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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

水戸 常磐共有墓地 Ⅻ

2022年09月17日 | 茨城県

(回転神社・水戸常磐共有墓地つづき)

 

梶清次衛門信基墓

 

 梶清次衛門は文政四年(1821)の生まれ。天保末年、家督を継いで、床几廻より歩士目付・小十人組・土蔵番頭を経て、安政二年(1855)、寺社役に進み、馬廻役に列した。万延元年(1860)十月、富小路任節が勅書を奉じて水戸に微行した時、原市之進と図り、家老大場一真斎に致した。文久三年(1863)正月、一橋慶喜に随従して上京し、翠紅館の志士会合に列席して諸藩の同志と交わり、攘夷の気運を高めた。元治元年(1864)の国難に那珂湊に拠り、城兵並びに諸家の兵と戦い、十月二十三日、総督榊原新左衛門の自首に従い古河藩に禁固され、翌慶應元年(1865)、死罪に処された。年四十五。

 

福地勝衛門道遠墓

 

 福地勝衛門は、天保元年(1830)の生まれ。父福地広延は神発流砲術指南。幼より学を好み、神童の聞こえ高かった。嘉永六年(1853)、進仕して床几廻に選ばれ、九月、砲術出精をもって賞された。安政三年(1856)、重ねて賞され、同年馬廻組に班した。文久三年(1863)、軍用掛見習となり、二月、藩主徳川慶篤の上京に随従した。元治元年(1864)八月、父と行動をともにし、古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、斬罪に処された。年三十六。

 

沼田久次郎泰誨墓

 

 沼田久次郎(きゅうじろう)は、文化八年(1811)の生まれ。歩行目付、普請奉行を経て、文久三年(1863)、奥右筆頭取に進んだ。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため小金駅に屯集し、八月、松平頼徳を護衛して那珂湊に陣し、城兵と交戦したが、十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、死罪に処された。年五十五。

 

真木彦之進敬嗣墓

 

 真木彦之進は、文政七年(1824)の生まれ。天保十三年(1842)、床几廻に選ばれ、安政五年(1858)、家督を継いで普請奉行となる。文久三年(1863)、藩主徳川慶篤の上京に随従。同年六月、西郡奉行に任じられた。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集。松平頼徳に従って那珂湊に拠り諸戦に参加した。同年十月二十一日、榊原新左衛門が自首を決すると、会合の場において評決することを主張し、新左衛門はこれに従った。二十三日、降伏して古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、自刃に処された。年四十二。

 

村田理介正興墓

 

 村田理介は文化五年(1808)の生まれ。文政元年(1818)、家督を継ぎ、天保十三年(1842)、東郡奉行となり、弘化の難に際し、藩主徳川斉昭の雪冤に奔走した。安政元年(1854)、反射炉築造に当たって、金子孫二郎とともに奉行に任じられた。文久三年(1863)、北郡奉行に移った。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集した。八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、那珂湊に残留して負傷者の看護に従事した。十一月、銚子に禁固され、慶応元年(1865)四月、自刃を命じられた。年五十八。

 

鈴木庄蔵宜大墓

 

 鈴木庄蔵は、文政五年(1822)の生まれ。天保十三年(1842)、床几廻となり、安政元年(1854)、家督を継いで、安政四年(1857)、大番組頭。文久二年(1862)六月、先手同心頭となり、海岸防御として磯浜定詰となった。元治の役に際して、松平頼徳の陣営に入り、那珂湊に拠って城兵と戦い、十月二十三日の総督榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され自刃に処された。年四十四。

 

三木孫大夫玄順墓

 

 三木孫太夫(まごだゆう)は、文政五年(1822)の生まれ。嘉永六年(1853)、床几廻に選ばれ、安政元年(1854)、家督を継ぎ、文久元年(1861)、同心頭となった。文久三年(1863)、藩主徳川慶篤の上京に従った。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集した。八月、松平頼徳を護衛して水戸に下り、那珂湊に拠って転戦。十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、自刃に処された。年四十四。

 

福地政次郎廣延墓

 

 福地政次郎は、文化七年(1810)の生まれ。福地勝衛門は長男。天保六年(1835)、進仕して小十人組に班し、嘉永六年(1853)、小姓頭取に進んだ。同年十一月、大砲献上の介添えを勤めた。安政元年(1854)、神発流指南の功により賞され、安政四年(1857)、指南出精により持筒頭格となり、安政五年(1858)、鉄砲頭、軍用掛に任じられた。元治元年(1864)八月、松平頼徳を神勢館に迎え、目代の入城を計った。しかし、城中の市川三左衛門らはこれに応じず、再び戦闘となり、政次郎は頼徳に属して城兵と対抗した。同年十月二十三日、総督榊原新左衛門の自首するに及び、政次郎もこれに従い、古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、自刃に処された。年五十六。

 

門奈三衛門直方墓

 

