最近になって「幻の限定復刊」と称して中公文庫が往年の名作を次々と発行している。中公文庫には、本作をはじめ長谷川伸の「相楽総三とその同志」など、歴史に残る名著が多く収蔵されているが、その多くは絶版となっているので、このような企画は大変喜ばしい。
大岡昇平が平成元年(1989)に著した「堺港攘夷始末」は、森鴎外の「堺事件」とその種本である佐々木甲象の「泉州堺列挙始末」(以下、「始末」と略す)に対する反証として書かれたものである。
そもそも「始末」は、明治二十六年(1893)に箕浦清四郎、土居盛義ら、土佐隊の生き残りもしくはその親族らが、事件の顕彰を目的として書き残したもので、自ずと意図をもって粉飾されている。
当時、新政府は堺を外国人遊歩地域として認定していたが、そのことが堺の守備を預かる土佐藩に正確に伝わっていなかった。堺町奉行所は既に廃され、大阪奉行所の支配下にあったが、堺に出張していた与力、同心らは大阪城焼失とともに逃げてしまい、土佐藩側に引き継ぎがされなかった手違いと思われるが、土佐藩の資料ではこのことに沈黙している。この行き違いが事件の発端になったことは間違いない。
また、「堺事件」などでは、仏人が乱暴をはたらいた上に発砲、果ては土佐隊の軍旗を持ちだして逃げ出そうとしたため、土佐隊がやむなく発砲したという筋立てになっているが、土佐藩以外の記録ではそのような記録はない。また有名な十一士の切腹についても、あまりの凄惨さにフランス人の立会人が恐れを成して退散し、そのため十一人で中断されてしまったと伝えられているが、これも実態とは大いに異なっている。一人目の箕浦猪之吉は十文字に腹を掻き斬り、攘夷の歌をうたい(これは立ち会ったプチ-トアールの談話)、臓腑をつかみだしながら首を討たれた。この部分は日本側の記録ともフランス側の証言とも一致しておりほぼ間違いのないところであるが、それ以降の切腹は案外形式的に淡々と進んだのではないかと大岡氏は指摘する。結果的に八番隊側から唯一人の切腹者となった大石甚吉の切腹について「始末」ではかなり詳細に、また勇壮に描写している。七太刀を受けても大石の姿勢は崩れなかったと書きたてているが、「始末」は主に八番隊の生き残りが執筆したもので、誇張があると考えられる。十一番目に切腹したのは柳瀬常七である。「始末」あるいは寺石正路「明治元年土佐藩士泉州堺列挙」でも柳瀬の切腹では臓腑があふれだし、これを見たフランス人立会人が怖気づいて中止を申し入れたとしているが、実はほかに柳瀬の切腹の様子を伝えるものはない。これも事件を美化しようという意図から生み出された粉飾である可能性が高い。大岡氏はフランス側の記録を紹介しながら、最初からフランス側の犠牲者と同じ十一人で処刑を終わらせる考えであったことを立証する。
本書を読むと、歴史というのはそれを扱う人間の腹一つで如何様にも料理できてしまうものだということを改めて思い知らされる。大岡氏は、一切の虚飾を排して歴史の真実を明らかにしようという姿勢を貫く。歴史の真実とは、各種の資料を読み解き、多面的に検討を重ね、その果てにようやく見えてくるものなのである。だから、歴史は難しいし、同時に面白い。
大岡昇平が平成元年(1989)に著した「堺港攘夷始末」は、森鴎外の「堺事件」とその種本である佐々木甲象の「泉州堺列挙始末」(以下、「始末」と略す)に対する反証として書かれたものである。
そもそも「始末」は、明治二十六年(1893)に箕浦清四郎、土居盛義ら、土佐隊の生き残りもしくはその親族らが、事件の顕彰を目的として書き残したもので、自ずと意図をもって粉飾されている。
当時、新政府は堺を外国人遊歩地域として認定していたが、そのことが堺の守備を預かる土佐藩に正確に伝わっていなかった。堺町奉行所は既に廃され、大阪奉行所の支配下にあったが、堺に出張していた与力、同心らは大阪城焼失とともに逃げてしまい、土佐藩側に引き継ぎがされなかった手違いと思われるが、土佐藩の資料ではこのことに沈黙している。この行き違いが事件の発端になったことは間違いない。
また、「堺事件」などでは、仏人が乱暴をはたらいた上に発砲、果ては土佐隊の軍旗を持ちだして逃げ出そうとしたため、土佐隊がやむなく発砲したという筋立てになっているが、土佐藩以外の記録ではそのような記録はない。また有名な十一士の切腹についても、あまりの凄惨さにフランス人の立会人が恐れを成して退散し、そのため十一人で中断されてしまったと伝えられているが、これも実態とは大いに異なっている。一人目の箕浦猪之吉は十文字に腹を掻き斬り、攘夷の歌をうたい(これは立ち会ったプチ-トアールの談話)、臓腑をつかみだしながら首を討たれた。この部分は日本側の記録ともフランス側の証言とも一致しておりほぼ間違いのないところであるが、それ以降の切腹は案外形式的に淡々と進んだのではないかと大岡氏は指摘する。結果的に八番隊側から唯一人の切腹者となった大石甚吉の切腹について「始末」ではかなり詳細に、また勇壮に描写している。七太刀を受けても大石の姿勢は崩れなかったと書きたてているが、「始末」は主に八番隊の生き残りが執筆したもので、誇張があると考えられる。十一番目に切腹したのは柳瀬常七である。「始末」あるいは寺石正路「明治元年土佐藩士泉州堺列挙」でも柳瀬の切腹では臓腑があふれだし、これを見たフランス人立会人が怖気づいて中止を申し入れたとしているが、実はほかに柳瀬の切腹の様子を伝えるものはない。これも事件を美化しようという意図から生み出された粉飾である可能性が高い。大岡氏はフランス側の記録を紹介しながら、最初からフランス側の犠牲者と同じ十一人で処刑を終わらせる考えであったことを立証する。
本書を読むと、歴史というのはそれを扱う人間の腹一つで如何様にも料理できてしまうものだということを改めて思い知らされる。大岡氏は、一切の虚飾を排して歴史の真実を明らかにしようという姿勢を貫く。歴史の真実とは、各種の資料を読み解き、多面的に検討を重ね、その果てにようやく見えてくるものなのである。だから、歴史は難しいし、同時に面白い。