(和歌山城つづき)
和歌山城追廻門
追廻門は、西から和歌山城に入る門で、大手門の反対側の搦手に位置する。門を出て道を隔てた外側に馬術を練習する「追廻」があったので、この名が付いた。元和五年(1619)、紀州徳川家初代頼宣の入国に際に建立されたといわれる。この門は和歌山城の鬼門にあたり、除災のため朱色に塗られている。
慶應二年(1866)、藩政改革のため津田出が登用されたが、翌年、保守派の反撃により津田は失脚し、急進改革派であった奥祐筆組頭の田中善蔵が追廻門で暗殺された。門外に田中善蔵の顕彰碑が建てられている。
盡忠之碑(田中善蔵顕彰碑)
田中善蔵肖像(川合小梅筆)
田中善蔵は、文政八年(1825)生まれ。名を元長といった。通称は善之助もしくは善蔵。号は雄泉。幼にして藩校に入り、仁井田南陽に史学、詩文を学んだ。嘉永年間、藩校の授読、儒員を経て奥祐筆。登用されて藩政に参与。諸藩の間を周旋した。藩政改革を断行する津田出の命を受け家禄削減の準備を進めるが、慶應三年(1867)十一月十二日、反対派の藩銃隊中隊長、堀田右馬允ら六人の襲撃を受け追廻門外で斃れた。四十三歳。
(大立寺)
大立寺
調べたところ、田中善蔵の墓は市内橋向丁の大立寺にあるという情報を得たので、墓地を歩き回った。田中家の墓は複数発見したのだが、善蔵の墓は特定できず。田中家の墓の中で一番広い墓域を持つものを参考として掲載しておく。
田中家之墓
(念誓寺)
念誓寺
念誓寺本堂は、新しく建て替えられたらしく、外観はまったく寺らしくない。窓から覗くと、内部もまるで教会のような内装である。
岩橋半三郎の墓がここにあるというので、探して歩いたが、見つけることができなかった。岩橋家の墓はあるにはあったが、ここに半三郎が葬られているかどうかは不明。
岩橋家之墓
岩橋半三郎は、和歌山藩士。父は里見理兵衛。和歌山藩儒岩橋柳窓(藤蔵)の養子となり、以後岩橋姓を名乗った。壮時、水戸に遊学して会沢正志斎の門に入り、帰国して藩校の教授となった。尊王攘夷の思想強く、しばしば藩主に建言したが用いられず。脱藩して江戸に出て里見二郎という変名を用いて諸侯の家に出入りして尊攘の大義を述べ、さらに京都に入って一橋、尾張の両家および和歌山藩主に上書したが容れられなかった。ついに長州に走り、元治元年(1864)、禁門の変に戦って敗れ、岡田栄吉を改めて、慶應二年(1866)八月、京都に入り、しばしば岩倉具視の幽居を訪い、朝権の回復に奔走したが、幕吏に捕えられ、間もなく獄中にて殺された。
(妙宣寺)
妙宣寺
妙宣寺に川合小梅、川合梅所、川合春川三人の墓が並べて置かれている。
春川先生墓(右)
梅所川合先生墓(中)
川合小梅墓(左)
川合春川(大平)は、美濃国高須の生まれ。京都遊学ののち、紀州徳川第十代藩主治宝公に迎えられ、都講(校長)として藩の教育に絶大な貢献があった。
川合梅所(豹蔵)は漢学者で、紀州藩御留守居物頭格として御学問相手役として迎えられた。
川合小梅は春川の孫にして、梅所の妻。漢学を祖父春川に学び、和歌を母辰子(春川の娘で和歌を本居大平に学んだ)に学び、のち野呂分石の門人野際白雪に師事した。学長の妻として藩の教育を側面から助け、人物画・花鳥画を究め、羅浮洞仙と号した。天保九年(1838)から明治十八年(1885)まで書き綴った「小梅日記」は幕末から明治にかけての政治、経済、社会の裏面史を語る価値ある郷土史料とされている。明治二十二年(1889)、没。八十六歳。
(光明寺)
和歌山市塩屋二丁目の光明寺に横井鉄叟の墓を訪ねた。しかし、残念ながら発見できず。
