史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「堺港攘夷始末」 大岡昇平著 中公文庫

2010年04月25日 | 書評
最近になって「幻の限定復刊」と称して中公文庫が往年の名作を次々と発行している。中公文庫には、本作をはじめ長谷川伸の「相楽総三とその同志」など、歴史に残る名著が多く収蔵されているが、その多くは絶版となっているので、このような企画は大変喜ばしい。
大岡昇平が平成元年(1989)に著した「堺港攘夷始末」は、森鴎外の「堺事件」とその種本である佐々木甲象の「泉州堺列挙始末」(以下、「始末」と略す)に対する反証として書かれたものである。
そもそも「始末」は、明治二十六年(1893)に箕浦清四郎、土居盛義ら、土佐隊の生き残りもしくはその親族らが、事件の顕彰を目的として書き残したもので、自ずと意図をもって粉飾されている。
当時、新政府は堺を外国人遊歩地域として認定していたが、そのことが堺の守備を預かる土佐藩に正確に伝わっていなかった。堺町奉行所は既に廃され、大阪奉行所の支配下にあったが、堺に出張していた与力、同心らは大阪城焼失とともに逃げてしまい、土佐藩側に引き継ぎがされなかった手違いと思われるが、土佐藩の資料ではこのことに沈黙している。この行き違いが事件の発端になったことは間違いない。
また、「堺事件」などでは、仏人が乱暴をはたらいた上に発砲、果ては土佐隊の軍旗を持ちだして逃げ出そうとしたため、土佐隊がやむなく発砲したという筋立てになっているが、土佐藩以外の記録ではそのような記録はない。また有名な十一士の切腹についても、あまりの凄惨さにフランス人の立会人が恐れを成して退散し、そのため十一人で中断されてしまったと伝えられているが、これも実態とは大いに異なっている。一人目の箕浦猪之吉は十文字に腹を掻き斬り、攘夷の歌をうたい(これは立ち会ったプチ-トアールの談話)、臓腑をつかみだしながら首を討たれた。この部分は日本側の記録ともフランス側の証言とも一致しておりほぼ間違いのないところであるが、それ以降の切腹は案外形式的に淡々と進んだのではないかと大岡氏は指摘する。結果的に八番隊側から唯一人の切腹者となった大石甚吉の切腹について「始末」ではかなり詳細に、また勇壮に描写している。七太刀を受けても大石の姿勢は崩れなかったと書きたてているが、「始末」は主に八番隊の生き残りが執筆したもので、誇張があると考えられる。十一番目に切腹したのは柳瀬常七である。「始末」あるいは寺石正路「明治元年土佐藩士泉州堺列挙」でも柳瀬の切腹では臓腑があふれだし、これを見たフランス人立会人が怖気づいて中止を申し入れたとしているが、実はほかに柳瀬の切腹の様子を伝えるものはない。これも事件を美化しようという意図から生み出された粉飾である可能性が高い。大岡氏はフランス側の記録を紹介しながら、最初からフランス側の犠牲者と同じ十一人で処刑を終わらせる考えであったことを立証する。
本書を読むと、歴史というのはそれを扱う人間の腹一つで如何様にも料理できてしまうものだということを改めて思い知らされる。大岡氏は、一切の虚飾を排して歴史の真実を明らかにしようという姿勢を貫く。歴史の真実とは、各種の資料を読み解き、多面的に検討を重ね、その果てにようやく見えてくるものなのである。だから、歴史は難しいし、同時に面白い。

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「小学生の国語 五年」 三省堂

2010年04月25日 | 書評
このたび小学校五年生の国語の教科書に私の撮影した緒方洪庵夫妻の墓(龍海寺)の写真が掲載されることになった(天満橋 Ⅰ)。司馬遼太郎先生が子供たちのために書いた「洪庵のたいまつ」が掲載された教科書で、その末尾に適塾の写真などとともに洪庵の墓が紹介されている。尊敬する司馬先生の作品の片隅ではあるが、お役に立てたことは感無量である。お墓の写真はともかく、「洪庵のたいまつ」は司馬先生の想いが詰まった作品で、是非たくさんの子供たちに読んでもらいたい。この教科書が広く採用されることを願う。
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「薩軍城山帰還路調査」 薩軍城山帰還路調査会編 南方新社

