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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「清水次郎長」 高橋敏著 岩波新書

2015年12月25日 | 書評
先日、同じ著者の本で「国定忠治」を読み終えたばかりであるが、今度は「清水次郎長」である。同じ著者が同じ博徒を取り上げた本でありながら、読後感は正反対である。国定忠治が血塗られた生涯を送り、最期は衆人環視の中、壮絶な磔刑に処されたのに対し、次郎長は、特に維新後は「改心」して無宿・無頼の博徒渡世から足を洗い、正業で暮らしを立てようとした。結果的にはうまくいかなかったが、富士山南麓の原野開墾事業にも取り組んだ。
ところが、明治十七年(1884)二月二十五日の早朝、清水町美濃輪の次郎長宅を突然十八、九人の探偵・巡査が急襲し、次郎長を逮捕した。次郎長にとっても寝耳に水のできごとであった。維新時には駿府府中・清水港の取締御用を務め、その後も県令大迫貞清の覚えもめでたく、博徒とはいえ山岡鉄舟との親交を深めてきた自分が捕えられるとは夢にも思っていなかったであろう。しかし、この頃、明治政府は博徒取締強化を進めており、その年の一月には「賭博犯処分規則」を公布し、博徒大刈込みに乗り出したのであった。博徒の代名詞たる次郎長を見逃すわけにはいかなかったのであろう。
獄中の次郎長は
「この長五郎はとうの昔に足を洗って堅気になり、お国の為になる仕事をしてほめられている人間だ。それを牢に入れるとは怪しからぬ。今に見てろ、俺が出たら県令の奴ブチ殺してくれる」
と捨て台詞を吐いたという。老いたりとはいえ、さすがに次郎長親分である。
その後、天田愚庵らの必死の救援活動が実り、また県令が旧幕臣の関口隆吉に交替になった好運もあり、一年九か月振りに獄を出ることができた。この時、天田愚庵が次郎長の功績を認めてもらうために出版したのが次郎長の一代記「東海遊侠伝」である。
さて、出獄した次郎長が手掛けたのが、割烹「末広」である。博徒が接客業というのも斬新である。開業のセレモニーに鉄舟書の扇子千八本を関係者に配った。身辺多忙な山岡鉄舟に千八本もの扇子に揮毫してもらおうという虫が良い思い付きにもかかわらず、鉄舟は快諾した。このとき、鉄舟と次郎長の間の書簡が残されている。次郎長のリテラシーに配慮して、鉄舟もひらがなのみで手紙を書いている。
「むらたでんしちとわ。わしがなかよしだから。てうしうぢ(鉄舟寺)のことわ。一正けんめいだから。あんしん。して。おくれな、さい。」そして、末筆に「やまおかせんせいさん おくさんニよろしく」とひらがなばかりで書かれた書簡は、鉄舟と次郎長の心の交流が伝わり、感動的である。この手紙を読めば、次郎長が東海一の侠客として人望を集めたのも納得がいく。
明治二十六年(1893)六月十二日、次郎長は七十四年の一生を畳の上で終えた。無残な最期を遂げた国定忠治とも、非業の最期を迎えたライバル黒駒勝蔵とも、まったく対照的な最期であった。

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「警視庁草紙」 山田風太郎著 角川文庫

2015年12月25日 | 書評
明治維新から西南戦争までの十年間、この時代は幕末動乱の余震がなお続き、日本は未だ激動期にあった。幕末に活躍した人たちも当然生きていたし、一方でこれから新しい時代に活躍する人物も既にこの世に生を受け、活動を始めようという時期でもあった。だから、この時代は、後世から見てとても魅力的でもある。まずもって、この時代を小説の舞台に選んだところに山田風太郎の着眼の素晴らしさが見てとれるだろう。
川路利良を頂点とした草創期の警察も、まさにこの時代の空気を映した組織であった。この陰謀に満ちた警視庁に挑み、ちょっかいを仕掛けるのが、元南町奉行の駒井相模守、元同心の千羽兵四郎や元岡っ引のかん八といった面々である。山田風太郎自身は古い時代への愛着があって、急速に近代化を進めようという薩長藩閥政府に反感を持っているらしい。特に地位や権力を悪用して、私腹を肥やそうという井上馨や酒乱の末、愛妾を殺害した黒田清隆らが牛耳る薩長閥に一泡吹かせたいという著者の想いがこの小説を書かせた動機だったように感じる。山田風太郎は、恐らく自分の姿を駒井相模守や千羽兵四郎に重ねながら、筆を進めたのに違いない。小説の最後に、大警視川路利良と隅の隠居とが直接対決する場面があるが、もはや山田風太郎自身が川路大警視にモノを言っているような錯覚さえ覚える。荒唐無稽といってしまえばそれまでだが、何とも痛快な小説である。
この小説には大久保利通や西郷隆盛、川路利良、山岡鉄舟、静寛宮(和宮)、佐川官兵衛、清水次郎長といったよく知られた歴史上の人物のほかに、数多の実在の人物が登場するのも見所である。たとえば警察官の中にも元新選組の藤田五郎(斉藤一)、元見回組の今井信郎、桜田烈士の生き残り海後瑳璣之介らが登場する。さらに三遊亭円朝、平間重助、上田馬之助、榊原健吉、天田愚庵、下岡蓮杖、田中久重、高橋由一、葦原将軍、河鍋暁斎、山田浅右衛門、種田政明とその妾、野村靖、沼崎吉五郎、永岡久茂、島田一郎や長連豪ら大久保利通暗殺犯、高橋お伝、熊坂長庵、柴五郎、東条英教、板垣征徳、米内受政と言った実在の人物が次々と出てきて、しかも彼らが物語の上で重要な役割を果たす。また、まだ無名の時代の夏目漱石や樋口一葉、幸田露伴、森鴎外といった文豪が登場するのも面白い趣向であった。ついでにいえば、駒井相模守信興という人物も幕末の南町奉行に名を連ねており、詳細は不明ながら実在の人物のようである。読者は当然架空の人物と思い込んでしまうだろうが、山田風太郎ならではの「仕掛け」であろう。

