史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「小笠綿諸島をめぐる世界史」 松尾龍之介著 弦書房

2020年10月31日 | 書評

先日も多度津の佐柳島まで往復してきたが、やはり島は独特で面白い。その究極が小笠原諸島である。これまでも何冊か小笠原諸島関係の本を読んだが、これも書店でみつけて即買いした。

ページを捲ると、いきなり大航海時代の解説から始まる。昔、世界史の授業で習ったような話が延々と続く。世界の海洋進出の延長線上に小笠原諸島の存在と発見があるというのが著者のこだわりのようで、しばらく世界史の授業が続く。

小笠原諸島というと、十七世紀末の小笠原貞頼による伝説が有名である。貞頼という人物の実在が確認されたとか様々な見方はあるが、著者は所詮伝説という立場である。

我が国の領有を主張するために、できるだけ歴史を遡ったら貞頼に行き着いたというのが実態であろう。今ではあたかも史実かのように扱われているが、その陰に隠れてしまったのが長崎の嶋谷市左衛門という人物である。

筆者自身も長崎出身ということもあって、本書の主眼は嶋谷市左衛門の功績を明らかにすることに置かれている。市左衛門は、長崎代官末次茂朝の支援を受けて小笠原島探検に成功したが、その直後末次家は取り潰しに遭い、家屋敷財産は全て没収された。長崎に戻った市左衛門も剃髪して、身を隠すようにして余生を過ごすことになった。市左衛門による小笠原諸島探検の快挙も歴史の闇奥深くに葬られてしまったのである。

市左衛門は南蛮の航海術を習得していたといわれる。また、末次家は全長四十三メートル、幅十メートルという巨船を建造し、無人島探検に提供した。末次家の失脚とそれに伴う市左衛門の逼塞は、我が国で発展しつつあった航海術と大型船建造技術までも遠くへ追いやってしまった感がある。

本書を読んで、ますます小笠原に行きたいという思いは募った。必要なのは一週間の休みとコロナ騒動の終息である。

 

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「日本の開国と多摩」 藤田覚著 吉川弘文館

2020年10月31日 | 書評

安政六年(1859)、箱館、横浜、長崎が開港され、欧米諸国との交易が始まると、さまざまな社会的・経済的変動が我が国を襲い、同時に社会的矛盾も表面化することになった。

本書は、多摩地方に着目して、開国(厳密にいえば貿易開始)後の社会の変化を追ったものである。多摩地方は、幕府のお膝元であり、天領や旗本の知行地が多い。そういう意味では比較的親幕的な地域であったが、それでも民衆の不満が鬱積し、慶応二年(1866)のは武州一揆とよばれる叛乱が発生している。著書は、武州一揆を開国以来顕在化した政治・経済・社会の矛盾の激化を象徴した事件と位置付けている。この時期、全国的に農民による暴動が発生している。その背景や経緯は個別に見ていく必要はあるが、多かれ少なかれ「社会的矛盾の顕在化」という側面はあったものと思われる。

海防強化を迫られると、幕府の通常の歳入ではとても対応しきれない。幕府はお膝元である多摩地方に献金や御用金を命じた。建前は自発的な献金であるが、実態は強制(割り当て)であった。多摩地方から何百両・何千両という献金が集まった背景には、この地方の強靭な経済力とともに幕府膝元という意識が強いこの地域特有の風土もあるかもしれない。しかしながら、再三にわたる要請に次第に献金の額も縮小せざるを得なかった。

幕末、関東地方を揺るがした騒乱の一つは元治元年(1864)の天狗党の乱であった。また、二次にわたる征長戦にも、多摩地方から兵を募ることになった。

秀吉の刀狩以降、兵農分離が進み、江戸幕府体制においては、農民は武装しないことが建前であった。ところが、平和な時代が二百五十年以上も続くと、本来兵役を期待される旗本はまったく戦力にならないことが露呈してしまった。

そこで発案されたのが、農兵である。石高に応じて村々に兵賦が課されることになった。農村にとっては貴重な労働力を拠出することになるので、おいそれと応じられるものではない。市場経済の発展とともに利益を蓄積していた多摩地方では、人を出す代わりに金納で要請に応じるところも少なくなかった。つまり金で雇われた兵(傭兵)である。金で雇われた兵は、江戸市中での略奪や不法行為を働くなど、その統制や士気の点で問題を抱えていたという。

治安が悪化したのも、この時代の特徴である。治安の悪化に対し幕府はほぼ成す術がなかった。結局、農民たちは自衛に拠らざるをえなくなり、農民の間で武術稽古が流行した。幕末、新選組の中心をなす集団がこの地域から生まれたのも、ある程度の必然性があったのである。近藤勇や土方歳三らと交流が深かったといわれる日野宿の佐藤彦五郎も、強盗の捕縛や幕末八王子宿に現れた不逞浪士の追討(壺伊勢事件)のために大活躍している。

