史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末維新よもやま話」 杉山正司(前埼玉県立文書館長) 玉井幹司(物流博物館学芸員) 井上卓郎(郵政博物館長) 郵政博物館主催

2018年05月26日 | 講演会所感
 東京ソラマチの郵政博物館でも、明治百五十年に因んで「幕臣たちの文明開化」展が開催されている(平成三十年(2018)四月二十日~七月一日)。これを記念して五月十九日、トークセッション「幕末よもやま話」が開催された。「よもやま話」といっても、そこは郵政博物館なので、郵便とか物流といったところが主なテーマである。
 前埼玉県立文書館長杉山正司氏、物流博物館学芸員玉井幹司氏、郵政博物館長井上卓郎氏という三名の方が、それぞれの視点で、明治から幕末で起きた「断絶」と「連続性」を解説され、誠に興味深いものであった。
なお、事前にアナウンスされた時間は十四時から一時間ということであったが、終わったのは十五時半であった。よく言えば、お話いただいた三名の先生のサービス精神の表れということかもしれないが、一般企業でプレゼンがこれだけ長引いたら、お偉いさんからお叱りを受けるか、途中で打ち切られても文句をいえないところである。
一般的に、我が国の近代郵便事業(全国一律料金制度・誰でも利用ができ、切手による前納制度)は前島密が欧米の郵便事業をモデルに取り入れたとか、それまでの飛脚が走って書簡を運ぶといった江戸時代の仕組みを否定して、真新しい制度を導入したといったイメージで語られることが多い。確かに、駅馬車が街道を走る様子や、郵便配達夫が洋服を着用している姿が当時の錦絵に残っており、明治維新を境に郵便のイメージがガラッと変わったのは事実である。
しかし、前島密が郵便制度創設を建議したのは明治三年(1870)のことで、その後同年初めての渡英。その時、前島は大蔵省租税権正が主務で、イギリスでの視察も現地の租税制度や借款契約を結ぶことが主目的だったといわれる。もちろん現地の郵便制度も調査したが、飽くまで副次的目的であった。
この日のトークセッションで強調されていたのは、我が国の近代郵便事業は、江戸時代に整備された街道であったり、それを活用した飛脚のネットワークがそのまま活かされたということである。玉井氏によれば、概ね十八世紀の半頃から後半には全国的なネットワークが完成されていたという。飛脚は江戸、京都、大阪に飛脚問屋が店を持ち、宿場ごとに取次所があり、そこに集配等を委託していた。幕末には高騰してしまったが、それまでは江戸から大阪へ書簡を届けるには二十文(ソバ一杯が十六文の時代)という比較的安価な料金で、しかもおよそ十数日で届くという仕組みが出来上がっていたのである。江戸時代の街道網と郵便の路線はほとんど一致している。江戸時代の仕組みをそのままリユースしたから、短期間で郵便事業を立ち上げることができたのである。
ただし、飛脚のネットワークに致命的に欠けていたのは、外国に郵便物を届ける仕組みであった。それまで我が国では、各国がそれぞれ郵便局を持ち、日本でもそれを使って海外に書状を届けるしかなかった。他国と通信を行うには、近代郵便制度が不可欠であった。近代郵便事業の整備を急いだ日本は、明治六年(1873)には、日米郵便交換条約の締結にこぎ着けることができた。
 期待以上に充実した内容で、アッという間の一時間半であった。この後、嫁さんと娘と食事に行く約束をしていたので、終了時間が気になってしようがなかった。最初から一時間半と通告していただければ、もっと良いトークセッションになったと思います。

