史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「小笠原島ゆかりの人々」 田畑道夫著 小笠原村教育委員会

2018年03月31日 | 書評
これまで新島、伊豆大島、八丈島など東京都下の離島を巡ってきた。島には本土にはない特有の歴史がある。いずれ小笠原諸島にも行ってみたいと思っているが、何しろ船以外にアクセスの方法がないし、片道二十六時間を要するし、とにかく小笠原島に行くには何かとハードルが高いのである。いつ実現するか分からないが、当面は小笠原島の歴史の下調べに時間を費やすのみである。
本書に書いてあることは、基本的には「幕末の小笠原」(田中弘之著 中公新書)と大差はないが、より詳細である。 平成五年(1993)に刊行されているが、その直前までの島の歴史を記録している。第二次世界大戦というと、沖縄戦の悲劇が語られることが多いが、実は戦争は小笠原諸島にも悲惨な歴史をもたらしていた。
例の「小笠原島発見伝説」について、本書では小笠原貞頼の実在が確認できたとしている。貞頼は長時の子ではなく、長時の子長隆の子だという。とはいえ、小笠原貞頼なる人物が小笠原諸島を発見したという記述は「巽無人島記」でしか確認できず、結局のところ貞頼が本当に小笠原諸島を発見したかどうかは定かではなく、そこは謎のままである。
本書には菊地作次郎の日記が全文掲載されている。彼の残した日記によれば、小花作之助は小笠原の山を調査中、四~五メートルも落下し意識を失った。周囲はてっきり即死だと思ったらしいが、幸いにして意識を取り戻したという。菊地作次郎は、八丈島の地役人で、たまたま江戸に滞在しているところ、外国奉行水野忠徳の小笠原島回収に同行することになった人物である。幕府としては、その頃、人口飽和状態にあった八丈島から移民を選抜して小笠原諸島の開拓に当たらせようという意図があったようであるが、作次郎にしてみれば、とんだとばっちりであった。小笠原に連行された作次郎は、まるで幕府役人の使い走りのように扱われ、慣れない船(カヌー)を操って役人を陸地に送り届けたり、荷物を背負って山岳地帯の探索に連れまわされたりしている。都度、作次郎は日記の中で悲鳴を上げ、愚痴をこぼしている。終いには、日本語が分からない欧米系の島民にまで「小使い、茶番、作次郎」と役人の真似をされる始末であった。当人の心の叫びが聞こえて、ちょっと愉快な読み物となっている。作次郎は、その後一旦江戸まで連れ戻され、八丈島の家族との再会がかなったのは、実に一年八か月振りのことであった。
維新後、来島した人々を細々と紹介しているのも本書の特徴である(小花作之助の遺文書「小笠原島要録 第3編」から)。何年何月何日にどの船によって誰が来島したかという記録であり、名前の羅列に過ぎないが、そこに興味深い名前を見い出すことができる。「武田昌次」という人物である。この名前を見て、二年半ほど前に、佐倉の国立歴史民俗博物館で行われた講演会で、樋口雄彦氏が「幕臣塚本昌義は鳥羽伏見の敗戦の後、アメリカに亡命したが、帰国後武田昌次と名前を変えて内務省官僚として明治政府に仕えた」と解説されていたのを思い出した。本書の記録によれば、武田昌次が初めて小笠原島に勧農局小笠原出張所長として来島したのは明治十一年(1878)のことであった。このときは長男重吉を伴っただけであったが、翌明治十二年(1879)には妻ヨネ、息子重吉と要吉、娘きふを帯同して小笠原島に入っている。小笠原諸島の何が彼をここまで突き動かしたのであろう。興味が尽きない。
本書に掲載されている「小笠原物産誌略」(明治十六年 曲直瀬愛編纂)によれば、勧農局出張所長武田昌次がジャワやインドから珈琲を移植したとか、バナナで並木を作ることを発議したとか、イタリーから養蜂を持ち込んだといった記録が残っている。観農局の一員として、小笠原で事業化できそうな動植物を熱心に模索していた様子が伺える。
本書は辞書のように分厚い本であるが、内容も充実している。小笠原諸島の歴史を学ぼうと思えば、格好の書であろう。
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「浦賀奉行所」 西川武臣著 有隣新書

