史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

福岡 中央 Ⅳ

2020年06月06日 | 福岡県

外出自粛が続いているので、過去撮りためた写真から未公開のものをご紹介させていただきます。

(桜坂二丁目)

   中央区桜坂二丁目の閑静な住宅街の中に加藤司書の屋敷跡を示す石碑が建てられている。

 

加藤司書公屋敷跡

 

(浄慶寺)
 浄慶寺には、安田喜八郎の墓がある。

 

浄慶寺

 

 
贈正五位 安田勝従之墓

 安田喜八郎は、天保六年(1835)の生まれ。福島太右衛門直実の二男。諱は勝従。嘉永五年(1852)六月、安田作平勝声の養子となって安田姓を名乗った。まもなく致仕し、遠賀郡に退隠した。その頃、森安平、伊藤清兵衛らと交わって尊王運動に従事した。元治元年(1864)、伊丹真一郎とともに長州に赴き、征長軍解兵について長州藩主に謁してその優遇を受け、慶応元年(1865)正月、五卿が太宰府に移ると、藩論を拝して終始この保護に尽くした。しかし、同年六月、乙丑の変に座して一族に預けられ、九月、桝木屋の獄に繋がれ、ついで斬に処された。年三十一。獄中の詠歌「憂きことの木葉とつもる我宿は 照らす月さへしのひ顔なる」が残されている。

 

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添田

2016年07月18日 | 福岡県
(英彦山)


英彦山神社

 今回の五泊六日の福岡の史跡旅行、最後の訪問地が英彦山神社である。最終日は朝から御許山に昇って十分消耗していたが、最後の体力と気力を振り絞って英彦山の頂上まで往復した。といっても登り始めたのはちょうど参道の中間点辺りであったし、終点は山頂の上宮ではなくて英彦山神社までだったので、上っていたのはたかだか十分くらいのことで、大騒ぎするほどの道ではない。


広瀬淡窓詩碑

 ちょうど英彦山神社の手前に廣瀬淡窓の詩碑が建てられている。淡窓二十九歳の作である。淡窓は病気平癒祈願のため、文化七年(1810)九月、英彦山に登り、その時この詩を作った。

 彦山高き処 望み氤氳(いんうん)
 木末の楼台 晴れて始めて分かる
 日暮天壇 人去り尽くし
 香煙は散じて数峰の雲と作る


岡坊跡

 参道の途中にある岡坊(おかのぼう)跡である。幕末の英彦山では、有力な山伏たちは尊王攘夷派の長州藩を支援し行動したが、佐幕派の小倉藩ではその行動を抑えるために文久三年(1863)から明治維新まで藩兵を派遣して英彦山を制圧した。その非常事態下の山内で政祭を取り仕切った坊として記録されている。


招魂社


官祭招魂社

 幕末の英彦山座主教有の母は、関白一条忠良の息女で、三条公修(三条実美の祖父)の養女であった。さらに長州奇兵隊から英彦山への軍事教練や資金援助の申し出の噂があった。文久三年(1863)の八月十八日の政変で三条実美をはじめとする七卿が長州藩領に落ち延びると、その警備のため英彦山の山伏七人が長州に派遣された。
 このようなことがあって、同年十一月、英彦山座主教有は、小倉藩庁に呼び出され、教有の家族も小倉に連行、軟禁された。教有が英彦山への帰山が許されたのは元治元年(1864)十月のことであった。
 慶應二年(1866)には、長州藩に賛同する山伏十名が小倉に連行され、うち六名が小倉の牢で処刑された。英彦山では現在もこの事件や元治元年(1864)の禁門の変に従軍した山伏を、招魂社を設けて義僧として祀っている。

 五泊六日の旅はこれで終了。九州といえばラーメンしか思い浮かばなかった私は、毎晩豚骨ラーメンを食していたが、さすがに飽きてきて最終日の夕食は、空港でハンバーグ定食にした。純粋に美味かった。


招魂社


維新殉国志士の墓地
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うきは

2016年07月09日 | 福岡県
(高見)


篠原元輔信親墓 同人妻墓
(篠原泰之進両親墓)

 新選組の篠原泰之進は、文政十一年(1828)、石工篠原元助の長男として、浮羽郡高見村(現・うきは市)に生まれた。幼少より武芸に励み、剣術、槍術、柔術を修めた。初め久留米藩士小倉一之進に仕え、のち家老有馬右近の中間となった。安政四年(1857)、江戸勤番に随行し、そこで真木和泉の門弟酒井伝次郎と親しくなり、やがて尊王攘夷を志すことになった。万延元年(1860)、水戸へ赴き、翌年江戸に戻ったが、ほどなく神奈川奉行所に雇われ、横浜居留地の警備隊長に就いた。そこで役所に乱入したイギリス人を縛り上げ、海岸に放置するという事件をおこし遁走した。元治元年(1864)、伊東甲子太郎の誘いで上京して新選組に入隊。諸士調役兼監察、柔術師範となり重用された。しかし、入隊以来、佐幕攘夷というべき新選組の思想との矛盾を解消できず、慶応三年(1867)三月、伊東らとともに新選組を離脱、孝明天皇の御陵衛士を命じられた。同年十一月、伊東らは新選組に暗殺された(油小路の変)。この時、篠原は難を逃れ、伏見の薩摩藩邸に匿われ、鳥羽伏見でも薩摩郡の一員として戦った。これ以降、父の実家の姓「秦」を名乗るようになった。戊辰戦争では赤報隊に参加。隊員の暴行、掠奪の責任を負って投獄されたが、間もなく赦され、北越や会津で戦い、京都に凱旋を果たした。明治二年(1869)帰国して久留米藩に登用され、弾正台少巡察に任じられた。明治五年(1872)、大蔵省造幣寮勤務となるが、翌年官を辞して実業家となった。明治九年(1876)、京都に移住。明治二十五年(1892)、東京に転居し、晩年はキリスト教に入信した。明治四十四年(1911)六月、享年八十四にて死去。
 うきはの両親の墓は、維新後、泰之進が両親のために建てたものである。
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朝倉