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「松浦武四郎入門」 山本命著 月菟舎

2018年05月26日 | 書評
 本書で初めて知ったのは、若き日の松浦武四郎が北海道のみならず、全国を隈なく歩き回っていることである。十六歳で家出をして以降、京・大阪を皮切りに、播磨・備前・讃岐・阿波・淡路・紀伊・河内・和泉・山城・摂津・丹波・但馬・丹後・若狭・加賀・能登・越中・飛騨・美濃・三河・信濃・甲斐・江戸・日光、中禅寺湖、白河を経由して仙台に至っている。そこから相馬・水戸・上総を経て再び江戸に戻り、遠江・志摩・大和・阿波・讃岐を経て四国遍路に臨み、八十八か所全てを回り終え、紀伊に渡って伊賀・京・摂津・播磨・但馬・因幡・伯耆・出雲・岩見・長門・備中・備後・安芸・周防から九州に渡り、筑前・肥前・肥後・豊後・日向・薩摩・長崎を経て平戸に至った。平戸から対馬に渡りそこで半年ほど過ごしている。
 自動車や公共交通機関の無い(無論、自転車も無い)時代に、自分の足でこれだけ歩いたという脚力に驚かされる。彼を突き動かしていたのは、底知れない好奇心だったであろうか。
 旅にはハプニングがつきものである。泥棒に荷物を盗まれたり、重い病にかかって看病を受けたたりといった経験もしている。
 旅の途中、彼は名所旧跡にも立ち寄っている。熊野大社、金毘羅神社、出雲神社、永平寺、観心寺それに南朝所縁の史跡を訪ねた。さらに驚くのは、武四郎の登山好きである。石鎚山や剣山、紀伊金剛山、伯耆大山、雲仙岳、英彦山、霧島山といった名だたる名峰を登頂している。何という執念だろう。
 さらには行った先々で、篠崎小竹や後藤松陰といった当代を代表する学者や医者とも交流を深めている。吉田松陰とも交友があったという。
 若き日の旅の最終到達点である平戸で、武四郎は頼まれて千光寺の住職となっている。長崎に近い平戸では、海外のさまざまな情報が入ってきた。ここでヨーロッパ列強がアジア諸国の植民地支配を広げていることやロシア船がたびたび蝦夷地に現れていることを知る。ロシアの脅威を痛感した武四郎は、一転して蝦夷に渡ることを決意した。この時、二十六歳。故郷を出て九年という歳月が経過していた。
 蝦夷地を目指した武四郎であるが、まっすぐに北へ向かったわけではなく、各地で寄り道をしている。京都から長浜、鯖江、福井、加賀を通って日本海側沿岸を北上し、会津若松、鶴岡、秋田、大館を経て弘前に至っている。その間、例によって磐梯山、蔵王岳、月山、鳥海山、大平山にも上っている(なお、立山は雪のため断念、岩木山も修験道の掟にはばまれて果たせなかった)。結局、この年は蝦夷に渡ることを断念して、津軽を旅した後、一旦江戸に戻って出直した。翌弘化二年(1845)、二十八歳にして初めて蝦夷地探査に成功した。以後、安政年間までに六回にわたって蝦夷地(千島や樺太を含む)を探査し、蝦夷地を知る第一人者としての名前を不動のものとした。
 本書には武四郎が残した蝦夷地の地図の写真も掲載されているが、小さな文字でぎっしりと地名が記されていて、武四郎の記録好きの性格とともに蝦夷地にかける執念を感じ取ることができる。
 武四郎は、松前藩に搾取されるアイヌの実情をレポートし、救済を訴えている。そのため松前藩から反感を買い、その後協力を得られなくなってしまった。明治新政府からも請われて開拓使に出仕したが、新政府もアイヌの保護には興味がなく、これに愛想を尽くした武四郎は「従五位」という位階も返上して未練なく開拓使判官の職も辞してしまう。
 晩年の武四郎は、七十を超えて富士登山に成功する等、相変わらず超人的な体力を見せつけた。奈良と三重県境の大台ヶ原探査(日本百名山にも選定されている)に情熱を燃やし、三度にわたり登山に挑んでいる。
 明治二十一年(1888)、頑健を誇った武四郎も病に勝てず、七十一歳の生涯を閉じた。その時、四度目の大台ヶ原登山を計画していたというから全く凄まじい執念である。
 本書では、北海道を中心に松浦武四郎ゆかりの史跡を数多く紹介している。武四郎関係史跡は、北海道だけでもかなりの数があり(私はまだこのうちの二か所しか訪ねていない)、これを全て訪問しようとしたら、相当な時間とエネルギーを要する。さて、どうしたものか。

