東京向島に生まれた著者は、「生まれついての薩長嫌い」で「幕末における薩長は、暴力組織以外のなにものでもない」といって憚らない。勝海舟のことを、親しみを込めて「勝つぁん」と呼んでいるが、この本を通読すれば著者が海舟に心酔していることがビシバシ伝わってくる。山岡鉄舟や大久保一翁の功績を、あたかも自分の手柄のように自慢しているところは割り引くとしても、幕末維新の混乱期における海舟の役割は、無視できないほど大きかった。なのに、海舟の銅像が出身地である墨田区役所に建てられたのは、没後百年以上を経た平成十五年のことである。端的に言って、その功績に比して不思議なほど人気がない。巷間いわれているように慶喜と海舟は、どうしようもなく不仲であった。両者が和解を迎えるのは、実に明治二十五年(1892)まで待たなくてはならない。半藤氏は、一方的に海舟の言い分を書き立てているが、慶喜にも当然海舟を嫌う理由があっただろう。海舟に最も近い存在であったたみ夫人は、かなり海舟から気持ちが離れていたようである。「生きているうちはともかく、死んでからは一緒の墓に入らん」と言い遺して世を去った。慶喜やたみ夫人だけではない。福沢諭吉、福地桜痴、栗本鋤雲など、海舟嫌いは枚挙に暇ない。これだけ人に嫌われるというのは、本人の人間性に何らかの問題があったのではと勘繰りたくなる。海舟は「氷川清話」や「海舟座談」など多くの言葉を残しているが、この人の頭の良さ、世の中を見通す力にはいつも感心させられる。本当に頭の切れる人だったのだろう。海舟にしてみれば、世の中バカばっかりに見えていたに違いない。人をバカにすれば、当然の反作用として相手に嫌われるのが道理である。これほどの見識と大局観を持った海舟が、明治以降総理大臣になれなかったばかりか、それに推す声すら無かったのは、単に旧幕臣出身というだけでなく、基本的に人望が欠けていたことに起因しているように思う。
大龍小学校 大龍寺城跡
南洲神社の鳥居を真っ直ぐ下った地点に大龍小学校がある。かつてここには大龍寺城という島津家の居城があった。大龍小学校に隣接する、長い石垣に囲まれた屋敷が、篤姫の実家である今泉島津家跡である。天保六年(1835)天璋院篤姫はこの地で生まれている。
仁禮景通墓
仁禮景通は、戊辰戦争では監軍として出征し、その後は伊集院区長などを務めた。西南戦争では本営付として西郷隆盛と行動を共にし、九月二十四日、城山陥落に際して捕えられて斬罪に処された。なお戦後処分で斬罪処分を受けたのは、大山綱良県令以下の首謀者、参謀級二十二名である。
貴島國彦(清)墓
貴島清。戊辰戦争に従軍し、明治四年(1871)御親兵、近衛少佐に任じられたが、明治七年(1874)辞任して帰郷。西南戦争には当初従軍せず、のち西郷軍の苦戦を聞いて、兵を募って西郷郡に加わった。その後、振武軍監軍となり、鹿児島、宮崎を転戦。可愛岳突囲後、鹿児島に戻り、城山麓の米倉を襲撃し、戦死した。
貴島は米倉襲撃を提案し、賛同を得た。貴島は喜び
「諸君はまだ自分を疑っているか」
といった。参戦が遅れたことをこの期に至るまで気に病んでいたらしい。これに対し桐野が
「今日まで生死をともにしてきた貴君を誰が疑うか」
と応えてやると、貴島は清らかな笑顔を見せたという。
翌日、白刃をもって米倉を襲い乱弾を浴びて即死した。三十五歳であった。
河野通政(主一郎)墓
明治六年(1873)西郷隆盛の下野に従い近衛大尉を辞任。帰郷後は、私学校の創立に力を尽くした。西南戦争では五番大隊一番小隊長として出征し、田原坂の戦い、城東会戦にて奮戦した。その後、正義隊、破竹隊長を務め、可愛岳突囲後、西郷隆盛とともに城山に籠城。九月二十一日、山野田一輔とともに軍使として下山した。山県有朋の密書を持たされて薩軍本営に戻った山野田は三日後の総攻撃を受けて戦死した。河野は懲役十年に処されたが、明治十四年(1881)出獄し、その後、青森県知事などを務めた。
小川原正道「西南戦争」(中公新書)では、その後の河野主一郎を紹介している。河野が鹿児島に帰ると、待ち構えていた薩軍残党は河野を主盟に戴き、三州社を設立した。三州社は「第二の私学校」とも呼ばれ、時代の思想である自由民権運動と無縁ではなかった。彼らは西南戦争戦没者の遺骨収集も重要な任務としていた。しかし三州社の存在に危険な匂いを感じた政府高官の運動により、次第に骨抜きとなり明治二十二年(1889)解消を余儀なくされた。
平野正介墓
平野正介は、明治五年(1872)頃、陸軍少佐を辞任し帰郷。私学校の吉野開墾社を監督した。明治十年(1877)西郷隆盛の挙兵に応じて五番大隊七番小隊長として出征し、二月二十三日の木葉の戦いでは、乃木希典の十四連隊を撃破した。その後、常山隊長を務め、西郷とともに城山にて戦死した。
小倉知周(壮九郎)墓
小倉壮九郎。諱は知周。東郷平八郎の実兄である。明治四年(1871)近衛大尉に任官し、二年後に海軍に転じた。明治八年(1875)西郷に従って官を辞し帰郷。種子島区長などを務めた。西南戦争では三番大隊九番小隊長を務め、熊本・植木方面で政府軍と戦った。その後、本営護営狙撃隊一番中隊長として西郷と行動を共にし、城山にて戦死した。
村田三介墓
諱は経往。明治八年(1875)陸軍砲兵少佐を辞任して帰郷した。菱刈区長などを務めていたが、明治十年(1877)西郷隆盛の率兵上京に反対し、少人数での上京を主張したが、桐野利秋らに押し切られ、自らも五番大隊二番小隊長として出征した。二月二十二日の植木の戦闘では、乃木十四連隊を撃破して連隊旗を奪っている。その後、隅田にて戦死。
