史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「戊辰雪冤」 友田昌宏著 講談社現代新書

2009年10月25日 | 書評
本書の副題は“米沢藩士・宮島誠一郎の「明治」”とある。宮島誠一郎という人物については、世の中にどれほど認知されているだろうか。私の知る限り、NHKの大河ドラマでお目にかかったこともないし、幕末を題材にした小説に登場することも非常に希である。本書序章にも述べられているように、山形県が生んだ作家、藤沢周平の「雲奔る」にわずかに出演している程度である。それほどマイナーな存在である宮島誠一郎という人物に着目したところに本書のユニークさがある。宮島誠一郎は、幕末から明治にかけて膨大な日記や詩文、書簡等を残しており、これを追うことで彼の思想や行動はかなり正確に把握できる。
かつて青山霊園を探索したとき、宮島誠一郎の墓に出会い、「明治維新人名事典」で彼の事歴について調べたことがある。といっても、戊辰戦争に際して戦争を回避する立場から奥羽越列藩同盟の意見書を取りまとめ、新政府との間を奔走したということくらいしか認識はしていなかった。誠一郎の奔走虚しく、新政府と奥羽諸藩とは砲火を交わすことになった。
宮島誠一郎という人は、極めて戦略・戦術の企画、立案能力が高く、合わせて交渉能力、調整能力、実行力、情報収集能力、いずれも一流だったようである。しかも常に熱意を絶やさず、戊辰の敗戦後も決して負け犬にはなったりしていない。或いは、同郷の雲井龍雄のように薩長藩閥政府を否定して地下活動に走るわけでもない。常に自らの行動指針に従って情熱的に行動している。にも関わらず、宮島誠一郎をメジャーな存在に押し上げなかった最大の理由は、最後まで彼が藩意識から脱却できなかったという点にあるだろう。この時代、誰しも藩から無縁ではいられなかったが、誠一郎も例外ではなかった。
若き誠一郎は藩の周旋方として活躍を始める。そこで誠一郎の行きついた結論は、変に備えて藩力を養成することであった。この方針は、決して間違ったものではないと思えるが、勝海舟に見事に論破されてしまう。
――― 藩力養成こそが目的と化し、実際に藩を犠牲にして国家に尽くさねばならなくなったとき、けっきょく、自藩第一主義に陥りはしないか(第三章 戊辰の敗北、勝海舟との出会い P.136)
というのである。藩に立脚して物事を考える誠一郎の限界であった。勝の言葉は、誠一郎に対して痛烈な一撃となった。
維新後、誠一郎は新政府に出仕し、内務省の設立や立憲政体の樹立などを建白している。その一方で戊辰戦争後の誠一郎は、米沢藩の「雪冤」に多大なエネルギーを費やしている。一つが新政府に千坂高雅ら米沢藩出身者を送り込むこと。国家有用の人材を輩出し、「第二勲藩」の地位を確立することである。そしてもう一つが旧藩主上杉斉憲の位階昇進であった。これが彼にとっての「戊辰雪冤」であった。後世の我々から見れば小さなことのように思えるが、彼はこれに半ば人生を掛けて取り組み実現した。政府の要人と結託し、隠然とことを運ぼうというやり方は同藩人からも評価を得られなかったというが、他人からの批判にもぶれることなく、「戊辰雪冤」という一点に拘った人生は爽快でもある。著者が宮島誠一郎という人物に惹かれたのもそういう生き方にあったのだろう。

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船橋 Ⅳ

2009年10月17日 | 千葉県

(薬円台公園)


