史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

佐伯 Ⅱ

2022年08月06日 | 大分県

(海福寺)

 

海福寺

 

佐伯市鶴望の海福寺は、青木猛比古が幼少期を過ごした寺である。

青木猛比古は、天保二年(1831)の生まれ。父は農民清助。父の早世のため佐伯領内の海福寺に入り僧となったが、のち出奔。還俗して勤王の士と交わった。京都の神祇伯白川資訓王に会い、居ること一年余。内命を受けて九州に下り、防長の境に入り、勤王の士を糾合した。文久三年(1863)、三条実美ら七卿落ちの際には七卿を護衛して長州に下り、慶応元年(1865)、豊前宇佐に楠公会を組織して九州の同志を募った。慶應二年(1866)、長州の奇兵隊に入って小倉で幕軍と戦い、また宇佐の御許山挙兵にも参画し、慶応三年(1867)、有力公卿推戴のため、同志と上京したが、同年十月、三条大橋上で佐幕派浪士のために暗殺された。年三十七。

 

(大日寺)

 

大日寺

 

大日寺は西南戦争の際に、約三百の薩摩軍が城下に入り、この通りにあった山内八郎兵衛宅に本部を置いた。

 

(長昌寺)

 佐伯市宇目重岡町の長昌寺は、佐伯市街から三十キロメートル以上離れた山の中にある。重岡は、延岡から竹田・三重方面に向かう経路上にあり、北上しようとする薩軍を、官軍の拠点となった。官軍は、熊本鎮台司令長官谷干城少将が重岡で指揮をとった。

 明治初年、長昌寺は佐伯警察署の分署である重岡分署(藤丸警部が分署長を務めていた)があった所である。

 

長昌寺

 

長昌寺からの眺め

 

(蔵小野砦)

 

蔵小野砦

 

 蔵小野砦は、中世末期の山城跡である。小高い丘の上に大きさは周囲百メートルほどの空間が確保されている。その中に片側の高さ一メートル、片側が高さ二メートルという空堀が設けられ、百人程度が守れるようになっている。

 この場所は、前方に豊後・日向国境の梓峠、後方には駒鳴堡、東方に朝日岳城を望む要害堅固な山城であった。

 明治十年(1877)の西南戦争時には薩軍抜刀隊の拠点となり、官薩両軍入り乱れての戦場となった。

 

(黒土峠)

 

古戦場跡 黒土峠

 

 黒土峠も西南戦争の激戦地の一つである。峠には今にも倒れそうな、「古戦場跡 黒土峠」という掲示があるのと、その支柱に「黒土峠古戦場」と書かれた木柱が縛り付けてあるのみである。

 

(陸地峠)

 

西南之役陸地峠戦闘跡

 

西南の役、陸地峠戦跡碑

 

陸地峠延命地蔵

 

佐伯市直川大字赤木の陸地(かちじ)峠である。ここも西南戦争の激戦地である。

レンタカーのカーナビで検索すると、二時間以上もかかる道路しか表示されない。国道10号を走っていると、巨大なかぶとむしのモニュメントが現れる。「かぶとむし温泉」の入り口である。そこから県道603号へ入って、約五分すると直川ダムが現れる。ダムを対岸に渡ると直ぐに右折し、直川ダム沿いに約十五分走ると陸地峠に行き着く。このルートであれば、カブトムシのモニュメントから三十分足らずで、難所陸地峠に行くことができる。

 明治十年(1877)五月上旬から七月中旬まで約二か月間、直川での戦闘が続いた。七月十五日から降り出した雨は、益々激しく、風が加わった。この悪天候を好機として、官軍の決死隊は陸地峠の正面と、又杭ノ内より天狗領塁下を迂回し、峠の後方に潜行して塹壕の背面に出た。

 薩軍は悪天候に油断もあり、或いは連日連夜の戦闘で疲弊もあり、一人の哨兵もおらず眠っていた。決死隊は銃剣を擬し、「起きろ」と大声で怒鳴って一斉に壕に飛び込み刺殺した。天狗領、額返しの塁下に潜行待機していた部隊は、陸地峠の奇襲成功に応じて、それぞれ直ちに突入して占領に成功した。

 時に明治十年(1877)七月十六日正午頃である。

 途中、延命地蔵があるが、これは文化年間に作られたものという。さらに進むと、陸地峠山頂付近に記念碑が建っている。

 

 これにて今回計画していた大分県下の史跡探訪は終了。峠を下って宮崎県延岡市に入る。ここから宮崎県編に移る。

 

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佐伯 Ⅰ

2022年08月06日 | 大分県

(佐伯城三の丸櫓門)

 

佐伯城三の丸櫓門

 

 佐伯城登城には、佐伯市歴史資料館の広い駐車場に自動車を停めるのが便利である。駐車場に近接して三の丸楼門がある。三の丸楼門は、寛永十四年(1637)、三代藩主毛利高直の時に創建し、同時に藩政の場を山頂から麓の三の丸に移した。

 

(佐伯城跡)

 

佐伯城跡 廊下橋

 

 佐伯城本丸へは、藩政時代から続く「登城の道」、「独歩碑の道」という二つの道がある。私は、時間を優先して「登城の道」を選んだが、あまりの急坂に息が切れた。徒歩で十五分くらいのものであるが、私には標高六百メートルの高尾山よりきつく感じた。体力に自信のない方は、多少遠回りになるかもしれないが、独歩碑の道をお勧めする。たぶん登城時間は五分くらいしか変わらないと思われる。

 佐伯城は、慶長六年(1601)、日田から佐伯に入部した佐伯藩主毛利高政が新たな居城の建設を考え、番匠川沿いにあって水上交通に便利で、しかも守り易く攻め難い地形であった、高さ百四十四メートルの八幡山に四年の歳月をかけて築いた山城である。

 山頂城郭は、本丸を中心に、西南に二の丸、西出丸、東北に北出丸と、鶴が翼を広げた姿を連想させるため、別名「鶴屋城」または「鶴城」とも呼ばれた。

 

