史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「アンコール王朝興亡史」 石澤良昭著 NHKブックス

2024年03月30日 | 書評

カンボジアのアンコール遺跡群を見学するにあたって、「もう一冊読んでおきたい」と思って入手したのが、この本である。我が国におけるアンコール遺跡研究の第一人者である上智大学教授石澤良昭先生の著作で、おそらく現在、書店などでもっとも入手しやすく、しかも最も網羅的にアンコール遺跡群について解説している本であろう。大きな書店でも一般向けにアンコール遺跡を分かりやすく解説した本はなかなか置いていないのが現状であり、そういう意味でとても貴重である。

アンコール遺跡を見ていると不思議に思うことが多々ある。たとえば、今から千年以上も前にどうやってこれほどの石造りの大建造物を築くことができたのか。その疑問に本書は的確に答えてくれる。

アンコール地方において、9世紀に王がバライと呼ばれる貯水池を建造し、さらに水路を整備することによって二期作、三期作の水稲耕作が可能となった。カンボジアは雨季(6月から10月)と乾季(11月から5月)の別がはっきりしており、この水利事業が遂行されるまで、雨季は洪水に悩まされ、乾季にはほとんど耕作物は取れなかった。バライの完成によりアンコールの大地は豊穣の沃野となったのである。バライ方式による農業生産は、歴代の王に引き継がれた。そのため今も各地に大小のバライが存在し、地域の灌漑施設として利用されている。

結果として食糧増産がもたらされ、扶養、人口の増加が進んだ。それ故、建寺に必要な莫大な労働力を確保でき、大寺院の建立が可能となったのである。

本書によれば、西暦1000年頃の世界の人口は、諸説あるが、コルトバ(現スペイン)約60万人、コンスタンチノーブル(現トルコ)約50万人、北宋の開封(現中国)約40万人に続き、アンコール地方は世界第四位の約25万人に達していたという(因みに平安時代の京都の人口は10万人程度といわれている)。その約百年後(12世紀初期~13世紀)、アンコール王朝は最盛期を迎え、約60万人から100万人近い人口が集中していたとされる。つまりこの百年ほどの間に三倍近い人口増加を実現していたということになる。

これほどの隆盛を誇ったアンコール王朝が、15世紀に入ると急速に衰退し滅亡したのは何故か。これも不思議極まりない疑問である。

本書によれば、当初フランス人研究者により、ジャヤヴァルマン七世によって成し遂げられた数多くの大規模な寺院建設が、アンコール王朝を破産させ、衰退に追い込んだという建寺疲労説が唱えられていた。しかし、13世紀末にアンコール・トム都城を訪れた中国人周達観の詳細な報告書にはアンコール地方の殷賑ぶりが活写されている。当時はまだアンコールの農業経済が維持されていたことが分かる。またジャヤヴァルマン八世(治世1243~1295)は52年に及ぶ長期安定政権を実現し、仏教からヒンドゥー寺院への再生工事を積極的に進めた。少なくともこの時期、衰退の兆候は見られない。これらの状況証拠から筆者は建寺衰退説には否定的である。

アンコール都城が陥落したのは、直接的には14世紀半ばから約80年に及ぶ前期アユタヤ朝との数次にわたる戦争に起因している。1431年頃、前期アユタヤ朝はアンコール・トム都城を包囲し、徹底した焦土作戦に出た。都城内の楼閣、王宮、倉庫、家宅はすべて放火され、前期アユタヤ朝の完全勝利となった。アンコール都城は灰燼に帰し、26代続いた王朝は終焉を迎えた。王族をはじめカンボジアの人々は、アンコールを放棄し、アンコールから遠く離れた南方を目指して逃亡した。そして二度とこの地が都に戻ることはなかった。シャム人はアンコール遺跡を略奪の対象とは見たが、ここに居住しようとは考えなかったようである。何故、せっかく攻め落としたアンコールにシャム人が住もうとは思わなかったのか、これも不思議である。

本書はこれからアンコール遺跡を見に行く人にはお勧めの一冊である。私は訪問前に一度読み、帰ってからもう一度目を通した。もちろん事前に知識を仕入れておくためにも有用であるし、一旦見学した後これを読むと「なるほど」と目を開かされることも多かった。

 

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「絶滅する「墓」」 鵜飼秀徳著 NHK出版新書

2024年03月30日 | 書評

筆者は、京都嵯峨の正覚寺の住職で、「宗教と社会」をテーマに取材、執筆、講演活動を続けている。「仏教抹殺」「仏教の大東亜戦争」(文春新書)などの著書もある。

本書を読んで感心したのは、筆者の墓に対する執念である。私も約三十年にわたって幕末維新期に活躍した人物の墓を訪ね歩いてきたが、筆者は被葬者の名前よりもその墓に埋葬される人たち、或いは埋葬した人たちの思いとか、死生観等により強い興味を持っているのかもしれない。北は北海道のアイヌの墓から、沖縄の墓まで全国をきめ細かく取材しており、そのエネルギーに脱帽である。本書に紹介されている墓でいえば、私も沖縄の玉陵、高野山奥の院の膨大な数の墓石群、佐柳島(香川県)の埋め墓、新島の流罪人の墓などは実際に見てきたが、とても筆者の足もとに及ばない。