明治天皇駐蹕之處
大正六年建立 陸軍大将公爵山縣有朋の書

 明治六年(1873)この付近で近衛兵(薩長土の兵、四個大隊二千八百)の天覧演習が行われた。行幸には、徳大寺実則宮内卿、西郷隆盛、篠原国幹らが供奉した。閲兵した明治天皇から勅諭をもって「習志野ノ原」の地名が下賜された。これが習志野という地名の由来となっている。
 この大演習が行われたのは、征韓論により政府が分裂する寸前のことであった。司馬遼太郎先生の「翔ぶが如く」では、演習の様子を次のように描いている。
――― 演習中、ずっと雨であった。帝は馬に乗り、西郷はその背後をずぶぬれになりながら徒歩で従った。このときの西郷の服装は陸軍大将の正装で、腹を白帯でぐるぐる巻きにし、太刀を帯びていた。足はわらじばきである。
 演習場での高級指揮官たちはみな馬に乗っていた。桐野少将などはフランス風の軍帽を目深にかぶり、革製の長靴をはき、馬腹にサーベルを吊るして颯爽と草の上を駈けていたが、西郷はずっと徒歩のまま終始した。(「翔ぶが如く」 ~鍛冶橋~)

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「龍馬の黒幕」 加治将一著 祥伝社文庫

2009年10月14日 | 書評
著者加治将一氏は、小説やビジネス書、カウンセリング書など多彩な才能を発揮している作家である。歴史を題材にした作品も多数手がけているが、純粋な「歴史家」には分類されないだろう。
本書の副題は「明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン」となっている。グラバー邸で知られるイギリスの商人グラバーをキーパーソンとして、幕末に活躍した坂本龍馬、五代友厚、伊藤博文らの動きを解明する。
たとえば、薩英戦争。砲火が交わされる直前に、薩摩藩の商船三隻が拿捕されている。それに乗っていた五代友厚と寺島宗則(当時は松木弘安)とが捕虜としてとらえられた。薩摩側では二人は捕虜として扱われているが、イギリス側の記録には捕虜という記述はないと著者は指摘する。つまり五代と寺島はイギリスと示し合わせて、生麦事件の賠償金の担保として、戦争を回避するために独断で商船を引き渡したというのである。文書に残された証拠はない。飽くまで状況証拠のみであるが、思わず「なるほど」と唸るだけの推理である。
しかし、この本の記述の大半は、状況証拠を積み上げた推論ばかりである。龍馬暗殺の真犯人―――これがこの本のキモだと思われるが―――これまで同じ手法で料理されてしまうと、さすがに説得力に欠ける。龍馬暗殺の真犯人は、「まさか!」と叫びたくなるような人物である。「これは凄い」と感心するか、「そんなアホな!」と呆れ果てるかは読む人次第であるが、私は「そんなアホな!」と思いました。

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笠間 Ⅲ

2009年10月11日 | 茨城県
(池野辺 天狗党首塚)
 前回どこまでお話ししましたっけ。そうでしたね。二度も笠間を訪れたというのに、天狗党関連史跡に辿りつけなかった、それで笠間市役所に苦情のメールを送りつけたというところで終わっておりました。
 その後、笠間市教育委員会は、私のメールに真摯に応えてくれた。詳細の地図にそれぞれ赤や緑で導線まで入れたものを送ってきたのである。この地図を片手に三度目の笠間に挑むことになった。


天狗党首塚

 池野辺の天狗党首塚は、笠間市教育委員会の手作りの地図がなければ、絶対に行きつけないようなかなり難しい場所にある。市原から大橋方面に落ちのびる途中、この地で死亡した天狗党員を土地の人たちが葬ったものである。

(川俣七郎自刃の地)


贈従五位川俣茂七郎君墓

 川俣茂七郎は、出羽松山の人。天狗党から分かれて横浜の夷人襲撃を企てたが、幕府追討軍の攻撃を受けて壊走した。川俣茂七郎は殿軍を引き受けて大橋まで退いたが、この地で自刃して果てた。
 正面の大きな碑は、大正になって建てられたもの。その背後の小さくて丸い墓石が、当時村人が建てたものであろう。


故漏岐川又君之墓(左)
右は従僕(佐埜)のものか

(阿弥陀堂)


