史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

金山

2012年09月23日 | 山形県
(森合峠)


仙臺藩本営地


戊辰戦争三本松戦跡
(梁川播磨戦死の地)

 同盟軍の主力であった仙台藩は、慶應四年(1868)五月末、兵五百を交通の要衝である金山に派遣した。同年七月十一日、桂太郎を将とする新政府軍は、金山北方の森合峠から進攻し、薩摩藩軍は役内から有屋峠を経由して金山を攻めた。両面から攻撃を受けた仙台藩は混乱に陥り、同日夕刻、隊長梁川播磨は三本松付近で壮烈な戦死を遂げた。軍監五十嵐岱助以下、仙台藩兵の戦死者は三十三名を数えた。


梁川播磨歌碑

 梁川播磨戦死の地には、梁川播磨頼親の歌碑が建てられている。梁川播磨は武勇とともに歌道のたしなみもあったという。享年三十七。

 積む雪に 通路たへて おのづから
 うき世をへだつ 冬の山里

頼親


仙台藩士戊辰戦没碑


仙臺藩士戦死之墓


仙臺藩士早坂弥七郎之墓

 早坂弥七郎は、仙台藩梁川播磨大隊の使番であった。慶應四年(1868)七月十一日、金山にて戦死。

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真室川

2012年09月23日 | 山形県
(及位)


戊辰古戦場跡碑

 真室川町の及位地区でも、激戦が交わされた。及位地区の道路脇には、「戊辰の古戦場跡」というやや傾いた標柱が建てられている。
慶應四年(1868)七月十一日、新政府軍は秋田藩領から三方(院内・雄勝峠・有屋峠)に分かれて攻め込んできた。当時はトンネルなどなく、雄勝峠ルートを採用した新政府軍本隊は攻めあぐんだが、新庄藩の離反もあり仙台藩軍は潰滅することになった。

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鮭川

2012年09月23日 | 山形県
(顕行寺)


顕行寺


十時平太墓

 十時(ととき)平太は新庄藩士。慶應四年(1868)七月十四日、新庄城外の戦闘で戦死。のどを鎌で割き、鮭川に身を投じるという壮絶な最期であった。五十一歳。十時平太の戦死から六十年後、子孫の手によって顕行寺に墓が建てられた。

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酒田 Ⅲ

2012年09月23日 | 山形県
(光丘神社)


光丘神社

 GW中に酒田市内の史跡は一通り回ったが、そのとき光丘神社(ひかりがおか)には行きそびれたので、今回鶴岡を訪問した機会に足を伸ばすことにした。
 光丘神社は、大正十四年(1925)、本間光丘の遺徳を偲んで創建されたものである。


官軍墓地

 本殿の裏に官軍墓地がある。ここに眠る官軍兵士は、明治元年(1868)の戊辰戦争終結後、庄内には四万五千もの官軍が入り、うち約四千人が酒田に進駐し、半数の二千人は越年した。彼らは約一年後に引き上げたが、その間の八名の病没者を葬ったものである。病没者の出身地は、肥後、出雲など。

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鶴岡 Ⅴ

2012年09月16日 | 山形県
(長円寺)


長円寺


新発田藩士の墓

 片桐喜八郎と佐藤敬吾という二人の新発田藩士の墓である。
 片桐喜八郎は、九月一日、越後岩船中浜にて戦死。二十三歳。
 佐藤敬吾は兵頭隊の兵士。同じく越後岩船中浜にて戦死した。十八歳。

(正覚寺)


正覚寺


大山庄太夫の墓

 大山庄太夫は、庄内藩士大山庄輔(北李)の長男として文化五年(1808)江戸に生まれた。才気に富み、先見の明と卓越した行動力で藩主酒井忠器の信頼を得て、栄進、加増を重ねた。江戸留守居役を十三年も勤めた。この間におこった天保の国替え(“三方領地替え”と呼ばれる)では幕府の転封撤回に尽力し、庄内藩勝利の立役者となった。庄内に大山庄太夫ありとの名声を博することになる。幕末の政局では公武合体を主張し、同志とその実現に向けて奔走するが、藩内の政争に敗れ慶應二年(1866)、自宅拘禁中に自刃した。死骸は塩漬けとされて、断罪を待って翌年茅場の刑場で腰斬りの刑に処された。「丁卯の大獄」と呼ばれる。享年五十九。庄内藩というと、幕末の諸藩の中で比較的統制のとれた藩というイメージが強いが、御多分に漏れず、流血をともなう内紛があったのである。