 門奈三衛門は、兄直章の養子となり、天保三年(1832)、家督を継いだ。弘化元年(1844)、歩行頭を経て、安政三年(1856)、大番頭となり、同年八月致仕。元治の難にその二子が現地に赴き、そのため有司に忌避され、官舎に禁固され、慶応元年(1865)五月、獄死した。年齢不詳。

 

谷彌次郎政常墓

 

 谷弥次郎は文化元年(1804)の生まれ。天保十三年(1842)、家督を継いで大番組。安政元年(1854)、町奉行となり、安政五年(1858)、用人を経て万延元年(1860)、新番頭に進んだ。文久三年(1863)、用人を再勤。藩主徳川慶篤の上京に従った。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集して、武田耕雲斎らと画策した。八月、松平頼徳を護衛して下国。那珂湊に拠って転戦したが、十月二十三日に至り榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、自刃に処された。年六十二。

 

富田三保之介知定墓

 

 富田三保之介は、天保九年(1838)の生まれ。万延元年(1860)、側用人となり、文久元年(1861)、若年寄に進んだ。文久三年(1863)、藩主徳川慶篤の上京に随従した。元治の役では、松平頼徳に属し、那珂湊に拠って城兵と戦火を交えた。元治元年(1864)八月末、軍事奉行に任じられ、中備の将となった。同年十月二十三日、総督榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月五日、自刃に処された。年二十八。

 

谷鉄蔵忠吉墓

 

 谷鉄蔵は弘化元年(1844)の生まれ。父は谷弥次郎。嘉永四年(1851)、本家谷重和の養子となって家督を継ぎ、中寄合、小姓、使番、歩行頭と進んだ。安政五年(1858)、藤田小四郎、佐野竹之介らと奉勅を唱えて奔走した。元治の役では、榊原新左衛門に属して那珂湊に拠り城兵と交戦したが、幕府に抗する意はなく、十月五日、幕軍が那珂湊に迫るに及んで退陣した。同月二十三日、総督榊原の自首に従い、父政常とともに古河藩に禁固され、翌年四月、自刃に処された。年二十二。

 

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水戸 常磐共有墓地 Ⅺ

2022年09月17日 | 茨城県

(回転神社・常磐共有墓地つづき)

 

佐々與右衛門成徳墓

 

 佐々(さつさ)与衛門は、文政八年(1825)の生まれ。嘉永六年(1853)床几廻に選ばれ、安政元年(1854)、命により江戸に出て外夷の変に備えた。砲技を能くし、しばしば賞された。安政五年(1858)、小十人組に補され、同年家督を継ぎ、馬廻組に移った。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため小金に屯集し、八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、砲隊を指揮して城兵、幕兵と転戦した。同年十月、降伏して古河に禁固され、慶応元年(1865)、囚中に没した。年四十一。

 

林忠左衛門以徳墓

 

 林忠左衛門は天保十一年(1840)の生まれ。安政四年(1857)、床几廻に選ばれ、のち馬廻組となる。安政五年(1858)の藩難、ついで安政六年(1859)の勅書返納阻止に奔走した。万延元年(1860)二月、金子孫二郎らが評定所に召喚されたことを聞き、これを奪わんとして藩兵と消魂橋に戦って負傷し、ために大老井伊直弼邀撃に加わることができなかった。同年八月、薩摩藩邸に三十七人とともに投じ、攘夷の先陣たらんとした。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集した。同年八月、松平頼徳を護衛して那珂湊に拠り、少年隊を指揮して城兵と戦い、神勢館の砲戦にて負傷して十月二十三日、総督榊原新左衛門の自首に従い、久留里藩に禁固中、慶応元年(1865)正月、病死した。年二十六。

 

武石権三郎重方墓

 

 武石権三郎は、文政三年(1820)の生まれ。弘化四年(1847)、進仕して歩行士に列し、与力となった。万延元年(1860)、格式小十人組の次に班した。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため小金に屯集。八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、各地で城兵と交戦し、十月二十三日、降伏して忍藩に禁固され、慶応二年(1866)六月、囚中に病死した。年四十七。

 

平方金五郎忠善墓

 

 平方金五郎は、天保五年(1834)の生まれ。嘉永六年(1853)、床几廻に選ばれ、安政年中両度武芸出精により賞された。文久三年(1863)二月、歩行目付となった。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集した。同年八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、城兵ならびに幕兵と交戦し、十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、慶応三年(1867)十月、久留里藩に禁固中、病死した。年三十四。

 

天埜虎次郎格墓

 

 天野虎次郎は、天保十三年(1842)の生まれ。元治甲子の乱で榊原新左衛門に属して那珂湊に拠り、城兵と転戦して元治元年(1864)十月二十三日、榊原が自首するに際してこれに随い、忍藩に禁固されて慶應三年(1867)正月、囚中に病死した。年二十六。

 

田尻新介和好墓

 