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「江戸の訴訟」 高橋敏著 岩波新書

2018年05月26日 | 書評
 同じ訴訟であっても、現代の訴訟と江戸時代のそれとは随分と違うものである。本書は、嘉永二年(1849)、御宿村(現・裾野市御宿)で無宿人惣蔵が殺害された事件の訴訟を題材に江戸時代の訴訟がどのようなものかを追ったものである。              
 惣蔵を襲ったのは伊豆大場村無宿の久八の一味、二十二~三人である。要するにこの事件は久八と惣蔵という両博徒の出入り(抗争)であり、もしこの手の事件が現代で発生すれば、たとえ加害者・被害者がヤクザ者であろうと殺人事件に変わりはない。警察は全力で実行犯の逮捕に向かうであろうし、事件の舞台となった村やその家が罪に問われることは基本的には無いであろう。
 ところが、江戸時代においては、無宿人を家に泊めることは五人組帳前書で厳禁されている。村では惣蔵の死体を、領主役場に届けることなく、無住となっていた向西寺に埋めている。本来、変死人は所管の陣屋に検死願いを出さなくてはならない。しかし、それをすると惣蔵を泊めた源右衛門と惣蔵の関係も追求されるであろう。源右衛門の家族そして親類、家族、関係者が鳩首の上、出した結論はこの事件を闇に葬り去ることであった。源右衛門を出奔させ、源右衛門が無宿人を泊めたのは不案内な土地で難渋していた旅人に懇請され、止むを得ず一夜の宿を提供したものと糊塗された。変死人の取り扱いに心痛していたところ、三島宿小中島町の由蔵なる人物が名乗り出て、よく知っている無宿者であるので遺体を引き取りたいというので引き渡したと虚偽を届け出た。
 ところが、村の思惑とおりといかず、嘉永三年(1850)には江戸から飛脚が到着し、召喚を受けた。これに応じて、源右衛門の父永左衛門、付添人名主の甚平は早々に江戸に上った。さらに名主の吟右衛門らも上京し勘定奉行の吟味を受けることになった。吟右衛門は刻銘な記録を残しており、概ね吟右衛門の残した記録に沿って本書は書き進められている。吟右衛門は、言ってみれば本書の主役である。
 名主(関西では庄屋ということが多い)は、代官の威を借りてふんぞり返っているような存在かと思っていたが、本書を読んでイメージはすっかり覆された。いざ訴訟沙汰となると、吟右衛門は二百日余りも家を離れ、江戸に拘束されることになる。当初は初めての江戸に、吟右衛門は休む間もなく精力的に名所を訪ねた。しかし、江戸滞在が長くなるにつれ、観光気分は抑制され、公事宿で貸本を読んで過ごす時間が長くなった。
 それでも吟右衛門が負担した費用は132両、訴訟全体に要した費用は241両にも及んだ。現代でも裁判となると、弁護士費用等、莫大な費用がかかるが、江戸の訴訟は自ら起こしたものでなくても、個人負担が原則なのである。しかも、この費用には、実兄渡辺楷助(御側御用取次本郷泰固用人)を介して柳田東助(堀石見守親義用人)、安井錦作(勘定奉行用人)らを高級料亭で接待し、賄賂を送ったコストは含まれていない。現代的感覚では、役人に賄賂を送るのは完全に「アウト」であるが、我が国の近世社会は「贈答と賄賂」で秩序ができあがっていた。筆者がいうには「贈答儀礼こそ幕藩制社会を貫く原理のひとつ」だという。
 さて出奔した源右衛門の所在が本書の最後の方で明かされる。もちろん源右衛門は本当に姿を消したわけではなく、家族・親類の手を借りて身を隠したわけで、実際には行方不明というではない。源右衛門は、まさにその訴訟が続く、江戸の街にいた。当時、江戸は既に世界有数の巨大都市であった。町人人口だけで約五六万。うちニ十六パーセントに相当する約十五万人は他国出生の者だったという。村を追い出された者が生きていくにはこれほど適した土地はないだろう。
 源右衛門が出奔したのではなく、村ぐるみ、家族ぐるみで隠していることは、奉行所でも百も承知で、従って源右衛門を探し出して来いとは一言も命じていない。本音と建て前、表と裏の使い分けも江戸社会の特徴である。
 「表と裏の使い分け」といえば、有名な公事方御定書もまさに公と私、建前と本音の微妙な関係の上に公的には秘密、実態は流布していたのでる。公事方御定書は、一〇三条にわたり罪状とそれに対応する刑罰が記されたもので、裁判を円滑に行うために、我が国近世法制史上画期的な成文化された法令であった。ところが、御定書は公開されることのない秘密法典であった。職務上必要な三奉行とその下僚に、その在職中のみ貸与された。というのが表の決まりであり、内実としては多くの私写本が秘密裏に、あるいは半ば公然と流布していた。名主吟右衛門も、公事宿で筆写して持ち帰っているのである。
 吟右衛門ら裁かれる側としても、どの程度の刑罰になるのか予め知っておきたいというのは当然のことであろう。裁く側としても御定書の内容が公知のものとなっている方がやりやすかったかもしれない。でも、必ずしも御定書のとおりの結論になるわけではない。そういう意味では、正式に公開するのも都合が悪い。そこで密かに流出という体裁をとったのである。
 公事方御定書によれば、変死の者を隠し、訴え出なかったケースは、その家の主は、過料五貫文。五人組は過料三貫文。名主は過料五貫文。本書では一両=銭六貫二百文としている。つまり過料五貫文というのは一両にも満たない罰金である。吟右衛門はこれを見て少し安堵したかもしれない。
 この事件は足かけ二年、在府一八九日を費やしてようやく判決が出た。判決は御定書に記されていた変死一条と全く同じものであった。ただし、吟右衛門が楷助を介して江戸の用人に行った工作は、判決だけを見ると効果は認められない。ほとんど意味がなかったといっても良いだろう。
 御宿村は過料を遥かに上回る訴訟費用を負担したが、訴訟終了後の問題はそれを誰がどう負担するかである。今も昔も金の問題はもつれるのが常である。訴訟弁済問題は村内で決着をつけられず、隣村の名主の調停も失敗に終わり、最後は領主の介入によってようやく決着を見た。それにしても吟右衛門が負担したのは、費用負担をした中で最高額の四十両となった。しかも裏工作のために用人への謝礼・賄賂は公費として請求できなかった。賄賂が判決に効果があったと客観的に認められなかったということであろう。しかし、別の訴訟では落着までに五年半もかかり実に千五百両を越える桁違いの負担を強いられたケースもある。判決が短期間で下された裏には裏工作が影響した可能性も否定はできない。
 こうして見ると、名主というのは割りの合わない仕事である。もちろん職責に見合った収入もあったであろうし、だからこそ吟右衛門も多額の費用負担に耐えられたのである。吟右衛門は無宿人惣蔵変死事件の不行届きで名主を罷免された。それから三年。吟右衛門は吟平と改名して名主に再就任した。安政二年(1855)、相役名主の式右衛門が急死したため、入札で補欠選挙が行われた。江戸時代にあって、選挙で名主が選ばれるのは異例である。筆者によれば「十九世紀も中葉になると、領主の過度の負担要求と無高層の突き上げの板挟みになる名主役になり手がなくなったため入札が行われるようになった」という。現代の議員選挙のように、一つの席を争って選挙戦が行われるのとは異なる。強いて言えば、成り手の無い自治会長みたいなものかもしれない。
 本書は無宿人の殺人事件という、歴史の表面には現れない事件を取り扱いながら、その時代のリアルな社会を可視化することに成功した傑作である。
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「千人のさむらいたち ~八王子千人同心~」 八王子郷土資料館

