史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「戊辰戦争と草莽の志士」 高木俊輔著 吉川弘文館

2022年03月26日 | 書評

「戊辰戦争」と「草莽」という、個人的には「ど真ん中」の本である。戊辰戦争のことは誰でも知っているだろうが、花山院隊、伯耆大仙における挙兵、高野山鷲尾隊など、教科書に登場することのない、草莽諸隊は忘れられた存在となっている。本書は、草莽の志士の悲劇的な末路を、言わばライフワーク的に追いかけてきた高木俊輔先生の最新の成果である。

北九州で挙兵した花山人隊、出流山における挙兵、相楽総三の官軍先鋒赤報隊など、草莽の志士による挙兵の大半は悲劇的な最期を迎えている。筆者がいうように「草莽の志士の研究、著述はまだまだ手薄で、その実態は明らかになっていない」「勝者側の官軍においてさえ、その下部で働いた草莽諸隊の編成と動向の実態には不明な点が多い」のである。

たとえば四日市で拘束され処刑された滋野井隊について、死刑になったのは八人とするもの、あるいは七人とするものがある。筆者が関連する資料を突き合わせた結果、小室左門は赤木小太郎、綿引富蔵は玉川熊彦の変名であることを突き止めた。長谷川伸「相楽総三とその同志」(中公文庫)によれば、処刑された滋野井隊員は、 ①山本太宰(曼珠院宮家人)②綿引富蔵徳隣③小林雪遊斎(安藤岩見介)④赤木小太郎(赤城小平太とも)⑤川喜多真彦(川北真一郎 号は櫪園。国学者)⑥佐々木可竹⑦玉川熊彦⑧小笠原大和、以上の八人と数えていたが、②の綿引と⑦の玉川は同一人物ということになる。つまり、処刑されたのは七人となるが、筆者によれば松田主計なる人物も斬首されたとしており、やはり死刑となったのは八人と結論付けている。ただし、この松田主計については、年齢も出身地も不明である。

戊辰戦争期に生まれた草莽隊は概して不運で悲惨な最期を迎えているが、中には正規軍に組み入れられて、各地で戦闘に参加し、凱旋を果たした例もある。本書で紹介されている実例としては、山科郷士隊、丹波山国隊、丹波弓箭隊、摂津多田隊がある。

彼らに共通しているのは、岩倉具視や西園寺公望といった有力な公家に接近し、最初から公家の警衛に当ったり、征討軍の編成に組み入れられたことである。

しかし、行軍にかかる費用は支給されず、食事代、宿泊代は総て自弁であった。山国隊や多田隊のように戦功により若干の賞賜金を下された例がないわけではないが、各隊は一連の従軍で膨大な借金を負うことになった。戦後、この膨大な借金を弁済するため、山林を手放し、賞典禄を返還することになった。結果的に彼らにとって「御一新」は特権を失うという結末をもたらしただけであった(強いて彼らが得た栄誉をいえば、山国隊は毎年開かれる時代祭の先頭に旗を掲げて立ち、弓箭隊は最後尾で旗持ちを勤めることが許されたことくらいである)。

草莽の諸隊を利用した岩倉は右大臣まで昇りつめ、西園寺は元老として政界に君臨した。栄達を極めた岩倉、西園寺と比べると、ほとんど切り捨てられたといっても良いだろう。彼らは決して敗者ではないが、かといって勝者でもない。悲哀にみちた彼らの実態を明らかにした本書を、広く読んでもらいたい。

 

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「津田梅子」 橘木俊詔著 平凡社新書

2022年03月26日 | 書評

以前同じ平凡社新書で「明治の女子留学生 最初に海を渡った五人の少女たち」を読んでいたので、津田梅子の伝記としては特に目新しさはなかった。

筆者は、歴史学者ではなくて「格差社会」「日本の格差社会」などの著書のある経済学者である。津田梅子とともにアメリカに留学した山川捨松と永井繁子の三人の人生を対比しながら、同時に現代の高学歴女性の生き方とも比較して見せるという試みが本書の最大の特徴となっている。

