昼休みに会社の地下食堂で並んでいると、前にいた女子社員が振り返り
「ホームページ見ましたけど、お墓が好きなんですか」
と突然質問を受けた。
「好きか嫌いかと言われれば、嫌いではないですが…」
と返したところ、
「パソコンのスクリーン・セーバーがお墓って本当ですか?」
と、思わぬ突っ込みを受けた。質問をした女子社員は、まるで爬虫類でも見るかのような眼をこちらに向けている。確かにお墓は大好きだが、スクリーン・セーバーにするほど悪趣味ではない。どうやら社内ではあらぬ噂が広がっているらしい。早いうちに誤解はといておかねば…。
とはいえ「お墓が好き」であることは間違いのない事実である。この日も久し振りに多磨霊園での墓巡りを楽しんだ。
本多家墓
(本多忠民の墓)
本多忠民(ただもと)は、幕末の岡崎藩主である。寺社奉行を経て、安政四年(1857)京都所司代に就任。日米修好通商条約締結に奔走した。万延元年(1860)から二年老中に就任し、一旦辞任したが元治元年(1864)再任された。岡崎藩は譜代中の譜代であり、それまで藩論は佐幕に統一されていたが、鳥羽伏見に旧幕軍が敗れると、以後新政府恭順を貫いた。忠民は明治二年(1869)に隠居して家督を譲り、明治十六年(1883)、東京にて死去。六十七歳。菩提寺は浅草誓願寺であったが、関東大震災で焼失し、墓は多磨霊園に移された。
松平家墓
(松平健雄の墓)
松平容保の次男松平健雄や、その子で参議院議員や福島県知事を務めた松平勇雄の墓である。健雄は伊佐須美神社(会津美里町)の宮司を務めた。
床次家之墓(左)
床次竹二郎之墓
(床次正精の墓)
中央は大正から昭和初期の政治家床次竹二郎の墓である。右の墓に父床次正精が葬られている。床次正精は、司法官として勤務する傍ら、若い頃長崎で接した油絵に傾倒し数々の作品を残した。中でも注目すべきは西郷隆盛の肖像画である。夙に知られている通り、西郷は写真嫌いで一枚も肖像写真を残していない。後世の我々は、キヨソネの肖像画や上野の銅像(高村光雲作)で西郷隆盛の風貌を刷り込まれているが、キヨソネも高村光雲も西郷と面識はなかったので、どこまで真の姿を伝えているか心許ない。然るに床次正精は生前の西郷と面識があっただけに、彼の描く西郷像は真実性が高いと言えよう。床次の残した西郷の肖像は軍服姿である。大きな眼と太い眉毛と濃い顎鬚、そして堂々たる体躯はイメージ通りである。
本多家之墓
(本多康穣の墓)
本多康穣(やすしげ)は、いわゆる膳所城事件(慶応元年(1866))の際の膳所藩主である。その後、時局の変遷に従い勤王へと態度を変え、鳥羽伏見戦では官軍側として出兵。そののちも桑名藩討伐の先鋒を務め、越後へも派兵した。明治四十五年(1912)七十八歳にて病没。
勝田家
(勝田孫弥の墓)
鹿児島出身の歴史家勝田孫弥の墓である。勝田孫弥は「西郷隆盛伝」や「大久保利通伝」「甲東逸話」など、今日の維新史研究の基礎となる文献を著した。
中村家之墓
(鈴木五郎の墓)
多磨霊園18区というと、広大な霊園の敷地の中でもかなり「ヘリ」の方である。その一角に会津藩士末裔の方の墓がある。墓石の裏面に祖先白虎隊士鈴木五郎の事歴が刻まれる。鈴木五郎は、明治元年(1868)九月十五日、門田一ノ堰の戦争で重傷を負い、同年十一月雨屋にて死亡した。十六歳。
安藤家之墓
(安藤真裕の墓)
安藤真裕は、和歌山藩付家老。のちに田辺藩主。菊千代(のちの慶福)がわずか四歳で紀州藩主に就くと、水野忠央らとともに輔導の任に当たった。慶応二年(1866)長州再征には前軍総督となり出陣、石州口で戦って敗れた。明治元年(1868)田辺藩が立藩されると藩主となり、版籍奉還により知藩事に任じられた。明治十八年(1885)死去。
田中義一墓
