史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

行田 Ⅱ

2011年12月17日 | 埼玉県
(蓮華寺)


蓮華寺

 秩父鉄道の行田市駅から徒歩五分ほどの距離に蓮華寺は在る。
 墓地の奥の方に無縁墓石が集められており、その中に久河道伯の墓も積まれている。


久河道伯良弘墓

 久河道伯は忍藩御典医でありながら、町民や農夫も分け隔てなく懇切に診療したといわれる。慶応二年(1866)には藩主松平忠誠に従って上洛し、各藩の周旋方とも交わっている。慶応四年(1868)三月、古屋佐久左衛門の率いる一軍(のちに衝鉾隊と命名された)が忍藩領羽生陣屋に駐屯しているとの一報が忍藩にもたらされた。当時、忍藩は勤王・佐幕の両派が争っていたが、前藩主松平忠国の裁定で藩論を勤王と定めたばかりであった。忍藩としては、何としても穏便に古屋軍に立ち去ってもらわなくてはならない。そこで久河道伯が使者として交渉し、その結果、古屋軍は梁田方面に立ち去った。その後、忍城下に入った東征軍の横暴な振る舞いに憤激した道伯は、料亭で痛飲して官軍を揶揄して放言放歌した。これが征討軍の幹部の耳に入り、忍藩ではやむなく道伯を斬罪に処した。刑が執行されたのは、慶応四年(1868)四月三日。享年四十三。門人友人らによって建てられた墓は、現在無縁墓となっている。

(桃林寺)


桃林寺

 桃林寺は、秩父鉄道持田駅から徒歩数分である。丹羽家の墓域に丹羽蔀(しとみ)氏明の墓がある。


剣光院忠山義勝居士(丹羽蔀)墓

 丹羽蔀の墓の正面には、右に「剣光院忠山義勝居士」という蔀の戒名、中央には妻すみ「松壽院貞室妙操大姉」の戒名が刻まれる。もう一人、左に丹羽鐡弥の姉という人物が記されているが、蔀との関係は分からない。
 旧幕府勢力である古屋軍が梁田に去った後、丹羽蔀率いる忍藩聚合隊が羽生陣屋に駐屯していた。そこに東征軍(楢崎頼三率いる三百余)が梁田での戦闘を終えて引き返してきた。楢崎は、忍藩軍を旧幕軍の後詰と思い込み、丹羽蔀を激しく詰った。忍藩では家老を派遣して抗弁に努めたが、楢崎は納得しない。その様子を見た丹羽は、咄嗟に脇差を抜いて自刃して果てた。結果として命を賭して忍城下を戦火から救ったことになった。享年三十六。


秩父鉄道

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上野 Ⅲ

2011年12月17日 | 東京都
(正燈寺)


正燈寺


桂川家之墓

 地下鉄の駅でいえば、入谷駅からほど近い住宅街の中に正燈寺がある。
 正燈寺墓地に医師桂川家の墓がある。桂川家は桂川甫筑を家祖に持つ医家の名門である。その分家筋に当たる甫純は、明治四年(1871)に留学生として派遣された五人の少女の一人、上田悌子を妻に娶った。上田悌子は、留学後一年で病気により帰国した(ホームシックだったという)。悌子は甫純との間に二男四女をもうけている。女子留学生の中ではもっとも長生きし、昭和十四年(1939)八十五歳で世を去った。『明治の女子留学生』(寺沢龍著 平凡社新書)によれば、正燈寺の桂川家の墓に葬られているらしいが、墓石にその名前は無い。

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小平

2011年12月11日 | 東京都
(津田塾大学)