2018年03月31日 | 書評
浦賀奉行所は、享保五年(1720)に設置された役所で、当初は東京湾に出入する船を監視するという「海の関所」としての機能を有していた。浦賀奉行所の役割が拡大したのは十九世紀に入ってからで、日本近海に異国船来航が急増すると、浦賀奉行所は東京湾防衛の要としての役割を負わされることになった。
最初に浦賀に異国船が現れたのが、文政元年(1818)、ブラザーズ号(イギリス)である。その四年後の文政五年(1823)には、イギリス捕鯨船サラセン号が現れ、奉行所では薪水を与えて立ち去らせた。文政七年(1825)、常陸の大津浜に英・捕鯨船が現れ乗組員が上陸した事件を受け、幕府は異国船打払令を発する。これを受けて天保八年(1837)に浦賀沖に出現したアメリカ商船モリソン号に対し、浦賀奉行所では砲撃を加えた。あとになってモリソン号は、日本人漂流民を送還するために来航していたことが分かり、この対応に批判が高まった。幕府の対外政策を批判した渡辺崋山、高野長英らが弾圧された「蛮社の獄」のきっかけとなった事件である。
この間、浦賀奉行所では砲台の築造、砲術の習得、農兵の訓練などに取り組み、軍備強化に努めた。
そして、嘉永六年(1853)のペリー艦隊来航を迎える。これを機に浦賀奉行所は海軍力の強化を提唱し、自ら軍艦造船、操艦術の習得に乗り出す。浦賀奉行所からは、造船や操艦に関するエンジニアや専門家が多数生まれた。幕府が開いた長崎海軍伝習所にも人材を送り込み、草創期の幕府海軍創設に大きな役割を果たすことになる。
また横浜が開港されると、神奈川奉行所が置かれることになる。この神奈川奉行所や、同じく開港された下田奉行所にも浦賀奉行所から人材が送り込まれている。外国人との折衝といったノウハウを持った人材も広く求められたのであろう。香山栄左衛門、中島三郎助、佐々倉桐太郎、濱口英幹、岡田井蔵、山本金次郎、春山弁蔵、合田猪三郎、小笠原甫三郎、鈴木長吉らはいずれも浦賀奉行所もしくは浦賀出身である。
このところ足繁く浦賀を訪ねている。今では寂れた地方の街に過ぎないが、この小さな街がある時期日本をリードするほどの影響力を発揮したことに感慨を禁じ得ない。町の歴史を知って、その町を歩いて見るとまた風景が違って見えるのである。

