史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「遺聞 市川・船橋戊辰戦争 若き日の江原素六」 内田宜人著 崙書房出版

2017年09月30日 | 書評
本屋でこの本を発見し、いそいそとレジにもっていくと、店員から「この本、懐かしいですね。以前は新書で出ていましたよね。」と声をかけられた。この本が刊行されたのは、平成十一年(1999)のことなので、違う形態で刊行されていた可能性はあるが、それを聞いた私は「また、やってしまったか」と瞬時に思った。題名に飛びついて買うと、よく同じ中身の本を買ってしまうのである。自宅に戻って書棚を調べたが、どうやら同じ本は無かった。
戊辰戦争と言えば、鳥羽伏見から始まって上野戦争や会津戦争、箱館戦争が有名である。市川や船橋で戦争があったことなど、地元の人でもあまり知らないのではないか。
本書冒頭では、市川・船橋周辺に点在する戦死者の墓を紹介している。既に訪問済みのものも多いが、どうしても遭遇できないのが、中山法華経寺にあるという脱走方鈴木音次郎の墓である。法華経寺の墓地を二回隈なく探したが、見付けられないでいる。本書では「私は未見である。広い墓地の古い墓石の群れの間を丹念に歩くには時間が足らなかった」と述べられているが、本に掲載するのであれば、自分の目で確かめてからにして欲しいものである。もはや存在していないのであれば、こちらも歩き回る手間が省けるというものである。
それから船橋大神宮そばの東光寺の墓。本書によれば「近年発見された」というが、こちらもいくら探しても行き当たらない。筆者によれば「二度そこの墓地を歩いてみたが見つけることができなかった」とされているので、この墓は撤去もしくは他所に移動されてしまったのかもしれない。
本書の主題は、若き日の江原素六(鋳三郎)である。江原素六といえば、沼津兵学校の中心人物であり、麻布中学校の創立者として名を残した。維新以降の活躍が有名であるが、本書では明治以前の姿を中心に描き、維新後の事績はほんの数ページで紹介しているのみである。
江原素六は幕臣の中でも最下層である黒鍬者の出身である。苦学の末、頭角を表した。実父江原源五は、「学問など無用」という考えに凝り固まった人だったようであるが、周囲の説得や支援により、幕府の開いた講武所に通うことになり、幕末には撤兵隊の指揮官を務めるまで出世を遂げた。絵に描いたような極貧からの出世物語である。
末尾のプロフィールによれば、筆者内田宜人氏は、中学教員から教職員組合の活動という経歴の方で、相当筆力のある方とお見受けした。本書以外にも労働運動に関する著述を残されているようである。
幕末史にも一家言お持ちのようである。鳥羽伏見前夜、一般的には徳川慶喜は薩長との武力衝突は下策としていたにもかかわらず、幕臣や会津藩兵の血気を抑えきれず進軍命令を発してしまったといわれる。筆者によれば、それは「明治以降の史観に合わせての慶喜弁護論に過ぎない」「大政奉還戦術では失敗した権力集中への戦略を放棄したということはありえない。残っている方策は薩長との武力対決である」とするが、ここは多少議論のあるところであろう。
確かに数の上では幕軍の方が上回っていたし、武力衝突によって幕軍が勝利を収めれば再び権力を取り戻すことも可能だったかもしれない。しかし、一方でこの時、慶喜を新政府の要職で迎え入れるという運動も奏を効しつつあった。岩倉具視も容認する姿勢だったといわれる。その動きは慶喜の耳にも届いてたであろうし、それを考えるとこのタイミングで武力に訴えたのはやはり下策というべきではないか。慶喜が本当に武力によって権力を取り戻すつもりがあったのなら、鳥羽伏見で敗れても、まだ挽回の余地はあったように思うのだが。


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「江戸の「事件現場」を歩く」 山本博文著 祥伝社新書

2017年09月30日 | 書評
家康が江戸に幕府を開いて以来、江戸は政治の中心であった。江戸時代以降の史跡に関しては、京都を上回る集中度である。八百屋のお七や四谷怪談のお岩さんも、物語の舞台はいずれも江戸である。
幕末に近くなると、江戸の街も騒然としてくる。桜田門外の変や上野彰義隊の戦争など、次々と大事件が続発する。
本書で興味を引いたのは、近藤重蔵の息子、富蔵の刃傷事件であった。富蔵が塚原半之助とその家族合わせて七名を斬殺した「槍ヶ崎事件」を起こしたのは、文政九年(1826)五月十八日のことであった。富蔵は八丈島(実は現代の行政区でいえば、ここも東京都である)に流罪となり、明治十三年(1880)に赦免されるまで、五十年以上を島で過ごした。富蔵は着島後、前非を悔い、殺生を一切禁断し、ノミもシラミも殺さぬ、熱心な仏教徒となったという。八丈島の歴史、土木、産業、政治、地理、風俗、言語などあらゆることを記録した「八丈実記」全六十九巻を残した。富蔵は明治十三年(1880)に一旦本土に戻ったが、父の墓参りを済ますと、再び八丈島に戻り明治二十年(1887)、八十三歳の高齢で世を去った。
流罪、もしくは遠島、島流しともいわれる追放刑は、明治以降、送り先を北海道に改めながら明治四十一年(1908)まで続けられた。現代の人権感覚からすれば、到底容認できるものではないが、富蔵の劇的な更生を見れば、過去のしがらみを断ち別の場所で人生を送るということは、人の気持ちを浄化するような効果もあったのかもしれない。
この週末、八丈島を旅する予定である。近藤富蔵ゆかりの史跡も訪ねてみたい。
さて、本書では定番の事件現場のほか、時代小説や時代劇の舞台、剣客の道場跡、著名人の住居などを紹介している。東京都下の幕末維新関係史跡については、かなり回ったという自負があるが、本書では個人的に未踏の史跡もいくつか紹介されている。説明板や標柱などがあれば、分かりやすいのだが…。取り敢えず行ってみますか。