南洲墓地に墓碑数749基。2023柱の将士が眠る。
中央に西郷隆盛、その両側に桐野利秋と篠原国幹、更に別府晋介、辺見十郎太、淵部群平(高照)、池上四郎らの墓がずらりと並ぶ。
少し離れて大山綱良県令の墓。生前、西郷と久光党である大山県令の仲はどうもしっくりいってなかったと言われるが、両者の墓の距離がそれを物語っている。
そのほか、薩軍に合流しようとして果たせず遂に壊滅した福岡隊の墓などもある。
南州墓地には西南戦争戦没者碑がある。実に6750名の名がそこに刻まれている。戦争の傷の深さが実感できる。
南州墓地・西郷隆盛の墓
南洲墓地には数多くの墓石が並ぶが、その中から西郷隆盛の墓を囲むようにして並ぶ、薩軍幹部の墓を紹介しよう。
桐埜利秋墓
桐野利秋は天保九年(1838)の生まれで明治十年(1877)の西南戦争の時点で四十歳であった。はじめ中村半次郎と称し、明治以降本姓に戻して桐野利秋と改めた。吉野実方の微禄の家に生まれ、豪邁にして胆略があり武芸にも長じた。文久二年(1862)の島津久光上京に従って入京し、中川宮付守衛となり、元治元年(1864)禁門の変での活躍を西郷に認められた。戊辰戦争では、小頭見習として鳥羽伏見に戦い、ついで東海道先鋒として江戸に入った。会津征討軍軍監として会津若松城受け取りの大任を果たし、賞典禄二百石を賜った。明治後、近衛兵の大隊長に就いて、陸軍少将に任じられた。明治五年(1872)には熊本鎮台司令長官。翌年、陸軍裁判長に転じた。西郷隆盛が征韓論論争に敗れると、官を辞して帰郷し私学校の幹部となった。西南戦争では四番隊大隊長として実質的に薩軍の総指揮をとったが、最後は城山で戦死した。
篠原国幹墓
天保七年(1836)鹿児島城下に生まれる。少年の頃から藩校造士館に学んで頭角を表した。また剣を示現派薬丸半左衛門(東郷弥十郎)に学んだ。文久二年(1862)の寺田屋事変では現場に居合わせたが、国に送還されて謹慎を命ぜられた。翌年の薩英戦争でも活躍し、戊辰戦争では鳥羽伏見、継いで上野黒門口の戦闘に参加した。会津戦争では母成峠を破って若松城下に迫った。その功で戦後、賞典禄八百石を賜った。明治四年(1871)近衛兵大隊長として上京し、明治五年(1872)には陸軍少将に任じられた。明治六年の政変により、西郷隆盛に従って鹿児島に帰り、桐野利秋、村田新八らと私学校を設立して、子弟の養成、開墾植林に尽くした。西南戦争では一番隊大隊長として従軍し、熊本城の強襲を主張するも容れられず、自らは高瀬方面にて戦った。明治十年(1877)三月四日、吉次峠の攻防戦にて陣頭指揮を振るっているところを敵弾に当たって戦死した。
村田新八墓
天保七年(1836)鹿児島城下高見馬場に生まれた。幼時に村田家に養子となり、その姓を名乗った。幼少のときから西郷隆盛に兄事し、文久二年(1862)西郷が久光の怒りに触れて遠島処分を受けた時、やはり喜界ヶ島に流された。明治元年(1868)の戊辰戦争で奥羽に出征して功があった。明治四年(1871)宮内大丞に任じられ、岩倉使節団の一行に加わって欧米を巡回して明治七年(1874)帰国した。西郷が下野したことを知ると、西郷に従って鹿児島に帰った。私学校の創立に与り、砲隊学校の監督に就いた。西南戦争では二番大隊長。木留の本陣から田原、吉次、植木方面の諸隊を指揮して善戦したが、人吉に退いたのちは宮崎方面に撤退した。都城が陥落すると佐土原、高鍋、美々津、延岡と転戦し、遂には鹿児島に戻って西郷とともに城山で戦死した。
永山盛弘(弥一郎)墓
永山弥一郎。諱は盛弘。天保九年(1838)城下上荒田町に生まれる。はじめは茶坊主として勤め、文久二年(1862)の寺田屋事件にも参加していたが、年少だったことから罪を許された。戊辰戦争では川村純義のもとで小銃四番隊監軍として従軍し、特に白河城攻略に功があった。明治四年(1871)陸軍少佐に任じられ、ついで開拓使三等出仕を命じられて北海道に赴いた。のち陸軍中佐で屯田兵の長となった。明治八年(1875)千島樺太交換条約に反対して職を辞し、帰郷した。西南戦争では三番大隊長。政府が衝背軍を日奈久に上陸させたことを知ると、一隊を率いて御船に出軍したが敗戦。永山弥一郎は民家を買い取って、それに火を放って自刃して果てた。四十歳であった。
池上貞固(四郎)墓
背後(左)は高城七之丞墓
池上(いけのうえ)四郎は、天保十三年(1842)城下樋ノ口町に生まれ。諱は貞固。鳥羽伏見の戦いに従軍し、ついで東海道先鋒総督府の本営付として転戦したが、白河口の攻防戦で負傷した。明治四年(1871)御親兵四大隊の一部を率いて上京し、近衛陸軍少佐に任じられた。明治五年(1872)征韓問題が浮上すると、外務省十等出仕を命じられ、西郷隆盛の命を受けて満州地方を視察した。明治六年の政変を受けて鹿児島に戻り、私学校の創立に力を尽くした。西南戦争では五番大隊長。戦争の後半は本営にあって軍議に参与した。最後まで西郷に従って鹿児島に帰り、城山で戦死した。年三十六。
渕辺高照墓
渕辺群平(高照)は、鹿児島市高麗町に生まれた。近衛少佐。当初は陸軍本営付護衛隊長。西南戦争勃発後の明治十年(1877)三月に帰鹿し、辺見十郎太、別府晋介らと新たに兵を募って千五百を集め、九番隊を編成した。これを率いて八代奪回を目指したが、失敗に終わった。六月以降は鵬翼隊大隊長となり、陣頭指揮を振るったが戦死。三十八歳であった。
