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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「歴史を知る楽しみ」 家近良樹著 ちくまプリマ―新書

2018年12月28日 | 書評
世の中に歴史家という人種は数多存在しているが、その中にあって個人的にもっとも波長が合っている気がしているのが、本書の著者家近良樹先生(大阪経済大学特別招聘教授)である。
第一章では「歴史学者のしごと」と題して、小説と歴史学の違いを説く。「時代小説家の書いたものを全面的に真実だと受けとめている人が多い」と嘆くが、この背景には「「創作」話を、あたかも、この世で実際に起こった出来事であったかのように読者に思わせる、時代小説家の筆力(力量)が大いに関係している」のである。史料的裏付けに基づいて記述するのが歴史家であり、史料にない空白部分を豊かな想像力で補うのが小説家の仕事である。
実在の人物を題材にした小説では、読者は「これが本当にあったこと」だと思うことで、ことさら感動を催すものであり、作家はその作用を利用するために、まるで「本当にあったこと」のように描くのである。
話は少し逸れてしまうが、先日最終回が放映された大河ドラマ「西郷どん」は、ほぼ八割・九割が創作であった。それでも私が最後までこの番組を視聴し続けたのは、出演俳優の熱演に心を打たれたからに他ならない。
脚本において、安政の大獄、寺田屋事件、長州征伐、王政復古のクーデター、戊辰戦争、岩倉使節団、明治六年政変、西南戦争、大久保暗殺という「点」は史実であるが、点と点を結ぶ線はほぼ全てが創作と断言してよい。私は心の中で「そりゃないだろ」と呆れながらも、熱演に引きずられて結局最終回まで視ることになった。それにしても、どれほどの視聴者がこれを創作と思ってみているのだろうか。せめて「これは歴史を題材としたフィクションです」と断りを入れるのが、公共放送としての良心ではないか。
西郷菊次郎の子供時代を演じて一躍人気者となった城桧吏君はインタビューに答えて「歴史って面白いなと思いました」と語っているが、正確にいえば「歴史が面白い」のではなく、「歴史の名を借りた物語」が面白いのであって、これを混同してはいけない。NHKの影響力が大きいだけに、大河ドラマをみてこれが真実だと思いこむ日本人が大量発生することを危惧している。
第二章「なぜ西郷隆盛は人気者なのか」では、筆者は若者の歴史離れを嘆く。「日露戦争のことをまったく知らない学生が現れた」「織田信長が幕末維新期に活躍したと信じている学生」が存在していることもわかり、ショックを受けたと告白している。さらに株式会社ドワンゴの夏野剛氏が「日本人のプログラミング力を上げるうえで、別に日本史なんか教えなくてもいい」といった発言をしたことを取り上げている。筆者は「そのあまりのあっけらかんとした無邪気な発言に、ある種の哀しみ、淋しさを覚え」たと嘆く。
夏野氏の発言がどのような文脈で発せられたのか、本書では詳しく述べられていないが、いずれにせよ、世の中、歴史離れが進み、それが行き過ぎて一部では歴史蔑視の風潮すら生まれているのかもしれない。夏野氏の発言は、氷山の一角であろう。
筆者は「プログラマーにも日本史は必要だ」「過去を知らなければ現在は分からない」「先人の生き方から学べ」と掻き口説くように主張する。筆者の叫びは悲痛ですらある。私などはその国の歴史は民族の背骨のようなものであり、歴史を軽視する民族に将来はないと信じている(なかなかそれを論理的に説明せよといわれると難しいが…)。歴史を学ばなくてはいけないのは何もプログラマーに限ったことではなく、全ての国民にとって必須科目であろう。
筆者によれば、江戸期から明治期にかけて生きた日本のリーダーたちは「名を後世に残すとともに後世の歴史家からどのように自分のとった行動が評価されるかとひどく気にしていて生きた」という。
たとえば、文久二年(1862)の寺田屋騒動で壮絶な斬り合いの結果、落命した薩摩藩士、文久三年(1863)の生野挙兵で散った秋月藩の戸原夘橘や長州藩士、慶応四年(1868)の神戸事件で切腹を命じられた瀧善三郎、堺事件の土佐藩士ら、いずれも鮮烈な印象を後世に残しているが、彼らはいずれも名を惜しみ、潔い最期を演出して、そのとおり死んでいった。自らの美意識に従って死ぬことを非常に意識していた。「時代の空気」といってしまえば身もフタもないが、少しは現代に生きる我々も見習いたいものである。さすれば、意地の汚い詐欺事件だとか、身勝手極まりない殺人事件とか、自己中心的なあおり運転といったみっともない事件も少しは減るであろう。
第三章「「支配者の歴史」から「民衆の歴史」へ」では、一世を風靡したマルクス主義史観について解説する。マルクス主義史観とは、「階級闘争の末に人類の歴史が進歩発展し、最終的には労働者階級が資本家階級に勝利し、社会主義体制が誕生する」というものである。しかし、現実の歴史が物語るように、資本家階級を打倒して社会主義が実現した例はないし、資本主義は今も健在である。さらにいえば、社会主義を国是としている国であっても資本主義的体制をとらないと現代社会で生き残れないのは自明である。
筆者は、「勝者中心の歴史観に違和感がある」「歴史の多様性がなかなか認められない」と、マルクス主義史観を批評する。私も人間(個人)不在の史観には興味も持てないし、納得もできない。しかし、ロシア革命(1917)以来、マルクス主義史観は多くの若者に支持され、あたかも「絶対的真理」となった観があった。筆者はここで佐々木寛司という研究者を紹介する。マルクス主義史観に対する批判を許さないような時代風潮の中にあって、彼は健全な批判精神を発揮したというのである。流れに竿をさす勇気も称賛に価するが、それを許す空気というのも大事だと思う。
第四章「学校では教えてくれない日本史」では、「なぜ各地の戦国大名の墓が高野山にあるのか」「なぜ一揆で鉄砲が使われなかったのか」「なぜペリー来航は特別視されるのか」といった問いを通じて、歴史を勉強する楽しみを説く。
第五章「過去と未来をつなぐ」では歴史離れが進む我が国と比べ、中国も韓国も多くの授業時間を歴史教育に割いている事実を指摘する。先方の教育内容の是非はともかく、日々せっせと反日教育をやっているというのに、あまりに我が国は無防備であろう。
歴史マニアを自認する私でも、日露戦争から後の歴史になると途端に知識がしぼんでしまう。昭和史に至ってはさっぱりスットコドッコイである。本当に「歴史に学ぶ」のであれば、通常の日本史の授業以外に、現代史という授業があっても良いのではないか。
筆者は、司馬作品には「創作」以外にも明らかな事実誤認が多く含まれていると批判する一方で、司馬遼太郎の修辞能力を絶賛する。例にあげたのは「街道をゆく」である。司馬遼太郎はとても無口な人を「樋から、雨上がりのあとポツリポツリと落ちる水滴のような話し方をする人」と表現した。司馬作品を読んでいると、この手の見事な修辞に随所で出会う。これも司馬作品の魅力の一つとなっている。歴史家であれば、単に「寡黙な人」で済ませてしまうところだろう。歴史家にも多少の文学性が必要というのが、筆者の結論である。確かにもう少し読者に面白く読ませる工夫が必要かもしれないが、あまり無用な修辞が目につく歴史書も「信用性」に欠けるかもしれない。
筆者は、歴史を学ぶこと、さらに読書の効用を熱心に説く。これが、家近先生が本書で一番いいたかったことかもしれない。歴史を学ぶと「原因と結果で物事を合理的に考える習慣が身につく」「論理的に自分たちの考え(方針)を相手側に伝え」「雑談力がつく」、「現在を自分が生きている時代の特色がよく理解できるようになる」「先人の生き方を大いに参考にできる」「歴史を学ぶことで「人物」を育てる」という。
読書の効用としては「自分の視点や思考の幅が広がる」とか「人を見る目を養ってくれる」「先人が長いあいだかかって営々と培ってきた知識を借用することで、時間を無駄にしないで済みます」「退屈がまぎれる」「人生を歩むうえでの重要なヒントを得られる」といった点を挙げる。
ほかにもあるかもしれないが、歴史を学ぶこと、本を読むことで得られる効用は、筆者のいうとおりであろう。しかし、そのような効用を得ようとして最初から歴史を学ぼうという人もそう多くはあるまい。私も単純に歴史が楽しいから、興味があるから、知りたいからのめり込んだのであって、それ以上でも以下でもない。その結果、特別な知識や教養が得られたとしてもそれは結果でしかない。そういう意味では、ほかの趣味と大差はない。知れば知るほど面白いのが歴史であり、もっと多くの人に興味を持ってほしいと思う次第である。
読書も同じ。本を読めばそれだけ知識が広がり、人生にもプラスになることは間違いないが、多くの読書家は別に効用ばかりを求めて本を読んでいるわけではなかろう(だったらノウハウ本ばかりが売れることになってしまう)。
ただ一つ言えるのは、同じ時間を過ごすのであれば、テレビ・ゲームなどで無為に浪費するより、読書した方が余程良いということである。人生には限りがあるのだから。
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「彰義隊の上野戦争~明治150年に考える」 彰義隊子孫の会創立記念 市川総合研究所主催シンポジウム