(本鏡寺)


本鏡寺


高林院幽達日等居士
(今井邦太郎墓)

 本鏡寺には、今井邦太郎と小林幡郎という二人の庄内藩士の墓がある。

 今井邦太郎は、石原数右衛門の組に属した兵卒。九月十一日の羽後椿台における戦闘で戦死。


果成院現修日満居士
(小林幡郎墓)

 小林幡郎は、嘉永三年(1850)の生まれ。文久三年(1863)、砲術家小林登之助が組織した小林組に入った。小林組はその後大砲組と名を改めて、組士は庄内藩の預り浪人となった。大砲組は慶應四年(1868)二月、さらに改名して新整隊(あるいは新整組)となり、隊士には家臣の身分が与えられた。戊辰戦争がおこると、幡郎は新整隊の嚮導として出陣。天童で殊勲を立てた後、鳥海山を越えて秋田方面へ向けて転戦した。維新後、東京で官途につくことを望んだが、志が漏れて藩士細井金右衛門宅に招かれ、そこで拷問を受けた末、石原美和の介錯に拠り自刃した。享年二十一。

(林高院)


林高院


三烈士の墓

 三烈士とは、幕臣天野豊三郎(旗本)、佐藤桃太郎(旗本 庄内生まれ)、関口宥之助の三名のことである。三名は各地で新政府軍と戦ったがいずれも利なく、庄内藩を頼って鶴岡に至った。しかし、その時既に庄内藩は謝罪降伏を決していた。藩では三名に対し、降伏してそれぞれ帰国することを勧めた。林高院に匿われた三名は、義侠心の厚い同地の豪農三浦半三郎に食事の世話などを受けながら、新政府軍を批判する文書を作って抵抗を続けた。この行為に憤った新政府軍は、雲州軍に命じて三名を処刑させた。このとき三浦半三郎は病床にあったが、有志五人とともに酒田の妙法寺境内に進入し、三名の首級を奪回して持ち帰り、林高院に埋葬した。明治三年(1870)墓碑が建立され、以来毎年命日である四月二十一日に供養が行われている。

(松ヶ岡開墾場)


国指定史跡 松ヶ岡開墾場


松ヶ岡開墾記念館

 鶴岡市の郊外、松ヶ岡は明治初年旧庄内藩士らによって開墾された土地である。松ヶ岡という地名は、前藩主酒井忠発により命名されたものである。
 明治五年(1872)、旧庄内藩士三千人が松ヶ岡に移住し、開墾に着手した。明治七年(1874)までに三百十一ヘクタールに及ぶ桑園を造成し、明治十年(1877)までに大蚕室十棟を建設して養蚕業を開始した。大蚕室十棟のうち五棟が現存している。そのうちの一棟が、松が岡開墾記念館として公開されている。明治二十年(1888)には鶴岡に製糸工場が建設され、さらに昭和十年(1935)には絹織物工場が完成した。


新徴屋敷

 松が岡開墾場には、新徴組からも六十五名が参加したが、次々と脱落し、現在では新徴組隊士の末裔は三戸のみとなっている。開墾地には、新徴組屋敷三十余棟が移築されたが、現在その中の一棟(匹田家住宅)が復元保存されている。

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鶴岡 Ⅳ

2012年09月16日 | 山形県
(大督寺)


大督寺

 大督寺には「学校給食発祥の地」という珍しい石碑がある。明治二十二年(1889)、各宗寺院の住職が恵まれない子供のために、大督寺内に私立学校を開設し、無償で給食を与えたのが、我が国における学校給食の始まりという。


