史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大津 Ⅵ

2023年07月09日 | 滋賀県

(月見山墓地)

 

堀内誠之進墓

 

 週末はベトナムから連れてきた社員を案内して、買い物と観光に付き合うことになった。彼は家族や同僚、知人からたくさんの注文を受けており、そのリクエストに応えるためほぼ一日買い物に費やすことになった。といっても、ドラックストアとかイオンモールなどをはしごしただけで、京都でないと買えないものがあったわけではない。

 二日目の朝少しゆっくりできたので、一時間早めに家を出て、大津の月見山墓地を訪ねた。JR大津駅から東へ徒歩七~八分ほどである。墓地のほぼ中央付近に堀内誠之進の古い墓石が立っている。

 

 堀内誠之進(せいのしん)は、天保十三年(1842)生まれ。土佐藩郷士島村文蔵の次男。同郷の羽田恭輔らと国事に奔走。征韓論をとなえる丸山作楽にしたがい明治四年(1871)朝鮮渡航を企てて、捕らえられ終身禁固となった。西南戦争が起こると脱獄して西郷軍に加わった。政府に自首し明治十二年(1879)十月、大津で獄死。三十八歳。

 堀内誠之進という志士は、ほとんど無名の存在である。遠矢浩規氏が「明治維新 勝者のなかの敗者」で取り上げ、横井小楠暗殺、奇兵隊の反乱、二卿事件から西南戦争に至る反政府活動に関与した事績を解明してみせた。この墓は平成三十一年(2019)に四万十町教育委員会と同町有志の方々により発見されたものである。

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瀬田 Ⅱ

2023年02月11日 | 滋賀県

(瀬田の唐橋つづき)

 

明治天皇聖蹟

 

 瀬田の唐橋の架かる南側の中洲に明治天皇聖蹟碑がある。訪れる人も少ないせいか、周囲は雑草が生い茂り近づくことも難しい。石碑自体にも蔦がからまっている。

 明治天皇が当地に滞在したのは明治元年(1869)九月二十一日。内侍所(神鏡)を奉安して琵琶湖をご覧になった。碑の題字は、東郷平八郎。

 

(神領青江墓地)

 「ダメもと」で神領(じんりょう)青江墓地を訪ねて、無縁墓石群の中に山崎司馬之允の墓を発見した。偶然の所産ではあるが、海外赴任前のご褒美と受け止めている。背面には「明治三十年十一月一日死」と没年日が刻まれている。

 

山嵜友親墓

 

(月輪寺)

 

明治天皇御東遷御駐輦之所

 

 月輪三丁目の月輪寺の門前に明治天皇御東遷御駐輦之所碑が建つ。明治元年(1868)九月二十一日、滞在。

 

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草津 Ⅱ

2023年02月11日 | 滋賀県

(最勝寺)

草津市川原町の最勝寺は、川那辺願了所縁の寺である。願了の墓などが残されているかと期待して訪ねたが、墓地らしいものが見当たらなかった。

 

最勝寺

 

 川那辺願了は、享和元年(1801)の生まれ。最勝寺の住職で、はじめ宗学を学んだが、のち梵暦を研究。さらに算学にも通じ、近隣の子弟を教授した。また当時医術が幼稚で病気に悩む人が多かったので、京都に出て医学を修め、医療の僧としても活躍し、かねて花道にも達していた。晩年、石見の浄観とともに仏教改革の謀議に加わった罪によって幽閉された。社会の救済と教化に尽くした功績は大きい。明治七年(1874)、年七十四で没。

 

(若宮神社)

 

若宮神社

 

 草津市山田町北山田の若宮神社は、かつて村南六町の湖辺にあったが、寛永八年(1631)、現在地に移転した。

 明治三十六年(1903)五月、元大津本陣正門を買収し、神社中門として移築した。今に伝わる貴重な遺構である。

 

若宮神社中門

 

(鞭崎神社)

 鞭先(むちさき)神社の表門は、昭和五十二年(1977)の屋根の葺替工事によって、元は膳所城の南大手門であったことが明らかになった。

 門の右手には潜戸を設け、控柱は外八双に開くようになっている。屋根には本柱通りに切妻を掛け、控えにはそれより低い切妻屋根を乗せている。屋根には膳所城主本多家の家紋である立葵を飾った軒丸瓦や鬼瓦を飾るほか、柱、扉等の要所に鉄板を鋲打ちするなど重厚堅固な意匠となっている。

 

鞭崎神社

 

膳所城南大手門

 

(新宮神社)

 