邊見十郎太墓
辺見十郎太は、嘉永二年(1849)鹿児島城下上荒田町の生まれ。戊辰戦争では、薩摩藩二番小隊長として東北方面の戦争に従軍。明治四年(1871)上京して近衛陸軍大尉。明治六年(1873)征韓論争が決裂すると西郷隆盛に従って鹿児島に帰った。明治八年(1875)、宮之城区長となって私学校運営に尽くした。西南戦争では薩軍三番大隊一番小隊長として奮戦した。薩軍の兵力不足に直面して、別府晋介らと一旦帰郷して兵を募り、八代の官軍と交戦した。薩軍の編成変えのあと、雷撃隊大隊長として大口方面、ついで後踊、岩川、末吉と転戦した。九月、城山にて戦死。二十九歳であった。
別府景長(晋介)墓
別府晋介は弘化四年(1847)吉野村実方に生まれた。諱は景長。桐野利秋の従弟にあたる。戊辰戦争では薩軍分隊長として奥羽に転戦。明治四年(1871)には近衛陸軍大尉としてついで少佐に進んだ。明治五年(1872)西郷隆盛の密命を受けて朝鮮半島の情勢を視察して帰朝復命した。明治六年の政変後は鹿児島に帰郷して加治木ほか四郷の区長となって私学校運営に尽くした。西南戦争では二個大隊(加治木、国分、帖佐、重富、山田、溝部各郷出身者)を組織して、その連合大隊長。辺見十郎太らと鹿児島に帰って壮丁を募り、それをもって八代の政府軍を攻撃したが、重傷を負って人吉に退いた。その後、振武隊、行進隊を率いて薩隅日を転戦した。九月、鹿児島に帰り、西郷隆盛の介錯をしたあと、岩崎谷にて自刃。年三十一。
桂久武墓
桂久武は、天保元年(1830)に鹿児島城下日置屋敷に薩摩藩家老の家に生まれた。西郷隆盛の父、吉兵衛が日置家の書役をしていた関係で、西郷隆盛と親交が深かった。安政四年(1857)詰衆となり、ついで造士館演武館掛に任じ、文久二年(1862)大島警衛の命を奉じて藩士二十名を従えて大島に渡り、大島銅山経営掛を兼ねた。更に大目付、家老加判役と累進を重ねた。慶応三年(1867)討幕挙兵を決意した大久保利通から藩地に藩兵の派遣を要求があると、門閥保守派の反対を押し切って出兵を実行した。明治後は薩摩藩参政として藩政改革に当たり、明治三年(1870)には西郷とともに薩摩藩権大参事に挙げられた。翌年、都城県参事、明治六年(1873)には豊岡権令に任じられたが病を理由にほどなく辞した。西南戦争が起きると、西郷の要請に応じて大小荷駄隊長として兵站を担当した。城山にて戦死。年四十八。
山野田一輔墓
山野田一輔は鹿児島市西田に生まれた。近衛陸軍大尉、薩軍中隊長。城山総攻撃の前夜、河野主一郎と相談して軍使として川村純義参軍のもとに赴き、挙兵の主旨を説明した。このとき西郷隆盛の助命を乞うたといわれる。山野田は薩軍に戻り、城山で戦死。三十四歳であった。なお弟山野田政治も田原坂で戦死している。
大山綱良墓
文政八年(1825)に城下高麗町に生まれ、十歳のとき藩の御数寄屋御茶道に仕えた。剣を示現流薬丸半左衛門に学んだ。西郷、大久保らと精忠組を結成し重きを成した。文久二年(1862)の寺田屋事件では、久光の命を受けて鎮撫に当たった。薩英戦争でも活躍。慶応二年(1866)には太宰府にいた三条実美ら五卿の警護に当たった。鳥羽伏見に出征し、奥羽鎮撫総督府参謀として奥羽各地を転戦し、その功により賞典禄八百石を賜っている。明治四年(1871)鹿児島県大参事。明治七年(1874)には県令となった。私学校ができると県官をその幹部に登用するなど、私学校と強く結びついた。西南戦争が起きると、官金を軍資に供用するなど、全面的に薩軍に積極的に協力し、その罪によって官位を奪われ、九月三十日、長崎において斬に処された。五十三歳であった。
岩村縣令紀念碑
岩村通俊は、天保十一年(1840)、岩村英俊の長男として土佐宿毛に生まれる。次男は林有造、三男に岩村精一郎高俊がいる。林有造は西南戦争に呼応して叛乱を起こそうとして囚われ、岩村高俊は暴発寸前の佐賀に乗り込んで佐賀の乱を誘発した。三兄弟は思想も行動パターンもそれぞれ個性的であった。長男通俊は、岡田以蔵に剣を学び、武市瑞山に師事して勤王の志を磨いた。戊辰戦争には軍監として従軍し、越後を転戦した。維新後は北海道の開拓に従事したあと佐賀県権令、継いで山口裁判所長とのときには萩の乱を処置した。明治十年(1877)五月には西南戦争最中の鹿児島に県令として赴任。戦後の回復にも心を砕いた。通俊は、西郷隆盛以下、戦死者の遺体を丁重に埋葬し、自ら墓碑を書いたというが、市民の共感を得るためにも薩軍に同情的立場を取ったのであろう。その後元老院議官、会計検査院長、沖縄県令、北海道長官を経て、農商務大臣、宮中顧問官、貴族院議員を歴任し、男爵を授けられた。大正四年(1915)七十六歳にて死去。
南州墓地に隣接して市立西郷南州顕彰館がある。入場料100円であるが、なかなか充実している。上野彦馬が撮影したと言う西南戦争の写真(207枚もあるという)の展示が見物。
市立南州顕彰館
西郷さんの顕彰館であるから、西郷さんのことを悪く言うはずは無いが、ちょっと誉め過ぎという気がしないでもない。
西郷隆盛坐像
南洲顕彰館を入ると西郷隆盛と菅実秀の座像が出迎えてくれる。武の西郷公園にある像の原型となったものである。
南州墓地 勝海舟の歌碑
ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが
なすがまにまに 果てし 君かな
中央に西郷隆盛、その両側に桐野利秋と篠原国幹、更に別府晋介、辺見十郎太、淵部群平(高照)、池上四郎らの墓がずらりと並ぶ。
少し離れて大山綱良県令の墓。生前、西郷と久光党である大山県令の仲はどうもしっくりいってなかったと言われるが、両者の墓の距離がそれを物語っている。
そのほか、薩軍に合流しようとして果たせず遂に壊滅した福岡隊の墓などもある。
南州墓地には西南戦争戦没者碑がある。実に6750名の名がそこに刻まれている。戦争の傷の深さが実感できる。
南州墓地・西郷隆盛の墓
南洲墓地には数多くの墓石が並ぶが、その中から西郷隆盛の墓を囲むようにして並ぶ、薩軍幹部の墓を紹介しよう。
桐埜利秋墓
桐野利秋は天保九年(1838)の生まれで明治十年(1877)の西南戦争の時点で四十歳であった。はじめ中村半次郎と称し、明治以降本姓に戻して桐野利秋と改めた。吉野実方の微禄の家に生まれ、豪邁にして胆略があり武芸にも長じた。文久二年(1862)の島津久光上京に従って入京し、中川宮付守衛となり、元治元年(1864)禁門の変での活躍を西郷に認められた。戊辰戦争では、小頭見習として鳥羽伏見に戦い、ついで東海道先鋒として江戸に入った。会津征討軍軍監として会津若松城受け取りの大任を果たし、賞典禄二百石を賜った。明治後、近衛兵の大隊長に就いて、陸軍少将に任じられた。明治五年(1872)には熊本鎮台司令長官。翌年、陸軍裁判長に転じた。西郷隆盛が征韓論論争に敗れると、官を辞して帰郷し私学校の幹部となった。西南戦争では四番隊大隊長として実質的に薩軍の総指揮をとったが、最後は城山で戦死した。
篠原国幹墓
天保七年(1836)鹿児島城下に生まれる。少年の頃から藩校造士館に学んで頭角を表した。また剣を示現派薬丸半左衛門(東郷弥十郎)に学んだ。文久二年(1862)の寺田屋事変では現場に居合わせたが、国に送還されて謹慎を命ぜられた。翌年の薩英戦争でも活躍し、戊辰戦争では鳥羽伏見、継いで上野黒門口の戦闘に参加した。会津戦争では母成峠を破って若松城下に迫った。その功で戦後、賞典禄八百石を賜った。明治四年(1871)近衛兵大隊長として上京し、明治五年(1872)には陸軍少将に任じられた。明治六年の政変により、西郷隆盛に従って鹿児島に帰り、桐野利秋、村田新八らと私学校を設立して、子弟の養成、開墾植林に尽くした。西南戦争では一番隊大隊長として従軍し、熊本城の強襲を主張するも容れられず、自らは高瀬方面にて戦った。明治十年(1877)三月四日、吉次峠の攻防戦にて陣頭指揮を振るっているところを敵弾に当たって戦死した。
村田新八墓
天保七年(1836)鹿児島城下高見馬場に生まれた。幼時に村田家に養子となり、その姓を名乗った。幼少のときから西郷隆盛に兄事し、文久二年(1862)西郷が久光の怒りに触れて遠島処分を受けた時、やはり喜界ヶ島に流された。明治元年(1868)の戊辰戦争で奥羽に出征して功があった。明治四年(1871)宮内大丞に任じられ、岩倉使節団の一行に加わって欧米を巡回して明治七年(1874)帰国した。西郷が下野したことを知ると、西郷に従って鹿児島に帰った。私学校の創立に与り、砲隊学校の監督に就いた。西南戦争では二番大隊長。木留の本陣から田原、吉次、植木方面の諸隊を指揮して善戦したが、人吉に退いたのちは宮崎方面に撤退した。都城が陥落すると佐土原、高鍋、美々津、延岡と転戦し、遂には鹿児島に戻って西郷とともに城山で戦死した。
永山盛弘(弥一郎)墓
永山弥一郎。諱は盛弘。天保九年(1838)城下上荒田町に生まれる。はじめは茶坊主として勤め、文久二年(1862)の寺田屋事件にも参加していたが、年少だったことから罪を許された。戊辰戦争では川村純義のもとで小銃四番隊監軍として従軍し、特に白河城攻略に功があった。明治四年(1871)陸軍少佐に任じられ、ついで開拓使三等出仕を命じられて北海道に赴いた。のち陸軍中佐で屯田兵の長となった。明治八年(1875)千島樺太交換条約に反対して職を辞し、帰郷した。西南戦争では三番大隊長。政府が衝背軍を日奈久に上陸させたことを知ると、一隊を率いて御船に出軍したが敗戦。永山弥一郎は民家を買い取って、それに火を放って自刃して果てた。四十歳であった。
池上貞固(四郎)墓
背後(左)は高城七之丞墓
池上(いけのうえ)四郎は、天保十三年(1842)城下樋ノ口町に生まれ。諱は貞固。鳥羽伏見の戦いに従軍し、ついで東海道先鋒総督府の本営付として転戦したが、白河口の攻防戦で負傷した。明治四年(1871)御親兵四大隊の一部を率いて上京し、近衛陸軍少佐に任じられた。明治五年(1872)征韓問題が浮上すると、外務省十等出仕を命じられ、西郷隆盛の命を受けて満州地方を視察した。明治六年の政変を受けて鹿児島に戻り、私学校の創立に力を尽くした。西南戦争では五番大隊長。戦争の後半は本営にあって軍議に参与した。最後まで西郷に従って鹿児島に帰り、城山で戦死した。年三十六。
渕辺高照墓
渕辺群平(高照)は、鹿児島市高麗町に生まれた。近衛少佐。当初は陸軍本営付護衛隊長。西南戦争勃発後の明治十年(1877)三月に帰鹿し、辺見十郎太、別府晋介らと新たに兵を募って千五百を集め、九番隊を編成した。これを率いて八代奪回を目指したが、失敗に終わった。六月以降は鵬翼隊大隊長となり、陣頭指揮を振るったが戦死。三十八歳であった。
