史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

長岡 悠久山 Ⅱ

2011年05月28日 | 新潟県
(悠久山公園つづき)


戊辰刀隊戦没諸士碣銘碑


戊辰槍隊戦没諸士碣碑

北越戊辰戦争で戦死した長岡藩の刀隊、槍隊の追念碑である。長岡藩軍はフランス式の近代的武器で装備したが、一方で刀や槍で戦った小隊が大いに前線で活躍した。刀隊の碑は小林虎三郎が撰文を寄せている。


鵜殿団十郎碑

鵜殿団十郎(春風)は、天保二年(1831)長岡城下に生まれた。幕府の開いた蕃書調所の教授に招聘され、「万国奇観」を著すなど博識を謳われた。春風と親交があり、才を惜しんだ勝海舟が碑文を寄せた。


三島億ニ郎碑

悠久山公園の中でも、もっとも奥まった場所にあるのが三島億二郎の顕彰碑である。
三島億二郎は、戊辰戦争後の混迷した長岡藩の大参事を引き受け、藩債を整理し、殖産興業、教育の振興、北海道移民等の施策を実行に移し、長岡復興の礎を築いた。没後、その人格を敬慕する人たちにより、昭和二年(1927)この地に追念の碑が建立された。


長岡市郷土資料館

悠久山にかつて城があったわけではないが、どういうわけだか、郷土資料館は城の姿をしている(長岡城を再現したものではない)。本来、城があったところに駅舎を建ててしまったので、その罪滅ぼしにここに城を築いたということかもしれない。
昭和二十九年(1954)、長岡駅の地下道掘削工事中に地下四メートルの地点から城塁の礎石が発見された。この石が郷土資料館の礎石の一部として移されている。


舊長岡藩総督河井君碑

郷土資料館に行く道に河井継之助の顕彰碑がある。

(普済寺)


普済寺

普済寺には、牧野家初代忠成の墓がある。本堂裏手の苔むした石段を登ると、殉死した二人の家臣の五輪塔に守られるように、忠成の墓が立っている。


少年隊士在銘碑


戊辰戦士供養塔

牧野忠成の墓へ行き着く途中に、戊辰戦争で犠牲となった長岡藩の少年隊士を弔った墓標がある。戊辰戦争の少年兵というと、会津の白虎隊や二本松少年隊が有名であるが、人数は少ないながら長岡にも若くして散った命があったのである。

妙見(榎峠近く)での戦争で負傷 生家で死亡
西郷勇(十六歳)
新保村で負傷 会津城下にて戦死
三間豊蔵(十八歳)
片田村にて戦死
牧野金太郎(十七歳)


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長岡 悠久山 Ⅰ

2011年05月28日 | 新潟県
(悠久山公園)
悠久山は、長岡市の東側の小さな丘陵である。第三代藩主牧野忠辰(ただとき)によって、佐渡杉や吉野の桜、京都嵐山の楓などが集められた。この山を悠久山と名付けたのは九代藩主忠精である。大正六年(1917)、牧野家入封三百年の記念事業として公園化された。

私が悠久山公園を訪ねた時、雨が降り出した。花見客を当て込んで露店が出ていたが、さすがにこの天気では花見客はまばらであった。桜も既に盛りは過ぎており、散り落ちた花びらが、まるで雪のように芝の上に積っていた。


蒼柴神社

蒼柴神社は、九代藩主牧野忠精が建立したものである。祭神は、中興の祖と称される三代藩主忠辰と事代主命(ことしろぬしのみこと)である。安永八年(1779)に起工して、三年を要して完成した。


山本帯刀碑
(ピンボケです)

悠久山公園にはたくさんの石碑が建てられている。全て見て回ると結構時間がかかる。
山本帯刀は、長岡藩士安田家に生まれたが、家老山本家を継ぐ。槍刀弓馬いずれも練達の武士だった。戊辰戦争では大隊長として奮戦したが、会津飯寺で濃霧のために判断を誤り敵軍に捕えられ、家臣渡辺豹吉とともに斬首された。二十四歳であった。篆額榎本武揚、撰文三島中州。


小林病翁(虎三郎)碑

小林虎三郎は、病弱だったため自ら病翁(へいおう)と号した。維新後、長岡の復興に尽くした。ことに「米百俵」の逸話は有名である。篆額は子爵牧野忠篤、撰と書は高橋翠村。


