史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

太田 Ⅲ

2022年02月19日 | 群馬県

(福蔵院)

 

福蔵院

 

 自分で作った手元の史跡リストに太田市の福蔵院が載っているが、はて何故福蔵院が史跡なのか、自分でも理由が分からなくなってしまった。

 

(永昌寺)

 

永昌寺

 

楽天知命

 

 楽天知命碑は、成塚町出身の須永伝蔵の顕彰碑である。渋沢栄一の撰文並びに書。須永伝蔵は、箱根仙石原に耕牧舎を設立し、牧畜業を起こし、日本の酪農界のパイオニアになったという人。渋沢栄一の従弟にあたり、幼時には栄一の父市郎右衛門の家に預けられたこともあったという。明治三十七年(1904)、六十三歳で没した。この碑は翌明治三十八年(1905)に建てられた。

 

(東光寺)

 

東光寺

 

英禮院貞山柳翁居士(本島自柳の墓)

 

 東光寺に本島自柳の墓を訪ねた。本島家の墓地は、本堂のすぐそばにあり、簡単に見つけることができたが、本島家は代々「自柳」を名乗っており、そのため自柳の墓が複数あった。幕末から明治に活躍した六代自柳は、隠居して柳翁と号した。戒名にも柳翁という文字が入っているのが目印である。

 本島自柳は、天保十一年(1840)の生まれ。生家は代々医を業とし、年少の時、江戸昌平黌に学び、梁川星巌らに師事した。幕末、新田俊純を盟主とする新田勤王党に参加。捕らえられて岩鼻の獄に繋がれたが、政府軍の東下によって赦された。帰郷後、新田政府軍に属して太田口を守備した。継いで金井之恭らと利根郡戸倉で会津軍の南下を防いだ。維新後、医業に復し、傍ら銀行、製糸にも関与。また町・郡会議員、明治二十五年(1892)には県会議員として地方自治にも尽くした。大正十三年(1924)、年八十五にて没。

 

本島総合病院

 

 江戸初期に医業を開いた本島家は、延々と家業を繋ぎ、現在も太田市西本町に本島総合病院として存続しているのである。この日も長野県佐久市の橘倉酒造を訪ねたところであったが、我が国には、酒造業や旅館業、飲食業などにおいて、江戸時代やそれ以前から続いているような老舗がたくさんあるが、医業を三百年以上も続けているような例はほかに例を見ない。稀有な存在である。

 

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富岡 Ⅲ

2022年02月19日 | 群馬県

(大塩湖)

 

大塩湖

 

 大塩湖は、富岡市でも南の方(つまり甘楽町寄り)にある。野鳥が集まることでも知られているらしく、カメラを持って歩いていると、地元の方から「今、珍しい鳥がいたらしいですが、撮れましたか」と聞かれたが、端から鳥に興味のない私は、何のことかわからなくて聞き直してようやく理解した。

 

詠田家春興(新居守村の碑)

 

 湖の周辺は「いしぶみの丘」と呼ばれている。ふるさと創生事業の一環として、富岡市にゆかりの深い文化人の碑を建立し、その功績を顕彰している。ほとんど知らない人ばかりだが、私の目当ては、新居守村の碑である。

 新居守村は、文化五年(1808)の生まれ。父は、小幡藩用達頭役新居又左衛門秋住。父の影響もあって学問を志し、国学者本居宣長らの著書を精読した。天保十年(1839)、京都の東条義門の門弟となり、義門の著わした「活語指南」を江戸芝神明の岡田屋嘉七より出版。江戸において国学者として活躍した。皇典学に通じ、勤王の思想を指導し、その普及に努めた。慶應三年(1867)、神祇伯白川家より学士職を授与され、明治元年(1868)十一月、岩鼻県社寺掛として群馬県内の神社史の調査研究に当り、翌明治二年(1869)十一月、大学中助教となり、のち上野国一の宮貫前神社や甘楽郡笹森稲荷神社の社掌を勤め、皇典講究所委員を兼ねた。明治二十六年(1893)、年八十六で没。