2016年07月09日 | 福岡県
(清岩寺)


清岩寺

 清岩寺は、三奈木黒田氏の菩提寺である。ここに福岡藩で家老として辣腕を振るった黒田播磨の墓がある。


前筑前国大老黒田朝臣溥整大人墓


黒田一葦之碑

 黒田播磨は、文政元年(1818)、福岡藩家老の家に生まれた。諱は一整、溥整、一葦。父はやはり家老をつとめた黒田清定。天保十一年(1840)、家督を継いで家老上席に列し、弘化元年(1844)播磨と称した。幕末福岡藩の軍備増強、兵制改革に携わり、一方、矢野幸賢、大音青山、加藤司書らを推して藩政に参画させた。元治元年(1864)、第一次長州征伐に際しては、長州藩へ使を送り、藩主へ恭順を勧め、また征長軍総督徳川慶勝のいる広島へは加藤司書を派遣して征長軍解兵を説かせ、また五卿の大宰府への西渡にも尽力した。慶応元年(1865)、佐幕派の起こした福岡藩己丑の獄で他の尊王派藩士とともに捕えられて幽閉された。慶応四年(1868)二月、赦されて、再び藩政を主宰して改革の実を挙げ、明治二年(1869)二月、再び隠居して名を一葦と改めた。明治十八年(1885)、年六十八で没。

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秋月 Ⅱ

2016年07月09日 | 福岡県

(西念寺)
西念寺に行き着いた時には雨はいよいよ本降りとなっていた。ここに原古処、采蘋父子、吉田平陽の墓などがある。


西念寺
 

原古処先生墓


原采蘋墓

 原古処は、寛政十二年(1800)より秋月藩校稽古館の教授。文化九年(1812)、江戸において職を解かれ、翌年十一月に隠居した。以後、秋月において私塾古処山堂や甘木で詩塾天城詩社を開いて指導にあたった。その間、采蘋は自ら漢詩や漢学を学びながら父を助けた。また、古処に従って各地を旅し、文人墨客で交流を深めた。
 文政九年(1826)、病を得て、翌十年(1827)正月、死去。
 采蘋は寛政十年(1798)古処の娘に生まれる。古処没後、古処の詩集出版のため上京し、京都で頼山陽や梁川星巌、江戸で松崎慊堂らの支援や指導を受けた。采蘋は二十年にわたり江戸に滞在して詩作に励んだ。嘉永元年(1848)、母親の看病のため帰国。以後、母とともに屋永村(現・朝倉市)次いで山家(現・筑紫野市)に移り住み、私塾宜宜堂を開いた。安政六年(1859)六月、病のため死去。六十二歳。


吉田平陽墓

 吉田平陽は寛政二年(1790)生まれ。江戸在勤中、佐藤一斎の門で学んだ。帰国して勘定奉行、大阪蔵奉行に任じられ、藩校稽古館教授を兼ねた。文久三年(1863)二月、七十四歳で死去。
 墓石の赤い字は存命中を意味していると聞いたことがあるが、西念寺には吉田平陽の墓をはじめ赤い字で彫られている墓がある。どういう意味があるのだろうか。

(ろまんの道)


ろまんの道

 現在、「ろまんの道」というカフェのような店舗となっているが、この周辺が原古処の塾跡に当たる。「ろまんの道」の中に原采蘋像が建てられている。


原先生古処山堂跡


原采蘋像

(秋月小学校跡)


秋月小学校跡

 秋月のちょうど真ん中に市営駐車場があり、そこに車を停めて、歩いて街を散策するのが便利であろう。
 この駐車場は、元秋月小学校の敷地である。秋月小学校は明治六年(1873)に設立され、昭和四十五年(1970)までほぼ百年間この地にあった。

(秋月郷土館)
 この日は久留米を早朝五時過ぎに出発し、秋月に入ったのは六時のことであった。従って、郷土館の中には入れなかったが、この場所は戸波半九郎屋敷跡である。戸波半九郎は秋月党の幹部の一人で、郷土館には秋月党幹部の直筆辞世が展示されているそうだが、残念ながら拝観することはできなかった。


秋月郷土館


稽古館跡

 秋月郷土館の向いが安永四年(1775)に開設された藩校稽古館である。学問(四書五経、大学、孟子等)のほか、武芸(弓、槍、剣、柔、砲術等)の指導が行われた。

(秋月城址)


秋月城長屋門

 秋月藩主黒田家の居城秋月城である。石垣のほか、この長屋門が唯一の現地に残る遺構となっている。かつては秋月城の裏手門として使用されていたものである。


杉の馬場

 秋月城前の登城道は、往時には杉の並木が両側に生い茂り、その中で武士たちが馬術の腕を競った。江戸中期に杉は伐採され、明治に入って日露戦勝記念に桜が植えられた。恐らく桜のシーズンは見事な花のトンネルを見ることができるだろう。毎年四月には春祭りが開かれるそうである。

(臼井六郎生誕地)


臼井六郎生誕地

 この場所が臼井六郎の生誕地であり、彼の両親(父・亘理、母・清子)が干城隊によって斬殺されたところでもある。

(中島衝平屋敷跡)
 中島衝平は陽明学者で、臼井亘理の師でもあった。慶応四年(1868)五月二十四日、臼井亘理が斬殺された夜、同じく干城隊の手により惨殺された。


中島衝平屋敷跡

(緒方春朔屋敷跡)


緒方春朔屋敷跡

 緒方春朔は、久留米に生まれ、八代秋月藩主黒田長舒に藩医として召し抱えられ、寛政二年(1790)、人痘種痘法により我が国で初めて成功した。

(貝原東軒)


貝原東軒夫人誕生地

 貝原益軒(1630~1714)夫人、東軒は秋月中小路の武家屋敷で生まれ、名を江崎初、号を東軒と称し、十六歳のとき、益軒と結婚した。益軒の多くの著書も、夫人が代筆したといわれている。