2010年04月25日 | 書評
今から十年以上も前になるが、転勤により鹿児島から出ると決まったとき、最期の週末に外出先として選んだのが「西郷軍敗走路」であった。「西郷軍敗走路」は可愛岳で官軍の包囲を破ってのち、三田井(現・宮崎県西臼杵郡高千穂町)を経て、飯干峠、小林に至る山路である。本書は、書名のとおり西南戦争の末期、薩軍が城山に突入する四日間に焦点を当てて、実地を踏破調査したものである。
調査メンバーは、元高校歴史教諭(現・鹿児島地名研究会世話役)の平田信芳氏(七十九歳)ほか、大半は第一線を退いた御老人であるが、こうして老後も歴史研究にエネルギーを傾けることができるのは羨ましい限りである。世の中を見渡せば、政治家、官僚からサラリーマンに至るまで、六十歳を過ぎても職にしがみつくのは見苦しいばかりである。こうしてもつれた糸を解すような歴史研究に専念できれば、自分としては理想的な老後の過ごし方と思える。
私も勉強不足であったが、吉松から鹿児島市周縁に、西南戦争末期の薩軍の足跡を伝える史跡が点在しているらしい。この本では西郷隆盛宿営地として従来から知られていた四箇所を起点として、伝承で西郷隆盛休息地と言われている場所を線で結ぶことに挑戦したものである。
その間、調査会の方々は、現地で地元住民から聞き取りを重ね、ひたすら歴史の空白を埋めることに努めた。西南戦争から百三十年以上が経過しているが、それでもこうして現地で聞き取り調査を実施すると、地中から化石でも掘り起こされるように、色々なエピソードが発掘される。歴史を研究するのに、史料に目を通すことも必要であるが、時にはこうして現地で情報を収集することが重要だということをこの本は教えてくれる。

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松戸 Ⅱ

2010年04月18日 | 千葉県
(千葉大学園芸学部)
 戸定邸に隣接する千葉大学園芸学部の裏門横に竹内啓(小川節斎)の墓がある。


竹内啓之奥城

 竹内啓(ひらく)は、文政十一年(1828)、武蔵国入間郡竹内村の生まれで、生家は名主であった。十七歳のとき江戸に出て朝川善庵、平田銕胤に和漢の書を学び、幕府の侍医辻元通庵に医術を学んだ。父の没後、名主となり、医者として働く傍ら村童を集めて教授していた。慶応三年(1867)十一月、下野出流山にて尊王倒幕の兵を挙げた。十二月十三日、幕府方に鎮圧され、古河に逃れたところで捕えられた。竹内啓の身柄は江戸に護送されることになったが、同月二十四日、その途中、松戸で引き回しの上、この地で処刑された。享年四十。

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「怪」 綱淵謙錠著 中公文庫

2010年04月13日 | 書評
これも父の書棚から拝借してきた本である。綱淵氏の特徴である一字の題を付された十の小編が収録されている。「恋」「狼」「霊」「怪」「約」「瞑」「兆」の七編は、神秘的・超合理的現象をテーマとした小説で、個人的にはあまり興味はない。「脱」「獄」「魄」の三篇は、幕末の会津を題材としたものであるが、特に末尾の「魄」は、死体の近くに血縁者を感じると、鼻血を出したり歯茎から血を流して自分の存在を知らせるといった超合理的現象を描いて、やはり前の七編と同質の不気味な味わいの小説である。
「脱」は、元白虎隊士山川健次郎(のちの東京大学、京都大学、九州大学総長)が、国許を脱して長州藩出身の奥平謙輔のもとに走り、アメリカへ渡航するまでを描いた作品である。
「獄」は、広沢安任とともに投獄された武川信臣が、拷問を受けた末に斬首されるまでを描く。武川信臣は、会津藩の名門内藤家の出で、長子は内藤介右衛門、次子は梶原平馬というともに戊辰戦争時に家老を務めていた。信臣は第三子であったが、彰義隊に走り新政府軍に徹底抗戦を貫いた。
いずれも会津藩の悲劇を描いて、静かな感銘を呼ぶ作品となっている。

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「幕末時代劇、『主役』たちの真実 ヒーローはこうやって作られた!」 一坂太郎著 講談社+α文庫

