史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

和歌山 Ⅳ

2018年06月23日 | 和歌山県
(和歌山城つづき)


和歌山城追廻門

 追廻門は、西から和歌山城に入る門で、大手門の反対側の搦手に位置する。門を出て道を隔てた外側に馬術を練習する「追廻」があったので、この名が付いた。元和五年(1619)、紀州徳川家初代頼宣の入国に際に建立されたといわれる。この門は和歌山城の鬼門にあたり、除災のため朱色に塗られている。
 慶應二年(1866)、藩政改革のため津田出が登用されたが、翌年、保守派の反撃により津田は失脚し、急進改革派であった奥祐筆組頭の田中善蔵が追廻門で暗殺された。門外に田中善蔵の顕彰碑が建てられている。


盡忠之碑(田中善蔵顕彰碑)


田中善蔵肖像(川合小梅筆)

 田中善蔵は、文政八年(1825)生まれ。名を元長といった。通称は善之助もしくは善蔵。号は雄泉。幼にして藩校に入り、仁井田南陽に史学、詩文を学んだ。嘉永年間、藩校の授読、儒員を経て奥祐筆。登用されて藩政に参与。諸藩の間を周旋した。藩政改革を断行する津田出の命を受け家禄削減の準備を進めるが、慶應三年(1867)十一月十二日、反対派の藩銃隊中隊長、堀田右馬允ら六人の襲撃を受け追廻門外で斃れた。四十三歳。

(大立寺)


大立寺

 調べたところ、田中善蔵の墓は市内橋向丁の大立寺にあるという情報を得たので、墓地を歩き回った。田中家の墓は複数発見したのだが、善蔵の墓は特定できず。田中家の墓の中で一番広い墓域を持つものを参考として掲載しておく。


田中家之墓

(念誓寺)


念誓寺

 念誓寺本堂は、新しく建て替えられたらしく、外観はまったく寺らしくない。窓から覗くと、内部もまるで教会のような内装である。
 岩橋半三郎の墓がここにあるというので、探して歩いたが、見つけることができなかった。岩橋家の墓はあるにはあったが、ここに半三郎が葬られているかどうかは不明。


岩橋家之墓

 岩橋半三郎は、和歌山藩士。父は里見理兵衛。和歌山藩儒岩橋柳窓(藤蔵)の養子となり、以後岩橋姓を名乗った。壮時、水戸に遊学して会沢正志斎の門に入り、帰国して藩校の教授となった。尊王攘夷の思想強く、しばしば藩主に建言したが用いられず。脱藩して江戸に出て里見二郎という変名を用いて諸侯の家に出入りして尊攘の大義を述べ、さらに京都に入って一橋、尾張の両家および和歌山藩主に上書したが容れられなかった。ついに長州に走り、元治元年(1864)、禁門の変に戦って敗れ、岡田栄吉を改めて、慶應二年(1866)八月、京都に入り、しばしば岩倉具視の幽居を訪い、朝権の回復に奔走したが、幕吏に捕えられ、間もなく獄中にて殺された。

(妙宣寺)


妙宣寺

 妙宣寺に川合小梅、川合梅所、川合春川三人の墓が並べて置かれている。


春川先生墓(右)
梅所川合先生墓(中)
川合小梅墓(左)

 川合春川(大平)は、美濃国高須の生まれ。京都遊学ののち、紀州徳川第十代藩主治宝公に迎えられ、都講(校長)として藩の教育に絶大な貢献があった。
 川合梅所(豹蔵)は漢学者で、紀州藩御留守居物頭格として御学問相手役として迎えられた。
 川合小梅は春川の孫にして、梅所の妻。漢学を祖父春川に学び、和歌を母辰子(春川の娘で和歌を本居大平に学んだ)に学び、のち野呂分石の門人野際白雪に師事した。学長の妻として藩の教育を側面から助け、人物画・花鳥画を究め、羅浮洞仙と号した。天保九年(1838)から明治十八年(1885)まで書き綴った「小梅日記」は幕末から明治にかけての政治、経済、社会の裏面史を語る価値ある郷土史料とされている。明治二十二年(1889)、没。八十六歳。