酒井氏墓所

 大督寺は、鶴岡藩主酒井家の菩提寺であるが、墓所は施錠されており、勝手に中に入れない。歴代藩主が葬られている。
 庄内藩は、酒井忠勝を初代藩主とし、以来幕末の第十三代忠篤に至るまで、酒井(左衛門尉)家が統治した。酒井家は、徳川四天王の一人である酒井忠次の嫡流という譜代の名門であった。
幕末の藩主は、酒井忠篤(ただずみ)。戊辰戦争では新政府軍に抵抗して連戦連勝しながら、隠居忠発の決断で降伏開城することになり、忠篤も謹慎、隠居となった。明治二年(1869)に謹慎を解かれると、旧藩士七十余人を率いて鹿児島に赴き、西郷隆盛の知遇を得て兵学を修めた。新政府では陸軍少佐に任じられドイツに留学。明治十七年(1884)には伯爵を授けられた。開墾、養蚕、金融など地元経済基盤の確立に尽力した。また、「南洲翁遺訓」の刊行頒布にも力を注いだ。大正四年(1915)、六十三歳にて死去。


英真院殿忠譽傑山久厚大居士
(松平甚三郎久厚墓)

 松平甚三郎家は、庄内藩祖酒井忠次の四男、甚三郎久恒を家祖とする。幕末の当主久厚は初代から数えて十三代目に当たる。慶應二年(1866)に家老に任じられ、戊辰戦争では清川口に出陣して指揮をとった。慶應四年(1868)七月、一番大隊長を命じられて新庄、秋田を転戦した。戦功により二百石加増を受けた。維新後は、菅実秀の率いる旧藩主側近御家禄派に退けられ、不遇の晩年を送ったという。大正十年(1921)七十七歳にて死去。


故荘内太夫酒井了恒君塋髪
(酒井玄蕃遺髪塔)

 有名な酒井玄蕃の墓である。酒井吉之丞家は酒井氏宗家第ニ代酒井家次の五男を家祖とし、代々玄蕃を称する。慶應三年(1867)、父了明(のりあき)の隠居にともない家督を継いだ。戊辰戦争がおこると、中老に任じられ、二番大隊長として新庄、秋田を攻め、敵に“鬼玄蕃”と恐れられた。降伏開城後も藩政に参与したが、明治九年(1876)肺疾により三十五歳という若さで世を去った。墓所は東京谷中霊園にある。


故荘内太夫酒井了明君墓

 酒井玄蕃了恒(のりつね)の父、了明の墓である。了恒は、嘉永二年(1849)に家督を相続し、嘉永四年(1851)には組頭、安政六年(1859)中老となり、さらに万延元年(1860)には蝦夷地副奉行を命じられて現地に赴任した。慶應二年(1866)、兄酒井右京が公武合体推進による藩政改革に加わったことで切腹を命じられ、了明も蟄居謹慎となった。慶應三年(1867)、家老免職。禄八百石を減ぜられて隠居した。明治十六年(1883)六十七歳にて死去した。


松平親懐(権十郎)之墓

 松平親懐(ちかひろ)は、庄内藩中老松平権右衛門(新敏)の長子として天保九年(1838)に鶴岡に生まれた。通称権十郎。安政六年(1859)に家督を継いで組頭、文久三年(1863)には中老に進んで、新徴組御用掛に就任した。慶應元年(1865)より庄内藩の江戸市中取締を指揮し、幕政にも関与した。戊辰戦争では軍事掛、庄内藩の総帥として活躍した。明治二年(1869)には松平甚三郎とともに大泉藩大参事となり、廃藩置県以降は菅実秀とともに県政を強力に推進した。明治五年(1872)からは松ヶ岡開墾地の総取締役として事業を遂行し、明治四十四年(1911)、辞任するまで総長として開墾地を管理した。大正三年(1914)、七十七歳にて死去。


正八位長澤惟和命之墓

 長澤惟和(これかず)は、庄内藩中老松平権右衛門(新敏)の次男として生まれた。長兄は松平親懐(権十郎)。松平の宗家といわれる長澤家を再興した。戊辰戦争では庄内藩周旋方として活躍した。維新後は、鹿児島を視察した後、旧藩主酒井忠篤に従ってドイツに留学したが、病のため一年余りで帰国した。帰国後は西村山郡長、東田川郡長、西田川郡長などを歴任した。明治二十六年(1893)、五十一歳にて死去した。

(禅龍寺)


禅龍寺


相良守典墓

 相良守典(もりつね)は、天保八年(1837)、庄内藩士相良文右衛門(守富)の三男として生まれた。安政二年(1855)、選ばれて砲術修業のために江川太郎左衛門の塾に入門、慶応四年(1868)戊辰戦争が起こると銃隊頭となって出陣したが、翌明治二年(1869)、明治新政府に出仕して越後水原県権少属兼越後按察府権少主典に任じられた。その後、各地の官吏を歴任して、明治三十五年(1902)に退職した。八十二歳にて病没。ドイツ文学者、ドイツ語学者として文化勲章を受けた相良守峯、心理学者相良守次はいずれも守典の孫に当たる。

