史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「掃苔しましょう」 小栗結一著 集英社新書

2009年06月30日 | 書評
掃苔、すなわち著名人の墓参りをすることをいう。この本は「まえがき」に少し掃苔に関する蘊蓄を述べているが、あとは都内の霊園のどこにどんな人が眠っているかをひたすら紹介することに徹している。小説のように物語が展開するわけでもないので、興味のない人は1頁も進まないだろう。これほど興味のあるなしで、はっきりと好みが分かれる本はないかもしれない。墓好きの私の場合は、頁をめくるのもモドカシイくらい楽しいものであった。都内の有名な霊園は行き尽くしたつもりでいたが、改めてまだこんな人がいたかと気付くことも多かった。
 都内最大規模を誇る青山霊園の尽きない墓石の中を歩いていると、人は墓を建てるために生まれ、死んでいくのではないかという錯覚を覚える。勿論、それは錯覚に過ぎないのであるが、そう思われるほど墓にはその人の人生が凝縮されていて、訪ねる人を飽きさせない。
 私のHPを見た方から
「何だか墓ばっかり」
要するに「つまらない」という批判をいただくこともある。でも、掃苔の楽しさを知ってもらいたいと私は常々思い、飽きもせず墓を取材し、HPに紹介している。
 でも、やっぱり興味のない人には、お墓はただの石であって、この手の本を敢えて手にとってみようとは思わないでしょうな。

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「幕末維新の経済人」 坂本藤良著 中公新書

2009年06月21日 | 書評
 昭和五十九年(1984)に上梓された古典的名著である。本著は、小栗忠順から坂本龍馬、岩崎弥太郎、三野村利左衛門、渋沢栄一に至る五人の人物を取り上げている。
 特に幕臣小栗上野介忠順を、経済人の一人として取り上げている点に著者の独創的着眼点がある。小栗は兵庫商社なる組織を慶応三年(1867)六月に立ち上げた。今でいう貿易商社である。兵庫商社は、戊辰戦争の勃発とその後の混乱により、半年余りで事業の中断を余儀なくされたが、これが我が国における株式会社の原型だと位置づけられている。
 さらに本著では、坂本龍馬の錬金術について解説を加えている。龍馬は
――― 土佐藩の保証で薩摩藩から五千両借り、うち四千両をハットマン商会に(ライフル銃代金として)支払い、二百両を海援隊経費とし、百五十両を長崎商人に口入料、百五十両を海援隊士の交通費、滞在費、運搬船賃とした。これで五百両残る勘定である。これを田辺藩に貸し付けた。
 要するに「他人のフンドシで相撲を取る」に等しいカラクリである。龍馬自身に資力がない限り、これは止むを得ないことであるが、まず普通の武士では思いつかない才覚である。龍馬の出自が商家だったということを思い起こす必要があるだろう。
 海援隊は、その目的の一つに「射利」を明確に謳っていた。射利とは「手段をえらばず利益を得ようと狙うこと」である。龍馬の海援隊は、維新後、九十九商会、そして三菱へと引き継がれた。岩崎弥太郎が率いる三菱に、国益意識、組織的団結力とともに、この体質は着実に遺伝したと考えるべきであろう。
 本著では、三菱と三井(即ち岩崎と渋沢栄一)の熾烈な闘いを描いている。両者とも政治家と癒着し、戦争に乗じて成り上がった政商というべき存在であった。本来、新興国日本の海運会社が欧米列強の会社に勝てるはずがなかったが、強烈な明治新政府からの支援を得て、三菱は上海航路で勝利を得、確固たる地位を築いた。三菱、三井とも大隈重信や井上馨ら、政府の有力者と結びついて巨大化した。
 その後も三井は、中上川彦次郎、益田孝といったカリスマ性を持った経営者に引き継がれ、岩崎家を中心に固い結束を誇る三菱と死闘を繰り広げた。やがて“組織の三菱”と“個人の三井”と称されるように、それぞれ独自の強みを身につけ、財閥を構築したのである。
財閥というと三菱と三井と並ぶもう一つの雄である住友は、両者の激闘に顔を出さない。住友は両者とは対照的に政治とは一線を画していた。「石橋を叩いても渡らない」といわれる堅実で慎重な姿勢は今も変わらない。三者の生い立ちの違いが、現代まで脈々と受け継がれているようで、誠に興味が尽きない。

