史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

平川

2016年09月09日 | 青森県
(碇ヶ石関関所跡)


碇ヶ石関関所跡

碇ヶ関の関所は、天正十四年(1586)に津軽藩祖津軽為信によって設けられた。この地は秋田盛岡への分岐点でもあり、寛文二年(1662)以降、藩主が江戸へ参勤する往復の街道ともなり、御仮屋を建てて、そこで参勤の際には一泊の上、旅装に着替える場所にもなっていた。関所の正門には高麗門を建てて警固し、そこに奉行所を置いて厳重を極めた。津軽三関所(大間越え・野内)のうちの一つであるが、最も往来の多い関所であった。
現在、関所の遺構は何一つ残っておらず、住宅の前に所在無げに小さな石碑とそれに説明が付されているのみである。近所の老人に場所を確認したところ「さあ、何か残っていたかな。昔は石碑があったけど…」という程度であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八戸 Ⅱ

2016年09月09日 | 青森県
(南宗寺)


南宗寺

南宗寺には八戸南部家の墓所がある。ここには初代直房から九代信順までの墓があり、いずれもほぼ同じ形で大きさも変わりがない。


八戸南部家墓所


南部信順墓

南部信順(のぶよし)は、文化十一年(1814)、薩摩藩主島津重豪の五男に生まれ、八戸藩主南部信真の娘鶴子に配されて天保九年(1838)四月、八戸城に入った。維新に際し、八戸藩は去就に迷い、白石同盟に正式には加わらなかったが、野辺地戦争のため一時棚倉への転封が内定するなどして、信順は島津家と宗家盛岡藩との関係で苦しい立場に立たされた。大政奉還後、八戸藩知事。明治五年(1872)年五十九にて没。

(大慈寺)


大慈寺

大慈時は延宝年間(1670年代)の創建と伝えられる。このうち山門は天保二年(1831)の建立。
本堂の裏手に広い墓地があり、この中から目標とする墓を見出すことを考えると一瞬眩暈に襲われたが、根気強く歩けば何とか行き当てることはできる。以下、大慈寺のホームページより引用。


太田廣城之墓

太田広城は天保九(1838)、八戸藩士太田久容の二男として三戸郡角柄折村(現階上町)に生まれた。幼少から柔術、棒術等に優れる一方で、禅も学んでおり、温和な人柄であったと言われている。当時の東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成し、政府軍に対抗していた。八戸藩主信順は薩摩藩主の弟であったが、一藩だけ同盟を抜けるわけにはいかなかった。広城はこの微妙な立場の藩にあって、政府や盛岡その他の藩そして軍との交渉を受け持った。明治六年(1873)、青森県典事。三沢に広沢安任とともに洋式牧場を開き、八戸藩の所有地が国有林になる前に、藩士に分け与えた。明治八年(1875)、官職を辞して東京での六十銀行社員を経て、明治十三年(1880)、北海道に渡り、福山で開拓の指導、奥尻島で戸長を努め、明治三十五年(1902)に郷里に戻った。帰八後は旧藩士の老年会会長、八戸俳諧倶楽部会長を努め、明治四十四年(1911)死去。


大澤家之墓(大沢多門墓)

大沢多門は天保五年(1834)、八戸藩主根井沢悟、れんの長男として現在の八戸市糠塚に生まれた。嘉永3年(1851)、十六歳で根井沢家督五十石を継ぎ第九代藩主信順に仕えた。売市番所詰を皮切りに川口奉行、車台大筒打方や江戸での勝手御用取次ぎなど務め、慶應四年(1868)一月京都守護勤務。野辺地戦争で八戸隊の副隊長として活躍した。その後大沢多門と改名。明治六年(1873)、県の行政区は十大区にわけられたが、そのうち第九大区二小区(現・八戸市)の戸長に任命された。文化的指導者となり、えんぶりの復活、三社大祭の興隆に尽くし、八戸の地域の振興のために半生をささげた。明治三十九年(1906)没。


蛇口家之墓(蛇口伴蔵墓)

蛇口伴蔵は、文化七年(1810)八戸藩士葉山治右衛門、志加の子として出生。文政十年(1827)十八歳のとき九戸郡蛇口村(現軽米町)の蛇口伴蔵の養子となり、伴蔵の孫娘志摩子と婚姻。名を胤年と改めた。二十一歳で江戸勤番を命ぜられ、昌平坂学問所の佐藤一斉の門に入った。また、八戸藩の木崎流砲術指南の立花文助から易学も学んだ。それから一心不乱に倹約と商売に励み「商人侍」とののしられたが、決心を貫きとうし天保四年(1833)、中居林村袖中に畑を求め住居し、莫大な資産家となった。その間藩の役職を馬糧奉行、金奉行、台所奉行と歴任して嘉永六年(1853)には吟味役に任じられ、藩主に「富国強兵策」を建言した。安政四年(1857)、四十八歳で隠居が認められると、八戸藩の広大な土地の利水開発に取り組む。今もその功績を顕彰して世増ダムに伴蔵の像が建てられている。慶應二年(1866)、五十七歳で没。