 廊下橋は、本丸と二の丸を繋ぐ橋である。有事の際には、廊下橋を落として敵の侵入を阻止することになっていた。「堅固で実践的」と評される佐伯城を象徴する施設である。

 

佐伯城 天守台跡

 

 佐伯城には、三重三階で南向けの天守閣があったとされる。しかし、築城後程なく失われ、再建されることもなかったため、今となっては詳細不明である。

 高さ百四十メートルの山頂から人口約五万人の佐伯市街や豊南の山々や番匠川の流れを見渡すことができる。晴れていれば、四国の山々まで見えるという。ここに来るまでの苦労が吹き飛ぶほどの眺望である。

 

佐伯城跡

 

(国木田独歩館)

 この建物は、明治二十六年(1893)から翌年まで、国木田独歩と弟収二が下宿した坂本永年邸である。坂本永年は、独歩が教師として勤めた鶴谷学館の館長であり、公私ともに面倒を見ていた。独歩は主屋の二階に起居し、裏山にあたる城山の山頂まで散歩することも多かったという。佐伯と独歩の関わりを、彼の過ごした坂本邸で紹介するために建物を修復し、国木田独歩館として公開された。

 

御浜御殿

 

国木田独歩館の展示

 

 国木田独歩館は、観覧料大人二百円、小中高生は五十円。主屋と土蔵に別れ、それぞれ一階二階に展示室が設けられている。

 国木田独歩は、明治四年(1871)、千葉県銚子市の生まれ。従軍記者を経て、雑誌編集などに従事し、「武蔵野」「忘れえぬ人々」「欺かざるの記」などの名作を残した。明治四十一年(1908)、病死。個人的には、富永有隣をモデルとした「富岡先生」の作者として強く印象に残っている。

 

(養賢寺)

 佐伯城三の丸櫓門から国木田独歩館を経て養徳寺に至る七百メートルほどの道は、「歴史と文化の道」と呼ばれ、白い土塀に囲まれた武家屋敷跡を見ながら歩くのは至福の時である。

 その行き当りが毛利家の菩提寺である養賢寺である。養賢寺は、慶長十年(1606)、藩祖毛利高政によって創建された。墓地には、毛利家歴代の墓地があり、歴代の藩主やその夫人、子供の五輪塔形式の墓石が整然と並んでいる。

 

 毛利家は、慶長六年(1601)以来、明治四年(1871)の廃藩置県まで、十二代二百六十九年に渡り、佐伯二万石の藩政に当たった。

 養賢寺毛利家墓所には、藩祖高政の霊廟のほか、歴代藩主の藩主らの墓が並んでいる。

 幕末の藩主は、毛利高泰。文化十二年(1815)に藩主高翰(たかなか)の子に生まれた。天保三年(1832)、藩主となり、天保六年(1835)、魚市場を設け、藩の利益を高めた。天保八年(1837)には藩内九十歳以上の者に米一俵を与えたり、嘉永六年(1853)の大地震の際には、市民を城中に入れて救済したり、常に領民の生活に意を用いた。安政に至り、兵備を改めようとして、安政二年(1855)、中村に騎射の教練等を行った。また同年井上庸春をして藩内に種痘を行わせた。文久元年(1861)、古賀親教の勧めにより養蚕を奨励させた。明治二年(1869)、年五十五で没。

 

養賢寺

 

毛利家歴代墓地

 

(佐伯(岡の谷)招魂場)

 臼坪岡の谷の日豊本線の踏切を横断すると、岡谷招魂社(佐伯招魂社)がある。西南戦争で戦死した軍人、軍夫百三十四柱と警察官十四柱が祀られている。

 佐伯招魂社に足を踏み入れた瞬間、そこにいたタヌキが驚いて立ち去った。人里に近い場所で普通にタヌキが出現するのは、さすがに九州だとどうでも良いところで感心した。

 

佐伯招魂社

 

敵愾碑

 

 敵愾碑を中心に百四十八基の墓石が並ぶ。敵愾碑は秋月新太郎(佐伯出身の政治家、自身も西南戦争に征討軍団書記官として従軍)の書。有栖川熾仁親王の篆額。建碑は明治十九年(1886)五月。

 

警察官の墓

 

佐伯招魂社

 

東京警視萩原隊戦死之碑

 

 警察官墓地の傍らにある東京警視萩原隊戦死之碑は、中村正直撰文、大庭永成の書。建立は明治十一年(1878)十月。

 碑文によれば、大分と宮崎の県境で、五十三名の死者と百二十一名の負傷者が続出したことが記載されている。官軍は、薩摩軍の得意とする白兵戦に対抗するため、剣道練達の士族を募集し、警視隊を編成した。東京警視萩原隊はその一つであり、大分・宮崎県境の山岳戦で勝利を収めた。

 

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津久見

2022年08月06日 | 大分県

(海岸寺)

 

海岸寺

 

 海岸寺境内には、伊能忠敬の測量遺跡碑がある。石碑側面には、測量従事者として坂部貞之丞、下河邊政五郎、青木勝次郎、永井要助らの名前が刻まれている。

 

海岸寺庭園

 

伊能勘解由忠敬測量遺蹟

 

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臼杵

2022年08月06日 | 大分県

(臼杵城跡)

 臼杵城は、丹生島と呼ばれる小高い丘の上に築城されている。築城は、有名な大友宗麟。永禄五年(1562)に丹生島城が築かれた当時は、この山は文字とおりの島で、四方を臼杵湾の白波に洗われる要害であったが、今はすっかり周囲を埋め立てられて島の面影はない。

 関ヶ原の戦いの直後、美濃から稲葉貞通が臼杵五万石に封じられて以降、稲葉氏十五代の居城となり、明治維新に及んだ。

 城跡は現在臼杵城跡公園となっているが、本丸跡、二の丸跡、卯寅口門脇櫓などが遺存している。

 

大門櫓

 

臼杵城石垣

 

臼杵城から市街を見下ろす

 

勤皇臼杵隊之碑

 

 この碑は、西南戦争において、郷土を守るために薩軍と戦い、その進撃を阻み敗走させたものの、臼杵における戦いにおいて命を落とした臼杵隊士四十三名の功績を永く伝えるために建てられたものである。