梅子と山川捨松、永井繁子は、結婚と職業について三者三様の人生を送った。

梅子は生涯独身を貫いてキャリアに一生を捧げた。捨松は結婚して子供をつくり、専業主婦としての一生を送った。繁子は結婚して子供をつくったのみならず、キャリアも全うした。彼女らは同じ時期に海外留学という共通の経験をしたにもかかわらず、帰国後の人生のあり方が異なった背景には、彼女らの性格の違いがあった。

梅子は、自立心が強く、妥協を好まない性格であった。教壇に立った梅子は、できのよくない不真面目な学生には厳しかったといわれる。

一方、捨松は優秀な頭脳の持ち主であり、美人で社交的で目立つ女性であった。繁子は一見すると地味であるが、音楽教師という当時の日本では珍しい職業に就き、留学中に瓜生外吉と恋愛し結婚した。芯が強くて進取の気性に満ちた女性であった。

梅子は何人かの男性から求婚を受けたが、頑なに断り続けた。筆者によれば「梅子は妻と妾をもつ日本男性の姿を嫌っていた」というし、「女性の大半が男性の言いなりになっている状況を好まなかった」としている。

本書最終章では、三人がそれぞれ送った人生を、現代の女性に当てはめて考察している。確かにこの三人は時代を先取りする高学歴女性であり、戦後七十年以上が経過し、益々高学歴化している女性にとって先行モデルとなるかもしれない。

国立社会保障・人口問題研究所によれば、平成二十七年(2015)の生涯未婚率は、男性23・4%、女性14・1%なのだそうだ。女性が結婚しない理由として挙げているのが①自由や気楽さを失いたくない②まだ必要性を感じない③趣味や娯楽を楽しみたい④仕事に打ち込みたい、となっている。さらに結婚できない理由として半数以上が「適当な相手にめぐり合わない」を挙げている。

結婚していないと世間体が悪いとか、社会で一人前の人間として認められないという時代ではなくなっている。独り身であっても、誰も異様な目で見られることもない。つまり女性にとって様々な選択肢があり、結婚をしないという生き方もあるし、専業主婦を目指すことも可能だし、家庭と仕事両立させようとすれば、それも可能である。津田梅子が、ある意味では時代の波に抗って、歯を食いしばって女子英学塾を創立したことを思えば、随分女性にとっても生きやすい時代になったと思う。しかし、一国の人口は経済力の裏付けでもある。日本が人口減少時代に入って久しいが、今後増加に転じることは難しいだろう。我が国の人口が減少の一途をたどっていることは残念に思う。

 

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「幕末社会」 須田努著 岩波新書

2022年03月26日 | 書評

本書のテーマは、幕末の社会である。本書では「在地社会」という用語が頻繁に登場するが、一読した限り、「在地社会」に関する定義は記述されていない。私なりに理解したところでは、朝廷とか幕府といった政治の中心地や、江戸や京都といった政治の舞台となった都市とは、真逆の存在を「在地社会」と呼んでいるようである。

本書のもう一つの特徴は、幕末をペリーの来航した嘉永六年(1853)からではなく、十九世紀前半(学術的には「近代移行期」とも呼ばれている)からを幕末ととらえて取り上げていることである。本書では天保期の解説にほぼ三分の一を充てている。

遡れば徳川幕府は武力で成立した政権であったが、幕藩体制は「仁政」と「武威」という二つの大きな政治理念で支えられたものであった。「仁政と武威」という政治理念が揺らぎ始めたのが、天保期であった。水戸藩主徳川斉昭は天保という時代を「内憂外患」と表現した。アヘン戦争の衝撃が我が国に伝わると同時に、水野忠邦が主導した天保の改革が失敗に帰し、甲州騒動、三河・加茂一揆、大塩平八郎の乱などの広域な百姓一揆や騒動が立て続けに発生した。

江戸を中心とした巨大な消費経済圏が成立する一方で、地方では生糸や絹織物などの特産物の生産・販売に関与する豪農に富が集中し、そこから外れた地域では人口が流出し、農村荒廃が進んだのもこの時代であった。今風にいえば「格差社会」である。若者にとって将来への希望が見いだせない時代となり、博徒となる若者もいた。