農民の武装化というのは、すなわち身分制度の綻びでもあった。それにしても、献金をしろといわれたかと思えば、人を出せと要求があり、一方で治安悪化や諸物価高騰には知らぬ顔というのでは、さすがに幕府への忠誠心の厚い多摩地方の人々もたまったものではない。生糸貿易で潤ったから我慢もできたのかもしれないが、政治としてはかなりヒドイといわざるを得ない。

武州一揆の直接的原因となったのが、物価の高騰である。本書では、多摩地方に残る日記等の記録を追って、克明に物価水準の推移を追っている。生活に直結する米価や生糸が高騰していることが明確である。しかし、一方で生糸貿易により恩恵を受けていた八王子の商人は、物価上昇を上回る利益を得ており、高騰したコメを買うことにさほど難渋はなかったという記録もある。八王子では一揆に加わる者が少なく、むしろ鎮静する側にあったというのも謂れのないことではないのである。武州一揆を鎮静したのも組織化されたこの地域の農兵であった。

もう一つの要因が、この頃幕府が整備していた生糸蚕種紙改所に対する反発である。幕府は多摩地方の要所に改所を設置して生糸交易を管理しようとした。端的にいえば、課税収入を得ようとしたのである。

本書は幕末の多摩地方に注目して、さまざまな社会的矛盾が顕在化した様子をリアルに描いている。個人的には、上長房村、上椚田村、鑓水村、川原宿、駒木野宿など近所の馴染みのある八王子市内の地名が頻繁に登場し、とても身近な歴史として感じることができた。

しかし、この時期、多摩地方という特定の地方に限定したものではなく、全国的に同じような事態が噴出していたと考えるのが自然であろう。幕府の倒壊は、幕末の英雄が活躍する政治ドラマとして描かれることが多いが、相次ぐ民衆の叛乱によって幕府がかなり追い詰められていたという側面もあったと思われる。

 

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森下 Ⅱ

2020年10月24日 | 東京都

(長慶寺)

 長慶寺の門前に「近代小学校発祥地 東京府小学第六校 深川小学校誕生之地」とやや文字の多い石碑が建てられている(江東区森下2‐22‐9)。

 長慶寺には、明治三年(1870)、東京府が小学第六校を設置した。明治四年(1871)、文部省が直轄小学校とすることを示達。明治五年(1872)、学制が公布されると、翌明治六年(1873)、官立小学第六校は第六中学区一番小学深川学校と命名された。

 

長慶寺

 

深川小学校誕生之地

 

 現在、深川小学校は地下鉄森下駅の南側二百メートルの場所に移転している。

 

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橋場

2020年10月24日 | 東京都

(橋場一丁目)

 Google Mapを何気なく見ていると、橋場一丁目のマンション辺りに「山内容堂別邸跡」という表記を発見した。早速、現地に行って確かめてみた(台東区橋場1‐36)。周囲をかなり綿密に歩き回ったが、史跡を表すようなものは何もなかった。

 

山内容堂別邸跡付近

 

 明治初年、隅田川に面したこの付近は別荘地として人気が高かった。三条実美の対鷗荘もこの近くである。山内容堂は晩年、隅田川沿いのこの地に「綾瀬草堂」と名付けた別邸を建て、妾を十数人抱え、酒におぼれる日々を過ごしたとされる。明治五年(1872)、積年の飲酒が元で脳溢血により倒れた。四十七才であった。

 

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上野 Ⅺ

2020年10月24日 | 東京都

(東京国立博物館つづき)

 

東京国立博物館平成館

 

初代町田久成館長像

 

 平成館の前に平成二十八年(2016)、初代館長町田久成像が建立された。

 町田久成は、薩摩藩の名族に生まれ、幕末には藩命を受けて欧州に留学した。維新後は文化行政を担い、博物館の初代館長として上野博物館の建設や博覧会開催に尽力した。辞官後、出家して園城寺子院の住職となり「石谷」と号した。

 この日の目的は町田久成の胸像見ることにあった。東京国立博物館の敷地内に入るには、新型コロナウイルス感染対策の一環として現在日にちと時間を指定したチケットを事前の予約・購入する必要がある。特別展は開催されていない日であったが、常設展だけでも千円もする。一応、目的は達成したが、千円も払ったことだし、せっかくだから博物館の常設展示を見ていくことにした。結論から申し上げると、千円でも十分お釣りがくるくらい素晴らしい展示であった。日本国民なら一度は見ておきたい。

 

高村光雲作 「老猿」

 