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「北関東会津戊辰戦争」 島遼伍著 随想舎

2009年06月10日 | 書評
 このところ、栃木県、茨城県の史跡訪問に際してテキスト代わりに愛用しているのがこの本である。会津戦争に至るまで戊辰戦争の経緯が克明に記録されており、数々の史跡も紹介されていて、大変使い手がある。
 著者は、大鳥圭介に傾倒しており、大鳥と好対照をなす土方歳三には批判的である。更にいえば、最期まで幕府への忠誠と武士の意地を貫いた会津藩に好意的であり、陰謀と武力で殺戮を繰り返した薩長には批判的である。
 人間誰しも好き嫌いがあり、そこから容易に逃れられるものでない。歴史を見るとき、幕府、薩摩、長州、会津、それぞれに正義があり、敵対勢力がある。幕府にしてみれば、開国は当然の流れであり、それに抵抗する薩長勢力は非道な存在でしかない。反対勢力から見れば、貿易によって利を得るのは幕府だけである。どうしても幕府は抹殺せねばならない。
 どちらかに軸足をおくということは、視点を固定できて批評し易くなることは事実である。しかし、視点を固定することで見えなくなることも多い。私は意識してできるだけ中庸に軸足を置き、幕府、薩摩、長州、会津、それぞれの視点から幕末史を見るように心がけている。それでも人間である限り完全に感情を排除することなど不可能である。全く中立などという立場はあり得ないのだが…。

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結城

2009年06月07日 | 茨城県
(孝顕寺)


孝顕寺

 家康の次男秀康が、名門結城家の養子となって結城城に入ったのが天正十九年(1591)のことである。関が原の合戦後、結城秀康は越前に転封され、結城城も廃城となった。再び結城に大名が配置されたのは、それから約百年が経った元禄十三年(1700)、能登から水野勝長の移封まで待たなくてはならない。以後、廃藩に至るまで水野家が続いた。幕末の藩主は、水野勝知(かつとも)である。勝知は陸奥二本松藩から水野家に養子に入ったが、過激な佐幕派でもあった。
 国許の家老小場兵馬は、前藩主勝進の晩年の子、勝寛を立てて新政府に恭順の姿勢を取った。この動きを察知した、江戸に居た藩主水野勝知は激怒し、彰義隊士ら旧幕兵を率いて直ちに小山に着陣した。小場兵馬は小山の勝知のもとへ赴き陳謝したが聞き入れられず、慶応四年(1868)三月二十五日、藩主自ら結城城を砲撃し、城は灰塵に帰した。


小場兵馬自刃之處

 結城城は、同年四月五日、新政府軍により奪回された。勝知は、領内の成東から上野山内へ逃亡した。藩の存続のために結城藩の二家老が自決することになり、小場兵馬が孝顕寺で、水野甚四郎は光福寺でそれぞれ従容と死に就いた。孝顕寺には、小場兵馬自刃之處と刻んだ石碑が建てられている。
 その後、水野勝知は、五月十五日の上野戦争前夜、結城藩佐幕派が結成した水心隊を置き捨てて脱走し、生家である二本松城に落ちのびている。二本松藩降伏と同時に官軍に捕えられ、隠居謹慎の処分を受けた。結城藩は嗣子勝寛へ相続が許され、勝知自身も大正八年(1919)まで生き、八十二歳の天寿を全うした。ひと言でいえば、我がままな殿様に藩士たちが振り回されたということかもしれないが、後味の悪さは否定できない。孝顕寺には水野勝知の墓も建てられているが、よりによってかつて家老が切腹した同じ寺に収まるという無神経さにも呆れるばかりである。


従三位水野勝知之墓

(光福寺)


光福寺

 光福寺には、同じく自刃した家老水野甚四郎の墓がある。


水埜甚四郎勝徴墓


官軍内参謀祖式信頼(左)
土州上田楠次墓(右)