 生地である高瀬村(現・富岡市)には新居守村の墓があるらしいが、場所が特定できない。御存知の方、情報を求む。

 

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伊勢崎 Ⅱ

2021年11月20日 | 群馬県

(紅厳寺跡)

 

泰量院殿大寛樂善大居士(跡部良弼の墓)

 

 伊勢崎市宮子町の紅厳寺跡墓地に跡部良弼(よしすけ)の墓がある。

 跡部良弼は、唐津藩主水野忠光の五男に生まれた。文政六年(1823)、西丸小姓組から中奥番となり、文政八年(1825)使番に進み、文政十三年(1830)三月には駿府町奉行に転じ、その後堺奉行を経て、天保七年(1836)四月、大阪の東町奉行に転じた。翌年、大塩平八郎の乱があり、奉行の出馬によって鎮圧されたが、奉行所内の狼狽振りは今に伝えられている。天保十年(1839)九月、大目付となり、その後も勘定奉行、江戸町奉行、小姓組番頭、留守居を歴任し、安政二年(1855)には講武所総裁を兼ね、同年八月、老中阿部正弘の幕政改革により留守居から大目付に再勤、海防掛を兼ね、安政三年(1856)に江戸町奉行、さらに元清水付支配、万延元年(1860)に再び留守居に転じた。文久元年(1861)八月、和宮降嫁の東下供役に命じられ、上京して供をして帰府した。文久二年(1862)、側衆を兼帯し、文久三年(1863)七月、御側御用取次となって十二月の家茂上洛に供奉した。翌元治元年(1864)免じられた。慶應四年(1868)二月、若年寄に昇進したが、辞職を願い出て許され、菊間縁頬詰となった。明治元年(1868)十二月、没。

 

(田村弥平旧宅)

 境島村地区は、江戸時代から蚕種製造が盛んな地域であった。田島弥平旧宅跡を中心に、幕末から明治にかけて建てられた大きな養蚕農家が残されている。

 

田島弥平旧宅 主屋

 

別荘と桑場

 

 田島弥平は文政五年(1822)に上州島村(現・伊勢崎市島村)に生まれた。渋沢栄一とは縁戚関係にあった。父の弥兵衛とともに蚕種の産地を訪ね、蚕種製造に適した養蚕方法を研究した。換気に気を配り、自然に近い環境で蚕を飼育する「清涼育」を開発し、安定した繭生産に成功した。文久三年(1863)、主屋を建築したが、二階の蚕室の四方に窓を配置し、屋根には櫓(やぐら)を取り付け、室内の温度や湿気を調整できる造りにした。この様式は「島村式」と呼ばれ、全国の養蚕農家に広まった。明治五年(1872)には蚕種の製造・販売を行う、島村勧業会社を設立し、明治十二年(1879)には蚕種のイタリア直輸出も手掛けた。

 現在も子孫の方が居住されており、見学できるのは外観のみとなっている。主屋の向かいに桑場、それに隣接して別荘、香月楼跡、その向かい側には新蚕室跡がある。

 

貞明皇后行啓記念碑

 

 皇居で行われている養蚕は、明治四年(1871)から始まったが、明治五年(1872)、同六年(1872)、十二年(1879)には弥平が養蚕の指導者に選ばれた。昭和二十三年(1948)には大正天皇の皇后貞明皇后が田島弥平家を訪れた。それを記念して、庭に記念碑が建てられた。

 

 田島弥平旧宅の北側に、明治二十七年(1894)に弥平の娘たみが建てた顕彰碑が建てられている。

 

田島弥平の碑

 

(田島弥平旧宅案内所)

 旧境島小学校には校舎を利用して田島弥平旧宅案内所が開かれている。旧宅や寶性寺墓地周辺には駐車スペースがないので、ここに自動車を置いて出かけるのが良いだろう。なお、島村蚕のふるさと公園にも駐車場があり、旧宅跡までの距離は変わりない。

 

田島弥平旧宅案内所

 

島村沿革碑

 