2018年12月28日 | 講演会所感
九月の会津史跡旅行でご一緒したSさんからこのシンポジウムを紹介いただき、前々からこの日を楽しみにしていた。午前中は市川で野球の練習試合があり、珍しく接戦の末勝利を収めた。試合が終わったら市川の駅前でラーメンをかきこんで、急いで会場である東京大学安田講堂に駆け付けたが、結果的にはそれほど急がなくても十分間にあった。


東大安田講堂

 受付で入場料二千円を支払う。受付ではSさんが忙しそうに働いていた。挨拶だけを交わして、直ぐに会場に入った。この手のシンポジウムや講演会で二千円というのは、少々高い印象をぬぐえないが、盛沢山の中身を知れば納得のお値段であった。

まず長唄の実演があり、続いて八人のパネリストによるパネルディスカッションがあり、さらに川柳で彰義隊を供養しているという台東川柳人連盟の活動紹介があり、最後に天心流兵法の演武奉納がありと、やや詰め込み過ぎといって良いほど充実したプログラムであった。
最初の長唄は、彰義隊士関弥太郎が維新後岡安喜平次を襲名し、長唄岡安派を興した。岡安喜平次ゆかりの長唄「楠公(なんこう)」の実演である。演奏は三味線だけでなくお囃子を伴う、賑やかで劇的なもので、邦楽としては極めてエンターテインメント性の高いものということができよう。それでも、リズムの変化が乏しく、和音や変奏もない長唄は、退屈なものである。
幕末外国人が来航した時、日本人は邦楽でもてなしたが、もてなされた外国人はのちに「苦痛だった」と振り返っている。西洋音楽に馴染んだ耳には邦楽は耐えがたいものである。
私はどちらかというと「日本が大好き」な人間であるが、こと音楽に関しては我が国の伝統的音楽は、西洋の音楽に全く叶わないと思う。
パネルディスカッションは、「彰義隊と上野戦争」を知るために、考えられる最高の八人をそろえたのではないかと思わせる顔ぶれであった。その八人とは、浦井正明(寛永寺長臈、台東区教育委員会委員長)、桐野作人(薩摩出身の作家)、小林達夫(映画監督、彰義隊を題材にした映画「合葬」製作)、星亮一(言わずと知れた会津史観を代表する作家)、森まゆみ(作家、「彰義隊遺聞」など)、森田健司(大阪学院大学教授、「明治維新という幻想」「西郷隆盛の幻影」など)、山本栄一郎(山口県在住、大村益次郎研究家)、山本博文(歴史学者)。それぞれ十五分ほどの持ち時間で、彰義隊と上野戦争に対する思いの丈を話されたが、本来軽く一時間くらいは話す内容を持っている人たちがわずか十五分という短時間に制約されてしまうというのは、最初から無理があったかもしれない。
ゴリゴリの「会津史観」の星亮一氏や歴史の見方に偏りのある森田健司氏と、薩摩派の桐野作人氏、大村益次郎研究家の山本栄一郎氏が、ガチンコでパネルディスカッションをすれば、殴り合いの喧嘩になっても不思議はないが、そこはさすがに皆さん大人で、この場であまり極論を吐くような場面はなかった。
桐野氏によれば、激戦となった黒門口では、薩摩藩の猛攻が突破口となったといわれるが、実際には薩軍は相当追い込まれていた。黒門口突破の契機となったのは、意外にも「雁鍋」から彰義隊の砲隊を狙撃した藤堂藩兵だったという。
森田健司氏については、私も氏の著作を読んだことがあるが、あまりに偏向した内容に今後二度と氏の本を読むまいと思ったものである。しかし、この日の話は、氏得意の風刺錦絵に限ったものであり、面白く聞くことができた。当時の錦絵を通じて、彰義隊や当時の動きを庶民がどのようにとらえていたのかを知ることができる。
山本栄一郎氏は、大村益次郎研究の第一人者として知られる。大村益次郎は戦争好きだったとか、西郷隆盛と仲が悪かったとか、いわゆる「俗説」を次々と否定する。大村益次郎といえば、「豆腐好き」で知られるが、「豆腐ばかりでは身がもたない。実は豚鍋も好物だった」という。氏は「幕末の仕事師「村田蔵六」―大村益次郎」を上梓されている。今日の話を聞いて読んでみたいと思ったが、amazonでも見付けられなくて入手が難しい。
ほかにも森まゆみ氏の「彰義隊遺聞」が近々再刊されるとか、小林達夫監督が「合葬」(原作は杉浦日向子の漫画)を映画化したとか、貴重な情報をたくさん得ることができた。会場は六~七割の入りだったが、もっと多くの人に来てもらいたいシンポジウムであった(平成三十年(2018)十二月二日)
コメント (1)
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日暮里 ⅡⅩⅦ

