に移した。船ノ原は領主の猟場で、鳥獣の捕獲禁止地区だったため、鳥獣の被害が大きく、見かねた幡平が佐賀藩主に直訴したため、領主は藩主から謹慎を命じられた。百姓たちは、幡平を恩人と崇めていたが、天保十四年(1843)五月、投獄され、同年十一月、白木塞で処刑された。行年四十。

(広福護国寺)


広福護国禅寺

 広福護国禅寺は、武雄温泉街から近い市街地にある。仁治三年(1242)、武雄領主後藤直明の発願で創建されたと伝えられる古刹である。寺には高麗・朝鮮から伝わったとされる画幅や釈迦如来像や四天王像などが安置される。私が訪れた時、本堂は工事中で、ちょうど出てこられた住職によれば、現在拝観できないという。


立野夢庵(元定)先生墓

 墓地には立野元定の墓がある。
 立野元定は、武雄鍋島家の家臣で儒者。幼少より学問を好み、六歳で漢詩を作り、神童と称された。清水龍門、松尾政孝、草場佩川らに学んだ。妻道子は、師清水龍門の娘である。初め武雄領の政治に参与し、のち邑校身教館の教授となった。元定は「三兵答古知機(サンペイタクチーキ)」によって兵学を講義した。戊辰戦争では部隊長として出陣した。帰郷後は自宅に家塾静好堂を開き、のちに中学校の教諭にもなった。生涯を通じて教育に情熱を注ぎ、多くの人材を育てた。墓碑には、谷口藍田による顕彰文が刻まれている。明治十九年(1886)没。

(円応寺)
 円応寺は、永正十六年(1519)に創建され、文禄年間(1592~96)に現在地に移されたという歴史を有する。江戸時代は、武雄鍋島家の庇護を受けてきた。墓地には武雄鍋島家の墓地があるが、ほとんど手入れがされておらず、木造の御霊屋はボロボロだし、雑草は永らく刈られた様子がない。目当てであった鍋島茂義の墓は探しきれなかった。

 鍋島茂義十左衛門は、寛政十二年(1800)の生まれ。文政五年(1822)、部屋住のまま本藩佐賀藩の執政を命じられたが、領内一統人別銀一人前定銀四匁の制定に反対して、同年十二月辞職し、翌年再び執政となった。また財政を核心しようとしてその処置が甚だ過激であったため、執政の職は自然消滅したが、またその翌年この職を命じられた。その後、西洋文化の輸入に努力、特に西洋砲術を高島秋帆に学び、武雄で大砲を鋳造した。天保五年(1834)、命じられて長崎の防備監覧のため長崎に出張した。同六年には佐賀城が炎上したため、城普請頭人を命じられた。天保八年(1837)には、種痘を領内に施行した。文久二年(1862)、六十三歳にて没。
 佐賀の鍋島直正(閑叟)にも多大な影響を与えたといわれる。幕末の佐賀が、他国に先んじて西欧の技術を導入してその面で先進国となった背景には、茂義の存在を抜きには語れない。


円応寺


戊辰戦死者墓

 円応寺に戊辰戦争で戦死した武雄領の藩士の合葬墓がある。墓標に刻まれているのは、「樋口泉兵衛親英 御厨源三郎源芳 馬渡栄助金秋 大古場佐吉包道 西邨喜八孝之 大渡岩太郎満房」の六名である。いずれも鍋島上総茂昌(茂義の長男)の率いる部隊に属していた。

 以下、「幕末維新全殉難者名鑑」の記載による。
 樋口泉兵衛は、慶應四年(1868)八月五日、羽後平沢にて戦死。二十七歳。
 御厨源三郎は、同年九月十二日、羽後長浜にて戦死。十七歳。
 馬渡栄助は、足軽。同年八月二十九日、羽後新屋村にて戦死。三十四歳。
 大古場佐吉も足軽。同年九月十二日、羽後追分にて戦死。二十二歳。
 西邨喜八は、明治元年(1868)九月二十七日、羽後観音森にて戦死。二十六歳。
 大渡岩太郎は軽卒。同年九月二十七日、同じく羽後観音森にて戦死。二十二歳。


(武雄市歴史資料館)