(菅家庭園)


菅家庭園

 明治四年(1871)、菅実秀が藩主酒井忠篤から拝領した庭園である。


菅公千年祭碑

 明治三十五年(1902)、菅原道真公の千年祭を記念して、庭園内に「菅公廟」が建設された。旧藩主酒井忠篤揮毫の「菅公千年祭碑」には、菅家の由来が刻まれている。菅家は菅原道真の末裔を自称している。

(光明寺)


光明寺


子乾水野君(藤弥)之墓

 水野家は三河以来の名門であり、水野藤弥(とうや)はその十ニ代目。安政四年(1857)に家督を相続して、禄千五百石を給された。文久三年(1863)、組頭、元治元年(1864)には新徴組取扱頭取となった。戊辰戦争では、慶應四年(1868)の天童攻撃に参加。以来各地を転戦し、七月には四番大隊長として秋田を目指して雄物川まで進撃したが、降伏開城の方針決定により鶴岡に帰藩した。直後、中老に任じられ、藩の正使として官軍参謀黒田清隆と会見し、次いで鶴が岡城明け渡しの任に当たった。明治二年(1869)には大泉藩大参事。明治十二年(1879)四十一歳で死去。

(萬福寺)


萬福寺


和田東蔵墓

 和田東蔵は、文政四年(1821)、庄内藩士和田又蔵の三男に生まれた。嘉永六年(1853)家督を継いだ。若い頃から学識に優れ、安政元年(1854)からは長瀞藩主に仕えた。戊辰戦争では清川口、次いで小名部口に出陣した。維新後は戊辰戦争史料収集の命を受けてその作業に没頭。以来心血を注いで明治二十六年(1893)に至って、「戊辰庄内戦争録 全四巻」を編集刊行した。明治三十八年(1905)、八十五歳で没し、萬福寺に葬られた。

(常念寺)


常念寺


戊辰戦死招魂碑

 松本十郎が、北海道開拓使を辞任して故郷に帰った折、自費で設立した戊辰戦争戦死者の招魂碑である。最初、大督寺内に建てられたが、のちに常念寺境内に移転された。


肥前武雄鍋島臣樋口泉兵衛親英碑

 佐賀藩樋口泉兵衛は、鍋島上総の家来。慶應四年(1868)八月五日、羽後平沢における戦闘で戦死した。二十七歳であった。


戊辰之役官軍墳墓

 新政府軍二十八名の合葬墓である。

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鶴岡 Ⅲ

2012年09月16日 | 山形県
(極楽寺)


極楽寺


桑名藩士の墓

 大村市郎治(左)と長島民蔵の墓である。
 大村市郎治は、桑名藩致人隊。下横目。慶應四年(1868)五月十九日、越後与板大山で負傷。同月二十五日、庄内にて死亡。二十歳。
 長島民蔵は桑名藩大砲隊。慶應四年(1868)、九月二十日、羽前寒河江にて負傷。庄内大山で死亡。二十四歳。

(総穏寺)


総穏寺


鳥海家(新之助)之墓

 鳥海新之助は、庄内藩水夫隊副長。東田川郡藤島村在住。慶應四年(1868)九月十一日、羽前関川で戦死。三十三歳。


清水五一墓


誠鎗院専念良要居士(手塚要人)墓

(禅源寺)


禅源寺


松森胤保之墓

 松森胤保は、文政八年(1825)、庄内藩士長坂市右衛門の長子として鶴岡城下に生まれた。藩校致道館で学んだほか、宝蔵院流の槍術、大坪流馬術にも長じた。文久二年(1862)に家督を継ぎ、翌年には物頭、さらに支藩である出羽松山藩の付家老を命じられた。慶應三年(1866)十二月の薩摩藩邸焼討事件では松山藩兵の指揮をとった。戊辰戦争でも松山藩の軍務総裁に任じられ、合わせて本藩の参謀を兼ね、上山、新庄、秋田各地を転戦した。維新後は、明治二年(1869)松嶺藩大参事、松山藩校里仁館の惣管、山形県会議員、酒田戸長などを歴任した。同時に科学者としても調査、研究に勤しみ、物理、化学、工学、史学、考古学など、興味の対象は果てしなく、著書七百を越えたという。明治二十五年(1892)六十八歳にて逝去。