今や我が国における火葬率は99%に達しており、今後益々土葬は減っていくだろう。しかし、土葬にはそのようにする理由や背景があり、それを理解しないまま反対するのではなく共存の方法を考えられないか、というのが筆者の問題提起であろう。しかし、我が国では土葬に対する忌避感が強く、土葬が可能な墓地も非常に限られている。しかし海外に目を向けてみると意外と土葬を行っている国は多い。私が現在在住しているベトナムも土葬の国であるし、欧米でも土葬が主流である。衛生面の問題も生じるし、何よりも場所が不足してしまう。何千何万という死者のために場所を確保していては、やがて生活する場所がなくなってしまうだろう。多面的に考えて火葬というのは合理的な葬り方であるが、埋葬というのは合理性だけで判断できないところに難しさがある。

筆者は我が国で消えゆく土葬やその土地特有の葬送を「絶滅危惧墓」と呼んでいる。筆者の危機感は、本書末尾の「結びに代えて」に集約されている。

――― コストやつきあいの煩わしさを考えれば、「墓は無用」と考える人がいるのも分かる。ただ、先人が大切にし、祀り続けてきた墓を、効率重視でなくしてしまうのは、人類が受け継いできた智慧の放棄といわざるを得ない。

という主張には頷けるものがある。

私も自分の代で先祖から受け継がれてきた菩提寺の墓を整理しようとは思っていない。本書でも記載されているように、我が国では江戸時代に寺請制度が整備され、すべての人民はどこかの檀家に組み込まれた。寺では歴代檀家の戒名や俗名などを記した死者の帳簿「過去帳」を制作し、現代まで伝わっている場合が多い。これによって、我々はその気になれば家系図を江戸時代まで遡ることが可能となっている。

菩提寺に墓があることの重要性は理解しているつもりだが、私はどうしてもその墓に入ることに抵抗がある。そもそもお前は仏教をどれほど信仰しているのか。法事のたびに聞かされる読経は退屈なだけだし、意味も分からないし、有り難くも何ともない。むしろ苦痛なだけである。自分が墓に入ることで、子供や孫にその苦痛を強要するのは気が引ける。仏教の教えに共感もしていないし、仏教徒であるという自覚もない。「葬式仏教」という言葉があるが、普段何にも仏教徒らしいことをしていないくせに、葬式や法事のときだけご都合主義的に仏教徒になるというのも違和感がある。

自分はそもそも死後の世界とか輪廻転生など信じていないし、「死ねばそれっきり」だと思っているので、そんな人間がお寺に金を払ってお寺に弔ってもらう必要など毛頭感じない。これが全国津々浦々の墓を掃苔してきた私の結論である。

本書によれば、最近は納骨堂への永代供養や樹木葬、海洋散骨などが増えているという。エコ意識が進むアメリカでは、微生物によって遺体を分子レベルで分解してミネラルたっぷりの土壌を生成し、それを園芸用肥料に使ったり、自宅の庭に撒いたりという「コンポスト葬」なるものまで出現しているという。今後もさまざまな葬送の方法が考案されるだろう。個人的にはできるだけ手間のかからない方法で遺骨は処理して欲しい。といっても、現代の日本の法律によれば勝手に遺骨を自宅の庭に埋めたら、死体遺棄罪に問われるらしいので、邪魔だったら骨壺を段ボールにいれて屋根裏の納屋に放り込んでおいてもらっても結構。間違っても墓に入れないように、と願っている。

ただし、一方で筆者がいうように先祖から受け継がれてきた墓を自分の一存で「墓じまい」してしまうまでの決断はできない。面倒ではあるが、菩提寺の墓はそのまま維持しないといけないだろう、とぼんやり考えている。

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東向島

2024年03月09日 | 東京都

(蓮花寺)

 向島百花園の近くにある蓮花寺(墨田区東向島3‐23‐17)に、東條琴台の墓を見に行った。二年前に根津の天眼寺で琴台の墓を探したが見つからず、そのことをブログに報告したところ、蓮花寺に琴台の墓があるという情報を、クロサカさんより頂戴した。以来二年間、機会があればと思っていたが、今回日本に帰国した時に少し時間を取れたので、東向島まで行ってきた。

 

蓮花寺

 

東條氏累世之墓(東條琴台の墓)

 

東條琴台は、寛政七年(1795)の生まれ。幼にして学を好み、伊東藍田、尾藤二洲、山本北山、亀田鵬斎らに学んだ。一時岩村藩の平尾信従の養子となったが、学派の違いから離縁して旧姓に復した。文政年間、高田藩主榊原政令に聘せられ、嘉永三年(1850)に著書「伊豆七島図考」が幕府の忌諱に触れ、藩邸に幽せられた。以後高田に住すること十八年、維新後東京に戻ってからは宣教師出仕を命じられ、また亀戸社祠官、権中講義に補された。明治七年(1874)、教部省に勤めたが、翌年眼病により辞し、ついに失明した。平尾家に残した子信享の娘歌子は下田氏に嫁し、女子教育家として名を成した。年八十四にて没。

墓石横には事績を刻んだ墓誌が建てられている。

コメント (3)
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