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「軍艦奉行木村摂津守」 土居良三著 中公新書

2018年03月31日 | 書評

この本も平成六年(1994)に発刊されたもので、今では書店の店頭では見ることができない本である。神保町の古書店街を半日歩いてこの本を見つけ、たったの二百五十円で手に入れた。
木村摂津守喜毅(維新後隠退して「芥舟」と改名)は、譜代の旗本で、三代前から浜御殿奉行を世襲する家に生まれた。浜御殿は「浜離宮恩賜公園」として現存している。家禄は二百俵というから、決して裕福とはいえないながら、将軍が浜御殿に来園した折には近くに侍し、園内の能楽堂で将軍自らが能を舞うことがあれば、本来高級官僚しか拝見できない場に立ち会うことが許された。
筆者には、「身の廻りに「いいもの」「ほんもの」を多く見るうちに「にせもの」「好い加減なもの」を見分ける直観力が自然に養われ、彼の人物鑑識眼に繋がったのではないか。」としている。
安政六年(1859)十一月、木村喜毅はアメリカ渡航を命じられる。この使節団は新見豊前守を正使、村垣淡路守を副使、小栗豊後守を目付とするもので、木村は三名に万が一のことがあったとき代行する役目を負っていた。このため別船(咸臨丸)で渡航することとなった。
喜毅の「人物鑑識眼」が発揮されたのが、咸臨丸乗員選考の場面であった。喜毅は、通訳として中浜万次郎、航海案内人としてアメリカ人ブルックを同乗させた。恐らくこの二人無くして、咸臨丸の太平洋横断の成功は覚束なかったであろう。
木村喜毅は、出発までの短期間のうちに三千両という大金を用意している。三千両といえば、現在価値に直せばざっと三億円という金額になる。筆者は、喜毅が家財を処分してこの大金を用意したと推測している。幕府からは別途七千六百三十四両が「咸臨丸往復の節諸品買入代見積」として支給されているが、この公金にはほとんど手を着けず、帰国後返金している。
メア・ランドで咸臨丸の修理が完了したとき、無事帰国して浦賀に入港したとき、時々に応じて現金で乗員に褒美が下されているが。これも全て喜毅の手元から出ている。福沢諭吉などは、木村喜毅を生涯の恩人として慕っているが、こういうことが自然にできる人で、特に部下からは慕われる人柄だったのであろう。
本書でもっとも面白かったのは、木村喜毅、勝海舟、福沢諭吉の三者がそれぞれをどのように評価しているのかを解説している最終章であった。
福沢諭吉が「痩我慢の説」で勝海舟(と、榎本武揚)を痛烈に批判したことは広く知られているが、勝海舟が編纂した「海軍歴史」において、あたかも海軍創設の功を独り占めしているかのような書きっぷりが余程気に入らなかったのであろう。福沢は木村喜毅が残した「三十年史」の序文や時事新報の社説で、木村喜毅の日本海軍における功績や咸臨丸航海の成功を強調した。その裏には、勝が木村の功績を横取りしているという怒りがあったからである。
一方、木村喜毅は、咸臨丸艦長勝海舟の我がままに相当手を焼いたはずである。海舟がヘソを曲げて、太平洋の真ん中で「俺は帰るからボートを下せ」と命じたとか、サンフランシスコの港に入る時に揚げる将官旗のことで、木村家の家紋ではなくて将軍家の三葉葵にするようにゴネたとか、この手の逸話には事欠かない。当の喜毅は「ホントに困った」と述懐しているが、このことで木村が海舟を恨んだり、憎んだりした形跡はない。喜毅は、海舟の不平、癇癪の原因が彼の真の実力と比べて不当に低いその身分にあり、七つ年下の喜毅がその門地故に軍艦奉行となり、俸禄も自分の十倍もあるというところにあることをよく理解していた。決して海舟のことをけなしたり、蔑んだりもしていない。まさに大人の対応であった。
咸臨丸一行がサンフランシスコに到着した際、現地の新聞記者が取材に殺到した。木村喜毅のことを「一見しただけで温厚仁慈の風采を備えた人物」「頭上より足の指先に至るまで貴人の相貌あり」と評した。言葉は通じなくても、彼の高潔な人柄は現地の人に伝わったのであろう。
江戸に戻った木村喜毅は、井上清直とともに軍艦奉行を拝命する。木村は満を持して「大海軍計画」を建議した。この計画は、日本全国を六つに分割して、各拠点に軍艦・兵員を常備するものである。日本を六つに分ける案は、明治に入って大湊、横須賀、舞鶴、呉、佐世保の五つの軍港を置いた原型であり、のちの常備艦隊、連合艦隊に繋がる案である。軍艦の数三百七十、乗組人数六万千二百五人という壮大な計画で、この実現には天文学的数字の費用が必要となろう。この時点での幕府軍艦はコルベット級四隻、フレガット級三隻、小型蒸気艦は建造したばかりの千代田形一隻という時期であった。
ところが、これを評議する会議において、勝海舟が「実現するには百年を要する」と発言したものだから、本案は葬り去られた。勝海舟自身の日記によれば「五百年かかる」と発言したというが、いずれにせよ、「大海軍計画」は海舟によって潰されたといって良い。著者は「日露戦争の日本海における完勝が、右の防備完成を意味するとすれば、文久二年より四三年後に書付けの目的は達せられたことになる」と(やや悔し気に)記しているが、結果からいえば、百年とか五百年もの歳月は必要ではなかったのである。木村喜毅という人は余程できた人だったのだろう。これほどの仕打ちをうけながら、一切勝海舟のことを恨んだりしていない。後年、喜毅は海舟に請われて「海軍歴史」の編纂を積極的に手伝っている。正直に申し上げて、本書を読むと、勝海舟という人には「嫌な奴」という印象しかない。
筆者土居良三氏(故人)は、咸臨丸渡航時、木村喜毅の従者としてアメリカに渡り、「鴻目魁耳」と称する日記を残した長尾幸作の曽孫にあたる。本書を読めば木村喜毅に深い愛情をもっていることが伝わってくるが、必要以上に肩入れするのではなく、勝海舟にも等しく優しい目を注いでいる。評伝としては安心感のあるものである。
私がこの本を読んだのは、不整脈(心房細動)のカテーテル手術を受けるために入院した病室であった。おかげで充実した入院生活となった。