 高村光雲の「老猿」は明治二十六年(1893)の作。シカゴ万国博覧会に出品され優等賞を得た。「幕末回顧談」(岩波文庫)によれば、光雲は栃の木の良材を求めて栃木県の鹿沼から三、四里山奥に入り込んだ発光路という寒村まで赴いている。切り倒した木を二か月もかけて川伝いに東京まで運んだ。光雲はこの作品を手がけるために、猿茶屋から猿を借りてきて自宅の物置に飼い、身近に猿を観察した。猿が時々縄を解いて逃げ出し、大騒ぎになったこともあったという。

 写真では見慣れた作品であったが、実物は想像以上に大きく、眼光鋭い猿の像は見応えがあった。

 

頼光大江山入図大花瓶

 

邪鬼

 

 明治五年(1872)、横山孝茂、弥左衛門父子による合作。明治六年(1873)のウィーン万国博覧会に出品されたもの。息を忘れるほどの精緻さである。

 

川村清雄「形見の直垂(虫干)」

 

 川村清雄は、初代新潟奉行を務めた川村修就の孫。幕府の開成所で英学と画学を学んだ。維新後、ニューヨークに渡って西洋画を学び、以後パリやヴェネツィアで油彩画を学んで、明治十四年(1881)に帰国して大蔵省印刷局に奉職した。勝海舟、徳川吉宗、家定、慶喜、天璋院篤姫らの肖像を描いている。海舟は、清雄を我が子のように可愛がり、自身の屋敷には清雄の絵以外は架けなかったといわれる。明治三十二年(1899)一月十九日、海舟の訃報を聞いた清雄は号泣してその死を悼んだ。海舟の柩は洗足池畔の墓所に移されたが、その時の陪柩者の一人に選ばれた。「形見の直垂」に描かれる少女が身に付けている白い直垂は、この時のものである。少女の周囲には、海舟の胸像や柩、遺品が並べられている。清雄はこの作品の完成に十年を費やした。

 

(上野公園つづき)

 

黒門跡

 

 上野公園の入り口近く、西郷隆盛像の下が黒門のあった場所である。現在、その場所には黒門をイメージした壁泉が置かれている。黒門は寛永寺の総門である。公園入口付近には、御橋または三橋と呼ばれる橋があって、寛永寺の正面入口となっており、その先に黒門があった。上野戦争では、黒門付近で激しい銃撃戦が交わされた。焼け残った黒門は、明治四十年(1907)、荒川の円通寺に移築された。

 

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江戸川橋 Ⅴ

2020年10月24日 | 東京都

(江戸川公園)

 

神田川

 

 文久三年(1863)、神田川の水力を利用し、最新の輸入機械を導入した関口大砲製造所が造られた。建設責任者は、小栗上野介、工場長は武田斐三郎であった。江戸川公園では神田上水の取水口遺構が見られる。関口大砲製造所はこの近くにあったとされる(文京区関口1‐26‐4)。

 

神田上水取水口

 

 井の頭池を源流とする我が国初の上水神田上水は、大洗堰で水位を上げ、上水路で水戸屋敷(現・後楽園一帯)に入れた。そこから地下を、樋を通して神田、日本橋方面に給水するものであった。大洗堰の取水口に上水の流水量を調節する「角落(かくおとし)」と呼ばれる板をはめこむための石柱が設けられた。大洗堰は、神田上水取水口遺構から百メートルほど西側にあったとされる。江戸川公園内には、当時の石柱が移設されている。

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千石 Ⅲ

2020年10月17日 | 東京都

(千石二丁目)

 

旧林町

 

 千石二丁目は、かつて小石川林町と呼ばれていた。その由来は、武家屋敷跡地や御菜園(植物園)など樹木が多い地域であったからとも、幕府の儒官林大学頭の屋敷があったからともいわれる。

 

 千石二丁目の住宅街の中に明治天皇行幸記念碑が建てられている。最寄駅は茗荷谷駅であるが、住所は千石二丁目である(文京区千石2‐15‐14)。

 

明治天皇行幸記念碑

 

 この場所は、明治時代に土方久元の邸宅のあったところである。明治二十六年(1893)、土方邸の新築祝いに明治天皇がこの地を訪れたことを記念したものである。

 

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早稲田 Ⅷ

2020年10月17日 | 東京都

(諏訪神社)

 諏訪神社の境内に明治天皇射的砲術天覧所阯と記された石碑が建てられている(新宿区高田馬場1‐12‐6)。

 

諏訪神社

 

明治天皇射的砲術天覧所阯

 

 明治十五年(1882)十一月九日、明治天皇が近衛射的場の開場式に臨んだ。同年十一月二十九日には射的砲術演習を展覧した。

 

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水戸 水戸城周辺 Ⅳ

2020年10月17日 | 茨城県

(大町二丁目)