 明治十年(1877)六月一日、臼杵に侵攻してきた薩軍は約三千。これを迎え撃った臼杵隊は七百八十五人。来援の警視隊百名と合わせても、薩軍の三分の一に満たない人数であった。

 

野中蘭畹顕彰碑

 

 野中蘭畹(らんえん)は、藩校学古館の教授として子弟の教育にあたり、人材の育成に努めた。天保二年(1831)、現・大分市戸次本町に生まれ、十五歳の時、日出の帆足万里に師事し教えを受けた。その後、臼杵の海添に謀道館と称する私塾を開き、漢文をはじめ、語学、算術、習字などを教えた。のちに藩校の教授として招かれた。明治四年(1871)の廃藩置県後は、松方正義の知遇を得て、大蔵省に入り、明治二十一年(1889)、東京で没した。

 

(臼杵護国神社)

 

臼杵護国神社

 

 臼杵城跡には、臼杵護国神社が鎮座している。西南戦争以来の臼杵藩の戦死者を祀っている。

 

故臼杵藩大夫邨瀬君政績碑

 

 村瀬君政績碑は、天保二年(1831)、臼杵藩の藩制改革の総元締に抜擢され、藩財政の建て直しを成功させた村瀬庄兵衛通吉の功績を永く讃えるために建てられたものである。この碑には、当時藩が多額の借金を抱え、赤字財政に困窮し、その建て直しを迫られていた時、担当責任者として抜擢された村瀬が、「量入制出」の制度を採り入れ、無駄を省き、殖産に力を注ぎ、財政再建に努めたこと、さらに学古館や講武場を設けて、学問や武技を習わせ、人材育成に努めたことなどが記されている。村瀬通吉の菩提寺である月桂寺にも同じ表題の石碑があるが、碑文が同一なのかというところまでは確認できていない。

 

(大橋寺)

 

大橋寺

 

大橋寺は、西南戦争時、救護所、警視隊本陣跡として使用された。西南戦争による弾痕が残されているというが、探しても見つからず。墓地には、西南戦争で戦死した藤丸警部の墓があり、また高麗門前には、佐賀の乱の殉職者の供養塔が建てられている。

 

藤丸宗造警部之墓

左の白い墓石は息子の藤丸歩兵大尉のもの

 

 藤丸宗造は、弘化二年(1845)、臼杵町海添で生誕した。明治十年(1877)の西南戦争では、当時重岡警察分隊長であった藤丸は、薩軍が延岡から重岡に侵入すると、直ちに敵情を熊本鎮台に報告した。そののち、竹田地方の敵情探索中に捕らえられ、強く降伏を勧められたが、「捕らえらるるは命なり。降らざるは義なり。唯一死あるのみ。余は、大分県警部を奉ずる。請う死せん。」と従容として刃を受けた。享年三十二。

 息子の同名藤丸宗造も陸軍歩兵大尉として日露戦争に従軍して戦死し、父とともに臼杵護国神社に祀られている。

 

敵愾三士之碑

 

 大橋寺高麗門前にある佐賀の乱の殉職者供養塔である。

 

(月桂寺)

 月桂寺は、歴代臼杵藩主稲葉氏の菩提寺であり、藩の天保の改革を主導した村瀬通吉の墓がある。

 

月桂寺

 

故臼杵藩大夫邨瀬君政績碑

 

賢相元國居士(村瀬通吉の墓)

 

 村瀬通吉(みちよし)は、天明三年(1783)の生まれ。通吉は諱。通称は庄兵衛。臼杵藩は享保の頃から財政不如意だったが、従一大藩主稲葉雍通は隠居ののち、天保二年(1831)、幕府の改革により総役所を設け、家老村瀬通吉を総元締に任じた。通吉は、行政刷新、借財整理、緊縮励行、藩政振興を目標に、天保四年(1833)から借財整理を始め、弘化二年(1845)に完済した。天保十三年(1842)、服色制を定め、弘化二年(1845)より実施。天保九年、十二年(1838、1841)、新地を開き、天保十三年(1842)文武館を設け藩士の教育を強化した。この功により天保七年(1836)、二百石の加増を受け、天保九年(1838)、諱一字を賜り通吉と改めた。弘化二年(1845)、引退。文久二年(1862)、年八十で没。

 

稲葉通廣以降之墓

 

 稲葉通廣は、三代藩主一通の息。四代藩主信通の弟である。

 幕末の臼杵藩主は、十五代稲葉久通。異国船に備えるために台場を設け海防に努めた。維新後は、藩知事となった。明治二十六年(1893)、年五十一で没。

 

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豊後大野

2022年08月06日 | 大分県

(大原ツツジ公園)

 

西南戦役激戦之跡

 

 斜面に隙間なくツツジが植えられたこの場所は、大原ツツジ公園と呼ばれる。ツツジの季節にはきっと一面のツツジを楽しむことができるだろうが、私が訪れたときはまだ一分咲きといったところであった。

 ツツジ公園のある三重町は、やはり西南戦争で激戦が交わされた場所である。眼下を流れる三重川のほとりに「激戦之跡碑」が建てられている。

また、ツツジの中に西南戦争慰霊碑が建てられている。台座には、戦没者四十六名の氏名が刻まれている。

 

西南役戦没者 慰霊碑

 

 三重が激戦地となったのは、明治十年(1877)五月三十一日。隊長村田成禮以下三十四名が戦死。さらに六月十七日、三国峠の戦いでは、守備隊長山田宗賢以下十二名が散華している。

 

(三国峠)

 

三国峠からの眺望

 

 三国峠は、岡、臼杵、佐伯三藩にまたがる峠であったために、三国峠と命名された。祖母山、傾山、阿蘇をのぞむ景勝地である。眼下を見下ろすと、今走ってきた道が遠くに見える。どこも賑わうGWであるが、下界とは別世界の人影のない場所である。

 明治十年(1877)、西郷軍は三国峠、旗返峠の天然の要害に拠って官軍に激しく抵抗した。しかし、六月十七日、官軍の猛攻を支えきれず、戦死者の遺体を残して、小野市、重岡方面に退却した。