野村軍記墓

野村軍記は安永三年(1774)に生れた。幼少の頃から文武の道に優れ、人となり豪邁、果断明決の士であったので、兵馬の師範近習役、刀番役、納戸役、大目付、寺社奉行と昇進した。文化十三年(1816)、南部領民と八戸紫和領民との紛争を解決し、その才腕を認められた。当時八戸藩は財政窮乏し、その打開策として発行された紙幣で、物価が高騰し、士民は困窮のどん底にあった。八代藩主信真は深くこれを憂い、藩政改革を志し、文政元年(1818)軍記を藩政改革主任に登用した。軍記は非常の時、非常の措置をとることの許しを受け、私腹をこやす権臣の禄を削り、綱紀を正し、これと結ぶ豪商の財産を没収し商人の増長を戒めた。一方商業資本を巧みに利用し新しい預かり切手を発行して評判の悪い旧紙幣との交換に成功、翌文政二年(1819)には調役所を設けヽ自ら目付となり専売制度を断行した。専売の実をあげるため八戸産の移出に務め、千石船を建造し、有名力士を抱え江戸における八戸藩の名声を高め八戸産の販売を有利にした。文政十二年(1829)の八戸城下大火後の市街地を整理し道幅を広め、文武学校を設立し、藩士に教授した。さらに新羅神社を改築し、敬神の道を教え、馬場を設け、騎射打毬の術を指導した。十二ヶ年にして諸般の面目を一新、藩政改革に見事成功した。「八戸のことは良きも悪しきも軍記さま」といわれるほど八戸のためには仕事をした人物である。天保五年(1834)没。夫人の墓と並んで墓が建てられている。法名望岳舎一英軍記居士。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七戸 Ⅱ

2016年09月09日 | 青森県
(瑞龍寺)
瑞龍寺の管理している南部家御霊屋(おだまや)は、かつて御霊屋と御骨堂等が建てられていたが、現在は四基の墓碑が残るのみとなっている。中央の二基は、南部信民とその室瑳久子のものである。南部信民は、文久二年(1862)、先代信誉の遺領一万一千石を引き継いだ。慶応元年(1865)に江戸を出たが、当時七戸には入るべき城がなかったため、盛岡に滞在しながら、七戸城の応急修理に着手した。戊辰戦争後、領地のうち一千石を召し上げられ、隠居を命じられた。明治二年(1869)、南部信方に家督を譲った。家族とともに七戸に帰った信民は、藩学校を設立し、漢学と英学に教授を招いて子弟の教育をはかり、救荒対策として馬鈴薯の作付を奨励するなど、短期間に治績を残した。明治三十三年(1900)没。夫人瑳久子は明治三十八年(1905)没。


瑞龍寺


南部信民墓

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十和田 Ⅱ

2016年09月09日 | 青森県
(藤島墓地)
藤島墓地には斗南に移住した旧会津藩士の墓がある。


立川直求之墓


上原安右衛門墓


伊東傳伍墓


大江養琢 孝純 墓

墓碑によれば、大江家は高知県幡多郡奥内村の出で、養琢、孝純とも蘭学を修め、土佐藩に出仕し、ともに御殿医をつとめた。孝純の長男純硯は、赤十字病院より派遣されて藤坂地方に発生した伝染病の治療に当たった。のち地元の下山いわと結婚して、藤島に定住した。晩年には四和田村助役として地元に貢献した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五所川原

2016年09月03日 | 青森県
(蓮華庵)
ここに来て雨が激しくなってきた。傘を持たないまま、五所川原の蓮華庵墓地を歩いた。


蓮華庵

どういうわけだか、中泊町(中里町と小泊町の合併により誕生)と五所川原市は入り組んでおり、地図で確認すると五所川原市(旧五所川原町と金木町・市浦町)は二つに分かれている。経緯は知らないが、いかにも不自然な合併である。


吉田松陰遊賞之碑

吉田松陰遊賞之碑の初代の碑が、五所川原市相内の蓮華庵墓地に残されている。

(史蹟神原の渡し)


