本屋でこの本を発見し、いそいそとレジにもっていくと、店員から「この本、懐かしいですね。以前は新書で出ていましたよね。」と声をかけられた。この本が刊行されたのは、平成十一年(1999)のことなので、違う形態で刊行されていた可能性はあるが、それを聞いた私は「また、やってしまったか」と瞬時に思った。題名に飛びついて買うと、よく同じ中身の本を買ってしまうのである。自宅に戻って書棚を調べたが、どうやら同じ本は無かった。
戊辰戦争と言えば、鳥羽伏見から始まって上野戦争や会津戦争、箱館戦争が有名である。市川や船橋で戦争があったことなど、地元の人でもあまり知らないのではないか。
本書冒頭では、市川・船橋周辺に点在する戦死者の墓を紹介している。既に訪問済みのものも多いが、どうしても遭遇できないのが、中山法華経寺にあるという脱走方鈴木音次郎の墓である。法華経寺の墓地を二回隈なく探したが、見付けられないでいる。本書では「私は未見である。広い墓地の古い墓石の群れの間を丹念に歩くには時間が足らなかった」と述べられているが、本に掲載するのであれば、自分の目で確かめてからにして欲しいものである。もはや存在していないのであれば、こちらも歩き回る手間が省けるというものである。
それから船橋大神宮そばの東光寺の墓。本書によれば「近年発見された」というが、こちらもいくら探しても行き当たらない。筆者によれば「二度そこの墓地を歩いてみたが見つけることができなかった」とされているので、この墓は撤去もしくは他所に移動されてしまったのかもしれない。
本書の主題は、若き日の江原素六(鋳三郎)である。江原素六といえば、沼津兵学校の中心人物であり、麻布中学校の創立者として名を残した。維新以降の活躍が有名であるが、本書では明治以前の姿を中心に描き、維新後の事績はほんの数ページで紹介しているのみである。
江原素六は幕臣の中でも最下層である黒鍬者の出身である。苦学の末、頭角を表した。実父江原源五は、「学問など無用」という考えに凝り固まった人だったようであるが、周囲の説得や支援により、幕府の開いた講武所に通うことになり、幕末には撤兵隊の指揮官を務めるまで出世を遂げた。絵に描いたような極貧からの出世物語である。
末尾のプロフィールによれば、筆者内田宜人氏は、中学教員から教職員組合の活動という経歴の方で、相当筆力のある方とお見受けした。本書以外にも労働運動に関する著述を残されているようである。
幕末史にも一家言お持ちのようである。鳥羽伏見前夜、一般的には徳川慶喜は薩長との武力衝突は下策としていたにもかかわらず、幕臣や会津藩兵の血気を抑えきれず進軍命令を発してしまったといわれる。筆者によれば、それは「明治以降の史観に合わせての慶喜弁護論に過ぎない」「大政奉還戦術では失敗した権力集中への戦略を放棄したということはありえない。残っている方策は薩長との武力対決である」とするが、ここは多少議論のあるところであろう。
確かに数の上では幕軍の方が上回っていたし、武力衝突によって幕軍が勝利を収めれば再び権力を取り戻すことも可能だったかもしれない。しかし、一方でこの時、慶喜を新政府の要職で迎え入れるという運動も奏を効しつつあった。岩倉具視も容認する姿勢だったといわれる。その動きは慶喜の耳にも届いてたであろうし、それを考えるとこのタイミングで武力に訴えたのはやはり下策というべきではないか。慶喜が本当に武力によって権力を取り戻すつもりがあったのなら、鳥羽伏見で敗れても、まだ挽回の余地はあったように思うのだが。
戊辰戦争と言えば、鳥羽伏見から始まって上野戦争や会津戦争、箱館戦争が有名である。市川や船橋で戦争があったことなど、地元の人でもあまり知らないのではないか。
本書冒頭では、市川・船橋周辺に点在する戦死者の墓を紹介している。既に訪問済みのものも多いが、どうしても遭遇できないのが、中山法華経寺にあるという脱走方鈴木音次郎の墓である。法華経寺の墓地を二回隈なく探したが、見付けられないでいる。本書では「私は未見である。広い墓地の古い墓石の群れの間を丹念に歩くには時間が足らなかった」と述べられているが、本に掲載するのであれば、自分の目で確かめてからにして欲しいものである。もはや存在していないのであれば、こちらも歩き回る手間が省けるというものである。
それから船橋大神宮そばの東光寺の墓。本書によれば「近年発見された」というが、こちらもいくら探しても行き当たらない。筆者によれば「二度そこの墓地を歩いてみたが見つけることができなかった」とされているので、この墓は撤去もしくは他所に移動されてしまったのかもしれない。
本書の主題は、若き日の江原素六(鋳三郎)である。江原素六といえば、沼津兵学校の中心人物であり、麻布中学校の創立者として名を残した。維新以降の活躍が有名であるが、本書では明治以前の姿を中心に描き、維新後の事績はほんの数ページで紹介しているのみである。
江原素六は幕臣の中でも最下層である黒鍬者の出身である。苦学の末、頭角を表した。実父江原源五は、「学問など無用」という考えに凝り固まった人だったようであるが、周囲の説得や支援により、幕府の開いた講武所に通うことになり、幕末には撤兵隊の指揮官を務めるまで出世を遂げた。絵に描いたような極貧からの出世物語である。
末尾のプロフィールによれば、筆者内田宜人氏は、中学教員から教職員組合の活動という経歴の方で、相当筆力のある方とお見受けした。本書以外にも労働運動に関する著述を残されているようである。
幕末史にも一家言お持ちのようである。鳥羽伏見前夜、一般的には徳川慶喜は薩長との武力衝突は下策としていたにもかかわらず、幕臣や会津藩兵の血気を抑えきれず進軍命令を発してしまったといわれる。筆者によれば、それは「明治以降の史観に合わせての慶喜弁護論に過ぎない」「大政奉還戦術では失敗した権力集中への戦略を放棄したということはありえない。残っている方策は薩長との武力対決である」とするが、ここは多少議論のあるところであろう。
確かに数の上では幕軍の方が上回っていたし、武力衝突によって幕軍が勝利を収めれば再び権力を取り戻すことも可能だったかもしれない。しかし、一方でこの時、慶喜を新政府の要職で迎え入れるという運動も奏を効しつつあった。岩倉具視も容認する姿勢だったといわれる。その動きは慶喜の耳にも届いてたであろうし、それを考えるとこのタイミングで武力に訴えたのはやはり下策というべきではないか。慶喜が本当に武力によって権力を取り戻すつもりがあったのなら、鳥羽伏見で敗れても、まだ挽回の余地はあったように思うのだが。