史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「新選組 二千二百四十五日」 伊東成郎著 新潮文庫

2009年01月29日 | 書評
 私は決して新選組マニアというわけではないが、それでも鈴木三樹三郎、篠原泰之進加納鷲雄横倉甚五郎斎藤一諾斎松本捨助中島登といったマイナーな新選組隊士の墓を訪ねた。先日も芹澤鴨の生家跡を訪問したところである。生半可な新選組マニアよりマニア度は高いのではないかと自負している。同じ著者の「幕末維新秘史」と並行して読んだが、やはり伊東成郎氏の本領は、新選組にある。新選組のシンボルというべき「だんだら羽織」が着用されていたのは限られた時期だけだったこと、有名な局中法度が策定されたのはかなり後期(慶應年間)ではないかという見解、更には芹澤鴨が暗殺されたのは墓に彫られている九月十八日ではなくて十六日という推定…。いずれもどうでも良いことかもしれないが、新選組マニアを唸らせるには十分な内容である。
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「幕末維新秘史」 伊東成郎著 新潮文庫

2009年01月29日 | 書評
 新選組研究家として知られる伊東成郎氏の書き下ろし。四十七編の秘史が紹介されている。ただ残念なことに一編一編が短く奥行きに欠ける。それに秘史と言い切るほど、私の琴線に触れる話はそれほど多くない。その中で興味をひいたのは、坂本龍馬暗殺の実行犯、見廻組今井信郎の証言を追った小編である。伊東氏によると、今井信郎は生涯複数の証言を残している。その最初は明治三年(1870)、最後はそれから三十年を経た明治三十三年(1900)のことである。初期の証言では、今井自身は階下で待機していたことになっているのに対し、晩年の証言では直接現場で手を下したことに変化しているという。恐らく明治初年の段階ではとても本当のことを世間に明かせる状況ではなかったのであろう。
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行田

2009年01月25日 | 埼玉県
(忍城址)

 忍城は、文明年間初期(15世紀後半)に成田氏によって築城された。戦国時代には、豊臣秀吉の命を受けた石田三成が水攻めによって忍城を攻め落とそうとしたが、攻略できなかった。以来、「忍の浮き城」と称されるようになった。その後、徳川家康の関東入国に伴い、家康の四男忠康(のちの忠吉)が入城し、城主は松平氏、阿部氏と引き継がれた。文政六年(1823)桑名から松平氏が移り、明治維新まで続いた。忍藩主となった松平氏は、家康の娘亀姫の子、松平忠明を祖とする家である。幕府への忠誠心は厚く、幕命に応じ、元治元年(1864)の天狗党の乱に際して、藩兵数百名を水戸、そして下総古河、常陸真壁まで送っている。しかし大政奉還以降、藩論が分裂し忍藩も迷走する。戊辰戦争前夜、大阪に派兵した忍藩は、そのまま鳥羽伏見の敗走兵に飲み込まれ、藩主忠誠以下辛うじて江戸まで帰還した。その後数カ月を経てようやく藩論は新政府に与することに決し、飯能における旧幕府軍の掃討戦、更に奥羽戦線にも参加した。


忍城三階櫓

 忍城は、明治に入って競売に付せられ、かつての面影は失われた。昭和六十二年(1987)に三階櫓が再建され、今も美しい姿を見せている。


水城公園

 水城公園は、忍城の外堀跡を利用して昭和三十九年(1964)に開園されたものである。本来、三階櫓はこの公園内(三の丸)にあったという。

(天祥寺)


