明治十四年の政変というと、大隈重信が急進的な議会開設を建白し、それがために政権から追い落とされた…という極めて単純な理解をしていた。本書を読むと、この政変はそれほど単純なものではなく、北海道開拓使の廃止と官有物の払い下げ、西南戦争以降のインフレに対し薩摩グループの推進する積極的財政派と松方正義や井上馨らが主張する緊縮財政派の対立、民間では自由民権派が早期の議会開設を強硬に主張し、元田永孚や佐々木高行ら宮中グループも天皇親政を企図して密かに機会を伺っていた。
こうした複雑な情勢を本書ではまるで絡まった糸を解くようにして目の前に提示する。その中で、伊藤博文が主導権を握っていく様子を分かり易く描いた。この政変の一つの帰結は、大久保利通亡きあと伊藤博文が実権を手にすることである。その内幕は ――― 伊藤が思い描いたシナリオのとおり進んだのかは分からないながら ――― 一遍の政治ドラマを見るが如くである。
伊藤博文は、藩閥政府を強固なものにするため、薩摩グループへ近づいた。現実的政治家である伊藤にとって、多少譲歩をしてでもこの時点では藩閥を基礎とした政権を維持することが必須であった。
明治十四年(1881)の時点で四十三歳であった大隈重信は、薩長出身者が参議を独占する藩閥政府にあって藩の背景を持たない稀有な存在であった。つまり実績と実力でこの座をつかみ取ったのである。積極財政を推し進める薩摩グループにとっても積極財政主義の大隈との連携は肝要であったし、保守的な宮中グループに対抗するためにも伊藤、井上馨ら長州閥にとっても開明的な大隈の存在は重要であった。
本書によれば、明治十三年(1880)は、「国会年」とされている。在野では同年三月、国会期成同盟第一回大会が開催され、これを危険視した明治政府は集会条例を公布、即日施行して取り締まりを強化した。明治政府の参議では、明治十二年(1879)十二月に山県有朋が意見書を提出したのが先駆けとなった。翌年二月には黒田清隆が立憲政体に関する意見書を提出したが、議会開設は時期尚早とするものであった。議会開設に消極的な黒田であっても、議会開設を否定しているわけではない。
続いて山田顕義、井上馨が意見書を提出。負けじと宮中グループの佐々木高行、元田永孚も建白書を提出した。宮中グループは元老院の憲法草案を採用するよう求めた。元老院の提案は、薩長藩閥に抵抗し、自由民権グループにも与さない独自のものであった。
明治十三年(1880)十二月には、伊藤博文が意見書を出している。元老院を強化し、「王室の輔翼」とし、将来の下院(民選議員)に備えようという主張であった。
こうした中で大隈は明治十四年(1881)三月、立憲政体に関する意見書を提出した。大隈の意見書はイギリス流の議員内閣制を主張するもので、執筆者は大隈のブレーンと呼ばれた矢野文雄である。
大隈は意見書を密奏という形で提出した。つまり左大臣有栖川宮限りとし、三条実美や岩倉にも見せないで欲しいと願い出たのである。これが伊藤博文らの不信感を買い、後の政変の遠因となった。大隈の真意はともかく、薩長出身の参議の間に「大隈が薩長藩閥政府を打倒しようという陰謀を秘めているのではないか」と邪推を生むことになったのである。しかも大隈の意見書は福沢諭吉の門下の手になる私擬憲法案と酷似したものであった。大隈の背後に福沢がいるのではないか、との政府内の不信感につながるものであった。
伊藤博文が、大隈が意見書を提出したことを知ったのは、三か月後の同年六月頃のことと言われている。筆者によれば、右大臣岩倉具視にしても、大隈の意見書の内容を知ったのは、同年五月のことという。岩倉は伊藤との議会に対する構想の違いに懸念をもった。その背後には、井上毅の存在があった。
筆者は井上毅を明治十四年の政変のフィクサーと評している。井上毅は肥後藩の出身でありながら、終始薩長藩閥政府を支持する立場をとった。大隈や福沢が主張するイギリス流の議員内閣制度は、議会政治の歴史もなく、政党の存在しない日本には時期尚早であり、在野には参議や省卿を担える人材もいない実情に合わないというのである。井上毅はドイツ流の立憲君主制の採用を訴えた。
その立場から井上毅は強烈に大隈を批判し、それを岩倉に説いた。岩倉が大隈の意見書に危機感を抱くようになった背後には井上毅の暗躍があったのである。
伊藤は大隈の意見書に「驚愕」し、出し抜けに上奏したことは「不都合千万」と怒りを露わにし、三条実美には「辞任」までほのめかした。伊藤の憤怒を知った大隈は直ちに伊藤を訪ねひたすら謝罪した。伊藤の怒りもひとまず収まり、このまま推移すれば「政変」は起きなかったかもしれない。
そこで表面化したのが開拓使官有物の払い下げ事件であった。新聞メディアは挙って薩長藩閥を批判し、大隈を英雄視した。筆者によれば「西南戦争の際の西郷隆盛のようだった」という。
この事態を収束させるには、払い下げを中止せざるを得ない。これを黒田清隆に納得させるためには、陰謀を企てた(とされる)大隈重信を政府から追放させるしかない。明治十四年(1881)十月十二日の未明、伊藤博文らが御前会議の内容を大隈に伝え、大隈は素直にこれを受け入れ辞表を提出した。
不可解なのは、本当に大隈に陰謀があったのか。大隈が官有物払い下げをリークしたのかという点である。筆者によれば、大隈が情報をリークした痕跡はないというし、大隈や福沢が薩長藩閥の打倒を企てていたということはないとしている。とすると、無抵抗のまま辞表を出したのも不可思議である。
この政変による勝者は、議会開設・憲法制定の主導権を握った伊藤博文であることは論をまたない。フィクサーとして動いた井上毅も勝者に列しても良いだろう。あるいは政変後、大蔵卿としてデフレ政策を推し進め日本銀行を設立して近代的通貨制度を確立した松方正義も勝者としてよいかもしれない。
一方、政権を追われた大隈、政治的影響力を削がれた福沢諭吉は敗者に分類される。さらに払い下げを中止せざるを得なくなり事実上失脚した黒田も政変の敗者だったとする筆者の見解に納得である。