 

三国峠

 

 この場所で戦死した飫肥隊分隊長山田宗賢以下十一名の墓である。

 

日向飫肥士族十一名之墓

 

西南役三国峠薩軍飫肥士隊戦死者之碑

 

山田宗賢墓

 

 少し離れた藪の中に山田宗賢の墓がある。木柱には「薩軍」とあるが、党薩隊の一つ飫肥隊の分隊長である。

 

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竹田 Ⅳ

2022年07月23日 | 大分県

(岡城跡)

 今回の大分県・宮崎県の旅では、臼杵城、佐伯城、飫肥城など複数の城址を巡ることになったが、もっとも感銘を受けたのが、岡城であった。

 岡城は、稲葉川と大野川に挟まれた断崖絶壁に構築された「難攻不落の城」である。岡城は、兄である源頼朝に追われた義経を迎えるために、文治元年(1185)に緒方三郎惟栄が築城したという伝説から始まる。

 戦国時代には、豊後の大友氏の一族である志賀氏の居城であったが、天正十四年(1586)、島津義弘率いる大軍の三度にわたる猛攻に耐え、「難攻不落の城」という名を高めた。

 江戸時代に入ると、中川氏が岡城の城主となり、明治四年(1871)の廃藩置県により城を去るまでの二百七十七年間、中川氏の居城であった。中川氏の時代に岡城は改修を加えられ、要害堅固な地形を活かした総石垣の広大な近世城郭へと変貌した。

 明治七年(1874)、役目を終えた岡城の建造物は石垣を除いて取り壊され、現在見るように石垣のみが残る城跡となった。

 

史蹟 岡城阯

 

岡城跡

 

 建造物が一切残っていないのは寂しいが、標高三百二十五メートルの断崖に残る石垣だけでも一見の価値がある。本丸跡や家老但見屋敷跡から見る風景はまさに絶景である。感心したのは、高い石垣の上に落下防止の柵が一切設置されていないことである。転落したらケガでは済まないような高さなので、管理する側としては柵を設置したくなりそうなものだが、景観と眺望を重視した結果なのか、柵のようなものは見当たらない。

 

岡城跡

 

大野川

 

蕃山先生頌徳碑

 

 三の丸跡に熊沢蕃山の頌徳碑がある。熊沢蕃山は、備前岡山の儒学者である。三代藩主中川久清によって招かれ、治山治水の指導をした。さらに今日も残る城原井路(現・竹田市)の工事についても助言を与え、三宅山の植林にも携わった。この時、藩主も藩士とともに蕃山の講義を聴講したと伝えられている。

 

滝廉太郎像

 

 この城を全国的に有名にしたのが、竹田出身の作曲家滝廉太郎の「荒城の月」であることは論をまたないだろう。二の丸跡に滝廉太郎像が置かれている。直入郡高等小学校の同窓であった朝倉文夫の作。

 滝廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、名曲「荒城の月」の作曲に繋がったといわれる。明治三十四年(1901)の作曲・発表。

 

小河一敏翁之碑

 

 岡城三の丸跡にも小河一敏の顕彰碑がある。これで大阪府羽曳野市にある記念碑と合わせて、全国三ヶ所にある小河一敏の顕彰碑をコンプリートすることができた。人知れず満足。

 

(騎牟礼城跡)

 国道442号線沿いに駐車場があり、その近くに騎牟礼城跡に登る入口がある。行ってみれば分かるが、何も駐車場に自動車を停めなくても、山頂近くまで自動車で行くことができる。

 騎牟礼城の歴史は古く、久安二年(1150)というから、今から九百年近くも前のことになる。城跡といっても、何もない空間が広がっているだけであるが、この地は阿蘇方面から竹田を経て大分県内に進入する経路上に位置し、防御を考えると重要な拠点であった。西南戦争でも薩軍の重要な陣地となった。

 

騎牟礼城跡

 

 明治七年(1874)の佐賀の乱に出陣して戦死した岡藩士石川政夫(忠魂碑には政男となっている)の忠魂碑がある。

 

石川政夫忠魂碑

 

(満徳寺)

 雲華上人は、安永二年(1773)、豊後国直入郡豊岡村(現・竹田市)の満徳寺の寺主十四代円寧の二男に生まれた。その後、雲華は、豊前中津藩の名刹正行寺の法嗣として迎えられた。

 

満徳寺

 

(小畔定太郎戦没地)

 

小畔定太郎戦歿地

 

 小畔(おばた)定太郎は、新潟県長岡市出身で警視隊の一員として従軍し、明治十年(1877)五月二十七日の戦闘で戦死した。この石碑は長岡藩十五代当主牧野忠篤の筆。

 

(西光寺)

 

西光寺

 

 西光寺本堂前に西南戦争で殉職した藤丸宗造警部の像が建てられている。像の作者は、朝倉文夫である。

 

藤丸警部像

 

 藤丸警部は、臼杵出身。当時佐伯警察署の重岡分署長であった。薩摩軍が大分県へ進入すると、竹田署や熊本の政府軍に通報し、竹田地方における薩摩軍の動きを偵察していたところを薩軍に捕らえられた。明治十年(1877)五月二十三日、政府軍が竹田に迫ると、下木河原で斬殺された。西光寺の門前を流れる稲葉川の川原には、その場所に石が置かれている。

 その一部始終を見ていた西光寺第十九世孤松上人は、その霊を懇ろに弔った。以後、毎年五月二十三日には、西光寺に関係者が集まり、慰霊法要が開かれている。

 西光寺本堂内には、藤丸警部の最期の場面を直接見ていた人々から話を聞いた深沢画伯により描かれた殉職最後の想像画が保存されている。

 

(藤丸警部殉職之地碑)

 

稲葉川

 

 西光寺前を流れる稲葉川の川原に藤丸警部殉職之地碑が建てられている。碑というより川原石である。

 

藤丸警部殉職之地碑

 

