史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「志士の峠」 植松三十里著 中公文庫

2018年01月27日 | 書評
天誅組を正面から扱った小説としては大岡昇平の「天誅組」以来であろう。天誅組の変やそれに続く生野の変などは、幕末史を語る上で欠かせない事変であるが、登場人物が多数かつ多彩で、事変の経緯も単純ではない、しかも悲惨な結末は動かせない事実であり、なかなか小説に料理するのは難しい題材である。本作は天誅組の壊滅、さらには忠光暗殺に至る経緯を丹念に追いながら、分かりやすくしかも巧みな人間描写によって一気に読ませてくれる。作家植松三十里の手腕の確かさを再確認させてくれる作品である。
本作が成功した理由は、①多様多彩な登場人物を、ある者は切り捨てることにより少数の人物群に限定したこと。②登場人物一人ひとりに大胆なキャラ付をしたこと に集約される。天誅組といえば、本作の主人公となった中山忠光のほか、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石の三総裁、水郡善之祐ら河内勢と呼ばれる一団、土佐藩、久留米藩脱藩浪士、さらには十津川から参加した郷士から構成される。たとえば、五條の医師乾十郎とか、歌人であり記録方として天誅組に駆け付けた伴林光平とか、伴林に従って参加した平岡鳩平らは本小説に一切姿を見せない。小説家としてはいずれも食指を動かされる人物だと思うが、思い切りよく取捨選択して、一貫して主将中山忠光を主役においてこの事変を描いた。その結果、非常にすっきりとした作品になったと思う。
これまで中山忠光という公家に対しては、ファナティックな若者というイメージしかなかったが、植松三十里は、若者らしい純粋さと、他者をいたわる優しさとを合わせ持ち、主将として悩み苦しむ様を人間臭く描き出した。対立する吉村寅太郎や池蔵内太との葛藤も自然である(といっても、それまで人を斬ったり、集落を焼くことに批判的だった忠光が伯母嶺峠越えの前にして、お世話になった林泉寺に火を点ける場面は、若干違和感が残った。とはいえ、天誅組が林泉寺を燃やしたのは史実そのままなのだが…)。
天誅組が五條代官所を襲撃した直後、京都における政変の一報が伝わると、倒幕の先陣は一転して賊と化した。しかし、都における政変がなかったとしても、彼らが目論んだように(一貫して親幕的な)孝明天皇が倒幕の兵を率いて東上することになったかは甚だ疑問である。代官所を襲った後、倒幕に至る道筋が描けていたとは思えない。あまりに場当たり的で無計画である。結局のところ、彼らの一挙はどこかで頓挫していたのではなかろうか、という気がしてならない。

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「西郷隆盛 ―― 手紙で読むその実像」川道麟太郎著 ちくま新書 