津田塾大学

かねてより津田塾大学構内にある津田梅子の墓を詣でたいと思っていたが、オッサンが女子大に立ち入るのは容易ではない。何も悪いことをしているわけではないのに、そこにいるだけで犯罪者扱いである。この日、学園祭を狙って津田塾大学を訪問すると、気が抜けるほどあっさりと進入することができた。
 学園祭といっても、随分静かで地味なものであった。津田塾大学の構内は、これが大学かと訝しくおもえるほど、こじんまりとしたものであった。
津田梅子の墓所は直ぐに見つかった。津田梅子は生涯独身を貫いた。そのため、「梅子の墓に詣でると結婚が遅れる」という俗説が生まれた。どうせ根も葉もない噂に過ぎないが、娘を連れていくのは憚られた。


UME TSUDA
DECEMBER.31.1864 AUGUST.16.1929

 津田梅子は、元治元年(1864)の生まれである。父は佐倉出身の農学者津田仙である。明治四年(1871)わずか六歳のとき留学生に選ばれて、岩倉使節団とともに渡米した。梅子のほかに、山川捨松(のちの大山巌夫人)、永井繁子(海軍大将瓜生外吉夫人)、吉益亮子、上田悌子が選ばれたが、彼女らはいずれも幕臣や佐幕藩の出身であった。このうち吉益亮子と上田悌子の二人は、体調を崩して一年足らずで帰国した。津田梅子は十一年の留学生活を終え、明治十五年(1882)、帰国した。すっかり日本語を忘れてしまい、覚えていた単語は「猫」だけだったという。華族女子学校で英語教師を務めたあと、明治二十二年(1889)に再び渡米留学。三年後に帰国して、再び教職に就くが、明治三十三年(1900)宿願であった女子英学塾(現在の津田塾大学)を東京麹町に開き、その塾長となった。昭和四年(1929)、六十四歳で死去した。一旦、青山霊園の津田家墓所に葬られたが、昭和七年(1932)、遺言に従って、小平の津田塾大学の一角に改葬されることになった。

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「明治の女子留学生 最初に海を渡った五人の少女」 寺沢龍著 平凡社新書

2011年12月07日 | 書評
先日、津田塾大学に津田梅子の墓を訪ねて以来、俄かに明治初年にアメリカに渡った五人の少女のことが知りたくなって、この本を手に取った。五人の数奇な人生に、時の経つのも忘れるほど引き込まれた。彼女らを取り巻く登場人物として、大山巌、伊藤博文、黒田清隆、森有礼、山川浩といった、役者としては申し分ない“ビッグネーム”が次々と登場する。
明治四年(1871)十一月、岩倉具視を大使、大久保利通、木戸孝允、伊東博文、山口尚芳の四名を副使とする岩倉遣外使節団四十八名が横浜港を出発した。このとき使節団は五十八名の留学生を帯同していた。その中に以下の五名の少女が含まれていた。

静岡県士族 永井久太郎養女 繁子(十歳)
東京府貫属士族 津田仙娘 梅子(六歳)
青森県士族 山川弥七郎(大蔵、明治後浩)妹 捨松(十一歳)
東京府貫属士族外務中録 上田畯女 悌子(十六歳)
東京府貫属士族同府出仕 吉益正雄女 亮子(十四歳)

いずれも幕末の戦争で賊軍とされた幕臣や佐幕藩の出身者の子女ばかりである。
津田塾大学を開いた津田梅子や元帥大山巌の後妻となった山川捨松は、夙に有名であるが、ほかの三名のことはあまり知られていない。
永井繁子は、同じ時期に米国に留学していた瓜生外吉(のちに男爵・海軍大将)と大恋愛の末、帰国後結婚している。
上田悌子と吉益亮子の二人は、留学一年後、病を得て急遽帰国することになった。その後の二人の運命について、この本で初めて知ることができた。
上田悌子は、医師桂川甫純に嫁ぎ、五名の中では一番長命し、昭和十四年(1939)八十五歳で世を去っている。なお、訳詩集「海潮音」で有名な上田敏は、悌子の姉、孝子の子である。つまり悌子と上田敏は、叔母、甥という間柄になる。
吉益亮子は米国で眼を患った。幸いにして帰国後、眼病は治癒したが、明治十九年(1886)、当時大流行したコレラに罹患して、二十九歳という若さで落命している。