2018年12月28日 | 東京都
(谷中霊園つづき)


従五位勲五等小松済治君之墓

 小松済治は馬島瑞謙の長男として弘化三年(1846)に生まれた。山本覚馬に蘭学を学び、十七歳で長崎に行き、西洋医学を修めた。その後、ドイツに留学して法律を学んだ。明治二年(1869)帰国して紀州候の顧問。明治四年(1871)、東京裁判所二等書記官の時、岩倉使節団に選ばれ渡欧米。大久保利通、伊藤博文に随行して日本に戻った。明治二十六年(1893)、死去。四十七歳。墓碑は山内香渓の撰、中林梧竹の篆額。【乙6号3側】


会津藩馬島瑞謙先生之墓

 馬島瑞謙は文化八年(1811)生まれ。父は馬島瑞延。蘭学を志し、安政六年(1859)、外国奉行水野筑後守が北米合衆国に出航する際、瑞謙もまた藩命で随行するため、江戸に滞在中、にわかに発病し、同年八月、和田倉藩邸にて没。【乙6号3側11番】


近藤幸殖 近藤捨子之墓(近藤織部の墓)

 近藤織部は文化十年(1813)、伊勢亀山の生まれ。諱は幸殖。詩を梁川星巌、国学を鬼島広蔭に学び、佐々木弘綱、井上文雄、藤森弘庵らと交わり、国学者でありながら嘉永三年(1850)、藩の家老職を継いだ。藩政に関わってからは有為の人材養うため抜擢して江戸に送り、万延元年(1860)藩の兵制改革を行い、文久三年(1863)、将軍家茂上洛に当たって三条実美と会い、藩情を述べて報功を誓い、また内意を黒田頑一郎に含め、諸藩志士と結んで他日を期した。朝廷の親兵設置に際して小藩にかかわらず藩士九名を選んで参加させた。これがため幕命により頑一郎とともに国に蟄居させられた。慶応四年(1868)正月、幽閉を解かれ軍事奉行となって藩政の刷新に力を注ぐも、保守派のため再び幽閉された。翌二年(1869)、朝命にてこれを解かれ、同年九月、亀山藩大参事に任じられた。明治四年(1871)、廃藩後閑地についた。明治二十三年(1890)、東京で没。年七十八。


正七位岩田三蔵墓

 岩田三蔵は大蔵官吏。文政五年(1822)生まれ。下総香取郡出身。幕府に出仕し、炮兵指揮官となり、のち御徒目付。慶応二年(1866)、函館奉行小出大和守秀実を正使とする国境協定のための遣露使節に随行。マルセイユ・パリを経てペテルブルグに赴いた。交渉終了後、パリで徳川昭武に会い、マルセイユ経由で慶応三年(1867)五月、帰国。維新後、民部省出仕。印刷事監工審査。明治十一年(1878)印刷局一等技手。明治二十年(1887)没。六十六歳。【乙3号3側】


伊豫 西園寺家累代之墓

 西園寺公成(きんなる)は愛媛県宇和島出身。宇和島藩小姓頭、目付役など歴任。藩主伊達宗城に従い伏見の役に従軍。堺でフランス人を殺害した土佐藩士が切腹した際、検視役をした一人。明治三年(1870)大阪府大参事。のち伊達家家令、第一国立銀行・日本鉄道会社等の取締役を歴任。明治三十七年(1904)没。【乙11号9側】


大橋氏巻之墓

大橋巻子は文政七年(1824)、下野宇都宮の豪商大橋淡雅の長女に生まれた。天保十四年(1843)十八歳のとき、佐藤一斎門下の逸材、訥庵清水順蔵を夫に迎えて大橋家を相続した。尊攘学者の夫と交友志士を助援。文久二年(1862)の坂下門外の変では常陸水戸、下野宇都宮提携志士たちの密会所として自邸を提供し、資金調達と志士隠匿に腐心した。襲撃決行三日前、宇都宮藩士岡田慎吾らの企てた別件が発覚し、訥庵も連座して逮捕された。巻子は素早く証拠書類を焼却し、坂下事件の漏洩を防いだ。奉行所の苛烈な尋問にも屈せず、訥庵の事件首謀者たる嫌疑の立証を不可能とした。著書「夢路日記」は天下に流布し、志士の感動をよんだ。明治二十四年(1891)、年五十八で没。【甲9号17側】


訥庵大橋君之墓

 大橋訥庵は文化十三年(1816)、兵学者清水赤城の四男として江戸に生まれた。下野宇都宮の豪商大橋淡雅の養子となった。名は正順。字は周道、曲洲、通称は順蔵、号は訥庵。幼少時より文武一致の実学を学び、二十歳のとき佐藤一斎に入門。一斎の紹介で大橋淡雅の娘巻子と結婚した。日本橋に「至誠塾」を開き、また宇都宮藩主はじめ諸士に尊攘思想を講じた。安政四年(1857)に著した「闕邪小言」四巻により天下に訥庵の名を知られることになった。文久二年(1862)、老中安藤信睦を襲った事件では、常陸水戸、下野宇都宮市史提携の黒幕となり、事件後、義弟菊地教中ともども逮捕投獄された。出獄したものの数日後、文久二年(1862)七月十二日、死去。年四十八。【甲9号17側】