2018年01月27日 | 書評
「西郷「征韓論」の真相」「「征韓論政変」の真相」(いずれも勉誠出版)で征韓論論争に一石を投じた川道麟太郎先生の最新刊。新書としては異例の五百ページを越えるボリュームとなっている。うち、川道先生の「真骨頂」というべき維新以降の論説は二百四十ページを過ぎてからとなっており、バランスの取れた配分となっている。
このところずっと「久光はどの時点で討幕を決意したのか」という問いが頭から離れないが、この問いに対する一つの答えが本書で提示されている。慶応三年(1867)五月、四候(久光・春嶽・容堂・宗城)が出そろい、将軍慶喜との交渉も持たれたが、結局、元治元年(1864)の参預会議が崩壊したのと同様、慶喜との折り合いがつかず、失敗に終わる。
その直後の六月十六日、長州藩の山県狂介と品川弥二郎が久光と謁見したときの記録が残っている。山県と品川は連名で国元にこのときのことを報じている。
――― 西郷・大久保・伊地知列座にて小松曰く、今日主人(久光)よりもお話しした通り、幕府の橘詐奸謀は尋常の尽力にてはとても挽回の機これあるまじく、ついては長薩連合同心戮力して大義を天下に鳴らしたく……。ついては不日(まもなく)、吉之助を差し出し、御国一定不抜の御廟議もうかがいたいとのこと、……。(現代語訳筆者)
さらに、山県はこのとき久光から六連発の拳銃を授けられたことに感激して、「向かう仇 あらば撃てよと 賜りし 筒の響きや 世にやなさらん」と詠んでいる。川道先生は、「山県らが聞いていることは、兵力をもって徳川幕府と戦うことにあったと見て間違いはない」「慶応三年五、六月に、薩摩側が言い、長州側が聞いた「挙事」は、純粋に兵力にもとづく「討幕」と理解して問題ない」と言い切る。非常に自然で説得力のある主張である。
明治六年政変に関する論調は、川道先生の従来からのものであるが、それでもいくつか新しい指摘がある。
その一つは、「大久保や木戸が帰国したころに「留守政府はいわゆる『征韓』論でわき返っていた」とするもの。川道先生は、「当時の留守政府の閣僚、三条・西郷・板垣・大隈などが遺した史料を調べてみても、そのように言えるものはどこにも見付からない」と一蹴する。さらに西郷が遣韓使節のことを考えるようになったのは、「副島使節団が帰国した七月二十六日の直後」と推定している。これまた説得力のあるものである。
もう一つは、十月十五日および十七日に西郷が提出したとされる「始末書」の存在について。十七日付の「出使始末書」は現在に伝えられているが、川道先生は十五日付の始末書については、存在していないと指摘する。
さらに司馬遼太郎先生の「翔ぶが如く」にまで批判の筆は及ぶ。「翔ぶが如く」に拠れば、十月二十三日、西郷は大久保を訪ねて暇乞いをしたとされている。それは西郷が「大久保と岩倉のみを信頼し、この両人が政府にあるかぎり、妙な国家になることはあるまいとおもっていた」からだという。しかし、川道先生によれば「むしろ、西郷はふたりを「君側の奸」として憎んだはずで、特に、大久保への憎しみは、若いころから(年下の)朋友であっただけに、特別のものであったはずだ」とする。そして大久保の同日付けの日記に西郷およびその場に同席していたとされる伊藤博文が来訪した記録がないことを根拠に、「暇乞い」を否定している。「翔ぶが如く」は歴史小説であるとはいえ、「事実を歪め、人々から史や現実を直視する目を奪う」ことになると辛辣である。
一次資料を見るかぎり、ご指摘のとおり、西郷が大久保に暇乞いにきたという事実は確認できない。ただ「翔ぶが如く」において、両雄決別のシーンはとても印象深い。かつての幼馴染に戻って、大久保が西郷を詰った後、そのやりとりを聞いていた伊藤が「さきほどのお言葉、あれではちょっとひどすぎるように思いましたが」とたしなめると、大久保が「私もそう思います」と漏らす場面は、「翔ぶが如く」における名場面の一つである。個人的には少し寂しい気もするが、それは川道先生に言わせれば「西郷と大久保の盟友関係を理想化」した結果なのかもしれない。
こうして次々とこれまで史実と思われていたことを否定する手腕は、かつて薩摩藩出身の実証的歴史家重野安繹が児島高徳の実在や楠木正成の数々の逸話を否定し、「抹殺博士」の異名をとったことを連想させる。川道先生は、現代の「抹殺博士」なのかもしれない。
「あとがき」にいう。
――― 勝海舟・中江兆民・内村鑑三といった著名人たちが西郷を持ち上げ、歴史家は西郷を忠君愛国の士や国家のために命を捧げる将士の鑑のように書き、また、征韓論の英雄や大陸計略論の先駆者、あるいは逆に、朝鮮に赴く平和的遣使として語り、明治十年の反乱はいつの間にか「西南戦争」と呼ばれるようになって、人は西郷を悲劇の英雄のように見て、そこに死に方の美学や滅びの美学を夢想するようにもなる。
――― 本書は…もっぱら西郷自身が書いた手紙を史料の中心に置いて、国史上の西郷隆盛ではなく、現実に生きた人間、西郷吉之助の真の姿に光を当てようとしたものである。
西郷のみならず、坂本龍馬もしかり、勝海舟もしかり、我々は歴史上の人物を論じるとき、彼らを頭から神格化、理想化して語っていないだろうか。そのことの危うさを本書は思い起させてくれる。