その結果、強請(ゆすり)、たかりをはたらく浪人、賭場に集まる博徒、そこに集まる無宿人や渡世人が横行し、社会不安が増大した。この時期、上州の国定忠治、下総の飯岡助五郎、笹川繁蔵ら侠客と呼ばれる人たちが同時発生的に発生したのも、決して偶然ではなかろう。

幕府の武威が揺るぎ始めた時期、在地社会では暴力から村を守るため自衛強化に走った(その代表的存在として、新選組を支援した、日野の佐藤彦五郎が挙げられる)。ただし、幕藩領主への信頼度は低下したとはいえ、まだ完全に否定するところまで行ったわけではない。

幕末期の政治史を見ていると、あたかも尊王と佐幕、あるいは攘夷と開国が国論を二分して争っていたような印象を受けるが、「在地社会」は意外と冷静であった。

文久三年(1863)三月から五月にかけて、前年に起こった生麦事件を受けて、江戸から横浜周辺は臨戦態勢に置かれ、江戸や東海道周辺の在地社会は緊張に包まれていた。その頃、江戸の町で一つの「張紙」が出た。外国の軍艦は無礼驕慢で決して許すことはできないとしながら、老中は臆病で腰抜けであり、巨額の償金を払ったことは百姓の働きを奪うことだと幕府を痛烈に批判する。これに対し、攘夷など小児の戯言である。一旦開国したのだから攘夷など理屈が通らないといった極めて全うな反論が、やはり張紙の形で出された。

尊王攘夷の本山である長州では、百姓の二・三男も入隊した奇兵隊が結成され、「在地社会も一体となって郷土防衛に立ちあがった」かのような印象を受ける。彼らには奇兵隊で活躍して恩賞と名誉を獲得し、あわよくば「身上がり」を実現したいという動機もあったと思われる。彼らは決して郷土防衛意識のために立ち上がったのではない。奇兵隊をもって近代的ナショナリズムの萌芽とまではとても言い切れない。

本書では、在地社会における尊王攘夷運動について、信州伊那谷・木曽谷地域と房総九十九里地域を取り上げている。

文久期、伊那谷・木曽谷地域には平田国学が浸透し、その中から市岡殷政、間秀矩、肥田通光といった尊攘活動家も出た。「勤王ばあさん」として有名な松尾多勢子もこの地域の出である。しかし、この地域全体が熱狂的な尊王攘夷に傾いていたのかというと、必ずしもそういうわけではない。

元治元年(1864)十一月、天狗党が伊那谷・木曽谷地域に現れると、平田国学者らは本来彼らに同情的でありながら、この地域での戦闘回避のために奔走した。確かに伊那谷の平田国学者らは、天狗党に献身的に応対したものの、天狗党に合流したものは一人も出ていない。松尾多勢子にしても天狗党の誰とも会っていない(なお、おそらく多勢子の指示を受けて長男誠は天狗党に接触して進路について助言を与えている)。筆者は「この戦闘集団に価値を見出せなかったのだろう」と推測している。

伊那谷の平田国学者らは、天狗党に畏怖と敬意を払っていたが、一方で冷静に天狗党を危険な戦闘集団だと認識していた。

文久三年(1863)十一月から元治元年(1864)正月という短い期間、九十九里地域に真忠組と呼ばれる集団が出現した。真忠組は横浜の夷人を征伐するという名目で、名主の家に押し込み、軍用金を強勢した。幕府の動きは迅速であった。佐倉藩など総勢千五百を動員して武力鎮圧に動き、真忠組は敢え無く壊滅した。筆者は「真忠組が語った尊王攘夷活動は、在地社会の日常に溶け込むことはなく、真忠組の存在そのものは、よそ者の暴力集団でしかなかった」と総括している。在地社会の人々は高邁な思想やイデオロギーで動くのではなく、現実的な損得や身の危険を冷静に感じ取って判断している。そこに民衆の「強かさ」を見ることができる。

本書では、信達出身の菅野八郎や三閉伊一揆の頭取の一人三浦命助など、普段取り上げられることの少ない人物を紹介している。彼らの所縁の地を巡ってきた私は密かに興奮した。筆者は「歴史叙述を行うにあたり、史料と現地にこだわってきた」という。確かに現地に立ってみないと書けない描写が散りばめられている。これも本書の魅力となっている。