(光明寺)
 和歌山市塩屋二丁目の光明寺に横井鉄叟の墓を訪ねた。しかし、残念ながら発見できず。

 横井鉄叟は和歌山藩士。西郷元熈の三男。名は時敏。通称は次太夫、泉三郎、のちに鉄叟と称した。天保十四年(1843)、横井氏を継ぎ、禄二百石。大番、大番組頭。幕末の風雲に会し、激情やみがたく脱藩。公武の間を周旋し国事に奔走した。土佐の吉村寅太郎、板垣退助、長州の木戸孝允、薩摩の大久保利通、肥後の宮部鼎蔵、轟武兵衛らと交遊。元治元年(1864)、和歌山藩留守居、屋敷奉行を命じられ、公武機密の内命を受けた。以来、京、江戸を転々とした。東海道鎮撫総督に随従して、その後も和歌山藩公用人、公用局判事を歴任したが、致仕して悠々自適の生活を送った。明治四十年(1907)九月、没。八十一歳。


光明寺

(法福寺)
 北畠道龍は法福寺の出身であり、ここに墓がある。


法福寺


大間院道龍大?(北畠道龍の墓)

 北畠道龍は、文政三年(1820)の生まれ。南北朝の北畠親房の末裔という。法福寺北畠大法の長男。幼名は宮内、循教。道龍は号。幼少から仏典、武技を学び、剣、槍、柔術とも免許皆伝。軀幹偉大。弟に寺を譲り諸国を巡歴した。王政復古の機運を知ると、帰国して宝福寺に日本体育共和軍隊を組織し、天誅組鎮圧をはじめ征長にも参戦した。明治二年(1869)、藩主徳川茂承から執政津田出の参謀を命じられ、藩政改革に挺身する津田の身辺警固に当たった。のち監軍、大隊長。徴兵使となり全国最初の徴兵検査を実施した。維新後、新政府から少将、元老院議官に補せられたが辞退。京都東山でドイツ人ヨンゲルからドイツ語、理学、天文、地理、精神学を学び、明治九年(1876)、東京に北畠構法学舎のちに明治法律学校(明治大学の前身)を創立した。本願寺門主明如の委任を受け、本願寺改革に取り組んだが、長州閥に阻まれて成らず、痛憤。欧州に赴き、帰途インドに釈迦の聖地を訪ね、墓前に「日本開闢以来余始詣于釋尊之墓前 道龍」という碑を建てて帰国した。明治四十年(1907)十月、大阪北区綱島町に没した。八十歳。

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広川

2018年06月23日 | 和歌山県
(広川町役場)
 広川町広は、濱口梧陵という偉人を生んだ街である。この街で梧陵の足跡を追ってみたい。
 広川町役場の前には、「稲むらの火」広場がある。主役はもちろん濱口梧陵である。


稲むらの火広場

 広はその地形により古来何度も津波の被害を受けてきた。特に宝永地震(1707)と安政南海地震(1854)の津波は、広に壊滅的な被害をもたらした。
 濱口梧陵は安政南海地震の折、ちょうど広に帰省していた。海が異常に引いているのを見て、大津波が襲ってくることを察知し、稲むらに火をつけて住民を高台に導いた。稲むらの火広場の像は、その様子を再現したものである(聖火リレーではありません)。

(湯浅広港)


湯浅広港


感恩碑

 広港に面して感恩碑が建てられている。
感恩碑は、往古の広村の歴史に触れながら、災害からこの村を守り、発展させてきた幾多の先人の遺徳をしのび、最後に濱口梧陵の偉業とその徳を讃えたものである。昭和八年(1933)の建碑。


広村堤防

 安政南海地震の津波被害を目のあたりにした濱口梧陵は、濱口吉右衛門と諮り、高さ五メートル、根幅二十メートル、天幅二メートル、延長六百メートルという大堤防を築いた。着工は安政二年(1855)で安政五年(1858)に完成をみた。堤防の築造に要した費用はざっと千六百両といわれる。現在価値にすれば大凡一億六千万円という巨額の投資を、梧陵は私財を投じてまかなったのである。
 この堤防のおかげで、広村は昭和二十一年(1946)の南海道地震の津波ではほとんど被害を受けなかった。