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「寺田屋騒動」 海音寺潮五郎著 文春文庫

2018年01月27日 | 書評
昭和五十一年(1976)刊行というから海音寺潮五郎最晩年の著作である。鹿児島県出身で、薩摩藩の歴史に精通する海音寺潮五郎の幕末史観が凝縮された一冊である。発刊以来、四十年余りの年月が経過しているが、文久二年(1862)の寺田屋騒動を真正面から取り扱った書籍は、この本以外に知らない。もう何度も繰り返し読んでいるので、表紙はバラバラになってしまっている。
久しぶりにこの本を読んでみようと思ったのは、先日読破した原口泉先生の「西郷隆盛53の謎」に誠忠組激派の有馬新七らは「関白九条尚忠の襲撃を企てていた」との記載があり、では彼らの究極の目的は何だったのか気になったからである。
海音寺潮五郎は、論文でもない、小説でもない、「史伝」といわれるスタイルを再興・確立したことで知られる。極力フィクションを排除しながらも、史料にない部分を想像力で補うスタイルは小説家ならではの特権であろう。
海音寺潮五郎によれば「幕末維新史を困難複雑にした」のは「孝明天皇の病的なまでの欧米ぎらい」と「薩・長の反目」にあるという(個人的には、敢えてもう一つ付け加えれば「慶喜の個性」だと思う)。だから、「孝明天皇が崩御され、薩・長の連合ができると、トントン拍子に維新革命が成就した」というのである。薩・長反目の重大要素である久光の長州嫌いがこの時(寺田屋騒動)からはじまっていることから、寺田屋事件は「なかなか重要な事件」と位置付けている。
本書によれば、誠忠組激派の有馬新七らは「久光を盟主にかつぎ上げ、九条(尚忠)関白を襲い、酒井(忠義)所司代を討ち取る。」「江戸でも水戸人や在府諸藩の有志者を糾合して義兵を挙げ、東西呼応して倒幕の挙を成す」その上で青蓮院宮を擁して入朝し、島津氏を召して倒幕の勅を下すというクーデター計画である。幕府代官を襲った文久三年(1863)の天誅組の変、生野の変にも通じる倒幕計画である。八一八クーデター前の文久三年(1863)といえば、もっとも攘夷の機運の盛り上がった時期であるが、その一年前に既に倒幕の挙が練られていたということになる。未遂に終わったものの、寺田屋騒動は、明確に倒幕を意識した挙兵の先駆けと呼ぶことができよう。
しかし、その後に続く天誅組の変、生野の変も同じであるが、計画としてはいかにも粗漏である。所司代や代官を闇討ちして占拠するところまでは成功したとしても、そこから倒幕に至る道筋があやふやである。寺田屋に集結した一人、田中河内介は「今日は口舌だけではどうにもならない。先ず取りかかることが必要」と言っているが、寺田屋に集った多くの志士たちの気持ちを代弁しているといえる。
「今楠公」と称され、禁門の変当時の長州藩で「頭脳」として重用された真木和泉は、この計画を聞かされ「これは今日における最上の妙策」と承諾している。尊攘運動の指導者として仰がれた真木も所詮この程度の思考力と想像力の持ち主だったということなのか。
本書において興味深かったのは、海音寺潮五郎が久光の卒兵上京に先だって、大久保利通が藩士や他藩の志士たちの動きから判断して、久光の考えている公武合体では収まらない、きっと討幕ということになるに違いないと判断し、諸藩や志士たちを妄動させず統制することを西郷に要請していたというのである。このことに関して一切の史料は沈黙しており、海音寺潮五郎のまったくの「推論」であるが、文久二年(1862)の段階で、大久保・西郷ラインが倒幕を意識していたというのはなかなか斬新な指摘である。海音寺潮五郎は以下のように言及している。「寺田屋の壮士等の目的には、まだ幕府否定王政復古の考えはなかった、単に攘夷によって公武合体の体制をつくろうとするにあったという説をなす歴史学者もありますが、それは清河八郎の思想に重心をおいた解釈で、平野国臣の『尊攘英断録』や橋口壮助のこの歌を無視しない限り、明らかに王政復古を目的としていると見ないわけに行きません。」
橋口壮助の歌というのは、大阪から伏見に移る船の上で詠じたものである。
大君の御代を昔にかへさんと つくす心は神も助けよ

