本書に書いてあることは、基本的には「幕末の小笠原」(田中弘之著 中公新書)と大差はないが、より詳細である。 平成五年(1993)に刊行されているが、その直前までの島の歴史を記録している。第二次世界大戦というと、沖縄戦の悲劇が語られることが多いが、実は戦争は小笠原諸島にも悲惨な歴史をもたらしていた。
例の「小笠原島発見伝説」について、本書では小笠原貞頼の実在が確認できたとしている。貞頼は長時の子ではなく、長時の子長隆の子だという。とはいえ、小笠原貞頼なる人物が小笠原諸島を発見したという記述は「巽無人島記」でしか確認できず、結局のところ貞頼が本当に小笠原諸島を発見したかどうかは定かではなく、そこは謎のままである。
本書には菊地作次郎の日記が全文掲載されている。彼の残した日記によれば、小花作之助は小笠原の山を調査中、四~五メートルも落下し意識を失った。周囲はてっきり即死だと思ったらしいが、幸いにして意識を取り戻したという。菊地作次郎は、八丈島の地役人で、たまたま江戸に滞在しているところ、外国奉行水野忠徳の小笠原島回収に同行することになった人物である。幕府としては、その頃、人口飽和状態にあった八丈島から移民を選抜して小笠原諸島の開拓に当たらせようという意図があったようであるが、作次郎にしてみれば、とんだとばっちりであった。小笠原に連行された作次郎は、まるで幕府役人の使い走りのように扱われ、慣れない船(カヌー)を操って役人を陸地に送り届けたり、荷物を背負って山岳地帯の探索に連れまわされたりしている。都度、作次郎は日記の中で悲鳴を上げ、愚痴をこぼしている。終いには、日本語が分からない欧米系の島民にまで「小使い、茶番、作次郎」と役人の真似をされる始末であった。当人の心の叫びが聞こえて、ちょっと愉快な読み物となっている。作次郎は、その後一旦江戸まで連れ戻され、八丈島の家族との再会がかなったのは、実に一年八か月振りのことであった。
維新後、来島した人々を細々と紹介しているのも本書の特徴である(小花作之助の遺文書「小笠原島要録 第3編」から)。何年何月何日にどの船によって誰が来島したかという記録であり、名前の羅列に過ぎないが、そこに興味深い名前を見い出すことができる。「武田昌次」という人物である。この名前を見て、二年半ほど前に、佐倉の国立歴史民俗博物館で行われた講演会で、樋口雄彦氏が「幕臣塚本昌義は鳥羽伏見の敗戦の後、アメリカに亡命したが、帰国後武田昌次と名前を変えて内務省官僚として明治政府に仕えた」と解説されていたのを思い出した。本書の記録によれば、武田昌次が初めて小笠原島に勧農局小笠原出張所長として来島したのは明治十一年(1878)のことであった。このときは長男重吉を伴っただけであったが、翌明治十二年(1879)には妻ヨネ、息子重吉と要吉、娘きふを帯同して小笠原島に入っている。小笠原諸島の何が彼をここまで突き動かしたのであろう。興味が尽きない。
本書に掲載されている「小笠原物産誌略」(明治十六年 曲直瀬愛編纂)によれば、勧農局出張所長武田昌次がジャワやインドから珈琲を移植したとか、バナナで並木を作ることを発議したとか、イタリーから養蜂を持ち込んだといった記録が残っている。観農局の一員として、小笠原で事業化できそうな動植物を熱心に模索していた様子が伺える。
本書は辞書のように分厚い本であるが、内容も充実している。小笠原諸島の歴史を学ぼうと思えば、格好の書であろう。