 現在利根川は島村のほぼ中央を流れているが、過去この流れは何度も変わり、その都度島村の人々の生活に大きな影響を与えてきた。その様子について、忘れることがないように明治三十年(1897)、島村の人々が三島毅に依頼して作成した碑文である。篆額は山縣有朋。書は金井之恭。

 

島村蚕種業績之地

 

 田島弥平旧宅案内所から西へ数十メートルの場所に島村蚕種業績之地碑が建てられている。

 明治初期に生糸や蚕種はわが国の重要な輸出品となり、長く日本経済を牽引したが、今やすっかりその灯は消えてしまった。しかし、往時島村の人たちは勧業会社を興し、欧州に向けて蚕種輸出を実現した。そのことを記念して、昭和六十三年(1988)に田島弥太郎博士が建てたもので、福田赳夫の書。

 

(寶性寺)

 

寶性寺

 

 田島弥平旧宅跡のすぐ隣に寶性寺がある。寶性寺は、田島家の菩提寺である。なお、田島家の墓所は、寶性寺境内から二百メートルほど南東の墓地にある。

 

金井烏洲副碑

 

 金井烏洲(うじゅう)と一族の墓の入り口に副碑が建てられている。題額は東久邇宮妃殿下。撰文並びに書は渋沢栄一。昭和四年(1925)の建立。

 金井家は新田氏の支族で、近世には近在に聞こえるほどの豪農であった。金井萬戸は酒井抱一などと交際した俳諧の名手だったといわれる。莎村、烏洲、研香という三人の兄弟を生んだ。莎村は詩文に優れた人であったが、文政七年(1824)に三十一歳の若さで夭折した。

 

華竹庵萬戸居士墓

 

金井研香の墓

 

 烏洲の末弟研香も南宋画家として知られた。明治十二年(1879)、七十四歳で没。

 

莎村金井君髪塚銘

 

杏雨金井君墓碣

 

 金井杏雨は烏洲の息。文久三年(1863)、三十九歳で逝去。

 

烏洲金井君墓碣

 

 金井烏洲は、兄の莎村から経史を学び、二十一歳のとき江戸に出て、父萬戸のもとを訪れていた春木南湖などから書画を学んだ。二十五歳のとき莎村が早世したため、帰郷して金井家を継いだ。天保三年(1832)には関西を回り頼山陽など多くの名家と交誼した。この頃から画名を謳われるようになった。江戸後期の画壇を代表する存在であったが、安政四年(1857)、六十二歳で没した。貴族院議員にして書家としても知られる金井之恭は、烏洲の四男である。

 

田島弥平之墓

 

 金井一族の墓所からさほど離れていない田島家の墓地に田島弥平の墓がある。田島弥平は明治三十一年(1898)、七十六歳で没。

 

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藤岡

2021年11月20日 | 群馬県

(高山社跡)

 

国指定史跡 高山社跡

 

 高山社は明治十七年(1884)に設立された養蚕改良高山社の創始者高山長五郎の生家で、長五郎はこの地で養蚕法の改良や普及教育などを行っていた。

 私が訪れた時、新型コロナ感染症拡大対策のため臨時休館中であった。長屋門の写真を撮ることはできたが、母屋に近づくことはできず。いずれまた訪問することにしたい。

 

高山社跡 長屋門

 

 高山社跡の手前に高山社情報館があり、そこに高山長五郎の像が建てられている。

 高山長五郎は、換気と温湿度管理をきめ細かく行う養蚕法「清温育」を確立し、その普及のため明治十七年(1884)、養蚕教育機関「養蚕改良高山社」を設立した。高山社は、日本全国のみならず、中国や朝鮮半島からも生徒を受け入れ、「養蚕の一総本山」とも呼ばれた。

 

高山長五郎翁像

 

(興禅院)

 興禅院は高山社を見下ろす小高い山の中腹にある。興禅院は無住の寺のようだが、この日は近所の住民が総出で雑草刈りをしていた。

 ここに高山長五郎の墓がある。長五郎は明治十九年(1886)、五十六歳で亡くなった。なお木村九蔵は長五郎の末弟である。

 