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「島津斉彬」 松尾千歳著 戎光社出版

2017年09月30日 | 書評
来年の大河ドラマは「西郷どん」である。早くも来年の主役を題材にした書籍が店頭に並び始めた。この本もその一つかもしれないが、「実像に迫る」と称したシリーズの中の一冊でもあり、あるいは大河ドラマとは関係なく島津斉彬を取り上げたのかもしれない。比較的冷静、中立に記述しており、その点では安心感がある。
斉彬が時代を代表する偉人であることは異論の余地がないだろう。しかし、斉彬が家督を継いだのは嘉永四年(1851)のことで、そこから安政五年(1858)に急死するまで、表舞台で活躍したのはわずかに七年に過ぎない。斉彬がその手腕を振うにはあまりに短い時間であった。
面白かったのは篤姫に関する記述である。一般には「斉彬が大奥で慶喜擁立工作するために篤姫を送り込んだ」と解されているが、筆者によればこれは誤解だという。本書によれば、夫人を島津家から迎えたいというのは家定の希望だったという。歴代最長の在位を記録した十一代将軍家斉に長命と子孫繁栄をもたらした、島津家から輿入れした広大院(島津重豪の娘)にあやかりたいという背景があったというのである。従って、「縁談は将軍継嗣問題とはまったく関係のない話」であり、斉彬も当初は篤姫を積極的に政治に利用しようという意図はなかったという。
筆者は斉彬の政治の弱みを指摘する。家老ら藩内の重臣たちに自分の考えを十分伝えることができていなかったことを挙げる。めまぐるしく変わる情勢に対処するために斉彬は常に陣頭に立って指揮し対処した。斉彬の判断は、時代の先端を行く先進的な思想・知識に基づいていたため、保守的な重臣たちはついていけなかった。緊急を要するものが多く、斉彬も自分の考えを丁寧に説明する余裕がなかった。従って、彼が急死した時、周囲の人たちは「置いてきぼり」にされたような状況であったろう。誰も斉彬に代わって指示を出すことができず、藩政は停滞、混乱した。斉彬自身がよもや突然世を去ることになるとは思ってもいなかったし、仕方ない側面もあるだろう。
斉彬の遺志は、朝廷や幕府、藩という枠を越えて挙国一致体制を築き、近代化を進めて西欧列強からの植民地化を防ぐことにあった。現代的感覚では、国家の指導者としては至極当たり前の思想かもしれないが、当時このような大局的な考え方をもった指導者は少なかったし、彼の思想を理解できた人も多くはなかった。天が斉彬にあと十年の寿命を与えていれば、幕末史も随分変わったものになっただろう。
本書では関係史蹟を多数紹介している。個人的にまだ行っていない史跡も多数ある。時間を気にせず鹿児島の史跡を存分に回りたいという思いが募った。

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「歴史の坂道 戦国・幕末余話」 中村彰彦著 中公新書クラレ