(耐久中学校)
 耐久中学校は、嘉永五年(1852)、濱口梧陵、濱口東江(吉右衛門)、岩崎明岳らによって剣術、漢学を教授する私塾広村稽古場として創設されたのが始まりで、その後耐久舎と改称されて、耐久高校、耐久中学の前身となった。
 現在、耐久中学校構内には再建された耐久舎が展示されている。


耐久中学校


耐久舎


広村堤防

 耐久中学校の正門の前まで広村堤防が伸びている。


濱口梧陵翁之像

 耐久中学校校庭には、濱口梧陵像が建てられている。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、濱口梧陵の業績を「生ける神」という物語にまとめて全世界に紹介した。まさにその呼び方に相応しい人物である。

(東濱口公園)
 東濱口公園は、東濱口家旧宅跡を公園化したもので、四季折々の木々を配置した日本庭園となっている。
 東濱口家は、初代濱口吉右衛門を祖とし、江戸で「廣屋」と称する醤油屋を営んでいた。江戸で商いをしながらも故郷広村への貢献を絶やさず、西濱口家の梧陵とともに広村堤防の築造を行うなど、広の復興に尽力した。


東濱口公園

 かつてこの場所には本宅、本座敷、三階棟などがあったが、安政蔵と呼ばれる蔵が残されている。


安政蔵

 安政蔵の柱には、安政南海地震の津波の高さを記録した文字が残されていて、それによれば海抜五・〇四メートルに及んだことが分かる。広村堤防が高さ六メートル超で設計された背景には、安政の津波高を参考にしたことが推定される。

(稲むらの火の館)
 稲むらの火の館は、平成十九年(2007)に濱口梧陵の生家跡に開館した施設で、濱口梧陵の偉業をしのぶ濱口梧陵記念館と、実戦的な地震・津波防災を学ぶ津波防災教育センターが併設されている。ここで濱口梧陵関係史跡の情報を仕入れてから、市内散策をスタートすると良いだろう。入場料五百円。


稲むらの火の館

 濱口梧陵記念館では、梧陵の生涯や功績をさまざまな資料やミニチュアの展示、映像を通して紹介している。梧陵は大久保利通や勝海舟らとも交流が深かったが、とりわけ勝海舟とは嘉永三年(1850)に知り合い、以来貧困にあえぐ海舟を経済的に支援した。記念館には勝海舟の書簡も展示されている。


築堤


濱口御陵関係の展示

(濱口御陵の墓)
 淡濃山の東南麓に濱口梧陵の墓がある。正面には「濱口梧陵之墓」、側面に「明治十八年四月廿一日 八代儀兵衛建」と刻まれている。
 維新後、梧陵は大久保利通の命を受けて駅逓頭に就任した。明治十二年(1879)には和歌山県議会初代議長に選任された。議長辞任後は、木国同友会を結成し、民主主義の普及活動を展開した。
 明治十八年(1885)、長年の宿願であった欧米の視察途中、ニューヨークで客死した。六十四歳であった。


濱口梧陵之墓

(広八幡神社)
 樹齢数百年といわれる檜が立ち並ぶ中に広八幡神社が鎮座している。室町時代創建の本殿、楼門など建造物六棟、棟札二十八枚、および鎌倉時代の短刀一口、計三十五点が国指定重要文化財に指定されている。


広八幡神社


梧陵濱口君碑

 境内には、濱口梧陵碑が建立されている。撰文と題額は勝海舟。建碑は明治二十六年(1893)四月。

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由良

2018年06月23日 | 和歌山県
(念興寺)


念興寺

 由良町の念興寺に、会津藩士阿部井留四郎、見廻組隊士土肥仲蔵の墓がある。


阿部井留四郎(右)・土肥仲蔵墓

 阿部井留四郎は会津藩士。浩之進の叔父。十石三人扶持。大砲臼井隊。慶応四年(1868)一月五日、鳥羽にて負傷。紀州由良にて死亡。二十八歳。
 土肥仲蔵は見廻組並。慶應四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦争で負傷。同月十一日、由良町念興寺にて自刃した。坂本龍馬暗殺現場にいて、見張りをしていたといわれる人物である。