 田尻新介は文政二年(1819)の生まれ。年少の頃より会沢正志斎に学び、天保末横目役に任じられ里正を兼ねた。弘化の変に、出府して藩主の無実を老中牧野忠雅邸に訴えて発覚し、獄に繋がれた。藩政回復するに及んで赦され、安政初め横目役に復して郷士に列した。同六年の難に南上して意見を開陳し、勅書返納の議が起こると憤激して大老井伊直弼襲撃を唱えた。元治元年(1864)春、選ばれて郡方勤となって徒士に列し、潮来郷校の取締を命じられ、動乱には那珂湊に拠って城兵と戦った。のち降伏して岩槻村に禁固され、慶応元年(1865)四月、死罪に処された。年四十七。

 

床井荘三親徳墓

 

 床井(とこい)荘三は、天保九年(1838)の生まれ。藩校に学んで俊秀の聞こえが高かった。茅根伊予之介、原市之進につき塾生を教授した。安政三年(1856)、史館雇となり、歩士に転じ、小十人組に班した。文久三年(1863)、藩主に随従して上京した。元治の役には、武田耕雲斎に属して各所を転戦したが、十月、榊原新左衛門らの自首に従い、忍藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、死罪に処された。年二十八。

 

宮本辰之介信守墓

 

 宮本辰之介は、天保三年(1832)の生まれ。安政元年(1854)、床几廻に選ばれ、安政四年(1857)、家督を継いで小十人組に班し、普請奉行を経て小十人目付となった。文久二年(1862)、勅使大原重徳の東下に際し、下野遠明と間行して出府し、重徳に接して上書建言するところがあった。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かい、藩邸に入り、八月、目付代松平頼徳に随従して那珂湊に入り、城兵と交戦して十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され翌年四月、死罪に処された。年三十四。

 

大胡聿蔵資敬墓

 

 大胡聿蔵は、文政五年(1822)生まれ。天保十三年(1842)、文武出精により賞され、弘化の藩難に奔走して処罰された。嘉永二年(1849)、免じられたが、嘉永六年(1853)、床几廻に選ばれ、安政四年(1857)、家督を継いで小十人組に班した。安政五年(1858)、勅書伝達をはかり住谷寅之介と西海南海道に遊説し、このとき立川で坂本龍馬と会見している。安政六年(1859)二月帰藩。同年八月、高橋多一郎らと出府し、薩摩藩士高崎五六らと会合し除奸計画に加わった。文久二年(1862)冬、一橋慶喜の上京に随従した。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集し、七月、松平頼徳に従って那珂湊に拠り、諸生隊を率いて城兵並びに幕兵と交戦。同年十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、自刃に処された。年四十四。

 

林了蔵正竜墓

 

 林了蔵は、文政十二年(1829)の生まれ。安政三年(1856)、弘道館舎長に挙げられ、安政四年(1857)、訓導となった。万延元年(1860)、奥右筆に転じ、文久元年(1861)、馬廻組を経て奥右筆に復した。元治元年(1864)六月、市川三左衛門らの執政就任に反対し、江戸に向かうため下総小金に屯集した。同年八月、松平頼徳に随従して下向、那珂湊に拠って城兵と戦い、十月二十三日に至って榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固されて慶應元年(1865)四月、死罪に処された。年三十七。

 

三浦平太郎忠武墓

 

 三浦平太郎は文化三年(1806)の生まれ。通称は初め平太郎、のちに贇男(よしお)。文化十年(1813)、家督を継ぎ、天保十二年(1841)、町奉行に挙げられた。弘化の藩難に際し、藩主徳川斉昭の雪冤に奔走したが、幕忌にふれて免職閉居に処された。安政の初め、小姓頭取となり、君側にあること前後三十年に及んだ。文久二年(1862)八月十七日の斉昭三回忌に幕府代新見正興を迎え、城付代を命じられた。文久三年(1863)、用人に進み、同年九月本丸御城付となった。元治元年(1864)八月、反対派のために職を免じられ、慶応元年(1865)十月二十四日、元家老杉浦政安(羔二郎)らと獄に投じられ、翌日死罪に処された。年六十。

 

原熊之介忠愛墓

 

 原熊之介は、文政八年(1825)の生まれ。天保十三年(1842)、床几廻に選ばれ、弘化の難に藩主徳川斉昭の無罪を老中阿部正弘に訴えて罪を得、幽閉された。安政四年(1857)、吟味役となり、文久三年(1863)、藩主慶篤に随従して上京した。同年家督を継いで勘定奉行見習となった。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため、下総小金に屯集した。同年八月、松平頼徳の下国に随従。那珂湊に拠って城兵と交戦、十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固されて慶應元年(1865)四月、死罪に処された。年四十一。

 

下野準次郎遠明墓

 

 下野準次郎は、文政六年(1823)の生まれ。安政三年(1856)、進仕して弘道館訓導に挙げられ、史館勤を兼ねた。安政五年(1858)八月、勅書問題が発生すると、国事に奔走し、文久元年(1861)五月、同藩の原市之進とともに宇都宮藩士大橋訥庵らと会合して安藤老中要撃を画策した。文久二年(1862)冬、一橋慶喜の上京に随従し、文久三年(1863)正月、翠紅館の会合に列席し、諸藩の同志と交わり、攘夷の気運を高めた。同年三月、軍用見習となる。元治元年(1864)の役では、松平頼徳に属して那珂湊に拠り、山國喜八郎とともに軍議に与った。同年十月二十三日、総督榊原新左衛門の自首に従い、岩槻藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、死罪に処された。年四十三。