招魂社

蒼柴神社の社殿の裏手に招魂社がある。北越戊辰戦争と西南戦争の長岡藩犠牲者を祭祀している。


山本帯刀 河井継之助の墓

招魂社の一番奥まった場所に、総督河井継之助と大隊長山本帯刀の墓が並べられている。


戊辰戦争戦死者の墓

戊辰戦争における長岡藩の犠牲者は、三百五十余名。会津藩、旧幕臣に継ぐ数となっている。


西南戦争殉死者の墓

西南戦争の徴募に応じて殉じた池田九十郎一等少警部以下、十八名が慰霊されている。


長岡藩歴代藩主御霊廟


第九代藩主 牧野忠精の墓

牧野家歴代の江戸における墓所は、港区三田の済海寺であった。昭和五十八年(1983)、寺の事情により墓地が整理されることになり、十七基の墓石が当地に移されることになった。

牧野家は、三河以来の譜代の家であるが、明君と呼ばれる藩主を何人か生んだ。牧野忠精もその一人であろう。
九代藩主忠精は明和三年(1766)七歳のときに藩主となっている。西丸大手門勤番、内桜田門勤番を経て、天明七年に寺社奉行、さらに大阪城代、享和元年(1801)には老中となって幕政中枢に参画している。藩政においては、儒者高野栄軒、余慶父子を登用して、三河以来の「常在戦場の精神」を根付かせた。また、新田開発に力を注ぎ、干拓事業を推し進め、増収をはかった。また、余技として雨龍(あまりょう)の絵を描くことを得意とし、将軍家や大名のほか、家臣や庶民にまで頒布したため、現在までたくさんの作品が伝わることになった。郷土資料館でも現物を見ることができる。忠精は天保二年(1831)に江戸で亡くなっている。このとき河井継之助は五歳に過ぎないが、忠精の存在は彼の精神にも甚大な影響を及ぼしたと言われる。

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長岡 北部 Ⅲ

2011年05月26日 | 新潟県
(大国主社)


戊辰役戦死大黒供養塔

大国主社の境内には、この周辺の戦闘で亡くなった戦死者の供養塔がある。

(日光社)


日光社


臣子属範
鬼頭熊次郎碑

八丁沖古戦場近くの日光社には、八丁沖渡河作戦を成功に導いた最大の功労者、鬼頭熊次郎の顕彰碑がある。
鬼頭熊次郎は、子供のころから武技を好み、特に剣法に優れた。兄の少山は藩校の教授であったが、三十七石という薄給だったため、熊次郎が山で薪を採り、川で魚を漁して家計を助けた。そのために両足が内側に曲がるほどであった。熊次郎は八丁沼で何日もぶっ続けで魚獲りに没頭し、一年のうちおよそ三分の一は、八丁沼に建てた苫葺小屋で寝起きした。
そんな熊次郎の八丁沼に関する知識を生かす日が来た。河井継之助の要請を受け、八丁沼で軍を先導することになったのである。
長岡藩兵が八丁沖の最北端に差し掛かったのが、七月二十四日の午後十時頃。闇夜を這うようにして進んで、富島村に行き着いたのは、午前三時のことだったという。
不意を突かれた新政府軍も必死に防戦したが、同日昼過ぎには勝敗は決した。長岡藩軍は悲願であった長岡城の奪回に成功した。
鬼頭熊次郎は、この時の戦闘で戦死している。家族が遺体を調べたが、顔面が腫れて識別ができなかった。しかし、その両足が内側に曲がっているのを見て、これぞ永年の重労働の証であり、熊次郎の遺体に間違いないと確信したという。


長岡藩士中川文蔵戦死地碑

(八丁沖古戦場パーク)


八丁沖古戦場

八丁沖渡渉作戦は、北越戦争を通じて同盟軍側が溜飲を下げる唯一最高の勝利であった。しかし、長岡藩軍が奪回した長岡城を占領できたのは、その後わずかに四日であった。しかも攻防戦の中で河井継之助が重傷を負い、全軍の士気は大いに低下することになった。


河井継之助の手洗鉢

この手洗鉢は、八丁沖渡河作戦の実行に際して、諏訪神社境内にて河井継之助が使用したと伝えられるものである。


八丁沖古戦場パーク


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長岡 北部 Ⅱ

2011年05月26日 | 新潟県
(諏訪神社)