新宮神社

 

 新宮神社の創建は、天平二年(730)と伝わる。本殿は棟札から大永三年(1523)に建立されたことが明らかにされているが、寛文十一年(1662)に大地震の被害を受け、この時、建物の地盤を上げて、正面に軒唐破風を新たに設けるといった改造が施され、現在の姿になったと考えられている。

 

膳所城水門

 

 境内に、平成元年(1989)、旧膳所城の水門が移築されている。

 

(願林寺)

 願林寺の山門は、膳所藩の解体時に移築されたものである。

 

願林寺

 

願林寺山門

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守山 Ⅱ

2023年02月11日 | 滋賀県

(守山宿)

 

中山道守山宿 本陣跡

 

右 中山道 幷美濃路

(高札場跡・石造道標)

 

 守山は古来、東山道の宿駅として栄えたが、江戸時代に入り、東山道から中山道に改められた。寛永十九年(1642)、守山宿は、徳川幕府より中山道の正式宿場としての制札が下され認可された。板橋から数えて六十七次で、最終宿場となる。京都三条大橋から守山までは地理余りで、ほぼ旅人の一日の行程に匹敵する。京都から中山道を通って江戸方面に向かう人たちは、東下り(あずまくだり)と呼ばれ、守山で初日を泊まるのを常とした。

 旧東海道沿いには、本陣跡(小宮山九右衛門)、井戸跡、高札場にあった道標などが残されている。

 文久元年(1861)十月二十二日には、徳川家茂に降嫁する皇女和宮が江戸に向かう旅程で、この本陣に宿泊している。

 

(東門院)

 

東門院

 

明治天皇聖蹟

 

 東門院門前に明治天皇聖蹟碑がある。明治天皇は、明治十一年(1878)十月十二日と二十一日に当地に立ち寄っている。十月十二日には、午後三時頃、当時境内にあった守山小学校に着くと小休をとった。二十一日には午前八時頃に到着し、小休の上、鏡辻町方面に出立した。

 

(大光寺)

 

大光寺

 

  幕末維新とは時代はかなり下がるが、第七十五代総理大臣宇野宗佑の墓が、守山市の大光寺にある。墓地には宇野家の墓が複数あるが、一番手前の墓域が宇野宗佑のものである。

 

西照院殿佑山宗禅大居士(宇野宗佑の墓)

 

 宇野宗佑は、リクルート事件と消費税導入により支持率が急落した竹下登のあとを受けて、首相に就任した。我が母校である神戸大学出身(ただし宇野は中退)の初めての総理大臣であったが、首相就任直後、女性スキャンダルが発覚し、わずか三か月余りで辞任に追いやられた。大学の同窓会誌に「宇野宗佑君の首相就任を祝う」という一文が掲載されたとき、既に総理大臣の椅子から去ってしていたのである。在任六十九日は、我が国政治史上四番目の短命内閣であった。

 

(南産土神社)

 

南産土神社

 

南産土(みなみうぶすな)神社辺りは、服部陣屋は、高級旗本上田家五千石の采地陣屋である。服部町は、大きくは津田集落と服部集落に分かれていて、陣屋は服部集落側にあった。この集落全体が陣屋地であったと推定され、現在も三方を水路に囲まれた平方形をとどめている。

 

(光照寺)

 

光照寺

 

伊能忠敬が泊まった寺

 

 光照寺は、文化二年閏八月十七日(1805)、伊能忠敬が測量隊とともに泊まった寺である。忠敬の測量日記に寺の名前が記録されている。

 

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近江八幡 Ⅲ

2023年02月11日 | 滋賀県

(広済寺)

 武佐の広済寺には、明治天皇関係の石碑が二基建っている。

 中山道沿いに立つ「明治天皇御聖蹟」碑は、明治神宮初代宮司一条実輝の養子一条実孝。「教育勅語」渙発四十年を記念して建てられた。門前には明治天皇武佐行在所碑がある。

 明治十一年(1878)十月十二日とに二十一日に滞在。

 

広済寺

 

明治天皇御聖蹟

 

明治天皇武佐行在所

 

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野洲

2023年02月11日 | 滋賀県

 野洲という地名を聞くと、一種の恐怖感を覚える。東京でいえば、上野原か大月くらいの印象である。今はどうか分からないが、私が若い頃、野洲往きの快速電車で酔っ払って寝過ごしてしまい、駅員さんに起こされた人の何と多かったことか。当然、大阪方面に戻る電車は既になく、駅前にも宿泊施設らしきものは見当たらず、呆然とするしかない。一変に酔いが醒めてしまうのである。当時は、同じような境遇の人をまとめてタクシーに乗せて、大阪方面に送り届けるという「アリ地獄的商法」が存在していたが、今はどうなっているのだろうか。