天祥寺

 古墳というと九州や近畿地方の専売特許かと思われるが、意外にも関東にも広く分布している。殊にここ行田市埼玉には九つもの古墳が密集している。「さきたま古墳群を世界遺産に」とは、いささか行き過ぎの感が拭えないが、それにしても円墳、前方後円墳、大小とりどりの古墳が、狭い地域に存在している景色は異観である。さきたま古墳公園の中にある天祥寺は、忍藩主松平家の菩提寺である。古墳には目もくれずに、まっしぐらに天祥寺を目指した。
 JR行田駅の東口を出ると、観光案内所があって、そこで無料で自転車を貸してくれる。観光案内所の係の女性によると、「さきたま古墳公園まで自転車で三〇分くらい」というから、「まさかそんなにかかるまい」と高を括っていたが、実際にちょうど三〇分くらい要した。寒い日であったが、到着した頃には身体がほかほかとした。

墓地に入ると、直ぐに旧忍藩主松平家の墓が見つかった。左から十二代藩主松平忠誠(ただざね)、同十一代忠国(ただくに)、同九代忠尭(ただたか)の墓である。


旧忍藩主松平家の墓

 忠国は、天保十二年(1841)に家督を継いで以来、相次いで房総沿岸警備、品川台場警備を命じられた。文久三年(1863)に隠居して家督を忠誠に譲ったが、藩論が公武両派に分かれ対立したので、忠誠を補佐して政局を切り抜け、忍藩の安泰を図った。明治元年(1868)七月、五十四歳で逝去した。
 文久三年(1863)に藩主を継いだ忠誠は、京都警備を命じられ上洛。元治元年(1864)に江戸へ帰るや品川台場警備を命じられた。同年七月には天狗党鎮圧のため出兵した。慶応三年(1867)、大政奉還後の慶喜の警護のために急遽上洛した。大晦日に大阪城に入ったが、鳥羽伏見の戦闘に敗れた幕府軍とともに紀州に逃げて、海路江戸に帰った。慶応四年(1868)三月、新政府軍に帰順を表し、官軍を城に迎え入れた。翌年六月、三十歳の若さで世を去っている。

 以下、余談であるが、このさきたま古墳公園周辺が、埼玉県の名前の由来となった埼玉地区である。何故、県北辺に位置する、しかも知名度の低い埼玉が、県全体を代表する名称として通用することになったのだろうか。浦和でも大宮でも川口でも川越でも岩槻でも熊谷でもないというのは不思議と思いませんか。明治初年に藩から県が誕生する過程で、現埼玉県下の諸郡は合併分裂を繰り返した。どういうわけだか、その「トーナメント」で埼玉が勝ち残ったのである。これを研究するだけで結構な論文ができあがると思うのだが…。

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玉造

2009年01月24日 | 茨城県
(芹沢城址)


芹澤城址

霞ヶ浦大橋を渡ると行方市である。旧玉造町の芹沢は、あの芹澤鴨、平間重助の出身地である。もう廃線となった鹿島鉄道の玉造町駅前から伸びる道を、道なりに進むこと十分ほど。いきなり赤字に白抜きの「誠」の文字が目に飛び込んでくる。芹澤鴨と平間重助を生んだ土地である。
芹沢氏の祖は、南北朝時代まで遡る。当時、平竜太という名の豪族が相模国高座郡芹沢に所領を持ち、そこに館を構えたことから芹沢氏を称した。その子孫が常陸国に土着し、天文年間(1532~1554)に築城したのが芹澤城である。

(芹澤鴨生家)
芹沢氏は、徳川家の直参御家人、上席郷士として芹沢の屋敷に住した。現在も芹沢城址碑の近くに土蔵を備えた大きな屋敷がある。これが芹澤鴨の生家である。芹澤鴨は、芹澤貞幹の三男としてこの家に生まれた。幼名を玄太といった。
十五歳頃、尊王攘夷思想に共鳴し、水戸の天狗党の前身、天狗組に加わった。この頃、下村継次と名乗っていた。神道無念流の剣術を修め、免許皆伝、師範役の腕前だったという。
文久三年(1863)の浪士組結成に参加した以降の話はあまりに有名である。その年の九月、近藤勇一派の手により斬殺された。年齢は不詳、何かと謎の多い人物であるが、命を縮めたのは、やはり当人の相次ぐ乱行が祟ったのであろう。