 この時、藤丸警部は、「魂魄となって空中に遺り人民保護」と叫び、三十三歳の人生を閉じた。

 

(一事稲荷神社)

 

一事稲荷神社

 

就義碑

 

西光寺に隣接する一事主神社の前には、藤丸警部が亡くなって十年以上経って、町内有志によって建立された就義碑(藤丸警部顕彰碑)が建てられた。

 

(碧雲寺)

 

碧雲寺

 

 碧雲寺は、岡藩主の菩提寺である。本堂の左に庫裡、庫裡に接して書院を設け、それぞれの建物が廊下で結ばれていた。本堂と庫裡の間に玄関があり、本堂の右手には廊下で繋がった四間×九間の長い建物(僧堂)があった。その僧堂の北側に隣接して禅堂があった。現在はそのほとんどを失っているが、今も「おたまや公園」と呼ばれる空間に中川家墓所が置かれている。

 

中川家

 

 傍らの墓誌によると、平成二十一年(2009)三月、中川家十八代当主中川久定氏により、青山霊園20号1種ロ28側2に所在した中川家墓地より、十六代当主久任以下六遺骨が改装されている。

 

角田九華墓

 

 角田九華(つのだきゅうか)の墓である。

 角田九華は、天明四年(1784)の生まれ。岡藩大阪藩邸に生まれたが、孤児となり、富商升屋小左衛門が資金を出し、中井竹山の門に入れ、のち岡藩医角田東水の養子となった。文化二年(1805)、二十二歳のとき、大分鶴崎の脇蘭室に学び、のち再び大阪に出て竹山につき才学大いに上った。岡に帰り下士に列し、藩校由学館の句読師、司業、侍講と進み、弘化元年(1844)、教授。上士に列した。性温厚、しかも事にあたって厳正で。天保初年藩主の田猟、散楽の遊興を諫め、弘化年間には藩主が幕府老中職を望んだことを諷諫したといわれる。安政二年(1855)、年七十二で没。

 

 竹田市内探索は以上となる。「また来たい」と思わせる魅力的な街であった。

 

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竹田 Ⅲ

2022年07月23日 | 大分県

(竹田市歴史文化館・由学館)

竹田市歴史文化館・由学館は、国史跡「岡城跡」に関する情報を提供する「岡城ガイダンスセンター」、市民をはじめとする様々な文化芸術活動の発表の場としての「市民ギャラリー」、企画展・特別展を開催する「特別展示室ちくでん館」等を備えた施設である。個人的にはあまり興味はなかったが、どうやらここに入らないと、旧竹田荘に行けないようだったので、入場した。

 

竹田翁生誕之地

 

竹田荘

 

竹田荘内部

 

 旧竹田荘(ちくでんそう)は、田能村家の住居。田能村家は代々岡藩の医師であった。竹田はここに生まれ、終生生活の拠点とした。城下町の南端に位置し、北側に拡がる城下町を一望することができる。

 田能村家は、寛政元年(1789)の火災で類焼し翌年に再建され、文化五年(1808)頃から改修・増築が加えられた。竹田荘母屋は、木造の二階建てで、一階は主に生活空間で、製薬所や調合所としても使われた。文政元年(1818)十月、頼山陽が竹田を訪ねて岡を来遊した際、七日滞在し、うち二日はこの竹田荘で宿泊したという。

 この母屋は、昭和五十六年(1981)から二年をかけて保存修理を施し、元の姿に復元されたものである。

 

画聖堂

 

 画聖堂は、旧竹田荘西側の隣接地に建設された田能村竹田を祀るための施設で、昭和九年(1934)に開催された竹田先生百年祭の記念事業として建設されたものである(完成は昭和十三年(1938))。

 屋内の中央奥に祭壇が設けられ、田能村竹田像(昭和十八年(1843)彫刻家渡辺長男作)が祀られている。

 

祭壇と田能村竹田像

 

田能村竹田画碑

河豚図

 

 

不死吟の書碑

 

 田能村竹田は、天保六年(1835)三月に自著「山中人饒舌」の校正作業のため、大阪に旅立った。同年六月に大阪に到着し、大塩平八郎を訪問している。七月に体調を崩し、吹田村の井内左門宅で療養した。その後、大阪中之島の岡藩蔵屋敷へ移り療養を続けたが、八月二十九日、五十九年の生涯を閉じた。

 不死吟の書というのは、病床の田能村竹田を息子太一が見舞った際、最期を迎えた竹田が作ったとされる詩である。

 

小河一敏記念碑

 

 竹田荘から階段を下ったところに小さな公園(竹田荘公園)があり、そこに石碑が集められている。その中の一つに小河一敏の顕彰碑がある。篆額は副島種臣。

 

画神碑

 

 画神碑は、田能村竹田の養子、田能村直入が、久邇宮殿下から賜った直筆の「画神」を石碑にしたものである。

 田能村直入は、城下寺町に生まれ、幼名を伝太といった。幼い頃から画が上手で、八歳のとき田能村竹田の竹田荘に入塾し、十歳のとき、竹田の養子となった。二十六歳で竹田を離れて大阪の堺で開塾し、三十歳の頃には門弟三百名を数えた。直入の功績は、竹田ら南画家たちの功績を広め、南画を普及させたことで、そのために画を描いてはそれを資金として先人を讃える碑を建てたり、南画学校を設立した。

 最後の作品となる「青録梅林山水画」を描き上げることに没頭中、九十四歳の生涯を閉じた。直入は、明治天皇、皇后両陛下をはじめ皇族からも高い評価を受け、この石碑はその証左といえる。

 

南画館碑 「暗香疎影図」

 

南画館碑 「亦復一楽帖」

 

 竹田市内には南画を陶板にした石碑が八か所に設置されている。さすがに時間の関係で全てを回ることはできなかったが、旧竹田荘や由学館周辺の二か所の南画碑を写真に収めることができた。

 

 竹田荘公園の前にある石碑には、竹田の代表作と呼ばれる「暗香疎影館」(天保二年(1831)作)が紹介されている。この作品は、別府に入湯に訪れた際に土地の豪商荒金呉石に贈った、竹田五十三歳の作。呉石所有の梅園に触発され画面一杯に梅の古樹を描いたものである。