津田梅子、大山捨松が十一年におよぶ留学から帰国したとき、彼女らはすっかり日本語を忘れてしまっていた。津田梅子は、「生涯、思考の言語手段は英語であり、書くこともほとんど英語であった。」(本書P.123)という。
当時の日本は、「女性は家庭に入って良妻賢母を心がけ、夫とその親につくして「家」を守り、子供を生して養育に専念することが務めとされた。」(P.162)翻って今日の日本は、先日発表された男女格差ランキングでは135カ国中98位と報道された。要するに明治の時代、もっといえばその昔からの男女格差を未だに引きずっているのである。
津田梅子には、縁談がいくつも持ち込まれたが、彼女はいずれも断り、生涯独身を貫いて、ひたすら女性のための学校設立という使命達成のために尽した。彼女の心の奥には、官費による永年の米国留学に対して、国家への借財意識が重くのしかかっていた。その責任感が自身の結婚とか幸福などの全てに優先したのである。何もそこまで思い詰めなくても…という気もするが、これも明治という時代の空気なのかもしれない。明治三十三年(1900)津田梅子は、遂に女子英学塾(のちの津田塾大学)を設立し、その塾長に就いた。そして六十四歳で死去するまで、学校の運営に生涯を捧げた。何と崇高な生涯だろうか。

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「岩倉具視 言葉の皮を剥ぎながら」 永井路子著 文春文庫

2011年12月07日 | 書評
今年は大正百年のメモリアルイヤーである。その大正生まれの作家、永井路子の描く「岩倉具視」が文庫化された。永井路子といえば、北条政子や細川ガラシャなど、室町時代や戦国時代の女性を好んで取り上げる作家である。私も学生時代には、永井氏の小説を何冊も読んだものである。本作は、永井氏が近代の、しかも男性を取り上げた作品を書いたということで発刊された当時から話題を呼んだ(本作の上梓は平成二十年)。
本作は単なる伝記小説というより、岩倉具視を題材にした評伝といった方が正確であろう。
副題に「言葉の皮を剥ぎながら」とある。「尊王攘夷」とか「佐幕」という言葉の表面的な意味合いと、実態との乖離を次々と暴いてゆく。「攘夷」の時代は、文久三年(1863)の薩英戦争と長州藩の四国連合艦隊との戦争をもって終焉したと指摘する。
岩倉具視といえば、孝明天皇毒殺の黒幕と言われているが、永井氏は明確に否定する。永井氏の言い分は、本書を一読いただくとして、素直に支持したい。
永井氏は岩倉具視をヒーローとして描くのではなく、生身の人間として扱う。岩倉の生涯を晴れやかな成功物語として描くのであれば、右大臣まで昇りつめた明治維新以降を無視するわけにはいかない。しかし、伝記としては王政復古で終わって、それ以降は「余白に…」と題して点描するにとどめている。岩倉具視をテーマにする構想を長年あたためてきたという作家にしては、意外なほどドライである。
岩倉具視が輝いていたのは王政復古までで、維新後は大久保や木戸に操られただけだと切り捨てる。有名な明治四年(1871)の岩倉遣外使節団についても「無意味愚挙と言わざるを得ない」と辛辣である(そこまで言わなくても…と思いますが)。
明治六年(1873)十月二十二日、西郷隆盛を使節として朝鮮に派遣することを決定した廟議に反対する意見を上奏しようという右大臣岩倉具視のところに、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助、副島種臣といった遣韓使節派の参議が押し掛けた。岩倉は「わしのこの両眼の黒いうちは、おぬしたちが勝手なことをしたいと思うてもそうはさせんぞ」というヤクザの親分のような台詞を吐いて、四人の参議を退けた。これも大久保の書いたシナリオとおりに演じただけといってしまえば身も蓋もないが、岩倉の凄みを感じるシーンである。本書では明治六年政変のことが触れられていないが、個人的には、岩倉具視というとこの場面を抜きには語れない。