阿弥陀堂

 南友部の阿弥陀堂には、天狗党に参加した田中某の遺族が水戸の常磐共同墓地から移した墓石がある。


天狗党員田中某の墓(右から二番目)

(茶屋玄亀楼)


茶屋玄亀楼

 茶屋玄亀楼には天狗党に参加した上州浪人千種太郎が逗留していたという。かの悪名高き田中厡蔵も玄亀楼に立ち寄っている。
 今も土蔵を備えた建物が残っているのは嬉しいが、どうやら人が住める状態ではない。このままでは倒壊するのは時間の問題である。笠間市教育委員会に何とかしてもらいたい(敢えてメールは送りませんけど…)。

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茨城

2009年10月11日 | 茨城県
(毛塚)
 県名の由来となった茨城町は、水戸の南方に位置する。道路地図では分からなかったが、実際に走行してみると、行けども行けども畠と田圃が広がる田園都市である。県道106号沿いにあるJA水戸長岡食材センターの脇の急坂を上った高台の上に楠公社と称する小さな神社がある。桜田門外の変に参加した水戸浪士らの毛塚である。


楠公社


桜田烈士記念碑

 大正五年(1914)に建立された桜田烈士記念碑である。田中光顕の筆により高橋多一郎の歌が刻まれている。

菊水のきよき流れを長岡にくみて
御國のちりをあらはむ


大日本大至大忠楠公招魂之表

 石柱の側面には、桜田門外の変に参加した水戸藩の十九名と薩摩の有村次左衛門、合わせて二十名の名前が刻まれている。決行前夜、長岡に集結した彼らは、髪の毛を断って成功を祈った。


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鉾田

2009年10月11日 | 茨城県
(田山家)


田山家

 鹿島臨海鉄道信鉾田駅の近く、古い街道沿いに田山家がある。「ホテルさわや」を目印に探すと分かりやすい。
 鳥羽伏見に敗れた徳川慶喜は水戸弘道館で謹慎生活を送っていたが、慶応四年(1868)七月、駿府に向かう折に宿泊したのが田山家である。門構えから見て、当時はそれなりの分限者だったと推定されるが、現在門内はかなり荒れ果てており、人が住んでいる気配がない。貴重な文化財は自治体が責任を持って保存してもらいたいものである。


田山河岸

 ホテルさわやの裏側に運河が流れている。慶応四年(1868)七月二十一日、徳川慶喜は水戸から鉾田へ、さらに鉾田から銚子を経て駿府へと辿る水運コースをとった。田山河岸は慶喜が最後に踏んだ水戸の地となった。

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玉造 Ⅱ

2009年10月11日 | 茨城県
(大宮神社)
 玉造の大宮神社入り口付近にある忠魂碑は、国事のために命を落とし靖国神社に合祀された人たちの名を刻んでいる。元治甲子の乱の犠牲者から始まっているのが、この地の忠魂碑の特徴かもしれない。


大宮神社


忠魂碑

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麻生

2009年10月11日 | 茨城県
(麻生小学校)


麻生小学校

 麻生小学校の敷地が、ほぼ往時の麻生藩陣屋跡に相当する。小学校の西側にはかつて藩校精義館があった。麻生藩主新庄氏がこの地に陣屋を置いたのは元和五年(1619)である。以来、明治維新まで十五代二百六十七年間、一度も移封もなく存続した。幕府からも歴史からも忘れ去られたような存在であったが、そんな麻生藩にも幕末に一度だけ戦乱が及んだことがあった。
 元治元年(1864)九月、天狗党本隊から分れた少数派と幕府追討軍との戦闘が麻生藩領でも行われた。麻生藩では多数の天狗党残党を捕えたが、一方で麻生藩でも数名の戦死者を出している。

(麻生藩家老屋敷記念館)


麻生藩家老屋敷記念館 家老畑家

 麻生小学校から歩いていけるくらいの場所に麻生藩家老畑家の屋敷が残されている。現存している主屋は、安政三年(1856)に火災で焼失し、翌年再建されたものである。

(天狗塚)
 天狗塚の在り処が分からなくて、近所で庭木の剪定をしていたおじさんに尋ねたところ、「ブルーシートのかぶせてある祭の山車が置いてある公民館の前にある」
ということを、茨城弁で教えてくれた。


