古本屋で書籍を漁っていて、たまたま出会った本である。ちょうど今から四十年前の昭和四十九年(1974)に刊行されたもので、ページは少し赤茶けているが、内容は新鮮である。
本書は、大学の授業で使うようなハードカバー本であるが、アカデミックな本に似合わず生野の変や相楽総三の赤報隊、花山院党の挙兵などを取り上げているので、(古本であっても決して安価ではなかったが)入手することにした。
タイトルにある「草莽」については、「大枠として草莽意識を荷担する下級武士から神官・僧侶・豪商農」と定義している。要するに藩や幕府といった背景を持たない活動家(本書ではしばしば「根なし草」と表現されている)というイメージであろう。
「草莽」といえば、直ちに連想するのが吉田松陰の「草莽崛起論」である。当然、本書でも松陰の「草莽崛起論」に触れているが、筆者の視線は意外と冷静・中正である。「時には幕吏の討滅を叫びながらも公武合体論者以外にはなりえなかった」という指摘は、松陰の限界を示すものであった。安政の段階で松陰の思想は突出していたが、それでもこの時期においてはこれが限界というべきであろう。
生野の変に参加した浪士を、脱藩していてもいずれ出身藩に復する志向性を持つグループとそうでないグループに分けたり、地元豪農を事変に積極的に参加したグループと消極的に参加グループ、関与しなかったグループに分類したりという手法は面白かった。実際、生野の変に参画した浪士は、ほとんど出身藩との連携はなかったので、(強いていえば薩摩藩出身の美玉三平が、挙兵直前に国元の有志に宛てて決起勧誘状を発信したくらい)、浪士を二つのグループに分ける意味は、こと生野の変に関しては希薄だと思う。実際、著者の分類でも出身藩との繋がりのない浪士は、膳所藩出身の本多素行一人となっている。
一方、地元豪農を類型化したのは有効であった。第一のグループの代表格が中島太郎兵衛であろう。彼らは質地を獲得するなどして、豪農化していったが、一方で養蚕に手を出し経済的に苦境に陥っていた。中島太郎兵衛は、文久三年一月の時点で妻と離別したが、「尊皇攘夷の実行に並々ならぬ決意」であったと言われる。実は中島太郎兵衛の妻は、大庄屋の正垣家の出身であった。正垣家は急激に家産を拡大しており、経済的にも安定していて、生野挙兵にも消極的だったと言われる。太郎兵衛が妻と離縁したのも、両家の置かれた状況を見れば故なきことではなかったと思われる。
相楽総三の赤報隊が、新政府から弾圧された理由を最終的に財政問題と結論付けている。そのこと自体に目新しさはない。本論で私が新鮮味を感じたのは、桜井常五郎に関する記述である。桜井常五郎は、「暴徒」「賊徒」と悪く評価されることが多いが、筆者は「桜井隊の動きの中に芽生えていた地域の変革の方向は、佐久郡の小前農民の郡中名主罷免運動などに引きつがれていった」と、その存在意義を評価している。
ほとんど触れられることのない花山院隊について詳述しているのも嬉しい。花山院隊は、ちょうど赤報隊と同じ時期、北九州で挙兵した草莽隊の一つである。天草陣屋や豊前四日市陣屋を襲撃し、一応の成功を収めたが、やはり赤報隊と同じく新政府の弾圧を受けて壊滅した。「花山院隊」と呼ばれているが、盟主に担いだ花山院家里が合流する前に、実に呆気なく鎮圧されている。しかも薩長両藩の手によってである。時期は鳥羽伏見の直後であり、旧幕府の陣屋を制圧するというのは、一見すると新政府の方針と合致しているように思うが、それでも薩長両藩が花山院隊を弾圧したというところに、彼らの草莽隊に対する姿勢が見て取れる。
文久三年(1863)から翌年にかけて、九十九里地方で発生した真忠組事件については、私も本書で初めてその概要を知った。あっという間に周辺の諸藩によって鎮圧されてしまったため、ほとんど小説等には取り上げられることのなかった事件である。著者は真忠組が「世直し」と結びついていたことを指摘している。
本書で取り上げられる草莽は、これまで紹介した以外にも、高松実村隊や第二奇兵隊のことにも及ぶ。著者の視点は常にこれら草莽諸隊が、民衆の動きや世直しと連携していたかに注がれている。いずれもユニークで新鮮な切り口であった。ただ、私の理解している限り、生野の変における農兵の打ち毀しは、変を指導した首謀者らの意図したものではなく、多分に武装化した農兵による偶発的なものである。著者は「単にそのような一時的な問題にかぎられたものではなく、但馬地方の社会的・経済的矛盾に根ざしていた」とするが、そういう側面も潜在していたにせよ、全面的に世直しを企図した打ち毀しとするのも抵抗がある。
