史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「墓石が語る江戸時代」 関根達人著 吉川弘文館

2018年04月28日 | 書評
私がこれまで訪ねてきた墓の数については、数えたことはないが多分千や二千ではきかないはずである。墓へのこだわりでいえば、相当なものだという自負があるが、本書を手にして上には上がいるものだと脱帽するしかなかった。
筆者は、弘前大学で教鞭をとる傍ら、学生にも手伝ってもらい、弘前や北海道、福井の墓地を調査して、その結果から様々なことを墓に語らせている。筆者は「悉皆(しっかい)調査」という言葉を使っているが、要するに対象となる墓地の全ての墓石の被葬者(一人なのか複数なのか)、没年月日、建立年月日から墓石の形式、素材、石工を調査してそのデータを積み上げることによって、その地域の人口の長期的な増減や急激な死亡者数の増加(たとえば、疫病の流行や天災などによる)であったり、墓石形式の流行廃りとか、港町の隆盛衰亡、墓石の物流や石工の広がりなどを考察しようというのである。筆者がこれまで調査した墓石の数は三万を越えるというから全く恐れ入る。古い墓石には摩耗劣化によって読み取れないものも多いが、片栗粉を流し込んで墓石の文字を読み取ろうという筆者の執念には頭が下がる。筆者がいうように、文書史料と違って、墓石は「原位置性」を保ち、「紀年銘」としての役割を持ち、「普遍性」と「不朽性」を併せ持っている。その結果、雄弁な史料となり得るのである。
筆者によれば、墓石が我が国に根付いたのは江戸時代の少し前のことであった。地域差はあるものの概ね江戸時代中期に入ると、一部の経済力のある人のものから、比較的庶民でも墓石が建てられる時代になった。深く考えることもなく、自分もやがては墓に入るのだろうと思っていたが、人口減少時代を迎え、無縁墓は激増している。まさか自分の墓が無縁化するとは、墓を建てる当事者は誰もそんなことを考えていないだろうが、自分の孫や曾孫の時代になれば、無縁化しても不思議はない。少なくとも三世代~四世代もすれば、かなりの確率で無縁化しているという筆者の指摘は間違いあるまい。そう考えると昨今流行の樹木葬とか散骨というのも、あながち理由のないことではない。現在、敢えて石という物質に名前を刻まなくても、写真や電子データによって故人を偲ぶことはいくらでもできる時代になった。近い将来、墓石文化は消滅する運命なのかもしれない。筆者は「墓石が急速に減少・衰退に向かいつつある二一世紀は、「墓石文化晩期」ないし「墓石文化終末期」と呼ばれるはず」としているが、なるほどその予言は的中するかもしれない。
我が国における墓石文化は、江戸時代に興隆して幕末明治期から現代に頂点を迎えた。私が個人的に掃苔の対象としている幕末から明治期というのは、ちょうど墓石がよく残されている時代に当たる。江戸初期とか戦国時代となるとそうもいかない。結果的にはよい時代を選んだということかもしれない。
筆者が「あとがき」の末尾に記している「よそ様のお墓には足繁く通う一方で、自分の家のお墓にはなかなか足が向かない」という言葉は、私も両親からいわれているのとまったく同じ台詞で、思わず苦笑してしまった。
著名人の墓の案内書は、世の中に数多出回っているが、墓石そのものについてこれほど深く、しかも執念深く掘り下げた本はほかにはあるまい。どう考えてもたくさん売れる本ではないが、それでも刊行した出版社にも拍手を送りたい。

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「小笠原クロニクル 国境の揺れた島」 山口遼子著 中公クラレ新書