 「亦復一楽帖」は、全十三図のうち四図が陶板碑化されている。この作品は竹田五十四から五十五歳のときの作品。竹田はこの作品の跋文を頼山陽に書いてもらおうと持ち込んだところ、山陽がこの作品に魅せられてしまい画帖を手放そうとしなかったため、諦めた竹田は、当初十図だったものに三図を描き足して十三図としたものである。

 

(広瀬神社)

 

有馬良橘筆 縣社廣瀬神社

 

廣瀬武夫像

 

 広瀬神社は、いうまでもなく広瀬武夫を祭神とする神社である。昭和十年(1935)に建立された。境内には広瀬武夫記念館があり遺品などが展示されている。鳥居の前に広瀬武夫像があるほか、竹田市出身の陸軍大将阿南惟幾の顕彰碑、胸像もある。

 

広瀬神社

 

広瀬武夫記念館

 

竹田城下町

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竹田 Ⅱ

2022年07月23日 | 大分県

(鴻巣台墓地)

 

海軍中佐贈正四位勲四等功三級廣瀬武夫墓

 

 広瀬武夫の墓のある墓地も西南戦争でも激戦地となった。薩軍は墓石を倒してバリケードとして使用したといわれる。官軍は山林や民家に火を放ち、薩軍の抜刀攻撃に備えた。

 

 広瀬武夫は、明治三十七年(1904)の日露戦争で、二回に渡り旅順港入口を封鎖するため、船を沈める作戦の陣頭指揮をとった。二回目のとき、閉塞作業を終えて帰ろうとすると、杉野兵曹長の姿が見えないので、沈みゆく船内を探しに引き返した。しかし、発見することができず、ボートに乗り移ろうとしたその瞬間、砲弾が体に命中し、武夫の姿は一片の肉を残して海中に消えた。三十五歳であった。

 その直後から広瀬は軍神として崇められ、神格化されることになった。

 同じ墓地に広瀬武夫夫人や父重武の墓や、広瀬一族の墓もある。

 

廣瀬重武墓

 

 広瀬武夫の父重武の墓である。広瀬家の始祖は、肥後の菊地一族といわれる。父広瀬重武は、天保七年(1836)の生まれ。岡藩の下級武士であったが、廉直で義気に富んだといわれる。幕末には勤王の志士として活躍し、岡藩の小河一敏や中川栖山らと意気投合、藩の大義を伸ばそうとして常に機務に参画した。文久二年(1862)、島津久光の入京の際、藩論をまとめて上京し、そこで寺田屋事件に遭った。帰藩後、幽閉されたが、解禁後再び上京した。しかし、慶応元年(1865)、僧胤康事件により再度拘禁された。維新後は裁判官となり、飛騨高山や天草などに赴任した。晩年は竹田に戻って隠棲した。明治三十四年(1901)、年六十六で没した。硬骨の人で、同時に情義に厚いことでも有名だったといわれる。

 

(広瀬武夫生誕の地)

 墓地と同じ茶屋の辻に広瀬武夫生誕の地がある。

 広瀬武夫がこの地に生まれたのは、慶応四年(1868)五月二十七日。広瀬重武の二男である。広瀬家も明治十年(1877)の西南戦争で戦火に遭ったことから、父重武の赴任地である飛騨高山に移った。武夫は、小学校教師、攻玉社を経て、海軍兵学校に入学。卒業後、少尉候補生として遠洋航海を経験し、水雷術の訓練を受け、日清戦争では水雷艇に乗り込み、大連湾、旅順港口を掃海した。明治三十年(1897)にはロシア留学を命じられ、後に交戦国となるこの地で、四年八ヶ月を過ごし、厳冬のシベリア経由で帰国した。

 

陸軍中佐廣瀬武夫誕生之地

 

(番所跡)

 

番所跡

 

 広瀬武夫誕生地から百メートル余り東へ行くと、水源池の横に番所跡を示す説明板が建てられている。この場所は、明治十年(1877)五月二十八日、薩摩軍は亀甲台の陳地から退却してこの番所より左手方向(胡麻生峠方面)、右手方面(上角口)に分かれた。政府軍はそれを追って、右手方向に突進して追撃したが、そこに左手方向に逃げた薩摩軍が戻り応戦した。夜間の斬りこみ戦のため、両軍の死者数夥しく、遺棄された薩軍の戦死者は、番所横に埋葬され小高い丘になった。これが千人塚で、地元では耳塚と呼んで、昭和初期まで供養が続けられていたという。

 「日本の戦死塚」(室井康成著 角川ソフィア文庫)の巻末に掲載されている戦死塚リストにも千人塚が掲載されている。しかし、千人塚と思しき場所は、樹木が生い茂っており、特定するのは困難である。

 

(そうぞうの丘)

 そうぞうの丘というのは、無料キャンプ場を備えた野外活動施設だそうである。その駐車場入り口付近に、中川栖山の屋敷跡や移築された小河家門などがある。

 

中川栖山屋敷跡

 

 中川栖山(せいざん)は、文政八年(1825)の生まれ。諱は久煕。通称土佐。栖山は雅号である。豊後岡藩中川氏の支流で、世々家老職を務める家に生まれた。勤王家で、同藩士小河一敏、広瀬重武、田近長陽らと奔走。嘉永六年(1853)、米艦浦賀来航の折、日向木曽の慈眼寺胤康を招いて国事を議し、老職中川式部と謀り、内政を改革し、雄藩と協力して事を成そうとした。文久以来、九州の勤王浪士が集まり、文久二年(1862)には小河らを上京させ、島津久光を擁して事を挙げようとしたが失敗。文久三年(1863)四月、隠居禁固に処された。明治元年(1868)、九州鎮撫総督澤宜嘉に召されて長崎に赴き、天草五箇庄知事に任じられた。辞職後、長崎に岡物産会社を興し、煙草の輸出など殖産興業に努めた。明治四年(1871)、年四十七で没。

 

小河家入口

 