興禅院

 

高山長五郎之墓

 

 

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館林 Ⅴ

2021年11月13日 | 群馬県

(善長寺つづき)

 

善長寺

 

長山家之墓(長山甚平の墓)

 

 長山甚平は天保九年(1838)の生まれ。藩主移封の後を追って弘化三年(1846)、父とともに館林に移り、藩校に入って経史を学び、逸才の誉れがあった。のち同藩長山甚兵衛の嗣となり、大目付に挙げられ百石を給された。慶應四年(1868)の戊辰戦争では軍監を命じられ、幕僚とともに東北各地を転戦。凱旋後、白河、三春、会津等の残留兵とりまとめのため出張し、負傷者の救護、戦没者の供養を行った。同年、藩主領内に招魂祠を祭祀するや、そのことに預り以後社掌として奉仕し、かたわら藩事績等の編纂に従事した。明治二十七年(1894)、年五十七で没。

 

普昌院賢応徳孝居士(普賢寺武平の墓)

 

 普賢寺武平は文政十二年(1839)の生まれ。父は館林藩出羽分領の郡奉行であったが、幼時同藩普賢寺基忠の養子となった。弘化元年(1844)、十六歳で出仕し広間番士となり、天保七年()林奉行に進み、以後、小納戸頭、側用人を歴任。文久三年(1863)幕府において征長の議が起こると、藩主秋元志朝に長州と骨肉の親があるをもって、公武の間を調停するに及び、正使岡谷繁実に従い京都および防長の間を往来し、斡旋調停に努めた。明治二年(1869)、館林藩権参事にあげられ、禄二十石を加増されたが、明治三年(1870)、年四十二で病没した。

 

(法輪寺つづき)

 

村山家(村山具瞻の墓)

 

 村山具瞻(ともみ)は、嘉永元年(1848)の生まれ。父は館林範中老村山勘解由。戊辰戦争では徒士隊長として藩兵を率いて東北各地を転戦、会津若松城下鶴沼川において諸藩に先んじて困難なる敵前渡河を敢行し、軍監桐野利秋はその行為を激賞して菊章の指揮旗を与えた。凱旋後、中隊司令官に任じられたが、いくばくもなく東京警視庁に奉職。権大警部、中警部長を歴任し、明治十年(1877)の西南戦争では西郷隆盛との旧誼を重んじて辞任。以降、製塩業に従事していたが、明治十六年(1883)、帰郷し邑楽郡長となり名園躑躅ヶ岡の復興などに尽力した。明治二十五年(1892)、年四十五で没。

 

根岸家墓(根岸鉄次郎の墓)

 

 根岸鉄次郎は文政十一年(1838)、館林藩物頭役の家に生まれ、幼少より武技を好み、ことに馬術に練達した。万延元年(1860)、藩命により津軽に赴き馭法を学んだ。同年、抜擢されて藩校の馬術師範となった。慶應三年(1867)、軍馬奉行となり軍馬隊を編成し、戊辰戦争における活躍の素地をつくった。同年十二月、中老職に進み三百石を給された。慶應四年(1868)、政府軍が東下するという報に接すると、老臣たちと図って使者を西上させ、勤王の素志を訴えて、藩の動向を明らかにした。明治二年(1869)、参政となった。明治十年(1877)には士族の金禄をもとに第四十国立銀行を館林に創立し、その頭取となった。明治二十六年(1893)、年六十六で没。

 

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松井田 Ⅱ

2021年08月14日 | 群馬県

(五料の茶屋本陣)

 

五料の茶屋本陣跡

 

 五料の茶屋本陣は江戸時代の名主屋敷であると同時に茶屋本陣を兼ねていた。茶屋本陣とは、中山道を参勤交代などで行き来する大名や公家などの休憩所として置かれたものである。

 「お西」と呼ばれる中島家は、十六世紀末から代々名主役を務め、天保七年(1836)から明治五年(1872)までは「お東」と一年交代で名主を務めていた。

 建物は「お東」と同年(文化三年(1806))に建てられたもので、間口十三間、奥行七間の切妻造りで、両家とも母屋の規模や平面はほぼ同じ造りとなっている。

 