幕末史研究を代表する佐々木克氏(故人)も「幕末史を『薩長討幕史』の運動として語る諸書を目にするが、私は薩摩と長州の主要人物が討幕を目標にしていると言明した史料を目にしたことがない。」(『幕末史』(ちくま新書))としている。恐らく史料に立脚すればその通りであろう。それだけ海音寺潮五郎の推論は、大胆にして問題を投げかけるものでもある。
奄美大島から召還された西郷隆盛は、久光から「下関で待て」と命じられていたにもかかわらず、その命を無視して上方に直行した。通説によれば、この時西郷が急いだのは過激に走る浪士を鎮静するためといわれるが、仮に寺田屋騒動前夜、大久保・西郷も討幕を意識していたとすれば、西郷は本当に上方で浪士の鎮撫に努めようとしていたのだろうか。
このとき大阪で西郷と面談した岡藩の小河一敏の手記によれば「きわめて大事をなし得る人物と思いました。かかる勇士もあればあるものと感心しました。しかも、猪武者ではありません」
「まことに勇威たくましく、胆略世にすぐれたる風貌で、今の世にこんな人があろうとは思われないほどであった」
西郷はことばとしては、久光を擁して討幕の挙をなすとはっきりといわなかったようであるが、語気と態度には今般の久光の中央乗り出しを救国の挙とすることに、死を決してあたろうとの覚悟がうかがわれたという。これを見る限り西郷は鎮撫どころか浪士を煽動していたかのようである。西郷に「これを機にあわよくば討幕」という魂胆があったとすれば説明がつく。
本書は発刊から四十年を経て、今もなお問題を投げかけ続けている力作である。時に史料から離れて想像力をたくましくする「楽しさ」を再確認させてくれる一冊である。

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境港 Ⅱ

2018年01月20日 | 鳥取県
(正福寺)


正福寺


水木しげる像

 境港といえば水木しげるの出身地である。ゲゲゲの鬼太郎や妖怪たちのブロンズ像が並ぶ「水木しげるロード」が観光客に大人気であるが、私の目的は中野の正福寺である。正福寺には、幼き日の水木しげるを魅了したという、地獄絵が保存されており、そのことを記念して水木しげるの像が設置されている。もちろん私の目当ては、水木しげるではなく、正福寺の北側の墓地にある景山家墓地である。


大霊院覺應智正居士(景山立硯の墓)

 景山家は、寛政年間以降、代々医家であったが、初代景山立硯は、京都の恩師木島氏の命により木島姓を名乗った。二代・景山粛(しゅく)は、文化年間に京の服部大方に学び、帰郷後医業の傍ら家塾を開き、富田織部、門脇重綾、今小路範成、佐善元立、松本古堂らの志士をはじめ、多くの子弟を育てた。「伯耆志」の編者としても知られる。


僊岳院大圓高徳居士(景山粛の墓)

 三代景山龍造は、文化十四年(1817)、立硯の子に生まれる。はじめ芝田温に学び、天保七年(1836)、江戸に出て昌平黌に入学し、また梁川星巌、佐藤一斎らに学んだ。天保十三年(1842)、京都に遊学して一時三条公睦、実美の侍読として仕えた。富田織部にこの職を任せ、大阪堂島に移って私塾を開いた。安政元年(1854)、鳥取藩主池田慶徳に召されて尚徳館教授に任じられ、尚徳館の制度改革を行った。文久二年(1862)以降、京都の情勢を探索し、藩論の指導、京都周旋などに尽くした。因州勤王派を代表する人物として藩内外に知られ、景山塾出身の志士たちとともに維新史に大きな足跡を残した。慶応四年(1868)のいわゆる隠岐騒動に際しては、鎮撫の責を果たした。維新後は教部省に出仕したが、ほどなく辞職。明治五年(1872)、東京猿楽町の寓居にて没。五十六歳。


贈従五位 明治徴士景山龍造守正夫婦墓

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北栄 Ⅱ

2018年01月20日 | 鳥取県
 北栄町は、「名探偵コナン」の作者青山剛昌の出身地で、道の駅には青山剛昌ふるさと館が併設され、JR由良駅は「コナン駅」と称している。コナンの熱狂的フアンである末娘はコナン駅を目の前にしておおはしゃぎであった。


JR由良駅(コナン駅)


コナン像

(隆光寺)
 明治六年(1873)、正墻薫(適處)は五十六歳のとき岩本廉蔵らの懇願により、一切の官職を辞して松神村(現・北栄町松神)に移住、隆光寺に研志塾を開いて、地域の子弟の教育に尽力した。適處は明治八年(1875)五十八歳で亡くなった。短期間であったが、研志塾からは優れた人材が巣立ち、地方の発展に寄与したという。隆光寺には、適處自筆の塾規が残されている。


