史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「大久保利通の肖像 その生と死をめぐって」 横田庄一郎著 朔北社

2012年12月24日 | 書評
当方の「大久保利通好き」を知っている上司が、新聞の書評欄の小さな記事を見つけてこの本のことを教えてくれた。早速その日の会社の帰りに書店に立ち寄って買い求めた。
著者は元新聞記者であって、歴史学者ではない。いかにも新聞記者らしく安積疏水の大久保神社や倉敷市の尊瀧院にまで足を運び、できる限りの資料にあたって、大久保利通の実像に迫ろうとする。その手法は、極めて実証的である。一方、歴史学者の毛利敏彦氏が直感的に「大久保は、源作(江藤新平の弟)の顔に、彼が佐賀の乱で処刑した江藤新平の亡霊を見たのかと、思わず取り乱したのではないだろうか」と主張したことに激しく異議を唱える。本書の最大の読みどころは、最終章の「暗殺現場の真相」である。著者は尊瀧院に保存されている大久保利通の馬車を実見し、暗殺時に大久保が降りたのは右側だったのか、左側だったのか、御用箱を馬車内に残したままだったのか、腕に抱えたままだったのかという点まで細かく検証して、当時の様子を再現してみせた。まるで目の前で大久保利通暗殺劇を見るかのような迫力である。実は鹿児島で開かれた「西南戦争120年展」に(これは今から十五年前に開催されたものであるが)大久保利通暗殺時の馬車が展示されたことがあり、当時鹿児島に勤務していた私はこの馬車を見る機会に恵まれたが、この本を読んでもう一度見てみたいという想いに駆られた。
本書では西南戦争勃発の直接的原因の一つとなった警察官中原尚雄らの派遣について、川路利良の独断であって、大久保は関知していなかったという説を採る。当時、警察は大久保が内務卿の任にあった内務省の管轄であり、現代の組織からすれば、このような重大な決定を大久保が知らされずに進められるとは考えにくい。更に言えば、同じ時期、大久保の指示を受けて鹿児島に派遣された野村綱のような人物が存在したことを考え合わせると、西郷を刺殺するというところまでの使命を負わされているかは不明であるとしても、大久保も承知の上でのことだったと私は思う。済みません、直感的にそう思うだけですが…。

コメント (4)
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「会津春秋」 清水義範著 集英社文庫

2012年12月24日 | 書評
このところお堅い本ばかりだったので、久し振りに肩の凝らない本を読んだ気がする。随分前に「蕎麦ときしめん」(講談社文庫)を読んで以来、清水義範のファンである。司馬遼太郎先生の小説を一通り読破した方には、是非「猿蟹の賦」を読んでみてもらいたい。抱腹絶倒すること間違いない。当時、私は独身寮に住んでいたが、深夜、隣室に迷惑をかけないよう、笑い声を押し殺すのに苦労した。
「蕎麦ときしめん」と比べると、「会津春秋」はかなり真面目な本である。主人公である会津藩士秋月新之助やその親友薩摩藩士橋口八郎太は、著者の創作上の人物であるが、作品の背景となっている歴史は極めて史実に忠実である。清水義範氏の歴史に対する造詣の深さを実感できる。
会津藩の幕末史は、白虎隊の自刃や西郷頼母の家族の自害など、救いようのない悲劇の連続である。著者は「あとがき」で
――― あの悲惨な歴史を、これでもかと暗く語るのは気が進まなかったのだ。なるべくさらりと悲劇を語り、でも逞しく生きていく、という前向きの小説にしたかった。
と記している。著者のこの思いは実現していると言えるだろう。ただし、清水義範という名前を聞いて連想するような奇想天外にして独創的な小説を期待すると、ちょっと期待外れに終わってしまうかもしれない。

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「落城 -戊辰戦争の勝敗を分けた白河口の戦い-」 穂積忠著 栄光出版社

