先日、同じ著者の本で「国定忠治」を読み終えたばかりであるが、今度は「清水次郎長」である。同じ著者が同じ博徒を取り上げた本でありながら、読後感は正反対である。国定忠治が血塗られた生涯を送り、最期は衆人環視の中、壮絶な磔刑に処されたのに対し、次郎長は、特に維新後は「改心」して無宿・無頼の博徒渡世から足を洗い、正業で暮らしを立てようとした。結果的にはうまくいかなかったが、富士山南麓の原野開墾事業にも取り組んだ。
ところが、明治十七年(1884)二月二十五日の早朝、清水町美濃輪の次郎長宅を突然十八、九人の探偵・巡査が急襲し、次郎長を逮捕した。次郎長にとっても寝耳に水のできごとであった。維新時には駿府府中・清水港の取締御用を務め、その後も県令大迫貞清の覚えもめでたく、博徒とはいえ山岡鉄舟との親交を深めてきた自分が捕えられるとは夢にも思っていなかったであろう。しかし、この頃、明治政府は博徒取締強化を進めており、その年の一月には「賭博犯処分規則」を公布し、博徒大刈込みに乗り出したのであった。博徒の代名詞たる次郎長を見逃すわけにはいかなかったのであろう。
獄中の次郎長は
「この長五郎はとうの昔に足を洗って堅気になり、お国の為になる仕事をしてほめられている人間だ。それを牢に入れるとは怪しからぬ。今に見てろ、俺が出たら県令の奴ブチ殺してくれる」
と捨て台詞を吐いたという。老いたりとはいえ、さすがに次郎長親分である。
その後、天田愚庵らの必死の救援活動が実り、また県令が旧幕臣の関口隆吉に交替になった好運もあり、一年九か月振りに獄を出ることができた。この時、天田愚庵が次郎長の功績を認めてもらうために出版したのが次郎長の一代記「東海遊侠伝」である。
さて、出獄した次郎長が手掛けたのが、割烹「末広」である。博徒が接客業というのも斬新である。開業のセレモニーに鉄舟書の扇子千八本を関係者に配った。身辺多忙な山岡鉄舟に千八本もの扇子に揮毫してもらおうという虫が良い思い付きにもかかわらず、鉄舟は快諾した。このとき、鉄舟と次郎長の間の書簡が残されている。次郎長のリテラシーに配慮して、鉄舟もひらがなのみで手紙を書いている。
「むらたでんしちとわ。わしがなかよしだから。てうしうぢ(鉄舟寺)のことわ。一正けんめいだから。あんしん。して。おくれな、さい。」そして、末筆に「やまおかせんせいさん おくさんニよろしく」とひらがなばかりで書かれた書簡は、鉄舟と次郎長の心の交流が伝わり、感動的である。この手紙を読めば、次郎長が東海一の侠客として人望を集めたのも納得がいく。
明治二十六年(1893)六月十二日、次郎長は七十四年の一生を畳の上で終えた。無残な最期を遂げた国定忠治とも、非業の最期を迎えたライバル黒駒勝蔵とも、まったく対照的な最期であった。
ところが、明治十七年(1884)二月二十五日の早朝、清水町美濃輪の次郎長宅を突然十八、九人の探偵・巡査が急襲し、次郎長を逮捕した。次郎長にとっても寝耳に水のできごとであった。維新時には駿府府中・清水港の取締御用を務め、その後も県令大迫貞清の覚えもめでたく、博徒とはいえ山岡鉄舟との親交を深めてきた自分が捕えられるとは夢にも思っていなかったであろう。しかし、この頃、明治政府は博徒取締強化を進めており、その年の一月には「賭博犯処分規則」を公布し、博徒大刈込みに乗り出したのであった。博徒の代名詞たる次郎長を見逃すわけにはいかなかったのであろう。
獄中の次郎長は
「この長五郎はとうの昔に足を洗って堅気になり、お国の為になる仕事をしてほめられている人間だ。それを牢に入れるとは怪しからぬ。今に見てろ、俺が出たら県令の奴ブチ殺してくれる」
と捨て台詞を吐いたという。老いたりとはいえ、さすがに次郎長親分である。
その後、天田愚庵らの必死の救援活動が実り、また県令が旧幕臣の関口隆吉に交替になった好運もあり、一年九か月振りに獄を出ることができた。この時、天田愚庵が次郎長の功績を認めてもらうために出版したのが次郎長の一代記「東海遊侠伝」である。
さて、出獄した次郎長が手掛けたのが、割烹「末広」である。博徒が接客業というのも斬新である。開業のセレモニーに鉄舟書の扇子千八本を関係者に配った。身辺多忙な山岡鉄舟に千八本もの扇子に揮毫してもらおうという虫が良い思い付きにもかかわらず、鉄舟は快諾した。このとき、鉄舟と次郎長の間の書簡が残されている。次郎長のリテラシーに配慮して、鉄舟もひらがなのみで手紙を書いている。
「むらたでんしちとわ。わしがなかよしだから。てうしうぢ(鉄舟寺)のことわ。一正けんめいだから。あんしん。して。おくれな、さい。」そして、末筆に「やまおかせんせいさん おくさんニよろしく」とひらがなばかりで書かれた書簡は、鉄舟と次郎長の心の交流が伝わり、感動的である。この手紙を読めば、次郎長が東海一の侠客として人望を集めたのも納得がいく。
明治二十六年(1893)六月十二日、次郎長は七十四年の一生を畳の上で終えた。無残な最期を遂げた国定忠治とも、非業の最期を迎えたライバル黒駒勝蔵とも、まったく対照的な最期であった。