(正福寺)
正福寺
水木しげる像
境港といえば水木しげるの出身地である。ゲゲゲの鬼太郎や妖怪たちのブロンズ像が並ぶ「水木しげるロード」が観光客に大人気であるが、私の目的は中野の正福寺である。正福寺には、幼き日の水木しげるを魅了したという、地獄絵が保存されており、そのことを記念して水木しげるの像が設置されている。もちろん私の目当ては、水木しげるではなく、正福寺の北側の墓地にある景山家墓地である。
大霊院覺應智正居士(景山立硯の墓)
景山家は、寛政年間以降、代々医家であったが、初代景山立硯は、京都の恩師木島氏の命により木島姓を名乗った。二代・景山粛(しゅく)は、文化年間に京の服部大方に学び、帰郷後医業の傍ら家塾を開き、富田織部、門脇重綾、今小路範成、佐善元立、松本古堂らの志士をはじめ、多くの子弟を育てた。「伯耆志」の編者としても知られる。
僊岳院大圓高徳居士(景山粛の墓)
三代景山龍造は、文化十四年(1817)、立硯の子に生まれる。はじめ芝田温に学び、天保七年(1836)、江戸に出て昌平黌に入学し、また梁川星巌、佐藤一斎らに学んだ。天保十三年(1842)、京都に遊学して一時三条公睦、実美の侍読として仕えた。富田織部にこの職を任せ、大阪堂島に移って私塾を開いた。安政元年(1854)、鳥取藩主池田慶徳に召されて尚徳館教授に任じられ、尚徳館の制度改革を行った。文久二年(1862)以降、京都の情勢を探索し、藩論の指導、京都周旋などに尽くした。因州勤王派を代表する人物として藩内外に知られ、景山塾出身の志士たちとともに維新史に大きな足跡を残した。慶応四年(1868)のいわゆる隠岐騒動に際しては、鎮撫の責を果たした。維新後は教部省に出仕したが、ほどなく辞職。明治五年(1872)、東京猿楽町の寓居にて没。五十六歳。
贈従五位 明治徴士景山龍造守正夫婦墓
正福寺
水木しげる像
境港といえば水木しげるの出身地である。ゲゲゲの鬼太郎や妖怪たちのブロンズ像が並ぶ「水木しげるロード」が観光客に大人気であるが、私の目的は中野の正福寺である。正福寺には、幼き日の水木しげるを魅了したという、地獄絵が保存されており、そのことを記念して水木しげるの像が設置されている。もちろん私の目当ては、水木しげるではなく、正福寺の北側の墓地にある景山家墓地である。
大霊院覺應智正居士(景山立硯の墓)
景山家は、寛政年間以降、代々医家であったが、初代景山立硯は、京都の恩師木島氏の命により木島姓を名乗った。二代・景山粛(しゅく)は、文化年間に京の服部大方に学び、帰郷後医業の傍ら家塾を開き、富田織部、門脇重綾、今小路範成、佐善元立、松本古堂らの志士をはじめ、多くの子弟を育てた。「伯耆志」の編者としても知られる。
僊岳院大圓高徳居士(景山粛の墓)
三代景山龍造は、文化十四年(1817)、立硯の子に生まれる。はじめ芝田温に学び、天保七年(1836)、江戸に出て昌平黌に入学し、また梁川星巌、佐藤一斎らに学んだ。天保十三年(1842)、京都に遊学して一時三条公睦、実美の侍読として仕えた。富田織部にこの職を任せ、大阪堂島に移って私塾を開いた。安政元年(1854)、鳥取藩主池田慶徳に召されて尚徳館教授に任じられ、尚徳館の制度改革を行った。文久二年(1862)以降、京都の情勢を探索し、藩論の指導、京都周旋などに尽くした。因州勤王派を代表する人物として藩内外に知られ、景山塾出身の志士たちとともに維新史に大きな足跡を残した。慶応四年(1868)のいわゆる隠岐騒動に際しては、鎮撫の責を果たした。維新後は教部省に出仕したが、ほどなく辞職。明治五年(1872)、東京猿楽町の寓居にて没。五十六歳。
贈従五位 明治徴士景山龍造守正夫婦墓