2012年12月24日 | 書評
「落城」といっても、広くとれば会津城、白河城は含まれるだろうが、飽くまでこの小説のメインテーマは棚倉城である。棚倉は白河口に位置する小藩の一つであるが、戊辰戦争では半日余りの攻防で呆気なく落城した。大野勇三郎という少年とその母の逃避行と、棚倉藩の人々の悲喜交々を描いたこの作品は、小説としては特段面白いとか、感動的というものではない。棚倉城の落城により、藩士やその家族が分領である保原を目指して、言ってみれば戦争難民の如く右往左往していたとは、この本を読んで初めて知った。この小説の真価は、知られざる歴史に焦点を当てたところにあるのだろう。
因みに筆者は、棚倉の出身である。棚倉を舞台にした作品を手掛けるのは、必然だったといえるかもしれない。実は白河市の表郷地区と棚倉は、私の知っている限り、唯一戊辰戦争と天狗党の史跡が併存している場所である。
著者穂積忠氏の作品を読んだのは、実はこれが二冊目であった。一冊目は、水戸藩諸生党の首領市川三左衛門を描いた「忠が不忠になるぞ悲しき」である。水戸藩諸生党といい、戊辰戦争白河口における戦闘といい、いずれも私が興味を持っている分野ばかりであり、この方が次に何を書くのか、非常に楽しみである。

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三軒茶屋

2012年12月15日 | 東京都
(教学院)


教学院

 東急世田谷線三軒茶屋駅の近くに教学院がある。江戸五色不動の一つ、目青不動があることで知られる。


烏山藩主大久保家の墓

 教学院の墓地には、烏山藩主大久保氏、小田原藩主大久保氏、荻野山中藩大久保氏の歴代藩主の墓がある。
 大久保氏はもともと下野国の住人、宇都宮左近将監泰藤を祖とし、三河に移住して後、松平家に仕えるようになった。七世忠俊のとき大久保に改姓した。忠俊の弟、忠員は子供にも恵まれ、長男忠世は小田原城主、忠佐は沼津城主となった。烏山藩主の祖は、忠員の六男忠為で、三世常春のとき老中に抜擢され、烏山藩主に任じられた。以降、八代百四十年にわたり烏山藩主の座にあって、明治維新を迎えた。


有道院四品好学正義居士
大久保忠愨(ただなお)の墓

 大久保忠愨は、文政十二年(1829)の生まれで、九歳のとき祖父忠真のあとを継いで小田原藩主となった。幕府の命を受けて相模湾沿岸の警備強化に尽くした。韮山代官江川坦庵(太郎左衛門)に委託して、小田原五台場や大砲十八門の鋳造を完成させた。領内に倹約令を発して藩政改革を断行し、同時に軍制改革などにも取り組んだが、元来身体壮健ではなく、安政六年(1858)三十一歳で病没した。


高熠院殿星嶽秀顕大居士
大久保忠禮(ただのり)の墓

 大久保忠禮は、高松藩主松平頼恕の四男に生まれたが、忠愨の病死を受けて安政六年(1859)家督を継いで小田原藩主に就いた。文久三年(1863)幕府奏者番に任じられ、間もなく京都守衛の命を受けて藩兵千余名を率いて上洛した。禁門の変にも参加して、戦後朝廷より恩賞を賜った。戊辰戦争が起こると、箱根を警護したが、一時伊庭八郎らの率いる遊撃隊に応じて新政府軍の軍監十数人を殺害してしまった。その後、藩論は勤王に統一されたが、戦後このときの不始末を問われ、官位を剥奪され封土を没収された。支族大久保忠良が家督を継ぐことが許されたため、辛うじて家名を存続させることができた。明治三十年(1897)五十七歳で死去。


故陸軍伍長従五位大久保忠良墓

 大久保忠良は、小田原藩支族である萩野山中藩の出であったが、宗家の忠禮が箱根戦争の際、進退を誤った罪を問われ永蟄居を命じられたため、十二歳のとき急遽養子に決定し、小田原藩十五代藩主となった。ついで小田原藩知事にも任じられたが、廃藩置県により東京に移り住み、明治八年(1875)、家督を忠禮に戻し、自らは軍籍に身をおくことを志願した。陸軍伍長として西南戦争に出征したが、明治十年(1877)三月二十九日、熊本県山本郡木留口平野村にて戦死。二十一歳。