田中義一は、元治元年(1864)萩の下級藩士の家に生まれた。陸軍士官学校、陸軍大学校に学ぶ。日清・日露戦争にも従軍した。大正七年(1918)原内閣の陸軍大臣として入閣し、山県有朋系の実力者として陸軍に大きな影響力を有した。昭和二年(1927)首相として内閣を組織したが、翌昭和三年(1928)関東軍による張作霖爆殺事件が起きると、陸軍を抑えきれず内閣総辞職に追い込まれた。それから三カ月も経たないうちに急性狭心症で死亡した。
(普賢寺)
普賢寺
竹遥海保先生之墓
多磨霊園の東側、普賢寺に海保漁村の墓がある。普賢寺は、江戸本所から移転したものである。
海保漁村は、寛政十年(1798)横芝光町北清水に生まれた。江戸で大田錦城に学び、二十七歳のとき師の勧めで江戸下谷に塾を開いた。その後、佐倉藩主堀田正睦に儒学を講義するようになった。安政四年(1857)幕府の医学館教授となった。門弟には鳩山和夫(鳩山由紀夫首相の曾祖父)、渋澤栄一らがいる。慶応二年(1866)六十九歳にて没。
(外人墓地)
リチャードソンの墓
時間があったので、外人墓地まで足を伸ばしてモレルやワーグマンの墓を詣でようかと思い付いた。ところが、外人墓地は十二月の末から三月第一週まで一般公開されていなかった。仕方なく再度リチャードソンの墓の写真を撮った。中に入らずとも塀越しに撮影することが可能である。
長らく見ない間に、リチャードソンの墓には、「生麦事件犠牲者の墓」と刻んだ石柱が建てられ、その両脇には同じく生麦事件で負傷したクラークとマーシャルの墓が設けられていた。クラークとマーシャルの両人は、事件後も日本に留まり仕事を続け、日本で亡くなっている。もう一人の関係者ボロデール夫人は、事件後日本を離れイギリスに帰国した。そこで出産直後二十六歳で死去した。一説には生麦事件の衝撃が原因で精神的に変調を来たしていたともいわれる。
リチャードソンの墓
時間があったので、外人墓地まで足を伸ばしてモレルやワーグマンの墓を詣でようかと思い付いた。ところが、外人墓地は十二月の末から三月第一週まで一般公開されていなかった。仕方なく再度リチャードソンの墓の写真を撮った。中に入らずとも塀越しに撮影することが可能である。
長らく見ない間に、リチャードソンの墓には、「生麦事件犠牲者の墓」と刻んだ石柱が建てられ、その両脇には同じく生麦事件で負傷したクラークとマーシャルの墓が設けられていた。クラークとマーシャルの両人は、事件後も日本に留まり仕事を続け、日本で亡くなっている。もう一人の関係者ボロデール夫人は、事件後日本を離れイギリスに帰国した。そこで出産直後二十六歳で死去した。一説には生麦事件の衝撃が原因で精神的に変調を来たしていたともいわれる。
久保山墓地に挑むこと四回目にしてようやく目的にたどりついた。結果からいうと、相鉄線の西横浜駅から久保山墓地に近づき、円満寺の脇から入った方が官修墓地には到達し易い。
長州藩士の墓
ここに葬られている長州藩士は、戊辰戦争(白河、棚倉、会津若松)における戦傷死者である。当時の日本医学は銃創を治療する技術が未熟であったため、官軍の負傷者は横浜に送られ、横浜軍陣病院にてイギリス人医師ウイリアム・ウィリスの治療を受けた。このうち不幸にして亡くなった者は、西戸部の大聖院に埋葬されたが、久保山墓地が開かれた明治七年(1874)当地に移葬された。横浜軍陣病院は、六か月余で閉鎖され東京府大病院(のちの東京大学付属病院)へと引き継がれた。
土佐藩士の墓
更に墓地を進むと、同じく戊辰戦争で戦死した土佐藩士の墓がある。墓石一つ一つには、墓の主がどこで受傷し、何月何日に死亡したかが細かに記録されている。中には軍夫と書かれたものもある。
西南戦争戦死巡査兵士の墓
