「戊辰戦争」と「草莽」という、個人的には「ど真ん中」の本である。戊辰戦争のことは誰でも知っているだろうが、花山院隊、伯耆大仙における挙兵、高野山鷲尾隊など、教科書に登場することのない、草莽諸隊は忘れられた存在となっている。本書は、草莽の志士の悲劇的な末路を、言わばライフワーク的に追いかけてきた高木俊輔先生の最新の成果である。
北九州で挙兵した花山人隊、出流山における挙兵、相楽総三の官軍先鋒赤報隊など、草莽の志士による挙兵の大半は悲劇的な最期を迎えている。筆者がいうように「草莽の志士の研究、著述はまだまだ手薄で、その実態は明らかになっていない」「勝者側の官軍においてさえ、その下部で働いた草莽諸隊の編成と動向の実態には不明な点が多い」のである。
たとえば四日市で拘束され処刑された滋野井隊について、死刑になったのは八人とするもの、あるいは七人とするものがある。筆者が関連する資料を突き合わせた結果、小室左門は赤木小太郎、綿引富蔵は玉川熊彦の変名であることを突き止めた。長谷川伸「相楽総三とその同志」(中公文庫)によれば、処刑された滋野井隊員は、 ①山本太宰(曼珠院宮家人)②綿引富蔵徳隣③小林雪遊斎(安藤岩見介)④赤木小太郎(赤城小平太とも)⑤川喜多真彦(川北真一郎 号は櫪園。国学者)⑥佐々木可竹⑦玉川熊彦⑧小笠原大和、以上の八人と数えていたが、②の綿引と⑦の玉川は同一人物ということになる。つまり、処刑されたのは七人となるが、筆者によれば松田主計なる人物も斬首されたとしており、やはり死刑となったのは八人と結論付けている。ただし、この松田主計については、年齢も出身地も不明である。
戊辰戦争期に生まれた草莽隊は概して不運で悲惨な最期を迎えているが、中には正規軍に組み入れられて、各地で戦闘に参加し、凱旋を果たした例もある。本書で紹介されている実例としては、山科郷士隊、丹波山国隊、丹波弓箭隊、摂津多田隊がある。
彼らに共通しているのは、岩倉具視や西園寺公望といった有力な公家に接近し、最初から公家の警衛に当ったり、征討軍の編成に組み入れられたことである。
しかし、行軍にかかる費用は支給されず、食事代、宿泊代は総て自弁であった。山国隊や多田隊のように戦功により若干の賞賜金を下された例がないわけではないが、各隊は一連の従軍で膨大な借金を負うことになった。戦後、この膨大な借金を弁済するため、山林を手放し、賞典禄を返還することになった。結果的に彼らにとって「御一新」は特権を失うという結末をもたらしただけであった(強いて彼らが得た栄誉をいえば、山国隊は毎年開かれる時代祭の先頭に旗を掲げて立ち、弓箭隊は最後尾で旗持ちを勤めることが許されたことくらいである)。
草莽の諸隊を利用した岩倉は右大臣まで昇りつめ、西園寺は元老として政界に君臨した。栄達を極めた岩倉、西園寺と比べると、ほとんど切り捨てられたといっても良いだろう。彼らは決して敗者ではないが、かといって勝者でもない。悲哀にみちた彼らの実態を明らかにした本書を、広く読んでもらいたい。