2018年04月28日 | 書評
最近、小笠原諸島のユニークな歴史にはまっていて、何冊か関連書籍を読むことになった。本書は十年以上も前に刊行されたものであるが、今も書店で比較的容易に入手可能な一冊である。
タイトルにある「クロニクル」という聞きなれない言葉は、日本語にすると「編年史」である。では、本書は「幕末の小笠原」とか「小笠原島ゆかりの人々」のように、小笠原の歴史を、時代を追って記述したものかというと、そうではない。
本書のメインテーマは後半の筆者による聞き書きで、いわゆる小笠原諸島の「欧米系住民」の体験談を集めることで、彼らが国家間の波にもまれて翻弄される姿を描き出している。
小笠原の父島、母島における最初に人が住み着いたのは、十九世紀の前半のこと。いわゆる欧米系の人達であった。その後、明治政府が我が国の領土としたが、内地から遠く離れた小笠原で、彼らは自分たちの文化とか生活スタイルを維持してきた。
第二次大戦では硫黄島や父島、母島が激戦地となったため、島民は内地に疎開させられたが、終戦とともに米国の占領下に置かれ、その時島に帰ることが認められたのは「欧米系住民」のみであった。そこから小笠原諸島出身者による、苦難に満ちた郷土の返還運動が始まるわけであるが、本書の主題はそちらではなく、そのまま小笠原島で生活を続けた欧米系住民である。この中には最初に小笠原諸島に住みついたナサニエル・セーボレーの子孫も含まれている。彼らは自分たちの生活スタイルを維持し、当然ながら英語で日常生活を送っていた。ところが昭和四十三年(1968)、小笠原諸島が日本に返還されると、彼らの生活も一変する。これまで校庭に掲げられていた星条旗が下され、日の丸が掲揚される。学校の授業も英語から日本語に切り替えられた。この頃の教育を受けていた人たちは、英語も日本語も中途半端になったと嘆くが無理からぬ話だろう。それまで校庭で先生を囲んで話しを聞いていたのが、その日を境に軍隊式に「前へならえ」の号令をかけられると水平に腕を伸ばし緊張して立つ。少しでも腕が曲がっていると叩かれる。列を乱すと叱られる。「どうしてこんなことをしないと話もできないのか?」という疑問は、欧米的合理主義からすれば理解不能であろう。
彼らにはアメリカに戻ってアメリカ人になるという選択肢も与えられ、実際そのようにした人もいたようであるが、多くの欧米系住民は日本人として生まれ育った土地で生活を続けることを選んだ。歴史的には「小笠原諸島返還」のひと言で済んでしまう出来事であるが、その裏でさまざまな人たちの人生に変化と混乱をもたらしたという事実をこの本は語りかけている。

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「国立公文書館 春の特別展記念講演会」 羽賀徹 ロバート・キャンベル 主催国立公文書館

2018年04月28日 | 講演会所感
去る四月八日の日曜日、国立公文書館の春の特別展記念講演を拝聴した。この講演会は事前に申し込んで抽選で通らないと参加できないものである。幸いにして開催の十日ほど前に当選の連絡があった。
会場は竹橋の一橋大学一ツ橋記念講堂。空席がないほどの盛況であった。東京大学名誉教授芳賀徹先生の「福沢諭吉の見た幕末維新」と国文学研究資料館長ロバート・キャンベル先生の「文学の中で「国を開く」ということについて」という二本立てである。
芳賀先生によれば、福沢諭吉は徹底した文明礼賛者、近代主義者だという。昨日より今日が良い。来年はもっと良くなる。常に前進する。これこそが文明である。その論調からすれば、明治政府の進める開化路線には大賛成で、旧体制には批判的である。江戸時代を滞留・停頓の時代ととらえ、「精神の奴隷」という言葉を使って痛烈に批判している。そして、その原因を儒学教育に求めている。そういう福沢が、「丁丑公論」において、叛乱を起した西郷隆盛を擁護したのは、やや不思議な印象を受ける。
中津藩の下級藩士の出身であった福沢諭吉が、幕末遣外使節団に参加し、西欧の文明に接することが出来たのは、勿論当人の資質や能力もあっただろうが、何よりも出身にかかわらず柔軟に人材を登用した幕府の姿勢にもあったわけで、多少は徳川幕府に恩義を感じても良さそうなものである。福沢は個人的には木村芥舟には終生厚い恩義を抱き続けていたが、ここでは私情を抜きにして旧体制に容赦ない批判を浴びせている。
この日の講演会の資料として提示(当日コピーが配付)されたのは、「大槻磐水(玄沢)先生五十回追遠文」である。芳賀先生が「希代の名文」と絶賛する漢文調の文章で、儒学旺盛の時代にあって、敢えて蘭学を志した先人を称賛するものである。この時(明治九年)この式典には、幕府に仕えた蘭学者が多く出席しており、彼らを前にして幕府批判はできなかっただろう。むしろ蘭学興隆を支えた徳川政権には好意的な印象を受ける書き振りである。列席者には旧幕府系の錚々たる顔触れが名を連ねている。以下その面々。
 杉田玄端 神田孝平  桂川甫周 加藤弘之
 宇田川興斎 津田真道  竹内玄同 西 周
 林洞海 大鳥圭介  松本順 西村茂樹
 伊東方成 中村正直  戸塚文海 箕作秋坪
 林 糺 川本清一  石川良信 福澤諭吉
 緒方維準 伊藤圭介  佐藤尚中 田中芳男
 坪井信良 宇都宮三郎  高松凌雲 勝安房
 レイホルト 成島柳北  ニコライ 福地源一郎
 岸田吟香
その中の一人「川本清一」のことを、芳賀先生は川本幸民のこととおっしゃっていたが、この時点で既に幸民は世を去っている。川本清一は幸民の次男である。
ロバート・キャンベル先生は、普段あまり着目されない数々の資料を紹介しながら、多面的に時代をとらえることの重要さを説かれた。キャンベル先生がこの講演で紹介された、司法省書記官が残した「民権大意」、高見沢茂の「東京開化繁盛記」、書家関雪江の貼混帳、横浜毎日新聞の投書欄「記夢」など、ほとんど見向きもされないような史料に、当時を生きた人々が時代をどうとらえ、何を感じながら生活していたかを見出すことができる。非常に新鮮で面白い視点であった。