土佐藩士の墓域のすぐ近くに、西南戦争で戦死した巡査兵士の墓がある。中央の少し大きい墓は、新撰旅団第一大隊の伍長のものである。裏には「埼玉県士族」とある。
長州藩士の墓
ここに葬られている長州藩士は、戊辰戦争(白河、棚倉、会津若松)における戦傷死者である。当時の日本医学は銃創を治療する技術が未熟であったため、官軍の負傷者は横浜に送られ、横浜軍陣病院にてイギリス人医師ウイリアム・ウィリスの治療を受けた。このうち不幸にして亡くなった者は、西戸部の大聖院に埋葬されたが、久保山墓地が開かれた明治七年(1874)当地に移葬された。横浜軍陣病院は、六か月余で閉鎖され東京府大病院(のちの東京大学付属病院)へと引き継がれた。
土佐藩士の墓
更に墓地を進むと、同じく戊辰戦争で戦死した土佐藩士の墓がある。墓石一つ一つには、墓の主がどこで受傷し、何月何日に死亡したかが細かに記録されている。中には軍夫と書かれたものもある。
西南戦争戦死巡査兵士の墓
土佐藩士の墓域のすぐ近くに、西南戦争で戦死した巡査兵士の墓がある。中央の少し大きい墓は、新撰旅団第一大隊の伍長のものである。裏には「埼玉県士族」とある。
(浄楽寺)
浄楽寺
逗子駅からバスで片道三十分。浄楽寺の前島密の墓を訪ねるためだけに浄楽寺まで往復してきた。
前島密の墓
浄楽寺バス停を降りると、そこは寺の門前である。「近代郵便制度創始者 前島密翁の墓所」と記された大きな標柱が建っている。本堂の裏手、阿弥陀三尊像をおさめた収蔵庫の前を通って墓地に出ると、前島密の墓がある。
前島密像
前島密は、天保六年(1835)越後国中頸城郡津有村下池部(現新潟県上越市)に生まれた。現在、生家跡には前島記念館が建てられている。
幕吏前島錠次郎の家を継いだ。十三歳で江戸にでて和蘭医学を学んだが、ペリー艦隊の来航に刺激を受けて幕臣下曽根金三郎に砲術、歩兵操練を学び、軍艦操練所に入った。安政六年には箱館丸に乗りこみ、日本周海の測量に従事した。のち出雲、福井、和歌山諸藩で機関士長となり、慶応元年(1865)には薩摩藩で英語教授、同三年には開成所教授に任用された。維新後は民部省に出仕し、イギリスに派遣された。帰朝後、郵便電信制度を立案実施した。その後も内務大輔、元老院議官を兼任して地租改正、度量衡改正などに関わった。明治十九年(1887)東京専門学校長、同二十一年、逓信次官、同三十六年男爵、同三十八年、貴族院議員。尺八、俳句、漢詩、築庭、書など多くの趣味を有し、晩年は余生を浄楽寺境内で過ごした。大正八年(1919)八十五歳で死去。
浄楽寺
逗子駅からバスで片道三十分。浄楽寺の前島密の墓を訪ねるためだけに浄楽寺まで往復してきた。
前島密の墓
浄楽寺バス停を降りると、そこは寺の門前である。「近代郵便制度創始者 前島密翁の墓所」と記された大きな標柱が建っている。本堂の裏手、阿弥陀三尊像をおさめた収蔵庫の前を通って墓地に出ると、前島密の墓がある。
前島密像
前島密は、天保六年(1835)越後国中頸城郡津有村下池部(現新潟県上越市)に生まれた。現在、生家跡には前島記念館が建てられている。
幕吏前島錠次郎の家を継いだ。十三歳で江戸にでて和蘭医学を学んだが、ペリー艦隊の来航に刺激を受けて幕臣下曽根金三郎に砲術、歩兵操練を学び、軍艦操練所に入った。安政六年には箱館丸に乗りこみ、日本周海の測量に従事した。のち出雲、福井、和歌山諸藩で機関士長となり、慶応元年(1865)には薩摩藩で英語教授、同三年には開成所教授に任用された。維新後は民部省に出仕し、イギリスに派遣された。帰朝後、郵便電信制度を立案実施した。その後も内務大輔、元老院議官を兼任して地租改正、度量衡改正などに関わった。明治十九年(1887)東京専門学校長、同二十一年、逓信次官、同三十六年男爵、同三十八年、貴族院議員。尺八、俳句、漢詩、築庭、書など多くの趣味を有し、晩年は余生を浄楽寺境内で過ごした。大正八年(1919)八十五歳で死去。