2017年09月30日 | 書評
新書でありながら、エッセイを集めた一冊。一つひとつが短くて読みやすい。あっという間に読破できる。
筆者は、星亮一氏と並んで会津贔屓の強い作家であり、そこは本書でも首尾一貫している。冒頭「今日の会津士魂」と題された一編では永岡久茂、山川浩、佐川官兵衛、山川捨松、新島八重、松江豊寿、池上四郎、川島広守、伊東正義らを例に引きながら「以上、眺めた人々の頑固さが道義心に裏打ちされたものであることに注意したい。頑固さが、美徳につながることもあるのだ」と締めくくる。「会津士魂」を称賛する論調であるが、ちょっと引っかかるものがある。こうして頑固さと美徳を合わせ持つ人物を列挙するのであれば、薩摩・長州・土佐・肥後にしても、いや日本中のどの藩を取り上げても、同藩出身者を並べれば、同じようなロジックで、そこに流れる精神を褒め称えることはできよう。
個人的に一番興味を引いたのが熊本県南阿蘇村に残る佐川官兵衛関連史跡の現状のレポートであった。筆者は長編小説「鬼官兵衛烈風録」で文壇デビューした関係から、今も佐川官兵衛には一方ならぬ思い入れを持っている。ここでは、熊本地震の後、佐川官兵衛が奮戦討死した阿蘇周辺の史跡に足を運び、いずれも相当なダメージを受けていることが報告されている。
私が阿蘇周辺の西南戦争関連史跡を歩いたのは、もう二十年以上も前のことであり、次に熊本県を訪ねる機会があれば、是非阿蘇周辺を再訪したいという気持ちが強い。一方で、この辺りは熊本地震の被害のもっとも甚大な場所であり、多くの家屋が倒壊し、尊い人命が失われた。阿蘇大橋が崩落し、今も通行止めになっている道路が数知れない。こういう状況で史跡を訪ねる旅が実行可能なのだろうか。
筆者のレポートによれば、関連史跡の状況はかなり壊滅的なようである。生活の復興が優先されるのは当たり前であるし、倒れた石碑をもとに戻すのは結構大変な労力を要する作業であるから、史跡を復元するのに時間を要するのは已むを得まい。
何だか絶望的な気分になってきたが、本書によれば、本年四月、南阿蘇村の佐川官兵衛記念館に官兵衛の胸像を備えた佐川官兵衛顕彰碑が建立されたという。さらに、この本を読み終えた八月末、ちょうど阿蘇長陽大橋が再建されたというニュースが報じられた。被災地にも明るい日差しが届き始めたようで、こちらまで気分が明るくなった。

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「天狗争乱」 吉村昭著 新潮文庫

2017年09月30日 | 書評
愛読書の一つ。最近になってまたしても天狗党が「マイブーム」となったので、また書棚から引っ張り出した。もうこの本を何回読んだだろうか。表紙は擦り切れてバラバラになってしまい、セロテープでとめている有り様である。
天狗党の末路は悲惨である。幕末という激動期、数々の事件が発生した。そのエンディングは悲惨な討死であっても、そこに悲壮美を見出すことができるかもしれない。しかし、天狗の騒乱にはそのような美しさは見出しにくい。人間の愚かしさをあからさまに露呈した事件といえる。
彼らが筑波で挙兵した際の名目は「攘夷の実行」のはずであった。この旗印のもとに、水戸藩士だけでなく、全国から攘夷を信奉する人たちが集結した(特に上州からの参加者が多かったため、“上州勢”とも呼ばれる)。天狗党の挙兵は、藩政の主導権を門閥派(諸生党)が握り、藩主名代の宍戸藩主松平頼徳が切腹させられた時点で、目を覆いたくなるような藩内抗争へと変質してしまった。この時、藩外から参加した人たちは、天狗党を離れ、独自に攘夷実行の道を模索するが、分離した上州勢も目的を果たせないまま、壊滅してしまう。これが天狗党の第一の誤算であった。
天狗党の第二の過ちは、田中愿蔵隊の乱暴狼藉を許してしまったことにある。栃木や真鍋の町を焼き討ちし、無辜の市民を殺傷し、金銭を脅し取った彼らの行為は、市民の恐怖を煽っただけでなく、反発を買う結果になった。自衛のために鯉渕の農民らが武器を手に立ちあがったのも、その反動の一つである。天狗党幹部は愿蔵隊を除名放逐し、その後隊内の綱紀粛正を図ったが時既に遅かったといえよう。天狗党は水戸藩領を出て京都を目指すが、行く先々で必ずしも暖かく迎えてもらえなかった。天狗=暴虐というイメージを拭い去るのは容易ではなかった。
彼らの犯した三番目の過ちは、一橋慶喜に訴えるために西上したことにある。天狗党が敦賀で降参した時点で、彼らの命を救うことができたのは慶喜しかいなかったであろう。幹部数名の切腹、ほかの隊員は本圀寺に引き取るか、一橋家で預かるという選択肢はなかったのだろうか。慶喜は―――端的にいってしまえば―――彼らを見殺しにしてしまった。貴種ゆえの薄情といってしまえばそれまでだが、自分を慕って水戸からはるばると行軍してきた集団をかくも簡単に見捨てることができるものか。本書を読む限り、慶喜が助命のために苦悶した様子は感じられない。慶喜が、彼らが期待したほどの同情をもっていなかったということが三番目の誤算である。
元治元年(1864)の内訌において勝者となった門閥派であるが、この短期的な政権奪取が彼らにとって本当の意味での成功だったか。中央で公武合体派が主流である間、門閥派は政権を維持できたが、王政復古のクーデター以降、尊攘派が主導権を握ると、水戸藩諸生党は水戸を追われることになる。老母や幼女まで処刑するという残酷な措置は、当然ながら反作用を招いた。今度は彼らの家族が捕われ処刑された。幕末、尊攘派対佐幕派の対立はどの藩でも顕在化したが、水戸藩のように相手を根絶やしにしようという報復合戦が見られたのはここだけである。水戸藩の抗争は、勝者なき戦いであった。