史跡 神原之渡し
史蹟十三館岡街道 吉田松陰ゆかり之地

岩木川を北上した松陰は、途中で道を間違えたことに気が付き、もう一度川を渡って神原に出た。古くから神原の渡しとして知られた場所である。石碑の一面には「史跡 神原之渡し」と記され、もう一面には「吉田松陰ゆかりの地」と刻まれている。

(金木町元気村)


かなぎ元気村 かだるべぇ

五所川原市金木町の蒔田という集落の中に「かなぎ元気村 かだるべぇ」というカフェがあり、その前庭に「吉田松陰 宮部鼎蔵 巡見之碑」という、比較的新しい石碑が建てられている。彼らが当地を訪れたのは、嘉永五年(1852)三月三日のことで、昼食をとったといわれる場所は石碑のある地点から五十メートルほど進んだ右側である。昭和二十五年(1950)、当時蒔田小学校となっていた田中長十郎屋敷跡の一角に、この学校の教員有志が「吉田松陰先生昼食の場所」という木製の記念碑を立てていた。時を経て朽ちかけてきたことから、平成二十七年(2015)、近接するこの場所に新たにこの記念碑が再建されたという次第である。
松陰らは北端の津軽海峡をめざし、本道である「下之切通り・小泊街道」(現・国道339号)へ至るため、「神原の渡し」を利用し、川舟で岩木川を渡った。当時の神原船場の渡し守の一人は、金木神原出身の津軽三味線の始祖仁太坊(本名・秋元仁太郎)の父、三太郎であったといわれ、この時松陰と出会ったと推定されている。


吉田松陰 宮部鼎蔵 巡見之碑

(昼食の場所)

(赤堀道の渡船場跡)


吉田松陰先生渡舟記念碑

五所川原に入った吉田松陰は、里人に聞いた道を間違えて、赤堀から舟に乗り、岩木山を対岸の芦屋へ渡った。五所川原市田川高松に、その渡船場跡を示す石碑が建てられている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中泊

2016年09月03日 | 青森県
(小泊)
津軽半島を南下し始めたところで、雨が強く降り出した。出発前の予報では曇だったのだが、傘を持たずに出ると必ず雨に遭う。ここから先、雨に濡れるがまま史跡を訪ね歩くことになった。


みちのく松陰道入口

みちのく松陰道の小泊側の入口である。傍らを傾り石川(かたがりいし)が流れる。ここから算用師橋まで全長十キロメートルを超え、歩くと三~四時間という難路である。


右 みちのく松陰道

(十三湖)


十三湖

中泊町今泉唐崎の十三湖畔の公園内に吉田松陰遊賞之碑がある。徳富蘇峰の筆。吉田松陰は、十三湖の風景を「真に好風景なり」と旅日記に記した。これに因んで、当初、中里町今泉の七平から相内の山道に建てられたが、道路の拡幅工事中に倒壊したため、昭和三十九年(1964)に建て替えられた。しかし、この石碑も破損が進んだため、平成四年(1992)初代の碑を忠実に復元して、十三湖畔に建てられたのが現在のものである。なお、二代目の碑は、新しい三代目の碑の下に埋められているそうである。


吉田松陰遊賞之碑

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竜飛崎

2016年09月03日 | 青森県
(竜飛崎)
晴れていれば竜飛崎から対岸の北海道まで見渡せるはずだが、残念ながら時折雨がパラつく曇天で、見通しは悪かった。それでも360°のパノラマを楽しむことはできた。


竜飛崎

竜飛崎の吉田松陰詩碑は昭和四十一年(1966)に建てられたもので、既に五十年の歳月が経過している。ブロンズ製の詩碑は、緑青がふいて汚れているように見えるし、台座の石段も一部が剥落して補修の手も入れられていない。見るからに残念な状態である。
厳密に言えば松陰は、小泊から算用師峠を越えており、竜飛崎を訪れていない。詩碑には算用師峠越えの際に作られた詩が記されているが、やや「過大広告」気味である。


吉田松陰詩碑


竜飛崎灯台

竜飛崎灯台は、津軽海峡の西側玄関に位置する重要な灯台である。昭和七年(1932)七月に点灯。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今別

2016年09月03日 | 青森県
(袰月海岸)


袰月海岸

朝食を済ませて、津軽半島の旅に出発する。ここからは吉田松陰の足跡をたどる旅となる。
ペンションを出て、最初の目的地は鋳釜崎の袰月(ほろつき)海岸にある東北遊日記碑である。ペンションの女性も「鋳釜崎はお薦めです」と推奨していたが、なるほどここからの景色も素晴らしい。
嘉永五年(1852)三月五日、小泊から算用師峠を越えて三厩から南下した松陰は、津軽海峡の異変を敏感に感じ取っている。