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秋月 Ⅰ

2016年07月09日 | 福岡県
(長生寺)
秋月を訪ねたのは、ほぼ二十年振りである。二十年という時間は、街の風景も一変するに十分な時間であるが、秋月の街はほぼ記憶の中の風景と変わらなかった。前回は時間の制約もあり史跡を回りきれなかったが、今回は多少時間的余裕があるので、計画した史跡は全て訪ねることができた。朝から雨であったが、予報では暴風雨に変わるということだった。まだ秋月を歩いている時間は暴風雨というほどではなかった。雨に濡れる小京都も風情があった。機会があれば、もう一度訪ねて見たいと思わせる街である。

長生寺には首謀者である今村百八郎兄弟の墓がある。前回訪問時には訪ね当てられなかった三兄弟の墓を訪問する。


長生寺

 秋月における反乱は、明治九年(1876)十月二十四日、旧熊本藩士太田黒伴雄を首謀者とする約百七十名の敬神党(神風連)の蹶起に呼応して、旧秋月藩の士族が挙兵した事件のことをいう。
 敬神党の挙兵から三日後の十月二十七日、今村百八郎を隊長とする秋月党が挙兵。明元寺にて警察官を殺害した。これは我が国初の警察官の殉職事件といわれる。
 秋月党の中心人物は、今村のほか、宮崎車之助、磯淳、土岐清、益田静方らで、総勢約四百の秋月士族が蹶起した。
 彼らは萩の前原一誠とも通じ、また豊津藩の杉生十郎もこれに呼応する約束であったが、杉生らは監禁されていて実行できなかった。宮崎車之助らが豊津藩と談判している最中、乃木希典率いる小倉鎮台が秋月に入り、攻撃を開始した。政府軍の攻撃によって秋月側は死者十七名を出し、江川村栗河内へ退却し解散した。磯淳、宮崎車之助、土岐清、戸原安浦、戸波半九郎、宮崎哲之助、磯平八ら七名は自刃して果てた。宮崎車之助の介錯は実弟哲之助が行った。辞世

 散ればこそ別れもよけれ三芳野の
 散らずば花の名義なからめ

 宮崎哲之助の辞世

 明らけき月をかくせしむら雲を
 払ひもはてず死ぬる悲しさ

 今村百八郎は、同志二十六名とともに秋月に戻り、秋月党討伐本部を襲撃し、県高官二名を殺害した。その後、反乱に参加した士族を拘留している酒屋倉庫を焼き払って逃走したものの、十一月二十四日、逮捕され、十二月三日、福岡臨時裁判所の判決が言い渡され、即日斬首された。今村百八郎の辞世

 天地に霊と屍は返すなり
 今ぞ別れを告ぐる世の人


宮崎三兄弟の墓

 三兄弟の墓は、長生寺山門の左手、昼間でも光の当たらない藪の中にある。

秋月は本当に鄙びた街で、どうしてこんな僻地で乱などという大それたことを企んだのか、全く不可思議である。明治維新も薩摩・長州・土佐という辺境から起こった。辺境エネルギーというべきものが、ここ秋月にも発生したのかも知れない。
秋月の乱は、福岡の連隊を率いる乃木少佐の手によって誠に呆気なく鎮静されてしまう。秋月の若者たちは明治維新に乗り遅れた反省から、先駆けて乱を起こしたが、結局薩摩が起たないためにほとんど反抗もできないまま抑えられてしまったのである。


緒方家之墓(緒方春朔墓)

 長生寺には緒方春朔の墓がある。
 緒方春朔は、寛延元年(1748)の生まれ。長崎で医学を修め、種痘の研究をして秋月に戻った。この頃、秋月で天然痘が流行し、春朔は寛政二年(1790)、人痘による種痘に成功した(ジェンナーによる牛痘種痘の成功の六年前のことである)。国はこの業績を認め、大正五年(1916)、正五位を追贈した。文化七年(1810)、六十三歳にて没。

(田中天満宮)


田中天満宮


淡島神社

 秋月の乱では、宮崎車之助、今村百八郎らが西福寺で挙兵したが、そこに入りきれなかった一団は田中天満宮に集結した。境内には樹齢四百年というイヌマキの大樹がある。百四十年前の反乱を見下ろしていたであろう。

(古心寺)
 古心寺は秋月黒田家の菩提寺で、境内に墓所がある。また、「我が国最後の仇討事件」で知られる臼井六郎の墓がある。


古心寺


臼井亘理(簡堂)清子の墓
臼井六郎墓

 臼井亘理(六郎の父)は、鳥羽伏見の戦いのため上京していたが、慶應四年(1868)五月に帰藩。その夜、何者かが家に押し入り、亘理とその妻を殺害した。のちに藩内尊攘派の干城隊の一瀬直久の仕業であったことが知れ、六郎は敵討ちを決意し、一瀬を追うために上京した。六郎が仇討を決行したのは、明治十三年(1880)。父の形見の短刀で一瀬を討ち果たした六郎は、その足で警察に自首してでた。既に仇討禁止令が出された後のことであり、厳密に法律を適用すれば、死罪が適当であったが、世論は六郎に同情的であり、裁判では終身禁固が言い渡された。
 のち大赦により出獄し、故郷に帰った。大正六年(1917)六十歳にて死去。古心寺の両親の墓の傍らに葬られた。


黒田家墓所

 十一代藩主長義は文久二年(1862)、わずか十六歳にて死去。嗣子がなかったため、その死は当面秘匿され、跡を弟の長徳が継いだ。


黒田長義公墓


黒田長元公墓

 黒田長元は、第十代秋月藩主。父は土佐藩の山内豊策。万延元年(1860)家督を六男長義に譲って隠居した。慶応三年(1867)、五十七歳にて死去。


黒田長徳公墓

 第十二代藩主長徳は、最後の秋月藩主となった。秋月藩は福岡藩の支藩で、佐幕色が強かったが、大政奉還後は官軍についた。これを不服とする反対派との対立に加え、上層部の勢力争いがからみ藩内は混乱した。明治二年(1869)、版籍奉還により藩知事。明治四年(1871)廃藩置県により東京に移住した。明治二十五年(1892)、四十五歳にて死去。