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大垣 Ⅵ

2017年09月24日 | 岐阜県
 (願宗寺)


願宗寺

 願宗寺には官軍に属して宇都宮で戦死した小寺庄次郎の墓がある。本堂横の墓地の比較的新しい墓石がそれであるが、側面に庄次郎戦死の経緯が漢文で刻まれている。
 小寺良之助は先手組。慶応四年(1868)四月二十二日、宇都宮にて負傷。のち板橋にて死亡。五十三歳。


小寺庄次郎墓

(大垣宿)
 大垣は戸田氏十万石の城下町であると同時に、美濃路上の宿場町でもあった。大垣宿本陣は永禄年間(1558~1569)に創建されたといわれる。明治十一年(1878)には、明治天皇が東海・北陸巡幸の際に宿泊し、建物の前に「明治天皇行在所跡」と記された石碑が建てられている。


大垣宿本陣


明治天皇行在所跡


大垣宿問屋場跡

 本陣跡近くには問屋場跡がある。問屋場というのは、宿場において人馬の継立の業務を担ったところで、幕末の大垣宿では飯沼家が問屋役を本陣役と兼帯していた。

(大垣城乾門)
 大垣市街地から六~七キロメートルほど離れた青野町の住宅街の民家に大垣城の乾門が移築されている。


大垣城乾門

(緑覚寺)
 緑覚寺は本堂がコンクリート製に建て替えられていて、歴史を感じることはできないが、墓地には飯沼慾斎の墓などがある。飯沼家の墓も新しく建て替えられている。


緑覚寺


桐亭飯沼家之墓(飯沼慾斎墓)

 飯沼慾斎は、天明二年(1782)の生まれ。諱は長順。墓石にあるように屋号は「桐亭」といった。慾斎は雅号。七、八歳で単身家出し、美濃大垣の叔父飯沼長竟の家に投じ、十二歳で同族の医師飯沼長顕の家に移り勉学した。十六歳のとき幕命により小野蘭山が諸国の薬物採集をすると、その門に入り随行して諸国を巡り本草学を修め、のちさらに水谷豊文について学を深めた。十八、九歳で京都に出て朝廷の医、福井丹波守(楓亭)に医学を学び、業を卒えて長顕の娘志保子と結婚して家督を継いで、その時長順と改め、二代目竜夫の称を継ぎ、大垣に開業した。その傍ら大垣藩医江馬蘭斎に蘭方医学を学んだ。二十八歳で江戸に出て、津山藩医宇田川榛斎の門に入り、かたがたその高弟藤井方亭に蘭学を学んで帰郷した。五十歳で家を義弟の健介に譲り、慾斎と号して別邸を長松村に営み、泉石に花卉を植えて平林荘と名付けた。もっぱら西洋植物学を学び、スウェーデンの博物学者リンネの綱目分類に従って「草木図説」三〇巻を著し、西洋植物学を世に紹介した。慶応元年(1865)、閏五月、年八十四にて没。


佐藤文之助藤原義成

 佐藤文之助は鳥羽伏見の戦いで戦死。鉄砲組先手。慶応四年(1868)一月五日、山城鳥羽堤にて戦死。「幕末維新殉難者名鑑」によれば行年二十歳となっているが、墓石には十六歳とある。

(薬王寺)
 薬王寺前に菱田海鴎居跡石碑が建てられている。この地は明治維新に際して、藩老小原鉄心とともに大垣藩論を勤王に統一することに貢献した菱田海鴎の邸宅跡である。かつては高欄を巡らせた高殿や蓮池を配置した風流の意匠を凝らしたものだったという。
 海鴎は、天保七年(1836)に大垣藩儒菱田毅斎の六男に生まれた。名を重禧(しげき)と呼び、幼少より家学をよく修め、後に私塾を開いて読書詩文を教授し、ついで藩校の教官に任じられた。慶応四年(1868)鳥羽伏見の戦いで、鉄心の子兵部が幕軍に属したため、海鴎は鉄心の命により兵部に順逆を諭しに行く途中、長州藩兵に捕えられ、まさに斬られようとしたとき、絶命の詩を賦して死を免れ、その後鉄心とともに大垣藩を勤王方に導いた。


薬王寺


菱田海鴎居跡

(今村墓地)


史跡 飯沼慾斎解剖之地

 文政十一年(1828)十二月二十六日および二十七日、飯沼慾斎は門人浅野恒進とともに、美濃で初めてこの地で刑死体を解剖した。

(和算塾算光堂跡)