芹澤鴨生家跡


平間重助の説明板

平間重助も同郷の芹澤鴨とともに新選組結成に参加した。芹澤鴨に剣術を学び、神道無念流目録の腕前という。結成間もない新選組では、副長助勤、勘定取締方、いわば経理部長として重きを成した。芹澤鴨が京都壬生の八木邸で暗殺されたとき、平間重助も同宿していたが難を逃れ、消息を絶った。最近になって重助が郷里に戻って、明治七年(1874)五十一歳で世を去ったということが明らかになっている。

(法眼寺)


法眼寺


芹沢家墓地

法眼寺には、芹沢家の墓がある。中央の墓の主、芹沢外記は芹澤鴨の父である。同じく法眼寺の境内には芹澤鴨と平間重助の顕彰碑が建っている。


新選組を創った男
芹澤鴨 平間重助 顕彰碑

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石岡

2009年01月24日 | 茨城県
(東耀寺)


東耀寺


鈴木忠良(鈴木三樹三郎) 婦人はな 墓

 JR石岡駅から歩いて行ける距離に東耀寺がある。本堂から聞こえる読経の声をBGMに、鈴木三樹三郎の墓を探した。鈴木三樹三郎は、伊東甲子太郎の実弟で、伊東とともに新選組に入隊し、一時九番組長を務めた。慶應三年(1867)三月、伊東が新選組を脱退して高台寺党(御陵衛士)結成すると、行動をともにした。所謂「油小路の変」で伊東甲子太郎は暗殺されるが、三樹三郎は乱闘を脱して薩摩藩邸に保護された。維新後は、鶴岡警察署長などに就いた。大正八年(1919)八十三歳にて死去。東耀寺本堂裏の墓には、維新後の姓名鈴木忠良が彫られている。


故 忠明鈴木君 川俣氏婦人 之墓

 同じ墓地に、伊東甲子太郎、鈴木三樹三郎の実父、鈴木忠明、母こよの墓がある。

(佐久良東雄生家)


佐久良東雄生家

 石岡市は、旧新治郡八郷町を吸収して随分と広大な町となった。旧八郷町の中心となる町が柿岡である。柿岡の東、浦須という集落に佐久良東雄の生家がある。佐久良東雄は、文化八年(1811)に当家に生まれ、九歳のとき近郷の下林の観音寺に入って万葉集研究家となった。二十五歳で土浦善應寺の住職となったが、この時期に藤田東湖ら多くの勤王志士と交わった。のちに大阪に出て和学を講じたが、桜田門外の変に加わった高橋多一郎父子を匿ったため捕えられ、獄中で食を絶って死んだ。四十九歳という。


史蹟 佐久良東雄舊宅

 茅葺の長屋門の前に「史蹟 佐久良東雄舊宅」の碑がたっている。佐久良東雄の本姓は飯島氏で、現在も旧宅は飯島氏所有となっている。建設時期は十八世紀中頃といい、長屋門、土蔵を備える屋敷は堂々たる風格を漂わせている。

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かすみがうら

2009年01月24日 | 茨城県
(志筑小学校)


かすみがうら市立志筑小学校

 「平成の大合併」により、霞ヶ浦町と千代田町が合併して「かすみがうら市」が誕生した。霞ヶ浦が千代田を吸収したような印象を与えないように配慮して敢えて平仮名を採用したのだろうが、第三者が見て奇異な印象は否めない。新しく誕生したかすみがうら市は随分と東西に細長い。無理にくっつけたのではないかと勘繰りたくなる。先ず新かすみがうら市の北西端に位置している志筑小学校を訪ねる。