(戸原継明(夘橘)誕生地)


戸原継明(夘橘)誕生地

 戸原継明は、天保六年(1835)、秋月に生まれた。父は藩医戸原一伸。夘橘(うきつ)と称した。二十歳のとき熊本の儒者木下業廣(韡村)の門に入り、江戸に出て塩谷世弘(宕陰)に学んだ。同藩士海賀宮門と交際して尊王論を唱え、文久二年(1862)、島津久光の上京時には、これを海賀と平野國臣に報じ、東西呼応しようとしたが、嫌疑を受けて国許で幽閉された。文久三年(1863)六月、赦されて、同年八月脱藩して長州へ赴いて七卿に謁した。そのとき中山忠光の大和挙兵を聞き、これに応じるために平野とともに七卿の一人澤宣嘉を擁して但馬に赴き、生野代官所を襲撃して兵を挙げたが、幕府の反撃により岩須賀山妙見堂にて自刃した。このとき戸原夘橘は二十九歳という若さであった。行動を共にしていたのは長州藩士南八郎こと河上彌市、長野清助、下野猛彦、小田村信一、伊藤三郎、白石廉作、井関英太郎、久富惣介、和田小傳次、西村清太郎。彼らは奇兵隊士で、白石正一郎の弟廉作三十六歳を除くと、いずれも十代から二十代の若年で、戸原を慕っていたという。彼らの介錯を済ませると
「武士の最期を見よ」
と大喝するや、刀を咥えて巌上より飛び降り咽喉を貫いて壮烈な最期を遂げた。墓所は京都霊山。

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みやま

2016年07月02日 | 福岡県
(廣田神社)


廣田神社


広田彦麿顕彰碑

 広田彦麿は文政十一年(1828)、広田八幡宮祀官広田甲斐守速見の子に生まれた。幼少より和歌、武術に長じ、嘉永年間上京、ついで安政四年(1857)再び京都に出て諸藩の有志と交わり、有栖川宮熾仁親王に親近した。文久三年(1863)には奄美大島に流罪となっていた西郷隆盛の救出を計画し、天草から大島へ向かったが、波荒く途中で引き返した。慶応四年(1868)正月、京都に赴き、有栖川宮の命により駿府へ向い、同地で東征大総督たる宮の東北平定祈願のため伊勢・熱田神宮代拝の副使を命じられ、ついで江戸では諸藩志士により編成された蒼竜隊の隊長となり、江戸市中の警衛に当たった。明治二十九年(1896)、年六十九にて没。

(立花壱岐旧居跡)
 瀬高町本郷に立花壱岐旧居跡の碑がある。
 この場所で立花壱岐は、悠々自適の晩年を過ごした。


立花壱岐旧居跡

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柳川

2016年07月02日 | 福岡県


水郷 柳川

 柳川は縦横に走る掘割と筑後川や矢部川などの河川、有明海に守られた水の要塞であった。掘割を舟で巡る川下りは有名である。ゆったりとした時間が流れる。
 柳川藩御用達の商家に生まれた詩人北原白秋は、生涯この町を愛し、柳川の風情を詩によんだ。

――― 柳河の古きながれのかきつばた

思わず白秋の詩の一節を口にしたくなる、詩情にあふれた城下町である。

(柳川城址)


柳川城跡

 柳川藩は、立花氏十万九千六百石の城下である。元和六年(1620)、筑後を領した田中吉政が没すると、奥州棚倉から立花氏が封じられ、その後、十二代二百五十年にわたり、この土地を治めた。幕末の藩主は立花鑑寛(あきとも)。王政復古の報に接して議論噴出したが、最終的に朝廷に協力することに決し、約三百の兵を奥羽北越に送った。
 柳川城は、十丈七尺(約三十五メートル)の天守閣を有し、天守閣の棟には鯱があり、その目は金色に輝いていたといわれる。しかし、明治五年(1872)に焼失し(士族の反乱を抑えるために、立花壱岐が仕組んだ放火といわれる)、現在は柳城中学校の校庭の隅に小丘と石垣の一部を残すのみとなっている。

(西方寺)
 西方寺には、高椋新太郎や十時摂津の墓がある。


西方寺


高椋新太郎墓

高椋新太郎は、文化十四年(1817)、商家に生まれた。天保八年(1837)、二十一歳のとき、借金三十両を元手に八百屋町に魚問屋を開き、商才を発揮して財を成した。嘉永元年(1848)以降、藩御用商人となった。安政六年(1859)九月、藩全権に就任した立花壱岐は、新太郎を直接面接して御用商人筆頭に任命した。新太郎は、天草、長崎、日田、大阪などを奔走し、十時兵馬や池辺藤左衛門とともに、大阪の鴻池や加島屋などから三万両の借り受けに成功した。また藩札を発行して、産物会所で集めた産物を長崎で売りさばいて大きな利益をもたらした。王政復古の後、立花壱岐が全権に復帰すると、長崎で蒸気船千別丸を購入し、グラバーとも親しく交わった。壱岐が求める西洋式兵制の整備のために尽力した。維新後も醤油「羽衣」を販売するなど、手広く商売を続け、明治十二年(1879)、柳川の第九十六国立銀行の設立に寄与し、初代頭取に就いた。明治十四年(1881)、六十五歳にて死去。


故正五位十時雪斎之墓(十時摂津の墓)