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虎ノ門 Ⅳ

2015年12月25日 | 東京都
(大阪屋砂場)
 食べ物に何のこだわりもない私が薀蓄を述べるのも片腹痛いが、日本の蕎麦には、「藪」「更科」「砂場」という三系統がある。「砂場」というのは、大阪築城の際に資材置き場用の砂場に二軒の蕎麦屋があったため、俗称として砂場と呼ばれることになった。その流れを汲む蕎麦屋が今も虎ノ門に店を構える。山岡鉄舟がこの蕎麦を愛し、店内には鉄舟始め、勝海舟、高橋泥舟らいわゆる幕末の三舟の書が飾られている。


虎ノ門大阪屋砂場

 新橋本社に勤務していた時分、虎ノ門には足繁く通った。大坂屋砂場(港区虎ノ門1‐10‐6)の前も何度となく通過したが、一回もここで食事をとったことがない。一回くらいは食べておかないといけないだろうと、土曜日の午後、ここを訪ねた。すると店の外にまで行列がはみ出すほど混雑していた。並んでまで蕎麦を食べる気力の無い私は、あっさりと諦めて、砂場の蕎麦は次の機会に持ち越しとなった。

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人形町 Ⅱ

2015年12月25日 | 東京都
(小春軒)


小春軒

 三澤敏博「江戸東京幕末維新グルメ」によれば、山県有朋が作り上げた椿山荘や古稀庵で料理長を務めた小島種三郎は、その後山県家の女中頭であった春と結婚し、夫婦で日本橋に西洋料理屋を開業した。因みに屋号の「小春軒」とは、小島の「小」と妻の名前「春」を組み合わせたものである(中央区日本橋人形町1‐7‐9)。
 この日、気合を入れて人形町を訪れた私だったが、午後一時過ぎに着いたときには既に昼間の営業は終わっていた。こちらも次の機会に再挑戦することとしたい。

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本郷三丁目 Ⅲ

2015年12月25日 | 東京都
(壺屋総本店)


壺屋総本店

 壺屋総本店(文京区本郷3‐42‐8)は、寛永年間に創業されたという和菓子の老舗である。あの勝海舟も壺屋を贔屓にしていたが、幕府が倒壊すると、多くの店と同じく壺屋も店を閉じようとしていた。これを知った海舟は閉店を思いとどまるよう説得したという。(三澤敏博著「江戸東京幕末維新グルメ」より)
 店内には海舟直筆の書「神逸氣旺」が飾られている。


壺型最中
ウマイ!


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護国寺 Ⅳ

2015年12月25日 | 東京都
(大塚先儒墓所)


吹上稲荷神社

 豊島ヶ岡墓地の東隣に大塚先儒墓地がある(文京区大塚5‐23‐1)。この墓地は、徳川秀忠らに仕えた人見道生の邸宅跡で、寛文十年(1670)に道生が没したときに邸宅内に埋葬したのがその始まりといわれる。寛政の三博士と称される柴野栗山、尾藤二洲、古賀精里を始めとして、室鳩巣や木下順庵ら、高名な儒学者が眠る。その数六十四基を数える。