2010年04月13日 | 書評
一坂太郎氏の著作に「幕末歴史散歩 東京篇」「同 京阪神篇」(中公新書)などがあるが、こういった本を読むと、この人は本当に幕末という時代が好きなんだなということがにじみ出ている。「幕末時代劇、「主役」たちの真実」も著者の幕末好きが書かせた作品と言えるだろう。今となっては、その辺のレンタルビデオ屋では借りることもできないような戦前の映画まで紹介されていて、極めてマニアックである。一坂氏は私より五つ年下であるが、どうしてこんな古い映像まで御存知なのか、感心するばかりである。
NHKの大河ドラマは、ほぼ同じ作品を見てきたはずであるが、さすがに著者の批評は鋭い。私は「獅子の時代」(昭和五十五年)は、不朽の名作だと思っていたが、視聴率は振るわず、NHKとしては失敗という位置づけだったのですね。「獅子の時代」以降、大河ドラマでは決まって「偉人」「英雄」を取り上げることになってしまう。著者は「『獅子の時代』の失敗は一放送局の問題ではなく、国民の歴史観にも影響を及ぼすような重大事だったのではないか」と警鐘を鳴らす。
かつてNHKの大河ドラマといえば、司馬遼太郎先生の小説や「花の生涯」「勝海舟」など、名作を映像化しようという意欲が感じられたものであるが、アイドルを主役に据えて大衆に迎合した軽薄なものになったのは何時頃からだろうか。最近の大河ドラマを見ていて思うのは、どこまで史実から離れることが許されるのかということである。「篤姫」の原作は、いうまでもなく宮尾登美子原作であるが、原作にも史実にもない、小松帯刀と篤姫の恋愛などが物語の中心に置かれていた。現在放映中の「龍馬伝」にしても、坂本龍馬と岩崎弥太郎が幼い頃からの友達のように描かれているが、史実で確認できている二人の接触は、龍馬の死の年、慶応三年(1867)のわずかな期間のみである。小説やテレビドラマは所詮創作だと割り切れば、いちいち目くじらを立てる必要もないかもしれないが、大河ドラマは影響も大きいだけにちょっと心配なのである。
坂本龍馬について
――― 近年の龍馬を描く映画やドラマは、単純に万人が喜ぶ理想の青年像を龍馬を通じて追い求めようとしている感じを強く受ける。だからどんどん美化され、特に若い崇拝者が増えてしまうのだ。
との指摘は、正鵠を射ている。著者は別の頁でも「龍馬暗殺が必要以上に「謎」とされてしまった」と言及しているが、「龍馬ブーム」は行き過ぎた美化や賞賛が、歴史を歪めてしまった端的な例であろう。

私はさほど映画好きというわけではないが、最近この本でも紹介されている「長州ファイブ」という映画をDVDで見た。「長州ファイブ」と呼ばれる五人には、伊藤博文や井上馨のように有名な人物もいるが、あまり日の当てられることのない山尾庸三や井上勝、遠藤謹助といった人物群に着目したところが新鮮であった。確かに一坂氏が指摘するような不完全さは散見されるものの、このようなマイナーな史実や人物に照明をあてるような作品は大歓迎である。

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伊丹

2010年04月10日 | 兵庫県
(菩提寺)
 阪急伊丹駅から徒歩七~八分の場所に菩提寺がある。広い墓地には、伊丹明倫堂初代教頭橋本半助、太田北山の墓がある。


橋本静庵之墓(左から二基目)

 橋本半助。号は静庵或いは香坡(こうは)。生まれは上野国沼田。十五歳のとき大阪に移り、篠崎小竹に学んで篠門四天王の一人に数えられた。天保九年(1838)、伊丹昆陽口村に学問所明倫堂が開設されると、初代教頭に招かれた。慶応元年(1865)藤井藍田と親交があったことから、投獄され獄中死した。生前自分の墓を父母の墓に並べて建てた。


太田北山先生之墓

 太田北山は、文政十年(1827)肥前小城の生まれ。江戸で儒学を学び、帰藩後、指南役などを務めたが、維新を機に退職。大阪に移って私塾成章館を開いた。明治十七年(1884)、伊丹に移って私塾弘深館を開いた。門下生は千人を下らなかったという。
 北山の墓は新しく建て替えられたらしい。歴史が感じられないのは、少々残念である。

(柿衛文庫)


柿衛文庫

 文政十二年(1829)十月、頼山陽や篠崎小竹、田能村竹田(文人画家)、高橋草坪らが、箕面での紅葉狩りの帰途、伊丹の銘酒「剣菱」の醸造元の坂上桐陰家に集った。その宴席に供された珍しい台柿の味に一同は心打たれ、その感興を詩文や絵画に残した。「柿衛(かきもり)」は、この銘木を衛るという意味である。


頼山陽遺愛の台柿(二世)

(頼山陽歌碑)


頼山陽歌碑

紅楓相暎じ酔慈顔 侍得たり帰輿未だ遽に還らず
今歳此遊圧尾に堪えたり 将に佳酒を携えて
佳山を看んとす
 母の西下を送り伊丹を過ぎて遂に箕尾に遊ぶ 山陽外史

(寺本児童公園)
 阪急伊丹駅からバスで十分足らず、寺本東のバス停から歩いて数分のところに、寺院が密集している地域がある。その一角に小さな公園があり、加納諸平と伴林光平の歌碑が建てられている。どういう関係で二つの歌碑がこの場所に建立されたのか、詳しい背景は分からないが、隣り合う正覚寺に加納諸平の父、夏目甕麿の墓があることが関係しているのかもしれない。伴林光平は、加納諸平の門下で、天誅組の変に参加し、捕らえられて京都六角の獄舎で斬首されている。