淡雅大橋知良之墓

 大橋淡雅は寛政元年(1789)の生まれ。初め医者を志したが、十五歳のとき宇都宮の豪商菊地家(佐野屋)の養子となるや、商才を発揮し、文化十一年()正月、江戸日本橋元浜町に借地して商売を始めて、一代にして巨富を成した。営業品目は呉服、木綿、質屋、両替などで、金貸しも行った。渡辺崋山をはじめ当代一流の文人墨客と交遊し、また自らも書筆に長じ、鑑定を能くした。菊地家の養子でありながら、大橋姓を名乗り、その後嗣に「商人は不都合」として大橋訥庵を娘巻子の婿とした。後年の坂下門外の変の遠因はここに端を発している。嘉永六年(1853)、年六十五で没。【甲9号17側】


安井顕比之墓

 安井顕比(あきちか)は、天保元年(1830)の生まれ。加賀藩士。改作奉行、軍艦奉行等を歴任。文久・元治の激動期に加賀勤王党を支援した。明治元年(1868)、上洛すると太政官御用掛に任用された。国家老本多政均が入京すると、長州藩の大村益次郎と引き合わせて、長州藩との連携を画策した。その後、内国事務局権大参事として新潟に赴き、北越戦争では軍務局を兼ねた。明治三年(1870)、金澤兼権大参事。藩知事の前田慶寧の命で利嗣の教育係となった。明治六年(1873)、三条実美に蝦夷地開拓の建議書を出した。その後、官を退き藩の史料編纂に従事した。明治二十六年(1893)、六十四歳で没。【甲新13号39側】

(南泉寺)


花俣家累世之墓
(花俣鉄吉の墓)

 森まゆみ著「彰義隊遺聞」(新潮文庫)によれば、彰義隊士花俣鉄吉の墓らしい。
 花俣鉄吉は、上野戦争から二か月ほど経った慶応四年(1868)七月下旬、天王寺詰組頭の一人であった花俣鉄吉は、根津に潜伏していたが、廓の総門辺りで見つかり、官軍数十名になぶり殺しにされたという。大工に変装していた花俣は、匕首(あいくち)一本で抵抗したが、無残にも斬られてしまった。

(長安寺)


長安寺

 長安寺に明治初期の日本画家狩野芳崖の墓がある(台東区谷中5‐2‐22)。
 狩野芳崖は、文政十一年(1828)長府藩御用絵師狩野晴皐(せいくう)の長男に生まれた。十九歳のとき江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎と称された。明治維新後、西洋画の流入により日本画の人気は凋落し、芳崖も窮乏に陥ったが、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。明治十七年(1884)第二回内国絵画共進会で褒状を受けた。狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟、雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。代表作に「悲母観音図」「不動明王図」(いずれも重要文化財)がある。明治二十一年(1888)、天心、雅邦らとともに東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年十一月、六十一歳で歿した。墓所は、長安寺墓地の中ほどにある。


東光院臥龍芳崖居士墓(狩野芳崖の墓)


狩野芳崖翁碑

 本堂前には狩野芳崖の略歴、功績を刻んだ石碑が建てられている。大正六年(1917)建立。撰文は三島毅。

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郡山 Ⅳ

2018年12月21日 | 福島県
(安積国造神社)


安積国造神社

 さて、今回の会津の旅はこれで終わりではない。郡山で新幹線に乗り換えるまでの三時間、郡山市内で史跡を訪ねた。
 駅に近いまぜっさプラザ(観光案内所?)という施設で自転車を借りる。与えられた時間は二時間半余り。効率よく回らなければならない。最初の訪問地は、安積国造神社である。まぜっさプラザから交差点を挟んで反対側にある。


安積天満宮

 郡山総鎮守安積国造神社(あさかくにやっこじんじゃ)は、幕末の儒者安積艮斎(ごんさい)の生誕地である。境内には安積艮斎記念館や安積艮斎を祀る天満宮などがある。


郡山邨八幡神祠之碑

 境内に古い石碑が二基建てられている。いずれに安積艮斎の撰文である。
 向かって左手に立つのが、郡山邨八幡神祠之碑で、鳥取藩支藩若桜半池田冠山の銘、福山藩奥詰小島成斎篆額並びに書。文化七年()の社殿再建竣工を祝し。文化十四年()に建てられた。八幡神社の由緒や再建の経緯が記されている。
 もう一つが安藤脩重(もろしげ)翁碑。岡鹿門の撰文。幕府老中で神道管長稲葉正邦篆額。幕末明治にわたり郡山の指導者として活躍した安積国造神社第五十九代宮司安藤脩重の事績を記したものである。


正二位三條西季知詠書碑

 三条西季知の詩が刻まれた石碑である。

 陰たかくさかゆるみれはこれも猶
 ちよ松の木におなしかりけり

 社務所の声をかけて安積艮斎記念館の鍵を開けてもらう。拝観は無料。
 安積艮斎は、寛政三年(1791)、安積国造神社第五十五代宮司安藤親重の三男に生まれた。名は重信。字は子順。通称祐助。昆斎と号した。十七歳にして志を立てて江戸に出奔し、千住で僧日明に出会い、その紹介で佐藤一斎の門に入った。継いで林述斎の門人となった。艮斎は二十四歳で江戸神田駿河台に私塾を開いて門弟を教育した。四十一歳のとき論考などをまとめて「艮斎文略」を出版。昆斎の開明的な思想が広く知られるようになった。艮斎は山水に遊ぶことを楽しみとし、その紀行文を書いた。伊豆半島を巡った「遊豆紀勝」は、芭蕉の「奥の細道」と並ぶ紀行文学と賞された。昆斎の詩文は「日本八大家文読本」「摂東七家詩鈔」「東瀛(えい)詩選」などの選集にも掲載された。
 昆斎は、渡辺崋山、高野長英らとともに尚歯会を結成し、海外知識にも通じ、西洋列強の世界侵略に強い危機感を抱いた。漢訳された洋書から情報を得て「洋外紀略」(嘉永元年)を著し、世界情勢や海防論を説いた。
 天保七年(1836)、二本松藩儒となり、天保十四年(1843)、二本松へ赴任。藩命により「明朝紀事本末」全八十巻を校訂出版し、一年半で江戸に戻った。嘉永三年(1850)、幕府の昌平坂学問所教授に就任、将軍徳川家慶に進講した。嘉永六年(1853)、ペリー来航の際、アメリカからの漢文の国書を翻訳し、開国か鎖国かと世論が分かれる中、外交意見書を提出した。同年、プチャーチンが持参したロシア国書を翻訳し、返書を起草した。門人は二千二百八十余名に上り、近代日本を開いた人材を多数輩出した。晩年は学問所内の官舎に住み、万延元年(1860)、七十歳で歿した。現在の湯島聖堂が終焉の地である。幕末、「東の安積艮斎、西の斎藤拙堂」と並び称され、三島中洲が「幕末儒宗」と称賛している。