 

 

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水戸 常磐共有墓地 Ⅹ

2022年09月17日 | 茨城県

(回天神社・常磐共有墓地つづき)

 元治甲子の乱(いわゆる天狗党の乱)がいかに水戸藩の人材を浪費したか。無論全てではないが、常磐共有墓地に葬られている水戸藩の有為の人材を紹介したい。

 

榊原新左衛門照煦墓

 

 榊原新左衛門は、天保五年(1834)の生まれ。嘉永二年(1849)、養子となって家督を継いだ。安政五年(1858)、大番頭、大寄合頭を経て、文久三年(1863)、執政に挙げられた。元治元年(1864)六月、市川三左衛門らの執政就任に反対して江戸に向かい、その解任に成功した。ついで同年八月、藩主目代として下向する松平頼徳を護衛して水戸へ下ったが、三左衛門らに入城を阻止され、転じて那珂湊に陣して遂に城兵と交戦するに至った。同年八月二十九日、頼徳は陣容を改めて新左衛門を軍事総督に任じた。やがて幕府目付戸田五助の誘引により頼徳は江戸に向かい幕府に陳情することになったが、九月二十六日、那珂湊を去るに臨み、新左衛門を留守総督に任じ、後命を待たせた。しかし、休戦を破られて戦闘は再開された。彼は幕軍と戦うことは本意ではないことと、城中の戸田銀次郎らの勧めもあって、十月二十一日、会合を開き自首を評決した。同月二十三日、千余人を率いて幕軍に降伏し、古賀藩に禁固され、翌慶應元年(1865)、自刃に処された。年三十二。

 

篠本亀松寛墓

 

 篠本(ささもと)亀松は、天保十年(1839)の生まれ。安政四年(1857)、侍医有隣の養子となり、小十人組に列した。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かったため、下総小金駅に屯集し、八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り転戦。十月、降伏して忍藩に禁固され、慶応四年(1868)二月、赦されて江戸に向かう途中、病死した。年三十。

 

植原伊平次壽之墓

 

 植原亀五郎の父、伊平次の墓。水戸藩士。二十石五人扶持。二男亀五郎とともに、元治元年(1864)九月六日、戦死。

 

立花辰之介氏順墓

 

 立花辰之助は、弘化元年(1844)の生まれ。元治元年(1864)三月、筑波の挙兵に参加して常野の間に城兵並びに幕兵と戦った。のち波山勢より分離して、内藤文七郎ら六十余と鹿島地方に拠り、外人襲撃を意図したが、同年九月六日に至って幕兵に包囲され、捕らえられて下総岩井に禁固され、同年十月、死罪に処された。年二十一。

 

植原亀五郎壽則墓

 

 植原亀五郎は、弘化四年(1847)の生まれ。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かい下総小金駅に屯集し、八月松平頼徳の水戸下向に随従し、那珂湊に拠って城兵、幕兵と交戦したが、のち営を去って鉾田の三光院に拠って上京を計ったが、九月六日、幕兵と戦って父伊兵次とともに戦死した。年十八。

 

永井芳次郎道正墓

 

 永井芳次郎は天保四年(1833)の生まれ。安政四年(1857)、進仕して史館雇、万延元年(1860)、転じて与力となった。元治の役に榊原新左衛門に属し、那珂湊に滞陣中営を去って鹿島地方により、幕兵に囲まれたが脱し、葛飾郡小堤村にて古河藩兵に捕らえられ、臨時処断法により十月十六日、斬に処された。年三十二。

 

岡部忠蔵以忠墓

 

 岡部忠蔵は、文政五年(1822)の生まれ。安政元年(1854)、家督を継ぎ、安政四年(1857)、書院番頭、万延元年(1860)六月に大番頭に進み、文久三年(1863)には大寄合頭となり、元治元年(1864)、藩主徳川慶篤の命を受けて上京。関白二条斉敬に攘夷鎖港の説を進言し、帰国して執政に挙げられた。ついで市川三左衛門らとともに藩主を補佐したが、市川らの志を得るに及び、執政を罷免され、十月、幕命により江戸の獄に下り、翌慶應元年(1865)、囚中に没した、年四十四。

 

加藤八郎太夫直博墓

 

 加藤八郎大夫は、天保三年(1832)の生まれ、嘉永六年(1853)、家督を継ぎ、小姓頭、書院番頭を経て万延元年(1860)、大番頭となった。元治元年(1864)八月、松平頼徳が那珂湊に陣して城兵と戦うと、頼徳の命を受けて情状を藩主徳川慶篤に報ずるため、参政三木直とともに江戸に向かい、書を藩家老岡部忠蔵に託したが、幕命をもって拘束され、同年十月、江戸の獄に下り、慶応三年(1867)、囚中に没した。年三十六。

