(鳳松院)
鳳松院
儀峰院忠學貞成居士(館山正作墓)
館山正作は幸七の二男。城下茂新町住。銃士。石山真太郎手。明治元年(1868)九月十六日、羽後石淵長根で戦死。十九歳。
(本行寺)
本行寺
本行寺も、やはり箱館戦争後、榎本軍を収容した寺である。
鶴舎有節墓
鶴舎有節は、文化五年(1808)弘前の豪商鶴屋宇兵衛の二男に生まれた。俳人としても活躍し、内海草坡、三谷句仏に俳諧を学び弘前藩主津軽順承にも教授した。安政四年(1857)平田銕胤に入門し国学を学んだ。明治四年(1871)没。
本多庸一久亨墓
本多庸一は、嘉永元年(1848)弘前在府町の生まれ。藩校稽古館に学び、維新の際、菊池九郎らとともに奥羽列藩同盟のために奔走したが、のち藩論が変ずると脱藩して庄内藩に走った。明治元年(1868)、脱藩の罪を赦されて弘前に帰った。明治三年(1870)、藩より選ばれて英語学習のため横浜に派遣され、ブラウンの塾で学んだ。明治五年(1872)キリスト教に入信し、帰郷して藩学の改組された東奥義塾の塾長となり、弘前教会創設に当たった。次いで民権運動を指導。明治十五年(1882)、青森県議会議長となったが、のち心機一転して伝道に専心した。青山学院長、日本メソジスト教会初代監督となり、日本プロテスタント伝道の代表的人物として重きを成した。広島、長崎に伝道中、長崎で没した。年六十五。
宏遠院殿泰靖日巍居士(山内逸郎墓)
山内逸郎は、文政六年(1823)弘前に生まれ、嘉永元年(1848)三月、袰月に異国船来航すると、物頭として出陣した。安政元年(1854)、大目付に任じられ、安政六年(1859)には表書院番頭兼用人となった。文久三年(1863)、城代各家老西館建哲らと藩の内訌を治め、慶應三年(1867)家老となった。翌年、白石にて藩を代表して奥羽越列藩同盟に加盟の署名をしたが、藩は七月五日にこれを脱退。明治二年(1869)十月、藩大参事に選出されたが、さきの同盟加盟とその後の藩論転換に対する責を負い、周囲の慰撫を振り切って辞職した。明治二十一年(1888)、年六十六歳にて死去。
(最勝院)
最勝院
最勝院も、やはり箱館戦争後、旧幕軍が収容された寺の一つである。その中には、榎本政権で江差奉行並を務めた小杉雅之進の姿もあった。
最勝院には美しい五重塔がある。この五重塔は、縁起によれば津軽統一の際に戦死した敵味方を供養するため、三代藩主信義が着工し、四代信政により完成したといわれる。
(天徳寺)
天徳寺
「歴史と旅 幕末維新人物総覧」によれば、天徳寺に、嘉永五年(1852)三月、弘前を来訪した吉田松陰が訪れた儒学者伊東梅軒(広之進・祐之)の墓があるとされていたので、天徳寺の墓を隈なく歩いたが発見に至らなかった。
伊東梅軒は、弘前藩士。通称は広之進といった。文化十二年(1815)、六両四人扶持の小家に生まれた。天保十四年(1843)、江戸に遊学して、佐藤一斎に学んだ。弘化元年(1844)には上方に行き、篠崎小竹の門下となって、僧月性、在京の真木和泉らと交遊した。翌年から四国、九州、長州と西海を遊歴し、宮部鼎蔵、吉田松陰と意気投合した。その後、家庭の事情で帰国したが、嘉永五年(1852)、松陰と鼎蔵が東北を遊歴した折、伊東宅に宿泊した。藩士としては主に海防を担当し、奥羽における戦争が起こると、諸藩への使者や応接役を務めた。明治十年(1877)、六十三歳で没。
(革秀寺)
革秀寺は、津軽藩初代藩主津軽為信が、自分の禅の師匠である長勝寺八世住職格翁禅師のために建てた寺である。為信は、慶長十二年(1607)に京都で亡くなったが、この遺骨を二代藩主信牧が持参し、格翁禅師を導師として葬儀を行い、この寺が廟所となった。今も境内に為信の霊屋が置かれている。
革秀寺
初代弘前市長を務めた菊池九郎の墓がある。左手の「菊池家之墓」に葬られているものと思われる。
菊池九郎墓
慌ただしい二日間であったが、予定時間にレンタカーを返却して、あとは弘前バスターミナルから夜行バスに乗って帰るだけとなった。バスの出発時間まで、本屋で郷土史関係の書籍を漁ってみようと目論んでいたが、駅の周辺に大きな書店は見当たらなかった。しょうがないのでカフェでパソコンでもして時間をつぶそうかと思い立ったが、東京の都心とは違って、そのような気の利いたものはない。バスターミナルの近くで一軒見つけたが、八時に閉店してしまうという。このカフェに限らず、大抵の店は八時前には閉店してしまい、身の置き所のない時間を過ごすことになった。お土産を買うにもほとんどそれらしい店もなく、本当に時間を持て余してしまった。弘前はもう少し賑やかな街をイメージしていたが、予想を裏切られてしまった。
この二日間の、レンタカーの走行距離は七百八十五キロメートル、撮影した写真は約三百枚。歩いた歩数はちょうど四万歩(最近、万歩計を着用している)。結論としては、青森県下の史跡を網羅するには、あと一日欲しい。次の機会を楽しみにしたい。