研堂黒崎君之墓

 書家として名を成した黒崎研堂の墓である。父は庄内藩家老酒井了明(静眠)。戊辰戦争で勇名を馳せた酒井了恒(玄蕃)は実兄。十七歳のとき戊辰戦争がおこり、農兵小隊長として出陣した。維新後は、松が岡の開墾場の経営に参加した。幼少のころから書に優れ、研鑽を重ねて庄内における書道興隆の基礎を作り、多くの門弟を育てた。また、金融機関済急社(のちの荘内銀行の前身六十七銀行)の社長を務め、明治三十四年(1901)には町会議員となった。昭和三年(1928)、七十七歳にて死去。

(安国寺)


安国寺


石原倉右衛門墓

 石原倉右衛門は藩の中老。嘉永元年(1848)、兄の早世のため家督を継いだ。慶應三年(1867)十二月の三田薩摩藩邸焼討にあたってその指揮をとり、翌年の戊辰戦争では主将として吹浦口に出陣した。慶應四年(1868)六月、新潟で列藩同盟の重臣会議に出席して、同地における武器購入交渉を終え、従者三名を従えての帰途、羽後松が崎で上陸した新政府軍に遭遇して戦死。年三十であった。庄内藩では戦後、石原倉右衛門を開戦責任者として届け出たため、家名断絶となった。のちに倉右衛門の弟、隼馬が嫡子となって酒井姓を賜り、家が再興されることになった。


故正五位松本十郎君墓

 松本十郎は、天保十年(1839)、庄内藩物頭戸田文之助(子隠)の長子として生まれた。旧姓名は戸田摠十郎。はじめ致道館に学び、文久三年(1863)より父に従って蝦夷地の庄内藩警備地区天塩、苫小牧に在勤。慶應三年(1866)、転じて江戸市中取締の任に当たった。戊辰戦争では、酒井了恒(玄蕃)の指揮する二番大隊の幕僚として活躍した。降伏後は、姓名を松本十郎と改めて、東京に赴き黒田清隆ら新政府の首脳と交友を深めて藩の戦後工作に奔走した。明治二年(1869)、黒田の推挙により北海道開拓判官に任じられた。明治六年(1873)大判官に進級。しかし、アイヌの人権擁護を主張する松本十郎は、開拓長官黒田と意見が合わず、明治九年(1876)、三十八歳のとき官を辞して鶴岡に帰った。大正五年(1916)、七十八歳にて死亡。


義顯院笹以翼(笹平九郎)墓

 笹平九郎は、庄内藩服部平蔵組。鶴岡高畑在住。慶應四年(1868)、七月二十八日、羽前赤倉越にて戦死。墓の側面に刻まれた銘によれば、斥候に出て戦死。この墓には遺髪が収められたらしい。


脩善院中邨正氏(中村七郎右衛門)墓

 中村七郎右衛門は、天保十三年(1842)、庄内藩士中村七郎兵衛の嫡男に生まれた。若年より剣術に長じ、慶應三年(1867)、元家老酒井右京が切腹した際には、右京の依頼によって介錯をつとめた。戊辰戦争では銃隊頭を命じられて、清川口に出陣。更に長岡に転戦したが、長岡落城の報に接して会津、米沢を経て山形に帰り着いた。晩年は悠々自適の生活を送り、磯釣り名人として知られた。明治四十年(1907)六十六歳にて死去。


子隠戸田君(戸田文之助)墓

 松本十郎の父、戸田文之助(子隠、摠蔵)の墓である。

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鶴岡 Ⅱ

2012年09月16日 | 山形県
(専念寺)


専念寺


桑名藩主名義士の墓

 専念寺には、桑名藩士八名の墓がある。いずれも戊辰戦争に従軍し、羽前寒河江の戦闘で重傷を負って庄内で戦死、または病を得て死亡した桑名藩士である。

(善宝寺)