(光専寺)


光専寺


皆川守之助墓


 光専寺には会津藩士皆川守之助の墓がある。皆川守之助は内藤介右衛門隊。慶応四年(1868)一月、鳥羽伏見の戦争で負傷。同月十八日、死亡。二十八歳。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載なし。

(興国寺)


興国寺

 興国寺は、葛山五郎景倫(かげとも)は鎌倉幕府三代将軍源実朝の菩提を弔うために、安貞元年(1227)に真言宗西方寺として建立されたのが端緒である。その後、興国元年(1340)に後村上天皇から興国寺の号を賜った。天正十三年(1585)、羽柴秀吉の紀州攻めで堂塔の大半を焼失したが、紀州藩浅野家、徳川家代々の庇護のもと復興された。


由良家歴世之墓(由良守応の墓)


由良守應翁顕彰碑

 参道の右手に由良守応(もりふさ)の顕彰碑と墓がある。
 由良守応は、文政十年(1827)、門前町に生まれた。由良弥太次と称し、号は義渓といった。幕末には志士として活躍。維新後は明治政府に仕えて、後藤象二郎、陸奥宗光らと親交をもった。明治四年(1871)の岩倉使節団に随行して先進文化を吸収し、帰国後、東京で二階建て乗り合い場所「千里軒」を営業し、文明開化の先駆的な事業を手掛けた。明治二十七年(1894)三月、六十七歳で逝去。

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日高川

2018年06月23日 | 和歌山県
(鷲の川大滝)
 日高川町の田尻という集落から鷲の川に沿って細い道が通じている。あまりに細い道なので、このまま行っても何もないのではないかと不安になり、引き返せなくなる前に元の道に戻った。しかし、地図を確認した限り、間違っていないので、再度同じ道を遡ると、突き当りにアマゴ釣り場があって、この日は連休中ということもあって、大勢の家族連れで賑わっていた。辛うじて駐車スペースを見つけて自動車を乗り捨てると、そこからは歩いて鷲の川大滝を目指す。


鷲の川大滝

 鷲の川大滝の前には小さな祠があり、その前に加納諸平の歌碑が置かれている。この石碑を訪ねるために、遥々とここまで運転してきたのである。


鷲の川大滝


加納諸平歌碑


 加納諸平の歌。

 あら鷲の雨雲はぶく風早み
 岩きる瀧の音どよむなり


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田辺

2018年06月23日 | 和歌山県
(錦水神社)
 龍神から田辺までは距離にして五〇キロメートル余りあるが、道は平坦で走りやすい。「くねくね度」でいえばはるかに十津川から龍神への四○キロメートルの方が上回る。一時間強で田辺市街地に至る。
 田辺は、田辺城を中心とした城下町である。田辺城は関ケ原の合戦後、紀伊国に入国した浅野幸長の執政浅野左衛門佐氏重によって、慶長十一年(1606)、築城された。
 その後、元和五年(1619)、紀州藩主徳川頼宣の附家老・安藤帯刀直次が田辺領主に任じられたが、直次は紀州藩の重臣として和歌山城下に常駐していたため、田辺城には直次の従弟安藤小兵衛が留守居役として置かれ代々城代家老を務めた。
 明治三年(1870)、田辺城は廃城となり、城郭の多くは姿を消してしまった。数少ない遺構の一つが、水門跡である。水門跡には、錦水神社が建てられて、往時そのままの埋門型の水門とそれに続く石垣を見ることができる。


錦水神社


田辺城水門

(カトリック紀伊田辺教会)


扇ケ浜台場跡

 カトリック紀伊田辺教会の場所周辺に、かつて扇ヶ浜台場が築造されていた。扇ヶ浜台場は、嘉永五年(1852)に築造された台場である。
 往時の面影を確認するのは極めて困難であるが、少し土が盛り上がっているのが台場の名残かもしれない。