天狗塚(左)
右は観音様が祀られている

 麻生藩では捕えた天狗党員を一部幕府軍に引き渡し、或いは領内で処刑した。処刑された天狗党員を弔うために、村人は処刑場に小さな祠をたて「天狗様」と呼んだ。

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鹿嶋

2009年10月11日 | 茨城県
(鹿島神宮)
 八王子から茨城県鹿嶋市まで順調にいけば、二時間半程度であるが、この日は三連休の初日ということもあって至るところで渋滞した。そのため予定より一時間遅れで鹿島神宮に行き着いた。本当は鹿島、行方、鉾田、茨城、笠間から常陸太田まで回る計画であったが、往路での時間のロス、そして帰りも渋滞が予想されたので、笠間で引き返すことにした。
 鹿島アントラーズの本拠地としても有名な鹿嶋は、古来より鹿島神宮の門前町として栄えた。まずは鹿島神宮にお参りである。
 鹿島神宮は、常陸国一の宮として古来より尊信を集めた。徳川頼房の寄進した朱塗りの楼門を過ぎると、右手に徳川秀忠の奉納した拝殿・本殿が現れる。


鹿嶋神宮 本殿


鹿嶋神宮楼門
楼門の扁額は東郷平八郎によるもの

 さらに奥宮に向かって歩を進めると、鹿園の向かいに「あずまを櫻」と刻まれた石碑が建っているのに出会う。国学者、歌人そして桜田門外の変に連座した志士として知られる佐久良東雄は、天保十四年(1843)勤王を誓うために還俗して鹿島神宮の神前で潔斎し、そのとき鹿島神宮に桜樹千株を植樹した。これを機に佐久良東雄を名乗るようになったと言われる。このときの桜は今もこの地に残されているというが、鬱蒼とした森を少し覗いたくらいでは、どれが桜か識別できなかった。


あずまを櫻碑

(天狗党の墓)


天狗党の墓

 筑波山を降りた天狗党の戦いは、藩内抗争の様相を呈してきた。これを嫌った藩外からの参加者は、本来の目的である攘夷を決行すべく横浜に向かった。しかし鹿島で幕府追討軍に追いつかれここで交戦となる。天狗勢は川又茂七郎軍八十を殿軍として北方に退いたが、幕府軍は執拗に残党狩りをおこない、この付近で二十三人を捕縛した。彼らは斬首されて馬捨て場に埋められた。ここにある天狗党の墓は、明治に入ってから初代郡長斎藤俊により建てられたものである。

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「幕末入門」 中村彰彦著 中公文庫

2009年10月08日 | 書評
「入門」と称しているが、決して初心者向けの入門書ではない。幕末史に造詣の深い著者の史観がちりばめられた読み物になっている。
「第三章 長州藩」の末尾で著者は
――― 歴史にはつねに、日の当たる部分と当たらない部分が存在します。長州藩の幕末維新史にとって奇兵隊の身分差別や暴動の一件はもっとも暗い影の部分に相当し、一般には知られていないようです。ですが、このような光と影の部分をときに見つめないかぎり、歴史の真実には迫れないのではないでしょうか。
と主張しているが、これには全く同感である。ほとんど照明の当てられることのない金沢藩における幕末の御家騒動や、決してメジャーな存在とはいえない会津藩の秋月悌次郎にスポットを当ててきた著者ならではの至言である。
第六章では、朔平門外の変、龍馬暗殺、討幕の密勅、孝明天皇暗殺疑惑を取り上げているが、やや掘り下げが不足している印象を受ける。本来、それぞれで一冊の本が書けるくらいのテーマであり、短い一章の中では限界があるのは仕方ないが、少々不満が残った。

コメント (2)
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