横井鉄叟は和歌山藩士。西郷元熈の三男。名は時敏。通称は次太夫、泉三郎、のちに鉄叟と称した。天保十四年(1843)、横井氏を継ぎ、禄二百石。大番、大番組頭。幕末の風雲に会し、激情やみがたく脱藩。公武の間を周旋し国事に奔走した。土佐の吉村寅太郎、板垣退助、長州の木戸孝允、薩摩の大久保利通、肥後の宮部鼎蔵、轟武兵衛らと交遊。元治元年(1864)、和歌山藩留守居、屋敷奉行を命じられ、公武機密の内命を受けた。以来、京、江戸を転々とした。東海道鎮撫総督に随従して、その後も和歌山藩公用人、公用局判事を歴任したが、致仕して悠々自適の生活を送った。明治四十年(1907)九月、没。八十一歳。
光明寺
(法福寺)
北畠道龍は法福寺の出身であり、ここに墓がある。
法福寺
大間院道龍大?(北畠道龍の墓)
北畠道龍は、文政三年(1820)の生まれ。南北朝の北畠親房の末裔という。法福寺北畠大法の長男。幼名は宮内、循教。道龍は号。幼少から仏典、武技を学び、剣、槍、柔術とも免許皆伝。軀幹偉大。弟に寺を譲り諸国を巡歴した。王政復古の機運を知ると、帰国して宝福寺に日本体育共和軍隊を組織し、天誅組鎮圧をはじめ征長にも参戦した。明治二年(1869)、藩主徳川茂承から執政津田出の参謀を命じられ、藩政改革に挺身する津田の身辺警固に当たった。のち監軍、大隊長。徴兵使となり全国最初の徴兵検査を実施した。維新後、新政府から少将、元老院議官に補せられたが辞退。京都東山でドイツ人ヨンゲルからドイツ語、理学、天文、地理、精神学を学び、明治九年(1876)、東京に北畠構法学舎のちに明治法律学校(明治大学の前身)を創立した。本願寺門主明如の委任を受け、本願寺改革に取り組んだが、長州閥に阻まれて成らず、痛憤。欧州に赴き、帰途インドに釈迦の聖地を訪ね、墓前に「日本開闢以来余始詣于釋尊之墓前 道龍」という碑を建てて帰国した。明治四十年(1907)十月、大阪北区綱島町に没した。八十歳。
和歌山城追廻門
追廻門は、西から和歌山城に入る門で、大手門の反対側の搦手に位置する。門を出て道を隔てた外側に馬術を練習する「追廻」があったので、この名が付いた。元和五年(1619)、紀州徳川家初代頼宣の入国に際に建立されたといわれる。この門は和歌山城の鬼門にあたり、除災のため朱色に塗られている。
慶應二年(1866)、藩政改革のため津田出が登用されたが、翌年、保守派の反撃により津田は失脚し、急進改革派であった奥祐筆組頭の田中善蔵が追廻門で暗殺された。門外に田中善蔵の顕彰碑が建てられている。
盡忠之碑(田中善蔵顕彰碑)
田中善蔵肖像(川合小梅筆)
田中善蔵は、文政八年(1825)生まれ。名を元長といった。通称は善之助もしくは善蔵。号は雄泉。幼にして藩校に入り、仁井田南陽に史学、詩文を学んだ。嘉永年間、藩校の授読、儒員を経て奥祐筆。登用されて藩政に参与。諸藩の間を周旋した。藩政改革を断行する津田出の命を受け家禄削減の準備を進めるが、慶應三年(1867)十一月十二日、反対派の藩銃隊中隊長、堀田右馬允ら六人の襲撃を受け追廻門外で斃れた。四十三歳。
(大立寺)
大立寺
調べたところ、田中善蔵の墓は市内橋向丁の大立寺にあるという情報を得たので、墓地を歩き回った。田中家の墓は複数発見したのだが、善蔵の墓は特定できず。田中家の墓の中で一番広い墓域を持つものを参考として掲載しておく。
田中家之墓
(念誓寺)
念誓寺
念誓寺本堂は、新しく建て替えられたらしく、外観はまったく寺らしくない。窓から覗くと、内部もまるで教会のような内装である。
岩橋半三郎の墓がここにあるというので、探して歩いたが、見つけることができなかった。岩橋家の墓はあるにはあったが、ここに半三郎が葬られているかどうかは不明。
岩橋家之墓