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龍神

2018年06月23日 | 和歌山県
(天誅倉)
 十津川から龍神までの国道は、カーブが連続する片側一車線の山道である。距離にして四〇キロメートル余り、走行時間は一時間以上。その間、ずっとカーナビの「急ハンドルを検知しました。安全運転をこころがけてください」というアナウンスが途切れることがなかった。


天誅倉

 天誅倉と呼ばれる小さな小屋は、文久三年(1863)、天誅組の水郡善之祐を首領とする河内勢八名が、再挙を図るため十津川から紀州藩領小又川まで逃れてきたが、里人から警備の堅固さを知らされ、脱出不可能を悟った彼らが自首した後、幽閉されたものである。この倉は百姓喜助の所有であった。
 水郡善之祐は、倉の柱に
「皇国のためにぞつくす真心は神や知るらん知る人ぞ知る」と辞世の句を刻んだ。
 天誅倉は、昭和三十九年(1964)の大雨で倒壊してしまい、その後復元したものである。

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高野山

2012年10月21日 | 和歌山県
 高野山という独立した山があるわけではなく、この辺りの標高千メートル級の山々の総称なのだそうだ。金剛峯寺や奥の院、それに多くの宿坊が並ぶ盆地は、標高にして約八百メートル。

(最後の仇討の現場)
 「和歌山県の歴史散歩」(山川出版社)には、地図付で「最後の仇討ち」の場所を示しているが、これだけを頼りに現地に行き着くのは、かなり無謀であった。私はそれらしい場所を半時間ほど歩き回ったが、尋ねようにも人の姿がない。神谷町西郷という集落は、ほとんど人の気配がなく、ゴーストタウンのようであった。仕方なく一旦紀伊神谷駅まで戻って駅員さんに尋ねることにした。駅員さんは、大変申し訳なさそうに「最近、着任したばかりで、この辺りのことは全然分からないんです」という。再び駅を離れて山の中を歩き回って一時間、ようやく現場を発見した。九度山方面から神谷町西郷という集落の入り口を逆進、つまり九度山方面に四~五百メートル戻ると、村上兄弟に討ち取られた七人の墓がある。


日本最後の仇討墓所


殉難七士の墓

 殉難七士の墓からさらに九度山方面に五百メートル進むと、『日本最後の「高野の仇討ち」』の説明板が立てられている。仇討ちがあったのは、明治四年(1871)二月三十日のことであった。


日本最後の「高野の仇討ち」

 仇討ちの発端は、文久二年(1862)師走まで遡る。赤穂藩家老森主税、用人村上真輔が、勤王派の足軽十三人によって暗殺された(文久事件と称される)。当時といえども私闘はご法度であり、まして藩の重役を暗殺するという行為は本来大罪であるが、時の勢いというべきか、襲撃した連中は赦された一方で、村上一族は閉門、追放という厳しい処分を受けた。この背後には藩内の勢力争いがあったものと思われる。
 明治元年(1868)、村上家の再興が認められると、村上真輔の遺子は、仇討ちの意思を固めた。これを察知した藩では、藩の墓所である高野山釈迦文院の墓守に彼らを任じた。この動きを知った村上方は、先回りして待ち伏せし、この地で激しい斬り合いとなった。敵方を討ち果たした村上方は、すぐさま五條県庁に自首した。この事件が直接の契機となって、明治新政府が明治六年(1873)二月、仇討ち禁止令を発したため、「最後の仇討ち」と呼ばれることになった。

 実は、私は高野山の仇討ちも含めると、「最後の仇討ち」の現場を三つ回ってきた。一つは、大阪府と和歌山県の県境、土佐藩士広井磐之助によるもの。これは、文久三年(1863)のことなので、「最後」と称するのはちょっと無理があるように思う。もう一つは、暗殺された金沢藩執政本多政均の仇を討った事件で、こちらは明治四年(1871)十二月のことで、時期としては高野山事件より後である。