 十時(ととき)摂津は、文政九年(1826)、家老十時三弥助の五人兄弟の長男として生まれた。三男は立花権佐家の養子となった立花壱岐である。摂津は弟の壱岐とともに、横井小楠の「肥後学」を学び、熊本藩家老長岡監物とも親交があった。嘉永元年(1848)には、弟壱岐とともに藩校伝習館の上聞(学校奉行)に就任している。嘉永六年(1853)の黒船来航時には、壱岐組とともに摂津組を率いて江戸湾を警備し、病弱の壱岐を助けて上総富津の警衛にあたった。安政三年(1856)には泉州堺の警衛に当たり、この時薩摩、長州、土佐などの藩士と交わった。安政六年(1859)から壱岐が藩政改革に着手すると、全面的に協力した。元治元年(1864)の長州征討に際して小倉に赴き、密かに西郷隆盛と面談し、三家老の首と引き換えに和議に持ち込む調停案をまとめ、西郷とともに幕府を説得した。慶応二年(1866)、大坂で勝海舟と会見し、京都では土佐の後藤象二郎、薩摩の大久保利通、小松帯刀らと天下の形勢を論じた。慶応三年(1867)柳川に戻り、軍制の改革と藩主の上洛を求めたが叶わず、十月には再度上楽して朝廷と幕府間の宥和に努めた。十二月に王政復古が発せられると、西郷隆盛とともに新政府の参与に任じられた。慶応四年(1868)四月、藩主鏡寛と変隊が「天機伺候」のために上洛し、江戸行きを命じられると、摂津は軍監として同行した。しかし、体調不良のため同年十一月退任して帰国。明治二十六年(1893)、六十八歳で死去。

(良清寺)


良清寺


池邉節松先生之墓(池辺藤左衛門墓)

 池辺藤左衛門は、文政二年(1819)、山門郡東山村小田(現・みやま市瀬高町)で生まれた。幼少の頃より学を志し、吉田舎人家に寄宿して藩校伝習館に学んだ。その後、肥後の横井小楠に学び、嘉永元年(1848)には伝習館の寮頭に任じられ、学校改革を唱えた。安政元年(1854)には立花壱岐の根回しにより、侍読として江戸に上り、水戸の藤田東湖と戸田忠太夫に接触した。安政六年(1859)、立花壱岐が藩全権に着くと、藤左衛門は物成約、大阪留守居、その後は中老として実務面で手腕を発揮した。文久二年(1862)、壱岐が病気再発のため職を辞すると、藤左衛門も追放され、慶應元年(1865)までの二年間、牢獄に繋がれた。出所後は「不始末」をもじって「節松」と号した(墓石に刻まれている)。王政復古後、壱岐が復帰すると、藤左衛門も用人格の辞令を受け、情報収集のため長州と京都に派遣された。京都滞在中の慶応四年(1868)三月、壱岐の推挙を受けて新政府の会計官判事に任じられた。新政府においては参与の由利公正とともに金融財政政策を担当した。会計基立金の創設や太政官札の発行など積極的な金融政策を推進したが、太政官札の流通難などに対する批判が高まり、明治二年(1869)由利公正とともに辞職した。柳川に帰った藤左衛門は、明治八年(1875)、東京での再仕官を願ったが、妨害を受けて、その後は八女郡山崎村(現・八女市立花町)に隠遁して小学校の児童を教えた。以降、中学校の校長や伝習館館長などを歴任して、教育の振興に努めた。明治二十七年(1894)、七十六歳にて死去。

(福巌寺)


福巌寺


立花壱岐の墓?

 碑面が磨滅しており、これが立花壱岐の墓がどうか、自信が持てない。
 立花壱岐は天保二年(1831)の生まれ。父は柳川藩士十時惟治。天保九年(1838)、同藩家老立花親理の養子となり、天保十二年(1841)、養父の跡を継いで大組頭となる。陽明学を修め、池辺節松、横井小楠に学んだ。幕末期柳川藩藩政改革に従事し、殖産興業、軍制、職制改革等を行った。安政元年(1854)、藩主が安房、上総警備を命じられると、藩兵を率いて海防に携わり、安政四年(1857)、再度の出府に際して、橋本左内、藤森恭助(弘庵)、羽倉用九(簡堂)、安島帯刀らと交わった。文久三年(1863)、病気により隠退したが、明治維新に当たり再び出て兵制改革を行い、新軍隊を組織して奥羽征伐に功を立てた。明治二年(1869)、岩倉具視の切望により、病を冒して東上し、旧制を打破し、上下階級を廃し、四民平等の要を説いたが、岩倉がこれを容れることができず、帰国し以後意を世事から断ち、自適の生活を送った。明治十四年(1881)、年五十一で没。


十時兵馬墓

 十時兵馬は、文政十一年(1828)、十時惟起(これおき)の長男として生まれ、若い頃から藩主鏡寛の近習として出仕した。安政五年(1858)、用人に昇格し、安政六年(1859)には中老に抜擢された。立花壱岐とは、横井小楠の肥後学派の同志として長い親交があった。兵馬は高椋新太郎らと大阪に出張し、鴻池や加島屋などから一万両の融資を獲得した。また佐賀藩領の大詫間と柳川領の大野島の水利権調整のために佐賀藩と折衝するなど、外交的事務を的確にこなして壱岐を助けた。文久二年(1862)、壱岐が退任すると、兵馬も連座して罷免されたが、藩主鏡寛の強い意向により中老に復帰。密かに壱岐や十時摂津と連携した。慶応二年(1866)の第二次長州征伐に際しても、幕府軍監平山謙次郎と対面し、長州征伐の中止を求めて激論を交わした。他藩にも働きかけ征討反対の声を高め、熊本藩と連携して自主的に兵を引き揚げた。慶応三年(1867)十二月、京都に上り、情報収集に当たった。岩倉具視とも接触して様々な情報を立花壱岐に書き送り、王政復古後も京都に滞在して動静を探り続けた。明治二年(1869)、新政府から徴士に任じられたが、藩主鏡寛と壱岐から懇願されて辞退した。柳川に帰国後、小参事試補に任じられ、次いで権大参事補、権大参事に昇格した。しかし、開明的な彼の言動は、保守派・攘夷派双方から誹謗中傷を受け、キリスト教を擁護した発言への攻撃も高まり、明治四年(1871)、退官に追い込まれた。その後、大阪に転居し、明治十七年(1884)、五十七歳にて死去。

(真勝寺)