隆光寺

 境内に「適處先生避塵之地」の碑があるはずだが、いくら探しても見つからない。一旦は諦めたが、家族をJR由良駅に送って、その足で境港の正福寺まで往復した(片道一時間)後、もう一度隆光寺に戻って境内を隈なく歩いてみた。どうやらこの石碑は、倉吉・湯梨浜・北栄で震度六弱を記録した一年前の鳥取地震で倒壊してしまったようである。残念というほかない。


適處先生避塵之地碑(の跡)

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倉吉

2018年01月20日 | 鳥取県
 今年(平成三十年(2018))の年明けは鳥取県三朝町の三朝温泉で迎えることになった。連日、旅館の豪勢な料理を残すことなく平らげた結果、気が付いたら標準体重を三キロもオーバーしていた。年始早々からダイエットに努めなくてはならない。

(赤瓦白土土蔵群)


第五十三代横綱琴桜傑将像

 倉吉は、第五十三代横綱琴桜のふるさとである。市役所のななめ向かい、観光駐車場の角に琴桜の堂々たる銅像が立っている。ここから徒歩数分の場所に琴桜記念館もある。琴桜は昭和四十七年(1972)九州場所、翌初場所をともに十四勝一敗で連続優勝して横綱昇進を決めた。当時、三十二歳。「遅咲きの桜」と揶揄された。引退後は年寄佐渡ヶ嶽として、大関琴風や琴欧州などを育てた。横綱としては短命に終わったが、指導者育成者として輝かしい実績を残した。
 この辺りは、町屋づくりの商家と白壁の土蔵が立ち並ぶ、伝統的建造物保存地区に指定されている。年末はさすがにお休みの店が多かった。


白土土蔵群

 元帥酒造は、嘉永年間創業の老舗の造り酒屋である。明治四十年(1907)、皇太子(のちの大正天皇)の山陰行啓に随行した東郷平八郎海軍大将に因んで地酒を「元帥」と名付けた。


赤瓦七号館「元帥酒造」


倉吉淀屋(旧牧田家住宅)

 大阪の豪商「淀屋」はその豪勢ぶりが仇となり、幕府により闕所となった。一方、倉吉で商いを始めた牧田仁右衛門(もと淀屋の番頭とも)が商いを始め、数代後に大阪に店を構え、代々「淀屋清兵衛」を名乗った。

(吉祥院)
 井伊直弼の禅の師、仙英禅師が住職を務めたというゆかりの寺である。仙英禅師は鳥取で生まれ、幼少の頃、仏門に入り、金城和尚の指導を受けた。倉吉で修行を積んだ後、天保十二年(1841)、彦根藩主井伊直亮にその人物を認められ、鳥取の景福寺から彦根の清凉寺に移り、第二十三代の住職となった。部屋住時代の井伊直弼の禅学の師であった。嘉永六年(1853)、ペリーの来航に際し、彦根でその報せを受けた直弼は、すぐさま仙英を訪ねて祈祷した。合わせて開国・剣難のことについても相談に与ったと伝えられる。元治元年(1864)没。年八十三。


吉祥院

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湯梨浜 Ⅱ

2018年01月20日 | 鳥取県
(西蓮寺)


西蓮寺

 湯梨浜町橋津の西蓮寺には、二十二士の脱出を手助けしたといわれる、中原吉兵衛、忠次郎父子の墓がある。境内入って右手の石段を登った墓地に、中原家の墓地がある。中原家は地元で代々続く商家であった。比較的広い墓所に中原家の盛んだった時代を偲ぶことができる。


贈正五位 中原吉兵衛之墓


忠譽義道即心信士(中原忠次郎の墓)

 中原吉兵衛は、文政八年(1825)の生まれ。伯耆国河村郡橋津村の大庄屋天野屋の分家お手船問屋天野屋の四代目当主。文久の頃、水口藩豊田謙次などいわゆる勤王の志士が多く来居し、よくこれを保護した。慶応二年(18666)七月、本圀寺事件の二○士河田左久馬、吉田直人、詫間樊六らの脱走に船を準備してこれを援け、さらに長男を伴わせた。途中、出雲国手結浦で松江藩に阻止され、長男忠次郎は抗戦したが、及ばず殺害された。吉兵衛は長州へ奔り、維新後帰藩したが、家業ふるわないまま、明治五年(1872)病没した。年四十八。