 

(大篠原)

 

明治天皇聖蹟碑

 

 野洲市大篠原の旧道沿いに明治天皇聖蹟碑がある。昭和十五年(1940)の建碑。題字は、総理大臣近衛文麿。明治十一年(1878)十月十二日と同月二十一日に滞在。

 

(辻町)

 辻町の森石材店の裏の民家の前に明治天皇御遺蹟碑が建てられている。明治十一年(1878)十月十二日および二十一日に滞在。

 この碑の写真を撮影しようと近づくと、その民家から男性が現れ、「ここはうちの敷地だから、勝手に入っては困る」と抗議を受けた。慌てて敷地の外に出て、石碑の写真を撮影させてもらった。

 

明治天皇御遺蹟

 

(三上山登山口)

 三上山登山口に保民祠と天保義民碑が建てられている。天保十三年(1842)、当地で勃発した天保一揆の犠牲者を顕彰し、義挙の精神を後世に伝え、義民の遺徳を偲ぶためのものである。保民祠は、明治二十六年(1893)、天保義民碑は明治二十八年(1895)に建立された。なお、保民祠は損壊が著しいため、平成四年(1992)に旧祠と同じ様式で新築されている。

 

保民祠

 

天保義民碑

 

 天保一揆は、幕府役人が五尺八寸(百奈々十六センチメートル)の間竿に六尺一分(百八十二センチメートル)の目盛りを入れて、公然と不正検地によって年貢増徴を図ろうとしたことに、野洲、甲賀、栗太四万人の農民が、三上村庄屋土川平兵衛らを指導者として立ち上がったもので、幕府役人に検地を十万日日延べする証文を書かせて、一揆勢は勝利を収めた。ただし、土川平兵衛らは首謀者として江戸に送られ、苛酷な取り調べの後、獄死した。

 

 ここにきて突然雨が強く降り始めた。写真を撮影すると、走って自動車まで戻った。近くに駐車場がないので、相当距離走るはめになってしまった。

 

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栗東 Ⅱ

2023年02月04日 | 滋賀県

(稲荷神社)

 手原駅近くに所在する稲荷神社には、明治天皇関係の石碑が二基ある。

 境内にある明治天皇聖跡碑の題字は明治神宮二代目宮司有馬良橘。明治元年(1869)九月二十一日、滞在。

 

稲荷神社

 

明治天皇御聖跡

 

明治天皇手原御小休所

 

 街道側には明治天皇手原御小休所碑がある。

 

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湖南

2023年02月04日 | 滋賀県

(石部宿)

 

石部宿驛

 

 石部宿には、幕府直轄と膳所藩直轄の二つの本陣が置かれ、全盛期には二百十六軒もの商家や六十二軒の旅籠が並び、東海道五十一番目の宿場町として栄えた。小島本陣は、膳所藩主本多俊次、康将二代に対する奉公により、慶安三年(1650)に創建され、承応元年(1653)には本陣職を許された。

 

石部本陣跡

 

明治天皇聖蹟

 

 小島本陣には明治天皇も宿泊している。

 

(常永寺)

 

常永寺

 

 岩根の常永寺表門は、三上陣屋の城門を移築したものである。

 三上陣屋は、元禄五年(1692)、郡上八幡城主遠藤常久が七歳で没したため、取り潰されたが、先祖の功績が認められ、一族の遠藤胤親を大垣新田藩主戸田氏成の養子とし、常陸・下野に一万石を与えられ存続を許された。胤負親の所領が近江(現・滋賀県野洲市)に移され、三上陣屋を構えたのが、三上藩の始まりである。その後、明治維新まで存続している。

 

三上陣屋表門

 

(三雲)

 

明治天皇聖蹟碑

 

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甲賀 Ⅲ

2023年02月04日 | 滋賀県

(本正寺)

 本正寺に油川錬三郎(ゆかわれんさぶろう)の墓を訪ねたが、墓地すら発見することはできなかった。

 

本正寺

 

 油川錬三郎は、天保十三年(千八百四十二)の生まれ。水口藩儒中村栗園の門に入り、漢学を修め、つとに国事に奔走し、慶応四年(1868)正月、同志を甲賀郡松尾山に糾合して赤報隊を組織し、自ら武田文蔵と変名して、東海道鎮撫総督府参謀木梨精一郎に指揮を請い、太政官に召されて入京した。のち一隊を編成して洋式訓練を行い、官命によって江戸に下り、同年八月、中村城その他各地を転戦した。凱旋後、藩職に就き判事に任じられ、廃藩置県後弁護士となった。明治四十一年(1908)、年六十七で没。