 

肥田金蔵政方墓

 

 肥田(ひだ)金蔵は天保十一年(1840)の生まれ。家督を継ぎ、安政四年(1857)、大番組に班し、奥小姓となった。文久三年(1863)二月、藩主徳川慶篤の上京に随従した。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かい、八月、松平頼徳に従って那珂湊に拠り、十月二十三日、久留里藩に禁固され、慶応二年(1866)七月、病死した。年二十七。

 

本澤平太夫宗孝墓

 

 本澤(もとざわ)平太夫は、天保十年(1839)の生まれ。安政四年(1857)、家督を継ぎ、文久二年(1863)、大番組となり、文久三年(1863)、大番組頭に進んだ。この年二月、藩主徳川慶篤の上京に随従した。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集した。八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従って久留里藩に禁固され、慶応元年(1865)五月、囚中病死した。年二十七。

 

伊藤田宮友誠墓

 

 伊藤田宮は、天保十年(1839)の生まれ。安政年中、床几机廻に選ばれ、万延元年(1860)、家督を継ぎ、馬廻組を経て大番組に移り、公子傳を兼ねた。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かい小金駅に屯集し、八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、城兵、幕兵と交戦。同年十月二十三日、榊原新左衛門に従って自首し、古河藩に禁固され、慶応三年(1867)三月、獄死した。年二十九。

 

金子勇二郎久雄墓

 

 金子勇二郎は天保十四年(1843)の生まれ。父は金子孫二郎。文久三年(1863)家督を継いだ。同年十一月、父孫二郎の遺体帰葬の命により帰府し、同月、大番組郡奉行見習となった。滞京中、翠紅館に諸藩の同志と会同し、攘夷の気運を高めた。元治元年(1864)三月、願いなく出府し、松平頼徳に従って那珂湊に拠り郷民を率いて転戦したが、榊原新左衛門に従って自首し、古河藩に禁固された。慶應二年(1866)十一月、獄中にて病死。年二十四。

 

天埜藤次衛門景忠墓

 

 天野藤次衛門は、文政十一年(1829)の生まれ。嘉永六年(1853)、床几廻に選ばれ、安政四年(1857)、家督を継いで、馬廻組、ついで公子付となった。元治元年(1864)五月、諸生ら大挙江戸に向かい、ために武田耕雲斎ら執政を免じられ、市川三左衛門らがこれに代わると、江戸に向かい下総小金に屯集した。同年八月、目代松平頼徳の下国に際し、執政榊原新左衛門に属し那珂湊に出陣して城兵と戦い、十月二十三日、榊原の自首に従い、慶応三年(1867)十一月、囚中に病死した。年三十九。

 

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筑西 Ⅱ

2022年02月05日 | 茨城県

(観音寺)

 

観音寺観音堂

 

 中舘観音寺は、中国梁の時代(580年頃)に渡来した法輪獨守居士(ほうりんどくしゅこじ)が、この地に到り觀音菩薩像を安置したのが始まりとされている。

 大門を過ぎると左手に幼稚園があり、右手はその幼稚園の園庭になっているが、その片隅に石川総管(ふさかね)の墓がある。

 

石川総管の墓

 

舊下館藩主石川総管之墓

 

 下館藩石川氏は、初代総茂が享保十七年(1732)、国替えにより伊勢神戸(現・三重県鈴鹿市)から下館に移った。以降、九代にわたって当地を修めた。歴代藩主の墓は、江戸下谷の大久寺にあるが、九代総管のみ中舘の観音寺に葬られた。

 石川総管は、天保十二年(1841)の生まれ。嘉永二年(1849)十一月、家系を継承し、雁之間詰を命じられ、安政二年(1854)、従五位下若狭守に叙任された。和漢の学に造詣深く、一方馬術にも秀でた。小藩の出ながら、幕府の要職を歴任した。慶應二年(1866)、講武所奉行となり、同年十月には陸軍奉行並に転じ、翌慶應三年(1867)、若年寄兼陸軍奉行に進んだ。慶應四年(1868)一月、陸軍奉行を免じられ、二月には若年寄も辞した。同年五月、江戸より敗走する彰義隊や大鳥圭介が率いる幕軍と東山道総督府軍との間にあって、徳川譜代の藩主として去就に迷い、水戸薬王院に逃避し、小藩の苦渋を味わった。明治二年(1869)、下館藩知事となったが、明治四年(1871)、廃藩により免じられた。明治六年(1873)、権少教正となった。晩年は下館屋敷(現・筑西市本城町)に隠棲した。明治三十二年(1899)、年五十九で没。

 

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水戸 城南 Ⅳ

2022年01月01日 | 茨城県

(妙雲寺つづき)

 慶應元年(1865)三月二十四日、赤沼牢にて武田耕雲斎の家族の処刑が行われた。その日、死罪となったのは、耕雲斎の妻とき四十八歳、倅桃丸(九歳)、金吉(三歳)、長男彦衛門の倅三郎(十二歳)、金四郎(十歳)、熊五郎(八歳)。