本書は、大学の授業で使うようなハードカバー本であるが、アカデミックな本に似合わず生野の変や相楽総三の赤報隊、花山院党の挙兵などを取り上げているので、(古本であっても決して安価ではなかったが)入手することにした。
タイトルにある「草莽」については、「大枠として草莽意識を荷担する下級武士から神官・僧侶・豪商農」と定義している。要するに藩や幕府といった背景を持たない活動家(本書ではしばしば「根なし草」と表現されている)というイメージであろう。
「草莽」といえば、直ちに連想するのが吉田松陰の「草莽崛起論」である。当然、本書でも松陰の「草莽崛起論」に触れているが、筆者の視線は意外と冷静・中正である。「時には幕吏の討滅を叫びながらも公武合体論者以外にはなりえなかった」という指摘は、松陰の限界を示すものであった。安政の段階で松陰の思想は突出していたが、それでもこの時期においてはこれが限界というべきであろう。
生野の変に参加した浪士を、脱藩していてもいずれ出身藩に復する志向性を持つグループとそうでないグループに分けたり、地元豪農を事変に積極的に参加したグループと消極的に参加グループ、関与しなかったグループに分類したりという手法は面白かった。実際、生野の変に参画した浪士は、ほとんど出身藩との連携はなかったので、(強いていえば薩摩藩出身の美玉三平が、挙兵直前に国元の有志に宛てて決起勧誘状を発信したくらい)、浪士を二つのグループに分ける意味は、こと生野の変に関しては希薄だと思う。実際、著者の分類でも出身藩との繋がりのない浪士は、膳所藩出身の本多素行一人となっている。
一方、地元豪農を類型化したのは有効であった。第一のグループの代表格が中島太郎兵衛であろう。彼らは質地を獲得するなどして、豪農化していったが、一方で養蚕に手を出し経済的に苦境に陥っていた。中島太郎兵衛は、文久三年一月の時点で妻と離別したが、「尊皇攘夷の実行に並々ならぬ決意」であったと言われる。実は中島太郎兵衛の妻は、大庄屋の正垣家の出身であった。正垣家は急激に家産を拡大しており、経済的にも安定していて、生野挙兵にも消極的だったと言われる。太郎兵衛が妻と離縁したのも、両家の置かれた状況を見れば故なきことではなかったと思われる。
相楽総三の赤報隊が、新政府から弾圧された理由を最終的に財政問題と結論付けている。そのこと自体に目新しさはない。本論で私が新鮮味を感じたのは、桜井常五郎に関する記述である。桜井常五郎は、「暴徒」「賊徒」と悪く評価されることが多いが、筆者は「桜井隊の動きの中に芽生えていた地域の変革の方向は、佐久郡の小前農民の郡中名主罷免運動などに引きつがれていった」と、その存在意義を評価している。
ほとんど触れられることのない花山院隊について詳述しているのも嬉しい。花山院隊は、ちょうど赤報隊と同じ時期、北九州で挙兵した草莽隊の一つである。天草陣屋や豊前四日市陣屋を襲撃し、一応の成功を収めたが、やはり赤報隊と同じく新政府の弾圧を受けて壊滅した。「花山院隊」と呼ばれているが、盟主に担いだ花山院家里が合流する前に、実に呆気なく鎮圧されている。しかも薩長両藩の手によってである。時期は鳥羽伏見の直後であり、旧幕府の陣屋を制圧するというのは、一見すると新政府の方針と合致しているように思うが、それでも薩長両藩が花山院隊を弾圧したというところに、彼らの草莽隊に対する姿勢が見て取れる。
文久三年(1863)から翌年にかけて、九十九里地方で発生した真忠組事件については、私も本書で初めてその概要を知った。あっという間に周辺の諸藩によって鎮圧されてしまったため、ほとんど小説等には取り上げられることのなかった事件である。著者は真忠組が「世直し」と結びついていたことを指摘している。
本書で取り上げられる草莽は、これまで紹介した以外にも、高松実村隊や第二奇兵隊のことにも及ぶ。著者の視点は常にこれら草莽諸隊が、民衆の動きや世直しと連携していたかに注がれている。いずれもユニークで新鮮な切り口であった。ただ、私の理解している限り、生野の変における農兵の打ち毀しは、変を指導した首謀者らの意図したものではなく、多分に武装化した農兵による偶発的なものである。著者は「単にそのような一時的な問題にかぎられたものではなく、但馬地方の社会的・経済的矛盾に根ざしていた」とするが、そういう側面も潜在していたにせよ、全面的に世直しを企図した打ち毀しとするのも抵抗がある。