秋暉(しゅうき)岡本先生之墓

 小田原藩に仕えた画家岡本秋暉の墓である。岡本秋暉は、代々江戸麻布で医業を営む家に生まれたが、少時から画を好み、同時に武芸もたしなんだ。老中小田原藩主大久保忠真の知遇を得て、小田原に移り住んだ。栄達は画業の妨げになるとして、取り立てを固辞し終生微禄に甘んじた。江戸では渡辺崋山、佐竹永海、小田原では二宮尊徳と親しかった。文久二年(1862)五十三歳で没。
 秋暉の墓の横には、長男岡本隆徳の墓がある。岡本隆徳は、父の影響を受けて王事に奔走した。慶応四年(1868)四月には新政府軍に加わり、北関東諸藩を説いて帰順させた。維新後は新政府に出仕して、陸軍大尉、陸軍裁判大主理、陸軍法官部長を務めた後、辞職。退官後は書道三昧の生活を送り、名を成した。大正十一年(1922)八十七歳で死去した。

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大久保

2012年12月15日 | 東京都
(全竜寺)


全竜寺

 大久保は、ほかの東京のどの街にも無い異色な雰囲気の街である。韓国風焼肉屋とか、韓国料理の店、それに韓流スターのブロマイドを売る店とか、韓国食材の店などが軒を連ね、一瞬ここは韓国の繁華街かと見紛うばかりである。これに集まる客の九割以上は女性であり、この中にあってカメラを片手にしたオッサンは、完全に浮いた存在であった。大久保通りに面した繁華街の一角に全竜寺がある。全竜寺の境内に入ると、それまでの賑やかさが嘘のように静かで、ほっと一息つける。


鈴木重嶺之墓

 鈴木重嶺(しげね)は文化十一年(1814)幕臣の家に生まれ、鈴木家の養子となって十一代を継いだ。重嶺は諱。雅号を翠園と称した。勘定、同組頭、同吟味役を経て、元治元年(1864)には勘定奉行並に進んだ。慶応元年(1865)佐渡奉行となった。維新後も佐渡相川県知事等を歴任したが、明治九年(1876)官職を辞し、以後は和歌の道に励んだ。勝海舟とも深い交わりがあり、明治三十一年(1898)重嶺が八十五歳で没した時、海舟が葬儀に列席した記録が残っている。ほかに近衛忠煕、毛利元徳、久我建通、蜂須賀茂韶、井上頼圀、中島歌子、佐々木信綱ら、錚々たる人々が集まった。


都筑氏之墓

 都筑峰重は幕臣。文政三年(1820)、勘定出役、ついで勘定組頭、大津代官を経て、嘉永元年(1848)には勘定吟味役、嘉永六年(1853)に佐渡奉行となった。安政元年(1854)、下田開港準備のため下田奉行に転じ、林復斎、井戸覚弘らとともに米国使節応接掛となって、下田追加条約の締結に努めた。プチャーチンが下田に来航した折には、応接掛として和親条約の締結に尽力した。その後、条約勅許を得るために、老中堀田正睦、川路聖謨、岩瀬忠震らとともに工作に走ったが、失敗に帰した。そのさ中の安政五年(1858)三月、卒中に倒れ死去した。年五十六。当時、その死は切腹によると噂された。
 都筑峰暉(みねあき)は、峰重の子。父の死とともに家督を継いだ。神奈川開港取調掛を命じられ、万延元年(1860)には神奈川奉行に転じた。その後、先手鉄砲頭、勘定奉行、火付盗賊改役などの要職を歴任した。

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目白 Ⅱ

2012年12月15日 | 東京都
(雑司ヶ谷鬼子母神)


雑司ヶ谷鬼子母神

 雑司ヶ谷鬼子母神の門前には、茗荷屋という酒楼があった。慶応四年(1868)二月、この店に須永於菟之輔、本多敏三郎(晋)、伴門五郎ら十七名が集合した。彼等は慶喜の復権、助命について議論したが、このときは何事も決定されずに散会した。その後、場所を変えて二度、三度と集まるたびに、人数も増えていき、やがて彰義隊へと発展していったのである。