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「幕末の小笠原」 田中弘之著 中公新書

2018年03月31日 | 書評
今から二十年ほど前に発刊されたもので、現在では書店で手に入れるのは不可能な書籍である。アマゾンで古本を入手した。古い本ではあるが、今なお新鮮である。思えば、中公新書は昔の方が力作揃いであった。売れない本は、再版されないのが世の常であろうが、こういう名著は出版元から取り寄せできるようにしてもらえると有り難い。小笠原諸島のユニークな歴史を知ろうとすれば、今なお本書の右に出る本はない。
ボニン・アイランズ(無人島)と呼ばれた南海の島々が、小笠原島と呼ばれるようになったのは、一つの伝説がからんでいる。
江戸時代の中頃、享保十二年(1727)に小笠原宮内貞任なる浪人が、「この島は自分の先祖である小笠原貞頼が発見した島であるから、先祖の偉業を継ぐために渡島の許可を得たい。」と幕府に願い出たのである。この時、貞任が奉行所に提出した「巽無人島記」によれば、文禄二年(1593)、信州深志(現・松本市)の城主小笠原民部少輔貞頼が、秀吉の朝鮮出兵の際、肥前名護屋にて徳川家康から「しかるべき島山があれば、見つけ次第取らす」との証文を下され、早速南海に船出して三つの無人島を発見して家康に報告した。秀吉からもこれらの島々を「小笠原島」と名付け所領を安堵されたというのである。これを受けて奉行所で調査したところいくつか不審な点が発覚した。
まず小笠原貞頼なる人物の存在が確認できない。さらには貞頼が小笠原島を発見したという記録は「巽無人島記」以外の文書以外に確認できない。貞頼が実在する小笠原長頼(当時四十歳)の孫とすれば、その当時幼児に過ぎない。朝鮮出兵のさ中に武将が探検航海を企てるとは考えられない…等々、数々の疑惑が浮上し、取り調べの結果、貞任は小笠原家とは何の関係もない人物であり、古文書も贋作と断定された。貞任は重追放という重い刑を課された。
つまり小笠原貞頼による無人島発見伝説は完全に否定されたわけであるが、どういうわけだか十六世紀に我が国がこの島々を先占していたことの証拠としてこの伝説が取り上げられ、小笠原島という呼称まで定着してしまったのである。
長らく無人の島であった小笠原諸島に入植団が移住したのは、天保元年(1830)のことであった。在ハワイのイギリス領事の指導のもと、五名の欧米人と二十名のハワイ人から成る一団が結成された。この中には島で一生を終えることになるアメリカ人ナザニール・セボリーも含まれていた。普通に考えれば、小笠原諸島はこのまま英米の領有となってもおかしくなかったが、幕府が小笠原島回収に成功した背景にはいくつかの幸運が重なった。
幕府がこの島の存在に気が付いたのは、「ペリー提督日本遠征記」から得た情報だったという。
文久元年(1862)十二月、外国奉行水野忠徳の一行を小笠原島に派遣することになった。この派遣を決定したのは井伊直弼が斃れた跡を引き継いだ久世・安藤政権である。一般的には久世広周、安藤信正政権を評価する声は高くないが、開国後の新たな時代に順応しようとする積極的開明性を備えていたと筆者は評価している。
当然ながら英米が小笠原島の領有権を主張することが予想されたが、イギリスはアヘン戦争を経て香港を手に入れており、敢えて中国大陸から遠く離れた小笠原諸島に魅力を感じなくなっていたのであろう。またこの時期、イギリスと幕府の関係は極めて良好であった。敢えて波風を立てることもなかった。一方、アメリカは小笠原島の領有を主張できるだけの歴史的実績に乏しく、むしろ英領化されることを恐れた。また当時小笠原島に定住していた欧米人およびハワイ人は、三十八名を数えていた。彼らは外からの襲撃に無防備なことに不安を抱いていた。また財産の相続の問題などにも直面しており、秩序と安定をもたらず公権力の存在は彼らにとっても歓迎すべきものであった。そういう微妙なバランスの上に小笠原島回収が実行されたのである。
この時、派遣されたのは咸臨丸である。水野忠徳のほか、服部帰一(常純)、小野友五郎、田辺太一、松岡磐吉、小花作助、益田鷹之助、西川倍太郎、松波権之丞、中浜万次郎ら、幕府を代表する能吏が名を連ねていた。
水野一行は約八十日間滞在して、父島をあとにした。なお、小花作助は咸臨丸帰航後も小笠原島に島長として残った。小花作助は、維新後も旧幕時代の経験を買われて明治九年(1876)、再度小笠原島に渡って小笠原出張所長に就いている。
小笠原諸島は、太平洋戦争後、米軍の軍政下に置かれ、内地に疎開していた島民は長らく帰島が許されなかった。小笠原島の日本復帰が実現したのは、昭和四十三年(1968)六月二十六日のことである。
NHKの天気予報を注意深く見ていると、毎度小笠原島の天気を報じている。あまり内地に住んでいる者からすれば、小笠原島の存在を意識する場面は少ないが、小笠原諸島が我が国の領土でなければ、今日我が国の領海(排他的経済水域)と称しているエリアはざっと三割も縮小することになる。実は小笠原諸島の存在は非常に重い意味を持っているのである。水野忠徳や小花作助といった先人たちの努力が、今こうした形で私たちの生活と結び付いているという事実を再確認するためにも、本書は非常に意義深い本である。
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「幕末武士の京都グルメ日記 「伊庭八郎征西日記」を読む」 山村竜也著 幻冬舎新書