 大塚先儒墓所は施錠されており、近くの吹上稲荷神社で記名して鍵を受け取らなくてはならない。


大塚先儒墓所

 大塚先儒墓所に入ると、入口近くに墓の配置図が掲示されている。先ずそれを確認して、屋へ進む。


修築大塚先儒墓記


鳩巣室先生之墓

 室鳩巣(1658~1734)は、江戸中期の儒学者。武蔵谷中村の医者の家に生まれた。加賀藩に出仕後、木下順庵に学び、「木門の五先生」の一人に数えられた。同門の新井白石の推挙で幕府儒官となり、将軍の侍講、朝鮮信使応接、高倉屋敷での講釈などに従事した。伊藤仁斎や荻生徂徠ら、古学派の台頭期に、あくまで朱子学の立場を堅持し、幕府に二十年仕えた。


征夷府故判読栗山先生之墓

 柴野栗山(1736~1807)は、江戸中後期の儒者。讃岐の農民の出身である。江戸で林家に学び、徳島藩儒となる。のち松平定信に登用され、寛政異学の禁(朱子学を正学とし、昌平黌での異学の教授を禁じた政策)を推進した。尾藤二洲、古賀精里とともに「寛政三博士」と称された。


江戸故掌教官二洲藤先生墓

 尾藤二洲(1747~1813)は、伊予川之江の廻船業者の子。大阪で徂徠学を学んだが、頼春水や中井竹山と交わり、朱子学に転じた。昌平黌の儒官に登用され、幕府教学に尽力した。


侗庵古賀先生之墓

 古賀侗庵(1788~1847)は、古賀精里の三男。父とともに昌平黌の儒官を務めた。


精里古賀先生之墓

 古賀精里(1750~1817)は、江戸中後期の儒者。佐賀藩士の子で、はじめ陽明学を好んだが、京阪に出て朱子学に転じた。藩校弘道館の教授を経て、昌平黌儒官。寛政の三博士に加え称された。佐賀藩の儒者として、藩主直正にも強い影響を与えた古賀穀堂は、精里の長男である。


茶渓古賀先生之墓

 古賀茶渓は、文化十三年(1816)、古賀侗庵の子に生まれた。幼少より儒学を学び、十七歳で二十一史に通じたといわれた。弘化三年(1846)、小姓組より儒役見習になり、翌年本役に進んだ。そのとき既に儒学のみならず蘭学も志し、両学に通じた。嘉永六年(1853)、ロシアのプチャーチンが長崎に来航すると、その国書の返翰の作成に関与し、また露使応接掛に命じられ、川路聖謨らに随行して長崎に赴いた。安政二年(1855)、二ノ丸留守居に転じ、番所調所頭取を兼ね、文久二年(1862)には留守居番に転じて、さらに元治元年(1864)には大阪町奉行に抜擢されたが、病のため赴任できず。慶応二年(1866)、製鉄奉行並、翌年には目付となり、従五位下筑後守に叙任された。外交に関係することが多く、朝鮮がフランス人宣教師、アメリカ人船員を殺害し、朝鮮と各国との関係が緊張した際にも、幕府は茶渓を調停役とさせることを計画した。大政奉還に憤激し、老中格大給恒とともに軍艦順動丸に乗って、西上中の将軍慶喜のもとへ赴いたが、諭されて東帰した。明治元年(1868)目付を辞して以降、世に出ず、一時駿河に移ったが、明治六年(1873)東京に出て、浅草向柳原の自宅で病死。六十九歳。


故博士寒泉岡田先生之墓

 岡田寒泉(1740~1816)は、やはり寛政期に活躍した儒学者。幕府旗本の二男に生まれた。崎門学派に学び、松平定信政権下で寛政異学の禁を画策した。古賀精里の代わりに寒泉を以って寛政の三博士と称することもある。のちに幕府の代官に転じ、名代官と称えられた。

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西麻布 Ⅲ

2015年12月25日 | 東京都
(龍圡軒)


佛蘭西料理 龍圡軒

 西麻布1‐14‐4の龍圡軒は、乃木希典が愛用したフランス料理店である。岡沢精や西郷従道もこの店に足繁く通ったという(三澤敏博「江戸東京幕末維新グルメ」竹書房)。

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青山霊園 補遺 Ⅵ

2015年12月25日 | 東京都
(青山霊園 つづき)

1種イ2号21~22側


贈正三位勲二等故特命全権公使鮫嶋尚信墓

鮫島尚信は弘化二年(1845)薩摩藩医の家に生まれた。文久元年(1861)、オランダ医学研究性として長崎に遊学し、ついで英学を何礼之、瓜生寅に学んだ。慶応元年(1865)、薩摩留学生としてイギリスに留学。このとき野田仲平という変名を用いた。ロンドン大学のウィリアムソン教授の世話により、ユニバーシティ・カレッジの法文学部に入学し、主として文学を学んだ。慶応二年(1866)の夏休みに吉田清成とともにイギリスの外交官オリファントに伴われアメリカに遊び、トマス・レーク・ハリスに会い彼の感化を受けた。森有礼、長沢鼎、松村淳蔵、畠山良之助らと渡米して、ハリスの結社である「新生社」に入り、ぶどう園で働きながら学んだ。王政復古の報が伝わると、ハリスの勧めで森とともに帰国した。明治元年(1868)七月、徴士外国官権判事、ついで議事体裁、翌年には東京府判事、権大参事、明治三年(1870)、外務大丞、ついで駐英・仏・独・北連邦少弁務使に任じられ、フランス在勤となり、中弁務使、弁理公使から、明治六年(1873)には特命全権公使に進んだ。明治八年(1875)に帰国し、寺島外務卿のもとで外務大輔を務めた。明治十一年(1878)、フランス特命全権公使となり、ついでベルギー、スペイン、ポルトガル、スイス公使兼任となり、外交官として将来を期待されたが、在職中に客死した。三十六歳。パリ、モンパルナス墓地にも墓がある。
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東吾妻