 

彦右衛門武田君之墓

 

武田氏婦人藤田氏墓(武田いくの墓)

 

 彦右衛門の妻いくは、藤田東湖の妹で、耕雲斎の四女およし、妾う免、山国淳一郎、田丸稲之衛門の家族とともに永牢を申し渡された。

 

故魁介武田君墓

 

 武田魁介は、文政十一年(1828)、耕雲斎の二男に生まれた。弘化の藩難では、吉成恒次郎とともに雪冤に尽力し、禁固に処された。武術に優れ、指南功労によりたびたび賞された。安政五年(1858)の藩難では父耕雲斎と行動をともにし、元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かい、画策するところがあった。宍戸藩主松平頼徳とともに下国して那珂湊に陣を置き、城兵と交戦した。西上途次、加賀藩に降伏し、慶応二年(1865)二月、斬刑に処された。年三十八。

 

武田桃丸

武田金吉

 

武田三郎

武田金四郎 武田熊五郎 墓

 

武田蓋之墓(武田金次郎の墓)

 

 武田金次郎は嘉永元年(1848)、武田彦右衛門の長男に生まれた。母は藤田東湖の妹いく。諱は蓋。天狗党の挙兵では祖父耕雲斎と行動をともにして、敦賀に禁錮され、慶応元年(1865)三月遠島に処されたが、翌二年(1866)五月、赦免されて小浜藩の獄に移った。明治元年(1868)、赦されて、同年五月、兵を率いて帰藩した。やがて参政に挙げられ、七月には北越追討に出陣した。実権を把握した金次郎は復讐の鬼と化し、諸生党に属する人物を次々と処刑・斬殺して藩内を恐怖に陥れた。後世から見れば、いかにも無駄な殺生ではあるが、復讐にしか己の存在価値を見出せなかった金次郎にも同情の余地はある。明治二年(1868)以後、しばしば兵部省より任務を命じられた。明治二十八年(1895)没。年四十八。

 

彌左衛門塙君墓

 

三十三年祭紀念碑

 

  塙彌左衛門は、文政六年(1823)の生まれ。町年寄に班し、代官に列した。元治元年(1864)三月、田丸稲之衛門らが筑波山に挙兵すると、ひそかに軍用金を贈って援助した。そのため、同年七月、獄に繋がれ、翌慶應元年(1865)三月、獄中で亡くなった。年四十三。

 墓の近くに明治三十年(1897)に没後三十三年祭を記念して建てられた石碑がある。題額は東久世通禧。

 

桒原治兵衛信毅君墓(桑原幾太郎の墓)

 

 桑原幾太郎は、寛政十二年(1800)の生まれ。諱は信毅、雅号は照顔、幾太郎は通称である。水戸藩の世臣で、長沼流兵学に長じ、一家を成した。文政十一年(1828)、八代藩主斉脩の継嗣問題が起こると、前藩主治紀の三男敬三郎(のちの斉昭)擁立運動に加わった。天保四年(1833)、鷹司政通夫人(治紀の娘)付属取次役として京都に勤務し、斉昭の命を受けて神武天皇陵所の調査に従い、「畝傍山東北陵考」を著わした。天保六年(1835)八月、父の致仕により家督を継ぎ、大番組となり、水戸に帰り、天保十年(1839)、郡奉行となった。弘化元年(1844)五月、斉昭が幕譴により隠居を命じられた時、同志とともに雪冤運動を起こし、このため同志八名と禁固四年に及んだ。赦免後、藩の要路にあって、軍政を革新し、安政三年(1856)には権臣谷田部通義らの処罰を断行した。安政五年(1858)八月、戊午の密勅が水戸藩に下ると、評議において諸大名への回達を主張した。のち寄合指引となり水戸勤務、文久元年(1861)六月、致仕し、いくばくもなく病死した。年六十二。

 

(円通寺)

 緑町の信願寺では所佐一郎、千波の円通寺では鳥居瀬兵衛、谷田町の宝蔵寺では池田留吉の墓を探して、それぞれ広い墓地を持つ寺であったが、墓地を歩き回った。しかし、同姓の墓石すら見つけることができなかった。あまりの空振り続きにさすがに落胆した。某球団のゴールデン・ルーキーもこのところ不振に喘いでいて、時折テレビ画面に映る表情も次第に苦悩の色が濃くなっている。彼の心境を考えれば、これくらい空振りが続いたところで何ほどでもない。と、自らを奮いたたせ、この三寺院への再挑戦を誓って、一旦撤退することとした。

 

円通寺

 

 円通寺墓地を隈なく歩いたが、鳥居姓の墓すら見出すことはできなかった(水戸市千波1227)。

 鳥居瀬兵衛も松平頼徳を護衛して下国したが、那珂湊で諸生党と交戦することになり、事情を幕府に訴えようとして南上の途次、水戸へ召喚されて拘束され、同年十月、斬に処された。年五十五。