武雄市図書館

武雄市の図書館は、地方の図書館としては驚くほど立派な施設である。館内にはスターバックスが運営するカフェがあり、蔦屋の書店やCD・DVDレンタル店が併設されている。そういえば少し前にテレビのニュースでこの図書館のことが取り上げられていた。賛否両論あるようだが、試みとしては面白いのではないか。
私がこの図書館を訪れたのは、鍋島茂義が手掛けた蘭学資料を集めた「蘭学館」を見るためである。しかし、残念なことに武雄市図書館は、GW期間中は休館となっており、空しく引き上げるしかなかった。
蘭学館はこの施設内の歴史資料館内にあるとか、閉鎖されたとか、ほかに移設されたか、実は色んな説があって良く分からない。図書館の運営を民間に委託しようが、私は普段利用する者ではないのでどちらでも構わないが、貴重な郷土の史料を集めた施設は、大切にしてもらいたい。歴史を大事にしない街は、ロクな人間を育てない。

(花島公民館)


山口尚芳誕生地

 武雄市大字永鳥は、山口尚芳(ますか)を生んだ土地である。そういう史実でもなければ、東京からわざわざ訪れることも無い、とりたてて特徴のある街ではない。
 山口尚芳は天保十年(1839)五月、山口尚澄の子として武雄に生まれた。生家は花島公民館となっているが、地元では「太政官屋敷」と呼ばれている。この小さな田舎町から太政官の高官を生んだ誇りと驚きが入り混じった呼称である。
 尚芳、名は範蔵、治喜人といい、幼い頃から学問に優れ、第二十八代武雄藩主鍋島茂義に見込まれ、長崎で洋学・英語を習得し、佐賀の大隈重信や副島種臣らと交わった。明治四年(1871)には岩倉具視を全権大使とする米欧視察団の副使に任命された。帰国後は、元老院議官、会計検査院長、貴族院議員を歴任し、正三位勲一等を受けた。明治二十七年(1894)六月、死去。

(玉垂神社)
 玉垂神社の急な石段を登っていくと、その突き当りに山口家の墓所がある。その中に山口尚芳やその息尚義、範蔵らの墓がある。


玉垂神社


正三位勲一等山口尚芳墓

 岩倉使節団は明治四年(1871)十二月に横浜を発つと、明治五年(1872)にはアメリカ、イギリス、フランスを歴訪し、翌明治六年(1873)にはベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスさらにスエズ運河を経て、シンガポール、サイゴン、香港、上海を回り、同年九月、横浜に帰着するという長旅であった。

コメント (8)
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小城 Ⅱ

2015年08月14日 | 佐賀県
(長栄寺)
 長栄寺には、梧竹の墓がある。中林梧竹は、大正元年(1912)、中風を発症し、翌大正二年(1913)、帰郷したが同年八月病没した。行年八十四。
 梧竹は生涯を通じて観音菩薩を信仰していた。生前一寸五分の観音像を常に身に着けていたという。長栄寺の墓も、聖観世音菩薩を象ったものとなっている。


長栄寺


書聖 中林梧竹之墓

(梧竹観音堂)

 梧竹観音堂(三日月堂)は、明治四十一年(1908)、梧竹八十二歳のとき、建立された。翌年には御物を収める鳳凰閣もその横に建てられたが、現存していない。観音堂も昭和二十四年(1949)の台風で倒壊したが、昭和三十二年(1957)に再建されて今日に至っている。
 正面入口には鍋島直大の書で「三日月堂」の木額が掲げられ、堂内正面には、梧竹が生涯信仰した観音像が祀られる。その左側には、梧竹が先師と慕う草場佩川、山内香雪、余元眉の位牌が安置されている。


梧竹観音堂

(星巖寺)
 星巖寺は、貞享元年(1684)、小城鍋島家二代直能が、初代元茂の菩提を弔うために発願し、三代元武のときに落成した。寺名は、初代元茂と二代直能の法名から取られている。江戸末期には、寺領八十石、敷地十七町もあり、本堂、禅堂、斎堂、知名寮などがあったらしいが、これらは現存してない。現在は楼門や五百羅漢像などが残されている。


星巖寺楼門

 星巖寺楼門は、嘉永五年(1852)、十三代住職沢林のときに完成している。俗に龍宮門と呼ばれ、中国文化の影響を受けたと思われる。この楼門だけで、往時の星巖寺の壮大な境内を想像するきっかけとしては十分である。


五百羅漢

 江戸時代中期に、小城三里西川(さいがわ)の石工、平川徳兵衛一族によって造られたのではないかと伝えられる。二百体ほどが現存している。一つひとつが特徴のある表情をしており、見飽きることがない。