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「王政復古」 久住真也著 講談社現代新書

2018年04月28日 | 書評
「王政復古」といえば、慶應三年(1867)十二月九日の小御所会議が真っ先に連想される。政変を仕掛けた方にしてみれば「王政復古の大号令」であり、仕掛けられた方にしてみれば「王政復古のクーデター」である。本書ではこの日の政変は飽くまで通過点であり、王政復古を流れでみようとしている。
幕末の政局は「尊王攘夷」と「佐幕開国」の対立で語られることが多いが、佐幕派であっても「尊王」に変わりはなく、「尊王」はこの当時の共通の常識であった。つまるところ、幕末の政争は天皇を掌中に収めるための争いであった。王政復古は慶應三年(1867)の十二月に突然訪れたのではなく、そのずっと前から始まっていたのである。
筆者久住真也氏は、「幕末の将軍」(講談社選書メチエ)において、十一代将軍家斉を「権威の将軍」と位置づけ、これに対して十四代家茂は「見せる将軍」へと変容したと説いた。本書でも幕末に描かれた錦絵などから、家茂がそれまでの将軍と異なり、庶民への露出が増え、政治や軍事・外交のリーダーとして先頭に立つ姿を印象付けた。
一方、天皇は常に御所の奥深くに鎮座した。幕末になると、入れ替わり立ち代わり大名が都を訪れ、御所に参内した。しかし、天皇は御簾の奥にいて姿を見せることはなかった。
本書によれば、有名な小御所会議の際も明治天皇はその場にいなかったのではないかという。確かに天皇自身がいる空間で、山内容堂が「幼主」を擁した陰謀だと大声で発言したとすれば、かなり非礼なことである。『岩倉公実記』や『明治天皇記』の叙述において天皇統治の復活を強調するために、小御所会議の場に天皇が存在していないのは都合が悪かったという指摘は説得力がある。
やがて天皇は大久保利通ら藩士の前にも姿を現すようになり、天皇は軍事演習にも臨御するまでになった。その姿は、かつて幕末の将軍がそうだったように、見せる天皇へと変容したのである。その行跡は、将軍と相似形を描くかのようであった。
その端的な例が「よく知られる明治天皇の軍服姿と、最後の将軍慶喜のフランス製軍服姿であり、これが政治・外交・軍事の先頭に立つ君主の姿」なのである。
明治三十一年(1898)三月、六十二歳になった慶喜がはじめて皇居に参内し、天皇と皇后に対面した。慶喜が帰ったのち、明治天皇は伊藤博文に対し「これでやっと今までの罪滅ぼしができた。慶喜の天下をとってしまったが、もうお互いに浮世のことで仕方ないと言って帰った」という。筆者は、「果たして天皇は慶喜から天下を取ってしまったと、詫びたくなるほど現在の地位に満足していたのだろうか。政治にまつわる繁務から解放され、日々を過ごす前将軍を逆に羨ましく思うことがなかったのだろうかと」疑問を投げかけて本書を結んでいる。
確かに生涯京都を愛した明治天皇は、政治を幕府に委任していた京都時代を懐かしむ気持ちを心の奥深くにもっていたのかもしれない。天皇として決して口外できないことだろうが。