邊見十郎太墓
辺見十郎太は、嘉永二年(1849)鹿児島城下上荒田町の生まれ。戊辰戦争では、薩摩藩二番小隊長として東北方面の戦争に従軍。明治四年(1871)上京して近衛陸軍大尉。明治六年(1873)征韓論争が決裂すると西郷隆盛に従って鹿児島に帰った。明治八年(1875)、宮之城区長となって私学校運営に尽くした。西南戦争では薩軍三番大隊一番小隊長として奮戦した。薩軍の兵力不足に直面して、別府晋介らと一旦帰郷して兵を募り、八代の官軍と交戦した。薩軍の編成変えのあと、雷撃隊大隊長として大口方面、ついで後踊、岩川、末吉と転戦した。九月、城山にて戦死。二十九歳であった。
別府景長(晋介)墓
別府晋介は弘化四年(1847)吉野村実方に生まれた。諱は景長。桐野利秋の従弟にあたる。戊辰戦争では薩軍分隊長として奥羽に転戦。明治四年(1871)には近衛陸軍大尉としてついで少佐に進んだ。明治五年(1872)西郷隆盛の密命を受けて朝鮮半島の情勢を視察して帰朝復命した。明治六年の政変後は鹿児島に帰郷して加治木ほか四郷の区長となって私学校運営に尽くした。西南戦争では二個大隊(加治木、国分、帖佐、重富、山田、溝部各郷出身者)を組織して、その連合大隊長。辺見十郎太らと鹿児島に帰って壮丁を募り、それをもって八代の政府軍を攻撃したが、重傷を負って人吉に退いた。その後、振武隊、行進隊を率いて薩隅日を転戦した。九月、鹿児島に帰り、西郷隆盛の介錯をしたあと、岩崎谷にて自刃。年三十一。
桂久武墓
桂久武は、天保元年(1830)に鹿児島城下日置屋敷に薩摩藩家老の家に生まれた。西郷隆盛の父、吉兵衛が日置家の書役をしていた関係で、西郷隆盛と親交が深かった。安政四年(1857)詰衆となり、ついで造士館演武館掛に任じ、文久二年(1862)大島警衛の命を奉じて藩士二十名を従えて大島に渡り、大島銅山経営掛を兼ねた。更に大目付、家老加判役と累進を重ねた。慶応三年(1867)討幕挙兵を決意した大久保利通から藩地に藩兵の派遣を要求があると、門閥保守派の反対を押し切って出兵を実行した。明治後は薩摩藩参政として藩政改革に当たり、明治三年(1870)には西郷とともに薩摩藩権大参事に挙げられた。翌年、都城県参事、明治六年(1873)には豊岡権令に任じられたが病を理由にほどなく辞した。西南戦争が起きると、西郷の要請に応じて大小荷駄隊長として兵站を担当した。城山にて戦死。年四十八。
山野田一輔墓
山野田一輔は鹿児島市西田に生まれた。近衛陸軍大尉、薩軍中隊長。城山総攻撃の前夜、河野主一郎と相談して軍使として川村純義参軍のもとに赴き、挙兵の主旨を説明した。このとき西郷隆盛の助命を乞うたといわれる。山野田は薩軍に戻り、城山で戦死。三十四歳であった。なお弟山野田政治も田原坂で戦死している。
大山綱良墓
文政八年(1825)に城下高麗町に生まれ、十歳のとき藩の御数寄屋御茶道に仕えた。剣を示現流薬丸半左衛門に学んだ。西郷、大久保らと精忠組を結成し重きを成した。文久二年(1862)の寺田屋事件では、久光の命を受けて鎮撫に当たった。薩英戦争でも活躍。慶応二年(1866)には太宰府にいた三条実美ら五卿の警護に当たった。鳥羽伏見に出征し、奥羽鎮撫総督府参謀として奥羽各地を転戦し、その功により賞典禄八百石を賜っている。明治四年(1871)鹿児島県大参事。明治七年(1874)には県令となった。私学校ができると県官をその幹部に登用するなど、私学校と強く結びついた。西南戦争が起きると、官金を軍資に供用するなど、全面的に薩軍に積極的に協力し、その罪によって官位を奪われ、九月三十日、長崎において斬に処された。五十三歳であった。
岩村縣令紀念碑
岩村通俊は、天保十一年(1840)、岩村英俊の長男として土佐宿毛に生まれる。次男は林有造、三男に岩村精一郎高俊がいる。林有造は西南戦争に呼応して叛乱を起こそうとして囚われ、岩村高俊は暴発寸前の佐賀に乗り込んで佐賀の乱を誘発した。三兄弟は思想も行動パターンもそれぞれ個性的であった。長男通俊は、岡田以蔵に剣を学び、武市瑞山に師事して勤王の志を磨いた。戊辰戦争には軍監として従軍し、越後を転戦した。維新後は北海道の開拓に従事したあと佐賀県権令、継いで山口裁判所長とのときには萩の乱を処置した。明治十年(1877)五月には西南戦争最中の鹿児島に県令として赴任。戦後の回復にも心を砕いた。通俊は、西郷隆盛以下、戦死者の遺体を丁重に埋葬し、自ら墓碑を書いたというが、市民の共感を得るためにも薩軍に同情的立場を取ったのであろう。その後元老院議官、会計検査院長、沖縄県令、北海道長官を経て、農商務大臣、宮中顧問官、貴族院議員を歴任し、男爵を授けられた。大正四年(1915)七十六歳にて死去。
南州墓地に隣接して市立西郷南州顕彰館がある。入場料100円であるが、なかなか充実している。上野彦馬が撮影したと言う西南戦争の写真(207枚もあるという)の展示が見物。
市立南州顕彰館
西郷さんの顕彰館であるから、西郷さんのことを悪く言うはずは無いが、ちょっと誉め過ぎという気がしないでもない。
西郷隆盛坐像
南洲顕彰館を入ると西郷隆盛と菅実秀の座像が出迎えてくれる。武の西郷公園にある像の原型となったものである。
南州墓地 勝海舟の歌碑
ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが
なすがまにまに 果てし 君かな