 そうぞうの丘に入る坂道の途中に小河家を表す説明板が建てられている。

 小河家は、第三代藩主中川久清(入山)のとき、広島より来藩し、以降代々中川候に仕え、家禄五百石を給されていた。小河一敏は、文化十年(1813)のこの地で生まれ、七歳で藩儒学者角田九華の門に入り、奇才を発揮し師を驚かせたといわれる。二十四歳の若さで藩の元占役(もとじめやく)に抜擢された俊才で、文武両道に優れていた。岡藩尊攘派を代表する一人となり、尊王攘夷論が沸き立つと上方に出て西郷吉之助や桂小五郎らの勤王の志士と交わった。維新後は、政府の重職や大阪堺県知事となり、土木事業を行い、農村の疲弊を救済した。一時、宮内省の長官に補されたが、堺での大工事の咎で罷免された。のち疑いが晴れて太政官に任じられた。七十八才で没。葬儀に際し、明治天皇から金三百円の功労金と正四位を賜った。

 

 小河家屋敷入口の門は、藩主一族の第一家老中川栖山の屋敷(現そうぞうの丘)の門である。野殿屋敷に移されていたが、道路改修工事により取り壊されることを惜しみ、平成八年(1996)、子孫の小河一博氏がこの地に移して再建したものである。

 

小河家屋敷門

 

小河一敏生家

 

(洗竹窓跡)

 

洗竹窓跡

 

洗竹窓跡

 

 洗竹窓(せんちくそう)は、竹田を中川藩が治めていた時代、約三百有余年前に作られた茶園で、江戸時代の豪商加島冨上の別荘の跡である。京都嵐山から持ち帰り移植したと伝えらえる樹齢およそ三百年の紅葉の老樹が亭々として枝を拡げ、秋景の紅一際艶やかな彩を添えた。田能村竹田が「東楓林山」と名付けたことでも知られる。

 もとは風流人である淵野宗渕の臨川亭の跡で、寛政から天保年間に岡藩御用達、加島吉郎兵衛(冨上)によってさらに拓かれて別荘洗竹窓として生まれ変わった。台上の北壁の断崖には江戸千家茶道開祖の筆になる「雪積千山孤峰不白」の文字が刻まれ、その下に受け台が刻まれ、台上には置物式に彫刻された一匹の狛犬の座像があり、岸壁には三日月状に刻まれた灯明台があった。

 文政元年(1818)には、田能村竹田や角田九華らが洗竹窓に集い国論を語り合い、鎖国制度を改める建議の方策を練ったとも伝えられる。この地で作詩された頼山陽、田能村竹田の作品も多く残されている。

 洗竹窓は、西南戦争の際に焼失し、現在、吉郎兵衛が起居した別荘茶室は存在していない。辛うじて田楽焼きで宴が開かれたといわれる田楽石が残されているのみである。一面茫々たる雑草が茂り、見る影もない。

 

(胡麻生台)

 

胡麻生台

 

 この周辺では、江戸時代付近の畑で胡麻を栽培していたことが知名の由来となっている。峠は竹田と入田、高千穂を結ぶ往還の途中にあり、人々が竹田を旅立つ際に竹田との別れを惜しむ「さよなら峠」ともいわれた。

 やはり明治十年(1877)の西南戦争で激戦地となり、茶屋の辻を舞台とした戦闘では、休戦となったときにこの地に薩軍が集結したとされる。戦闘は尾根の戦いから稲葉川を渡り、古城で最後を迎えた。

 

胡麻生地蔵尊

 

 茶屋の辻の胡麻生(ごもう)台、亀甲台、鴻巣台は、尾根と谷底が交互にあり、身を隠すには絶好の場所で、竹田にとっては防戦のための屏風の役割を果たしていた。

 

胡麻生地蔵尊

 

(田能村竹田の墓)

 

竹田先生墓(田能村竹田の墓)

 

 胡麻生台から西側の谷に向かって古い墓地があり、その一番奥に田能村家の墓がある。

 田能村竹田は、安永六年(1777)、藩医の家に生まれた。幼少の頃、英雄寺十世道寿和尚について漢学を、渡辺蓬山に画の手ほどきを受けた。その一生の大半を「墨絵と詩文」に費やし、豊後南画の祖と称される秀逸な画家で、多くの作品を残した。

 五十五歳のとき、名画といわれる「暗香疎影図」を描いたが、どんな作品でも粗末に描くことはなかったとされる。画道を究める間に藩校の校長を務め、豊後国誌の編纂にも携わった。また藩主に政治の立て直しの建白書を出した。さらに九州各地から京都まで旅をして多くの文人と交友があり、中でも頼山陽とは無二の親友であった。

 天保六年(1835)、大阪中之島の岡藩蔵屋敷で五十九歳の生涯を閉じた。大阪天王寺の浄春寺に葬られたが、弘化元年(1844)、長男の如仙が遺髪と歯牙を竹田に持ち帰り、胡麻生峠の墓地に埋葬した。墓石は浄春寺にあるものを模したものとなっている。

 

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竹田 Ⅰ

2022年07月23日 | 大分県

(高鼻公園)

 二日目は早朝に日田を出発し、玖珠、九重、別府、大分を経て午後二時前に竹田市内に入った。長年憧れていた竹田にようやくたどり着いた。期待に胸が高まる。

 竹田は人口二万人程度の小さな街であるが、かつては難攻不落を謳われた岡城を中心とした城下町であり、中川氏四万石の領地であった。

 明治十年(1877)の西南戦争では、薩軍と官軍の激しい戦闘の舞台となった。今でも市内を中心に戦跡が残されている。時間の許す限り、西南戦争関係の史跡を訪ねて歩くこととしたい。

 最初の訪問地は、市内を通過して熊本県寄りにある高鼻(たかばな)公園である。

 

高鼻公園

 

馬背野峠に設けられた高鼻公園は、西南戦争の戦跡の一つである。

明治十年(1877)五月、竹田を占拠した薩摩軍を討伐するため、熊本鎮台は二個大隊を派遣した。恵良原に本陣を布いた官軍は、馬背野峠に拠り、十九日、薩摩軍との間に終日、激しい銃撃戦を繰り広げた。

両軍が大分県下で最初に砲火を交わしたのがこの戦いで、その後約四か月にわたり県下各地で激しい戦闘が行われた。

 

史跡 馬瀬野峠(高鼻公園)

 

(中川神社)

 

中川神社

 

 中川神社は、岡藩初代藩主中川清秀、二代秀政、三代久清を合祀する。創始当時は城内にあったが、明治五年(1872)に神号を許可され、明治六年(1873)、岡城を解体する際に城内にあった清秀の廟所荘嶽社を常盤山に移し、中川神社と称するようになった。

 

弾痕?