 左手の祖式信頼の名前が刻まれた石は、墓石ではなさそうである。祖式信頼金八郎は、長州藩士。戊辰戦争では東山道軍の軍監となったが、たびたび戦術を誤り、軍規を犯し、強奪を繰り返したため、位階剥奪の上、国許に追放された。その後の消息も不明である。
 祖式金八郎は、結城近郊の武井、小山の戦闘にも従軍しており、旧幕軍に蹴散らされ、命からがら古河藩に収容されている。

 右の背の低い墓が土佐藩士上田楠次のものである。上田楠次は、間崎哲馬の私塾に学び、文久元年(1861)、武市半平太が土佐勤王党を結成すると真っ先に加盟した。文久年間、京都、江戸に出て諸藩の士と交わり国事を論じた。帰国して武市半平太の赦免を藩庁に訴え一時幽閉された。戊辰戦争では、東山道鎮撫総督岩倉具定の直参として、甲府、江戸、結城、小山と転戦したが、四月十七日の小山の戦闘で流れ弾に当たって翌日死亡した。年三十二であった。

(武井公民館)


官軍 石川喜四郎墓(右)
官軍 山本富八藤原通春(左)

 慶応四年(1868)四月十六日、結城城を脱回した祖式金八郎を指揮官とする新政府軍と、大鳥圭介の率いる伝習隊、および草風隊、貫義隊、凌霜隊の旧幕三隊とが、須坂藩、館林藩、土佐藩、彦根藩、笠間藩等の寄せ集め部隊であった新政府軍は統制がとれておらず、旧幕軍の組織だった攻撃の前に壊滅的敗北となった。
 武井公民館の場所には、かつて泰平寺という寺院があったらしいが、今は墓地だけが残されている。武井の戦闘で戦死した館林藩の墓がある。

(水野家の墓)


浜松城主従四位下侍従越前守源朝臣墓
(水野越前守忠邦の墓)

 結城市郊外の山川新宿に、水野家の墓がある。中でも十一代水野忠邦は天保の改革を行ったことで有名である。
 山川水野氏は、大阪夏の陣の功で結城山川三万石を与えられた。その後、駿河田中、三河吉田、岡崎、唐津、浜松と要地を転々としたが、常に幕府の要職にあった。父祖の地である山川に万松寺を建立し菩提寺とした。ここには初代忠元から十一代忠邦までの墓がある。万松寺は、(1855)に火災に遭い廃寺となった。
 なお、山川水野家は天保の改革の失敗の責任を問われて、二万石を減封の上、山形に転封となったが、十二代忠精は若年寄、老中を歴任している。

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真岡

2009年06月07日 | 栃木県
(真岡城山公園)
 真岡は、江戸初期には浅野氏、堀氏、稲葉氏の陣屋が置かれていたが、のちに幕府領となって代官所が置かれていた。天保四年(1843)に二宮尊徳がこの地に赴任し、農村の復興に取り組んだ。今、代官所のあった場所は、真岡小学校と城山公園になっている。城山公園内には「二宮先生遺蹟 真岡陣屋趾」と記された石碑が建てられている。


二宮先生遺蹟 真岡陣屋趾

 市川から二手に分かれて北進を続けた旧幕府軍のうち、土方歳三の部隊は、慶応四年(1868)四月十八日の昼間、真岡代官所を通過し、いよいよ宇都宮城を巡る大決戦に向かう。

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上三川

2009年06月07日 | 栃木県
(満福寺)


満福寺


上総堂 黒羽藩士の墓

 市川大林寺(= 廃寺。現在のJR市川駅北)に集結した旧幕府軍は、総帥に大鳥圭介を選出し、日光へ向けて行軍を始めた。慶応四年(1868)四月十二日のことである。
 小金から北上を続ける本隊とは別に、土方歳三の率いる支隊は水街道から下妻、下館をたどる経路をとった。武井(現・茨城県結城市南郊)での遭遇戦で快勝を得た大鳥隊は、栃木に入った。その頃、土方支隊は蓼沼(現・栃木県上三川)に進軍していた。
 土方歳三は、蓼沼の満福寺に陣を置き、ここで四人の黒羽藩士を捕え斬首している。黒羽藩は前藩主大関増裕が幕府で海軍総裁兼若年寄を務めた佐幕派の家柄である。しかし、大関増裕が前年に亡くなったあと、藩論は一変して勤王に転じていたのである。
 斬首された四人の黒羽藩士の墓が、満福寺から百メートルほど離れた満福寺上総堂に残されている。