城山展望台から眺める桜島は美しい。鹿児島県人ならずとも感嘆の声を上げるであろう。西郷らは、死ぬまでに一目桜島の雄姿を拝みたい、という一心で官軍の攻めを凌ぎ、悪路を歩き続けて鹿児島まで帰って来たのかもしれない。
城山展望台から桜島を臨む
駐車場の一角から階段を上ると「ドン広場」と呼ばれる空間に至る。この場所には明治三十年(1897)以来、正午を報せる空砲を撃つ大砲が置かれていたため「ドン広場」と称される。この広場を抜けた木陰に「明治十年戦役薩軍本営跡」と記された碑が、忘れられたように建っている。可愛岳突囲後、山中を進軍して鹿児島に戻ってきた薩軍は、官軍の包囲を突破して城山に陣取った。本営を置いたのが、この場所である。
明治十年戦役薩軍本営跡
城山展望台から桜島を臨む
駐車場の一角から階段を上ると「ドン広場」と呼ばれる空間に至る。この場所には明治三十年(1897)以来、正午を報せる空砲を撃つ大砲が置かれていたため「ドン広場」と称される。この広場を抜けた木陰に「明治十年戦役薩軍本営跡」と記された碑が、忘れられたように建っている。可愛岳突囲後、山中を進軍して鹿児島に戻ってきた薩軍は、官軍の包囲を突破して城山に陣取った。本営を置いたのが、この場所である。
明治十年戦役薩軍本営跡
久し振りに磯庭園(仙厳園)を訪れた。広い庭は相変わらずよく手入れが行き届いており、非常に気持ちが良い。仙厳園は、万治元年(1658)十九代島津光久がこの地に別邸を構えたのが始まりである。眼前に錦江湾と桜島を配した借景は雄大である。磯御殿は、維新後、鹿児島における島津家の生活の拠点となり、一時は本邸として使われたこともある。
磯御殿
磯御殿から桜島を臨む
反射爐址
薩摩藩百五十斤鉄製砲(復元)
仙厳園の入口を入ると巨大な鉄製の大砲が出迎えてくれる。勿論、これは復元されたレプリカであるが、当時反射炉で鋳造された最大級の砲身が百五十斤砲であった。
炉床の下部構造
島津斉彬は藩主に就くと、軍備の近代化と産業の育成に力を注いだ。反射炉は、主に大砲を鋳造するために建設されたもので、嘉永五年(1852)に着手し、安政三年(1856)にようやく鉄製砲の鋳造に成功した。文久三年(1863)の薩英戦争ではこの反射炉で造られた大砲が活躍したという。現在は解体されて基礎部分だけが残されている。炉の高さは15~20メートルと推定されている。
磯御殿
磯御殿から桜島を臨む
反射爐址
薩摩藩百五十斤鉄製砲(復元)
仙厳園の入口を入ると巨大な鉄製の大砲が出迎えてくれる。勿論、これは復元されたレプリカであるが、当時反射炉で鋳造された最大級の砲身が百五十斤砲であった。
炉床の下部構造
島津斉彬は藩主に就くと、軍備の近代化と産業の育成に力を注いだ。反射炉は、主に大砲を鋳造するために建設されたもので、嘉永五年(1852)に着手し、安政三年(1856)にようやく鉄製砲の鋳造に成功した。文久三年(1863)の薩英戦争ではこの反射炉で造られた大砲が活躍したという。現在は解体されて基礎部分だけが残されている。炉の高さは15~20メートルと推定されている。
久し振りに鹿児島の史跡を回ってきました。ただ今回は「団体旅行」のようなものでしたので、ごく平凡な史跡しか訪ねることはできませんでした。
何回かに分けて紹介していきます。
霧島神宮
霧島神宮は、往古より高千穂山頂(標高1574m)に鎮座していたが、噴火のため炎上を繰り返し、文明十六年(1484)現在地に再興された。この社殿も噴火炎上したが、正徳五年(1715)に再建されて現在に至っている。
愛車を購入したのはちょうど十年前。今も都内で鹿児島ナンバーの自動車に乗っている。この車が新車のとき安全の祈祷をしたのが霧島神宮で、思えば今回十年振りのお参りになった。境内には坂本龍馬とおりょうの新婚旅行を記念する説明が、似顔絵の横に置いてある。
坂本龍馬・おりょう新婚旅行記念
坂本龍馬とおりょうが新婚旅行に当地を訪れたのは、慶応二年(1866)のことである。その年の一月、薩長同盟の仲介に成功した坂本龍馬は、伏見寺田屋にて幕吏に襲われた。九死に一生を得た龍馬は、傷の手当も兼ねておりょうを伴って薩摩を旅することになった。二人は鹿児島から海路隼人浜ノ市に着き、日当山を経て塩浸温泉に案内された。ここで十日余りを過ごし、霧島から高千穂峰に登っている。龍馬から姉乙女への手紙には、「天の逆鉾」が天狗の面に似ているとユーモアを込めて書かれている。
塩浸温泉 坂本龍馬お龍新婚湯治碑
塩浸温泉は、文化三年(1806)に開かれたと伝えられる。龍馬とおりょうが使ったという湯船は壊されて現存していないが、現在もそこから引き湯している。平成元年(1989)二人の新婚旅行を記念して、天降川のほとりに新婚湯治像が建てられた。それにしても坂本龍馬の人気は、圧倒的である。鹿児島、高知、愛媛、香川、長崎、京都の坂本龍馬像を数えると、十は下らない。銅像の数が人気のバロメータとすれば、西郷、大久保は膝元にも及ばない(私の知る限り、西郷銅像は、鹿児島県に三つ、上野に一つ。大久保利通像はたったの一つである)。
何回かに分けて紹介していきます。
霧島神宮
霧島神宮は、往古より高千穂山頂(標高1574m)に鎮座していたが、噴火のため炎上を繰り返し、文明十六年(1484)現在地に再興された。この社殿も噴火炎上したが、正徳五年(1715)に再建されて現在に至っている。