 大町二丁目の駐車場の片隅に「「新論」を書いた仲町寓居跡」と書かれた駒札が建てられている(水戸市大町2‐1‐2)。

 

「新論」を書いた仲町寓居跡

 

 会沢正志斎が、文政四年(1821)から天保元年(1830)までの九年間、仲町の鯉渕幸蔵宅を借りて住んだ場所である。正志斎は、文政七年(1824)、大津浜に上陸してきたイギリス船員との応接に筆談役を務めたが、その危機意識から翌文政八年(1825)にこの地で「新論」を書きあげた。この書において正志斎は決して倒幕を意図していたわけではないが、「新論」は幕末志士たちの尊王攘夷論のバイブルとして大きな役割を果たした。

 安政五年(1858)、戊午の密勅が水戸に下されると、正志斎は密勅の回送に反対し、勅諚を朝廷に返却することを主張した。正志斎自身は秩序を重んじる穏健な思想を保持し続けた。

 

(三の丸市民センター)

 

本間玄調像

 

 三の丸市民センターの前に本間玄調像がある(水戸市三の丸1‐6‐60)。この背後には玄調が教授を務めた弘道館医学館があった。

 本間玄調(1804~1872)は、水戸藩の藩医。漢方ばかりではなく西洋医学も学び、それぞれの良いところを取り入れた医療を取り入れた。また、藩校弘道館の医学館教授として後進を指導し、多くの著作を残している。九代藩主徳川斉昭とともに天然痘予防に尽力し、牛痘を使った種痘を広め、多くの人命を救った。これにより斉昭から「救(たすく)」という名を下賜された。

 

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東海 Ⅱ

2020年10月17日 | 茨城県

(泉福寺墓地)

 泉福寺の墓地をようやく探し当てた。舟石川の泉福寺からは約二・五キロメートルも離れていて、泉福寺の周囲を探していたのでは見つけようがない。場所は国道6号線の石神小入口交差点近くである(東海村石神外宿1590付近)。路線バスも走っておらず、JR東海駅から行きはタクシーを利用するしかない。帰りは徒歩で五十分を要した。墓地改修記念碑によれば黒澤家の墓所は、明治初年まで願船寺(東海村石神外宿1047)にあったが、泉福寺墓地に移され、昭和五十九年(1984)に至り、現状のとおり改修整備されたものである。

 

黒澤家代々之墓

(黒澤覚蔵の墓)

 

 泉福寺墓地に入ると左手に黒澤家の広大な墓地がある。覚蔵の父覚衛門は石神外宿で山横目を務める家で、実兄覚助も水戸天狗党員として活躍した。一族には尊攘派の志士が多く、元治元年(1864)の天狗党の乱では、多くの殉難者を出した。村は「石神勤王村」と呼ばれた。

 覚蔵は高橋多一郎の信任が厚く、桜田事変の際には常に多一郎に従って行動した。水戸から結城街道、中山道に沿って西上し、四天王寺で高橋父子が幕吏に追われた時、たまたま覚蔵はその場にいなかったため難を逃れた。以後の行動は不詳。明治になってこの時の記録を「黒沢覚蔵覚書」として著わした。

 黒澤家墓地の奥から三番目の墓地の墓誌の先頭に「黒澤覺蔵 明治二十二年六月十七日歿 行年七十一才」とある。

 墓誌には名前が見えないが、向かって左奥の古い墓石「黒澤亀太郎君墓」は、覚蔵の長男亀太郎のもの。天狗党の争乱において、元治元年(1864)九月九日、久慈郡島村にて戦死。

 

黒澤家之墓(覚衛門・覚助の墓)

 

 黒澤家墓地の一番右奥(覚蔵家の一つ置いて右隣)が、覚蔵の父覚衛門と兄覚助の墓である。

 黒澤覚助は、文政二年(1819)の生まれ。長じて会沢正志斎に学び、天保中土地境界の改正を行うや、横目格郷士列となり、与って功績があった。弘化元年(1844)、藩主斉昭が幕譴を蒙ると、父覚衛門、弟覚蔵とともに雪冤に奔走し、罪を得て父子三人投獄され、三年を経て赦された。安政の初め、職務・家格ともに回復し、小十人組列に進んだ。安政五年(1858)からの藩難には衆を指導して江戸に向かい、藩邸に意見を呈した。元治元年(1864)の内戦には松平頼徳に従って那珂湊に拠って城兵と闘い、のち佐貫に禁錮され、翌慶應元年(1865)、処刑された。年四十七。

 傍らの墓誌によれば、「黒澤覚衛門 嘉永二年一月四日歿 行年五十六才」「従五位 黒澤覚助 慶應元年四月三日歿 行年四十九才」とある。

 

覚衛門黒澤君墓

 

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