安積艮斎記念館

 門人の中には ――― 小栗上野介、栗本鋤雲、岩崎彌太郎、前島密、吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、木村摂津守、福地源一郎、谷干城、吉田東洋、間崎哲馬、清河八郎、斎藤竹堂、中村正直、重野安繹、三島中洲、岡鹿門、大須賀筠軒(いんけん)、松本奎堂、松林飯山、林壮軒、秋月悌次郎、南魔鋼紀、菊池三渓、岡本黄石、吉田大八、鷲津毅堂、阪谷朗蘆、神田孝平、宇田川興斎、楫取素彦、宍戸璣、倉石侗窩、安場保和、近藤長次郎 ――― と錚々たる名前が連なる。


昆斎先生之像

 銅像の題字、撰文は徳富蘇峰。誕生の地は日下部鳴鶴の書。


昌平黌教授贈従四位昆斎安積先生誕生地

(開成山公園)


開成山公園

 開成山公園は灌漑用の池として造成された五十鈴湖を中心に、明治初年に整備された公園である。明治十一年(1878)、園内には八百七十一株の桜が植樹され、今では県内屈指の桜の名所となっている。平成三年(1991)に開拓の群像碑が建立された。


開拓の群像碑


開拓の群像 大久保利通

 群像碑の足もとには、安積疏水やこの地方の開拓に功績のあった中条政恒、大久保利通、ファン・ドールンらの像が置かれている。さらに目を転じると、どういうわけだかサルや雉や鹿も台座に彫られている。

(開成山大神宮)


開成山大神宮


旧二本松藩士族 入植者の碑

 開成山公園の道路を挟んで西側にあるのが開成山大神宮である。明治六年(1873)、大槻原開墾が始まった際、習俗の異なった人びとの融和や慰安の場所として遥拝所が設けられた。明治九年(1876)には伊勢神宮の御分霊が奉還され、開成山大神宮となった。明治十二年(1879)に安積疏水の起業式が開かれ、内務卿伊藤博文らが臨席した。三年後に安積疏水が完成した際の通水式には右大臣岩倉具視、大蔵卿松方正義、農商務大臣西郷従道らの政府高官が出席している。


阿部茂兵衛銅像

 戊辰戦争で郡山の町の大半は戦火で焼失したが、明治政府は殖産興業と士族授産により復興を図った。明治五年(1872)、時の福島県典事中條政恒は「開拓告諭書」を出し、政策を推し進めた。中條に物産方(金融業)阿部茂兵衛、鴫原弥作、橋本清左衛門を加えた四人で話し合い、開成山(大槻原)開拓を決めた。町の復興を願う郡山の商人は、阿部茂兵衛を中心に二十五人が集い、明治六年(1873)四月、開成社を設立し、阿部茂兵衛を初代社長に選出した。開拓地までの道(現・さくら通り)を作り、灌漑用水池(現・五十鈴湖)を造成、心のよりどころとして開成山大神宮を勧請、そこに開拓事務所として開誠館を建設した。
 明治天皇は、明治九年(1876)と明治十四年(1881)の二度にわたって開拓されて誕生した桑野村を訪れた。この地が後の国営事業安積原野開拓と安積疏水事業に繋がり、郡山の発展の礎となった。
 阿部茂兵衛は、開拓に必要な農業用水を確保するため、明治十二年(1879)、安積疏水開削事業にも献身し、学校の整備、鉄道敷設にも奔走した。財産のほとんどを注ぎ込んで郡山の発展に尽くした。最後の仕事に移庁運動があるが、福島県庁移転の国の決定を待たずして、明治十八年(1883)没した。
 この銅像は、阿部茂兵衛の功績を称えるために昭和四年(1929)に建立された。戦時中、金属供出のため喪失したが、昭和二十八年(1953)、明治天皇に拝謁した折のモーニング姿で再建された。

 阿部茂兵衛銅像の隣には中條政恒翁頌徳碑。中條政恒は、天保十二年(1841)に、米沢藩士の長男として生まれた。藩校興譲館で学んだ後、江戸に出て学問を修め見聞を広めた。幕末には樺太移住開拓を持論とし、後に北海道開拓を提案したが採用されなかった。明治五年(1872)、福島県令安場保和に大槻原開墾の指導者として迎えられ、開成社の協力を得て明治九年(1876)には桑野村を誕生させた。明治十二年(1879)からは安積疏水開削と安積野開拓という二つの事業を推進した。碑文は大久保利通の長男利武の撰文。彫像は北村西望。


中條政恒翁頌徳碑

さらにその左には安積野開拓顕彰碑が建てられている。国営安積開拓入植百周年を記念したもの。


開拓碑

(神山霊園)
 神山(しんざん)霊園は、郡山市赤木町にあるという情報しかなかったが、自転車で走り回って探すことにした。赤木町は相当広くて、予想とおり、簡単に見付けられなかったが、諦めかけたその時、目の前に墓地が現れた。


故薩摩守正六位下安藤君之墓


重満靈神墓

 神山霊園は安積国造神社の宮司を務める安藤家累代の墓所である。昆際の父親重、兄重満(しげまろ)の墓の碑文は、いずれも昆斎の撰文。

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柳津 Ⅱ

2018年12月21日 | 福島県
(藤墓地)


忠孝院義達日勇居士(内川源吾の墓)

 柳津の内川源吾の墓も竹様の案内で訪問することができた。内川源吾(源吉とも)は、沼沢出雲家家来。慶応四年(1868)八月二十三日、若松甲賀町の主家の前で戦死。三十歳。

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会津美里 Ⅲ

2018年12月21日 | 福島県
(蛭ヶ窪墓地)


遠藤家之墓

 白鳳山の蛭ヶ窪墓地には、この地域出身の多数の藩士の墓がある。
 遠藤家の墓には従軍日記を残した遠藤平太が眠っている。
 遠藤平太は遠藤虎之助の長男。昭和五年(1930)に七十八歳で亡くなっているので、戊辰戦争に従軍した時にはわずか十六歳だったことになる。星亮一氏が平太の日記をもとに新書を著しているので、会津行きの二週間以上も前にネットで注文したが、会津から戻って一週間以上経った今もまだ手元に届いていない。
 父虎之助も戊辰戦争に従軍したが、慶応四年(1868)八月一日、越後石間口にて負傷。二十四日、中村にて死亡。四十一歳。