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巣鴨 Ⅳ

2012年12月15日 | 東京都
(染井霊園)


正四位子爵松平定教墓

 松平定教(さだのり)は、桑名藩主松平猷の長男。定敬の世子。戊辰戦争時は、桑名にあって城を明け渡した。明治二年(1869)、家名を相続。明治七年(1874)、アメリカに留学し、帰国後は外務卿付書記となったが、明治三十二年(1899)、四十三歳で病没した。


正四位男爵酒井忠績之墓

 酒井忠績(ただしげ)は、文政十年(1827)に生まれ、万延元年(1860)、三十四歳で宗家を相続した。文久二年(1862)以降は所司代を補佐して京都取締りに任じられた。文久三年(1863)、老中上座に補せられ、藩内では勤王派約七十名を断罪した。慶応元年(1865)、大老に就任したが、翌年には隠居して、維新後は静岡に移住した。明治二十八年(1895)、六十九歳にて死去。


麝香間祇候正二位勲二等伯爵松浦詮墓

 土饅頭型の神式の墓の主は松浦詮(まつらあきら)である。安政五年(1858)、襲封して平戸藩主となった。藩内では蘭学、鉄砲を奨励し、倹約興産により財政を補強して攻防強化に努めた。文久三年(1863)、上洛して孝明天皇に謁し、姻戚関係にある姉小路公知を通じて尊攘の意を表した。戊辰戦争に当たっては平戸を発ち、入京して明治天皇の二条城行幸の先駆けを務めた。奥羽にも出陣して、戦後章典禄三千石を下賜された。維新後は平戸藩知事、明宮祇候、貴族院議員を歴任した。和歌、茶道にも通じた。明治四十一年(1908)、六十九歳で死去。


正三位勲三等小原重哉墓

 小原重哉は、岡山藩士。藤本鉄石らと交わって尊攘説を唱えた。元治元年(1864)、土佐藩士岡元太郎らと謀って新選組隊士松山幾之助を暗殺し、その首を三軒寺に晒した。そのため一時藩獄につながれた。維新後は司法省に入って、判事として監獄法改良に努めた。ついで元老院議官に累進し、貴族院議員に勅撰された。絵画にも造詣が深く、内国勧業博覧会美術部の審査員に挙げられたこともある。明治三十五年(1902)六十七歳にて死去。


大壑居士及妻女子孫等之墓
(平田銕胤の墓)

 平田銕胤(かねたね)の墓である。生まれは伊予喜多郡新谷であるが、平田篤胤の養子となり、江戸本所柳島横川町に住んだ。文久二年(1862)、秋田藩士に取り立てられ、京都にあって堂上周旋に努めた。王政復古直後に上京して薩長勢力接近を図ったが、成功しなかった。慶応四年(1868)二月、参与神祇事務局判事、ついで内閣事務局判事に就いた。明治二年(1869)には明治天皇侍講、ついで大学大博士を兼ねた。明治十三年(1880)八十二歳で没。


高良斎家墓

 高良斎は、阿波の出身。眼科医の髙錦国の養子となって眼科を学んだ。十九歳のとき長崎に出て、シーボルトから西洋医学を学んだ。文政九年(1826)のシーボルト江戸行きに随行し、シーボルト事件に連座して蟄居を命じられた。その後、大阪で眼科を開業。大名の病を診て名声が高かった。弘化三年(1846)四十八歳にて死去。

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関内 Ⅳ

2012年12月09日 | 神奈川県
(横浜開港資料館)