 長男忠次郎は、嘉永元年(1848)の生まれ。詫間樊六に剣術を学んだ。二十士が幽閉先の荒尾邸を脱出した際、これを助けて船を準備した。手結浦で怪しまれた四名は抑留され、残る十五名は長州潜入に成功した。残留した忠次郎は、慶応二年(1866)八月三日、黒部、早川、加藤四家の追討に遭い、師詫間らとともに討ち死にした。年十九。


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鳥取 Ⅳ

2018年01月20日 | 鳥取県
 平成三十年(2018)の正月は鳥取で過ごすことになった。末娘が「名探偵コナン」の大フアンで、コナンの作者青山剛昌の記念館のある北栄町を訪ねるというのが、この家族旅行の目的である。
 羽田から鳥取まで飛行時間は一時間二十分。降り立った空港は、愛称を鳥取砂丘コナン空港といって、至るところにコナンの絵がちりばめられているという、フアンにはたまらない場所である。
 空港からレンタカーで市内へ移動。京都から特急で移動してきた息子を鳥取駅で出迎え、駅の近所で海鮮丼を食し、その後は定番の鳥取砂丘である。
 鳥取砂丘は、小学生の時以来、およそ四十年振りである。見渡す限り広がる砂場に圧倒される。


村上水産 海鮮丼


鳥取砂丘


(浜坂台場跡)
 浜坂台場跡は鳥取砂丘の西の端に位置する。与謝野晶子沱涙碑から登る。幕末、鳥取藩が築造した十一の台場の一つ。ほかの台場跡は、比較的遺構を確認できるが、浜坂台場は、ほとんど何も残っていない。


浜坂台場跡

 砂丘の後は、これまた定番の「砂の美術館」へ。この美術館では、毎年一つの国をテーマに作品展示を入れ替えているが、平成二十九年(2017)はアメリカである。アメリカの歴史や文化などを題材にした砂の造形が展示されていた。


砂の美術館
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御成門 Ⅲ

2018年01月12日 | 東京都
(芝公園)
 地下鉄御成門駅の近く、芝公園の一角にかつて開拓使仮学校があった(港区芝公園3‐2)。


開拓使仮学校跡

 開拓使仮学校(北海道大学の前身)は、北海道開拓の人材を養成するために増上寺の方丈の二十五棟を購入して、明治五年(1872)三月、この地に開設された。札幌に移し、規模を大きくする計画であったことから「仮学校」と呼ばれた。同年九月には女学校も併設され、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わされたという。仮学校は、明治八年(1875)七月、札幌学校と改称され、八月には女学校とともに札幌に移転。さらに明治九年(1876)八月には札幌農学校へと発展した。

(青龍寺・光圓寺)
 青龍寺(港区虎ノ門3‐22‐7)は青松寺の末寺。今ではすっかり姿を変えてビルと化している。光圓寺は、その近くに所在している。
 両寺とも増上寺の近くにある。明治になってロシアから帰国した増田甲斎(橘耕斎)は、増上寺の境内の一角に起居し、時に請われてロシアでの体験談を近所の青龍寺や光圓寺で講演したという。


青龍寺


光圓寺

(慈恵看護専門学校)


看護教育発祥の地碑

 明治十七年(1887)十月、東京慈恵會医科大学祖高木兼寛は、アメリカからリード女子を招聘して、有志共立東京病院構内に看護婦育成を始めた。我が国における看護教育の嚆矢といわれる。今もこの地では、東京慈恵会医科大学西新橋キャンパスと付属病院に囲まれて慈恵看護専門学校が併設され、看護教育が実施されている(港区西新橋3‐25‐8)。

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靖国神社 Ⅵ

2018年01月12日 | 東京都
(千鳥ヶ渕戦没者墓苑)


千鳥ヶ渕戦没者墓苑

 千鳥ヶ渕戦没者墓苑(千代田区三番町2)は、昭和三十四年(1959)の創設。第二次世界大戦の戦没者の遺骨を納めた墓を中央の六角堂に祀る。
 安政三年(1856)、大村益次郎(当時は村田蔵六)は、この近くに私塾鳩居堂を開いた。蘭書を用いた蘭学、兵学、西洋医学を教授したといわれる。大村益次郎は万延元年(1860)以降、長州藩に出仕したため、時期は不明ながら鳩居堂も自然消滅したと思われる。

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