(大満寺)
大満寺
地下鉄の赤羽岩淵駅を降りて直ぐの場所に大満寺がある。狭い境内の中に東久世通禧の歌碑がある。
東久世通禧歌碑
東久世通禧は、いわゆる七卿の一人。王政復古の後、外国事務総督、神奈川県知事、開拓長官、侍従長、元老院副議長などの要職を歴任した。大満寺の歌碑は、明治三十一年(1898)に、佐々木信綱の指導を受け、当寺で歌会を催していた住職ほか、岩淵会の人々によって建立されたものである。
岩淵会の人々の歌に志あつきよしをききて
いはぶちのふかきこころにいそしみて
すゝみゆかなむ言乃葉のみち
大満寺
地下鉄の赤羽岩淵駅を降りて直ぐの場所に大満寺がある。狭い境内の中に東久世通禧の歌碑がある。
東久世通禧歌碑
東久世通禧は、いわゆる七卿の一人。王政復古の後、外国事務総督、神奈川県知事、開拓長官、侍従長、元老院副議長などの要職を歴任した。大満寺の歌碑は、明治三十一年(1898)に、佐々木信綱の指導を受け、当寺で歌会を催していた住職ほか、岩淵会の人々によって建立されたものである。
岩淵会の人々の歌に志あつきよしをききて
いはぶちのふかきこころにいそしみて
すゝみゆかなむ言乃葉のみち
(蕨本陣)
蕨本陣
蕨駅から市役所通りを真っ直ぐ行くと、旧中山道に交わる。蕨宿は中山道の第二の宿駅として発展した。今も旧中山道は、かつての街道の風情を残している。
蕨市立歴史民俗資料館の横が蕨本陣跡である。文久元年(1861)十一月十三日、江戸に向かう皇女和宮は、ここで休息をとった。明治元年(1868)には、明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。
歴史民俗資料館 分館
蕨本陣跡から数百㍍東京に寄ったところに在る蕨市立歴史民俗資料館の分館は、明治二十年(1888)築造された織物買継商の屋敷をそのまま転用したものである。
(三學院)
三學院
三學院は、三重塔や阿弥陀堂などの伽藍を有する真言宗の寺である。
蕨宿関係墓石群
墓地には、蕨宿本陣関係者の墓地がある。代々本陣を務めた加兵衛家と五郎兵衛家、脇本陣の新蔵家のものである。
伴門五郎之碑
平成二十一年(2009)に新築された阿弥陀堂の裏には、伴門五郎碑が建てられている。伴門五郎は幕臣。徒士隊となって文久三年(1863)家茂に従って上洛し、慶応元年(1865)の長州征伐にも参加した。鳥羽伏見の戦争の後、徳川慶喜が謹慎を命じられると、檄文を発して同志を糾合し、彰義隊を結成した。門五郎は副頭取に就任して、上野で奮戦の末、戦死。三十歳だった。
成蹊石川直中之墓
三學院正面の塀の前に石川直中の墓がある。石川直中は天保七年(1836)、江戸に生まれ、昌平坂学問所の儒官を務めた。明治三年(1870)、蕨で小学校設立の準備が始まると教師として迎えられ、以後、蕨や浦和の学校教授として教育に身を捧げた。明治二十三年(1890)、五十五歳でその生涯を閉じた。墓は高橋泥舟の書。
蕨本陣
蕨駅から市役所通りを真っ直ぐ行くと、旧中山道に交わる。蕨宿は中山道の第二の宿駅として発展した。今も旧中山道は、かつての街道の風情を残している。
蕨市立歴史民俗資料館の横が蕨本陣跡である。文久元年(1861)十一月十三日、江戸に向かう皇女和宮は、ここで休息をとった。明治元年(1868)には、明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。
歴史民俗資料館 分館
蕨本陣跡から数百㍍東京に寄ったところに在る蕨市立歴史民俗資料館の分館は、明治二十年(1888)築造された織物買継商の屋敷をそのまま転用したものである。
(三學院)