――― 小泊、三厩の間、海面に斗出するものを竜飛崎と為す。松前の白神鼻と相距ること三里のみ。而れども夷舶憧々として其の間を往来す。これを榻(とう=寝台)側に他人の酣睡(熟睡)を容すものに比ぶれば更に甚だしと為す。筍も士気ある者は誰れか之が為に切歯せざらんや。独り怪む、当路者漠然として省みざるを。


吉田松陰東北遊日記碑

(上山崎)
袰月海岸から国道280号を南下し、上山崎の集落に入った辺りに「松陰くぐり」と呼ばれる場所がある。潮の干満により見え隠れする岩穴である。往時は、松前街道を進む旅人は必ず通過する場所であり、海岸沿いを歩いてきた松陰も、ここを通過したことであろう。現在はその上を国道が開通し、ここを徒歩で通過する人ほぼ皆無である。


松陰くぐり

(三厩)


みちのく松陰道入口

三厩の算用師橋の前に「みちのく松陰道入口」と記した木標が立っている。ここから小泊方面へ通じる道の入口である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外ヶ浜

2016年09月03日 | 青森県
(平舘台場跡)
今回の青森行を計画したのが遅かったので、最も難渋したのが宿泊場所の確保であった。青森市内や弘前市内のホテルはどこも満杯で、空いているのは一泊二万円以上もする部屋しかなかった。どうせ寝るだけだし、ホテルライフを楽しもうという気もない私としては一泊二万円超というのは採算が合わない宿泊費であった。半ば諦めつつネットで検索していると、平舘台場の近くにペンションを発見した。夕食・朝食付きで一泊七千八百円はお得である。躊躇なく予約した。
夕食はイカやウニなど近海の海の幸を盛り合わせた豪勢なものであったし、いつも史跡旅行でコンビニのオニギリか菓子パンで済ませていることを思えば十分過ぎる朝食であった。このペンションはこの場所で二十九年の長きにわたって営業を続けているそうで、コストパフォーマンスや家族的な雰囲気を経験すれば、その理由も納得できるだろう。
前夜は夜行バスで寝苦しい夜を過ごしたが、のびのびと身体を伸ばして眠る快適さを存分に堪能した。部屋にはエアコンも付いていたが、窓を少し開けるだけで心地よい冷気が部屋に入ってくるので、エアコン無しでもまったく快適であった。

旧幕軍の侵攻により松前を追われた藩主松前徳広は、熊石から出帆して平舘付近に上陸した船内で死亡した前藩主崇広の娘鋭姫(五歳)は平舘の福昌寺に仮埋葬された。徳広も上陸後、一週間足らずで病死した。松前藩にとって悲惨な歴史がこの地に刻まれている。


ペンションだいば


平舘台場跡


朝食前に散歩がてら平舘台場跡を見学する。この台場は、嘉永二年(1849)に弘前藩が構築したもので、弘化四年(1847)に平舘に異国船が現れ、乗組員が上陸した事件を受けて、急遽築造されたものである。台場の遺構は、土塁に囲まれており、大砲を据えたと考えられる窪地が七か所、出入口が二か所残されている。土塁の高さは約二・三メートル、幅は概ね十メートルで、土塁内部は南北八十メートル、東西十一メートルほどである。遺構が良く保存されている。
この台場を東北旅行中の吉田松陰も視察し、「此れ尤も要扼の処なり。台位已に其の所を得、而して台の制(つくり)も亦頗る佳し」と称賛している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弘前 Ⅵ

2016年09月01日 | 青森県
(鳳松院)


鳳松院


儀峰院忠學貞成居士(館山正作墓)

館山正作は幸七の二男。城下茂新町住。銃士。石山真太郎手。明治元年(1868)九月十六日、羽後石淵長根で戦死。十九歳。

(本行寺)


本行寺

本行寺も、やはり箱館戦争後、榎本軍を収容した寺である。


鶴舎有節墓

鶴舎有節は、文化五年(1808)弘前の豪商鶴屋宇兵衛の二男に生まれた。俳人としても活躍し、内海草坡、三谷句仏に俳諧を学び弘前藩主津軽順承にも教授した。安政四年(1857)平田銕胤に入門し国学を学んだ。明治四年(1871)没。