 

(猪鼻村)

 

東海道 猪鼻村

 

 猪鼻村は、鈴鹿山脈の西に位置し、中世は鈴鹿山警固役であった山中氏の支配を受け、近世は幕府領や諸藩領となって、幕末に至った。村中を東海道が東西を貫き、商いを営む者も多く、往時は五十戸を超え、賑わっていた。

 土山宿から坂下宿の間の立場(休憩所)があり、草餅や強飯(こわめし)が名物であった。農業のほか、製茶や林業も行われていた。

 

旅籠 中屋跡

 

明治天皇聖蹟

 

副碑

 

 旧旅籠中屋の前に明治天皇聖蹟碑が建ち、隣には副碑がある。明治元年(1868)九月二十三日、十二月二十日、明治二年(1869)三月九日、明治十三年(1880)七月十二日に滞在している。

 

(鈴鹿峠)

 三重県との県境、鈴鹿峠に万人講常夜燈がある。重さ三十八トン、高さ五・四四メートルという巨大なモニュメントである。由緒書きによれば、文化年中の霊験により見いだされた神石を用いたものという。鈴鹿トンネルの工事のため、三重県側の旧東海道沿いから現在地に移設された。ここを越えるともう三重県亀山市である。

 

万人講灯篭常夜灯

 

 明治元年(1869)九月二十三日、明治天皇は猪鼻を経て鈴鹿峠を越え、三重県域に入った。

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東近江 Ⅲ

2023年02月04日 | 滋賀県

(ホームきたまちや)

 

市田邸跡

 

明治天皇御聖蹟碑

 

 東近江市五箇荘北町屋町のグループ・ホーム「ホームきたまちや」の入り口に明治天皇御聖蹟碑が建てられている。題字は東郷平八郎。当地は、近江商人の一人市田太郎兵衛のあった場所であった。市田家は、「丸棒」という屋号を持つ呉服を扱う商家であった。

 

明治天皇北町御小休所

 

 ホームきたまちやの向かいの小さな公園に明治天皇北町屋御小休所碑が建てられている。明治十一年(1878)十月十二日および二十一日に滞在。

 

(藤井彦四郎(善助)邸)

 藤井彦四郎邸は、藤井家三代目善助の邸宅で、屋敷地には、珍石、名木を配し、琵琶湖を模した池泉回遊式の大庭園と総ヒノキ造りの客殿と洋館、土蔵等が立ち並んでいる。私がここを訪れたのは午後七時近くで、既に公開時間を過ぎていた。

 

藤井彦四郎邸

 

藤井彦四郎像

 

藤井系店創業の地

 

 藤井彦四郎(善助)は、文政元年(1818)の生まれ。農業を棄てて行商をして一家を成した父の家業を継承し、明治維新に際して京都に近江屋なる店を開き、備後、周防をはじめ、大阪、紀伊、伊勢方面にも販路を広げた。染呉服、関東織物を商い、薄利多売主義で、利益の配当も三人連の行商なら三つ割という俗に「善助割」という有利な振合で仲間の協力を得、家業を伸ばし、公共事業にも多く寄附した。明治十八年(1885)、年六十八で没。

 

(金念寺)

 

金念寺

 

島村紀孝顕彰碑

 

島村紀孝墓?

 

 島村紀孝(のりたか)は、文化四年(1807)の生まれ。幼時は家塾で父の教えを受け、長じて彦根の長野義言(主膳)に国文学を学び、さらに京都の書家貫名海屋、岐阜の野々口(大国)隆正、八幡の西川吉輔らと親しく交際し、特に吉輔とは兄弟の契りを結んだ。島村家は代々郷里で子弟を教えた。これが心学舎系の松の舎塾で、紀孝が三十歳の時、もっとも栄えた。高弟に丹羽正雄がいる。和歌もよく詠んだが、長野義言が「市辺忍歯御陵考」を著わした時には実測調査に協力した。明治二十年(1887)、年八十一で没。

 

 この時点で、さすがに夏でも辺りが薄暗くなる午後七時を過ぎていた。サッカーのゲームでいえば、ロスタイムである。この日の史跡探訪はここまで。湖南市内に確保したビジネスホテルに急いで移動した。

 

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