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壬生

2009年06月07日 | 栃木県
(壬生城)
 壬生藩は、遠祖に鳥居元忠を持つ鳥居家が、正徳二年(1712)に移封されて以降、幕末に至るまで鳥居家三万石の領地であった。幕末には常に佐幕と勤王の間で揺れ、両派で激しい争いが絶えなかった。戊辰戦争以降も藩論が定まらず、最終的には宇都宮藩等の近隣諸藩と足並みをそろえて官軍に属することになった。


壬生城跡

 陣屋の置かれた壬生城は、明治四年(1871)の廃藩置県の直後、廃城となり、現在は壬生城址公園として整備されている。土塁と水堀が残されているが、ほとんど往時の遺構は残っていない。


壬生城址公園

 慶応四年(1868)四月十九日、大鳥圭介の率いる旧幕軍の猛攻に耐え切れず、新政府軍は宇都宮城を明け渡した。これに対し、板橋にあった東山道総督府は、すぐさま精鋭を送った。河田左久馬(鳥取藩)が隊長に任命され、土佐藩、鳥取藩を主力とする兵約五百である。この部隊は三月に甲州勝沼で近藤勇の甲陽鎮撫隊を破った戦歴を持っている。河田左久馬指揮下の混成大隊は、同月二十日壬生城に入って宇都宮城に対峙した。
 その翌日、旧幕軍と新政府軍は、壬生城と宇都宮の中間に位置する安塚で激突することになる。

(常楽寺)


常楽寺

 常楽寺は、寛正三年(1462)、当時の壬生城主壬生胤業が創建した寺院で、江戸時代には鳥居家の菩提寺となった。


官修墓地 忍藩 佐藤市郎春儀之墓

 墓地には、安塚の戦闘で唯一の忍藩の戦死者である佐藤市郎の墓がある。


鳥居家累代の墓


斎藤一族の墓
手前は斎藤元昌墓

 斎藤元昌は、壬生藩の蘭方医である。天保十一年(1840)に壬生領内では初めての人体解剖を行い、嘉永三年(1850)には種痘を開始したことでも知られる。また、下野国に招かれた二宮尊徳の主治医も務めた。戊辰戦争では野戦病院で負傷者の治療に当たった。壬生藩は、六代藩主鳥居忠挙が蘭学を好んだため、蘭学が盛んとなった。現在、斎藤元昌らが住んでいた旧街道は、蘭学通りと呼ばれている。

(興光寺)


興光寺

 蘭学通りを西へ少し入ったところに興光寺がある。三代将軍家光の遺骸を日光に葬送する際に、幕命により福和田村から現在地に移転させられたという歴史を持つ寺である。


官修墓地
土佐 国吉榮之進親敬墓(左)
半田擢吉墓など

 興光寺官修墓地には、安塚の戦争で犠牲となった新政府軍兵士の墓がある。墓碑を確認すると、土佐藩士、因州鳥取藩士のものらしい。安塚の払暁での戦闘での戦死者は、主力となった土佐藩がもっとも多く六名、続いて鳥取藩四名、松本藩二名、吹上藩、壬生藩、忍藩、不明各一名、計十七名となっている。


官修墓地
因藩官軍附属山国隊 新井兼吉道成之墓(右)
高室次兵衛宗昌 田中淺太郎利政之墓(左)


官修墓地
因藩 石脇鼎元繁墓

(雄琴神社)
 雄琴神社は、当初藤森神社と称していたが、壬生城を本拠とした壬生氏が、遠祖を祀る雄琴神社(現・滋賀県大津市)から分祀して改称したものである。
 幕末、戊辰戦争の宮司黒川豊麿は、周辺の神主五十六名から成る利鎌隊を組織して新政府軍の先導隊として活躍した。安塚での戦闘にも参加している。