真勝寺

 真勝寺に海老名弾正の遺髪墓があるというので、墓地を探してみたが発見できず。門前に海老名家の墓と弾正の弟海老名一郎の墓は確認することができた。
 それにしても真勝寺の墓地は雑草が伸び放題で歩くのにも難渋した。ここまで手入れがされていない墓地も珍しい。


海老名家之墓

海老名弾正は、安政三年(1856)、柳川藩士海老名平馬助の長男に生まれた。明治四年(1871)、熊本洋学校が設立されると、藩校伝習館から転校し、アメリカ人教師ジェーンズから英語、数学、地理、歴史、物理、化学などを学んだ。のちにキリスト教に帰依し、明治九年(1876)には徳富蘇峰、金森通倫、横井時雄、浮田和民らとキリスト教結社を組織した。これによりジェーンズは解雇され、熊本洋学校は閉鎖に追い込まれた。弾正らはその年の秋から京都の同志社英学校で学んだ。その後、新島襄の故郷上州安中で伝道活動を行い、同志社の第一期生として卒業すると、安中で牧師となった。明治十九年(1886)には東京で本郷教会を設立。熊本で熊本英学校と熊本女学校の創設に尽力した。明治二十三年(1890)、日本基督教伝道会社社長。大正九年(1920)には第八代同志社総長となり、三期九年を務めた。昭和十二年(1937)、八十二歳で死去。東京多磨霊園にも墓がある。

(宝満宮)
 三橋町五拾町の宝満宮の境内に綿貫吉直の墓がある。


宝満宮


綿貫吉直墓


綿貫吉直君墓表

 綿貫吉直は天保二年(1831)、山門郡三橋町五拾町に生まれた。綿貫家はもと従士であったが、長州征伐のとき幕府目付安藤治左衛門付となり、ついで組付侍に抜擢された。慶応四年(1868)、戊辰戦争に際し、柳川藩英隊の大砲隊に編入され、奥州磐城平城攻略に偉功を立て、翌明治二年(1869)、海軍参謀附属を命じられ、箱館戦争に参加した。同年東京府巡査奉職中、米沢藩士雲井龍雄の党類逮捕の功により賞を受けた。明治三年(1870)三月、東京府権大属に任じ、七月大属に進み、明治五年(1872)、少警視に転じ、以後累進して警視副総監まで昇った。明治二十二年(1889)、年五十九にて没。

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久留米 Ⅳ

2016年07月01日 | 福岡県
(高山彦九郎終焉の地)
 遍照院から五分ほど北に歩くと、東櫛原町の一角に高山彦九郎終焉の地、即ち儒者森嘉善宅跡がある。


高山彦九郎先生終焉之地

 土饅頭があるので墓っぽいが、墓ではない。土饅頭の前にサイコロ状の石がある。これは自刃前に彦九郎が書類を焼いた手水鉢の台石である。また、両側に二柱の石碑があって、それぞれ高山彦九郎の辞世が刻まれている。
 彦九郎が何故久留米で自刃したのか、今なお不明な点が多いが、寛政元年(1789)に起きた尊号一件(光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうとして、当時の老中松平定信に反対された事件)に対する落胆があったとか、痰気(咽喉のつかえ)による心身衰弱であったとも言われている。

(田中久重生家跡)


田中久重生誕地

 通町の西鉄の高架下に田中久重生誕地がある。田中久重がこの地で生まれたのは、寛政十一年(1799)。幼少の頃から機械を作ることが好きで、発明した者は数知れず。中でも萬年自鳴鐘(機械式置時計)は現代人の目から見ても驚くべきものである。田中久重は肥後藩、久留米藩に登用され、その才能と技量を発揮した。維新後、上京して工場を開き、電信灯台用品の製造を始め、のちの東芝の礎を築いた。明治十四年(1881)、八十三歳で没。

(五穀神社)


五穀神社

 五穀神社は、寛延二年(1749)時の藩主有馬頼僮(よりゆき)によって創建されたもので、藩営に近いものであった。文化三年(1806)に総郡中からの寄進で設営された石橋は市の有形文化財に指定されている。周囲は広大な公園として整備されており、久留米出身の著名人の銅像や顕彰碑が建てられている。その中に井上伝像と並んで田中久重像もある。田中久重は、井上伝と同じ通外(とおりほか)町出身で、近所のよしみで機織りや図案に対して意匠と工夫を凝らし、井上伝を助けたと伝えられる。五穀神社では久重が発明したからくり人形が演じられていたという。


田中久重像

(久留米製銕所跡)


久留米製銕所址

 五穀神社から歩いて数分の南薫町の住宅街の中に久留米製鉄所跡碑が建てられている。
 田中久重の工場は当初御井町にあったが、慶應三年(1867)、久重の生家に近い通町に移された。敷地は三千坪に及ぶ広大なものだったという。ここで久重は、西洋式の小銃を製造した。
 さらに通町の工場が手狭になったため、明治二年(1869)、南薫町へ移転した。当時は建物が東西に並び、長崎で購入した旋盤を三台据え付け、機械の動力として蒸気機関が利用された。従業員の数は百名余。明治四年(1871)の廃藩置県を迎え、事業も停止したが、久重は上京する明治六年(1873)まで工場の機械を借用して各種機械の試作製造を行った。

(正源寺南丘上隈山墓地)


故大参事水野正名墓

 市街地から少し離れた野中町の正源寺墓地に水野正名や吉田博文、有馬蔵人らの墓がある。
 水野正名は、久留米藩の重臣水野家の長男として文政六年(1823)に生まれた。真木和泉と親しく行動し、三十歳のとき謹慎処分を受けている。文久三年(1863)、謹慎を解かれ上京。八一八の政変に遭い、七卿の護衛をして長州へ下った。翌元治元年(1864)、五卿とともに大宰府に下り、その警護を務めた。慶応三年(1867)十二月、王政復古が宣言されると、五卿に従って上京した。慶応四年(1868)正月、参政不破美作が暗殺されると、京都にいた正名が参政に登用され、藩主有馬頼咸に従って久留米に帰国した。公武合体派を退け、家老有馬河内監物に永蟄居、今井栄ら十名に切腹を申し付けた。藩政改革を進めるとともに、士民からなる応変隊を組織して養弟正剛を隊長として箱館に派兵した。明治二年(1869)には大参事に任命された。しかし、明治四年(1871)、大楽源太郎の事件に連坐して、大参事を罷免され、終身禁獄の処分が下り、明治五年(1872)青森県弘前で獄死した。