史跡 和算塾算光堂跡

 大垣市外野の住宅街の一角に和算塾算光堂跡石碑がある。
 算光堂は、安政四年(1857)に浅野孝光(五藤治)が居宅に設立した私塾で、幕末から明治にかけて子弟教育に大きく貢献し、門弟三百人に達した。浅野孝光は天保十年(1839)安八郡外野村の豪農の家に生まれ、幼少より秀才の誉れ高く、稲津弥五郎(梁川星巌の妻紅蘭の兄)から関流和算術を習得したほか、天文、暦法、測量などの学問に励み、明治二年(1869)には大垣藩校の文学校助教授を務めた。

 大垣を出る時、ちょうど甲子園で日大大垣高校が強豪天理高校と戦っていた。ラジオで試合経過を聞いていた私は、思わず日大大垣高校を応援してしまったが、残念ながら完敗であった。

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大垣 Ⅴ

2017年09月24日 | 岐阜県
(円通寺)


円通寺山門

 円通寺は大垣藩十万石の歴代藩主の菩提寺である。寛永十二年(1635)、初代藩主氏鐡が尼崎から大垣へ国替えとなった際、同時に菩提寺であった円通寺も大垣に移した。第二次大戦で大きな被害を受けたが、昭和三十八年(1963)、市制四十五年を機に墓の復旧をはかるとともに、東京の蓮光寺にあった九代氏正公、十一代氏共公の墓も移すことになり、翌年四月、戸田家十一代歴代藩主の墓が揃うことになった。
 山門は雷火のために数回焼失したが、天保年間に再建されたもので、大垣藩十万石歴代藩主の菩提寺に相応しい豪壮な姿を今に伝えている。


戸田氏正墓

 九代藩主戸田氏正の墓。送り名は善徳院殿。正室は島津重豪の娘親姫。子に氏彬、氏共(うじたか)、氏寛、氏益などがいる。明治九年(1876)、六十四歳で没。


戸田氏彬墓

 十代藩主氏彬は天保二年(1831)、氏正の長男に生まれた。安政三年(1856)、父氏正の隠居に伴い家督を継いだ。幕府に忠実で、和宮降嫁には、中山道垂井鵜沼間と江戸表を警固し、禁門の変では伏見街道を守衛して福原越後の一隊を退け、天狗党が中山道を進もうとした時は対決した。第二次幕長戦争にも参加したが、その途中病に倒れ、慶応元年(1865)八月、陣中にて三十五歳で死去した。家督は実弟氏共が継いだ。


戸田氏共墓

 戸田氏共は、安政元年(1854)の生まれ。慶応四年(1868)、藩老の輔翼により藩論を勤王に決し、ついで征東軍の先鋒隊となった。明治三年(1870)、藩政を参事に委ねて、大学南校に入学。翌年、岩倉具視の長女と結婚。藩知事を辞してアメリカに留学し、鉱山学を研究した。帰朝後、工部省鉱山寮に出仕。明治十五年(1882)には伊藤博文に随行して欧州を視察。のち特命全権公使としてオーストリアに駐在した。式部長官となり、イギリス皇帝戴冠式に参列した。昭和十一年(1936)、年八十三歳で没。


戊辰洛南之役戦死者碑

 戊辰洛南之役戦死者碑は、鳥羽伏見の戦いで、幕府方として参加して戦死した大垣藩士の供養碑である。裏面に戦死者九名の名前が刻まれている。明治四十二年(1909)建立。


山田七蔵墓

山田七蔵は軍事奉行補佐役。慶応四年(1868)年五月一日、磐城白河で戦死。三十七歳。

(スイトピア)
 スイトピアは、文化ホールや学習館、図書館などを備えた複合施設で、「水都」と「ユートピア」を合わせた造語だそうである。


スイトピア


江馬細香「冬夜」詩碑

 スイトピア内には幕末維新に関係する二つの石碑がある。
 一つは江馬細香の「冬夜」という漢詩を刻んだ石碑である。

 爺繙欧蘭書
児読唐宋句
分此一灯光
源流各自泝
爺読不知休
児倦思栗芋
堪愧精神不及爺
爺歳八十眼無

 爺(ちち)は即ち蘭斎のことを指し、繙は(ひもとく)、泝は(さかのぼる)と読む。老父蘭斎とともに灯下に蘭書を学んだ時のことを漢詩にしたものである。


維新の心の碑

 図書館の前に建つ「維新の心」碑は、平成従二年(2000)に西暦二千年と財団法人霊山顕彰会岐阜県支部二十年を記念して建立されたものである。

(常楽寺)
 常楽寺には戊辰戦争で戦死した奥富元三郎が眠る。奥富家の墓は複数あるが、側面に元三郎の法名と俗名が記載されているのがそれである。


常楽寺


奥富家之墓(奥富元三郎墓)

 奥富元三郎は大砲隊。慶応四年(1868)八月二十三日、若松で戦死。二十七歳。

(平林荘門)