雄琴神社


黒川家遠祖之碑

(安塚)


安昌寺

 安塚の安昌寺にも官軍兵士土佐藩士山村鉄太郎の官修墓地がある。墓石は新しく建て替えられたらしいが、その傍らに同じく山村鉄太郎の名を刻んだ朽ちかけた墓碑も置かれている。


土佐 森山鉄太郎之墓


島田家

 安塚交差点のすぐ北側、道路左側に長屋門が見える。安塚の戦争の際、新政府軍が本陣を置いた島田家である。

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宇都宮 Ⅱ

2009年06月06日 | 栃木県

(雷神社)


雷神社

 宇都宮市中心部の蒲生神社(祭神蒲生君平)の大鳥居の手前の急な階段を昇ると雷(いかずち)神社が鎮座している。本殿前に墓地があり、その中に会津若松で戦死した宇都宮藩の軍夫堀井亀吉の墓がある。


宇都宮藩 堀井亀吉之墓

(慈光寺)


慈光寺 赤門

 慈光寺の山門は、目にも鮮やかな赤門である。この赤門は空襲で焼失したが、平成二十年(2008)年に再建されたものである。
 境内には広大な墓地が広がるが、ちょうど本堂の裏の小高い丘の中腹に宇都宮藩家老の長男安形靱負太郎の墓がある。安形は、鬼怒川小原沢での戦いで戦死した。
 慈光寺には、このほかにも官修墓地や宇都宮藩家老縣六石(勇記・信緝)の墓があることは分かっていたが、時間切れにて探しきれず。次回以降に持ち越しとなった。


官修墓地
宗俊安形家君墓

(天勢寺)


天勢寺

市内栄町の天勢寺には、やはり官修墓地がある。宇都宮藩士高橋春之助は、九月の会津火玉峠での戦闘で戦死。


官修墓地
義峰全忠居士

(生福寺)


生福寺

 生福寺に菊池教中の墓を訪ねた。菊池教中は、文政十一年(1828)、宇都宮城下に生まれた。父は呉服商を営む菊池淡雅。江戸にも出店して巨富をなした。家業を継いだ教中は、業務の拡張に精励する傍ら、困窮者や貧しい文人墨客に対する援助を厭わなかった。安政二年から文久年間にかけて、鬼怒川沿岸岡本、桑島の荒地の開墾に尽くした。国事多端の折、姉巻子の婿、大橋訥庵に感化され熱烈な尊王攘夷論者となった。政治的な活動に目覚めた教中は、老中安藤信行の暗殺計画にも関与し、宇都宮藩士による一橋慶喜擁立挙兵計画が露見すると、逮捕投獄された。文久二年(1862)一旦出獄したが、間もなく病のために没した。三十五歳であった。


義烈院真岸澹如居士(菊池教中の墓)

(光明寺)


光明寺

 本町光明寺にも官修墓地がある。宇都宮藩士久保千代之助の墓である。久保千代之助は、慶応四年(1868)九月の会津大内峠で戦傷死。


官修墳墓 久保千代之助政信墓


薩州志士之墓

 光明寺には薩州志士之墓という立派な墓碑が建てられている。こちらは西南戦争の終戦後、捕虜として宇都宮の監獄署に拘留され、獄中で病死した十一名を葬ったものである。

(蒲生君平生誕地)
 宇都宮の小幡郵便局辺りが蒲生君平生誕の地に当たる。


贈四位蒲生君平秀実生誕の地

 蒲生君平は、明和五年(1768)にこの地に生まれた。父福田又右衛門は、油屋兼農業を営んでいた。幼いころから学問を好み、鹿沼の学者鈴木石橋のもとで儒教や古典を学んだ。更に江戸に出て山本北山や林術斎に師事し、多くの同志と交わった。このころ、歴代山陵の荒廃を嘆き、これを調査して「山陵誌」を著した。晩年は江戸駒込吉祥寺門前の修静庵に住み著述に専念した。文化十年(1813)四十六歳にて病に倒れた。

(林松寺)