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「戊辰役戦史」 大山柏著 時事通信社

2018年04月28日 | 書評
この本も神保町の古書店で発見した。前々から手に入れたいと思っていたが、店頭で見つけて値段を聞いたら七千円というから迷わず購入した。ネットでは安くても一万八千円、相場は二万円を超えているような本なので、ちょっと信じられない価格設定であった。あとから店の人が追っかけてきて、「間違いでした」といわれるのではないかと足早に店を出た。
筆者大山柏は、元帥大山巌・捨松の次男。父の願いによって陸軍に進んで陸軍少佐まで昇進したが、四十歳を前に考古学、歴史学の道に転向した。「戊辰役戦史」は、薩摩藩出身の父と会津藩出身の母を持つ当人でなければ書き上げることができない成果であろう。この本が上梓されたのは、戊辰戦争から百年目となった昭和四十三年(1968)のことで、刊行から五十年が経っているが今なお戊辰戦争研究の基礎資料といわれる名著である。これから少しずつ読んでいきたい。

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高円寺 Ⅵ

2018年04月22日 | 東京都
(長龍寺)
 幕臣塚原昌義の墓を訪ねて、高円寺の長龍寺まで往復してきた(杉並区高円寺南2-31-28)。
 長龍寺は、寺伝によれば文禄二年(1593)に麹町四番町(現・千代田区四番町)に創建されたといわれる。元和二年(1616)、市ヶ谷左内坂に移転し、明治四十二年(1909)、市ヶ谷の陸軍士官学校の拡張にともない、現在地に再移転した。開基である幕府御使番河野氏をはじめ、旧武田家臣団や徳川の名門松平十四家の一つである滝脇松平家(世良田家)、長坂血槍九郎家、山名宗全の本家山名家、その他旗本、名家七十六家の菩提所である。


長龍寺

 塚原家の墓所は比較的早く見付けることができた。周囲を古い墓石が囲んでいるが、残念ながらどれが塚原昌義の墓なのか特定はできなかった。


塚原家之墓

 塚原昌義は、安政三年(1856)十月、外国貿易取調掛に任じられ、老中堀田正睦を援け、以後主に外交面で活躍した。安政六年(1859)、外国奉行支配調役の時、日米通商条約批准のため我が国最初の海外派遣使節に随行を命じられた。その後、外国奉行支配組頭・徒頭を経て、文久二年(1862)九月、目付に任じられ、同年十二月、講武所頭取に転じ、大砲組与組を経て、元治元年(1864)、再度目付に就いた。この時、幕府は横浜鎖港談判使節池田長発の結んだパリ約定の破棄を宣言し、再び施設をパリに派遣することになり、その目付に任じられたが、赴かずに終わった。慶応元年(1865)、大目付となり、同年九月、英国駐箚公使に選ばれたが、これまた赴かずに終わった。その後も外国奉行・勘定奉行兼帯、外国奉行並、外国総奉行、若年寄並、外国総奉行兼帯と常に外交の第一線にあった。一方、内政面では長州処分に厳しく臨み、慶応三年(1867)六月には兵庫開港に備えて商社を設立し、貿易発展を策すべきと建議し、幕府の富強を図った。さらに鳥羽伏見の戦いにあっては、副総督として全軍を統率するなど、小栗忠順とともに親仏の幕府内強硬派であった。そのため慶応四年(1868)二月、徳川慶喜により免職・登営停止処分を受けた。その直後、アメリカに亡命して、以降の消息は不明。
 というのが一般的な塚原昌義の紹介である。最近になって樋口雄彦氏(国立歴史民俗博物館教授)が、「幕臣塚原昌義は維新後武田昌次と名を変えて明治政府に出仕していた」という衝撃的な事実を解明された。武田昌次は大久保利通の率いる内務省に入り、勧農局などで活躍している。手元の「小笠原島ゆかりの人々」(田畑道夫著 小笠原村教育委員会)でも武田昌次が小笠原島に滞在して、珈琲栽培や養蜂などを島に持ち込もうとしていたことが記録されている。塚原家の先祖は武田家臣団から徳川家に召抱えられたといわれ、その縁で武田姓を名乗ったのであろう。