諏訪神社

慶應四年(1868)六月二十二日、長岡藩および会津藩、米沢藩兵は、福島村に駐屯する西軍陣地に夜襲をかけた。五月に城を奪われ、七月に本格的な反攻に出るまで、長岡藩は数回にわたって奇襲をしかけ西軍を脅かしたが、いずれも勝敗を決するようなものではなかった。


福島村夜襲戦跡

(西照寺)


西照寺

福井町の西照寺は、同盟軍が砲台を置いた場所である。そのすぐ近くの桜井邸の前にも砲台跡の碑があるが、こちらはくるぶしほどの高さの小さなものである。


明治戊辰戦遺蹟碑


東軍第二砲台跡


桜井宅(砲台場跡)

(大黒古戦場パーク)


戊辰戦蹟記念碑

慶應四年(1868)夏、この付近は激戦場となった。今では見渡す限りの水田となっているが、往時は沼沢が広がっていた。この場所には新政府軍が堡塁を築いていたが、同盟軍は、繰り返し敵の堡塁を奪おうと、闇夜に奇襲をかけた。しかし、なかなか突破できなかった。


戦死供養塔


大黒古戦場碑


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長岡 北部 Ⅰ

2011年05月26日 | 新潟県
(金峯神社)


金峯神社

金峯神社は、かつて蔵王権現または蔵王堂と呼ばれ、この地域一帯の信仰の中心であった。
神社の赤鳥居の正面に、松代藩士の墓がある。


官軍松代藩士之墓

慶應四年(1868)七月、長岡藩の八丁沖渡河という奇襲を受けて苦境に陥った西軍を支援するため、松代藩兵は長岡藩と激闘した。この墓はこの時の戦闘および北越各地で亡くなった松代藩士十四名を弔ったものである。


蔵王堂城跡


堀直竒像

金峯神社の境内に蔵王堂城址がある。蔵王堂城の築城年代ははっきりしていないが、慶長十年(1605)に堀直竒(なおより)が、信濃川による浸食を理由に居城を長岡城に移したことにより廃城となった。境内に堀直竒の像が建てられている。
北越戦争ではこの蔵王堂城跡も長岡藩の防御拠点の一つとなった。信濃川対岸の西軍と激しい砲撃戦が交わされたという。

(安楽寺)


安楽寺

桂町の安楽寺には、美濃大垣藩士の墓がある。慶応四年(1868)六月の越後桂沢における戦闘の戦死者四名の墓である。墓石の表面は摩滅して読み取れないものが多い。


美濃大垣藩士之墓

(長福寺)


長福寺

五月の長岡落城を受けて、長岡藩は八丁沖渡河という奇襲により長岡城奪還に成功する。しかし、新政府軍の激しい逆襲に遭い、城は再び陥落した。七月末の攻防戦で長岡藩は長福寺を前線基地とした。本堂内の柱には当時被弾したという弾痕が残る。

(蕎麦「石田屋」)


河井継之助被弾の地

長福寺から南に百㍍ほど、商店街の中の蕎麦屋「石田屋」が、河井継之助が致命傷となる銃弾を受けた場所であるという。店の前に説明が書かれている。
その後、継之助は戸板に乗せられて八十里越えをこえて只見町まで落ち延び、八月十六日、そこで死去した。

(伊東道右衛門の碑)
慶應四年(1868)五月十九日、槍術の達人、大砲隊長伊藤右衛門はこのとき六十二歳。敵に退路を絶たれとことを知ると、配下の隊士を退避させた。先祖伝来の甲冑に身をつつみ、一人名乗りを上げると、長槍を振るって敵兵二人を倒したが、銃撃を受けて壮烈な死を遂げた。


戦死士伊東君碑

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長岡 西部

2011年05月25日 | 新潟県
(ハイブ長岡)
長岡の史跡訪問では、ハイブ長岡の近くのビジネスホテルを拠点としたので、この近くを何度も通ることになった。
ハイブとは英語のhive、即ち巣箱を意味し、転じて産業活動の中心地という意味合いらしい。コンベンション・ホールとか展示会場として使われているようである。広大な敷地の一角に「米百俵の群像」がある。山本有三の戯曲の一場面をブロンズ像で再現したもので、中央で熱弁を振るっているのが小林虎三郎である。


米百俵の群像

(物見松)


物見松碑

関原二丁目のバス停のそばに物見松の碑がある。かつてここに物見松と呼ばれる巨木があった。山県有朋率いる新政府軍は、柏崎を制圧したのち、関原まで進出してここに本陣を置いた。
物見松碑は山県有朋の篆額、三島毅撰文。