善宝寺 総門

 鶴岡市下川字関根の善宝寺は、三門と総門、それに立派な五重塔など、三十を越える堂宇を有する。総門は、安政三年(1856)の創建である。
 龍神信仰を中心とした航海安全、大漁祈願の寺として特に漁民の信仰が厚かった。また曹洞宗の三大祈願所の一つとして全国からの参詣者も少なくないという。
 周囲には何もない田舎であるが、こんな場所にも歴史の長い、しかも壮大な伽藍を有した寺がある。こういうところにも日本の奥深さを感じる。


庄内藩二名墓

 善宝寺境内の北側、貝喰(かいばみ)の池に至る径の途中に、庄内藩士二名を合葬した墓がある。墓の主は、阿部幸太郎と阿部理吉という、慶應四年(1868)九月に戦死した二人の庄内藩士である。阿部理吉は関川での戦死者である。

(高坂)


藤沢周平生誕之地碑

 鶴岡は藤沢周平の故郷である。藤沢周平の情感あふれる作品は、郷土である鶴岡の風土を無視しては語れないだろう。藤沢周平の生地は、鶴岡市の高坂という小さな集落である。集落に入ると、生家跡を示す案内が随所に建てられており、迷うことなく行き着くことができる。生家跡は更地になっていて、柿の木が一本立っているだけである。
藤沢周平は、昭和二年(1927)、この地に生まれた。何の変哲もない田舎であるが、この静かな環境が藤沢作品にも色濃く反映しているのは間違いない。
 藤沢周平は生涯に多くの作品を残して、平成九年(1997)死去した。出羽出身の志士(清河八郎&雲井龍雄)を描いた「回天の門」や「雲奔る」が強く印象に残っているが、個人的には藤沢周平の本領は市井の人を描いた作品だと思う。

(井岡寺)


井岡寺

 井岡寺は、天長二年(825)の創建という古刹である。菅実秀や竹内南山らの墓がある。


荘内太夫菅先生(菅実秀)之墓

 菅家は家伝によれば、先祖の善左衛門は肥後国の出身で、大久保加賀守に仕え、寛文十年(1670)、家禄百五十石で酒井忠義に召し抱えられたという。曾祖父、菅善十郎は日頃病弱なことを同僚矢口権太夫に嘲られ、憤慨のあまり江戸藩邸にて矢口を殺害してしまう。直ちに鶴岡に護送され、そこで申し渡しを受けて切腹した。切腹の諸作法は概ねこのとき定まったという。祖父、基(伊織)は善十郎の切腹により家名断絶となり、父の生家町野家で養われた。文化元年(1804)に家名の再興を許され、藩校致道館普請取締役に選ばれ、のちに典学兼助教となった。詩文に長じその才は藩内第一と称された。また絵を水戸の立原杏所に学んだ。文政二年(1819)、年四十で世を去っている。


南山竹内君墓

 竹内南山の墓である。右膳、総之助、茂祐とも。天保十三年(1842)、庄内藩士竹内主馬(茂済)の子として鶴岡に生まれた。慶応元年(1865)、家督を継ぐと番頭、同年七月には組頭に任じられ、慶応三年(1863)の薩摩藩邸焼討に参加した。翌年の戊辰戦争にも出陣して、吹浦口から秋田藩領へ進攻した。明治二年(1869)、軍功により加増されて、新徴組取扱を命じられた。明治五年(1873)、松ヶ岡開墾の陣頭指揮を取り、そのかたわら鶴岡の戸長も務めた。開墾終了後も総長松平権十郎(親懐)の補佐となって本陣に起居し、三十余年間にわたって開墾場の経営に尽くした。六十七歳にて死去。


故太夫南樓竹内君墓

 竹内南楼は、八郎右衛門茂林(北窓)の父。明和七年(1770)家督を継ぐと、組頭、中老、亀ヶ崎城代などの要職を歴任し、文化二年(1805)、家老に進んだ。寛政年間以来、声望すこぶる盛んで、碩儒白井矢太夫と結んで、放逸派の頭領として恭敬派(水野重栄、犬塚男内)らと藩内を二分して争った。文化八年(1811)政争に敗れて家老を罷免され、蟄居の上、家督を嫡子茂林に引き継いだ。没年齢は六十七歳。