2018年03月31日 | 書評
「征西日記」とは、元治元年(1864)、将軍家茂の警護という目的で、京阪に滞在した伊庭八郎の日記である。対象期間は、その年の一月から六月の半年間である。元治元年(1864)というと、三月に天狗党が筑波山で挙兵するなど世情穏やかならざる時期である。家茂は二度目の上洛を果たし、天皇との親密さをアピールことに成功した。家茂の上洛自体は極めて政治的行動であったが、伊庭八郎の日記には、政治の臭いが全くしない。
定期的に二条城で勤務する以外は、市内の名所旧跡を巡り、美味いものを食べ歩く、まったくの「お上りさん」である。何一つ将軍家茂のことを心配している気配はない。江戸に戻ろうと東海道を上り始めたタイミングで、京都で池田屋事件が勃発し、八郎らは呼び戻される。しかし京に戻った時には事件は解決し、お役御免となった。八郎らが唯一幕末の動乱の歴史と接点をもった瞬間であった。
伊庭八郎は、戊辰戦争では遊撃隊に加盟して鳥羽伏見の戦争に参加。箱根山崎の戦いで左腕の肘から先を失う重傷を負う。それでも箱館に渡って榎本軍に加わり、幕臣としての意地を貫いた。砲弾を受けて再起不能の重傷を負い、明治二年(1869)五月十八日、息を引き取った。あのノンポリ青年からは想像もつかない壮絶な最期であった。
本書のタイトルにあるように、八郎はうなぎや天婦羅、赤貝、鯛など毎日のように御馳走を食べ歩いている。細かく値段を記録してくれているので、京都における当時の価格を知ることができる。本書では、「一両の価値について諸説あるが、最も有力な説である「十万円」」を採用している。
たとえば・・・
 「通鑑覧要」(中国の歴史書「資治通鑑」の要約版) 一両二分(十五万円)
 茶 六百文(九千円)
 刀の鍔 三分二朱(八万七千円)
 どじょう 百二十四文(千八百六十円)
 「十八史略」(中国の子供向け歴史書) 一分三朱(四万三千七百五十円)
 どじょう 二朱(一万二千五百円)
 しらす干し二合・うるめ干し物 二百文(三千円)
 小柄(脇差の鞘に装着する小型の刃物) 三両(三十万円)
 うなぎ 三分(七万五千円)
 名古屋扇七本 金一分(二万五千円)
 赤貝 一朱(六千二百五十円)
 鯛二尾 一分(二万五千円)
 脇差 一両二分二朱(十六万二千五百円)
 鉄扇三本・平骨三本・渋扇一本 二分(五万円)
 うなぎ(澤甚) 一分二朱(三万七千五百円)
 足袋五足 二分(五万円)
 鯛 一朱と銭百五十文(八千五百円)
 薬礼金 二百疋(五万円)
 猪口三つ 百文(千五百円)
 菅笠二つ 一朱五十文(七千円)
 鯛五枚 二分三朱(六万八千七百五十円)
 キセル 五百文(七千五百円)
 寿司 一朱(六千二百五十円)
 昼食 一朱と百(七千七百五十円)
 下帯(ふんどし) 一朱(六千二百五十円)
 家鴨 一分五十ヌケ (二万五千円+ヌケは未詳)