平林荘正門

 長松町の平林荘は、蘭方医飯沼慾斎が天保三年(1832)隠退後、三十年にわたって植物を研究した別荘跡である。邸内には庭園式植物園を営み、舶来種をはじめ草木数百種を植えていた。その著、「草木図説」は我が国最初の科学的植物図鑑といわれる。
 平林荘正門は、戸田氏寛が維新後この場所に隠居し、大垣城七口門の一つを移築した者である。

(円成寺)


円成寺

円成寺の無縁墓石の中に向坂伝蔵の墓がある。向坂伝蔵は鉄砲頭。幕軍に属し先手組隊長。慶応四年(1868)一月五日、山城鳥羽堤にて負傷のち死亡。三十六歳。


向坂伝蔵墓

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大垣 Ⅳ

2017年09月24日 | 岐阜県
(松濤寺)


松濤寺


鹽川家累代之墓(鹽川幸五郎墓)

 松濤寺は独特な形状の本堂を持つ寺である。鹽川幸五郎がここに葬られている。
 鹽川幸五郎は、大砲隊軍長。慶応四年(1868)一月五日、山城鳥羽堤にて戦死。二十六歳。

(無何有荘跡)
 「無何有」の名前は、鉄心の師鴻雪爪による命名で、荘子の言葉「無にして何ぞ有らん」から採っている。近くに無何有の名を冠した喫茶店がある。


小原鉄心別墅 無何有荘跡入口


炭火焼珈琲 無何有

(実相寺)
 実相寺は、梁川星巌や江馬紅蘭、細香らが結成した漢詩の結社白鴎社の集会が開かれた場所である。
 境内から道を挟んで北側の墓地の無縁墓石の中に、鳥居勘右衛門の墓石がある。


実相寺


鳥居勘右衛門墓

 鳥居勘右衛門は、先手組頭。隊長。慶応四年(1868)閏四月二十五日、磐城白河籠原にて戦死。三十七歳。

(江馬蘭学塾跡)


史跡 江馬蘭学塾跡

 藤江町二丁目の道路際に江馬蘭学塾跡を示す石碑が建てられている。寛政七年(1795)、江馬蘭斎が開いた蘭学塾「好蘭堂」の跡地で、多くの門人が集った。娘の細香の書斎である湘夢書屋も江馬家邸内にあった。


(禅桂寺)


禅桂寺

 蘭学塾跡地から近い場所に禅桂寺があり、そこに江馬蘭斎、細香父娘の墓がある。


細香女史江馬氏之墓(右)
好蘭斎先生江馬君之墓(左)

 江馬蘭斎は、伝馬町で版木彫を職業としていた鷲見庄蔵の長男として生まれた。長じて大垣藩侍医江馬元澄初代春齢の養子となり、医学の道に入った。名は元恭、通称春齢(二代目)、号は好蘭斎、蘭斎といった。養父を師とし、漢方医として活躍したが、四十六歳で蘭学を志し、江戸に出て前野良沢や杉田玄白に学び、大阪、京都などより早く、美濃に西洋医学を広めた。患者には優しく接し、自身には厳しく律した。硯の水さえも井戸水を使わず、雨水を溜めて使ったといわれる。天保九年(1838)、九十二歳にて没。
 娘の細香は天明七年(1787)の生まれ。幼より画を好み、文化十年(1813)、頼山陽が来遊したとき、山陽は細香(当時二十七歳)の才情を愛し、求婚の意思があったが、父の蘭斎は一生婚せずとの細香の意を知って断った。文化十一年(1814)、京都に出て山陽の指導を受け、山陽、僧雲華、梅颸(山陽の母)らと交遊した。天保三年(1832)、山陽が病没し、細香は慟哭して挽詩三律を賦した。文政年中に、梁川星巌、村瀬藤城、神田柳渓らと白鴎社を結び、小原鉄心、宇野南村、松倉瓦鶏らと交遊して、鉄心は細香を推して盟主とした。細香の才藻、筆力は歳とともに進み、藩主戸田氏正、老侯氏庸は殊遇し、城中に招いて書を作らせ、酒饌・章服を下した。細香は妙齢より紛華を事とせず、綺羅を用いず、人となりは従順温雅で卓識あり、父母に仕えて終身結婚せず、藩老小原鉄心もよく藩政を諮詢した。常に慷慨憂国の志があり、城下に遊郭を設けるとの議があったときも、封内の風俗を乱すことを恐れ、建議して計画を中止させた。文久元年(1861)、年七十五歳で没。


逸電齋徹道義秀居士(太田七十郎墓)

 太田七十郎は大砲隊。慶応四年(1868)八月二十三日、若松にて戦死。四十一歳。

(興文小学校)
 興文小学校の校庭に小原鉄心の胸像がある。


興文小学校


小原鉄心先生像

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大垣 Ⅲ

2017年09月24日 | 岐阜県
(大垣城)


戸田氏鐡像

(濃飛護国神社)
 濃飛護国神社は、戸田氏共が明治二年(1869)に戊辰戦争戦死者五十四名を祀るために創建したものである。明治十二年(1879)には西南戦争戦死者十二名を合祀した。境内には、戸田氏共の篆額により、戸田三弥、高岡夢堂両人を顕彰した石碑がある。


