東京ソラマチの郵政博物館でも、明治百五十年に因んで「幕臣たちの文明開化」展が開催されている(平成三十年(2018)四月二十日~七月一日)。これを記念して五月十九日、トークセッション「幕末よもやま話」が開催された。「よもやま話」といっても、そこは郵政博物館なので、郵便とか物流といったところが主なテーマである。
前埼玉県立文書館長杉山正司氏、物流博物館学芸員玉井幹司氏、郵政博物館長井上卓郎氏という三名の方が、それぞれの視点で、明治から幕末で起きた「断絶」と「連続性」を解説され、誠に興味深いものであった。
なお、事前にアナウンスされた時間は十四時から一時間ということであったが、終わったのは十五時半であった。よく言えば、お話いただいた三名の先生のサービス精神の表れということかもしれないが、一般企業でプレゼンがこれだけ長引いたら、お偉いさんからお叱りを受けるか、途中で打ち切られても文句をいえないところである。
一般的に、我が国の近代郵便事業(全国一律料金制度・誰でも利用ができ、切手による前納制度)は前島密が欧米の郵便事業をモデルに取り入れたとか、それまでの飛脚が走って書簡を運ぶといった江戸時代の仕組みを否定して、真新しい制度を導入したといったイメージで語られることが多い。確かに、駅馬車が街道を走る様子や、郵便配達夫が洋服を着用している姿が当時の錦絵に残っており、明治維新を境に郵便のイメージがガラッと変わったのは事実である。
しかし、前島密が郵便制度創設を建議したのは明治三年(1870)のことで、その後同年初めての渡英。その時、前島は大蔵省租税権正が主務で、イギリスでの視察も現地の租税制度や借款契約を結ぶことが主目的だったといわれる。もちろん現地の郵便制度も調査したが、飽くまで副次的目的であった。
この日のトークセッションで強調されていたのは、我が国の近代郵便事業は、江戸時代に整備された街道であったり、それを活用した飛脚のネットワークがそのまま活かされたということである。玉井氏によれば、概ね十八世紀の半頃から後半には全国的なネットワークが完成されていたという。飛脚は江戸、京都、大阪に飛脚問屋が店を持ち、宿場ごとに取次所があり、そこに集配等を委託していた。幕末には高騰してしまったが、それまでは江戸から大阪へ書簡を届けるには二十文(ソバ一杯が十六文の時代)という比較的安価な料金で、しかもおよそ十数日で届くという仕組みが出来上がっていたのである。江戸時代の街道網と郵便の路線はほとんど一致している。江戸時代の仕組みをそのままリユースしたから、短期間で郵便事業を立ち上げることができたのである。
ただし、飛脚のネットワークに致命的に欠けていたのは、外国に郵便物を届ける仕組みであった。それまで我が国では、各国がそれぞれ郵便局を持ち、日本でもそれを使って海外に書状を届けるしかなかった。他国と通信を行うには、近代郵便制度が不可欠であった。近代郵便事業の整備を急いだ日本は、明治六年(1873)には、日米郵便交換条約の締結にこぎ着けることができた。
期待以上に充実した内容で、アッという間の一時間半であった。この後、嫁さんと娘と食事に行く約束をしていたので、終了時間が気になってしようがなかった。最初から一時間半と通告していただければ、もっと良いトークセッションになったと思います。
前埼玉県立文書館長杉山正司氏、物流博物館学芸員玉井幹司氏、郵政博物館長井上卓郎氏という三名の方が、それぞれの視点で、明治から幕末で起きた「断絶」と「連続性」を解説され、誠に興味深いものであった。
なお、事前にアナウンスされた時間は十四時から一時間ということであったが、終わったのは十五時半であった。よく言えば、お話いただいた三名の先生のサービス精神の表れということかもしれないが、一般企業でプレゼンがこれだけ長引いたら、お偉いさんからお叱りを受けるか、途中で打ち切られても文句をいえないところである。
一般的に、我が国の近代郵便事業(全国一律料金制度・誰でも利用ができ、切手による前納制度)は前島密が欧米の郵便事業をモデルに取り入れたとか、それまでの飛脚が走って書簡を運ぶといった江戸時代の仕組みを否定して、真新しい制度を導入したといったイメージで語られることが多い。確かに、駅馬車が街道を走る様子や、郵便配達夫が洋服を着用している姿が当時の錦絵に残っており、明治維新を境に郵便のイメージがガラッと変わったのは事実である。
しかし、前島密が郵便制度創設を建議したのは明治三年(1870)のことで、その後同年初めての渡英。その時、前島は大蔵省租税権正が主務で、イギリスでの視察も現地の租税制度や借款契約を結ぶことが主目的だったといわれる。もちろん現地の郵便制度も調査したが、飽くまで副次的目的であった。
この日のトークセッションで強調されていたのは、我が国の近代郵便事業は、江戸時代に整備された街道であったり、それを活用した飛脚のネットワークがそのまま活かされたということである。玉井氏によれば、概ね十八世紀の半頃から後半には全国的なネットワークが完成されていたという。飛脚は江戸、京都、大阪に飛脚問屋が店を持ち、宿場ごとに取次所があり、そこに集配等を委託していた。幕末には高騰してしまったが、それまでは江戸から大阪へ書簡を届けるには二十文(ソバ一杯が十六文の時代)という比較的安価な料金で、しかもおよそ十数日で届くという仕組みが出来上がっていたのである。江戸時代の街道網と郵便の路線はほとんど一致している。江戸時代の仕組みをそのままリユースしたから、短期間で郵便事業を立ち上げることができたのである。
ただし、飛脚のネットワークに致命的に欠けていたのは、外国に郵便物を届ける仕組みであった。それまで我が国では、各国がそれぞれ郵便局を持ち、日本でもそれを使って海外に書状を届けるしかなかった。他国と通信を行うには、近代郵便制度が不可欠であった。近代郵便事業の整備を急いだ日本は、明治六年(1873)には、日米郵便交換条約の締結にこぎ着けることができた。
期待以上に充実した内容で、アッという間の一時間半であった。この後、嫁さんと娘と食事に行く約束をしていたので、終了時間が気になってしようがなかった。最初から一時間半と通告していただければ、もっと良いトークセッションになったと思います。