と、こんな具合にたくさん買い物をしている。こうやって見て行くと一両=十万円は元治元年(1864)時点では違和感がある。どじょうは当時の庶民の味だが、それが一万円を超えるというのは凄い分量になるだろうし、ふんどしが六千円強というのも高価に過ぎる。
果たして元治元年(1864)時点の一両は現代のいくらに相当するのか。この答えを求めて、日本橋本石町の貨幣博物館まで足を運んで調べてみた。貨幣博物館の資料によれば、この問いの答えは「簡単にはいえません」というのが結論である。
幕末、外国との交易が始まると品薄になって物価が高騰、金の流出により貨幣を改鋳したためそれに輪をかけることになった。慶応三年(1867)から四年(1868)には、開港前と比べると七倍から八倍というインフレが進んでいたという。
一両=十万円説は、おそらく江戸初期から開港までは大きく間違っていないだろうが、元治元年(1864)時点では貨幣価値は半減、もしくは三分の一程度まで下落していたと考えた方が適切なのではないか(それにしてもユニクロのブリーフ(¥590)と比べると、ふんどしは高価である)。

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「西郷内閣 明治新政府を築いた男たちの七〇〇日」 早瀬利之著 双葉文庫

2018年03月31日 | 書評
新聞の書評でこの本のことを知った。これも大河ドラマ関連本といえるかもしれない。西郷隆盛が実質的に首相となった明治四年(1871)十一月から明治六年(1873)までを描いた小説である。
この時期の西郷政権のことを、岩倉使節団の留守を預かったことから「留守政府」とも呼ぶ。使節団との間では重要なことは決めないようにとの約定が交わされたが、実際には学制改革、宮中改革、陸海軍の創設、徴兵制度の導入、人身売買の禁止、地租改正、太陽暦の採用、外交面では日清修好条規の締結など、我が国の近代化に欠かせない改革を次々と断行していた。本書では、西郷隆盛が政府の首班として、適切な指示と判断を下して、矢継ぎ早に改革に取り組む姿勢を描き出しているが、実際のところはどうだったのだろう。これらの改革は、当然ながら西郷の了解なしには進められなかったものではあるが、一方で西郷がてきぱきと政務を処理したというのも何か違和感が残る。
西郷は一貫して山県有朋を擁護しているが、どうして山県をこれほど評価したのだろうか。同じ長州出身の井上馨は、財界との癒着がささやかれたこともあり、西郷は早々に見切りをつけている。山県有朋も山城屋和助事件に加担した当事者であり、金銭の意地汚さでいえば井上馨と似たようなものであろう。
木戸孝允や大久保利通が帰国したときには日本の近代化に必要な施策はおおかた片付いており、木戸や大久保は留守政府に嫉妬さえ覚えたとしている。さらに戊辰戦争まで中立をきめこみ、薩長と比べて血を流すことが少なかった肥前閥から江藤新平や大隈重信、大木高任がいつの間にやら参議に登用されていることも不愉快であった。
本書によれば、これが明治六年政変の背景にあるとする。個人的には歴史を結果から見た「あと付け」のような気がするが、明治六年の政変には、確かに外遊組と留守政府の主導権争いといった側面もあったことは否定できない。それにしても西郷まで追い落としたことは正しかったのだろうか。
西郷と大久保が本当にお互いを盟友と認めていたならば、廟議においてガチンコで議論を交わすだけでなく、自宅に招いて本音で議論することができなかったのだろうか。西郷もただただ遣韓使節のことを急ぐのではなく、時期について妥協の余地はなかったのだろうか。我々はその後の政府の分裂から西南戦争に至る悲劇を知るだけに惜しまれてならないのである。
筆者は石原莞爾研究家として知られる作家である。本来、明治初年という時代はご専門ではないからかもしれないが、津田出を長州藩の出身としたり(本当は紀州藩)、当時新橋―横浜間に二時間を要したと(実際には一時間足らず)したり、所々誤りが見られるのは少々残念である。