(西妙寺)


西妙寺

物見松碑から歩いて数分の西妙寺墓地には大垣藩士や長州藩士の墓がある。


大垣藩士および長州藩士の墓

西妙寺境内には関原村大庄屋堀政喜の顕彰碑がある。堀政喜は、庄屋として新政府軍を迎え、明治天皇の北越巡幸の際にも接待役を務めた人物である。


堀政喜之碑

(不動院)


不動院

長岡市西郊の宮本町の山裾に不動院が佇んでいる。周囲はのどかな農村で、不動院もその風景に溶け込んでいるように見える。
裏の墓地に、北越戊辰戦争で亡くなった加賀藩士の墓が並んでいる。加賀藩は、長岡城攻防戦で多大な犠牲を出し、その中には十四、五歳の少年や名も無い人夫も含まれている。藩士四十一名と人夫十二名の墓が一線に並ぶのは誠に壮観である。


加賀藩士の墓

(願誓寺)


願誓寺

願誓寺には、河井継之助の従僕、木川松蔵の墓がある。
司馬先生の小説『峠』では、河井継之助と松蔵の主従の交情が実に印象的に描かれている。この小説を読んでいると、松蔵は「老僕」というイメージであるが、実は継之助より十歳の年下であり、背が高く美男だったといわれる。継之助の死後も忠勤ぶりは変わらず、毎年の墓参は欠かさなかったという。


河井継之助従者 木川松蔵の墓


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長岡 Ⅳ

2011年05月25日 | 新潟県
(栄涼寺)


栄涼寺


河井継之助墓

河井継之助の墓は、継之助が亡くなった只見にある医王寺、最初に骨を埋めたといわれる会津の建福寺の遺髪墓、さらには長岡悠久山の招魂社にもあるが、栄涼寺のものは、従僕松蔵が持ち帰りスガ夫人に渡した遺骨を葬った墓であり、これを本墓というべきであろう。長岡には町を戦火から守れなかった継之助のことを恨む者も多く、この墓は幾度も倒され、傷つけられたと言われる。


三島憶二郎の墓

三島億二郎は、文政八年(1825)長岡藩士伊丹市左衛門の二男に生まれた。同藩士の川島家を継ぎ、のちに三島と姓を改めた。戊辰戦争後、長岡藩の大参事となって士族の救済にあたった。また、長岡の復興のために殖産興業に努め、教育・文化の振興にも尽力した。 北越殖民社を設立して北海道開拓にも情熱を燃やした。明治二十五年(1892)六十八歳で死去。


従五位牧野忠訓 室 彝子 之墓

栄涼寺には、歴代牧野家の墓がある。中央に歴代の墓があり、十三代忠毅、十ニ代忠訓、忠篤の順に並ぶ。
牧野忠訓(ただくに)は、慶応三年(1867)七月、家を継ぎ、十ニ代藩主となった。河井継之助の進言に基づいて上洛し、公武合体の建言書を上申したが、受け入れられなかった。鳥羽伏見の戦争が勃発すると、江戸を経て長岡に戻った。牧野家は三代にわたって老中を出した譜代大名であり、長岡の向背は越後諸藩の注目を集めるところであった。北陸道鎮撫総督府は、出兵と三万両の献金を要求したが、長岡藩はこれを拒否したため、開戦となった。長岡城が落城すると、忠訓は先代の忠恭(ただゆき)とともに会津に逃れたが、会津藩も降伏するに至り、降伏謹慎することになった。戦後処分により所領は七万四千石から二万四千石に削られ、家督は忠毅(ただかつ)に与えられた。明治八年(1875)三十二歳という若さで世を去った。
忠訓のあとを継いだ忠毅は、版籍奉還後、長岡藩知事を任じられ、長岡が柏崎県の管轄となると、明治八年(1876)隠退して生涯を長岡で過ごした。大正六年(1917)、五十九歳にて死去。
忠篤は、十一代藩主忠恭の第六子。初代長岡市長、貴族院議員などを歴任した。


従二位勲二等牧野忠篤 室 茂子 之墓


二見虎三郎の墓

二見虎三郎は長岡藩の軍目付。のちに銃卒隊長となった。小千谷慈眼寺における談判に同行したことでも知られる。第二次長州征伐にも従軍した経験もあり、戊辰戦争が起こると抜擢されて要職に就いて、各地を転戦した。慶応四年(1868)の会津城下七日町口の戦争で重傷を負い、同年九月十四日、山形で没した。