本多庸一久亨墓

本多庸一は、嘉永元年(1848)弘前在府町の生まれ。藩校稽古館に学び、維新の際、菊池九郎らとともに奥羽列藩同盟のために奔走したが、のち藩論が変ずると脱藩して庄内藩に走った。明治元年(1868)、脱藩の罪を赦されて弘前に帰った。明治三年(1870)、藩より選ばれて英語学習のため横浜に派遣され、ブラウンの塾で学んだ。明治五年(1872)キリスト教に入信し、帰郷して藩学の改組された東奥義塾の塾長となり、弘前教会創設に当たった。次いで民権運動を指導。明治十五年(1882)、青森県議会議長となったが、のち心機一転して伝道に専心した。青山学院長、日本メソジスト教会初代監督となり、日本プロテスタント伝道の代表的人物として重きを成した。広島、長崎に伝道中、長崎で没した。年六十五。


宏遠院殿泰靖日巍居士(山内逸郎墓)

山内逸郎は、文政六年(1823)弘前に生まれ、嘉永元年(1848)三月、袰月に異国船来航すると、物頭として出陣した。安政元年(1854)、大目付に任じられ、安政六年(1859)には表書院番頭兼用人となった。文久三年(1863)、城代各家老西館建哲らと藩の内訌を治め、慶應三年(1867)家老となった。翌年、白石にて藩を代表して奥羽越列藩同盟に加盟の署名をしたが、藩は七月五日にこれを脱退。明治二年(1869)十月、藩大参事に選出されたが、さきの同盟加盟とその後の藩論転換に対する責を負い、周囲の慰撫を振り切って辞職した。明治二十一年(1888)、年六十六歳にて死去。

(最勝院)


最勝院

最勝院も、やはり箱館戦争後、旧幕軍が収容された寺の一つである。その中には、榎本政権で江差奉行並を務めた小杉雅之進の姿もあった。
最勝院には美しい五重塔がある。この五重塔は、縁起によれば津軽統一の際に戦死した敵味方を供養するため、三代藩主信義が着工し、四代信政により完成したといわれる。

(天徳寺)


天徳寺

「歴史と旅 幕末維新人物総覧」によれば、天徳寺に、嘉永五年(1852)三月、弘前を来訪した吉田松陰が訪れた儒学者伊東梅軒(広之進・祐之)の墓があるとされていたので、天徳寺の墓を隈なく歩いたが発見に至らなかった。

伊東梅軒は、弘前藩士。通称は広之進といった。文化十二年(1815)、六両四人扶持の小家に生まれた。天保十四年(1843)、江戸に遊学して、佐藤一斎に学んだ。弘化元年(1844)には上方に行き、篠崎小竹の門下となって、僧月性、在京の真木和泉らと交遊した。翌年から四国、九州、長州と西海を遊歴し、宮部鼎蔵、吉田松陰と意気投合した。その後、家庭の事情で帰国したが、嘉永五年(1852)、松陰と鼎蔵が東北を遊歴した折、伊東宅に宿泊した。藩士としては主に海防を担当し、奥羽における戦争が起こると、諸藩への使者や応接役を務めた。明治十年(1877)、六十三歳で没。

(革秀寺)
革秀寺は、津軽藩初代藩主津軽為信が、自分の禅の師匠である長勝寺八世住職格翁禅師のために建てた寺である。為信は、慶長十二年(1607)に京都で亡くなったが、この遺骨を二代藩主信牧が持参し、格翁禅師を導師として葬儀を行い、この寺が廟所となった。今も境内に為信の霊屋が置かれている。


革秀寺

初代弘前市長を務めた菊池九郎の墓がある。左手の「菊池家之墓」に葬られているものと思われる。


菊池九郎墓

慌ただしい二日間であったが、予定時間にレンタカーを返却して、あとは弘前バスターミナルから夜行バスに乗って帰るだけとなった。バスの出発時間まで、本屋で郷土史関係の書籍を漁ってみようと目論んでいたが、駅の周辺に大きな書店は見当たらなかった。しょうがないのでカフェでパソコンでもして時間をつぶそうかと思い立ったが、東京の都心とは違って、そのような気の利いたものはない。バスターミナルの近くで一軒見つけたが、八時に閉店してしまうという。このカフェに限らず、大抵の店は八時前には閉店してしまい、身の置き所のない時間を過ごすことになった。お土産を買うにもほとんどそれらしい店もなく、本当に時間を持て余してしまった。弘前はもう少し賑やかな街をイメージしていたが、予想を裏切られてしまった。
この二日間の、レンタカーの走行距離は七百八十五キロメートル、撮影した写真は約三百枚。歩いた歩数はちょうど四万歩(最近、万歩計を着用している)。結論としては、青森県下の史跡を網羅するには、あと一日欲しい。次の機会を楽しみにしたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする