史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

赤穂

2012年10月28日 | 兵庫県
(赤穂城)
 赤穂といえば、何と言っても赤穂浪士、忠臣蔵、討ち入りである。駅を出ると、軍配を振るう大石内蔵助像が出迎えてくれる。市内の至るところに四十七士の住居跡や歌碑などが残されており、赤穂浪士の足跡を訪ねる旅人も少なくない。
 まず、駅の観光情報センターでレンタサイクルを借りる。赤穂は坂が少なく、自転車で回るに適した街である。ここで観光地図も入手できる。


赤穂駅前 大石内蔵助像

 駅から真っ直ぐ南へ伸びる道を道なりに進めば、突き当たりが赤穂城である。
 赤穂城は、十五世紀中頃、赤松一族の岡豊前守が築城したと伝えられる。その後、宇喜多氏、池田氏がこの地を引き継ぎ、次第に城郭と城下町が整えられた。正保二年(1645)、常陸笠間から浅野氏が転封され、城郭が現在の規模まで拡大整備された。今も本丸跡地に天守台が残されているが、天守閣は建造されなかったという。
 元禄十四年(1701)、藩主浅野長矩が有名な刃傷事件を起こして浅野家は断絶。代わって、備中西江原から森氏が転じて、明治維新まで続いた。今回の赤穂訪問のメイン・テーマである文久事件は、森氏の時代に起きた事件である。


赤穂城 隅櫓と大手門


赤穂城二の丸門跡

 文久二年(1862)十二月九日、赤穂藩国家老森主税が勤王派に暗殺されたのが、二の丸門付近であった。二の丸門は残されていないが、現在、二の丸庭園の復元工事が進行中である。


大石内蔵助邸長屋門

 大石家が三代五十七年にわたって住んでいた大石邸の跡地には、長屋門が再建され、大石神社が建立されている。

(大石神社)


大石神社


東郷平八郎書 忠魂

 大石内蔵助を祭神とする大石神社の鳥居の奥には、東郷平八郎の書で「忠魂」「義膽」と刻まれた石柱が建てられている。

(花岳寺)


花岳寺

 花岳寺も、赤穂浪士一色である。赤穂浪士の遺髪墓や家族の墓、大石家先祖の墓、浅野家の墓所などがある。宝物館には赤穂浪士の木像や遺品、書簡、遺墨など多数展示されている。残念なことに文久事件関係の展示などは全くない。


森家墓所

 文久二年(1862)十二月、国家老森主税と用人村上真輔を暗殺した勤王派の一団は、脱藩して長州に逃れた。しかし、ほどなく長州藩の情勢が変化し俗論派が政権を握ると、再び赤穂の地に舞い戻った。このうち松本善次と浜田豊吉は、花岳寺森家墓所の前で自刃した。


本堂の天井絵「竹に虎」

 法橋義信による天井絵。安政元年(1854)、法橋義信六十七歳のときの作品である。写真ではなかなか迫力が伝えられないが、雄渾にして壮大な作品である。義信は、勤王派の河野鉄兜、藤本鉄石らとも交流があったと伝えられる。

(福泉寺)


福泉寺

 文久事件で暗殺された村上真輔の二男、河原翠城は事件の後、福泉寺門前で割腹して果てた。境内には河原翠城の墓がある。


翠城河原士栗墓

 河原翠城は、文久事件で暗殺された村上真輔の実子で、六歳のときに河原家の養子となった。翠城は号。幼名は駱之助、字は士栗と称した。十九歳のときに広島に出て、藩儒坂井虎山に師事。以後、大阪、京都、伊勢、江戸で遊学し、各地の名儒の門を叩いた。安政四年(1857)帰藩して藩学教授となると同時に、私塾を開いて多くの子弟を教えた。文久二年(1862)、藩の勘定奉行も兼ねた。文久事件で実父村上真輔が暗殺されると、汚名を晴らそうと画策するが、上意により追放処分を受けた。進退極まった翠城は、福泉寺にて自刃して果てた。三十六歳であった。

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高野山

2012年10月21日 | 和歌山県
 高野山という独立した山があるわけではなく、この辺りの標高千メートル級の山々の総称なのだそうだ。金剛峯寺や奥の院、それに多くの宿坊が並ぶ盆地は、標高にして約八百メートル。

(最後の仇討の現場)
 「和歌山県の歴史散歩」(山川出版社)には、地図付で「最後の仇討ち」の場所を示しているが、これだけを頼りに現地に行き着くのは、かなり無謀であった。私はそれらしい場所を半時間ほど歩き回ったが、尋ねようにも人の姿がない。神谷町西郷という集落は、ほとんど人の気配がなく、ゴーストタウンのようであった。仕方なく一旦紀伊神谷駅まで戻って駅員さんに尋ねることにした。駅員さんは、大変申し訳なさそうに「最近、着任したばかりで、この辺りのことは全然分からないんです」という。再び駅を離れて山の中を歩き回って一時間、ようやく現場を発見した。九度山方面から神谷町西郷という集落の入り口を逆進、つまり九度山方面に四~五百メートル戻ると、村上兄弟に討ち取られた七人の墓がある。


日本最後の仇討墓所


殉難七士の墓

 殉難七士の墓からさらに九度山方面に五百メートル進むと、『日本最後の「高野の仇討ち」』の説明板が立てられている。仇討ちがあったのは、明治四年(1871)二月三十日のことであった。


日本最後の「高野の仇討ち」

 仇討ちの発端は、文久二年(1862)師走まで遡る。赤穂藩家老森主税、用人村上真輔が、勤王派の足軽十三人によって暗殺された(文久事件と称される)。当時といえども私闘はご法度であり、まして藩の重役を暗殺するという行為は本来大罪であるが、時の勢いというべきか、襲撃した連中は赦された一方で、村上一族は閉門、追放という厳しい処分を受けた。この背後には藩内の勢力争いがあったものと思われる。
 明治元年(1868)、村上家の再興が認められると、村上真輔の遺子は、仇討ちの意思を固めた。これを察知した藩では、藩の墓所である高野山釈迦文院の墓守に彼らを任じた。この動きを知った村上方は、先回りして待ち伏せし、この地で激しい斬り合いとなった。敵方を討ち果たした村上方は、すぐさま五條県庁に自首した。この事件が直接の契機となって、明治新政府が明治六年(1873)二月、仇討ち禁止令を発したため、「最後の仇討ち」と呼ばれることになった。

 実は、私は高野山の仇討ちも含めると、「最後の仇討ち」の現場を三つ回ってきた。一つは、大阪府と和歌山県の県境、土佐藩士広井磐之助によるもの。これは、文久三年(1863)のことなので、「最後」と称するのはちょっと無理があるように思う。もう一つは、暗殺された金沢藩執政本多政均の仇を討った事件で、こちらは明治四年(1871)十二月のことで、時期としては高野山事件より後である。

 それにしても日本人は仇討ちが好きな民族である。古くは「日本書紀」にも仇討ちの記述があるらしい。言うなれば千五百年以上の歴史があるわけである。仇討ちは、江戸時代に入って幕府によって「法制化」され、届出、許可が必要とされた。討つ方は、家族も生活も擲って相手を探し、討ち果たしても生きながらえることは望めなかった。徹底した自己犠牲、無償の行為が日本人の琴線に触れるのだろう。他国のことはよく存じ上げないが、ここまで仇討ち行為がもてはやされるのは我が国だけではないか。しかし、明治六年(1873)の禁止令以降、同じ行為であっても、殺人とされることになってしまったのである。

 「最後の仇討ち」の現場を離れ、次はいよいよ世界遺産にも登録されている高野山である。南海高野山線は、本数も少ないので、ここから終点の極楽橋まで歩くことにした。「一駅だけだから」と甘く見たのが間違いのもとであった。本来、目指していたのはケーブルカーの発着する極楽橋駅であったが、分岐点に気付かず、結果的に高野山に直接向かうことになってしまった。途中で、距離表示もなく、いったいどれくらいの距離だか分からないが、たっぷり二時間、炎天下の上り坂を歩くことになってしまった。そばを通り過ぎる自動車からは、単にハイキング好きの中年にしか見えなかったかもしれないが、もともと私はハイキングや登山といった趣味は持たないし、よく見てもらえばスラックスにビジネス・シューズという、およそ山登りには相応しくない格好であった。途中で飲み物はなくなってしまうし、両脚が激しく攣ってしまうし、全く想定外の難行を強いられた。高野山で史跡巡りを計画される方には、くれぐれも自力で歩こうなどと考えないように、忠告しておきたい。

 突然、山の中に高野山の街が出現する。ここまで来れば、かなりの頻度でバスが走っているので、街の中はバスでの移動がお勧めである。

(釈迦文院)


釈迦文院

 高野山の仇討ちで殺された七名が目指していた高野山の釈迦文院である。現在も、この寺では、七名の菩提を弔っている。

(奥ノ院)


奥ノ院

 奥ノ院に至る参道の両側には、苔むした無数の墓碑が立ち並んでいる。その数、二十万とも三十万とも言われる。都内最大の霊園である青山霊園でも十一万基というから、その数は圧倒的である。まず目に付くには大名家の墓である。筑前黒田家、伊予久松家、姫路酒井家、紀州徳川家など、全国各地の大名家の墓がここに集まっている。また、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀、石田三成、武田勝頼、上杉謙信といった戦国武将の墓も、敵味方関係なく建てられている。なお、高野山の墓は、基本的には供養墓であって、ここに遺体や骨を収めた墓は少ない。


大名家の墓(筑前黒田家)


仙陵

 奥の院の一番奥、弘法大師の墓所である御廟の手前にある仙陵は、霊元天皇から孝明天皇までの九代の天皇(ただし、東山天皇を除く)と皇族の供養塔である。

 事前に調べたところ、幕末関係者では、陸奥宗光、新門辰五郎らの墓があるらしいが、何のあても無く、この広い墓地を探し回るのは無茶である。何よりもここに至るまでの「登山」で疲弊していた私には、気力、体力とも残っていなかった。探し当てられたのは、黒田長溥と井伊直弼の供養墓のみであった。


従二位勲三等黒田長溥公墓


井伊直弼供養塔

 山深い高野山に、慶応四年(1868)幕末の騒擾が及んだことが一度だけあった。高野山挙兵と呼ばれる事件である。この痕跡が何か残されていないか探してみたが、残念ながらそれらしいものは発見できなかった。高野山における挙兵に参加した田中光顕の回顧録「維新風雲回顧録」には、金光院に本陣が置かれたと記載されているが、その金光院という寺も見つけられなかった。高野山は、明治に入ってから大火に遭い、それを機に寺院の統廃合が進んで、明治二十四年(1891)には百三十ヵ寺に減少した。現在、名跡を持つ寺の数は百十八という。長い歴史の中で、金光院も消え去ってしまったのかもしれない。

 帰路はバスでケーブルカーの高野山駅へ移動し、そこから南海特急「こうや」に乗り継ぐという極めて標準的なルートを採用した。往路の苦労が何だったかというほど呆気なく大阪市内に戻ってきた。


南海電車特急「こうや」

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九度山

2012年10月21日 | 和歌山県
(中屋旅館)
 一年振りに高槻の実家に帰省することになった。せっかくなので、この機に高野山を攻めることにした。
 父に「明日は、高野山に行く」と告げたところ、「昔、九度山までは連れて行ったことがある」という。聞けば、まだ私が小学生の頃、九度山に柿狩りに行ったらしい。微かに記憶が蘇った。
 今も富有柿は九度山の名産である。南海九度山駅の周辺には、柿畑が広がっている。

 今日のテーマは、「日本最後の仇討ち」である。明治四年(1871)二月、この地で赤穂藩士による仇討ちが実行された。元禄時代の赤穂浪士の討ち入りは有名であるが、赤穂藩は余程仇討ちと縁があるらしく、明治に入って“二回目”を経験することになった。ただし、討ち入りのときの藩主は浅野氏だったのに対し、明治初年の赤穂藩主は森氏に代わっている。


南海高野山線高野下駅

 朝七時に実家を出て、新今宮で南海高野山線に乗り換える。橋本駅から先は単線で、急な上り坂となる。まず、高野下駅で下車する。ここから河根(かね)集落まで歩いて三十五分ほど。事前に調べたところでは二十分ほどと推定していたが、とてもとても私の脚では二十分では無理であった。往復で軽く一時間以上は見ておいた方が良い。


元本陣 中屋旅館

 河根は古い宿場町である。旧街道に面して元本陣中屋旅館の表門が建っている。
 邸内には上段の間が往時のまま、保存されている。明治四年(1871)二月二十九日、赤穂藩士村上兄弟らは、仇討ちを翌日に控え、夜遅くまで中屋旅館の上段の間の書院で密談を交わしたと伝えられる。

 今も河根には旧街道(東高野街道)が通じており、その気になれば高野山まで自力で登ることも可能である。もちろん、その気のない私は迷うことになく、高野下駅まで引き返した。


千石橋からの眺め

 千石橋は、寛永十一年(1634)に幕府によってかけられた橋で、修理費として千石が支給されたことに因んで、この名が付いた。現在の橋はかけかえられたものである。

 河根まで往復して高野下駅まで帰り着いた時には、汗が吹き出して止まらない。電車の冷房が心地よかった。次の下車駅は、仇討ちが実行された紀伊神谷である。

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徳島 Ⅱ

2012年10月21日 | 徳島県
(笠松神社)


笠松神社

 新居浜に出張した帰路、ついでというには随分遠回りになるが、徳島に立ち寄ることにした。徳島市内を散策するのは、七~八年振りであるが、都会と違って町の風景はそれほど変わっていないように思った。
 徳島城の少し西、すっかりビル街となっている一角に小さな祠がある。笠松神社といって、徳島藩の第一家老稲田家の屋敷跡である。稲田家屋敷には、枝ぶりの美しい松があって、傘を開いたように見えたことから、人々は笠松と呼んだという。明治初年に徳島城を撮影された古写真に笠松が写っている。
 稲田家は、明治三年(1870)の稲田騒動(庚午事変)の主役となり、最後は北海道に移住させられている。

(徳島城東高校)


徳島県立城東高校

 今回の徳島探訪では、関寛斎関係の史跡を訪ねる。関寛斎と徳島の関係は深い。文久二年(1862)、藩主蜂須賀斉裕の侍医となって、徳島に来たのが最初である。戊辰戦争では、新政府の要請により奥羽に出張して病院頭取として活躍したが、維新後、再び徳島に戻り徳島医学校の開設に尽力した。その後、山梨病院初代院長を務めた後、また徳島に戻って俸禄士籍を返還し、明治七年(1874)、城東の地に医院を開業した。現在の城東高校の一角に当たる。寛斎は、貧者からは治療費を取らず、自らは質素な生活を送り、庶民から「関大明神」を崇められた。この前の道は「関の小路」と呼ばれた。平成三年(1991)、「この地にゆかりの関寛斎の遺徳を偲び慈愛と進取のこころに学ぶべく」この慈愛進取の碑が建立された。


慈愛進取の碑

(中徳島河畔緑地公園)


中徳島河畔緑地公園

 城東高校から歩いて直ぐ、助任川沿いに作られた中徳島河畔緑地公園に関寛斎の石像が置かれている。一見するとモアイ像のようだが、片手に医書を持ち、フランス式の軍服に身を包んだ寛斎の姿である。
 寛斎が徳島城東の地で開業していたのは約三十年に及んだ。七十二歳にして廃業し、夫人を伴って北海道に移住した。開拓に老身を捧げたが、大正元年(1912)服毒して自らの命を絶った。


関寛斎像

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大玉

2012年10月06日 | 福島県
(玉泉寺)


玉泉寺


久保鉄次郎・豊三郎墓

 久保豊三郎は当時まだ十二歳であったが、砲手として本宮で戦った兄鉄次郎(十五歳)がうらやましく、出陣を母にせがんだ。母親は「砲声を聞けばおびえて帰ってくるだろう」と下僕をつけて送り出した。久保兄弟はともに大壇で負傷し、病院で死亡した。


吉村熊之助墓

 吉村熊之助は、長州藩装条銃足軽。第一大隊附属。慶應四年(1868)八月二十日、岩代玉井村宿陣で敵襲を受けて戦死。二十一歳。

(山入古戦場)


戦死三十一人墓

 大玉村玉井の久保山墓地の近くに山入古戦場跡地がある。
 当地における戦闘は、慶應四年(1868)八月二十日、本宮宿から会津に向けて進攻する新政府軍と、母成峠から出陣した会津藩軍とが山入にて遭遇した。新政府軍三千のうち、陽動部隊三百が中山峠に向けられ、主力二千七百は玉井村に滞陣した。会津軍が山入に進攻しているとの報を受けて、五百を派遣した。同日午後三時頃、両軍が激突し戦闘は薄暮過ぎまで続いたが、兵力に劣る会津藩軍は敗退を余儀なくされた。伝習大隊のみが抵抗したが、三方から敵を受けて多大な損害を出して母成峠方面に敗走した。あとに残った会津藩兵三十一人は枕を並べて割腹した。正面にはその三十一名を合葬した墓がある。


西軍四人墓(左) 二本松少年隊墓(右)

 今回の四泊五日(うち一泊は車中泊)の旅は、これで終了。後半の二日は雨にたたられたが、基本的には猛暑が続いた。連日の暑さにバテただけでなく、墓地を歩き回ったために筋肉痛のうえに両足にマメができた。体力的にはなかなか厳しい史跡訪問の旅であった。帰路はニュースでも予報していたように、高速道路が渋滞した。それでも日が暮れる前に家に帰着することができた。まずはゆっくり休みたい。

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郡山 Ⅱ

2012年10月06日 | 福島県
(感應寺)


感應寺


大慶養道清信士
(渡部四郎墓)

 渡部四郎は、福良村の人。会津藩青竜足軽一番鈴木隊に所属した。慶應四年(1868)九月、若松城にて戦死。二十七歳。墓碑には「八月二十四日 於若松戦死」と記されている。

(長泉寺)


長泉寺


会津藩士 鈴木作右衛門墓

 鈴木作右衛門は、会津藩青龍士中一番隊隊頭。藩境守備隊。生き残り福良に在住した。


先祖古川民伊之墓

 墓石には「若松藩士族」とある。「幕末維新全殉難者名鑑」には一致する名前はないが、古川民衛とすれば、会津藩朱雀寄合一番一柳隊付。慶應四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。

(日和田)


川村今助墓(左) 石澤勝之助戦死墓

 川村今助は、侠客。配下を率いて仙台藩細谷十太夫に属して活躍した。慶應四年(1868)七月二十八日、高倉にて戦死。
 隣に在る墓の石澤勝之助については詳細不明。


明治天皇駐蹕御遺跡碑

 明治九年(1876)明治天皇の奥羽巡幸の際および明治十四年(1881)の二回にわたって、この地を御野立休憩所に充て、斬時休憩を取った。

(長泉寺)


長泉寺


佐藤雄助友章墓

 佐藤雄助は、仙台藩伊達筑前家来。慶應四年(1868)閏四月一日、岩代只野村で会津兵に狙撃されて死亡。

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郡山 Ⅰ

2012年10月06日 | 福島県
(石筵古戦場跡)


石筵古戦場跡

 初めて郡山市を旅した。地方の小都市だと思っていたが、予想外に大きな街であった。あとで調べたところ、人口は三十二万人を越え、人口だけで比べれば県庁所在地である福島市や会津若松市より大きいのである。


石筵古戦場周辺の風景

 史跡は市街地よりも、北方の湖南町およびその周辺に集中している。
 母成峠への登り口にあたるのが石筵という集落である。会津軍は、この周囲に三段の陣地を構えた。また、新政府軍に拠点を与えないため、慶應四年(1868)八月二十日、石筵の集落を焼き払った。その翌日、新政府軍三千は二手に分かれて猪苗代方面を目指した。迎える会津藩軍は八百。戦闘は朝九時に始まり、約七時間に及んだ。火力に勝る新政府軍は戦いを優利に進め、次第に母成峠に迫った。

(観音寺)


観音寺

 石筵集落にある観音寺には、大森久之助の墓がある。


大森久之助墓

 大森久之助は、地元の農民で新政府軍に軍夫として徴用されたらしい。八月二十一日、猪苗代にて戦死。


橋本次郎七之遺跡

 橋本次郎七は、石筵の猟師。迂回部隊の道案内を務めた功績により戦後恩賞を受けた。集落を焼き払われた石筵の住民は、会津藩を恨み、新政府軍に協力した。新政府軍の右翼隊は、山中を迂回して会津藩兵の守る勝岩の陣地を攻撃し、敗走させることに成功した。

(正福寺)


正福寺

 正福寺には新選組松本喜次郎の墓がある。松本喜次郎は、文久三年(1863)頃の入隊といわれる。池田屋事件にも参加した古参隊士である。鳥羽伏見の戦い、甲陽鎮撫隊にも加わったが、戦後、永倉新八、原田左之助らの靖共隊に参加した。その後、新選組に復帰して北関東から会津まで転戦した。慶應四年(1868)八月十四日に戦死。


松本喜次郎(新選組隊士)墓

(千手院伏龍寺)


千手院伏龍寺

 千住院伏龍寺は、戊辰戦争で新選組が野戦病院として使用したという。


大竹一郎・善吾墓

 会津藩大竹一郎および同姓善吾の墓である。両名とも会津藩大竹熊四郎の子。
 大竹一郎は六石二人扶持。青竜一番隊付三代口小人。慶應四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。十八歳。善吾は同じく三代口小人。一郎と同じ日に磐城白河で戦死した。十五歳。

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三春

2012年10月06日 | 福島県
(三春城)


舞鶴城址

 今回の史跡旅行では、前半は天気に恵まれたものの、福島県に入ってからは雨に悩まされた。天気予報では「局地的に雷を伴う豪雨となる」と繰り返し報じていたが、当たらなくて良い予報ほど的中するものである。私が三春城に足を踏み入れたとき、まるで堰を切ったように大雨となり、とてものんきに史跡散策という状況ではなくなった。何とか本丸跡までたどりついたが、すぐさま引き返すことになった。


明治戊辰役三春藩烈士碑

 三春藩は、外様(秋田氏)五万石である。
 慶應四年(1868)七月二十六日、三春藩が突然、新政府軍に寝返った。列藩同盟に参加したものの、三春藩上層部は最初から勤王寄りであった。五月三十日には、京都に使者を送り、朝廷に救援を要請していた。七月に河野広中が土佐藩の板垣退助に接触し、新政府軍を三春城内に迎え入れることに成功した。その一方で近隣の二本松藩や福島藩には使者を派遣して同盟を装っていた。これに気付いた二本松藩では使者を惨殺した。三春城址には、この時殺害された四名を慰霊する明治戊辰役三春藩烈士碑が建立されている。

(紫雲寺)


紫雲寺

 三春城で豪雨に襲われ、逃げるように下山してそのまま紫雲寺に駆け込んだ。ここでも激しい雨は降りやまず、しばらく駐車場で待機するしかなかった。半時間もすると、雨が小降りになったので、ようやく車外に出ることができた。


磐州河野(広中)先生塋髪家

 維新後、自由民権運動の指導者となった河野広中の塋髪墓である。
 河野広中は、嘉永二年(1849)に三春に生まれた。生家は商家で郷士であったという。若い頃、漢学を学び、尊攘思想を抱いて水戸藩士らと交わった。戊辰戦争の時、二十歳の広中は、同志と図って三春藩を新政府に帰順させ、進んで会津征討に一隊を組んで参戦した。明治二年(1869)、若松県出仕。三春藩の捕亡取締、祀官を歴任し、磐前県第四大区小十四区副戸長、同戸長となった、この頃、中村正直の「自由之理」を読んで、それ以降自由民権家として活動した。大隈内閣で農商務大臣。大正十二年(1923)、年七十五で死亡。


井上弥太右衛門墓 近藤楠馬墓 江口精馬墓 日下専六墓 新兵衛墓

 紫雲寺には、本宮、二本松、若松などで戦死した土佐藩士らの墓がある。
 井上弥太右衛門は、土佐藩足軽。本宮にて戦死。二十一歳。
 近藤楠馬は、土佐藩歩行格。磐城山入にて負傷、のちに死亡。二十二歳。
 江口精馬は、小姓組。戊辰戦争では迅衝十番隊。二本末にて負傷、死亡。二十一歳。
 日下専六は、夫卒。若松にて陣没。
 新兵衛は、大村藩の中間。若松にて負傷、帰営後死亡した。

(龍穏院)


龍穏院

 龍穏院は、三春藩主秋田氏の菩提寺で、秋田氏の三春移封にともなって現在地に移転した。戊辰戦争では野戦病院として使われた。


戊辰之役忠魂碑


本木弥三郎墓

 本木弥三郎は、舘林藩士。慶應四年(1868)、九月五日、若松城下にて戦死。十八歳。


官軍 伊集院貞之助墓

 伊集院貞之助は、佐土原藩一番砲隊。慶應四年(1868)八月二十三日、若松にて戦死。二十八歳。

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本宮 Ⅱ

2012年10月06日 | 福島県
(安達太良神社)


安達太良神社


弾痕

 本宮小学校北側にある安達太良神社拝殿には、戊辰戦争時の弾痕が残っている。

(金礼寺)


金礼寺


賢教院明譽義秀居士
(笠間一之進墓)

 笠間一之進は、二本松藩士。七十石、糠沢組代官。慶應四年(1868)、七月二十七日糠沢村上ノ内にて戦死。

(城之内古戦場跡)


戊辰の役 城之内古戦場跡

 慶應四年(1868)七月二十六日、本宮白沢村糠沢地区(城之内)では激しい戦闘が交わされ、戦死者六十名を数えた。
 本宮市教育委員会の立てた古戦場の案内の脇道を歩いて行くと、竹林に囲まれた薄暗い空間に軍卒合葬墓と戊辰役戦歿者英靈塔と刻まれた二つの小さな碑が建てられている。


軍卒合葬墓


戊辰役戦歿者英靈塔

 樽井弥五郎左衛門の率いる銃士隊は、糠沢の庄屋宅に陣を張った。この樽井隊にも、岩本清次郎、中村久次郎、田中三治、武藤定助ら、少年が加わっていたという。七月二十七日早朝、樽井隊は突然の敵襲を受けた。このときの戦闘で周囲の家屋三十二戸は焼きつくされ、岩村、中村、田中の三名の少年も命を落とした。


軍卒合葬墓


戊辰役戦歿者合葬塔


近藤彌右衛門之墓

 先ほどの竹林から少し離れるが、道路脇の墓地に近藤彌右衛門の墓と戊辰役戦歿者合葬塔が建てられている。
 近藤彌右衛門は、六十五石、山奉行。樽井弥五左衛門隊に属した。やはり城ノ内での戦死者の一人である。

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米沢 Ⅱ

2012年10月03日 | 山形県
(上杉神社)


上杉神社

 四年前に息子と米沢を歩いたときは、滞在時間わずかに二時間しかなく、回り切れなかった史跡も数多かった。今回はそのリベンジである。前回も上杉神社周辺は歩いたが、振り返れば取りこぼしがあった。その一つが上杉曦山公之碑である。


上杉曦山公之碑

 曦山は上杉家十三代上杉斉憲の号である。上杉斉憲は、文政三年(1820)に生まれ、天保十年(1839)に家督を継いだ。戊辰戦争の責を負って、明治元年(1868)十二月、隠居。明治二十二年(1889)、七十七歳で逝去した。この碑は、明治二十四年(1891)、旧藩士により建立されたもので、題字は有栖川熾仁親王、撰文は勝海舟。

(興譲館跡)


藩校興譲館跡地記念碑

 松が岬公園の北側、興譲小学校付近に藩校興譲館跡石碑がある。米沢に藩校が開設されたのは、安永五年(1776)、九代上杉鷹山(治憲)のときである。鷹山の師、細井平洲によって興譲館と名付けられた。正門は南側に位置し、正面奥に孔子を祀る先聖殿、その手前に講堂が配置されていた。元治元年(1864)の大火により類焼し、同年東町に移設された。

(法音寺)


米沢藩主上杉家墓所

 私が法音寺の上杉藩主墓所を訪ねた時、既に拝観時間を過ぎており、受付には人がいなかった。やはり遅かったかと諦めかけた瞬間、資料館の鍵をかけおわった係の老人が現れ、中に入れてくれた。
 中央には上杉家初代であり、戦国武将上杉謙信の廟が置かれ、その両側にニ代から十ニ代までの歴代藩主の墓が左右に交互に造られた。九代鷹山の嫡子顕孝がそれまでの火葬から土葬に変更されて以降、十ニ代斉定まではいずれも土葬されることになった。なお、十三代以降の墓は、東京の興禅寺にある。


正二位上杉茂憲公塋髪碑

 ニ代景勝と四代綱勝の墓の間に、十四代茂憲の遺髪を収めた墓がある。
 上杉茂憲は、弘化元年(1844)、十三代藩主斉憲の長男に生まれた。慶應元年(1865)には父の名代として上洛して京都警護にあたった。戊辰戦争では米沢藩は、奥羽越列藩同盟の中心的存在となったが、降伏すると一転して茂憲名で謝罪書を提出し、その後は米沢藩兵を率いて庄内、会津討伐に進撃して、謝罪降伏の実を挙げた。明治元年(1868)十二月には四万石を削られたものの、家督を相続することが許され、翌年には知藩事に任じられた。明治十四年(1881)には沖縄県令兼判事、明治二十三年(1890)には貴族院議員に当選。大正八年(1919)、七十六歳で没した。

(日朝寺)


日朝寺


千坂高雅墓

 日朝寺は、米沢藩の重臣千坂家の菩提寺である。千坂家は代々米沢藩の家老などの住職を務める家系で、赤穂浪士の事件で陣頭指揮をとって名家老と謳われた千坂兵部などを輩出している。幕末米沢藩の奉行として藩政を主導した千坂太郎左衛門高雅もこの寺に眠る。
 千坂高雅は、天保十二年(1841)に江戸家老千坂伊豆高明の長男に生まれた。十九歳のとき、藩校興譲館定詰勤学生に選ばれた。藩主上杉斉憲の洛中警備に従い上洛した。二十五歳で興譲館学頭。慶應二年(1866)には異例の抜擢を受け、国家老となった。大小具足を廃し、横浜から一万挺の鉄砲を購入して訓練するなど、軍制改革に尽した。慶應三年(1867)、藩兵三千人を率いて上洛したが、薩長の武力倒幕に反発し、佐幕に藩論を統一した。戊辰戦争後は、謹慎を命じられたが、明治三年(1870)、藩大参事に任じられた。翌四年(1871)には養蚕製糸調査のためにフランスおよびイタリアに留学した。帰国後は、内務権少丞、石川県令、岡山県令を歴任した。明治二十九年(1896)勅撰貴族院議員にも選ばれている。大正元年(1912)、七十二歳にて没。

(高国寺)


高国寺

 近藤勇の墓は、三鷹、板橋、会津、岡崎にあるが、やや意外ながらここ米沢にもある。
 幕末の頃、上州桐生から招かれて米沢織物の貢献した近藤金太郎は、近藤勇と従兄弟であった。金太郎がたまたま上京した折、板橋で処刑された近藤勇の首をひそかに持ち帰って火葬し、菩提寺である高国寺に埋葬したという。


近藤勇の墓

(興譲館高校)


興譲館高校

 興譲館高校も四年前の米沢旅行で行けなかったスポットの一つである。四年越しでようやく訪ねることができた。
 藩校興譲館は、明治五年(1872)に廃校となったが、旧藩士らによる私立米沢中学開設があり、昭和二十三年(1934)、県立第一高校を経て、昭和三十一年(1956)に興譲館高校として発足した。校名の由来は、『大学』の一節「一家仁、一国興仁、一家譲、一国興譲」(一家仁なれば、一国仁に興り、一家譲なれば、一国譲に興る)から。校舎の前には「一家譲一国興譲」と刻んだ石碑がある。


一家譲一国興譲

(千眼寺)


千眼寺

 千眼寺は、長禄元年(1457)、北越の豪族色部長真により岩船郡平林に建立されたのが始まりで、上杉氏の米沢転封により色部氏も米沢に移ったことに従って、この地に移転した。境内には歴代色部氏の墓がある。

 幕末の色部家の当主は、色部長門長久。文政八年(1825)に色部篤長の長男に生まれ、二十九歳で家督を継いだ。嘉永六年(1853)には異国防御のための三手旗奉行に任じられた。安政六年(1859)には江戸家老兼侍頭となり、元治元年(1864)奉行職に就任。戊辰戦争がおこると、新発田、会津、庄内藩とともに新潟警護にあたった。新潟港奉行となった色部長門は、慶應四年(1868)七月、薩長軍の襲撃に耐えきれず、自刃した。年四十四。戦後、米沢藩の叛逆首謀者として家名断絶となったが、その後再興された。


色部長門の墓

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