林松寺


大英雄道信士(中田鋳三郎の墓)

 JR宇都宮駅に近い林松寺には、慶応四年(1868)四月十九日の宇都宮攻城戦の戦死者、宇都宮藩士中田鋳三郎の墓がある。

(常念寺)


常念寺


彰義隊士數士之墓(右)

 常念寺の美しい山門を過ぎて左手に彰義隊士の墓がある。葬られている兵士の姓氏は不詳。彰義隊かどうかも定かではない。常念寺も、英厳寺と同様、戊辰戦争の戦火で全焼している。

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佐野

2009年06月06日 | 栃木県
(出流山義挙志士処刑場跡)


出流山義挙志士処刑場跡

 佐野は、堀田家一万六千石の領地である。佐幕色の強い藩で、慶応三年(1867)十二月の出流山事件のときも幕府の要請に応じて、足利藩、壬生藩とともに出兵している。その際、生け捕りとなった四十八名が佐野秋山川の河原で処刑された。
 佐野藩は、戊辰戦争が起きると早々に官軍に恭順を表明し、沼田での戦争にも出兵した。

(天応寺)


天応寺


宗観院殿前羽林中郎将柳暁覚翁大居士
(井伊直弼の墓)

 佐野北郊の堀米にある天応寺には、彦根井伊家二代直孝、三代直澄そして十三代直弼の墓碑がある。いずれも遺髪を収めたものといわれる。
 寛永十年(1633)、堀米から田沼に至るまでの地域が井伊家の領地となり、以後幕末の慶応四年(1868)まで、二百三十五年にわたって井伊家の支配下にあった。井伊直弼も、ペリー来航の前年、嘉永六年(1853)に自領を巡見し、領民の意見を藩政に反映するなど意を砕いている。


大老井伊直弼公顕彰碑

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足利

2009年06月06日 | 栃木県
(足利陣屋跡)
 このところ休日出勤が続いていたので、有給休暇を取得した。本来はゆっくり休むべきなのだろうが、せっかくの休みを無為に過ごすわけにいかない。しかも、先日、新車を手に入れてからは外出したくてうずうずしているのである。足利から佐野、宇都宮を経て壬生、真岡、結城に至る遠大な計画を立てた。前夜に嫁さんには「暗いうちに家を出る」と言い残して床についたが、目が覚めたのは午前4時半で、そのとき既に外は明るかった。
 足利へは、圏央道から関越道を経由して、北関東自動車道の終点の大田桐生で高速道路を降りて、そこから二十分ほどである。草雲美術館に着いたのは、八王子を出てちょうど二時間経っていた。


陣屋大門

 足利は、古来より交通の要衝として繁栄し、鎌倉時代には、源義家の末裔である義康、その子である義兼が足利氏を称してこの地を本拠とした。義兼の六代のちの子孫が足利尊氏である。江戸に入ると、戸田氏一万一千石の領地となった。足利学校や鑁阿寺など市街には歴史あるスポットが多数残されているが、藩の陣屋があった辺りはすっかり開発され、何の痕跡も見出すことはできない。ただ陣屋大門の石碑と、そこから百三十メートルほど北側の薬局の前に、市の教育委員会が作成した陣屋跡の説明板を見るだけである。


足利藩陣屋跡

 譜代大名である足利藩は、戊辰戦争前夜、藩論が別れて議論が沸騰したが、宗藩である宇都宮藩が新政府につくこととなったため、最終的にはこれに同調した。藩兵は宇都宮攻城戦に参加したが、旧幕軍の反攻のために敗走させられている。

(長林寺)


長林寺

 長林寺は足利長尾家の菩提寺で文安五年(1448)創建という長い歴史を持つ。墓地には足利藩士で、明治維新後は画家として名を成した田崎草雲の墓がある。田崎草雲は、文化十二年(1815)、足利藩士の子として江戸足利藩邸に生まれ、二十のときに脱藩流浪して絵画を学んだ。嘉永六年(1853)、足利藩の御用絵師となり、安政年間には足利に退いて書画を教授するとともに、国政に関心を持ちしばしば国事を談じた。慶応四年(1868)藩命によって民兵を組織して誠心隊を結成し、その司令となって戦った。維新後は南画家として活躍し、明治二十六年(1893)のシカゴ万国博覧会に出展した「富嶽図」に対し名誉銀牌が授与され、のちに帝室技芸員に任命された。明治三十一年(1898)、八十四歳で没した。