 

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東戸塚

2022年03月19日 | 神奈川県

(萩原代官所跡)

 

萩原代官所跡

 

 東戸塚駅からバスで十五分ほど揺られて、境木地蔵尊バス停で下車する。南に二百メートルほど行った先に萩原家がある。

 萩原家は代々旗本杉浦氏の代官職として、この地に屋敷を構えた。旗本杉浦氏は、茅ヶ崎市小和田・菱沼、平塚市四ノ宮、寒川町宮山、横浜市平戸を所領としていた。幕末から明治初年の当主萩原太郎は、嘉永四年(1851)直心影流の免許皆伝を得、この地に道場を開いた。道場には多くの剣客が訪れ、萩原家所蔵の「剣客名」には「安政五年(1858)八月、天然理心流近藤勇」の名が確認できる。慶應二年(1866)九月までの入門者総計が二百二十五名に達した。現在の保土ヶ谷区、戸塚区、鎌倉市から三浦市にかけて、出稽古を行っていた。

 

剣道師範萩原君碑

 

 少し離れた場所に萩原君碑が建てられている。明治四十五年(1912)の建立。当時の神奈川県知事周布公平(長州藩の周布政之助の子)による篆額。

 

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東新宿 Ⅲ

2022年03月19日 | 東京都

(専福寺)

 新宿6‐20‐9に所在する専福寺の吉岡家墓地に大蘇芳年(たいそよしとし)の墓がある。絵師としては月岡芳年の名の方が知られているかもしれない。

 

専福寺

 

大蘇芳年之墓

 

 大蘇芳年は、天保十年(1839)の生まれ。父は町医吉岡金三郎。長じて月岡雪斎の養子となった。嘉永三年(1850)、歌川国芳の門に入り浮世絵を学び、芳年の画名を与えられた。菊地容斎の「前賢故実」の感化を受けて歴史上の人物を描くのを得意としたが、北斎の影響を受け、また洋画法を摂取して歌川派を脱し、画風は多様な展開をみせた。維新前後においては、長州征伐、彰義隊戦争、西南戦争など時事版画を多く製作。明治十一年(1878)頃からは、新聞挿絵に活躍し「真砂新聞」「絵入自由新聞」「自由の燈」「やまと新聞」などに健筆を振るった。大蘇の号は、強度の神経衰弱から快癒した明治六年(1873)以降から使用した。晩年は種々の災厄を受けて発狂し、明治二十五年(1892)、不幸のうちに没した。年五十四歳。

 

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牛込柳町 Ⅲ

2022年03月19日 | 東京都

(児玉坂通り)

 地下鉄都営大江戸線の牛込柳町駅と新宿線曙橋駅のちょうど中間に、児玉坂通りと名付けられた道がある。かつてこの場所に児玉源太郎の邸宅があったことに因む命名である。住所は、市谷薬王寺町となる。

 

児玉坂通り

 

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早稲田 Ⅹ

2022年03月19日 | 東京都

(専念寺つづき)

 

専念寺

 

稱名院清譽牧山居士(佐藤牧山の墓)

 

 墓地の入り口近くに佐藤牧山の墓がある。

 佐藤牧山は、享和元年(1801)の生まれ。初め鷲津松隠の有隣舎に学び、のち名古屋の河村乾堂の教えを受け、十九歳のとき江戸に出て昌平黌に入った。二十五歳にして駒込で諸生を教授した。のち尾張藩より儒官に登用され、明治二年(1869)には藩校明倫堂の督学となった。藩校廃止後、名古屋大津町にて教えたが、聴講する者が極めて多かったという。晩年、東京に移り、斯文学界の講師となった。門人には、近藤真琴、石川素童、川口江東、鈴木鹿山らが出ている。明治二十四年(1891)、年九十一にて没。

 

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保土ヶ谷 Ⅲ

2022年03月12日 | 神奈川県

(大仙寺)

 保土ヶ谷駅近くにある大山寺は、保土ヶ谷宿の本陣名主役を務めた軽部清兵衛家の墓地がある。

 

大仙寺

 

軽部家之墓

 

清心院恭愍悦甫居士位(十代 軽部清兵衛の墓)

 