五料の茶屋本陣 お西

 

上段の間

 

 上段の間は、明治十一年(1878)の明治天皇北陸東海御巡幸に際し、休憩施設として利用されることが決まり、ほぼ全ての柱や梁を取り換え、天井裏をふさぐなどの改造が行われている。

 

五料の茶屋本陣 お東

 

 「お東」も江戸時代の名主屋敷で、代々名主役を務めた中島家の住宅として使用されていた。文化三年(1806)の建築以来、大きな改造もなく、書院造りの上段の間をはじめ、往時のおもかげをよく伝えている。

 

庭園と妙義山

 

 南側には妙義山を借景とした庭園がある。大変気持ちの良い空間となっている。

 

明治天皇五料御小休所

 

 ちょうど「お西」の前に明治天皇五料御小休所碑があるが、すぐ近くをJR信越本線が走っており、正面を見ることができない。この写真は、線路を渡って反対側から撮影したものである。

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安中 Ⅲ

2021年08月14日 | 群馬県

(諏訪神社)

 中宿交差点付近にある諏訪神社には、明治十一年(1878)九月五日、明治天皇の北陸東海巡幸の際、小休をとった時使ったとされる「腰掛石」が残されている。

 

諏訪神社

 

明治天皇中宿御小休所腰掛石

 

明治天皇中宿御小休所腰掛石

 

(原市)

 安中市原市周辺では、旧中山道が長い距離にわたって、往時の道幅のまま残されている。杉並木も江戸時代そのまま残されているのは大変嬉しい。その中心地に明治天皇原市御小休所跡がある。

 明治十一年(1878)九月五日、北陸東海巡幸の際に小休所となった場所である。ここでも、文部省の付した説明によれば「主要部分はよく舊規模を存せり」とあるが、門構え以外は往時をしのぶものは残っていない。

 

明治天皇原市御小休所

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渋川 Ⅱ

2021年08月14日 | 群馬県

(渋川八幡宮つづき)

 

明治天皇聖蹟碑

 

 境内の奥の方に明治天皇聖蹟碑が建てられている。見上げるほどの巨大な石碑である。荒木寅三郎の撰文、佐藤文四郎の書。

 

(南有馬会館)

 明治天皇が渋川を訪れたのは、明治二十六年(1893)のことである。同年十月二十日から二十三日までの間、近衛師団による演習が群馬県で行われ、二十一日には渋川市域で演習が開かれた。渋川市内には当時のことを記念した明治天皇聖蹟碑が点在している。

 

明治天皇有馬御野立所

 

有馬駐龍之碑

 

 南有馬会館入口には明治天皇野立所を示す石碑がある。また建物の前にも二基の石碑がある。一つは大典記念碑、もう一つは明治天皇の駐輦にまつわる石碑と思われるが、文字はほとんど読み取れなかった。

 近在には「行幸田(みゆきだ)」という、いかにも明治天皇の行幸に由来していると思われる地名が残っている。

 

(猿田彦神社)

 猿田彦神社には明治天皇駐蹕碑がある。明治二十六年(1893)十月の演習を親閲したことを記念したもので、小松宮彰仁親王の題額、山県有朋の撰文、日下部東作の書。明治三十年(1897)五月の建碑である。

 

 

猿田彦神社

 

聖上御便殿跡地

 

駐蹕碑

 

(上ノ町)

 

明治天皇澁川行在所

 

 渋川の市街地の民家の庭にも明治天皇聖蹟碑がある。やはり明治二十六年(1893)の行幸を記念したもので、十月二十一日、ここで昼食をとったという。「主要部分は旧規を存せり」と書かれているが、見たところ新しい住宅しか確認できない。

 

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前橋 Ⅵ

2021年02月20日 | 群馬県

(前橋プラザ元気21)