 

(本法寺)

 

本法寺

 

傳衛門真木君墓

左手には妻の墓が並べられている

 

 本法寺の真木伝衛門の墓だけは簡単に見つけることができた。本堂近くに自動車を停めると、ほぼその目の前にあった(水戸市千波2367)。

 

 真木伝衛門は寛政二年(1790)の生まれ。文政十一年(1828)進仕し、天保十一年(1840)、家督を継いだ。弘化元年(1844)、書院番組に班し、万延元年(1860)、致仕した。元治元年(1864)八月、松平頼徳が那珂湊に陣して城兵と戦火を交えると、市川三左衛門はしきりに反対派を排除し、そのため真木伝衛門は官舎に禁固され、慶応三年(1867)二月、囚中に没した。年七十八。

 

(宝蔵寺)

 宝蔵寺も広い墓地を持つ寺である。ここでも池田留吉の墓を見つけることはできなかった(水戸市谷田町633)。

 池田留吉は、町方同心であったが、文久元年(1861)五月二十八日、東禅寺のイギリス仮公使館を襲撃し、囲いを脱して逃亡したが、のち捕らえられ獄死した。年二十四。

 

宝蔵寺

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水戸 偕楽園 Ⅳ

2022年01月01日 | 茨城県

(茨城県立歴史館つづき)

 

贈正五位小堀寅吉君墓

 

 看板も案内もないが、茨城県立歴史館の旧茂木家住宅の裏に小堀寅吉の墓がある。

 小堀寅吉は、天保十四年(1843)の生まれ。下野訓芳賀郡高岡村の出身であるが、幼時水戸に移って成長し、藩士谷忠吉の家従となった。文久元年(1861)、浪人有賀半弥らの外人襲撃の計画を知って、同志中村貞介とともにこれに加盟し、五月二十八日の夜、江戸高輪東禅寺の英国仮公使館を襲い、傷を負ってその場で自刃した。年十九。

 寅吉の墓は、水戸市常盤原に設けられたが、その後その場所が水戸高等農業学校に引き継がれた。水戸高等農業学校は明治三十二年(1899)から昭和四十五年(1970)までこの場所にあった。同志であった前木新八郎の墓は常磐共有墓地に移されているが、どういうわけだか、寅吉の墓は変わらずこの場所に置かれたままだったということのようである。なお、水戸高等農業学校の本館は現在も茨城県立歴史館敷地内に保存展示されている。

 

旧水海道小学校本館

 

 茨城県立歴史館敷地内に展示されている旧水海道小学校本館は、明治十四年(1881)に建築された、いわゆる明治洋風建築の一つである。

 

(信願寺)

 

信願寺

 

 三十分以上、信願寺墓地を歩いたが、目当てとしていた所佐一郎(松平頼徳に従い、転戦中捕らえられて、慶応元年(1865)三月、磔刑に処された)の墓を発見に至らず(水戸市緑町1‐2‐1)。

 

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ひたちなか Ⅷ

2022年01月01日 | 茨城県

(上高場共同墓地)

 

木名瀬庄三郎の墓

 

 上高場郷土墓地に木名瀬家の広い墓所がある。その中に木名瀬庄三郎の墓がある。

 木名瀬庄三郎は、文化七年(1810)の生まれ。諱は全能。常陸那珂郡高場の郷士であり、横目役を務めた。弘化元年(1844)、藩主徳川斉昭が幕譴を蒙ると、その無実を幕府に愁訴し、罪を得て水戸の獄に繋がれた。元治元年(1864)、有志を率いて水戸城下に滞在中、七月二十三日、筑波山勢追討より帰藩した諸生らに捕えられ、同年十一月二十九日、獄死した。年五十五。

 

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日立 Ⅳ

2022年01月01日 | 茨城県

(河原子台場跡)

 

河原子台場跡

 

 河原子の河原子旅館の駐車場の前に河原子台場跡説明板が建てられている(日立市河原子町2‐2‐24)。

 河原子台場は、水戸藩が建造した七つの海岸防備施設の一つ。台場には大砲が三門備えられ、海防農兵が配置されて海岸防備に当たった。

 

(河原子海水浴場)

 

河原子海水浴場

 

 河原子は海水浴場であるが、さすがに季節外れのこの時期、人影はまばらであった。前日、太平洋沖を通過した台風の影響で波は荒々しかった。海水浴というよりサーフィンに適した波だと思ったら、河原子北浜海岸は、我が国でも有数のサーフィンスポットらしく、時には大会も開かれるという。

 

烏帽子岩

 

藤田東湖七言絶句碑

 

 烏帽子岩の中腹、津神社に藤田東湖の詩碑がある。残念ながら、崩落の危険があるため烏帽子岩はフェンスで囲まれ、石碑に近寄ることはできなかった。

 嘉永六年(1853)、藤田東湖が河原子を訪れたとき。津神社社頭にて詠んだ七言絶句である。明治四十一年(1908)に門人であった香川敬三が親書し、町の有志によって建碑されたもの。