 十代清兵衛は、寛政五年(1793)の生まれ、諱は悦甫。十歳で父と死別し、直ちに清兵衛を襲名した。世職の本陣・名主役を勤め、問屋役はいとこの泉専助が後見役となって七ヵ年代理を務めた。幼年期、東輝庵の物先に手習を、宿内の藤木四郎兵衛に算術を習った。安政六年(1859)、横浜が開港されると、宿内の職務のほか、横浜町の総年寄を命じられ、初期横浜の発展に尽力した。歩合銀制度をこしらえ、町の財政の基礎をつくった。文久元年(1861)、病身により総年寄を退き、十一代清兵衛悦選(墓石によると悦巽)が跡を継いだ。慶應元年(1865)、年七十三で没。

 

謹成院殿肇譽悦巽居士

(十一代 軽部清兵衛の墓)

 

問屋場跡

 

 問屋場跡、高札場跡は、現JR保土ヶ谷駅近くを走る旧東海道にある。

 

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根岸共同墓地

2022年03月12日 | 神奈川県

(根岸共同墓地)

 桜木町駅で根岸共同墓地前を通る路線バスの乗り場を探して右往左往してしまった。三十分近く駅周辺を歩き回ってやっと乗り場に行き着いた。久保山墓地ほどではないが、根岸共同墓地もかなり広い。ここから当てがあるわけではないが、まず石川徳右衛門の墓を探す。

 

積善院仁山壽榮徳翁居士(石川徳右衛門の墓)

 

 石川徳右衛門は文化二年(1805)の生まれ。家は累世横浜村の名主で、代々徳右衛門を襲名している。安政元年(1854)、ペリーの再渡来に際しては、横浜村の名主として、村内の治安の維持、あるいは幕吏との交渉、応接所の設営、また警衛のため派遣された藩兵の糧食、住居などを請け負った。安政六年(1859)、横浜が開港場となると、命じられて横浜町の総年寄となって町政に参与した。明治十八年(1885)、家督を譲り、明治二十二年(1889)、年八十五歳で没した。

 

寿徳院殿孝山静道大居士(木村利右衛門の墓)

 

 木村利右衛門は、天保五年(1834)の生まれ。上総国望陀郡の豪農松崎儀兵衛の四男。養子として木村家を継ぎ、明治四年(1871)、横浜に移って仲屋横浜店を開き、繊維品を商った。明治十三年(1880)、横浜正金銀行の創立とともに取締役に就き、その後も横浜共同電燈会社、横浜電線製造会社の社長を務めた。大正八年(1919)、年八十五歳で没。

 

 根岸共同墓地には明治に貿易商として活躍した茂木惣兵衛の墓もあるはずだが、探しきれなかった。次回の課題である。

 

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阪東橋

2022年03月12日 | 神奈川県

(万世こども広場)

 

日本最初の石鹸工場発祥の地

― 堤磯右衛門石鹸製造所跡 ―

 

 堤磯右衛門は、磯子村の村役人を務める旧家の出身で、明治初期の横浜の実業家であった。磯右衛門は、明治六年(1873)三月、横浜三吉町四丁目(現・横浜市南区万世町2‐25付近)で我が国初となる石鹸製造所を創業した。同年七月には洗濯石鹸、翌年には化粧石鹸の製造に成功した。

 明治十年(1877)の第一回内国勧業博覧会で、磯右衛門の石鹸は花紋賞を受賞した。その後、香港、上海にも輸出され、明治十年代の前半に石鹸製造事業は最盛期を迎えた。明治従二十三年(1890)、「時事新報」主催の優良国産石鹸の大衆投票で第一位となったが、全国的な不況をうけて経営規模を縮小せざるを得なかった。明治二十四年(1891)には創業者の堤磯右衛門が死去。その二年後の明治二十六年(1893)に廃業に至った。

 堤磯右衛門は、安政元年(1854)、アメリカ使節の再渡来に際しては、横浜村の応接所の建設にあたり、近村の村役人と協力して下田からの資材運搬に尽力した。また安政五年(1858)、神奈川の台場建設には石材を請け負った。開港時、横浜の土木請負、慶応年間には横須賀製鉄所の土木技師として勤務した。

 

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