鍋島家墓所

 五百羅漢像のある場所のさらに奥に、小城鍋島家の墓所がある。小城鍋島家は初代から十一代直虎まで続いて明治維新を迎えた。この墓所には三代、六代、九代藩主を除く八人の藩主とその親族の墓がある。


鍋島直亮墓

 鍋島直亮は小城藩第十代藩主。嘉永三年(1850)、家督を継いだ。嘉永六年(1853)、プチャーチン率いるロシア艦隊の来航に伴い、急遽帰国と長崎警備を命じられた。万延元年(1860)の遣米使節に藩士を派遣し、宗藩である佐賀藩にならって洋式の軍制改革を進めたが、元治元年(1864)、三十六歳の若さで病没した。


鍋島直虎墓

 鍋島直虎は、安政三年(1856)、佐賀城下に生まれた。父は、佐賀藩主鍋島直正(閑叟)である。小城藩主直亮の養子となって、慶應元年(1865)二月、家督を相続した。明治二年(1869)、従五位下紀伊守に叙せられ、同年六月、版籍奉還とともに小城藩知事となり、明治四年(1871)、廃藩置県により免ぜられた。同年正月の鍋島直正の病没に際して、直虎が喪主としてその葬儀をとり行った。のち英国に留学。帰朝後、外務省御用掛となった。明治十七年(1884)、子爵に叙せられ、明治二十三年(1890)には貴族院議員となった。大正十四年(1925)、年七十で没。

(印鑰社)


印鑰社

 印鑰(いんりゃく)社に初代司法卿江藤新平生立ちの地という碑が建てられている。
 江藤新平の父、助右衛門胤光は佐賀藩士であったが、上役と合わず浪人となり、晴気庄の印鑰社で私塾を開いた。江藤新平も十二歳から十六歳までの四年間をこの地で過ごした。当時、生活用水として使用されていた堀の跡が残っている。その頃の極貧生活の中で新平は勉学に励み、十四歳のとき、零落した家を再興する詩を書き、母浅子はこれを見て泣いて喜んだという。

 吾祖ノ威名、久熟(ツラツラ)聞ク
 刀槍千隊、三軍ヲ掃クト
 雲蒸霧変、何レノ日カ知ラン
 誓ウ、微躯(ビク)ヲ以ッテ策勲ヲ画サン


初代司法卿 江藤新平生立之地

(本龍院)


本龍院

 千葉胤頼開基の本龍院は、印鑰社からさほど離れていない、西晴気に所在している。「佐賀県の歴史散歩」(山川出版社)によれば、本龍院に江藤家関係ある墓地が残っていると記述されていたので、ここまで足を伸ばしてみた。しかし、墓地を隈なく歩いてみたものの、それらしい墓を見付けることができなかった。

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小城 Ⅰ

2015年08月14日 | 佐賀県
(小城公園)


小城公園(自楽園跡)

 この場所には、かつて「鯖岡(娑婆岡)」と称する小丘があった。小城初代藩主鍋島元茂は、この地に桜を植えて茶屋を設けた。明暦二年(1656)、二代藩主鍋島直能が桜岡と改称し、さらに吉野の桜などを移植した。直能は、桜岡の南方に池水・邸閣を配した庭園を造り「自楽園」と命名した。
 明治六年(1873)、明治政府は太政官布告で公園の制定を掲げ、明治八年(1875)、佐賀県下で初めての公園として桜岡公園が成立した。園内には興味深い石碑や史跡などが点在している。


桜岡公園碑

 桜岡公園碑は、明治八年(1875)。桜岡公園が誕生したときの記念碑である。表面には中林梧竹の篆書で「桜岡公園」と刻まれている。


梧竹退筆塚

 梧竹退筆塚は、書家中林梧竹によって大正三年(1914)に建立されたもの。高さおよそ五メートルという大きなもので、題字は幕末の藩主鍋島直虎による。横石に「信哉(八十七翁梧竹)」、右門に「書聖垂範」、左門に「自彊乃成」と、いずれも梧竹の書が刻まれる。
 除幕式の際は、町内に花笠が飾られ、当時の佐賀市長、小城町長を迎え、来賓・遺族約二百余名が列席し盛大に開かれたという。