(鳳林寺)


鳳林寺

 鳳林寺は、やはり高円寺の寺町に所在している(杉並区高円寺南2-39-1)。やはり大正三年(1914)に牛込から現在地に移転してきた。
 墓地に、幕末の医家加賀谷楽山、書家の加賀谷向陵と画家の酔雪親子の墓がある。


向陵多賀谷府君墓(右)
楽山多賀谷府君墓(中)
酔雪多賀谷府君墓(左)

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中野新橋

2018年04月22日 | 東京都
(正蔵院)


正蔵院

 中野新橋駅から南に七~八分歩いたところに所在している正蔵院には、川住行教の墓がある(中野区弥生4‐12‐1)。


真照院良譽行教居士(川住行教の墓)

 川住行教は、文政八年(1825)に三河国西尾藩(現・愛知県西尾市)に生まれ、藩主松平乗全(のりたけ)、乗秩(のりつね)の二代に仕えた。乗全が老中の重職を命じられ、これに随行して江戸に下った。折しも、万延元年(1860)三月、井伊大老の暗殺事件が起き、乗全はその責を負って老中の職を辞して西尾藩に退いたが、行教もまた帰藩した。その後、乗秩に仕えて大いに藩の改革に努めた。維新後、新政府に選ばれて三河国の大参事に抜擢され、その名声は高まった。明治九年(1876)、職を辞して、以来中野の雑色村に閑居して悠々自適の生活に入った。明治十七年(1884)、病のため六十歳にて死去した。

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2018年04月21日 | 静岡県
(原宿)


原宿本陣跡

 原宿といえば、渋谷区の原宿を思い出すが、実は東海道にも原宿がある。原宿は、東海道の 十三番目の宿場である。
 原駅を降りて、東海道を右手に進むと、本陣跡を示す石碑がある。原宿の本陣渡邊家は代々平左衛門家を名乗り、問屋、年寄、名主を務めた。現在も本陣跡には、渡邊家の表札が掲げられている。
 慶応三年(1867)韮山農兵の世話係を務めていた世古六太夫(三島宿本陣当主)は、箱根関所を破った薩摩藩邸の副留守居脇田一郎ほか二名を代官手代と協力して原宿一本松にて召し捕っている。

(帯笑園)


帯笑園

 原宿本陣跡の近く、浅間神社の向かい側辺りに帯笑園(たいしょうえん)がある。
 帯笑園は、素封家植松家の私園で、その名称は六代当主與右衛門秀英(蘭渓)の請いにより、漢学者海保青陵が命名したものである。作庭は戦国時代末期とも伝えられるが、江尾時代後期蘭渓の代にほぼ庭園全体の姿ができあがり、その後も代々の当主が花卉銘木の収集や園内の整備に努めてきた。前庭には、当時としては珍しい温室が設けられ、松や蘇鉄の盆栽や当時流行した珍しい品種や舶来の花卉類の鉢植えが並べられていたという。
幕末から明治期には街道一の名園と讃えられ、東海道を往来する大名、公家、文人などが訪れた。シーボルトもその紀行文の中で「私がこれまでにこの国で見たもののうちでいちばん美しく、鑑賞植物も非常に豊富である」と絶賛している。明治に入ってから伊藤博文も当園を訪れた記録が残る。
 その後、時代の変遷とともに、敷地は半分ほどに縮小し、貴重な植物も多くが失われてしまった。
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上野 Ⅸ