2015年12月18日 | 群馬県
(大戸関所跡)
 大戸関所は信州街道の要点を抑える重要な関所である。寛永八年(1632)に設置された。信州街道は草津温泉を始めとする湯治客、善光寺参り、北信濃の三候の廻米や武家・商人の荷物、各地の産物の輸送路として、中山道を凌ぐほどの活況を呈していたともいわれる。江戸と信濃を結ぶ最短経路としても重要な街道であった。別名信州道、草津道、善光寺道、大戸廻りとも呼ばれていた。この関所は、元和九年(1623)五月、将軍秀忠上洛の際、要害の地を守護したのが始まりといわれる。中山道の脇往還で、碓井関所の裏固めという意味も持っていた。以後、二百三十有余年の間、幕府代官の管理の下に運営され、明治元年(1868)九月に廃止された。嘉永三年(1850)に大戸関所破りの罪を問われた侠客国定忠治は、この地で処刑された。


大戸関所跡


大戸関所跡碑


(国定忠治処刑場跡)


国定忠治処刑場跡

 大戸関所から一キロメートルほど南に国定忠治の処刑場の跡がある。忠治を慰霊するための地蔵や慰霊碑がある。


忠治地蔵


侠客国定忠治慰霊碑

 群馬県出身の有名人といえば、首相経験者である福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三を差し置いて、侠客国定忠治が一位だという説がある。真偽のほどはさておき、国定忠治の知名度は抜群である。講談や映画で幾度となく描かれた国定忠治は実在の人物である。
 国定忠治の本姓は長岡といい、文化七年(1810)、国定村に生まれた。地主の子というが、博打うちとなり、縄張り争いの末に島村伊三郎を闇討ちして殺し、弟分の浅次郎に目明し勘助と二歳の子を殺させた。天保七年(1836)、子分長兵衛の敵討ちをするため、大戸の裏道を通って信州に入ったが、結局仇討ちは果たせず帰国した。天保八年(1837)の飢饉の時には、窮民救恤のための公儀御用金を強奪し、しばらく奥州に潜んでいた。その後、悪代官といわれた松井軍兵衛を斬って赤城山に籠るなど流浪数年、嘉永三年(1850)に故郷に帰ったが、中風のため動けなくなったところを逮捕された。幕府の勘定奉行池田頼方の裁定で、関所破りの罪で磔刑を申し渡され処刑された。年四十一。

(とまどいの松)


とまどいの松

 処刑場からさらに南、萩生峠に「忠治とまどいの松」がある。天保七年(1836)、大戸関所を前に心を決めかねて、松の根元にたたずみ迷ったと伝えられる。誰いうことなく「忠治とまどいの松」と呼ばれることになった。現在、ここにある松は三代目である。
 小栗上野介忠順が官を辞して権田村に遁世した際、馬術が得意だった上野介は、遠乗りをして領地境の松の場所まで見回りに訪れたという。

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志賀高原

2015年12月18日 | 長野県
(蓮池)


蓮池

 東京では日に日に秋の色が濃くなってきたが、志賀高原は秋真っ盛りであった。紅葉を写真に納めようという人、秋のハイキングを楽しもうという人で、志賀高原周辺は賑わっていた。せっかくなので、私もカメラマンに交じって蓮池の写真を撮った。

(澗満滝)


澗満滝

 国道292号線を志賀高原方面に向かう途中、澗満滝(かんまんたき)の展望台駐車場がある。私の目的地は沓打名水公園であったが、ここに車を停めて歩くことにした。木立の中を歩くこと十分足らずで名水公園に行き着く。公園の前は広い駐車場になっており、何もその手前で自動車を乗り捨てる必要はなかった。
 澗満滝の方は、駐車場から六十メートルのところに展望台が設けられており、絶景を楽しむことができる。やはり紅葉のシーズンが見頃であろう。

(沓打名水公園)


沓打名水公園


佐久間象山記念碑

 名水公園というだけあって、水は透きとおっている。この小さな池の横に佐久間象山記念碑と祭沓野山文碑が置かれている。


祭沓野山文碑

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