 有馬蔵人は、久留米藩重臣で家老脇。慶応四年(1868)の戊辰戦争では関東および奥州に出征した筑後隊の総督を務めた。


有馬源祐祥(蔵人)墓


有馬大助墓

 有馬大助は有馬蔵人の嫡男。参政不破美作暗殺の謀議に荷担したといわれる。


吉田博文之墓

 吉田博文は、水野正名の実弟。兄正名を助けて民兵を組織した。明治二年(1869)、久留米藩小参事。明治三年(1870)には軍務総裁兼学校総督。明治四年(1871)の藩難事件に際して終身禁獄処分を受けた。


渡辺五郎之墓

 渡辺五郎は、大正十五年(1926)筑後遺籍刊行会を起し、「筑後地誌叢書」や矢野一貞の「筑後将士軍談」などを刊行し、郷土先賢の顕彰に努力した。

 同墓地には、ほかに有馬一知(幕末維新期の家老)や岸致知(一知の嫡男。幕末、京都で朝廷工作)の墓もある。

(市民文化センター)


田中久重鋳砲所址

 信愛女子学院の向い側、市民文化センターの前に田中久重鋳砲所址碑が建てられている。
 田中久重は嘉永年間、佐賀藩に招かれ蒸気船や鉄砲などの製作を行ったが、元治元年(1864)久留米に帰り、この石碑が立つ裏山辺りに藩立の鋳造所を設けた。ここでアームストロング砲を鋳造し、ここから約三千メートル先の飛岳に向けて大砲の試射が行われた。

(山川招魂社)


山川招魂社

 山川招魂社は、明治二年(1869)、久留米藩主有馬頼咸によって、高山彦九郎はじめ維新の大業に身を投じた志士三十八の霊を祀るための招魂社が設けられた。神社の裏には、真木和泉、稲次因幡正訓の墓をはじめ、佐賀の乱、西南戦争に殉じた人々の墓石が立ち並んでいる。


高山仲縄(彦九郎)祠堂之碑

 高山彦九郎祠堂之碑は、廃藩置県後、三潴県大参事水原久雄が高山彦九郎の祠堂建設を提唱し、それを受けて明治六年(1873)八月に御楯神社が創建されたことを記念したものである。


幕末殉難者墓
半田門吉ら

 幕末殉難者の墓である。左手の半田門吉は久留米藩士で、天誅組挙兵に参加した人物。鷲家口で負傷したが、その後大阪に潜行し、長州に逃れた。元治元年(1864)の長州藩兵の状況に従い、禁門の変に戦って鷹司邸前で戦死した。
 その右は江頭種八の墓。やはり天誅組に参加して捕えられ、元治元年(1864)京都六角の獄舎で処刑された。年二十五。
 その右にあるのは荒巻羊三郎の墓である。荒巻羊三郎は、文久二年(1862)の寺田屋事件に関与し、藩地に送還されて謹慎を命じられた。やはり天誅組の挙兵に参加して敗れて捕えられ、京都六角獄舎で処刑された。年二十四。
 一番右は中垣健太郎のもの。やはり寺田屋事件に関係し、継いで天誅組挙兵に参加。捕えられて元治元年(1864)、京都六角獄舎で処刑された。年二十四。


幕末殉難者墓
酒井傅次郎(左)原通太

 同じく幕末殉難者酒井傅次郎と原通太の墓である。酒井傅次郎は、寺田屋事件に関与して久留米に藩地に護送され、文久三年(1863)の天誅組挙兵に参加。敗れて追討兵に捕えられ、翌年京都六角獄舎で処刑された。酒井は二十七歳。
 原通太も寺田屋事件に参加。禁門の変で散弾に当たり清水源吾に介錯を命じて屠腹して果てた。年二十七。


故和泉守真木保臣墓


佐々金平真武墓

 佐々(さつさ)金平は、弘化二年(1845)、久留米藩士の家に生まれた。諱は真武。武術に長じ、かねて国文、和歌を能くした。慶応三年(1867)、召されて馬廻組となった。このころ佐幕派の参政不破美作が尊攘派藩士を藩政から斥けると、金平はその専権を憎み、翌慶応四年(1868)正月、同志と美作を殺害した。国老に自訴したが、罪を免れた。慶応四年(1868)七月、応変隊参謀に挙げられ、十月東上して奥羽征討軍に加わり、翌明治二年(1869)四月、箱館戦争に参加。松前福山の榎本軍の塁を破ったが、立石野の激戦で戦死した。墓石の側面に「奥州於松前戦死」と刻まれている。年二十五。


稲次因幡正訓墓

 稲次因幡正訓は、水野正名、吉田博文の実弟。嘉永五年(1852)、藩主頼咸に対し、藩政指導部に藩主廃立の陰謀があると申し立て、これを受けて藩主は有馬昌長らに閉門処分を下したが、陰謀の証拠が発見されず、稲次による讒言の疑いが強まった。これを機に尊攘派は失脚。真木和泉は蟄居処分、稲次は改易ののちに自刃した。