三學院
三學院は、三重塔や阿弥陀堂などの伽藍を有する真言宗の寺である。
蕨宿関係墓石群
墓地には、蕨宿本陣関係者の墓地がある。代々本陣を務めた加兵衛家と五郎兵衛家、脇本陣の新蔵家のものである。
伴門五郎之碑
平成二十一年(2009)に新築された阿弥陀堂の裏には、伴門五郎碑が建てられている。伴門五郎は幕臣。徒士隊となって文久三年(1863)家茂に従って上洛し、慶応元年(1865)の長州征伐にも参加した。鳥羽伏見の戦争の後、徳川慶喜が謹慎を命じられると、檄文を発して同志を糾合し、彰義隊を結成した。門五郎は副頭取に就任して、上野で奮戦の末、戦死。三十歳だった。
成蹊石川直中之墓
三學院正面の塀の前に石川直中の墓がある。石川直中は天保七年(1836)、江戸に生まれ、昌平坂学問所の儒官を務めた。明治三年(1870)、蕨で小学校設立の準備が始まると教師として迎えられ、以後、蕨や浦和の学校教授として教育に身を捧げた。明治二十三年(1890)、五十五歳でその生涯を閉じた。墓は高橋泥舟の書。
(旧高野家離座敷)
旧高野家離座敷
風が強い日だった。私が武蔵野線で東浦和を離れた直後、強風のため武蔵野線が運転を見合わせることになり、まさに間一髪の差であった。
床の間
東浦和駅からバスで七~八分、芝原というバス停付近の住宅街の中に、高野隆仙の旧宅が復原されている。もともとバス通り(赤山街道沿い)にあったものという。
高野隆仙は、漢方医高野隆永の長男として、大間木村に生まれ、長じて江戸に出て、高野長英の学塾大観堂に学んだ。長崎に留学したあと故郷に戻り、父の後を継いで蘭方医として村人の診療に当たった。蛮社の獄で投獄された高野長英が、弘化元年(1844)に脱獄逃亡した際、板橋宿の蘭方医水村玄銅の家に一両日匿われたといわれるが、玄銅は高野隆仙の実弟である。
やがて玄銅の家の周りを偵吏が徘徊するようになると、玄銅は長英を大間木村の隆仙の家に送り届けた。長英が高野家に潜伏したのは五~六日と言われているが、長英が郷里水沢を目指してここを立ち去った翌日、隆仙は捕縛され連日拷問を受けることになった。投獄から百日目に至ってようやく放免されたが、この間、大間木の村人たちは多額の寄付を集めて、隆仙の放免運動に奔走したと言う。その後、拷問による臀部の傷創が悪化し、安政六年(1859)十月永眠した。四十九歳。
旧高野家離座敷は、隆仙が高野長英を匿ったといわれる建物で、平成十七年(2005)に解体修理復原工事が施されたものである。
旧高野家離座敷
風が強い日だった。私が武蔵野線で東浦和を離れた直後、強風のため武蔵野線が運転を見合わせることになり、まさに間一髪の差であった。
床の間
東浦和駅からバスで七~八分、芝原というバス停付近の住宅街の中に、高野隆仙の旧宅が復原されている。もともとバス通り(赤山街道沿い)にあったものという。
高野隆仙は、漢方医高野隆永の長男として、大間木村に生まれ、長じて江戸に出て、高野長英の学塾大観堂に学んだ。長崎に留学したあと故郷に戻り、父の後を継いで蘭方医として村人の診療に当たった。蛮社の獄で投獄された高野長英が、弘化元年(1844)に脱獄逃亡した際、板橋宿の蘭方医水村玄銅の家に一両日匿われたといわれるが、玄銅は高野隆仙の実弟である。
やがて玄銅の家の周りを偵吏が徘徊するようになると、玄銅は長英を大間木村の隆仙の家に送り届けた。長英が高野家に潜伏したのは五~六日と言われているが、長英が郷里水沢を目指してここを立ち去った翌日、隆仙は捕縛され連日拷問を受けることになった。投獄から百日目に至ってようやく放免されたが、この間、大間木の村人たちは多額の寄付を集めて、隆仙の放免運動に奔走したと言う。その後、拷問による臀部の傷創が悪化し、安政六年(1859)十月永眠した。四十九歳。