加納諸平歌碑

こをだにと折り取る袖に且つ落ちて露よりもろき玉椿かな


伴林光平歌碑

分来てし其世は夢と成りぬるを何たとらるる猪名のささ原

(正覚院)


正覚院


萩園之奥(夏目甕麿)墓

 正覚院には、加納諸平の父、夏目甕麿の墓がある。夏目甕麿は、遠江国白須賀の生まれであるが、晩年は正覚院に身を寄せ、詩歌を楽しんでいた。ある夜、酒を飲んだ上、池に映る月を「取ってみせる」と池の中に入り、急所を打って急死したと伝えられる。墓の横にはそのときの石も置かれている。

 この日は、伊丹からの帰り十三駅でそばを食べて帰ると決めていた。学生時代は常に腹を空かしていたせいかもしれないが、帰宅途中に食べる「阪急そば」がとても旨かった。想い出深い「阪急そば」を味わいたいと思い、発祥の店である十三駅で、期待に胸膨らませながら天ぷらそばを注文した。
 結論からいうと、「阪急そば」は期待したほど旨くなかった。味が落ちたのか、自分の舌が肥えたのか良く分からないが、一番の理由は自分があのときほど飢えてないからかもしれない。そう考えると寂しいことだが、これから先、心から「旨い」と感嘆しながらそばを食うことはあまりないかもしれない。

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西宮 Ⅱ

2010年04月10日 | 兵庫県
(今津砲台跡)


今津海岸砲臺記念石

 今津砲台は、文久三年(1863)に建設が始まり、慶応二年(1866)にようやく完成を見た。砲台の大きさは、直径十数メートル、高さ十~十二メートルで、砲眼からは大砲で四方を狙うことができた。大正四年(1915)砲台は民間に払い下げられ、石を採るため解体された。石碑に使われている石材は、その一部である。

(今津灯台)


今津灯台

 今津灯台は、文化七年(1810)、「大関」醸造元長部家五代目長兵衛が、今津港に出入りする樽廻船や漁船のために建てたのが起源で、現在のものは六代目が再建したものである。今津灯台は、木造の行灯式灯台であるが、今も現役で活躍している。

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尼崎 Ⅱ

2010年04月10日 | 兵庫県
(尼崎城跡)
 阪神尼崎駅の南東、数百メートル四方に渡る広大な敷地が、尼崎城跡に当たる。一角が城趾公園となっており、城壁の一部が再現されているが、それを除くとここに城郭があった気配すら感じられない。


尼崎城址公園

 尼崎城は、元和四年(1618)から数年かけて譜代大名の戸田氏鉄によって築城されたものである。その後、青山氏、桜井松平氏に引き継がれて維新を迎えている。


尼崎城天守閣遺跡

 尼崎市文化財収蔵庫の建物がある辺りが天守閣跡らしい。建物の前に石碑が建てられている。


明城小学校 尼崎城

 以前、この小学校は城内小学校という名称であった。阪神大震災で校舎が全壊し建て直された後、ほかの小学校と合併して明城小学校と校名を変えている。校舎の前には、尼崎城の天守の模型が作られている。今さら城郭の再建は無理だろうが、このような趣向は大歓迎である。

(桜井神社)


桜井神社

 幕末の尼崎城主は、桜井忠興である。桜井忠興は、明治十年(1877)博愛社(のちの日本赤十字社)の創立メンバーの一人である。桜井神社は、旧尼崎城跡の一角に建てられたもので、桜井松平家の初代から十六代忠興までを祀っている。

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淀屋橋 Ⅱ

2010年04月10日 | 大阪府
(適塾)
 週末、大阪支社で仕事があった。昼休みに散歩がてら適塾を訪ねた。
 支社に戻ると女子社員に
「どこまで散歩に行ってたんですか」
と訊かれたので
「適塾まで」
と答えると、驚いたことに彼女は適塾の存在も、緒方洪庵のことも知らなかった。昨今、歴史ブームと言われるが、現実はこんなものなのである。


ヅーフ部屋

 適塾における教育の中心は、蘭書の会読であった。この予習のために塾生が使用していたのがヅーフ辞書と呼ばれる蘭和辞書である。この本は、長崎出島のオランダ商館長ヅーフが、ハルマの蘭佛辞書に拠って作成したもので、当時は極めて貴重なもので塾生は争って筆写した。塾生の勉強は、他の塾とは比較にならないほど激しいものだったという。適塾で塾長も務めた福沢諭吉は「このうえにしようもないほど勉強した」と述懐している。


ヅーフ辞書


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