故太夫北窓竹内君墓

 竹内北窓は、八郎右衛門、五兵衛、主馬、修理、茂林という名を持つ。父は竹内八郎右衛門(茂樹)。文化三年(1806)召しだされて用人となった。文化八年(1811)には父茂樹が家老水野重栄らの恭敬派によって退けられたため、家督を継いだで、上席番頭となった。同年九月、土屋兄弟の仇討ちに出会い、頼まれて刺し違えの場に立ち会った。文化十年(1813)、組頭、文政元年(1818)中老、さらに文政十年(1827)には家老に任じられる等、長らく藩の要職にあったが、文政十三年(1830)在職中に病没した。享年五十八。


故太夫柏園竹内君墓

 竹内柏園は、竹内北窓(茂林)の次男に生まれたが、長兄が病死したため生家に戻り、天保元年(1830)、家督を相続した。天保九年(1838)、中老に任じられ、同十四年(1843)には印旛沼疏水工事の総奉行として赴任するが、在勤中病を得て死亡した。享年四十六。

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鶴岡 Ⅰ

2012年09月16日 | 山形県
(鶴岡公園)


鶴岡公園

 鶴が岡城跡は、現在鶴岡公園として整備されている。城郭は本丸の周囲に二の丸、三の丸を配した輪郭式平城で、天守閣はないものの、本丸の周りは約五百メートルという壮大な城郭であった。明治八年(1875)に取り壊され、現在は堀が残されている以外、ほとんど遺構らしきものを見ることはできない。
 鶴ヶ城に酒井氏が入城したのは、元和八年(1622)のことで、以後幕末に至るまで酒井氏が居城とした。


大寶館

 大寶館は、大正四年(1915)に大正天皇の即位を記念して創建されたもので、当初は物産展示場、図書館として使われた。建物は、オランダバロック風の窓とルネッサンス風のドームを乗せた擬洋風建築である。現在は鶴岡の郷土人物展示施設となっている。鶴岡という土地が、多様多彩な人材を輩出したことが見てとれる。


明治天皇御駐輦之地碑


鶴岡護国神社

 鶴岡護国神社は、明治二十八年(1895)、旧藩主酒井忠篤の発意によって創建されたもので、戊辰・西南戦争から大東亜戦争に至るまでの国難に殉じた四千九百三十柱の英霊を祀る。


鶴岡市立 藤沢周平記念館

 藤沢周平記念館は、平成二十二年(2010)に開館したもので、藤沢作品の原点とも言える鶴岡・庄内の風景や、藤沢周平の軌跡などを紹介している。鶴岡市内を散策していると、至るところに藤沢周平の作品所縁の地に案内板が建てられており(鶴岡市観光案内所作成のパンフレットによれば、市内二十五カ所に設置)、鶴岡市民の藤沢周平に対する思い入れの深さと誇りを感じる。

(致道博物館)


致道博物館 旧鶴岡警察署庁舎

 鶴が岡城の三の丸にあたる場所に致道博物館が建設されている。古い建物や鶴岡の歴史を知る資料や工芸品などが収蔵、展示されている。
 最初に出迎えてくれるのは、旧鶴岡警察署庁舎である。明治十七年(1884)に建設されたもので、初代県令三島通庸が明治新政府の権威を表すために建築したと言われる。内部は事務所として利用されており、拝観はできない。


御院殿

 御院殿は、文久三年(1863)、十一代酒井忠発(ただあき)のときに藩主の隠居所として造られたもので、江戸屋敷から移築されたと言われる。奥に続く長い廊下には、庄内竿や旧藩主が釣り上げた魚拓などが展示されている。庄内藩では、心身の鍛練と武道の一助として 磯釣りを奨励していた。城下から庄内浜までは、長い道のりを歩いていくため、そこを長い釣り竿を持って往復することは足腰の鍛錬に役立った。藩士が自分のために納得がいくまで手間と暇をかけて作った竿の中から名品といえる庄内竿が生まれたという。この展示だけを見ていると、旧藩主というのは釣三昧の結構なご身分だったように思われる。


關睢堂(せきしょどう)
副島種臣書

 明治二十四年(1891)、副島種臣が鶴岡を訪ねた折、御院殿の一室で『詩経』第一章「関々たる睢鳩(しょきゅう)、河の洲に在り」を講義した。以来、この部屋は關睢堂と称されている。


旧西田川郡役所


戊辰戦争と庄内

 旧西田川郡役所は、明治十四年(1881)、時の県令三島通庸の命によって建てられた擬洋風建築である。明治天皇の東北巡幸の際には行在所になった由緒あるものである。
 内部は、鶴岡の歴史を展示しており、「戊辰戦争と庄内」や鹿児島との関係資料など見どころが多い。