2018年05月26日 | 書評
平成十五年(2003)に八王子市郷土資料館が刊行し、今も版を重ねているブックレットである。郷土資料館にてわずか三百円で手に入れた。ただみたいな値段であるが、内容は決して薄くない。
八王子千人同心は、それまでの日光勤番に加えて、幕末には長州征伐や将軍の上洛警護にも借り出された。客観的には幕府に酷使されているかのような印象まで受けるが、それでもひたすら忠勤を尽くした彼らには家康の代から徳川家に仕えているという矜持があったのであろう。
慶應四年(1868)六月七日、新政府は、幕臣と同じく千人隊(戊辰戦争にあたって千人同心によって結成された組織)士にも朝臣となるか、徳川家に従って駿河に移住するかの選択を迫った。半士半農であり、農地を所有していた千人同心は、敢えて無禄で駿河に移住しなくても、そのまま帰農するという選択肢もあったし、生活を考えればおそらくそれが一番自然な結論だと思われるが、河野仲次郎ら千人隊之頭と呼ばれる人たちは、例外なく静岡に移住した。また千人隊士のうちからも若干名は静岡移住を希望し、五十人ほどは朝臣への願いを出したという。
静岡に移住した千人同心は、半士半農の経験やスキルを活かして、掛川における織物技術の指導など、その才能を発揮したものもあったようである。しかし、現地での暮らしは決して安楽なものではなかったようである。結局、移住した多くの旧千人隊士は、その生活に耐えかね、帰郷を望むようになった。明治六年(1873)には、旧千人隊士の指導的立場にあった河野仲次郎が、明治十一年(1878)には志村源一郎が上京して大蔵省に出仕し、前後してほとんどの旧隊士は帰郷を果たし、彼らの徳川帰参の夢は水泡に帰したのであった。
その後も平民籍となった旧千人隊士は、復籍と復禄を求める復権活動を開始し、明治三十三年(1900)、ようやく請願が受け入れられ、六十八名の士族編入が許可された(ただし復禄は拒否)。
八王子千人同心のユニークな歴史を知ることのできる一冊である。

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多古

2018年05月19日 | 千葉県
(天神社)
 多古小学校の南側、天神社の裏手に残された石垣が、多古陣屋の貴重な遺構である。
 多古陣屋は、現在の多古小学校の校庭に所在していたもので、御殿・長屋・倉庫、稲荷社等の建物が置かれ、馬場も備えていた。面積は邸地八百坪、山地五百坪、囚獄囲地(牢獄、番小屋等)百坪であった。その敷地は板塀や法面の石垣で囲われていた。陣屋下の南北にのびる下馬通り沿いに表門、中門、裏門が並び、石垣下には堀が築かれ、表門前には朱塗りの橋が架かっていた。堀は表門周辺から陣屋の北側を囲うように直角に折れ、木戸谷奥の池(現、多古小学校正門前付近)に続いていた。


天神社


多古陣屋跡

 天正十八年(1590)、徳川家康の関東入封に伴い、その家臣保科正光が下総多古に一万石の領地を与えられたのが、多古藩の起源である。その後、保科家は信濃高遠藩に移り廃藩となったが、慶長十三年(1608)、加賀野々市から入封した土方雄久により立藩されたが、元和八年(1622)、再び廃藩となった。寛永十二年(1635)、松平(久松)勝義が駿河から移り、正徳三年(1713)には松平勝以(かつゆき)が一万二千石の大名となり多古藩が復活している。その後、明治維新を経て廃藩置県に至るまで松平氏がこの地を治めた。

(日本寺)


日本寺

 多古町日本寺の平山藤右衛門家墓地内に伊能忠敬夫妻の墓がある。平山家は忠敬の父の生家神保家の親類にあたり、忠敬の最初の妻ミチの母の生家でもある。忠敬は伊能家との縁組にあたり一旦平山家の養子となったうえで伊能家に婿入りした。一方ミチは家の事情で十三歳まで母と平山家で暮らし、その後伊能家に戻ったといわれている。平山家は伊能家、神保家に縁の深い家である。


平山家墓所
伊能忠敬の墓(左から二番目の墓石)


コメント (6)
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横芝光 Ⅱ

2018年05月19日 | 千葉県
(伊能忠敬先生成長の処)
 伊能忠敬が十歳から十七歳までの少年時代を過ごした場所である。忠敬は十歳のとき父に引き取られて小堤村(現・横芝光町)の神保家に移り住んだ。


伊能忠敬先生成長の処

(伊能忠敬父 神保貞恒生活の処)


伊能忠敬父 神保貞恒生活の処

 伊能忠敬は、小堤村では父神保貞恒だけでなく、親戚や知人を頼って学問を身に付けたといわれる。
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九十九里 Ⅱ

2018年05月19日 | 千葉県
(伊能忠敬記念公園)
 伊能忠敬は、延享二年(1745)二月十一日、上総国山辺郡小関村の旧家小関五郎左衛門の家に生まれた。父は上総国小堤村(現・横芝光町)の神保貞恒であった。貞恒は小関家の婿養子に迎えられ、妻ミネとの間に二男一女をもうけた。次男三次郎がのちの忠敬である。三次郎七歳の時母は病死し、父貞恒は長男と長女を伴って神保家に帰り、三次郎だけ小関家にとどまった。小関家は漁業を経営していたため、三次郎は小関家納屋番として起居した。宝暦十二年(1762)、佐原の伊能長由の養子となって佐原に移る十一歳まで、伊能少年はこの地で過ごした。