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稲城

2018年03月23日 | 東京都
(妙見寺)


妙見寺

 名探偵コナンのスタンプラリーがJR中央線や武蔵野線の駅で開かれており、都内までの定期券を所有している私は、娘に頼まれてスタンプを集めて回ることになった。この日の最終目的地は、南武線の稲城長沼駅である。
 稲城長沼駅から三十分ほど南下すると、京王線の稲城駅に出会う。このすぐ近くに妙見寺がある(稲城市百村1588)。
 維新後、山岡鉄舟はこの妙見寺への月参を欠かすことなく、当山中に玉川石を使って黙想祈念の檀場を作ったという。また、「北辰妙見菩薩」の旗幟一対に直筆の署名を残している。


妙見宮

山岡鉄舟は若い頃、北辰一刀流剣術を修めた。「北辰」とは北斗七星のことを指し、流祖千葉周作が北斗七星の化身とされる妙見菩薩を信仰していたということからこの名がついた。鉄舟が東京市内から遠く離れたこの場所まで足繁く通った背景には、こういった事情があったのであろう。
 山上の北辰妙見宮からは都心の高層ビル群やスカイツリーなどを一望できる。

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東京 Ⅶ

2018年03月23日 | 東京都
(三菱UFJ信託銀行本店)


評定所および伝奏屋敷跡

 三菱UFJ信託銀行本店ビルの一階は信託博物館となっている。江戸の絵図によれば、三菱UFJ信託銀行本店ビル・日本工業倶楽部の式地には、評定所と伝奏屋敷があった。評定所とは、寛永十二年(1635)に確立した機関で、老中・三奉行(寺社奉行、町奉行、勘定奉行)などが参集し、重要事項を裁決した。当初は老中の屋敷で審議されていたが、明暦三年(1657)の大火以降しばらく類焼を免れた伝奏屋敷が使用されることになった。寛文元年(1661)八月、伝奏屋敷の敷地を区分して評定所として独立の施設が設置された。伝奏屋敷は、勅使・院使など朝廷の伝奏衆が江戸に下向した際に宿泊施設として使用された。公家衆御馳走屋敷とも呼ばれた。伝奏馳走役に命じられた大名は、滞在中にこの屋敷に詰めて高家の指示を仰ぎつつ勅使の接待にあたった。接待の費用は莫大で、しきたりもかなり複雑であった。元禄十四年(1701)、浅野内匠頭長矩がこの役を命じられたことは有名である。
 周囲を何度も歩いたが、評定所および伝奏屋敷跡を示す記念碑等は見当たらない。辛うじて三菱UFJ信託銀行本店の前に解説を見出すことができた。

(NTTコミュニケーションズ大手町ビル)


越前福井藩邸跡

 現在、NTTコミュニケーションズ大手町ビルのある辺り(平成三十年(2018)二月現在、工事中)に、かつて福井藩の上屋敷があった。正確にはこの場所から西は逓信総合博物館「ていぱーく」、東は常盤橋公園辺りまでを占めていたと推定されている。さすが親藩・御家門の一角をしめる越前福井藩だけに、江戸城に近いこの場所に、これだけ広大な屋敷を構えていたのである(千代田区大手町2‐3)。

(一石橋)