西軍供養塔

栄涼寺は、戊辰戦争時、西軍の野戦病院として使われた。ここで戦病死した兵士の供養塔である。


秦八郎墓

秦八郎は、維新前は波多謹之丞と名乗っていたが、秦八郎と改名。戊辰戦争では主戦派で、先鋒銃士隊長として榎峠開戦の口火を切った。のちに軍資金を守る御金奉行という要職に就いた。戦後は長岡藩の再興に尽し、阪之上小学校の初代校長に就任した。


伊藤東岸(左)・東嶽墓

伊藤東岸は、長岡藩公崇徳館都講(校長に当たる)。伊藤仁斎の曾孫にあたる。九代藩主牧野忠精が礼を尽くして京都から招聘して、厚遇した。元治元年(1864)十月、没。
伊藤東嶽は、長岡藩士深津氏の生まれで、東岸の養子となって学灯を継いだ。戊辰戦争後の明治二年(1869)一月、五十歳で死去。


小林虎三郎詩碑

幕末、小林家は栄涼寺の近くにあった。小林虎三郎が詠んだ漢詩が刻まれている。

栄涼寺裡晩鐘ノ聲
驚波ス幽人春ノ夢ノ清キヲ
余温二貪着シテ猶起ズ
閑ニ聴ク黄鳥竹間ニ鳴ク
寒翠病叟


北越戊辰戦争招魂碑


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長岡 Ⅲ

2011年05月25日 | 新潟県
(長興寺)


長興寺

城下稽古町の長興寺には、山本家、稲垣家など、長岡藩名家の墓が多い。

山本家墓所には、初代から十三代山本五十六までの墓が見事に並ぶ。


山本帯刀の墓

山本帯刀は、養子となって山本家を継ぎ、家老となった。戊辰戦争では大隊長として奮戦。会津飯寺の戦闘で捕えられ、降伏を拒んで斬首された。


山本五十六の墓

海軍大将、連合艦隊司令長官山本五十六は、大正四年(1915)、子爵牧野忠篤の口添えで、帯刀の死をもって断絶していた名家山本家を再興することとなった。


酒井晦堂墓

酒井晦堂は長岡藩士の家に生まれた。通称は貞蔵。晦堂は号である。藩校崇徳館造士寮長を務めた。奥羽越列藩同盟の議が持ち上がると、晦堂は反戦、勤王を説いたが、説得は実らず、結局、戦争となった。晦堂は戦地に赴き戦死した。四十歳であった。父は晦堂の死を悲しみ、戦死の地に碑を建立したが、のちに長興寺に移された。


稲垣平助墓

稲垣家は、代々長岡藩筆頭家老を務めた。藩主牧野家が三河に在住していたころから、藩主を補佐してきた。代々平助を通称とし、家禄は幕末時点で二千石であった。幕末の当主、平助重光は、勤王恭順を唱えその先鋒となったため、藩中に孤立することになった。


堀口大學墓

詩人堀口大學は幕末維新と関係はない。堀口家はもともと長岡藩士の家系であった。代表作に「月光とピエロ」「月下の一群」「人間の歌」など。合唱経験者には馴染みの深い詩人である。私も学生時代、多田武彦や清水脩の作曲、堀口大學作詩の組曲を何曲か歌った記憶がある。ここで堀口大學の墓と出会うとは感無量であった。

(正覚寺)
正覚寺は、村松藩(堀家三万石)二、三小隊が陣を置いていたが、新政府軍が渡河して市街になだれ込んできた際、後退する長岡藩に向けて銃弾を浴びせた。長岡藩兵は「村松藩が裏切った」と動揺し、争うように敗走した。村松藩に裏切りの意図はなく、濃霧のために誤認したものであるが、このことが、長岡藩の防御線が呆気ないほどもろく崩れ、長岡城落城の主因となった。


正覚寺

長岡市内の寺院は、いずれもコンクリート造りの無粋な建物が多い。長岡は、戊辰戦争、更に太平洋戦争の空襲などにより、都度焼野原となり、そのため古い建物はほとんど残っていない。しかも地震多発地帯でもあり、コンクリート製の建物にする必要があったのだろう。

(北越戊辰戦争西軍本陣跡)