徳祜院釋種道順居士(水野多門の墓)

 水野多門は会津本郷焼窯元水野瀬戸右衛門家十代目。白虎寄合二番隊として越後方面に出征した。大正六年(1917)、六十六歳にて没。
 蛭ヶ窪共同墓地から街中に降りて行く途中に水野瀬戸右衛門共同窯跡がある。明治末年まで使用されていたという。この辺りは窯業が盛んであったが、戊辰戦争では多くの窯工も戦場に借り出されたのである。


水野瀬戸右衛門共同窯跡


釋種義亮信士(吉川秀蔵の墓)

 吉川秀蔵は、四石五斗二人扶持。瓦師次番格。慶応四年(1868)九月四日、会津本郷にて戦死。三十八歳。
 吉川家からは秀蔵のほか、父嘉右衛門(六十九歳)、弟吉松(十六歳)も本郷にて戦死している。


安西助十郎墓

 安西助十郎について「幕末維新全殉難者名鑑」では「戊辰役戦死」とのみ記載がある。墓石によれば、没年月日は「明治元年(1868)十二月二十四日」享年は「四十六」である。


忠道院義観日賢居士(岸清兵衛の墓)

 岸清兵衛は五石二人扶持。新領別楯隊寄合組萱野隊。慶応四年(1868)八月一日、越後赤坂山にて戦死。五十五歳。
 墓誌によれば、同じ墓域の岸清七なる人物(清兵衛の息か)も会津戦争に出陣したらしいが、生還して大正八年(1919)六十八歳で亡くなっている。

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会津坂下 Ⅲ

2018年12月21日 | 福島県
(気多宮墓地)

 心清水八幡神社を参詣した後、竹様に気多宮墓地に連れて行ってもらった。竹様によれば、五年ほど前に松平平左衛門の古い墓は建て替えられたという。


会津戊辰戦争
玄武隊 松坂平右衛門の墓

(心清水八幡神社)


心清水八幡神社


吉田松陰東北遊日記碑

 心清水八幡神社参道に吉田松陰東北遊日記の碑がある。松陰は、嘉永五年(1852)、脱藩して肥後藩の宮部鼎蔵とともに東北を遊歴した。本神社には同年二月六日に立ち寄り、宝物を拝観した。当時の祠内兵庫頭を、日新館の師範高津平蔵の紹介で訪れた。翌日は束松峠を越え、越後を経て東北を一周した。
 参道の記念碑は、松陰の「東北遊日記」から拡大してそのまま影写したもので、松陰の右肩上がりの癖のある字を楽しむことができる。

(西光寺)
 西光寺に武田惣吉の墓がある。武田惣吉は大東流合気柔術の創始者武田惣角の父。文政三年(1820)の生まれ。会津藩士。宮相撲の力士で、剣術、槍術、棒術、柔術にも長けていた。学問にも秀で、西光寺で寺小屋を開いて近所の子弟に教えていた。禁門の変にて活躍。戊辰戦争では力士隊を率いて奮戦した。会津戦争では西郷頼母隊に所属した。戦後、越後高田で謹慎。


西光寺


父母如在(武田惣吉の墓)

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会津若松 北郊 Ⅱ

2018年12月15日 | 福島県
(金堀山神社)
 沓掛峠の金堀地区側の上り口に山の神を祀った神社がある。旅人は、この街道を往来するのに沓(わらじ)を神社の杉の木などに掛け、旅の安全を神社に祈った。ここから沓掛峠に至る山道はかつての街道であり、敗走する白虎隊ら会津藩兵もこの道を通ったであろう。


金堀山神社


戦死十一人之墓

 この付近で戦死した会津藩士十一人の墓である。金堀の住人の手によって建てられたものである。

 ここから金堀の滝を経由して山道を登ると、沓掛茶屋跡があるはずである。熊除けの鈴を鳴らしながら山道をのぼった。しかし、進むにつれて草深くなり、途中で断念することになった。


金堀の滝

(滝沢峠)

滝沢峠で車を降りて会津側に十分ほど下りて行くと、舟石茶屋跡、その名前の由来となった舟石がある。


舟石茶屋跡


旧街道の石畳


舟石

 桜井常四郎は「滝沢峠は命を賭して死守する。敵が城下に侵入することがあれば、我は死んだものと考えよ」と、妻に言い残して出陣。慶応四年(1868)八月二十三日、舟石の上で腹を掻き切って壮絶な死を遂げた。四十六歳。同日、妻たみ子も自宅で自害した。

(東明寺)


東明寺

 東明寺はもともと市街地にあったが、昭和三十二年(1962)、郊外の川原町に移転し、その際に周囲の寺院を吸収したため広大な境内をもつに至った。


聞法院義阿忠専居士(渡邉治左衛門の墓)

 渡邉治左衛門は、源太郎の父。慶応四年(1868)八月二十三日、若松五軒町にて戦死。六十四歳。


好川家之墓(好川瀧三郎・瀧之助兄弟の墓)

 好川瀧三郎は弥一右衛門の二男。白虎寄合一番原隊。明治元年(1868)九月従五日、会津一ノ堰にて負傷。十六日、面川にて死亡。十六歳(墓誌には、十七日死亡、十五歳とある)。
 好川瀧之助は、弥一右衛門の倅。遊撃井深隊。慶応四年(1868)閏四月二十四日(墓誌によれば四月)、越後三国峠にて戦死。二十一歳。


三澤家代々墓(三澤留吉の墓)

 墓碑によれば、慶応四年(1868)四月二十五日、白河にて戦死。三十五歳。
 「幕末維新全殉難者名鑑」に一致する名前がなく、竹様によれば「三村留吉」とあるのがそれではないかという。三村留吉は六石二人扶持、足軽。遊撃遠山隊。死亡は閏四月二十五日。