 それにしても日本人は仇討ちが好きな民族である。古くは「日本書紀」にも仇討ちの記述があるらしい。言うなれば千五百年以上の歴史があるわけである。仇討ちは、江戸時代に入って幕府によって「法制化」され、届出、許可が必要とされた。討つ方は、家族も生活も擲って相手を探し、討ち果たしても生きながらえることは望めなかった。徹底した自己犠牲、無償の行為が日本人の琴線に触れるのだろう。他国のことはよく存じ上げないが、ここまで仇討ち行為がもてはやされるのは我が国だけではないか。しかし、明治六年(1873)の禁止令以降、同じ行為であっても、殺人とされることになってしまったのである。

 「最後の仇討ち」の現場を離れ、次はいよいよ世界遺産にも登録されている高野山である。南海高野山線は、本数も少ないので、ここから終点の極楽橋まで歩くことにした。「一駅だけだから」と甘く見たのが間違いのもとであった。本来、目指していたのはケーブルカーの発着する極楽橋駅であったが、分岐点に気付かず、結果的に高野山に直接向かうことになってしまった。途中で、距離表示もなく、いったいどれくらいの距離だか分からないが、たっぷり二時間、炎天下の上り坂を歩くことになってしまった。そばを通り過ぎる自動車からは、単にハイキング好きの中年にしか見えなかったかもしれないが、もともと私はハイキングや登山といった趣味は持たないし、よく見てもらえばスラックスにビジネス・シューズという、およそ山登りには相応しくない格好であった。途中で飲み物はなくなってしまうし、両脚が激しく攣ってしまうし、全く想定外の難行を強いられた。高野山で史跡巡りを計画される方には、くれぐれも自力で歩こうなどと考えないように、忠告しておきたい。

 突然、山の中に高野山の街が出現する。ここまで来れば、かなりの頻度でバスが走っているので、街の中はバスでの移動がお勧めである。

(釈迦文院)


釈迦文院

 高野山の仇討ちで殺された七名が目指していた高野山の釈迦文院である。現在も、この寺では、七名の菩提を弔っている。

(奥ノ院)


奥ノ院

 奥ノ院に至る参道の両側には、苔むした無数の墓碑が立ち並んでいる。その数、二十万とも三十万とも言われる。都内最大の霊園である青山霊園でも十一万基というから、その数は圧倒的である。まず目に付くには大名家の墓である。筑前黒田家、伊予久松家、姫路酒井家、紀州徳川家など、全国各地の大名家の墓がここに集まっている。また、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀、石田三成、武田勝頼、上杉謙信といった戦国武将の墓も、敵味方関係なく建てられている。なお、高野山の墓は、基本的には供養墓であって、ここに遺体や骨を収めた墓は少ない。


大名家の墓(筑前黒田家)


仙陵

 奥の院の一番奥、弘法大師の墓所である御廟の手前にある仙陵は、霊元天皇から孝明天皇までの九代の天皇(ただし、東山天皇を除く)と皇族の供養塔である。

 事前に調べたところ、幕末関係者では、陸奥宗光、新門辰五郎らの墓があるらしいが、何のあても無く、この広い墓地を探し回るのは無茶である。何よりもここに至るまでの「登山」で疲弊していた私には、気力、体力とも残っていなかった。探し当てられたのは、黒田長溥と井伊直弼の供養墓のみであった。


従二位勲三等黒田長溥公墓


井伊直弼供養塔

 山深い高野山に、慶応四年(1868)幕末の騒擾が及んだことが一度だけあった。高野山挙兵と呼ばれる事件である。この痕跡が何か残されていないか探してみたが、残念ながらそれらしいものは発見できなかった。高野山における挙兵に参加した田中光顕の回顧録「維新風雲回顧録」には、金光院に本陣が置かれたと記載されているが、その金光院という寺も見つけられなかった。高野山は、明治に入ってから大火に遭い、それを機に寺院の統廃合が進んで、明治二十四年(1891)には百三十ヵ寺に減少した。現在、名跡を持つ寺の数は百十八という。長い歴史の中で、金光院も消え去ってしまったのかもしれない。

 帰路はバスでケーブルカーの高野山駅へ移動し、そこから南海特急「こうや」に乗り継ぐという極めて標準的なルートを採用した。往路の苦労が何だったかというほど呆気なく大阪市内に戻ってきた。