北越戊辰戦争西軍本陣跡
西園寺公望寄宿の地

神田町の旧街道沿いに、西軍の本陣跡、西園寺公望が寄宿したことを示す石碑がある。西園寺公望は、奥羽征討越後口大参謀に任じられ、柏崎まで進出していた。豪胆な西園寺公望は後方にいることに耐えられず、七月二十五日、長岡に移った。折しも、長岡藩が八丁沖を渡河して奇襲をかけた日であり、西軍は混乱して潰走した。西園寺公望も馬に乗って西方の関原方面に逃げることになった。


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長岡 Ⅱ

2011年05月24日 | 新潟県
(昌福寺)


昌福寺
  
慶応四年(1868)七月二十五日、新町の長福寺に陣を置いて新政府軍と交戦していた河井継之助は、左膝下に被弾した。負傷した河井継之助が翌日搬送されたのが四郎丸の昌福寺であった。当時、昌福寺は長岡藩の野戦病院となっていた。同二十九日、長岡城が奪回されると、長岡藩兵は会津まで長途退却することが決定され、継之助も戸板に乗せられて昌福寺を出た。


鵜殿団次郎(春風)の墓

昌福寺には、鵜殿団次郎(春風)の墓がある。鵜殿団次郎は、天保二年(1831)長岡藩士の家に生まれた。幼い頃、神童といわれた。安政二年(1855)、江戸に出て、東条英庵、手塚律蔵に蘭学、英学を学んだ。特に数学、天文学、航海、計量学に優れ、蕃所調所で数学を教授した。安政六年(1859)には、大野藩の要請を受けて、西洋型帆船大野丸に乗って樺太まで往復している。西郷隆盛も鵜殿団次郎の識見を尊敬し、薩摩に招こうとしたことがあった。その縁で、江戸開城に当たって勝海舟、山岡鉄舟を助けて西郷隆盛との会談を斡旋したという。その後、長岡藩の開戦を聞いて急いで帰郷したが、既に長岡城は新政府軍に囲まれて入城を果たせなかった。落城平定ののち城下に入ったが、その後いくばくも経たないうちに病を得て没した。三十八歳。


長岡藩国漢学校発祥之地碑

明治後、小林虎太郎が中心となって開校した国漢学校は、明治二年(1869)五月、当初は昌福寺に開かれた。

(本妙寺)


本妙寺

本妙寺も、慶応四年(1868)五月十九日の兵火により焼失した。
本妙寺には、長岡藩の儒者山田到処の墓があるが、探しきれなかった。墓地はかなり広い。山田到処は、藩校崇徳館の校長として、河井継之助、鵜殿団次郎、川島億次郎らを育てた。戊辰戦争では、反戦・勤王を唱えた。

(興国寺)


興国寺

興国寺には小林虎三郎、小林雄七郎兄弟の墓がある。
小林虎三郎は、戊辰戦争では開戦に反対した。戦後、大参事として長岡の復興に尽くしたが、明治十年(1877)五十歳で死去。
雄七郎は、虎三郎の末弟。江戸、横浜に遊学ののち、大蔵省に出仕。民権自由を唱えて、第一回衆議院議員に当選した。長岡藩士族の子弟のための育英機関「長岡社」を設立し、人材の育成に努めた。


小林虎三郎 雄七郎 墓

(西福寺)


西福寺

長岡城が落城した慶応四年(1868)五月十九日の早暁、西軍来襲を告げる鐘が乱打された。長岡では、この梵鐘のことを「維新の暁鐘」と呼んでいる。


維新の暁鐘(ぎょうしょう)


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長岡 Ⅰ

2011年05月24日 | 新潟県
(JR長岡駅)


JR長岡駅

長岡城の天守のあった辺りに、ちょうどJR長岡駅が建設されてしまった。この立地を決めた人は、城郭とか史跡などに全く興味が無かったのだろう。全国の城を巡ってきたが、駅と化した城は長岡城くらいではないか。現在、二の丸址を示す石碑が、駅前の厚生会館の横に置かれているくらいで、これも通りから少し入った場所にあるので、ほとんど気付く人もいない。

長岡城は、大河信濃川を天然の要害とする平城で、「兜城」あるいは「浮島城」と呼ばれていた。天守閣は持たず、本丸の隅櫓の一つに御三階と呼ばれる建物があり、それが城のシンボルとして聳えていた。長岡における戦争は、この城を巡って展開した。長岡城は、信濃川を防御線としているが、この防御線を破られると守るには脆い城であった。
戊辰戦争で城下は灰燼に帰した。多くの領民が焼け出され、流れ弾にあたって命を落とした。北越戦争における長岡藩の戦死者は、二百五十九名とされているが、これ以外に戦争の巻き添えで亡くなった多くの市民がいたはずで、その実態は正確に把握されていない。長岡は第二次大戦でも空襲に遭い、焼け野原となった。悲劇の街である。