横浜開港資料館

 今回、横浜開港資料館を訪ねたのは、生麦事件百五十年を記念して特別展が開かれていたからである。今回の展示の最大の注目は、生麦で殺害された英商人リチャードソンの遺品資料である。リチャードソンは、母国から遠く離れた極東の地から両親に宛てて、頻繁に手紙を送っている。横浜から送られた書簡では、日本のことを「イングランド以外で、これまで私が住んだ国々の中で最も素晴らしい国」と興奮気味に絶賛している。この手紙が書かれたわずか十一日後に自身がこの地で命を落とすとは、夢にも思わなかったであろう。
 この資料を現代まで受け継いでいたのは、リチャードソンの長姉アグネスの曾孫に当たるマイケル・ウェイスという人物である。書簡のほか、事件を伝える英字新聞「ジャパン・ヘラルド」号外や明治に入ってから撮影されたと思われるリチャードソンの墓石の写真、生麦事件現場の建てられた事件顕彰碑の写真なども同じ箱に保存されていたという。いずれも保存状態は非常に良好で、貴重な資料が残されていたことに感謝したい。

(横浜海岸教会)


横浜海岸教会

 横浜開港資料館に隣接する横浜海岸教会は、慶應四年(1868)五月に当地に建設されたものである。この教会の設立には、初代駐日総領事タウンゼント・ハリスが関わっている。ハリスが日本を去ったのは、文久二年(1862)のことであるが、その際、一千ドルの寄付金をアメリカ領事館付牧師ブラウンに託した。これをもとに明治八年(1875)、教会堂が建設された。残念ながら会堂は、関東大震災で倒壊してしまったが、昭和八年(1933)に再建された。

(山下町二十三番地)


煉瓦基礎

 この場所(旧・居留地二十二番~二十三番地)には、普通のビルが建っているが、このビルの建設中に居留地時代の煉瓦が発見された。柱や煙突などの重量物を支える基礎だったと推定されている。

(横浜市開港記念会館)


横浜市開港記念会館

 この建物は、横浜開港五十年を記念して着工され、大正六年(1917)七月に竣工した。関東大震災にて一部焼失したが、その後復旧工事が重ねられ、創建時の姿を取り戻している。


ポーハタン号のステンドグラス

 開港記念会館には、随所に美しいステンドグラスが使用されている。このステンドグラスは、ポーハタン号をデザインしたものである。ポーハタン号は、嘉永七年(1854)、ペリーが二回目に来航したときに旗艦として搭乗していたもので、安政五年(1858)にはこの船上で日米修好通商条約が締結された。さらに万延元年(1860)には、この条約の批准のために日本の使節団がポーハタン号に乗って太平洋を横断したことでも知られる。

(中居屋重兵衛店跡)


中居屋重兵衛店跡

 開港された横浜は、西欧への生糸の輸出港として繁栄した。中居屋重兵衛は、吾妻郡中居村(現・群馬県嬬恋村)出身の生糸商人で、安政六年(1859)に横浜に進出した。横浜の全輸出生糸の半分以上を取り扱ったと言われる。外国人の目を楽しませるために、庭には金網を張って小鳥を放し、座敷の周りにはガラス張りの大きな水槽を置いて金魚を泳がせていた。

(吉田橋跡)


吉田橋跡

 JR関内駅から徒歩数分の場所に、かつて吉田橋という鉄製の橋があった。明治二年(1869)にイギリス人土木技師ブラントンによって架け替えられた吉田橋は、長さ二十四メートル、幅六メートルの、我が国初の鉄橋であった。ブラントンは、明治政府が招聘した外国人で、明治元年(1868)から八年に渡って滞日し、日本の沿岸各地に灯台を建設したほか、横浜では日本大通りや横浜公園などを設計した。


ブラントン胸像(横浜公園)

(横浜指路教会)


横浜指路教会

 横浜指路教会は、明治七年(1874)の設立。アメリカ宣教医ヘボンのもとで学んでいた塾生たちを中心に教会設立の機運が高まり、当初、居留地に建てられた。その後、何度か移転を繰り返し、明治二十五年(1892)現在地にヘボンの尽力により、赤煉瓦造りの教会が建設された。関東大震災で倒壊したが再建。さらに第二次大戦時の空襲で内部が全焼したが、その後も改修を重ねて、往時の姿を留めている。

(横浜第二合同庁舎)