愛車を購入したのはちょうど十年前。今も都内で鹿児島ナンバーの自動車に乗っている。この車が新車のとき安全の祈祷をしたのが霧島神宮で、思えば今回十年振りのお参りになった。境内には坂本龍馬とおりょうの新婚旅行を記念する説明が、似顔絵の横に置いてある。
坂本龍馬・おりょう新婚旅行記念
坂本龍馬とおりょうが新婚旅行に当地を訪れたのは、慶応二年(1866)のことである。その年の一月、薩長同盟の仲介に成功した坂本龍馬は、伏見寺田屋にて幕吏に襲われた。九死に一生を得た龍馬は、傷の手当も兼ねておりょうを伴って薩摩を旅することになった。二人は鹿児島から海路隼人浜ノ市に着き、日当山を経て塩浸温泉に案内された。ここで十日余りを過ごし、霧島から高千穂峰に登っている。龍馬から姉乙女への手紙には、「天の逆鉾」が天狗の面に似ているとユーモアを込めて書かれている。
塩浸温泉 坂本龍馬お龍新婚湯治碑
塩浸温泉は、文化三年(1806)に開かれたと伝えられる。龍馬とおりょうが使ったという湯船は壊されて現存していないが、現在もそこから引き湯している。平成元年(1989)二人の新婚旅行を記念して、天降川のほとりに新婚湯治像が建てられた。それにしても坂本龍馬の人気は、圧倒的である。鹿児島、高知、愛媛、香川、長崎、京都の坂本龍馬像を数えると、十は下らない。銅像の数が人気のバロメータとすれば、西郷、大久保は膝元にも及ばない(私の知る限り、西郷銅像は、鹿児島県に三つ、上野に一つ。大久保利通像はたったの一つである)。
ある方から勧められて手にしてみたが、あっという間に読み終えた。一世紀も前に書かれたものにもかかわらず、表現は平易で非常に読みやすい。著者は、熊本城下に生まれ、軍人の道に進み、ロシアに潜入して諜報員として活躍した経歴を持つ。
「城下の人」は四部作の一冊目である。子供の視線で描く神風連の乱や西南戦争の体験記は実に生々しく面白い。後世から見るとエキセントリックな神風乱(敬神党)が、同時代の熊本市民から支持を得ていたことは意外であった。本書には、無名の兵士や市民に交ざって池上四郎、村田新八、谷干城、樺山資紀、更には田村怡与造、田中義一といった多彩な著名人が登場する。筆者が大津事件や日清戦争など歴史の転換点に立ち会い、様々な著名人と遭遇することができたのは、不思議なほどの幸運である。西南戦争前夜、熊本城の天守閣が焼失してしまうが、それを嘆いて涙する庶民の姿。行軍する薩軍兵士と世間話を交わす子供たち。まるでハイキングのような気分で薩軍の砲台を訪ねる市民。熊本攻城戦は我々が思い描いているより、案外のんきな闘いだったのかもしれない。いずれもその場に居合わせないと描くことができない現実である。
残る三作もいずれ読んでみたいと思う。
「城下の人」は四部作の一冊目である。子供の視線で描く神風連の乱や西南戦争の体験記は実に生々しく面白い。後世から見るとエキセントリックな神風乱(敬神党)が、同時代の熊本市民から支持を得ていたことは意外であった。本書には、無名の兵士や市民に交ざって池上四郎、村田新八、谷干城、樺山資紀、更には田村怡与造、田中義一といった多彩な著名人が登場する。筆者が大津事件や日清戦争など歴史の転換点に立ち会い、様々な著名人と遭遇することができたのは、不思議なほどの幸運である。西南戦争前夜、熊本城の天守閣が焼失してしまうが、それを嘆いて涙する庶民の姿。行軍する薩軍兵士と世間話を交わす子供たち。まるでハイキングのような気分で薩軍の砲台を訪ねる市民。熊本攻城戦は我々が思い描いているより、案外のんきな闘いだったのかもしれない。いずれもその場に居合わせないと描くことができない現実である。
残る三作もいずれ読んでみたいと思う。
竹橋事件からちょうど百年に当たる昭和五十三年(1978)に刊行され、それから三十年を経て文庫で復刊された力作である。あまり知られていない竹橋事件の経緯を、当時の口供書などを基に刻銘に解き明かした。事件前夜、近衛砲兵隊員を中心に叛乱の企てが練られるが、思うように同志が集まず、計画も遅々として進行しない。読んでいると思わずいらだちともどかしさが募る(携帯電話や電子メールがあれば、もっと話が早いだろうに!)。竹橋事件がわずか一日で鎮圧され、失敗に終わった要因としては①強力なリーダーが不在で、暴発後、組織的な動きが取れなかったこと②事前にことが露見して砲弾などの使用を封じられたこと③結果的に近衛砲兵が中心で、鎮台兵や近衛歩兵の協力が得られなかったことが挙げられる。また四つ目の要因を挙げるとすれば、単なる待遇改善を訴えたのか、民会の設立まで視野に入れた政策の転換を求めたのか、大義名分が判然としなかったことも付け加えることができよう。
竹橋事件には多くの謎が残されている。その最大の謎が竹橋事件の黒幕と目される陸軍少佐(当時東京鎮台予備砲兵大隊長)岡本柳之助の存在である。澤地久枝氏は、口供書が沈黙している「空白の三日間」に着目し、そこに何らかの工作があったことを指摘している。岡本は事件後、嫌疑不十分ながら免官処分を受けている。
岡本柳之助は、紀州藩の出身。紀州藩は明治初年、津田出が先頭に立って藩政改革を進めていた。既にこの頃、のちに全国に行われる徴兵制度の原型を作っていた。その中で岡本は二十歳という若さで砲兵連隊長に抜擢されている。