岩橋半三郎は、和歌山藩士。父は里見理兵衛。和歌山藩儒岩橋柳窓(藤蔵)の養子となり、以後岩橋姓を名乗った。壮時、水戸に遊学して会沢正志斎の門に入り、帰国して藩校の教授となった。尊王攘夷の思想強く、しばしば藩主に建言したが用いられず。脱藩して江戸に出て里見二郎という変名を用いて諸侯の家に出入りして尊攘の大義を述べ、さらに京都に入って一橋、尾張の両家および和歌山藩主に上書したが容れられなかった。ついに長州に走り、元治元年(1864)、禁門の変に戦って敗れ、岡田栄吉を改めて、慶應二年(1866)八月、京都に入り、しばしば岩倉具視の幽居を訪い、朝権の回復に奔走したが、幕吏に捕えられ、間もなく獄中にて殺された。
(妙宣寺)
妙宣寺
妙宣寺に川合小梅、川合梅所、川合春川三人の墓が並べて置かれている。
春川先生墓(右)
梅所川合先生墓(中)
川合小梅墓(左)
川合春川(大平)は、美濃国高須の生まれ。京都遊学ののち、紀州徳川第十代藩主治宝公に迎えられ、都講(校長)として藩の教育に絶大な貢献があった。
川合梅所(豹蔵)は漢学者で、紀州藩御留守居物頭格として御学問相手役として迎えられた。
川合小梅は春川の孫にして、梅所の妻。漢学を祖父春川に学び、和歌を母辰子(春川の娘で和歌を本居大平に学んだ)に学び、のち野呂分石の門人野際白雪に師事した。学長の妻として藩の教育を側面から助け、人物画・花鳥画を究め、羅浮洞仙と号した。天保九年(1838)から明治十八年(1885)まで書き綴った「小梅日記」は幕末から明治にかけての政治、経済、社会の裏面史を語る価値ある郷土史料とされている。明治二十二年(1889)、没。八十六歳。
(光明寺)
和歌山市塩屋二丁目の光明寺に横井鉄叟の墓を訪ねた。しかし、残念ながら発見できず。
横井鉄叟は和歌山藩士。西郷元熈の三男。名は時敏。通称は次太夫、泉三郎、のちに鉄叟と称した。天保十四年(1843)、横井氏を継ぎ、禄二百石。大番、大番組頭。幕末の風雲に会し、激情やみがたく脱藩。公武の間を周旋し国事に奔走した。土佐の吉村寅太郎、板垣退助、長州の木戸孝允、薩摩の大久保利通、肥後の宮部鼎蔵、轟武兵衛らと交遊。元治元年(1864)、和歌山藩留守居、屋敷奉行を命じられ、公武機密の内命を受けた。以来、京、江戸を転々とした。東海道鎮撫総督に随従して、その後も和歌山藩公用人、公用局判事を歴任したが、致仕して悠々自適の生活を送った。明治四十年(1907)九月、没。八十一歳。
光明寺
(法福寺)
北畠道龍は法福寺の出身であり、ここに墓がある。
法福寺
大間院道龍大?(北畠道龍の墓)
北畠道龍は、文政三年(1820)の生まれ。南北朝の北畠親房の末裔という。法福寺北畠大法の長男。幼名は宮内、循教。道龍は号。幼少から仏典、武技を学び、剣、槍、柔術とも免許皆伝。軀幹偉大。弟に寺を譲り諸国を巡歴した。王政復古の機運を知ると、帰国して宝福寺に日本体育共和軍隊を組織し、天誅組鎮圧をはじめ征長にも参戦した。明治二年(1869)、藩主徳川茂承から執政津田出の参謀を命じられ、藩政改革に挺身する津田の身辺警固に当たった。のち監軍、大隊長。徴兵使となり全国最初の徴兵検査を実施した。維新後、新政府から少将、元老院議官に補せられたが辞退。京都東山でドイツ人ヨンゲルからドイツ語、理学、天文、地理、精神学を学び、明治九年(1876)、東京に北畠構法学舎のちに明治法律学校(明治大学の前身)を創立した。本願寺門主明如の委任を受け、本願寺改革に取り組んだが、長州閥に阻まれて成らず、痛憤。欧州に赴き、帰途インドに釈迦の聖地を訪ね、墓前に「日本開闢以来余始詣于釋尊之墓前 道龍」という碑を建てて帰国した。明治四十年(1907)十月、大阪北区綱島町に没した。八十歳。