戊辰戦争殉難者墓


西南戦争殉難者墓


佐賀の乱殉難者墓

 佐賀の乱の殉難者の墓である。表面に「佐賀賊徒追討戦死之墓」とある。

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久留米 Ⅲ

2016年07月01日 | 福岡県
(西方寺)
 西方寺には今井栄の墓がある。
 今井栄は久留米藩士江戸詰御用席の今井七郎右衛門の子として江戸で生まれた。和漢の学に励み、英語を古屋佐久左衛門に学んだ。幼少より小姓として有馬頼永(よりとお)に近侍した。頼永が十代藩主に就くとその改革を補佐し、天保学連の指導的立場を担った。しかし、頼永が病気となると、穏健派である今井は、急進派の真木和泉らと対立する。頼永没後、十一代頼咸にも重用され、江戸留守居役、御納戸役に進み、江戸滞在中には勝海舟ら幕臣や諸藩の人々と広く交際した。文久三年(1863)、久留米に帰国すると、家老有馬河内(監物)や参政不破美作を説いて、藩論を攘夷から開国に転換させ、富国強兵のために開成方、開物方、成産方の三局を設置した。また、田中久重を久留米藩で東洋するため推挙した。慶応二年(1866)には洋船購入の藩命を受け、長崎に向かったが、交渉が難航したため、久重とともに密航して上海に渡り、そこで汽船を購入した。慶応四年(1868)、不破美作が暗殺されると、水野正名を首班とする尊攘派政権が成立する。今井栄は公武合体派として追放され、明治二年(1869)一月二十五日、松崎誠蔵らとともに切腹して果てた。のちに殉難十志士と呼ばれる。享年四十八。栄の死を聞いた薩摩藩の黒田清隆は「惜しい人物を殺した」と嘆いたという。


西方寺


今井義敬(栄)墓

(妙正寺)


妙正寺


久徳與十郎重之墓

 久徳(きゅうとく)与十郎は、殉難十士の一人。久徳第三郎の二男に生まれ、元治元年(1864)には公武周旋役として上京。同年七月、隊長として長州兵と戦い、功があった。慶応四年(1868)四月、水野正名を首班とする政権の樹立により入獄し、翌明治二年(1869)一月二十五日、徳雲寺にて切腹。五十歳。

(徳雲寺)


徳雲寺

徳雲寺は、殉難十士のうち、吉村を除く九名(石野・梯・喜多村・久徳・本庄・松岡・松崎・今井)が切腹した寺院である。境内に殉難十志士終焉地碑が建立されている。


殉難十志士終焉地碑


井上傳子之墓

 井上伝は、天明八年(1778)、現在の久留米市通外町の米穀商「橋口屋」こと平山源蔵の娘として生まれ、幼少の頃から布を織ることに優れ、十三歳の頃、平常着の斑紋(まだらもん)となっていることから、絣の図柄を考え得たものである。その後、二十一歳の時、市内原古賀町の井上次八に嫁ぎ、二男一女をもうけたが、二十八歳の時夫を失い、三人の子供をかかえながらこの道に励み、四十歳の頃には四百人の弟子がいて、郷土の機業の振興に務めた。明治二年(1869)四月、八十二歳で世を去った。久留米絣は国の重要無形文化財に指定されている。


久留米絣始祖 井上伝女

(遍照院)


遍照院

 遍照院には高山彦九郎の墓など見どころが多い。寺町の中心にあり、やや広い駐車場もあるので、久留米市内の史跡巡りはここから始めるのが良いだろう。


高山彦九郎墓

 まず高山彦九郎の墓である。高山彦九郎は、寛政元年(1789)、江戸赤羽の久留米藩邸で樺島石梁と面会し、そこで同藩士数名とともに酒を酌み交わしたことがあった。そういう縁もあって、九州地方を訪れた彦九郎は、約一年半の間に、熊本から鹿児島、宮崎、大分など各地を歴訪し、その最後に久留米に至った。久留米では儒医森嘉善宅に逗留した。森嘉善の証言によれば「少し目を離した隙にすでに切腹していた」という。当初、久留米藩は埋葬を許さなかったため、嘉善は自宅の庭に仮葬をしたが、その後、官許を得て編照院に改葬した。


平野国臣寄進の灯篭

 高山彦九郎の墓前には、平野國臣が寄進した石燈籠がある。


耿介四士之(大楽源太郎主従)墓

 耿介(こうかい)四士之墓は、久留米で暗殺された大楽源太郎主従を葬った墓である。
 明治三年(1870)、久留米藩では封建・攘夷論が藩政の基調となっており、新政府に非協力的な態度をとっていた。この情勢の中で、山口藩兵解隊反対の騒動が起こり、それが鎮圧されると騒乱の指導者であった大楽源太郎らは旧知の古松簡二らを頼り、久留米藩に潜入した。これが久留米藩を中心とした全国的な反政府事件の始まりである。藩の尊攘派は、当初大楽らをかばったが、新政府の厳しい追及によって、罪が藩主頼咸に及ぶことを恐れ、明治四年(1871)三月、大楽源太郎を小森野村高野浜で、弟山縣源吾、門弟小野清太郎を豆津浜で誘殺し、従僕中村要助を津福木見神社域で自殺させた。この四名を葬ったのが耿介四士之墓である。「耿介」とは堅く志を守ることをいう。
 耿介四士之墓の横には大楽らの殺害に関与した久留米藩士、川島澄之助、松村雄之進、山瀬三郎の三名の墓が並んでいる。


西道俊墓


大楽源太郎を殺害した三士の墓

 辛未(しんび)遭難志士之墓は、明治四年(1871)事件で遭難した久留米藩関係者の墓碑である。明治二十八年(1905)建立。大楽源太郎事件にからんで小河真文は斬罪、水野正名は終身禁獄、以下五十余名の処分者を出した。この事件は全国的な反政府事件であったため、二府三十九県にわたり、二百六十名以上に処分が下された。ここでも久留米藩の多くの有為な人材が失われた。


辛未遭難志士之墓

 辛未遭難志士之墓の横に「ひょうたん墓」と呼ばれる墓がある。西道俊(みちとし)の墓である。西道俊は長崎の人で、京都で高山彦九郎と相知り、意気投合した。彦九郎が久留米で自刃したことを聞いて、自らも彦九郎の墓の前で割腹自殺をした。享和二年(1802)五月二日のことであった(偶然ながら、私がここを訪ねたのも五月二日であった)。


贈正四位高山正之先生

 遍照院には高山彦九郎の胸像もある。

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