明治二十七年(1894)に伊藤内閣で文部大臣を務めたことを皮切りに、外務大臣や枢密院議長などの要職を歴任し、明治三十九年(1906)と明治四十四年(1911)、二度に渡って総理大臣に就いた。公家出身では初めてのことであった。桂太郎と交互に総理大臣を務めたことから、「桂園時代」とも称される。
首相辞任後、昭和十五年(1940)に九十歳で薨去するまでの長きにわたり、元老として政界に隠然たる影響力を持ち続けた。
元老というのは、大日本帝国憲法には規定のないポストであるが、内閣総辞職の際に天皇からの諮問を受けて、後継の内閣総理大臣を奏薦することを主な権能とした。史上元老と認められるのは、伊藤博文、山縣有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、大山巌、そして西園寺公望ら、ごく限られた面々である。松方正義が大正十三年(1924)に亡くなると、西園寺は最後の元老として存在感を放った。
本書で紹介されている元老西園寺公望は、興津の坐漁荘や京都の清風荘にいて、東京とは距離をとりながら、秘書を通じて情報を入手し、常に公正を意識して、その時々に最善の人選に努めた。
その西園寺を悩ませたのが、軍部の台頭であった。二二六事件では西園寺自身も暗殺のターゲットとなった。天皇からの下問を受けた西園寺は、体調不良を押して上京した。
個人的には西園寺公望と聞いて特段の印象をもっていなかったが、筆者によれば従来の西園寺のイメージは、「聡明で広い国際的視野を持つが」「政治家としては気力・意欲に欠ける」というのが一般的な評価なのだそうである。しかし、本書を通じて描かれる西園寺は、「古希を過ぎても理想を失わず、情熱的で粘り強く、老獪」でもあった。さらにいえば、健全な愛国心を持ち、常に元老として日本の政治を真摯に考えた人物であった。
晩年、体力の衰えが明らかになってくると、さすがに「政治への意欲と緊張感をなく」し、「後継首相推薦にも投げやりになった」。その裏には満州事変以降の日本を思うような方向に導けなかったという無念さ、最後まで尽力してみたがどうにもならなかったという達観、政治的な提案をしてもほとんど無視される現実、時勢を転換することが期待された近衛文麿や宇垣一成内閣への失望…そういったものがない交ぜになったのであろう。
昭和十五年(1940)十一月二十四日、ついに永眠。日本が英米に宣戦を布告し、転落するように破滅へ向かう、その一年前のことであった。思えば、明治初年から昭和に至るまで間近に政治に関わり続けたような政治家は、西園寺公望以外にいない。日本の破滅を見ることなくこのタイミングで世を去ったのは、せめてもの救いだったかもしれない。