 

眼界東窮亜墨州(がんかいひがしにきわまるあぼくしゅう)

千尋絶壁是吾樓(せんじんののぜっぺきこれわがろう)

世間富貴王侯楽(せけんのふうきおうこうのたのしみ)

不換先生一日遊(かえずせんせいいちじつのあそびに)

 

(日向墓地)

 河原子小学校の北側に日向墓地が広がる。日向墓地は夕景の名所として知られる。そのほぼ真ん中に宮田家の墓地がある。

 

故中教正宮田晩翠先生之墓(宮田篤親の墓)

 

大龢先生墓碣之銘

 

 宮田篤親は、文政四年(1821)の生まれ。篤親は諱で、字は謙祥、雅号は晩翠と称した。天保九年(1838)、河原子村の修験宮田謙養の養子となり、平田銕胤、藤田東湖らについて和漢の学を修め、水戸藩の天保改革に協力した。神職となり、各地の神社の祠官を勤め、安政四年(1857)には水戸藩大久保郷校の館守となり、郷校を足場として、水戸領内神職の組織化を図って尊攘運動に活躍した。安政戊午の密勅降下前夜には、西南地方に潜行して各地の神職との連携に努め、反対派から処罰されたこともあった。水戸藩御見得格となり、扶持米を受けた。維新後は神祇官の再興に奔走した。明治二十九年(1896)、年七十六で没。

 傍らの墓碣銘碑は養父宮田謙養のものか。藤田東湖の撰文と書。

 

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常陸太田 Ⅵ

2022年01月01日 | 茨城県

(梶山家墓地)

 付近を自動車で走っていると、梶山弘志氏の政治ポスターが目に付く。梶山氏は、先日発足した岸田文雄新総裁のもとで幹事長代行に登用された。この辺りは梶山氏の地元である。

 梶山家墓地入口に「天下の魁」と刻まれた巨大な石碑が建てられている。書は梶山弘志氏の父静六(常陸太田市稲木町1246‐1付近)。

 

天下の魁 水戸天狗党

梶山敬介君留魂之碑

自由民主党幹事長 衆議院議員

梶山静六謹書

 

 「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、梶山敬介は、久慈郡稲木村の農。天狗党の挙兵に参加し、慶応元年(1865)二月十五日、敦賀にて斬。

 

 この碑のことを片山杜秀著「尊王攘夷」(新潮選書)で知った。本書によれば、この石碑が建立されたのは、昭和五十三年(1978)のことだという。当時、梶山静六は、田中角栄逮捕のあおりを受けて落選していた。梶山敬介は、梶山静六の曾祖叔父にあたる。梶山氏は、もともと佐竹氏に仕える武士であったが、佐竹氏が秋田に移封されると、常陸に残り稲木村に土着して農民となった。梶山敬介の生年は不詳であるが、天保年間から弘化の頭と推定されている。水戸学に目覚め、尊王攘夷運動に没入した。那珂湊の戦争のあと、天狗党西上にも従い、敦賀で処刑された。

 

梶山敬介之墓

 

梶山静六之墓

 

 この後、馬場町に移動して、共同墓地で宮田瀬兵衛や西野孝太郎の墓を探したが、発見できず。さらに二十数キロメートル北上して大中町で白石平八郎、内蔵進父子の墓を探したが、やはり発見できず。空振りが続いた。

 宮田瀬兵衛は、桜田門外の変の直後、自ら同盟者であると自首し、間もなく獄死した人物である。共同墓地に宮田家の墓所があり、古い墓石が並んでいたので、目を皿にして確認したが、特定することはできなかった。

 西野孝太郎は叔父宮本左一郎殺害の仇討に助太刀をした人。元治元年(1864)、水戸に向かう途上、異党と斬りあって亡くなった。

 白石平八郎、内蔵進父子は、文久元年(1861)、出府の途次、稲吉駅にて反対派に囲まれ父子ともに闘死した。大中村には霊園があるが、そこをいくら探しても白石父子の墓を見つけることはできなかった(比較的新しい白石家の墓石には二つ出会ったが、白石父子とは無縁のようである)。

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常陸大宮 Ⅵ

2022年01月01日 | 茨城県

(緒川小学校)

 

緒川小学校

 

 井樋政之允の墓は、緒川小学校(常陸大宮市上小瀬751)の正門から南へ五十メートルほど行った道路際にある。

 

井樋政之允の墓

 

 井樋政之允は、享和二年(1802)の生まれ。常陸那珂郡上小瀬村の郷士で、横目付に任じられ、一五ヶ村の取締を担当した。弘化元年(1844)、藩主斉昭が幕譴を蒙ると、その雪冤活動に加わり、安政五年(1858)七月、再度の難には他の四人の村長と人民総代として江戸藩邸に赴き嘆願書を提出した。のち下獄したが許された。元治元年(1864)八月一日、坊民が自宅に押し入り殺害された。年六十三。

 近くには政之允の親兄弟の墓が並んでいる。

 

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