本書の副題は“米沢藩士・宮島誠一郎の「明治」”とある。宮島誠一郎という人物については、世の中にどれほど認知されているだろうか。私の知る限り、NHKの大河ドラマでお目にかかったこともないし、幕末を題材にした小説に登場することも非常に希である。本書序章にも述べられているように、山形県が生んだ作家、藤沢周平の「雲奔る」にわずかに出演している程度である。それほどマイナーな存在である宮島誠一郎という人物に着目したところに本書のユニークさがある。宮島誠一郎は、幕末から明治にかけて膨大な日記や詩文、書簡等を残しており、これを追うことで彼の思想や行動はかなり正確に把握できる。
かつて青山霊園を探索したとき、宮島誠一郎の墓に出会い、「明治維新人名事典」で彼の事歴について調べたことがある。といっても、戊辰戦争に際して戦争を回避する立場から奥羽越列藩同盟の意見書を取りまとめ、新政府との間を奔走したということくらいしか認識はしていなかった。誠一郎の奔走虚しく、新政府と奥羽諸藩とは砲火を交わすことになった。
宮島誠一郎という人は、極めて戦略・戦術の企画、立案能力が高く、合わせて交渉能力、調整能力、実行力、情報収集能力、いずれも一流だったようである。しかも常に熱意を絶やさず、戊辰の敗戦後も決して負け犬にはなったりしていない。或いは、同郷の雲井龍雄のように薩長藩閥政府を否定して地下活動に走るわけでもない。常に自らの行動指針に従って情熱的に行動している。にも関わらず、宮島誠一郎をメジャーな存在に押し上げなかった最大の理由は、最後まで彼が藩意識から脱却できなかったという点にあるだろう。この時代、誰しも藩から無縁ではいられなかったが、誠一郎も例外ではなかった。
若き誠一郎は藩の周旋方として活躍を始める。そこで誠一郎の行きついた結論は、変に備えて藩力を養成することであった。この方針は、決して間違ったものではないと思えるが、勝海舟に見事に論破されてしまう。
――― 藩力養成こそが目的と化し、実際に藩を犠牲にして国家に尽くさねばならなくなったとき、けっきょく、自藩第一主義に陥りはしないか(第三章 戊辰の敗北、勝海舟との出会い P.136)
というのである。藩に立脚して物事を考える誠一郎の限界であった。勝の言葉は、誠一郎に対して痛烈な一撃となった。
維新後、誠一郎は新政府に出仕し、内務省の設立や立憲政体の樹立などを建白している。その一方で戊辰戦争後の誠一郎は、米沢藩の「雪冤」に多大なエネルギーを費やしている。一つが新政府に千坂高雅ら米沢藩出身者を送り込むこと。国家有用の人材を輩出し、「第二勲藩」の地位を確立することである。そしてもう一つが旧藩主上杉斉憲の位階昇進であった。これが彼にとっての「戊辰雪冤」であった。後世の我々から見れば小さなことのように思えるが、彼はこれに半ば人生を掛けて取り組み実現した。政府の要人と結託し、隠然とことを運ぼうというやり方は同藩人からも評価を得られなかったというが、他人からの批判にもぶれることなく、「戊辰雪冤」という一点に拘った人生は爽快でもある。著者が宮島誠一郎という人物に惹かれたのもそういう生き方にあったのだろう。
かつて青山霊園を探索したとき、宮島誠一郎の墓に出会い、「明治維新人名事典」で彼の事歴について調べたことがある。といっても、戊辰戦争に際して戦争を回避する立場から奥羽越列藩同盟の意見書を取りまとめ、新政府との間を奔走したということくらいしか認識はしていなかった。誠一郎の奔走虚しく、新政府と奥羽諸藩とは砲火を交わすことになった。
宮島誠一郎という人は、極めて戦略・戦術の企画、立案能力が高く、合わせて交渉能力、調整能力、実行力、情報収集能力、いずれも一流だったようである。しかも常に熱意を絶やさず、戊辰の敗戦後も決して負け犬にはなったりしていない。或いは、同郷の雲井龍雄のように薩長藩閥政府を否定して地下活動に走るわけでもない。常に自らの行動指針に従って情熱的に行動している。にも関わらず、宮島誠一郎をメジャーな存在に押し上げなかった最大の理由は、最後まで彼が藩意識から脱却できなかったという点にあるだろう。この時代、誰しも藩から無縁ではいられなかったが、誠一郎も例外ではなかった。
若き誠一郎は藩の周旋方として活躍を始める。そこで誠一郎の行きついた結論は、変に備えて藩力を養成することであった。この方針は、決して間違ったものではないと思えるが、勝海舟に見事に論破されてしまう。
――― 藩力養成こそが目的と化し、実際に藩を犠牲にして国家に尽くさねばならなくなったとき、けっきょく、自藩第一主義に陥りはしないか(第三章 戊辰の敗北、勝海舟との出会い P.136)
というのである。藩に立脚して物事を考える誠一郎の限界であった。勝の言葉は、誠一郎に対して痛烈な一撃となった。
維新後、誠一郎は新政府に出仕し、内務省の設立や立憲政体の樹立などを建白している。その一方で戊辰戦争後の誠一郎は、米沢藩の「雪冤」に多大なエネルギーを費やしている。一つが新政府に千坂高雅ら米沢藩出身者を送り込むこと。国家有用の人材を輩出し、「第二勲藩」の地位を確立することである。そしてもう一つが旧藩主上杉斉憲の位階昇進であった。これが彼にとっての「戊辰雪冤」であった。後世の我々から見れば小さなことのように思えるが、彼はこれに半ば人生を掛けて取り組み実現した。政府の要人と結託し、隠然とことを運ぼうというやり方は同藩人からも評価を得られなかったというが、他人からの批判にもぶれることなく、「戊辰雪冤」という一点に拘った人生は爽快でもある。著者が宮島誠一郎という人物に惹かれたのもそういう生き方にあったのだろう。