一石橋 迷子しらせ石標

 皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋されているのが一石橋(いちこくはし)である。北橋詰め近くに幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰め近くには幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗+五斗で一石と名付けたといわれる。
 迷子しらせ石標は、安政四年(1857)に建立されたものである。この石標の左側側面に迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、心当たりのある通行人その旨を書いた紙を右側に貼ってしらせたという、いわば庶民のための掲示板であった。この場所のほかにも湯島天神や浅草寺の境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に同様の者が建てられたというが、現存しているのは一石橋のもののみである(中央区八重洲1‐11)。

(貨幣博物館)


貨幣博物館

 日本橋の日本銀行の向い側に貨幣博物館がある(中央区日本橋本石町1‐3‐1)。
 入場無料。入口で荷物検査があり、金属探知機を通ると、二階が展示場となっている。和同開珎や富本銭から現在流通している貨幣まで様々な時代のお金が展示されている。私がこの日この博物館を訪れたのは、「江戸時代の一両の現在価値」を知りたいと思ったからである。一般には一両は約十万円とされる。ペリー来航以降、激しいインフレが起こり、慶応三年(1867)から四年(1868)には嘉永年間と比べると物価が七倍から八倍に急上昇している。また何を基準に計算するのかによっても違ってくる。従って、正解は「簡単にはいえません」なのである。

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四ツ谷 Ⅶ

2018年03月23日 | 東京都
(迎賓館)
 今年(平成三十年(2018))は、明治維新から百五十年という節目の年である。政府では、地方公共団体や民間企業とも連携して、様々な記念事業を進めている。その一環で、各地で普段拝観が許されていない文化財などが一斉に公開されている。その一つが赤坂離宮(迎賓館)である。インターネットを通じて事前に予約が必要である。嫁さんと二人ででかけることにした。入場料一人千円。入館前に手荷物など厳重なチェックを受けることになる。


迎賓館

 迎賓館は明治四十二年(1909)に東宮御所として建設されたものである。片山東熊が建築の総指揮をとった。昭和天皇や今上天皇が一時期住居とした以外、東宮御所として使われることはなく、戦後は国立国会図書館、内閣法制局、東京オリンピック委員会などに使用されてきた。しかし、外国の賓客を接遇するための施設の必要性が高まったため、五年余りの歳月と108億円もの経費をかけて改修工事が行われ、昭和四十九年(1974)、迎賓館赤坂離宮が完成した。平成二十一年(2009)、国宝に指定されている。


迎賓館
(主庭側から撮影)

 館内は、ひと言でいうと豪華絢爛。壁の装飾、什器類、シャンデリアなど手抜きの無い最高のものがそろえられ、国賓をもてなすに十分な施設である。一見の値打ちはある。館内の撮影は許されていないので写真は撮れなかった。


迎賓館の庭

 この場所にはかつて紀州徳川家の江戸中屋敷があった。迎賓館の周囲の庭は、その名残かもしれない。

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南足柄

2018年03月18日 | 神奈川県
(矢佐芝公民館)


二宮金次郎像

 二宮尊徳の出身地である小田原の栢山のほぼ西側を占めるのが南足柄市塚原である。数キロメートルも西へ行った山の中に矢佐芝公民館がある。ここが「二宮金次郎芝刈り路」の起点である。
 矢佐芝上は、栢山村の入会山で、薪や炭に適した小楢がたくさんあったことから、幼き日の二宮金次郎がここまで柴刈りに来たといわれる。公民館の前にお馴染みの薪を背負った金次郎像が建っているが、まさにこのとおりの姿でこの道を歩いたのであろう。

(二宮金次郎腰掛け石)


二宮金次郎腰掛け石

 矢佐芝公民館からその前の道を直進すると、右手に「二宮金次郎腰掛け石」に出会う。柴刈りにきた金次郎がこの石に腰を掛け休んだと言い伝えられている。「積小為大」という金次郎の言葉が石碑に刻まれている。


二宮金次郎像

 ここにも薪を背負った金次郎像が…。寒さのあまり手袋を着けていた。


三ツ又小楢

 腰掛け石の向い側に三ツ又小楢が生えている。芝に適した小楢の粗朶、小枝を求めて、金次郎は遥々この辺りまで歩いてきたのである。
 圏央道の開通で静岡や小田原は近くなった。南足柄から二時間足らずのドライブで自宅に戻ることができた。

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