志筑城址

 徳川幕府は、江戸周辺に弱小の大名、旗本を配置した。その結果、現在の地名でいうと、千葉県、埼玉県、それに茨城県南部には小さな藩が数多く割拠することとなった。志筑藩もそうした藩の一つである。現在、志筑小学校がある場所には、かつて志筑城が築かれていた。この城の歴史は古く鎌倉時代に遡る。一時期、廃城となっていたが、慶長七年(1603)佐竹氏の国替えに伴い、本堂氏が出羽国(秋田県千畑町)から移封され、当地の領主となってここに陣屋を置いた。
私が志筑藩の存在を知ったのは、新橋の会社の近くで大規模な道路工事が行われ、それに伴って発掘調査が行われたその場所が、江戸時代、志筑藩の屋敷跡であった。発掘調査の結果、古い食器が数点見つかっただけであるが、それでも大都会の真ん中に、このようなものが眠っていたというだけで十分刺激的である。その常陸志筑藩がどこにあるかを調べていて、志筑城に行き当たったのである。
 幕末、この小藩から新選組参謀のちに御陵衛士となった伊東甲子太郎と実弟、鈴木三樹三郎兄弟が出た。

(竹内百太郎生家)


竹内百太郎生家

 かすみがうら市の東端、霞ヶ浦湖畔に近い柏崎に、勤王の志士にして“天狗党三総裁”の一人、竹内百太郎の生家が残っている。武田耕雲斎や藤田小四郎もここを訪れたといわれる。
 竹内百太郎は、天保二年(1831)に常陸国安飾村に生まれ、嘉永七年(1854)に家督を継いだ。安政二年(1855)には小川郷校を監するに至った。元治元年(1864)三月、田丸稲之衛門らと筑波に挙兵し、その幕僚となった。終始、田丸と行動を共にし、慶応元年(1865)二月四日、敦賀にて斬罪に処された。年三十五であった。
 竹内百太郎の生家は、郷士の家格を伝える立派な門構えが目印である。すぐ近くに竹内家の墓所があり、そこに百太郎の顕彰墓もある。墓地に車を停めて、生家を訪ねようとすると、向いの散髪屋の女性に呼び止められた。墓地のではなくて、散髪屋の駐車場だったのである。慌てて自動車を近くの太宮神社に移動した。


贈従四位竹内百太郎君彰烈之碑


竹内百太郎碑


竹内家奥都城

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土浦

2009年01月24日 | 茨城県
(土浦城) 
今般、九年振りに茨城県に足を踏み入れ、土浦、かすみがうら市の柏崎、志筑、石岡、行方市の玉造の史跡を回ってきた。九年というと、都会では風景が一変してしまうに十分な時間であるが、ここに来ると時間が止まったかのような錯覚に陥る。短い時間であったが多くの史跡を楽しむことができた。


土浦城櫓門

まずは土浦城から。土浦城は現在、亀城公園として整備されている。亀城公園の南西、土浦一中の構内の一角に、藩校郁文館の正門が移築されている。


藩校郁文館正門

土浦藩の藩校郁文館は、寛政十一年(1799)七代藩主土屋英直のとき城内に開設されたものであるが、天保十年(1839)十代藩主土屋寅直が現在地に移設した。郁文館は、文館と武館に分かれていたため、文武館とも呼ばれ、有名な藤森弘安や剣客島田虎之助らが指導に当たった。

(善應寺)