2018年04月21日 | 東京都
(報恩寺)
 ペリー来航時の浦賀奉行所与力であった小笠原甫三郎の墓を訪ねて、報恩寺を訪ねた(台東区東上野6‐13‐13)。


報恩寺

 報恩寺の墓地は、報恩寺本堂の北側にあり、入ったところに墓守のおばあさんが待機している。小笠原甫三郎の墓を探している旨を告げると、ここには小笠原姓の墓はないという。念のため墓地を一回りしてみたが、発見できなかった。
 小笠原甫三郎は、文政三年(1820)、幕府御家人山口茂左衛門の子に生まれた。天保十三年(1842)、小笠原貢蔵の養子となって、小笠原家を継いだ。小笠原貢蔵は、蛮社の獄の際、鳥居耀蔵の命を受けて蘭学者の取調にあたったという人物である。甫三郎は幼少より学問を好み、数学を内田弥太郎、測量を奥村喜三郎、砲術を幕府鉄砲方の井上左太夫や田付四郎兵衛に師事した。時代の違いといってしまえばそれまでだが、養父貢蔵とは全く違う人生を歩んだ。嘉永元年(1848)、家督を継いだ助三郎は浦賀奉行所与力を拝命し、当時西洋式砲術の第一人者下曽根金三郎に就いて砲術を修めた。その頃、浦賀に来ていた佐久間象山からオランダからの献上品である大砲や付属の機器の使用方法を教わった。嘉永六年(1853)、富士見宝蔵番に転じ、わずか一年で留役勘定に任命され、文久元年(1861)には神奈川奉行所の支配調役に転じている。文久三年(1863)からは各地の代官を歴任して、元治元年(1864)に発生した天狗党の乱では、支配地で組織した農兵を率いて各地を転戦した。明治十八年(1885)、死去。葬儀には親交のあった栗本鋤雲、福地源一郎、榎本武揚らが参列したという。
 この日は氷川台の荘厳寺で山本金次郎の墓を訪ねたが空振り。継いで小笠原甫三郎の墓にも出会うことができず、収穫のない一日であった。

(永昌寺)


永昌寺

 明治十四年(1881)、嘉納治五郎は、東京大学を卒業し、学習院に奉職したが、翌年より永昌寺内に居住して同寺書院を道場として、柔道を中心とする訓育を始めた。これが講道館の発祥である(台東区東上野5‐1‐2)。道場の広さは十二畳、初年の入門者は九名であった。


講道館柔道発祥之地

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氷川台 Ⅱ

2018年04月21日 | 東京都
(荘厳寺)
 ペリー来航時、浦賀奉行所同心であった山本金次郎の墓が氷川台の荘厳寺にあるというので、行ってみた(練馬区氷川台3‐14‐6)。
荘厳寺の墓地は二か所に分れている。境内に隣接する墓地には三つ、道路を隔てて北側の墓地にも一つ、山本姓の墓を見付けたが、どれが山本金次郎のものか(あるいは金次郎の末裔のものか)断定はできなかった。なお、歌手でタレントの山本コウタロウ氏は、山本金次郎の末裔なのだそうだ。


荘厳寺

 山本金次郎は文政九年(1826)の生まれ。浦賀奉行所の後、安政二年(1855)、長崎海軍伝習所の第一期生として派遣され、蒸気機関を研究した。咸臨丸のアメリカ派遣には機関長次席格として参加した。帰国後も軍艦操練所教授として後進の指導にあたった。病を得て元治元年(1864)、死去。
 このところ、「幕末の海軍」(神谷大介著 吉川弘文館)、「軍艦奉行木村摂津守」(土居良三著 中公新書)、「浦賀奉行所」(西川武臣著 有隣新書)と、幕末の海軍や浦賀奉行所に関連する書籍を立て続けに読んでいる。「山本金次郎の墓は氷川台の荘厳寺」と記載されていたのがどの本だったか、いくら探しても出典が確認できないでいる。


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