長岡城 二の丸址


米百俵の碑 国漢学校跡地

小泉元首相が引用したことで、俄かに有名になった「米百俵」の逸話。この話の主人公は、佐久間象山門下にあって、長州の吉田松陰(寅次郎)とともに、象門のニ虎と呼ばれた小林虎三郎である。小林虎三郎は、長岡藩大参事として戊辰戦争で焦土と化した長岡の復興に努めた。教育第一主義を唱え、赤貧にあえぐ藩士からの要求を退け、支藩である三根山藩より送られた救米百俵を国漢学校設立資金に充てた。駅前大手通りのこの場所は、かつてその国漢学校があった場所に当たる。

(河井継之助記念館)
長町一丁目の河井継之助住居跡に、平成十八年(2006)十二月二十七日、河井継之助記念館が開設された。十二月二十七日という日付は、継之助が経世の志を抱いて長岡を旅立った日に当たるそうである。


河井継之助記念館


河井継之助像

館内に入ると、河井継之助の遺品やブロンズ像、ガトリング砲(複製)などが出迎えてくれる。ガトリング砲は、当時日本国内に三台しかなく、そのうち二台を長岡藩が保有していた。
ガトリング砲は、毎分六十発から百発を連射できるという当時最強の武器であったが、裏を返せば大量に弾薬を消費する武器でもあった。弾薬の補給ができなければ、使い物にならない。実は北越戦争でガトリング砲が威力を発揮したという記録はない。継之助は城下に迫る西軍をガトリング砲で迎えうったが、自らも左肩を負傷し、結局長岡城を奪い取られ、長岡藩は撤退を余儀なくされた。

館内は二階建てになっており、二階には司馬遼太郎先生の小説『峠』の自筆原稿などが展示されている。

(如是蔵博物館)


如是蔵博物館

長岡駅のすぐ裏側に日本互尊社の運営する如是蔵博物館がある。日本互尊社とは、野本互尊(恭八郎)が唱えた互尊独尊の思想を後世に伝えるために設立された団体という。野本互尊の思想は、山本五十六をはじめ長岡出身の人たちに影響を与えた。野本の考えに共鳴した人々の資料を中心に、長岡出身の人物関係資料が如是蔵博物館に展示されている。

博物館は普段鍵がかかっており、ブザーを鳴らして係の方を呼ぶ仕組みになっている。二回ブザーを鳴らしてみたが、人が現れる気配がない。しばらく待ってみたが、諦めて駐車場に戻った瞬間であった。おもむろに一人の老人がこちらに向かってゆっくりと歩いているのを目撃した。老人の動作は鈍く、決して急いでいる様には見えなかった。博物館を拝観したいと伝えると、無言で鍵を開けてくれる。老人は、私が見学を済ませるまで、ずっと一階で待っていた。


河井継之助、牧野忠訓(十二代藩主)、忠恭(十一代藩主)、三島億ニ郎、山本帯刀らの書

博物館は三階建てになっており、一階は野本互尊の遺品など、二階は山本五十六関係の展示、三階に長岡出身の偉人の関係資料が並べられている。河井継之助、小林虎三郎、三島億二郎、山本帯刀らの書幅や肖像などを見ることができる。

(西軍上陸の地碑)
榎峠、朝日山を諦めた新政府軍は、長岡藩の本営である長岡城を直接衝く戦法を採った。慶応四年(1868)五月十九日、新政府軍は大雨で増水した信濃川を強行渡河し、中島に上陸した。指揮官は長州の三好重臣(軍太郎)。長岡藩兵も必死に防戦したが、遂に退却した。このときの攻防戦で河井継之助は左肩に銃弾を受け負傷している。


明治戊辰戦蹟顕彰碑
西軍上陸の地碑


明治戊辰之役 東西両軍戦死者之墓

中島の「西軍上陸の地」には、当時長岡藩の兵学所があった。兵学所を巡って両軍は攻防を続けたが、最後は長岡藩が火を放って、兵学所を去った。


慶応四年 五月十九日
討死忠鉄義山居士


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