(足利陣屋跡)
このところ休日出勤が続いていたので、有給休暇を取得した。本来はゆっくり休むべきなのだろうが、せっかくの休みを無為に過ごすわけにいかない。しかも、先日、新車を手に入れてからは外出したくてうずうずしているのである。足利から佐野、宇都宮を経て壬生、真岡、結城に至る遠大な計画を立てた。前夜に嫁さんには「暗いうちに家を出る」と言い残して床についたが、目が覚めたのは午前4時半で、そのとき既に外は明るかった。
足利へは、圏央道から関越道を経由して、北関東自動車道の終点の大田桐生で高速道路を降りて、そこから二十分ほどである。草雲美術館に着いたのは、八王子を出てちょうど二時間経っていた。
陣屋大門
足利は、古来より交通の要衝として繁栄し、鎌倉時代には、源義家の末裔である義康、その子である義兼が足利氏を称してこの地を本拠とした。義兼の六代のちの子孫が足利尊氏である。江戸に入ると、戸田氏一万一千石の領地となった。足利学校や鑁阿寺など市街には歴史あるスポットが多数残されているが、藩の陣屋があった辺りはすっかり開発され、何の痕跡も見出すことはできない。ただ陣屋大門の石碑と、そこから百三十メートルほど北側の薬局の前に、市の教育委員会が作成した陣屋跡の説明板を見るだけである。
足利藩陣屋跡
譜代大名である足利藩は、戊辰戦争前夜、藩論が別れて議論が沸騰したが、宗藩である宇都宮藩が新政府につくこととなったため、最終的にはこれに同調した。藩兵は宇都宮攻城戦に参加したが、旧幕軍の反攻のために敗走させられている。
(長林寺)
長林寺
長林寺は足利長尾家の菩提寺で文安五年(1448)創建という長い歴史を持つ。墓地には足利藩士で、明治維新後は画家として名を成した田崎草雲の墓がある。田崎草雲は、文化十二年(1815)、足利藩士の子として江戸足利藩邸に生まれ、二十のときに脱藩流浪して絵画を学んだ。嘉永六年(1853)、足利藩の御用絵師となり、安政年間には足利に退いて書画を教授するとともに、国政に関心を持ちしばしば国事を談じた。慶応四年(1868)藩命によって民兵を組織して誠心隊を結成し、その司令となって戦った。維新後は南画家として活躍し、明治二十六年(1893)のシカゴ万国博覧会に出展した「富嶽図」に対し名誉銀牌が授与され、のちに帝室技芸員に任命された。明治三十一年(1898)、八十四歳で没した。
草雲田崎先生墓
(草雲美術館)
草雲は明治六年(1873)廃寺であった蓮台寺跡を買い求め、そこに二階建ての家屋を建てて、白石山房と名付けた。当初は二階を画室として使用していたが、晩年になって昇降に不自由を感じるようになると、東側に画室と茶室を兼ねた平屋を建て、八十四歳で没するまで数々の作品をここで生み出した。現在、美術館では草雲の遺作遺品を所蔵公開している。時間があれば見ていきたかったが、未だ開館時刻である九時まで二時間以上あったので、先を急ぐことにした。
草雲美術館
(梁田宿・長福寺)
梁田宿(現・梁田町自治会館)
梁田は例幣使街道に位置し、渡良瀬川渡船前の宿場として賑わった。梁田町自治会館の前にある駒札には、本陣二軒、旅籠三十二軒、総戸数百五軒があったという解説が記されている。
慶応四年(1868)三月八日夕刻、江戸を脱走した旧幕府歩兵部隊が、梁田宿に進入した。隊名は、初期は兵武隊と称し、のちに衝鋒隊と変えられた。隊を率いたのは、幕府奥医師高松凌雲の実兄である古屋佐久左衛門である。古屋佐久左衛門は、久留米藩の出身で、のちに幕臣に取りたてられた。歩兵指図役頭取から歩兵頭、歩兵奉行と出世した。旧幕歩兵連隊を中心とする部隊を率いて各地を転戦するが、明治二年(1869)五月、箱館戦争にて戦傷死している。
衝鋒隊は東山道軍の急追を受け、逃げ込むようにして梁田宿に入った。同じ頃、薩摩藩兵を主体とする東山道軍先鋒は濃霧に紛れて梁田宿に肉薄し、三月九日午前七時、衝鋒隊を急襲した。突如の開戦に衝鋒隊は動揺したが、よく持ち直し一時優位に立った。しかし、後方を薩摩藩兵に分断され、軍監柳田勝太郎以下六十四名の遺棄死体を残し総退却した。対する新政府軍側の戦死者は三名のみであったという。
長福寺
梁田町自治会館の裏手にある長福寺には、梁田戦争にも参加した内田万次郎が大正十三年(1924)になって建立した「明治戊辰 東軍戦死者追弔碑」がある。内田万次郎は、父とともに旧幕軍に投じ、梁田戦争ののち箱館まで転戦している。戦後は大蔵省印刷局に奉職し、退職後この碑を建立した。
明治戊辰 東軍戦死者追弔碑
梁田戦争戦死塚
長福寺墓地には、梁田戦争で戦死した六十四名を埋葬した戦死塚がある。遺棄された戦死者は、村民の手により渡良瀬川畔に一旦埋葬されたが、その後遺骨とともに現在地に改葬された。
(崇聖寺)
崇聖寺
同じく梁田宿にある崇聖寺には、梁田戦争で戦死した元会津藩士、柳田勝太郎の墓がある。
衝鉾隊軍艦柳田勝太郎之墓
(梁田公民館)
梁田公民館の敷地内に招魂社があり、その一角に「弾痕の松」がある。梁田戦争時の弾痕がこの松に残っているというのだが、今一つどこに弾痕があるのか良く分からなかった。
弾痕の松
(自性寺)
自性寺
戊辰戦役幕軍之墓
やはり梁田戦争で犠牲となった幕府軍の戦死者を葬った墓が、梁田から少し離れた自性寺にある。さして広くない墓地なのですぐに見つかると高を括って墓地を探したがなかなか見つからない。「戊辰戦役幕軍之墓」は墓地内ではなく、寺門前にあった。
ここに葬られている幕軍兵士の氏名は不詳である。自性寺のある下渋垂村でも二名の戦死者があったという。