伊能忠敬記念公園


伊能忠敬先生出生之地


伊能忠敬像

(妙覚寺)


妙覚寺


布留川家先祖の墓石

 妙覚寺には、伊能忠敬の祖母や養子(忠敬の娘婿)の生家であり、姻戚でもある飯高家や神保家とも関係がある布留川家の墓所があった。故に伊能忠敬ゆかりの寺と呼ばれている。
 布留川家は転居のため、先祖代々の墓を廃墓とすることを決めたが、伊能忠敬ゆかりの資料として、忠敬の生家でもある小関家菩提寺である妙覚寺に移設されることになった。


處士乾君墓表

 處士乾君墓表とあるが、本名を長沼祐達といい。四代にわたり三春藩主に侍医として仕えた。のち脱藩して江戸に奔り、林大学頭の下で儒学を究めた。終生仕官せず、小関に隠遁後は自己研鑚と子弟の教育を続け、生涯を処士として生涯を終えた。この墓誌は、三春藩の高名な儒者である朝川鼎(善庵)の撰文、署は巻高任(菱湖)の筆による。


自琢先生墓表

 父藤代道琢は、幕府医学館の教官で、のちに将軍家斉に召された名医である。藤代自琢は道琢の二男で、幼時から広く群暑に通じていたが、磊落な性格から世事に疎く、煩わしい宮仕えを嫌って、子供の自謙に医業を継がせ、自らは江戸を去って、下総・常陸に遊び、晩年の六年間は小関に住んで近隣の子弟を教育した。天保四年(1833)、五十三歳で没。墓表は門人藤代毅(昌琢)の撰文である。


翰海先生墓

 西山翰海は元文五年(1740)対馬の生まれ。壇ノ浦でほろんだ平家の末裔という。七歳にして上京し、以後二十年間、儒学、医学、仏教、国学、法制を学び、さらに江戸で学ぶこと十八年に及んだが、小関村に退隠し、子弟の教育と著述に没頭した。文化十一年(1814)、七十五歳で永眠。


李園藤代先生墓表

 藤代昌琢は、初め目黒自琢に医学を学びその奥義を究め、のち儒学を篠崎司直に学んだ。文久年間の真忠組事件にも昌琢の名声を聞いた首領楠音次郎から参加を要請されたが、応じなかった。戊辰の戦役後、本町小関に身を潜めていた勝海舟とも親交があったと伝えられる。学制改革に至る過渡期の村塾の師として最後を飾った。明治二十一年(1889)、七十二歳で没。墓誌は門人の成川尚義の撰文。篆額は勝海舟の筆になる。

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三宅島 Ⅲ

2018年05月12日 | 東京都
(今崎海岸)
 三宅島の歴史は、噴火の歴史である。二十世紀以降でも、昭和十五年(1937)、昭和三十七年(1962)、昭和五十八年(1983)、平成十二年(2000)と、ほぼ二十年間隔で噴火が発生している。ということは、そろそろ次の大噴火が近づいているのかもしれない。
 昭和五十八年(1983)の噴火では、溶岩流が阿古地区に流入し、人的被害はなかったもの多くの住宅が埋没・焼失した。今も島の中央部は有毒ガスが発生しており、立ち入り禁止となっている。


今崎海岸

 阿古地区の海岸線に形成された溶岩帯は、寛永二十年(1643)の噴火で流出した大量の溶岩によるものである。
 めがね岩は、溶岩を長年にわたって波が浸食した結果、大きな洞穴が二つ並ぶように作られたものである。昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風の際、片方の天井が崩れ落ちてしまったため、今ではめがね岩とは呼べなくなってしまっている。


めがね岩

(三宅島郷土資料館)


三宅島郷土資料館


浅沼稲次郎像

 三宅島郷土資料館(三宅村阿古497)は、村立図書館を併設した施設で、ここで情報を仕入れて島内の史跡探訪するのも良い。入口には浅沼稲次郎(日本社会党委員長)の胸像が置かれている。二階の流人コーナーで、万延元年(1860)の「伴作騒動」のことを知り、早速坪田の海蔵寺清水ヶ原霊園を訪ねることにした。資料館の女性に尋ねると行き方を丁寧に教えてくれた。

(七島展望台)


七島展望台


御蔵島

 七島展望台は雄山の中腹に位置し、文字通り北は伊豆大島から南は八丈島まで、伊豆諸島の七つの島を一望できるという場所である。私がこの場所に立ったとき、猛烈な風が吹き付け、からだごと吹き飛ばされそうであった。残念ながらこの日の見晴らしは良くなくて、辛うじて南の海に御蔵島の姿が確認できただけであった。かつてここには村営牧場があったというが、平成十二年(2000)の噴火で、一帯は荒野と化し、置き去りとなった家畜はそのほとんどが死んでしまったという。今も樹木は生えておらず、見渡す限り荒涼とした風景が広がっている。

(富賀神社)
富賀(とが)神社は伊豆七島の総鎮守であり、静岡県の三島神社の発祥の地としても知られる。境内からは、古墳時代の土器や勾玉、耳飾りなどが発掘され、平安時代のものと推定される和鏡も保存されている。
弔忠魂之碑の前に立つ石像は、特に説明はないが、乃木将軍であろう。