南海電車特急「こうや」

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九度山

2012年10月21日 | 和歌山県
(中屋旅館)
 一年振りに高槻の実家に帰省することになった。せっかくなので、この機に高野山を攻めることにした。
 父に「明日は、高野山に行く」と告げたところ、「昔、九度山までは連れて行ったことがある」という。聞けば、まだ私が小学生の頃、九度山に柿狩りに行ったらしい。微かに記憶が蘇った。
 今も富有柿は九度山の名産である。南海九度山駅の周辺には、柿畑が広がっている。

 今日のテーマは、「日本最後の仇討ち」である。明治四年(1871)二月、この地で赤穂藩士による仇討ちが実行された。元禄時代の赤穂浪士の討ち入りは有名であるが、赤穂藩は余程仇討ちと縁があるらしく、明治に入って“二回目”を経験することになった。ただし、討ち入りのときの藩主は浅野氏だったのに対し、明治初年の赤穂藩主は森氏に代わっている。


南海高野山線高野下駅

 朝七時に実家を出て、新今宮で南海高野山線に乗り換える。橋本駅から先は単線で、急な上り坂となる。まず、高野下駅で下車する。ここから河根(かね)集落まで歩いて三十五分ほど。事前に調べたところでは二十分ほどと推定していたが、とてもとても私の脚では二十分では無理であった。往復で軽く一時間以上は見ておいた方が良い。


元本陣 中屋旅館

 河根は古い宿場町である。旧街道に面して元本陣中屋旅館の表門が建っている。
 邸内には上段の間が往時のまま、保存されている。明治四年(1871)二月二十九日、赤穂藩士村上兄弟らは、仇討ちを翌日に控え、夜遅くまで中屋旅館の上段の間の書院で密談を交わしたと伝えられる。

 今も河根には旧街道(東高野街道)が通じており、その気になれば高野山まで自力で登ることも可能である。もちろん、その気のない私は迷うことになく、高野下駅まで引き返した。


千石橋からの眺め

 千石橋は、寛永十一年(1634)に幕府によってかけられた橋で、修理費として千石が支給されたことに因んで、この名が付いた。現在の橋はかけかえられたものである。

 河根まで往復して高野下駅まで帰り着いた時には、汗が吹き出して止まらない。電車の冷房が心地よかった。次の下車駅は、仇討ちが実行された紀伊神谷である。

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海南

2011年01月15日 | 和歌山県
(長保寺)
 海南市の長保寺は、紀州徳川家の墓所である。朝七時に高槻の実家を出て、長保寺大門前に八時半過ぎに到着した。そこへ一人の老人が現れ、「九時になったら拝観料三百円を取られるけど、それまでに見ればタダだよ」と教えてくれた。国宝に指定されている本堂と多宝塔は、いずれも鎌倉期の建造である。本堂と多宝塔を見学したあと、紀州徳川家廟堂へ向かうと鍵がかかっていて入ることができない。結局、九時に受け付けの方が現れるまで待つことにした。しかし、九時十分まで待ったが、誰も来なかった。紀州徳川家の墓所が、普段から非公開なのか、たまたまこの日は年末で休業日だったのか、それすら分からないまま撤収することになった。紀州徳川家の墓所は、別の機会に再挑戦することにしたい。


長保寺 本堂と多宝塔

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和歌山 加太

2011年01月15日 | 和歌山県
(加太砲台跡)
 淡路島の由良から友ヶ島を経て加太に至るラインは、古くから大阪湾の防衛にとって要地であった。軍艦奉行勝海舟が和歌山に派遣されたのも、加太に砲台を築くためであった。維新後も加太の重要性に変わりはなく、明治二十年代から加太、友ヶ島、由良は要塞化され、第二次大戦まで使用された。


加太砲台跡 弾薬室

 大砲は撤去されているが、砲台跡、トンネル状の通路、地下の弾薬室などがほとんど往時のまま残されている。


トンネル


友ヶ島

 友ヶ島は、地ノ島(写真手前)、鬼島、沖ノ島、神島から成る。その向こうに淡路島が霞んで見える。

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