草雲田崎先生墓

(草雲美術館)
 草雲は明治六年(1873)廃寺であった蓮台寺跡を買い求め、そこに二階建ての家屋を建てて、白石山房と名付けた。当初は二階を画室として使用していたが、晩年になって昇降に不自由を感じるようになると、東側に画室と茶室を兼ねた平屋を建て、八十四歳で没するまで数々の作品をここで生み出した。現在、美術館では草雲の遺作遺品を所蔵公開している。時間があれば見ていきたかったが、未だ開館時刻である九時まで二時間以上あったので、先を急ぐことにした。


草雲美術館

(梁田宿・長福寺)


梁田宿(現・梁田町自治会館)

 梁田は例幣使街道に位置し、渡良瀬川渡船前の宿場として賑わった。梁田町自治会館の前にある駒札には、本陣二軒、旅籠三十二軒、総戸数百五軒があったという解説が記されている。
 慶応四年(1868)三月八日夕刻、江戸を脱走した旧幕府歩兵部隊が、梁田宿に進入した。隊名は、初期は兵武隊と称し、のちに衝鋒隊と変えられた。隊を率いたのは、幕府奥医師高松凌雲の実兄である古屋佐久左衛門である。古屋佐久左衛門は、久留米藩の出身で、のちに幕臣に取りたてられた。歩兵指図役頭取から歩兵頭、歩兵奉行と出世した。旧幕歩兵連隊を中心とする部隊を率いて各地を転戦するが、明治二年(1869)五月、箱館戦争にて戦傷死している。
 衝鋒隊は東山道軍の急追を受け、逃げ込むようにして梁田宿に入った。同じ頃、薩摩藩兵を主体とする東山道軍先鋒は濃霧に紛れて梁田宿に肉薄し、三月九日午前七時、衝鋒隊を急襲した。突如の開戦に衝鋒隊は動揺したが、よく持ち直し一時優位に立った。しかし、後方を薩摩藩兵に分断され、軍監柳田勝太郎以下六十四名の遺棄死体を残し総退却した。対する新政府軍側の戦死者は三名のみであったという。


長福寺

 梁田町自治会館の裏手にある長福寺には、梁田戦争にも参加した内田万次郎が大正十三年(1924)になって建立した「明治戊辰 東軍戦死者追弔碑」がある。内田万次郎は、父とともに旧幕軍に投じ、梁田戦争ののち箱館まで転戦している。戦後は大蔵省印刷局に奉職し、退職後この碑を建立した。


明治戊辰 東軍戦死者追弔碑


梁田戦争戦死塚

 長福寺墓地には、梁田戦争で戦死した六十四名を埋葬した戦死塚がある。遺棄された戦死者は、村民の手により渡良瀬川畔に一旦埋葬されたが、その後遺骨とともに現在地に改葬された。

(崇聖寺)


崇聖寺

 同じく梁田宿にある崇聖寺には、梁田戦争で戦死した元会津藩士、柳田勝太郎の墓がある。


衝鉾隊軍艦柳田勝太郎之墓

(梁田公民館)
 梁田公民館の敷地内に招魂社があり、その一角に「弾痕の松」がある。梁田戦争時の弾痕がこの松に残っているというのだが、今一つどこに弾痕があるのか良く分からなかった。


弾痕の松

(自性寺)


自性寺


戊辰戦役幕軍之墓

 やはり梁田戦争で犠牲となった幕府軍の戦死者を葬った墓が、梁田から少し離れた自性寺にある。さして広くない墓地なのですぐに見つかると高を括って墓地を探したがなかなか見つからない。「戊辰戦役幕軍之墓」は墓地内ではなく、寺門前にあった。
 ここに葬られている幕軍兵士の氏名は不詳である。自性寺のある下渋垂村でも二名の戦死者があったという。

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