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「下野の戊辰戦争」 大嶽浩良著 下野新聞社

2011年12月07日 | 書評
本書の巻末近いところに掲載されている「下野戊辰戦争の特徴」に以下のように記載されている。
――― 従来、下野の戦争は研究者によってほとんど無視され、上野戦争から東北戦争へと説明されてきた。その傾向は今でも変わらないが、この点を大町雅美氏(昭和四十三年『戊辰戦争』(雄山閣)著者)は鋭く批判し、「宇都宮城をめぐる攻防戦は、以後の指導権をめぐる焦点となり(中略)、戊辰戦争の核心はこの宇都宮城をめぐって、ひいては下野全域の攻防戦によって位置づけられる」(『戊辰戦争』)とした。下野の攻防を、以後の指導権をめぐる戊辰戦争の核心と評価したのである。

確かに下野における攻防戦はもっと注目されてよい。特に宇都宮城をめぐる戦闘は、旧幕府軍と新政府軍ががっぷり四つに組んだ激戦であった。この戦闘を機に、白河緒戦での勝利を別にすれば、ほぼ旧幕府軍は負け続けることになった。
栃木県下には、小山、宇都宮、壬生、大田原、那須など、各地に戊辰戦争の傷跡が残る。戊辰戦争遺跡のガイドブックとしても、本書は有用である。栃木県下の戊辰戦争史跡は、それなりに回ってきたと自負していたが、この本でまだまだ足を運んでいない史跡があることを思い知った。しばらく栃木の史跡詣でを続けたい。

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有楽町 Ⅱ

2011年12月03日 | 東京都
(東京国際フォーラム)


東京府廰舎

 有楽町駅前の東京国際フォーラムのある場所は、維新前土佐藩上屋敷があった。慶応四年(1868)、江戸が官軍の軍政下に置かれると、同年七月、軍は江戸府を置いた。さらに同年十月には東京府庁が開かれた。以来、昭和十八年(1943)まで東京府が存続した。府庁舎は、当初内幸町の大和郡山藩邸跡にあったが、明治二十七年(1894)に有楽町に新庁舎が竣工し移転した。有楽町の府庁舎は戦災で焼失するまで使用された。有楽町府庁舎が新設されたときの東京府知事は、三浦休太郎(安)である。

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巣鴨 Ⅲ

2011年12月03日 | 東京都
(染井霊園)


正七位久米幹文翁之碑

 久米幹文(もとぶみ)は、文政十一年(1828)に水戸に生まれた。父は水戸藩士石河幹忠。平田篤胤、本居内遠らに学び、徳川斉昭を助けて国事に従事した。斉昭没後、幽閉されて維新を迎えた。明治五年(1872)教部省に仕官して、相模寒川神社宮司等を歴任した。明治十五年(1882)には東京大学の講師、継いで第一高校教授として国文、国史を担当した。明治二十七年(1894)六十七歳で死去。


山脇正勝墓


山脇臥雲墓

 山脇正勝は、桑名藩士山脇十左衛門(正軌、臥雲)の子に生まれた。維新前は隼太郎と称し、藩主松平定敬の小姓となった。戊辰戦争では、父十左衛門とともに柏崎に転戦し、そこで恭順派の家老吉村権左衛門らの粛清に加わった。その後、藩主定敬とともに蝦夷に渡り、新選組に入隊して箱館戦争を戦った。明治後は三菱に入社して、上海支社長のほか、長崎造船所所長を十三年勤めた。明治三十八年(1905)死去。