(駒板墓地)
 駒板地区の共同墓地内に蘭医古川春英の墓がある。


古川春英墓

 古川春英は、文政十一年(1828)、駒板村の農家古川長蔵の末子に生まれた。幼名留吉。幼い頃から俊逸で、日吉丸の異名があったという。生家は駒板村法雲寺の西側にあったとされる。
 十三歳で医師となることを決意し、若松の山内春瀧の家弟となって医術を学んだが、ほどなく漢方医学の限界を感じ、会津を出奔して大阪の緒方洪庵塾に入門した。安政四年(1857)、会津藩に蘭学所が開設されたことを聞いて、会津に戻り、蘭学所の責任者である野村監物のとりなしによって帰藩を赦され、蘭学所の教官となった。やがて、日々進歩する医学に遅れをとってしまっていることに気付き、再び大阪の緒方洪庵のもとで学び、さらに長崎に渡って蘭医ボードウィンに師事した。この頃、長崎で松本良順と出会った。慶應四年(1868)、戊辰戦争が勃発すると、戦地から後送されてくる戦傷者の手当に窮した藩は、松本良順に応援を依頼した。良順は会津に赴き治療を手掛ける傍ら、「古川春英はどこにいるのか、会津藩には名医古川春英がいるではないか。早く彼を呼びなさい」と藩首脳に訴えたため、藩は慌てて春英を探し出して召還させたという。会津戦争中、城内で神業的な外科手術や治療を行い、多くの命を救ったが、このときの婦女子の協力を得た治療看護活動は、後世の看護制度の嚆矢ともいわれている。戦後、島村(現・会津若松市河東町)の治療所所長を経て、若松千石町の治療所に移り、患者の治療や子弟の教育に力を注いだが、明治三年(1870)、流行したチフスの治療に当たるうちに自らも感染し、同年十一月七日、生涯を閉じた。享年四十三。最初、融通寺に葬られたが、のちに故郷駒板に改葬された。

(秀安寺)


秀安寺


義山道勇信士(小原庄助の墓)

 小原庄助というと、「朝寝、朝酒、朝風呂」が大好きで、それが行き過ぎて身上をつぶしたといわれる伝説の人物である。その実在は疑問視されているが、秀安寺にその小原庄助の墓がある。個人的には、これまでも白河市や木更津市で小原庄助の墓を見て来た。「朝寝、朝酒、朝風呂」の好きな好々爺を総称して「小原庄助」と呼んでいるような気がする。
 秀安寺の小原庄助は、小原家の墓域にあり、墓石側面には「明治元年八月二十二日戦死 小原庄助」と記されている。被葬者はたまたま名前が小原庄助だったのかもしれない。

(大塚山墓園)
 恵倫寺における掃苔を終えた時点で、午後三時半を過ぎていた。日没までの残り時間を大塚山墓園での探墓に充てることになった。
 大塚山墓園は、市内に境内をもつ高厳寺や紫雲寺などの墓地を集めたもので、大塚山古墳の麓から斜面に造成された広大な霊園である。
 竹様の先導で大塚山墓園を歩いたが、竹様も大塚山を歩いたのは随分昔のことで記憶が曖昧なこともあり、途中から四人で手分けをして探すことになった。「墓探し」に関しては我が国トップレベル?の四人が目を皿のようにして探したが、かつて竹様が見たという斎藤源太、鈴木安太郎の墓を発見することはできなかった。撤去もしくは移葬されたものと思われる。


赤城家代々之墓(赤城佐代之助の墓)

 赤城佐代之助は、六石二人扶持。青竜三番足軽野村隊。慶応四年(1868)九月三日、会津大内峠にて戦死。五十歳。

 大塚山墓園の一番下に高厳寺の無縁墓石を集めた一角があり、そこに鈴木徳治、小原父子の墓がある。また、大岩元四郎の古い墓石は無縁墓石の山の中にある。


鈴木徳次之墓

 鈴木徳治(墓石では徳次)は、音治の父。六石五斗二人扶持。青竜足軽四番有賀隊。慶応四年(1868)八月二十三日、会津三斗小屋にて戦死。四十二歳。
 表面には「善世院徳恵了安居士」という徳治の法名が刻まれている。


勇心院忠譽光運居士
義誠院進譽○恵居士
(小原房吉 忠次郎の墓)

 小原房吉は忠次郎の倅。朱雀士中二番田中隊。慶應四年(1868)五月六日、下野今市にて戦死。二十七歳。
 忠次郎は、青龍士一番木本隊。慶応四年(1868)八月二十七日、会津小田山にて戦死。四十四歳。


相原家代々墓

 相原貞次の墓である。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載はないが、墓石の裏面には「慶応四年閏四月十八日」という没年月日が刻まれている。


義勇院淨譽忠○居士(大岩元四郎の墓)


大岩家之墓

 大岩元四郎は、十石三人扶持。一ノ寄合上席。衝鋒隊二番隊差図役。慶応四年(1868)八月二十五日、若松長命寺裏にて戦死。三十一歳。
 竹様によれば、大岩家の墓に大岩新八郎も合葬されているのだそうである。ただし、かつて墓石の傍らにあったという墓誌が撤去されており、合葬者の名前は確認できず。
 大岩新八郎(「幕末維新全殉難者名鑑」では大戸新八郎)は、十石三人扶持。大砲士中一番田中隊。慶應四年(1868)八月二十三日、若松天神口にて戦死。五十二歳。


松江家之墓

 松江豊寿(とよひさ)、春次兄弟の墓である。Sさんのリクエストにより訪問することになった。
 松江豊寿は九代目若松市長。旧会津藩士松江久平の長男。軍人を志して陸軍士官学校に入学。卒業後、中佐の時に徳島(板東)俘虜収容所所長となった。第一次世界大戦で収容されたドイツ兵捕虜を、捕虜は愛国者であって犯罪者ではないので人道に扱うべきと主張し住民と交流させた。町村では牛乳、バター、パンなどが作られた。捕虜たちによりベートーヴェンの第九が初めて演奏されたエピソードは有名。九代若松市長として上水道計画を決議。引退後は飯盛山の白虎隊墓地広場の拡張に尽力した。昭和三十一年(1956)没。
 弟春治は「南洋開発の父」と称された人物である。
 Sさんが語るところによれば、新選組局長近藤勇の愛刀「阿州吉川六郎源祐芳」に松江豊寿の署名の入ったメモが見つかり、そこに「下僕首を盗み生前の愛刀になりし此の刀を持ちて会津に走り密かに葬る」と書かれていた。このことから、現在、近藤勇の首の「会津埋葬説」が有力視されているというのである。

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会津若松 西郊 Ⅱ

2018年12月15日 | 福島県
(会津新選組記念館)
 市内七日町通り沿いに会津新選組記念館がある。入場料三百円(五名以上になると一人二百円とお得)。一階は骨董品やお土産屋となっていて、そこでお金を払って二階へ上がる。
 記念館では幕末に使用された武器や弾薬などのほか、有栖川宮熾仁親王の和歌や大鳥圭介の詩などが所せましと並べられている。