濃飛護国神社


戸田三弥・高岡夢堂顕彰碑

(常葉神社)
 常葉(ときわ)神社は、大垣藩祖戸田氏西(徳川広忠、家康に仕えて戦功があった)を始め、戸田氏鐡から氏共に至る戸田家歴代藩主を祭神とする神社である。


常葉神社

(全昌寺)


雄心院忠肝義厚居士(九鬼円之助の墓)

 九鬼円之助は銃隊。慶応四年(1868)八月二十五日、若松で戦死。十七歳。


川喜多驄助墓

 川喜多驄助(総助とも)は有待兵銃隊差図役。慶応四年(1868)六月十五日、越後桂沢にて戦死。二十九歳。


市村家代々之墓(市村辰之助・鐡之助の墓)

 市村家の墓に市村辰之助、鐡之助兄弟が眠る。側面の法名のうち、「有隣院一官宗徳居士」が辰之助のものらしい。鐡之助の名前は確認できない。
 市村辰之助が新選組に入隊したのは慶應三年(1867)六月以降といわれる。翌年一月の鳥羽伏見の戦争にも参加したが、その後江戸に帰還し、慶応四年(1868)三月の五兵衛新田駐屯まで在隊したことが確認されているが、そののち脱走したと思われる。明治五年(1872)に死亡。
 弟市村鉄之助は、辰之助と同時期に新選組に加入したと思われる。慶応四年(1868)の鳥羽伏見の戦いの後も在隊し続け、箱館に渡って土方歳三付属となった。明治二年(1869)四月十五日、土方の命を受けて箱館を脱し、同年七月、日野の佐藤家に土方の遺品を届けた。その後、三年ほど佐藤家に匿われ、その後大垣に戻った。西南戦争に参加して戦死したともいわれるが、真相は不明。


贈正五位高岡夢堂君恩典記念碑

 高岡夢堂は、文化十四年(1817)、大垣藩士筒見源五兵衛宗直の二男に生まれ、同藩高岡清信の養子となった。軍学を山鹿素水、漢学を菱田毅斎に学んだ。「日本外史」を愛読し、勤王の志が厚かった。嘉永年間、藩の会計理財の事務に当り、藩政の改革を推進した。また敬教堂の督学として、学制を改め、学事の振興をはかった。慶応四年(1868)、藩内は勤王・佐幕で紛擾したが、小原鉄心、戸田三弥とともに藩主を助けて藩論を勤王に落ち着けた。ついで東征出兵に副総督として従事して、その難に処した。翌年、徴士太政官弁事となったが、辞して大垣藩大参事となった。明治二年(1869)十月、年五十三で没。


當山廿五世鐡面雪爪大和尚禅師(鴻雪爪の墓)

 鴻雪爪は文化十一年(1814)、備後因島の生まれ。雅号は雪爪のほか鉄面、江湖翁とも。松平春嶽に招請されて越前孝顕寺の住職となった。春嶽の敬重厚く、藩内に影響すること大であった。のち彦根の清凉寺に住した。明治元年(1868)、政府に文化の輸入のためにキリスト教の解禁を建白して、横井小楠とともに刺客に狙われたが、岩倉具視、木戸孝允の庇護により救われた。さらに廃仏毀釈、肉食妻帯の禁令撤廃にも尽力した。雪爪は詩文を能くし、漢籍にも通じ、この道で由利公正らとも親交があった。明治二年(1869)には教導局御用掛を仰せ付けられたが、いくばくもなく辞職し、次いで明治四年(1871)には左院少議生に任じられるとともに還俗を申し付けられた。明治五年(1872)、教部省御用掛を兼ね、中教正、東京金比羅神社祠官、権大教正を経て、明治十二年(1879)、大教正に進み、のち神仏大教院長、御岳教管長となった。明治三十七年(1904)、年九十一で没。


六十二人士墓

 戊辰戦争による大垣藩士戦死者六十二名を供養する慰霊碑が、全昌寺の本堂前に建てられている。側面には戦死者の名前が刻まれている。大垣藩は戊辰戦争において比較的多くの犠牲を払ったが、その背景には戊辰戦争に至るまでどちらかというと佐幕的行動をとっており、そのイメージを払拭するためにも最前線で奮戦する必要があったのであろう。

(奥の細道むすびの地記念館)
 奥の細道むすびの地記念館は、松尾芭蕉が「奥の細道」紀行をこの大垣で終えたことを記念して平成二十四年(2012)に開設した記念館である。