正五位勲六等正木退蔵之墓

 正木退蔵は、弘化三年(1846)萩城下に生まれた。十三歳のときに松下村塾に入門した。大村益次郎に蘭学を学び、三田尻海軍学校で英学を修めた。明治四年(1871)選ばれてイギリスに留学した。明治七年(1874)に一旦帰国したが、東京帝国大学のお雇い外人教師を探すために再び渡英。ここで『宝島』で知られる作家スティーブンソンと出会い、吉田松陰の思い出を語った。スティーブンソンは、この話をもとに「ヨシダ・トラジロウ」という小品を発表した。正木退蔵は、帰国後東京職工大学(現・東京工業大学)の初代校長に任じられ、継いで外務省に出仕。明治二十四年(1891)にはハワイ領事に任じられた。明治二十九年(1896)五十九歳で死去。


神道修成派 管長大司徒 従五位新田邦光墓

 新田邦光(くにてる)は、文政十二年(1829)に阿波国美馬郡拝原村に生まれた。維新前の通称は竹沢寛三郎といったが、明治後祖先の姓新田に戻した。弘化・嘉永年間、西国各地を巡って勤王報国を説いた。日本を護持し、外夷を攘うには神道を興し、道徳を振起して人心を鞏固なものにすべしと主張した。岩倉具視に招かれて志士と交わった。戊辰戦争では飛騨、美濃に軍を進めて功があった。明治二年(1869)に官を辞した後、神道修成派を結成し、明治九年(1876)には教部省の認可を得て管長に就いた。門人を集めて修成講社を結成し布教に努めた。明治三十五年(1902)七十四歳で没。

(勝林寺)


勝林寺

 染井霊園の周辺も寺の多い街である。勝林寺の門を入ったところで、自転車に乗った婦人が戻ってきた。婦人はこの寺の方であった。田沼家の墓に詣でたいというと、詳しく説明してくださった。ご婦人によれば、勝林寺はもともと本郷にあったが、旧中山道の拡幅によって、この地へ移転を余議なくされたものらしい。当時はかなり広い墓地を有していたそうである。田沼家のほか、蒔田家(浅尾藩)、山名家、柳沢家といった大名家の墓がある。


隆興院殿従四位侍従耆山良英大居士
(田沼意次の墓)

 有名な田沼意次の墓である。
 田沼意次は、八代将軍吉宗に登用され、家重、家治のときに抜擢され、一代で五万七千石の相良藩主、老中にまで異例の昇進を果たした。幕府の財政赤字を克服するため、重商主義を採用した。その結果、幕府財政は改善し景気も回復したが、一方で賄賂が横行し、農村が荒廃するといった副作用も生じた。後世から、悪人の代表のように称される田沼意次であるが、昨今は開明的な政治家として再評価も高まっている。
 意次が失脚すると、相良城は打ち毀し、田沼家は陸奥一万石に減転封された。

 勿論、私の目当ては田沼意次の墓ではなく、その末裔である田沼意尊である。


田沼家歴代の墓

 意次の傍らに、田沼家歴代の合葬墓がある。側面に田沼家代々の名が刻まれているが、その中に、幕末相良藩主田沼玄蕃守意尊の名がある。
 田沼意尊(おきたか)は、意次の曾孫に当たる。田沼家は陸奥に減封されたが、文政六年(1823)意正のとき相良藩に復した。意尊は、天保十一年(1840)家督を継いだ。元治元年(1864)水戸藩で起こった天狗党の乱では、幕命を奉じて出陣し、遂には敦賀で降伏した武田耕雲斎ら三百五十二名を極刑に処した。鳥羽伏見では会津、桑名とともに従軍したが、官軍が東海道を東進してくると、尾張藩の説得を受けて、勤王証書を提出した。徳川家が駿府に移封されると、相良藩も上総小久保に移されたため、最後の相良藩主となった。明治二年(1869)死去。


華族蒔田家歴世之墓

 幕末の浅尾藩主は、蒔田広孝である。元治元年(1864)の禁門の変では京都に出兵した。慶応二年(1866)、長州藩第二奇兵隊を脱走した立石孫二郎らによって浅尾藩陣屋が襲われ全焼した。戊辰戦争では岡山藩とともに新政府軍に与して従軍した。のちに浅尾藩知事、明治三十年(1897)には浅尾村長になった。大正七年(1917)七十歳にて死去。