善應寺

善應寺には、藩校郁文館で教鞭をとった木原老谷の墓もある。


荷亭木原府君之墓(老谷の墓)
手前は夫人の墓

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「彰義隊」 吉村昭著  新潮文庫

2009年01月17日 | 書評
 待望の文庫化である。新居浜出張の往復の車中で一気に読破した。
 私もこれまで輪王寺宮(のちの北白川能久親王)の足跡を追って、浅草東光院、市ヶ谷の自證院、仙台の仙岳院、更に白石城などを訪ねたが、今回「彰義隊」を読んで、これまで点でしかなかった輪王寺宮の潜伏地が、見事に全て線で繋がった。いつもながら吉村氏の緻密な追跡取材には感心するばかりである。
 「逃避行」の描写は、吉村氏の得意とするところである。「長英逃亡」「桜田門外の変」も「逃避行」を主題とした小説といえるかもしれない。輪王寺宮は、皇族でありながら、泥水に浸かり、医者に変装し、夜陰に紛れて必死の思いで江戸から脱出したのである。
 更には、板倉勝静、小笠原長行、松平定敬らが、奥羽の地に追われ、遂には榎本軍が抗戦する五稜郭まで逃避する姿も描く。老中や京都所司代といった幕府の重職を務めた大名たちが、五稜郭では何の役に立たず、厄介者扱いされていた。維新後の悲哀に満ちた人生は、決して表の歴史では語られることのない隠れた史実である。
 戊辰戦争で朝敵となった輪王寺宮は、生涯その不名誉に悩まされる。ようやく巡ってきた雪辱の機会が、台湾征討であった。しかし、宮はマラリヤに侵され、台南で不帰の人となる。この小説を完成させた吉村氏も、その後1年余りで帰らぬ人となった。

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「全一冊 小説 吉田松陰」 童門冬二著 集英社文庫

2009年01月15日 | 書評
 描く対象である人物にぞっこん惚れ込むというのが、童門冬二氏の主義なのかもしれない。童門氏自身もこの作品の中で、「単に松陰をエライ、エライと持ち上げるだけが能ではない。やはり松陰も人間だったと考えることも正しい評価につながるのではなかろうか」と書いているが、私が読んで感じた限り、「エライ、エライと持ち上げる」に終始しているという印象が強い。どなたかが松陰のことを「奇矯な校長先生」と評していたが、間違いなくそういう一面もあったと思う。手放しで松陰を絶賛する姿勢には違和感を覚えるのである。
 600ページを超える分厚い文庫本であり、その中で何度も同じエピソードが紹介されていたりして、やや「クドイ」という部分もあるが、吉田松陰ファンとしては堪えられない本であろう。松陰が撰文を書いた烈婦登波の碑を訪ねて、わざわざ豊北の滝部まで車を走らせた私である。この本でも登波のことを紹介しているのにはちょっと感動した。登波といい、高須久子といい、世間の常識に反するところがありながら、何か一つのことをやり通す女性が松陰の女性の好みだったのでは…という指摘は小説家らしい面白い着眼だと思った。

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高尾 Ⅱ

2009年01月12日 | 東京都
(桂福寺)


桂福寺鐘楼山門

 桂福寺は、高尾街道と滝山街道とが交わる戸吹町交差点の北西に位置している。八王子から青梅に自動車で通勤していたときは、毎日のようにこの横を往復していたのであるが、一度もこの寺に立ち寄ることはなかった。休日の午後、思い立って桂福寺を訪ねてみることにした。
 鮮やかな朱色が印象的な鐘楼山門は、八王子市の有形指定文化財に指定されている。山門を超えて本堂向かって左手の墓地入口に、屋根に覆われた三つの墓石がある。


天然理心流開祖近藤内蔵之助の墓(右)
同流二代 近藤三助の墓(左)
中央は昭和になって建てられた内蔵之助、三助を併記した墓である

 近藤三助は戸吹郷の出身で、この近在に道場を開いて天然理心流を広めた。戸吹のみならず、近郷から入門する者があとを絶たず、門下生は千五百人を超えたという。天然理心流は、近藤勇の養父三代目近藤周助に引き継がれた。そして天然理心流の名を全国に知らしめたのは、四代目新選組局長近藤勇を抜きには語れない。


天然理心流奉納額

 三つの墓石の背後には、天然理心流を受け継ぐ門人らが奉納した額が飾られている。細々とではあるが、現代にも天然理心流はこの多摩の地に受け継がれているのである。

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