改革には軋轢が生じる。紀州藩では改革派と反改革派の争いが起こり、遂に反改革派の家老が惨殺される事件にまで発展している。岡本はこの家老暗殺事件に関与していた気配があるが、このときも罪を問われなかった。澤地久枝氏によるとこのとき岡本は「兵力を擁しているものの歴然たる強味を体験し、必要と判断すれば、「法」を枉げても実力行動に訴える醍醐味を味わった」のだという。
岡本柳之助は竹橋事件以外にも歴史に顔を出す。明治二十七年(1895)の閔妃暗殺事件である。このときも岡本は実行部隊の長として直接指揮をしていながら、罪を逃れている。明治新政府の顕官には、岡本柳之助のようなヤクザまがいの、怪しい、いかがわしい、胡散臭い、得体の知れない男も混じっていたのである。
証拠はないものの、岡本が近衛砲兵の叛乱計画の成り行きに関して見て見ぬふりをしていた背景には、同時に進行していた紀州出身の陸奥宗光の裁判があったと言われる。陸奥は西南戦争に呼応して反政府の兵を挙げるという陰謀事件により囚われていた。岡本は混乱に乗じて獄中の陸奥を救出しようとしたのかもしれない。ところが竹橋事件の勃発する8月23日に先行して21日に陸奥に対して禁獄五年の判決が言い渡された。
澤地氏は、「以下は私の想像」と断りながら「兵士の強訴の企てをある筋に内通し、強訴の生殺を制していることを引きかえ条件として、陸奥に対する判決内容を軽くすること」があったと指摘する。状況証拠からすれば十分説明がつく推理である。
岡本は事前に兵士から肚をさぐられると
「古来、義兵を挙げた例を考えてみると、その成功したものはすべて、指揮する人が良将だったからである。いま兵卒どもが、軽躁にして事を挙げても、なにほどのことをなし得ようか」と発言している。取りようによっては自分が立てば事は成ると言っているようにも聞こえるし、リーダー不在のまま兵を挙げても成功しないから暴発を思い止まるようにとも聞こえる。結局、兵たちは岡本が立つことを信じて挙兵した。
事件後の十月十五日、五十三名の無名の若き兵士が銃殺刑に処された。彼らの遺骸は、青山霊園(現在の赤坂高校付近)に葬られたという。その墓碑が発見されたのは、事件から百年を経た昭和五十二年(1977)のことであった。そして「火はわが胸中にあり」が刊行されたのも、昭和五十三年(1978)のことである。竹橋事件はおよそ百年の間、置き捨てられていた感が強い。歴史の闇に葬られようとしていた竹橋事件の真相に迫ったこの作品の持つ意味は非常に重い。
竹橋事件には多くの謎が残されている。その最大の謎が竹橋事件の黒幕と目される陸軍少佐(当時東京鎮台予備砲兵大隊長)岡本柳之助の存在である。澤地久枝氏は、口供書が沈黙している「空白の三日間」に着目し、そこに何らかの工作があったことを指摘している。岡本は事件後、嫌疑不十分ながら免官処分を受けている。
岡本柳之助は、紀州藩の出身。紀州藩は明治初年、津田出が先頭に立って藩政改革を進めていた。既にこの頃、のちに全国に行われる徴兵制度の原型を作っていた。その中で岡本は二十歳という若さで砲兵連隊長に抜擢されている。
改革には軋轢が生じる。紀州藩では改革派と反改革派の争いが起こり、遂に反改革派の家老が惨殺される事件にまで発展している。岡本はこの家老暗殺事件に関与していた気配があるが、このときも罪を問われなかった。澤地久枝氏によるとこのとき岡本は「兵力を擁しているものの歴然たる強味を体験し、必要と判断すれば、「法」を枉げても実力行動に訴える醍醐味を味わった」のだという。
岡本柳之助は竹橋事件以外にも歴史に顔を出す。明治二十七年(1895)の閔妃暗殺事件である。このときも岡本は実行部隊の長として直接指揮をしていながら、罪を逃れている。明治新政府の顕官には、岡本柳之助のようなヤクザまがいの、怪しい、いかがわしい、胡散臭い、得体の知れない男も混じっていたのである。
証拠はないものの、岡本が近衛砲兵の叛乱計画の成り行きに関して見て見ぬふりをしていた背景には、同時に進行していた紀州出身の陸奥宗光の裁判があったと言われる。陸奥は西南戦争に呼応して反政府の兵を挙げるという陰謀事件により囚われていた。岡本は混乱に乗じて獄中の陸奥を救出しようとしたのかもしれない。ところが竹橋事件の勃発する8月23日に先行して21日に陸奥に対して禁獄五年の判決が言い渡された。
澤地氏は、「以下は私の想像」と断りながら「兵士の強訴の企てをある筋に内通し、強訴の生殺を制していることを引きかえ条件として、陸奥に対する判決内容を軽くすること」があったと指摘する。状況証拠からすれば十分説明がつく推理である。
岡本は事前に兵士から肚をさぐられると
「古来、義兵を挙げた例を考えてみると、その成功したものはすべて、指揮する人が良将だったからである。いま兵卒どもが、軽躁にして事を挙げても、なにほどのことをなし得ようか」と発言している。取りようによっては自分が立てば事は成ると言っているようにも聞こえるし、リーダー不在のまま兵を挙げても成功しないから暴発を思い止まるようにとも聞こえる。結局、兵たちは岡本が立つことを信じて挙兵した。
事件後の十月十五日、五十三名の無名の若き兵士が銃殺刑に処された。彼らの遺骸は、青山霊園(現在の赤坂高校付近)に葬られたという。その墓碑が発見されたのは、事件から百年を経た昭和五十二年(1977)のことであった。そして「火はわが胸中にあり」が刊行されたのも、昭和五十三年(1978)のことである。竹橋事件はおよそ百年の間、置き捨てられていた感が強い。歴史の闇に葬られようとしていた竹橋事件の真相に迫ったこの作品の持つ意味は非常に重い。