横浜第二合同庁舎

 横浜第二合同庁舎は、旧生糸検査所の建物を復元再建されたものである。建築は大正十五年(1926)。耐震耐久性の問題から一旦解体されたが、平成五年(1993)に再建された。

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高円寺 Ⅲ

2012年12月08日 | 東京都
(修行寺)


修行寺


成瀬正典の墓

 「幕末歴史散歩~東京篇~」(中公新書)に、犬山藩主成瀬隼人正肥の墓が高円寺の修行寺にあると記載されていたので、足を運んでみた。結論からいうと、成瀬正肥の墓は発見できなかった。正肥の四代前の成瀬正典が生前墓として建立した墓があるのみであった。
 修行寺は、江戸初期に江戸麹町に建てられたらしいが、その後移転を繰り返し、大正元年(1912)に市ヶ谷から現在地に移転したらしい。しかも第二次大戦中に空襲により被害を受けており、仮にこの寺に正肥の墓があったとしても、逸失してしまったのかもしれない。

(妙祝寺)


妙祝寺


播磨守一柳直方之墓

 妙祝寺は、西条藩主の室の開創であるが、一柳直方は西条藩主ではなくて幕臣である。弘化二年(1845)、浦賀奉行に任じられた翌五月、アメリカ海軍大将ビッドル率いる東インド艦隊が浦賀に入港。直方は、同役の大久保忠豊とともに湾内の警備を厳重にし、ビッドルから大統領親書を受けて、幕府に急報した。幕府ではビッドルに長崎に回航して欲しいとの諭書を伝達した。ビッドルは交渉継続を諦め、艦隊は平穏裏に抜錨した。その後、直方は日光奉行に転じ、小姓番組頭、書院番組頭を歴任して、万延元年(1860)に役を辞した。

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永福 Ⅱ

2012年12月08日 | 東京都
(大円寺)


西郷家之墓

 西郷隆盛の三男、午次郎家の墓である。西郷午次郎の母は、糸子。


大山彦八墓
源正院覺道良順居士

 八田知紀の墓を探して、墓地を歩き回ったが、遂に発見できなかった。代わりに大山彦八の墓を偶然発見した。
 この墓の主大山彦八は、大山巌の兄の彦八ではなく、その祖父大山彦八綱毅と思われる。


正七位国分友諒之墓

 国分友諒(ともさね)は、陸軍少佐権少警視。明治初期の警察幹部の一人である。明治六年の政変の後、下野して帰郷した。この間の経緯は、「翔ぶが如く」の文庫第三巻「明治七年」に詳しい。西南戦争に従軍して戦死している。

 港区立港郷土資料館にて平成二十四年度特別展「江戸の大名菩提寺」を開催していたので、展示説明会を行なっている日時を狙って田町まで行ってきた。無料ながら、見ごたえのある展示であった。
 江戸、特に現在の港区周辺には三百近い寺院が林立しており、その中には大名家の菩提寺も多かった。港区域だけでも三十二ヶ寺が菩提寺として確認されている。たとえば済海寺(越後長岡藩、伊予松山藩など)、泉岳寺(二本松藩、福知山藩、大田原藩など)、東禅寺(仙台藩、宇和島藩、一関藩、出石藩など)、青松寺(広島藩、長州藩、土佐藩など)などである。参勤交代を義務付けられていた大名家は、藩主やその家族が死去した場合に備えて、江戸に菩提寺を持っていることは不可欠であった。
 薩摩藩の江戸の菩提寺は、大円寺であった。今回、「江戸の大名菩提寺」特別展で初めて知ったことであるが、江戸期、大円寺は芝伊皿子にあった。その大円寺が何時、どういう理由で永福に移転したのか、この特別展では分からなかったが、実はかつて大円寺の墓地には、島津斉興の正室で斉彬の実母である弥姫(いよひめ)や斉彬の世子であった虎寿丸なども葬られていた。また、大名家では葬儀や供養の都度、菩提寺に多額の寄付を送ったり、美術品や経典を納めたりした。今もその施入物が菩提寺に伝えられている。これを見ると寺院はまさにタイムカプセルと呼ぶに相応しい。

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