会津新選組記念館


砲弾

 ここで目をひいたのが平成二十九年(2017)五月十五日付産経新聞の記事のコピーである。記事によれば、新選組の近藤勇の首を埋葬した場所について「会津説」が急浮上しているという。真偽の証明は難しいが、天寧寺の近藤の墓を掘り起こせば結論が出るかもしれない。
 同行していたSさんが、近藤の刀に添えられていたメモの筆跡を調査したという品川区の焼肉店経営権東品さんと知り合いということもあり、大いに話が盛り上がったのであった。

(大法寺)


大法寺


磯上内蔵之丞の墓

 磯上内蔵之丞の墓である。忠吾とも。百石。進撃小室隊組頭助勤。慶應四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。四十三歳。


長谷川家之墓

 長谷川源次郎は、青竜士中一番鈴木隊。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。三十六歳。


秋山彦左衛門墓

 秋山彦左衛門は、百石、蔵奉行。慶応四年(1868)八月二十三日、若松城内にて自刃。五十一歳。

(秋月悌次郎生誕の地)
 住所でいうと湯川町の住宅の一角に秋月悌次郎生誕の地碑が建てられている。おそらく最近建てられたものである。
 秋月悌次郎胤永は、文政七年(1824)、当地に生まれた。藩校日新館から江戸の昌平黌に進み、寸暇を惜しんで勉学に励み、書生寮舎長となった。後に藩命により関西各地を歴訪し、有為の人材と交わりを結んだ。会津藩主が京都守護職に任じられると、公用方として公武間を奔走し、会薩同盟や文久の政変に功があった。戊辰戦争では越後戦争参謀、籠城戦を副軍事奉行として戦った。終盤、決死の使者として開城を西軍と談判し、降伏式を執行した。また山川健次郎ら青年に教育の道を拓いた。
 明治期には漢学の復興と子弟教育に務め、特に第五高等学校(現・熊本大学)では、同僚のルフカディオ・ハーン(小泉八雲)や学生たちから深く慕われ、敬愛された。詩作に秀で「北越潜行の詩」は「会津三絶」の一つとされる。人と為り「明晰・果断・不屈・至誠」(親友、南摩綱紀の言)。悌次郎の言葉「学は理屈に陥らず、治は覇術に流れず」は、今に通じる金言である。明治三十三年(1900)没。


会津藩士秋月悌次郎生誕之地

(中荒井)


紀念碑

 この場所も分かりにくい場所で、竹様の案内なくして自力でたどり着けるようなところではない。以下、竹様のホームページより転載。
 中荒井村の諏訪神社が、現在地に遷宮される以前の神社境内に、俗称「角場」と呼ばれた武術修練所があった。そこは弓道、馬術、槍、刀や拳法など武術を修練する道場で、中荒井村だけでなく、会津四郡の地方御家人はじめ、会津藩の郷士やその子弟が訓練した道場であった。
この碑は、その道場があった記念と戦死者の碑である。明治二十三年(1890)四月、松平容大の篆額。

(五百川原墓地)


川村謙益妻高知氏 同末児李四郎 墓

 医師川村謙益の妻とその子の墓である。
 墓石側面および背面にぎっしりと刻まれた文字を読み解くと、会津戦争の戦乱による悲劇が浮かび上がってくる。この墓に葬られている川村謙益の妻は、戦乱のさ中、幼子を見失い、そのことを気に病んで自殺したというのである。
 この墓も竹様に紹介していただいた。竹様は、道を走っていて目に入った共同墓地に「それらしい臭い」を感じたらその場所の墓石を一つひとつ確認して「慶応四年」もしくは「明治元年」と記されたものを発掘し、戊辰殉難者を発掘するという気の遠くなるような作業を繰り返している。五百川原墓地のこの墓もそういった活動の成果なのである。全く頭が下がる。

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会津若松 南郊 Ⅱ

2018年12月15日 | 福島県
(泰雲寺つづき)


鳳樹院泰庵霊明居士供養塔

 以前訪ねた時は、梶原平馬の墓は風が吹けば倒れそうな木製の柱であったが、立派な石塔に建て替えられていた。


威光院普覚清忠居士(元木吉之助の墓)

 元木吉之助(喜代之助とも)は六石二人扶持。家老内藤氏家臣。明治元年(1868)九月十七日、若松・泰雲寺にて自刃。三十五歳。

 原早太(隼太とも)、大竹主計の墓が並んで置かれている。
 原早太は、三百六十石。朱雀寄合一番隊中隊頭。明治元年(1868)九月十五日、会津一ノ堰にて負傷。二十六日、面川にて死亡。三十七歳。
 大竹主計は四百五十石。軍事奉行番頭対席。遊撃隊頭。慶応四年(1868)九月五日、会津面川(御山とも)にて戦死。四十六歳。泰雲寺の墓に建てられた供養塔によれば、純義隊主将とされる。


原早太墓(右)
大竹親豪之墓(大竹主計の墓)(左)


内藤得道の墓

 内藤得道は、越後の出身。善龍寺で修行し、会津藩軍事方の命を受け僧籍のまま密偵となった。戦争が城下戦に移ると得道は兄が住職を務める泰雲寺に身を寄せる。九月十七日、内藤一族の自刃の様子を見届けた得道はその遺品や遺言を介右衛門のもとへ届けた。得道は灰燼の中から内藤家の者達の遺骨を拾い集め、ねんごろに埋葬した。のちに謹慎を解かれた介右衛門が泰雲寺を訪れた際に、得道の労をねぎらい内藤姓を与えた。

(慈光寺)


慈光寺


義範道覺居士(林忠吾の墓)

 林忠吾は、六石二人扶持。青竜士中一番有賀隊付。明治元年(1868)九月十四日、若松諏訪神社にて戦死。二十二歳。墓誌には、没日が十一月十四日とある。

(陸軍大将柴五郎の碑)


陸軍大将柴五郎の碑(右)
湯殿山供養塔(左)

 陸軍大将柴五郎が戊辰の敗戦を迎えたのは、十歳のとき。「湯殿山供養塔」の前に筵をしき、栗や柿などを売っていたことを、それから五十年後に追憶して和歌を詠んだ。石碑裏面に、柴五郎直筆の文字が刻まれている。

 五十とせのむかしのままに残りけり
 柿の実うりし道の辺のいし

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