旧高野家離座敷は、隆仙が高野長英を匿ったといわれる建物で、平成十七年(2005)に解体修理復原工事が施されたものである。
タイトルからすると最近の龍馬ブームに便乗した本のように見えるが、実は今井信郎の孫に当たる今井幸彦氏(故人)が、昭和五十八年(1983)に刊行した“由緒正しい”書籍である。
やはり大半は、龍馬暗殺に費やされる。龍馬の暗殺については、後年谷干城が講演で語った内容がほとんど正史として流布している。例えば刺客が十津川郷士と書いた名札をもっていたこと、刺客が「こなくそ」と叫んで斬りつけたこと、そして蝋色の鞘一本と瓢亭の焼印のある下駄一足が残されていたことなどである。
著者は、谷干城の証言が誤りであることを丹念に反証していく。今井幸彦氏は、共同通信社に務め、ほかにも編著書や訳書を残している。共同通信社でどのようなお仕事をされていたかは分からないが、相当な筆力のある人だと思われ、ここでの論調は非常に説得力がある。ただ、龍馬暗殺の命令者に関して著者が行き着いた結論は、斬新ではあるがやや突拍子もない印象が強い。
今井信郎は、維新後キリスト教に入信する。実は、今井信郎とも交友のあった元新選組の結城無二三もキリスト教徒となった。幕末、殺人の刃を振るった人間は、贖罪の意識から宗教に走るものなのだろうと、勝手に想像していたのだが、著者は一つの興味深い仮説を提示している。
――― 信郎は“天皇”およびそれを中核として構成される新政府を尊敬することも、また信用することもできなかった。しかし“ふるさと”ともいえる徳川はすでに“生ける屍”にしかすぎない。その点キリスト教は、唯一神と個人との“契約”であり、その間に何者をも仲介として入ることを許さない。(中略)心の拠りどころを求めることは、終戦直後の人心と同様、切なるものがあったろう。
今井信郎といえば龍馬暗殺犯という印象が強くて、“非情の剣客”と思われがちであるが、維新後は、静岡県初倉村にて帰農し、村議や村長を務めるなど、高潔な人生を送り七十七歳で世を去っている。本書は一人の幕臣の人生を俯瞰するにも格好の書といえる。
やはり大半は、龍馬暗殺に費やされる。龍馬の暗殺については、後年谷干城が講演で語った内容がほとんど正史として流布している。例えば刺客が十津川郷士と書いた名札をもっていたこと、刺客が「こなくそ」と叫んで斬りつけたこと、そして蝋色の鞘一本と瓢亭の焼印のある下駄一足が残されていたことなどである。
著者は、谷干城の証言が誤りであることを丹念に反証していく。今井幸彦氏は、共同通信社に務め、ほかにも編著書や訳書を残している。共同通信社でどのようなお仕事をされていたかは分からないが、相当な筆力のある人だと思われ、ここでの論調は非常に説得力がある。ただ、龍馬暗殺の命令者に関して著者が行き着いた結論は、斬新ではあるがやや突拍子もない印象が強い。
今井信郎は、維新後キリスト教に入信する。実は、今井信郎とも交友のあった元新選組の結城無二三もキリスト教徒となった。幕末、殺人の刃を振るった人間は、贖罪の意識から宗教に走るものなのだろうと、勝手に想像していたのだが、著者は一つの興味深い仮説を提示している。
――― 信郎は“天皇”およびそれを中核として構成される新政府を尊敬することも、また信用することもできなかった。しかし“ふるさと”ともいえる徳川はすでに“生ける屍”にしかすぎない。その点キリスト教は、唯一神と個人との“契約”であり、その間に何者をも仲介として入ることを許さない。(中略)心の拠りどころを求めることは、終戦直後の人心と同様、切なるものがあったろう。
今井信郎といえば龍馬暗殺犯という印象が強くて、“非情の剣客”と思われがちであるが、維新後は、静岡県初倉村にて帰農し、村議や村長を務めるなど、高潔な人生を送り七十七歳で世を去っている。本書は一人の幕臣の人生を俯瞰するにも格好の書といえる。