 

 西南戦争では激戦地となり、社殿に弾痕らしきものが残されている。

 

(鴻巣台公園)

 

鴻巣台公園

 

鴻巣台 西南の役激戦の地

 

 竹田市総合運動公園の南側一体を茶屋の辻と呼ぶが、やはり明治十年(1877)五月、この周辺が激戦地となった。鴻巣台公園には、激戦地を示す石碑や説明板が建てられているほか、推定樹齢二百五十年というヤマザクラが建っている。五月二十六日にはこの樹をはさんで両軍が激しく銃撃戦を交わした。

 

西南の役の生証人 鴻巣台の桜

 

(立哨濠)

 鴻巣台公園の前の細い道を西に進むと、立哨濠がある。薩軍の夜襲を警戒して、官軍の番兵が身を隠した跡で、二つの濠を確認できる。人ひとりが入れるくらいの大きさであるが、半ば土砂で埋もれているのが残念である。

 

立哨濠

 

立哨濠

 

立哨濠

 

(蛇塚)

 

蛇塚

 

 立哨濠の前の小径をさらに進むと、蛇塚と呼ばれる共同墓地がある。

 鬼が城方面から迫る官軍に対し、薩軍は墓石を盾に戦ったとされる。今も墓石に弾痕を確認することができ、当時の戦闘の凄まじさを偲ぶことができる。

 

弾痕の残る墓

 

弾痕の残る墓

 

(やすらぎと史の史の館)

 

西南戦争犠牲者供養塔

 

 広瀬武夫誕生の地から鴻巣台公園方面に進むと、右手に「やすらぎと史の史の館」という看板を掲げた家がある。その南側に西南戦争犠牲者供養塔が建てられている。そばにある木柱によれば「西南戦争研究会」「茶屋の辻歴史文化研究会」「文化財を応援する会」という三つに団体がこの供養塔建立に関わったらしい。どういう団体なのか詳細は分からないが、恐らく地元の郷土史を研究する集まりだろう。立哨濠や蛇塚にも「茶屋の辻自治会」による説明が付されていたが、来訪者にはとても有り難い。

 

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大分 佐賀関

2022年07月16日 | 大分県

 

JX金属製錬 佐賀関製錬所

 

 佐賀関製錬所は創業大正五年(1916)。高さ凡そ二百メートルの煙突が町のシンボルとなっている。粗銅生産能力四十五万トンは、我が国最大である。今では佐賀関は製錬所の企業城下町であるが、江戸時代を通じて鶴崎と同様、熊本藩の飛び地であった。

 今も四国三崎と結ぶ九四フェリーの発着地となっている。かつて四国に住んでいた頃は、このフェリーを使って九州上陸を計画したが、遂に実現することはできないまま今日まで来てしまった。

 

(徳応寺)

 

徳応寺

 

 徳応寺は、元治元年(1864)に、勝海舟と坂本龍馬一行が来関した折に止宿したといわれる。往きは二月十五日、還りは四月十日のことである。門前にそのことを記した「佐賀関まちづくり協議会 佐賀関ボランティアガイド」の建てた説明板が設置されている。西南戦争では、政府軍の警察隊がこの寺に駐留した。

 

海舟・龍馬止宿の寺

 

(佐賀関・神崎地域包括支援センター)

 

嵯峨屋

 

 徳応寺前は古い商店街となっている。徳応寺に隣接する佐賀関・神崎地域包括支援センター前には「嵯峨屋」という屋号が掲示されている。海舟・龍馬一行が佐賀関に止宿した際に、一行が分宿した屋号である。

 

(まちのえき よらんせえ~)

 

讃岐屋

 

 嵯峨屋の向かいには讃岐屋という屋号の店があった。讃岐屋では、海舟・龍馬一行を接待し、亭主役として活躍した。

 

(地蔵寺)

 

地蔵寺

 

 地蔵寺には、西南戦争時の官軍兵士の墓を探して歩いたが発見に至らず。

 

(佐賀関製錬所購買会)

 元治元年(1864)二月十五日、勝海舟に連れられた坂本龍馬らは、神戸から第二長崎丸に乗って佐賀関に降り立った。彼らの目的は、幕府の命を受け、英・仏・蘭・米の四か国連合艦隊が計画している長州攻撃を中止させる交渉を長崎で行うためであった。

 上陸後、徳応寺に宿泊し、鶴崎、野津原、久住と宿泊を重ね、長崎へ向かった。帰りも同じ道をたどって九州を横断した。

 当時の佐賀関の地図と現代の地図を重ね合わせ、この場所(佐賀関製錬所購買会駐車場)が上陸地と特定された。

 

文久四年(一八六四)年二月十五日

龍馬上陸の地

 

龍馬街道 出立の地

 

峠越えをした海舟・龍馬

 

 元治元年(1864)二月十六日の朝、徳応寺を出た海舟一行は、有屋峠から虎御前峠、篠生峠を越え、鶴崎に向かった。

 現在の海岸沿いの道(国道197号線)が通じたのは明治になってからで、それまでは険しい山越えをしていた。当時、大名行列も駕籠で通った道で、Uターンできるように幅三メートルの道が今もそのまま残されている。現在、この峠越えの道は、人が足を踏み入れていないためにかなり荒れているそうである。今回は時間の関係で、残念ながら峠越えの道はパスした。

 海舟一行は、峠越えをして一日で鶴崎に達している。現代人から見れば、相当な健脚である。

 

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