富賀神社


乃木希典石像

(大路池)
 大路池(おおろいけ)は、噴火口にできた火口湖で、深い森に囲まれている。近くにアカコッコ館(三宅村坪田4188)という自然観察施設があり、池の周囲ではアカコッコを始めとしたたくさんの野鳥が競うように囀っていて、絶好のバードウォッチング・スポットとなっている。
 長さが八十センチはあろうかという巨大な望遠レンズを持った欧米人が盛んに野鳥の写真を撮っていた。


大路池

(長太郎池)


長太郎池

 岩に囲まれてできた潮だまりが天然のプールとなっていて、長太郎池と呼ばれている(三宅村坪田)。チャンスがあればここでシュノーケリングもと考え、マスクやシューズさらには水中でも使用可能なデジカメも持参していたのだが、この日は波は高く、魚影を確認することはできなかった。シュノーケリングには少し時期が早かったようである。さすがにまだ肌寒く、とても海に入れるような気温ではなかった。

(清水ヶ原霊園)


遇光生善信士(藤五郎の墓)

 万延元年(1860)、伴作とよばれる流人が伊ヶ谷村で破獄を企画し、島内各村の金品を掠奪し、船を艤して内地へと逃亡しようとした(伴作騒動)。藤太郎は十五歳のときに三宅島に流された流人の一人であったが、坪田村にこの騒動を注進しに走り、井澤家に身を隠したが、捕らわれて処刑された。これを憐れんだ井澤家の人は、明治四十四年(1911)、藤五郎の墓を改葬して井澤家の墓地に移した。
 幕末時点での三宅島の人口は約二千人。そこに約百名の流人が同居していた。数字だけみると流人の比率が高い印象を受けるが、流人といっても、凶悪犯は内地で処刑されるので、喧嘩や博奕など比較的軽い犯罪で流されることが多かった。従って流人が島で犯罪や騒動を起すことはさほど頻繁にあったわけではない。そういう三宅島の歴史にあって万延元年(1860)の伴作騒動は島民を震撼させる事件であった。

(汰華供養塔)


供養塔

 傍らの説明によれば、大機和尚は寛政十二年(1800)、犬公方といわれる五代将軍に諫言をしたことから、江戸の高円寺から三宅島に流されたという。しかし、寛政十二年(1800)といえば、第十一代家斉の時代であり、百年くらいズレている。何かの間違いであろう。この供養塔は、島民を疫病から救うために大機和尚が建立したもので、塔の下には三万八千個に及ぶ経文が埋蔵されているのだという。大機和尚は、三宅島で四十年を過ごし、この島で生を終えた。先ほど訪問した清水ヶ原霊園の藤五郎の墓の横に、大機和尚の事績を記した石板が建てられている。

(釜の尻海水浴場)
 釜の尻海水浴場は波に洗われて丸くなった溶岩が敷き詰められた黒い海岸である。その北側に海に突き出た小さな岬があり、そこに人工的な構造物がある。海水浴場の説明によれば、砲台の跡ということだが、何時頃築造されたものかは分からない。


釜の尻砲台跡

 これで島を一周して、七時間余りの史跡の旅を終えた。さて、橘丸に乗船しようとしたその時、一陣の風が私の乗船券を奪い、あっという間に海へと持ち去ってしまった。慌てて切符売り場まで駆け戻り、事情を話して再発行してもらった。係の女性によれば再発行といっても、「新規に購入して頂かないといけない」とのことであった。船の出発時間が迫っており、ここで交渉しているヒマもなく、いわれるがまま乗船券を購入することになった。走って戻り、何とか乗船客の最後尾で乗り込むことができた。一応、紛失証明書を発行して頂いたので、後日一部払い戻しされるそうであるが、意地悪な強風に泣かされた。

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三宅島 Ⅱ

2018年05月12日 | 東京都
(后神社)
 伊ヶ谷港を見下ろす高台に后(きさき)神社がある。ここに禊教教祖井上正鐡の歌碑がある(三宅村伊ヶ谷)。

 あじきなき 我がねぎ事をきこし召し
 雨くだします 神そ尊し


后神社


井上正鐡歌碑


伊ヶ谷港


(大林寺)
 大林寺の直ぐ下には、江戸時代、陣屋、島牢、処刑場が置かれていた(三宅村伊ヶ谷263‐1)。
 元和九年(1623)、幕府は伊ヶ谷大船戸湾が良港であることから、御用船の取り扱いを開始した。これを契機として伊ヶ谷村は三宅島交通の要衝となり、御用船の出入港を管理監督するために享保八年(1723)には陣屋が設置された。大船戸湾普請に要する普請米や万一の事態に備えて幕府備蓄米を収納するために陣屋が設置されたが、その後、江戸からの流刑者などが増加したため、地役人が常駐するようになり、時には関所のような役割を果たすことになった。
 江戸中期になると、流人の数が増加し、中には希望を失って自暴自棄になり、喧嘩、火付、窃盗などの犯罪を重ねる者が出た。これらの犯罪者を幕府または代官の決裁が到着するまでの間、留置拘束するため、明和二年(1765)、伊ヶ谷の大船戸湾に近い場所に公儀流人牢(島牢)が建てられた。