 前橋市は、JR前橋駅周辺より、北へ1キロメートルほどの本町界隈の方が賑やかである。前橋こども図書館やまえばしシティエフエムなどが入る前橋プラザ元気21は、かつて前橋藩の本陣があった場所で、目立たないが千代田通り側に明治天皇行在所跡碑がある。

 

明治天皇行在所跡

 

舊前橋藩本陣跡

 

(孝顕寺)

 前橋駅北口を西へ百メートルほど行った駐輪場でレンタサイクルをやっている(普通自転車に百円、電動自転車三百円)。自転車を調達して、早速朝日町の孝顕寺を目指した。

 

 孝顕寺は、結城松平大和家の菩提寺で、初代直基のとき越前勝山で開山された。初代から八代までの藩主像のほか、松平大和家の先祖となる戦国武将結城政勝の画像などが保存されている。

 

孝顕寺

 

 私が孝顕寺を訪ねた目的は、松平直克(なおかつ)の墓であった。直克の墓石は、長らく教学院(東京都練馬区)に保存されていたが、前橋城再興から百五十年を記念して、平成二十九年(2017)に里帰りを果たした。長らく孝顕寺を訪ねたいと思っていたが、ようやく今回実現することができた。

 

正三位松平直克墓

 

 松平直克は、天保十年(1839)の生まれ。父は久留米藩主有馬頼徳。嘉永二年(1849)、江戸から国もと久留米に移って教育を受け、文久元年(1861)十二月、川越藩主松平直侯の養嗣子となって襲封し、従四位下侍従に叙せられ、大和守を称した。以後、藩の経営に努め、文久二年(1862)十一月藩政改革に着手した。特に兵制を改めて銃隊を創設した。川越城が手狭で藩士の居住、軍事訓練にもこと欠くことを理由に旧前橋城の修築を嘆願した。文久三年(1863)、将軍家茂の上洛中における江戸留守居役を命じられ、生麦事件についてイギリスの幕府に対する賠償要求に際しては、品川砲台守備の任を兼ねて高輪陣営に駐在した。同年十月、松平春嶽の辞任以降空席となっていた政事総裁職に挙げられ、幕政の中枢に参画した。家茂に従って上洛し、元治元年(1864)攘夷の勅旨を受けて帰京。横浜鎖港を建策したが、たまたま水戸武田耕雲斎の叛乱が起こり、幕論が鎖港よりも反乱鎮圧を先にする意見に傾いたのに反発し、飽くまで鎖港を先にすべきと主張。ついに徳川(水戸)慶篤と意見対立して、同年六月、政治総裁職を免職され、八月には再び品川台場警備を命じられた。その後、幕府より再度政治総裁職への就任要請があったが、受けることはなかった。慶應三年(1867)正月、前橋城竣工のため移転し、川越城を幕府に引き渡した。将軍慶喜の大政奉還後は去就に苦しんだが、慶応四年(1868)二月、急ぎ上洛して慶喜の免罪および徳川家継嗣に関して奏上、ついで関東における徳川軍脱走者蠢動を鎮圧するため帰国、以後大総督府に属して各地の警備に従事した。明治二年(1869)、版籍奉還後、前橋藩知事となったが、同年八月、富山藩知事前田利同の弟栄之助(のちの直方)を養子に迎えて致仕、以来政治を避けて東京下谷茅町に寓居した。明治三十年(1897)、年五十九にて没。法名は「直指院殿見性良山大居士」。

 

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高崎 Ⅶ

2021年02月20日 | 群馬県

(行在所公園)

 

行在所公園

 

明治天皇新町行在所

 

 最寄り駅は高崎線新町駅となる。徒歩八分程度で行在所公園に到着する。

 明治十一年(1878)八月から十一月にかけて、明治天皇は北陸・東海地域の巡幸を行った。その道中の九月二日、新町(現・高崎市新町)に宿泊した。当時は、木造瓦葺き平屋建ての本屋と付属家の二棟で、旧中山道に面して誓文を設け、周囲は高さ九尺の総板塀で囲い、庭には数株の若松が植えられていた。今も公園の一角に当時の建物が保存されている。

 

 

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