本書は、日米和親条約の締結から百五十年目の平成十六年(2004)に発刊されたものである。嘉永七年(1854)に結ばれたこの条約については、「無能無策」である幕府が「黒船の軍事的圧力」に屈した結果、極端な不平等条約を結ばされたとする説が横行している。本書では、ペリーの最初の来航から条約が結ばれるまでの一年間について、日米各々の資料を追いながら、その詳細を明らかにした。その結果、日米和親条約は、先進国間で結ばれていた対等な条約ではないにしても、中国やインドが戦争の末に押しつけられた「敗戦条約」とは異なり、ほかのアジア諸国では類を見ない「交渉条約」だったという。著者が提唱している「敗戦条約」「交渉条約」の定義については、本書を参照してもらいたい。日本が、アジアで唯一友好的に交渉条約を結ぶことができた背景には、幕府の並々ならぬ努力と、巧みな交渉と、事前の情報収集などがあった。本書で紹介されているペリーと林大学頭(復斎)とのガチンコのトップ交渉は、息を飲むほどの緊迫感である。政権を担っていた幕府が、手練手管を尽くして戦争を回避し、平和裡に条約締結にこぎつけたことは、もっと高く評価して良いだろう。
(墓山墓地)
桃井直正之墓
桃井文子之墓
かつて「七卿」の墓を全て踏破した私は、セブン・サミッターを自称したが、その一方で実は「幕末三剣豪」については、未踏破のままとなっていた。既に、巣鴨本妙寺の千葉周作、代々木福泉寺の斎藤弥九郎の墓を訪ねた私に残されたターゲットは、鏡心明智流桃井春蔵の墓であった。長らく桃井春蔵の墓の在り処が不明のままであったが、最近になってようやく判明したため、今回古市(羽曳野市)まで足を延ばすことにした。
羽曳野には古墳が多い。この付近にも応神天皇陵、仲哀天皇陵など巨大な古墳がある。桃井春蔵の墓は、墓山古墳と呼ばれる古墳の南に面した墓地にある。
何故、剣豪桃井春蔵の墓が羽曳野にあるかというと、維新後、誉田神社の神官に就いていたためである。神官を務める傍ら、近在の青年に剣道、漢籍、書道などを教授した。晩年には、大阪府の委嘱を受け、府警察部の剣術指南を務めた。明治十八年(1885)、コレラに罹患して、六十一歳にて世を去った。
(誉田神社)
誉田(こんだ)八幡宮
桃井春蔵が神官を務めた誉田八幡宮は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を祭神とする。
桃井直正之墓
桃井文子之墓
かつて「七卿」の墓を全て踏破した私は、セブン・サミッターを自称したが、その一方で実は「幕末三剣豪」については、未踏破のままとなっていた。既に、巣鴨本妙寺の千葉周作、代々木福泉寺の斎藤弥九郎の墓を訪ねた私に残されたターゲットは、鏡心明智流桃井春蔵の墓であった。長らく桃井春蔵の墓の在り処が不明のままであったが、最近になってようやく判明したため、今回古市(羽曳野市)まで足を延ばすことにした。
羽曳野には古墳が多い。この付近にも応神天皇陵、仲哀天皇陵など巨大な古墳がある。桃井春蔵の墓は、墓山古墳と呼ばれる古墳の南に面した墓地にある。
何故、剣豪桃井春蔵の墓が羽曳野にあるかというと、維新後、誉田神社の神官に就いていたためである。神官を務める傍ら、近在の青年に剣道、漢籍、書道などを教授した。晩年には、大阪府の委嘱を受け、府警察部の剣術指南を務めた。明治十八年(1885)、コレラに罹患して、六十一歳にて世を去った。
(誉田神社)
誉田(こんだ)八幡宮
桃井春蔵が神官を務めた誉田八幡宮は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を祭神とする。