大林寺


処刑場跡


竹内式部之像

 本堂前に竹内式部の墓と座像が置かれている。竹内式部は、江戸中期の国学者で、京都で家塾を開いて多数の門人を抱えた。式部の感化を受けた少壮の公卿が武門政治を廃して王政復古を志向したため、獄に送られた(宝暦事件)。式部は京都を追われて伊勢に蟄居となったが、京都時代の知人、藤井右門、山県大弐が幕府に対して不穏な言動をした罪によって死罪となった。同時に式部も幕府の命により八丈島に流罪となったが、船中において発病し、三宅島伊ヶ谷村に上陸し、ここで養生に努めたが、その甲斐なく同年十二月五日、五十六歳でこの地に没した。


竹内式部先生之墓


生嶋新五郎之墓

 絵島事件で有名な生島新五郎の墓である。
 生島新五郎は、徳川七代将軍家継の頃、江戸の山村座で、濡れごとの名手といわれ、当時を代表する人気役者であった。将軍家継の生母月光院に仕える大年寄り絵島との密会が疑われ、正徳四年(1714)、千五百余名が処罰されうち九十人が流刑となる大疑獄へ発展した。新五郎はこの事件により三宅島に流された。この時、四十三歳という。在島実に二十数年、享保十八(1733)年二月、配流の地三宅島伊ヶ谷村で六十三歳の生涯を閉じた。一説に赦されて江戸で亡くなったともいわれる。

(禊教三宅島分院)


禊教三宅島分院


井上正鐡霊神

 伊ヶ谷の禊教三宅島分院に井上正鐡の墓がある。
 井上正鐡(まさかね)は禊教の教祖。天保十四年(1843)六月、三宅島に流された。在島中は常に島民を教道し職業を授け、あるいは医療を施すなどしたので、人々は競ってその門に集まったといわれる。嘉永二年(1849)一月、門弟達にみとられながら、六十一歳の生涯を伊ヶ谷の地で閉じた。配流後六年であった。本来であれば、その遺体は当然のこと配流者として処置されるべきであったが、浄土宗妙楽寺の住職が導師となって葬送の儀が行われ、伊ヶ谷地区岡庭の一角に埋葬された。井上正鐡の葬儀に対して特別の配慮が加えられたのは、地役人が生前の徳を評価した現れであった。

(空栗橋)
 三宅島一周道路の空栗橋(からくりばし)の少し北側の山裾に一つの石碑が建てられている。井上正鐡が、島民の渇望する水の確保のために心を砕き、伊ヶ谷泉津の地を開発して、現在にも生きている簡易水道の源を作ったことを記念したものである。


井上正鐡大人泉津山祈雨之道

(井上正鐡の腰掛石)
 さらに島一周道路を南下して、阿古地域に入る手前に井上正鐡の腰掛石と呼ばれる石が残されている。正鐡は当初阿古に配置されたが、後に彼の才能や知識、技術が島役人の知られることになり、伊ヶ谷の役所に出勤するように、処替えを命じられた。しかし、正鐡には阿古に在住中、お初という水汲み女(現地妻のことである)が仕えており、彼女との惜別の情耐えがたく、さりとて役人の命令には逆らえなかったため、正鐡は毎日阿古から伊ヶ谷の島役所まで通った。その道すがら、海を臨むと遥か水平線の彼方に江戸が偲ばれる場所で、石の上に腰をおろして休息したと伝えられている。
 遠島処分を受けた者に対して、島抜け(脱走)と婚姻は厳禁とされていたが、水汲み女といわれる現地妻は黙認されていたという。


井上正鐡の腰掛石

(夕景浜共同墓地)
 さて、ここまで回ってきたところで時計は午前七時を示していた。帰りの船が出るまで六時間以上ある。残り時間の全て費やしてでも、宮太柱(別名大木主水)の墓を探し出すつもりであった。三宅島観光協会でも教育委員会でも「分からない」という回答だっただけに、難航が予想された。夕景浜共同墓地に着いて、意気込んで乗り込んだところ、誠に呆気なく宮太柱(たちゅう)の墓と出会うことができた。墓地中央の前列近くにある。


南無妙法蓮華経大木主水墓(宮太柱の墓)

 宮太柱は、笠岡藩出身の町医で、若い頃、岩見銀山で鉱山病対策に尽くした。当時、坑内では酸欠に斃れる者、塵肺によって死亡する者が相次いでいた。坑内で働くということは、若くして命が絶たれることを意味していた。宮太柱は通気管や防塵マスク(福面)を開発して実用化した。進歩的な医者であった宮太柱が、いつしか過激な攘夷主義者に変貌していた。明治新政府の開明的路線に反発した太柱は、新政府参与横井小楠の暗殺に関与した疑いで捕えられた。
 明治三年(1870)十月、三宅島に送られたが、到着後一週間も経たずに死亡した。獄中生活で健康を害していたと思われる。墓石に刻まれた大木主水は、宮太柱の変名。「太柱」を分解して作った名前である。

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三宅島 Ⅰ

2018年05月12日 | 東京都
 伊豆諸島の旅も第四弾となった。今回は三宅島である。昨秋に渡航の計画を立てたが、結局宮太柱の墓の場所が分からず、直前になって行先を八丈島に変更した。今回、手を尽くして調べてみたがやはり分からないまま、現地で歩き回って探すことになった。会社の創立記念日を利用して、日曜日の夜、竹芝を出発して、三宅島には月曜日の午前五時に到着する。船は八丈島行と同じく橘丸である。八丈島のときと同じく、ほとんど一睡もできないまま朝を迎えた。風向きや天候によって、橘丸が着く港は変更される。限られた時間内に効率的に島内を移動することを考えてレンタカーを手配した。早朝にもかかわらず到着港まで迎えに来てくれる(ただし有料)。