 致道博物館のショップにて、「庄内人名辞典」(財団法人致道博物館内庄内人名辞典刊行会発行)を購入した。三千五百円であった。庄内藩に関わる人物がほぼ全時代にわたって網羅されており、なかなか使い勝手が良い。よい買い物をしたと満足している。

(藩校致道館跡)


聖廟舊趾碑(藩校致道館跡)

 庄内藩九代藩主酒井忠徳(ただあり)は、施政の根本は教育に在るとして、文化二年(1805)、藩校致道館を建設した。文化十三年(1816)、十代藩主酒井忠器(ただかた)のとき、政教一致の主旨で曲輪内(現在、致道館のある馬場町)に移転した。

(庄内藩校致道館)


庄内藩校致道館

 自分が旧藩校の流れを汲む高校を卒業したこともあって、各地の藩校には非常に興味がある。鶴岡には致道館という有名な藩校があったが、現存する建物も多く、ほぼ往時の学舎が再現されており、見逃すわけにはいかないスポットである。


致道館
書は庄内藩医重田道樹(どうじゅ)

 致道館における教育は、荻生徂徠の古文辞学の影響を色濃く受けている。徂徠は、後世の注釈にとらわれず、古い字句や文章を直接読むことで孔子の教えを研究すべしと説いた。庄内藩では水野元朗と疋田進修という二人の学者が徂徠学を習得し、その後も多くの儒者が江戸在職中に徂徠の門下に学んだため、広く藩内に普及した。後に初代祭酒に任じられた白井矢太夫も徂徠学を修めた儒者であったが、庄内藩における寛政の改革に大きな功績を挙げたことから、徂徠学が庄内における藩学として定着することになった。
 致道館は明治六年(1873)に廃校となった。

 幕末の庄内藩は強兵であった。戊辰戦争では、ほとんど無敗を誇った。庄内藩の強兵の秘決は、あるいは藩校における教育も関わっているのかもしれない。

(敬天愛人碑)


敬天愛人碑 南洲書

 市内馬場町に昭和六十三年(1988)に建立された「敬天愛人碑」である。

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鶴岡 湯田川

2012年09月14日 | 山形県
(隼人旅館)


隼人旅館

庄内藩預り新徴組は、慶應四年(1868)三月、庄内藩に移住することになった。その数、百三十六名と帯同家族三百十一名と伝えられる。藩では湯田川温泉の宿屋と民家三十七軒に分宿させた。彼らはその後約二年間に渡り、ここに起居した。


新徴組御本部跡

 隼人旅館は、組役所(本部)であり、藩からは役人が派遣されて監督にあたっていた。明治三年(1870)、藩では新徴組隊士のために城下大宝寺に百棟の住宅を建設し、そこに一同を移住させた。

(長福寺)


長福寺

 長福寺の裏山に新徴組墓地がある。湯田川在住中に落命した隊士八名およびその家族十二名、合わせて二十名の墓である。


新徴組墓地


水野令三郎年盈墓

 水野令三郎は武蔵の出身。新徴組に加わって、戊辰戦争にも参加。関川の戦闘で重傷を負って戦死した。十九歳。


佐々木貞三郎盛聖墓

 佐々木貞三郎も同じく武蔵の出身で、やはり関川の戦闘により重傷を負って、翌明治二年(1869)六月に没した。

(湯田川小学校)


湯田川小学校

 藤沢周平は山形師範学校を卒業後、湯田川中学校(現・湯田川小学校に併設)に新任教師として赴任した。しかし、二年後に肺結核を患い療養生活を余儀なくされた闘病生活は六年に及び、遂に教職への復帰は叶わなかった。病気を得たことにより教職を諦めることになり、のちの大作家の道を歩む契機となったと言えなくもない。


藤沢周平先生記念碑

 この記念碑は、平成八年(1996)に教え子らによって建立されたものであるが、藤沢周平自身は平成九年(1997)、この碑を見ることなく世を去った。

赴任してはじめて私はいつも 日が暮れる丘のむこうにある 村を見たのである

「半生の記」より

花合歓や 畦を溢るゝ 雨後の水

藤沢周平


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