奥の細道むすびの地記念館


無何有荘 大醒榭

 かつて全昌寺境内に保存されていた小原鉄心の別荘無何有荘大醒榭がここに移築されている。
 無何有荘は小原鉄心が安政三年(1856)大垣城下の林村に設けた別荘である。無何有荘には大醒榭(たいせいしゃ)、蓬宇(ほうう)、小夢窩(しょうむか)の三亭を作り、園内には牡丹や枇杷を始めとする花卉五十種類を植えた。特に鉄心が愛する梅の樹が多く移植された。
 大醒榭は、和風に中国風意匠を取り入れた設計で、茶室、湯殿、水屋、厠の四室から構成されており、茶室の天井は葦の網代天井、屋根は茅葺き、外側は紅殻塗装となっている。南側の衝立には、江戸時代には珍しい「ギヤマン」と呼ばれたガラスが嵌め込まれている。当時の志士文人が来訪した際に記念に描いた漢詩や絵も残されており、鉄心が大醒榭で多くの志士、学者、詩人らと交わり、天下を論じていたことが伺われる。

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揖斐川 Ⅱ

2017年09月24日 | 岐阜県
(長源寺)


天籟棚橋先生之墓

 前回見逃した棚橋衝平(天籟)の墓を訪ねた。本堂裏手の山裾の、棚橋家の墓域にある。写真にある赤と白のちょうちんは、この辺りの風習らしく、お盆に墓参りをした証拠である。

(竹中医院)
 竹中医院の横に揖斐陣屋跡石碑がある。揖斐陣屋は、江戸期を通じて旗本岡田将監家が代官を務め、明治維新まで続いた。現在、陣屋跡は揖斐小学校や宅地、農地となっており、遺構らしきものは見当たらない。
 天狗党を迎えた揖斐代官は一戦を交えることを覚悟したが、棚橋衝平(天籟)が仲介を買って出て、揖斐の街を戦火から救った。


史蹟揖斐陣屋趾

(揖斐川歴史民俗資料館)
 揖斐川町の町役所から一キロメートルほど北上すると、健康広場という施設があり、サッカー場やプール、体育館などを備える広大な設備となっている。私が訪れた日も、少年サッカー大会の真最中で、たくさんの家族連れが集まっていた。健康広場に隣接して揖斐川歴史民俗資料館が建っているが、こちらは訪れる人も少なく、閑散としていた。その駐車場に棚橋天籟の顕彰碑が建てられている。


揖斐川歴史民俗資料館

 この顕彰碑には、棚橋天籟が元治元年(1864)の天狗党接近に際して一泊の便を与える代わりに戦火を交えることなく通過させたことや、慶応四年(1868)、岩倉鎮撫使が江戸に向かう途中、揖斐陣屋の議論を勤王に統一し、鎮撫使に陣屋兵を参加させたことが記述されている。さらに明治四年(1871)、時の太政大臣三条実美の援助を受けて、北方村西平の荒地を開拓して茶畑を開拓したこと、明治十四年(1881)には大野池田郡長に就任し、明治二十三年(1890)には文部大臣森有礼の要請により、岐阜尋常師範学校の初代校長となったこと、明治四十年(1907)、天籟私塾を開設したことなどが詳述されている。


棚橋天籟翁顕彰碑

(大興寺)
 大興寺に近藤勇を斬首したことで知られる横倉喜三次の墓がある。


大興寺


横倉政忠(喜三次)墓

 横倉喜三次は、文政七年(1824)、旗本岡田家の臣横倉政能の嫡子として美濃国大野郡揖斐に生まれた。天保五年(1834)、父病死により十一歳で家督を相続。長じて吉田久兵衛に剣術を学んだ。天保十一年(1840)、十七歳の時、江戸勤番。神田小川町の小野派一刀流、酒井家に入門した。天保十四年(1843)、帰郷し、弘化二年(1845)、同門の梅田棒太郎光太に入門。剣術以外に柔術、砲術を学び、旗本岡田家の武術指南役となった。神道無念流は皆伝。慶応四年(1868)二月、美濃大垣に到着した東山道軍先鋒総督岩倉具定に勤王を誓った岡田家は家老柴山理太郎以下四十三名を従軍させることを決し、喜三次はその副隊長として従軍した。同年四月、板橋で近藤勇を斬首。明治二十七年(1894)、七十一歳で没。

(深坂陣屋跡)
 揖斐川町谷汲深坂集落に深坂陣屋跡がある。僅かに往時の石垣が残されているのみであるが、陣屋門が近くの円立寺に移築保存されている。
 深坂陣屋は、大垣藩主戸田氏の分家深坂戸田氏が治めた。幕末、この家から嘉永六年(1853)、ペリー来航時に浦賀奉行を務め、応接した戸田氏栄(うじよし)が出た。


深坂陣屋跡

(円立寺)
 円立寺は深坂戸田氏の菩提寺で、六代氏栄に至る領主の位牌が祀られている。氏栄はペリーとの接見の後、安政元年(1854)には西丸留守居番、同四年(1857)に大阪町奉行に抜擢され、順調に栄進したが、安政五年(1858)、任地大阪で病没した。年六十。


円立寺


旧陣屋門
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