橘丸

(浅沼稲次郎生家)
 神着(かみつき)地区に浅沼稲次郎の生家がある。生家跡は公園として整備され、銅像が建てられている(三宅村神着)。ここを起点として、島内の史跡を回ることとしよう。三宅島には全長三十五キロメートルの島内一周道路が通じており、史跡も概ねこの道路沿いに点在している。反時計回りで走ることにした。


浅沼稲次郎生家


浅沼稲次郎先生像

 浅沼稲次郎は日比谷公会堂で演説中、少年に襲われ死亡した。公衆の面前で起きた暗殺劇は衝撃的であった。てっきりリアルタイムで見たものと信じていたが、今回調べてみると、自分が生まれる前の出来事であった。

(旧島役所跡)


旧島役所跡

 この建物は、もともと神着村東郷にあったが、島役人を代々務める壬生氏が神官をつとめていた御笏(おしゃく)神社が、永正十三年(1516)、神託によって現在地に遷営された関係から、その十八年後の天文三年(1534)にこの地に移転したものである。江戸時代には伊豆代官配下の手代が三宅島に派遣され、御蔵島と合わせて支配していた。ほどなく島内で有力な神官であった壬生氏が島方取締役に任命され、寛永十五年(1638)には地役人と呼ばれるようになった。天明三年(1783)には伊ヶ谷村の笹本氏も地役人となり、幕末まで両氏による支配が行われた。
建築年代は不明ながら江戸後期の建築と推定されている。建物の面積はおよそ四十六坪で、現存している木造建築では伊豆諸島の中で最古最大の規模を誇る。材質はすべて椎の木が使われており、一切カンナが使われず、主として手斧で仕上げられた貴重な建築である(三宅村神着60)。


「篤姫」ゆかりの蘇鉄

 役所建物の前に樹齢百五十年という蘇鉄が植えられている。この蘇鉄は、安政三年(1856)十二月、島津斉彬の息女敬子(のちの篤姫、天璋院)が、十三代将軍家定公に輿入れの折、国元から持参した盆栽が船で江戸に向かう途中、事故のために大久保浜に漂着し、その時に移植されたものと伝えられている。

 前庭の柏槙(ビャクシン)の巨木に目を奪われた。この木は、御笏神社がこの地に移った直後に植えられたものといわれ、樹齢はほぼ五百年ということになる。高さ二メートルほどから二股に分れ、高さ二十六メートル、幹の太さ約七メートルという堂々たるものである。


ビャクシン

(小金井小次郎の井戸)
 侠客小金井小次郎は、武州小金井(現・東京都小金井市)の名主関氏の二男で、本名を関小次郎といった。安政三年(1856)、喧嘩の罪で三宅島に流され、慶應四年(1868)四月に赦されるまで十三年間を島で過ごした。在島中、水に悩む村民の姿を見て、大きな井戸を掘ってこれを救い、「小次郎の井戸」と名付けられた(三宅村神着1054)。赦されて江戸に帰るとき、伊豆村出身の娘を養女として伴い、その子孫は今も小金井に居住しているという。
 小次郎は明治初年、再び三宅島を訪れて、木炭の製造を指導奨励した。


小金井小次郎の井戸

(普済院)
 「小金井小次郎の井戸」の近くに所在する普済院に、小金井小次郎ゆかりの地蔵がある(三宅村伊豆)。


普済院


小金井小次郎の首切り地蔵

 小金井小次郎は普済院境内に住んでいたが、元治元年(1864)正月、境内で若者たちとさまざまな業を競った時、向う気の強さを丸出しにして地蔵尊の首を斬り落としてしまった。時の住職智道和尚は、小次郎の粗暴な振る舞いを堅く戒め、その代償として曽里川墓地に無縁供養の地蔵尊を建立することを勧めた。首を落とされた地蔵尊は、今も境内に現存している。


小金井小次郎の地蔵尊

 普済院から少し離れた曽里川墓地に小金井小次郎が建立した地蔵がある。背後には武州小金井産、小次郎の刻名を確認できる。

(善陽寺)


善陽寺

 普済院の向いに位置する善陽寺に、巡査二木金次の墓がある(三宅村伊豆284)。
 二木金次は鹿児島出身で、明治二十六年(1893)、警視庁から最初の警察官として三宅島に派遣された。赴任以来、精根を傾けて島のために尽力し、島民からも敬愛を集めていた。明治三十年(1897)、全国的に猖獗を極めた腸チフスが三宅島にも及び、多数の死者を出すに至った。金次は罹病者救助や防疫業務に挺身したが、不幸にも自ら感染し、同年十月殉職した。


巡査二木金次之墓

(伊豆岬)
 伊豆岬には珍しい角柱型の灯台が見られる。この灯台は、明治四十二年(1909)に設置点灯されたもので、昭和二十六年(1951)まで石油が使われていた。現在は電力に切り替えられている。
 周囲の海岸線は見渡す限り芝生状の草原が続き、海の向こうには伊豆諸島の島々や富士山まで遠望できるらしい。残念ながらこの日は富士の雄姿を拝むことができなかった。


伊豆岬灯台
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