甲戌烈士之碑

 甲戌烈士之碑は、明治七年(1874)の佐賀の乱で戦死した旧小城藩士十三名の慰霊碑。明治二十八年(1895)、梧竹六十九歳の書で「甲戌烈士之碑」と刻まれる。

(桜岡小学校正門前)


藩校興譲館跡

 小城藩藩校は、天明四年(1784)の文武稽古所に始まり、七代藩主鍋島直愈の時代、興譲館と改められた。生徒は武士の子弟に限られており。嫡子は十五歳から二十四歳まで寄宿舎に入り、食事代は藩から支給されていた。嫡子以外でも願い出れば寄宿できたが、半額は自己負担であった。授業には文学と武術があった。文学では、中国の書物が使われ読本が行われていた。武術は、槍,剣などが午後三時から日暮れまで行われた。試験は毎月三回、家老以下の藩士が臨席する中で行われ、成績優秀者には商品が与えられた。一方、罰として拘置、減食などがあった。職員は十五名で、生徒は寄宿生が百名、通学生が八十名ほどで、学校の経費として百五十石が支給されていた。
 興譲館から、書聖中林梧竹、政治家の松田正久、波多野敬直、科学者の中野初子らが巣立っている。

(小城高校)


元小城藩館跡

 小城は佐賀藩の支藩で、石高は七万三千石。佐賀藩の三支藩(小城・蓮池・鹿島)はともに城を持たず、藩主の屋敷は陣屋あるいは館(やかた)と称されていた。小城藩邸は、桜岡(現・小城高校付近)にあった、小城鍋島家初代鍋島元茂の邸宅に始まる。元茂は小城には常駐しておらず、佐賀城西ノ丸に居住していた。その後、二代直能が屋敷をつくり隠居所とし、三代元武がここを正式に居住所と定め、藩邸が成立した。藩邸は廃藩置県後の明治十五年(1882)、解体された。かつて藩邸正門前にあった石橋が残されているのみである。


正門前の石橋

(中林梧竹記念館)
 小城は静かで落ち着いた街であるが、観光客を曳き付けるようなスターがいない。藩邸跡から梧竹生誕地辺りまでを梧竹ロードを名付け、中林梧竹の書を石碑に刻したものを展示していて、ちょっとした展覧会場となっている。その中心には中林梧竹記念館(別名・桜城館)があり、梧竹の作品が展示されているが、残念なことに連休中は閉館されており、拝観することはできなかった。梧竹は「近代書の祖」「書聖」と称されるが、残念ながら全国的な知名度は今一つ。中林梧竹では、市外からの集客は難しいだろう。


中林梧竹記念館

(代官所跡)
 小城市内には、梧竹の書が多く残されており、その全てを網羅するのは不可能だが、代官所跡にあった書碑を紹介しておこう。


中林梧竹の書「快雨」

 「快雨」すなわち心地よい雨という意味である。梧竹五十九歳の作。恩人余元眉が清国に帰国するにあたって長崎に出向き、その帰途有田で書いたものである。

(中林梧竹生誕地)
 中林梧竹生誕地を探して、付近を歩き回ったが、なかなか見つからない。近くのコンビニの店員に聞いてみたところ
「聞いたことはありますが、分かりません」
という返事しか得ることができず、半ば諦めかけた時、ようやく発見することができた。


中林梧竹生誕の地

 中林梧竹が、この地に生まれたのは、文政十年(1827)。父は小城藩士中林経緯。藩校興譲館に学び、草場佩川に師事した。のちに江戸に出て、書を山内香雪に学んだ。二十八歳で帰藩し、興譲館指南役を務めた。維新後は役職に就かず、書に専念した。明治十年(1877)頃、長崎に移り住み、清国領事の余元眉と知り合う。明治十五年(1882)、清国に渡り、潘存に師事した。明治十七年(1884)帰国後は、東京銀座の伊勢幸に住み、以来二十九年間をそこで過ごした。明治二十四年(1891)、副島種臣の勧めに従って、王義之の「十七帖」の臨書を明治天皇に献上し、白羽二重の御衣を賜った。明治三十年(1897)、再度清国に渡った。明治三十一年(1898)、富士山頂に「鎮國之山」銅碑を建立した。
 梧竹の生まれた新小路は、藩邸の東にあって、藩士の屋敷があった。中林家の屋敷は、梧竹自身が語り残したところによれば「小城の旧邸には、竹と桐の大木があり、世人が桐の家と呼んだくらいだ」という。

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