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静岡 Ⅲ

2011年12月01日 | 静岡県
(本要寺)


本要寺

 静岡駅から県立病院行のバスに乗って、安東二丁目バス停で下車。そこから徒歩三分程度の場所に本要寺がある。
 墓地に入ったところに幕臣鵜殿鳩翁の墓がある。
 墓石の側面には、「鵜殿民部小輔藤原長鋭朝臣 道號鳩居翁」とある。


懿徳院殿故民部小輔従五位下
周道日光大居士

 鵜殿鳩翁は幕臣。諱は長鋭(ながとし)。文政二年(1819)鵜殿家を継いで、同八年(1825)に小納戸となった。砲術の研究に励み、嘉永元年(1848)には目付、同五年(1852)には諸大夫に列し、民部小輔を称した。嘉永六年(1853)のペリー来航に際して、アメリカ国書の受け取り不可、国交拒絶を主張したが、安政元年(1854)のペリー再来航時には、米応接掛に選ばれ、日米和親条約、下田追加条約に締結に尽力した。安政四年(1857)、ハリス上府用掛も勤めた。将軍継嗣問題では一橋派であったため、安政五年(1858)駿府町奉行に左遷され、さらに免職、差控、隠居を命ぜられた。万延元年(1860)剃髪して、名を鳩翁と改めた。文久三年(1863)浪士取締を命じられて浪士組を組織したが、浪士組を清河八郎に牛耳られ四月には職を辞して、以後再び公職には就かなかった。明治元年(1868)静岡に移り、翌二年(1869)病没。六十二歳であった。

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西焼津

2011年12月01日 | 静岡県
(田中城下屋敷)


田中城下屋敷

 JR東海道線西焼津駅を下車して、北に向かって二十分ほど歩くと、藤枝市に入る。この辺りは、田中城の城下町である。
 田中城下屋敷は、住宅街の中にある。入場は無料。冠木門を入ると左手に本丸櫓が移築されている。この櫓は、もともと本丸にあったものである。
 維新後、田中城には高橋泥舟が入った。泥舟は、この建物を住居とし、「光風霽月楼」と名付けた。室内には、泥舟直筆の扁額が掲げられている。


本丸櫓


光風霽月楼(高橋泥舟筆)

 田中城の築城は古く、今から約五百年前、今川氏の命を受けて、地元の有力者であった一色氏が屋敷を拡大して城郭化したのが始まりと言われる。その後、目まぐるしく城主が交替したが、本丸を中心にして同心円状に堀が巡らされた。築城当初は二重だった堀が時代の変遷とともに三重、四重と拡張された。今でも航空写真でその名残を見ることができる。

 江戸時代に入って初代の城主は、酒井備後守忠利。当時の石高は一万石であった。その後も松平氏、水野氏、西尾氏といった譜代の小大名が城主に任じられたが、次第に石高は増し、十代大田氏のときには五万石まで加増された。
 幕末の城主は、本多正訥(まさもり)。初代から数えると二十一代目、本多氏としては七代目となる。尾張藩の説得を受けて、東海道を東下する新政府軍に恭順した。徳川宗家に駿府の地が与えられると、田中藩は安房長尾に移封された。正訥は藩校日知館を長尾に移し、藩士子弟の教育に努めたが、廃藩置県により長尾藩はわずか三年で終焉を迎えた。

(西益津小学校)


西益津小学校

 現在、西益津小学校のある場所が、田中城の本丸跡である。ここを中心に、半径ほぼ六百㍍の四重の堀が造られた。
 小学校には、本丸跡を示す石碑のほか、田中城の模型なども展示されている。


田中城 本丸跡


田中城模型

(旭傳院)


旭傳院

 本丸から見ると、南東の方角にある旭傳院に、田中城の門が移築されている。

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