十一代将軍徳川家斉は、歴代十五代の将軍の中でも、後ろから数えた方が早いくらい印象が薄い。「何をした人か」と尋ねられても、正確に答えられる人はほとんどいないだろう。
という中にあって、家斉のやったことで広く知られているのは、子供を五十人以上もつくったということであろう。子女の正確な数については、本書でも触れられているように、五十三人説、五十五人説、五十七説とまちまちで、「内々に処理」された数を含めると七十人以上になる可能性もあり、おそらく家斉本人に問うても分からなかったに違いない。このせいで、家斉は「オットセイ将軍」という渾名で呼ばれている。オットセイは一頭のオスが二十~三十、多いときは百頭ものメスを従えるそうだ。それにしてもカッコの良い命名ではない。
筆者は家斉のために弁明?している。曾祖父の吉宗は、八歳だった七代家継が亡くなって秀忠以来の血脈が絶えたため、将軍職が回ってきた。その吉宗の血流も、家治の子の家基が十八歳で亡くなったことで主流が絶えてしまい、支流だった家斉が新しい将軍職の始祖となった。「自分の使命の第一は、何としても生き延びて、自分の血脈を残す」ことだと定め、その思いが大奥通いに拍車をかけたのではないか、とする。
その結果、全国に家斉の子供が大名家に養子に入り、あるいは嫁入りし、家斉の血統が全国に拡大した。そればかりか、「斉」という諱を下賜された大名は、数えきれないほど増殖した。幕末の歴史に名前を刻んだ、島津斉彬や水戸斉昭や、公家の二条斉敬など、本書によれば五十人以上が「斉」を賜っている。まさに「全国制覇」した感がある。
家斉は五十年の長きにわたって将軍位にあった。これは歴代徳川将軍の中でダントツの一位である。家斉が将軍の座にあったのは、天明七年(1778)から天保八年(1837)の五十年である。
若き家斉は、家治時代の田沼意次を罷免し、松平定信を老中首座に据え、寛政の改革を推し進めた。定信は緊縮財政により幕府財政の立て直しを図った。その結果、幕府財政は黒字に転じたが、行き過ぎた倹約のため江戸は不景気に陥った。やがて家斉と定信は対立し、定信の失脚へとつながる。
家斉に明確な経済思想や文化芸術への理解があったとも思えないが、倹約や緊縮といった政策は、家斉の気分と合わないことは明白である。化成時代は、吉野桜、ツツジ、カエデなどに代表される植木、川崎大師参詣、相撲興行では新たな地位である横綱の誕生、富岡八幡宮の祭礼の再開、読本、歌舞伎、浮世絵などの興隆などなど、現代にも続く文化芸術が花開いた時代でもあった。
振り返れば、家斉の時代は、世界史上でも稀な「パックス・トクガワーナ」においても、とりわけ泰平の世を謳歌できた時代であった。明治になって「古き良き時代」として懐かしがられたのは、将軍家斉の治世であった。
家斉がどこまで意図的に振舞ったのか分からないが、経済的には「緊縮」より「放漫」の方が世の中は明るくなり、庶民は潤うのである。幕末、幕府の衰退、崩壊を目の当たりにした幕臣は、幕府の権威が盛んだった時代に洋学の振興や海防の強化など成すべきことがあった、と悔やんだかもしれないが、それは言っても詮無いことだろう。家斉を名君とか、卓抜した指導者と積極的に評価するのも違和感があるが、筆者がいうように、一方でもう少しその存在を前向きに評価しても良いのかもしれない。
家斉が世を去ってわずか二十七年後、幕府は政権を返上する。隆盛と凋落は背中合わせだということを物語っている。今、もしピークを迎えていると自覚があるなら、それは凋落の始まりだと思った方が良いだろう(それにしても昨年首位とゲーム差なしの二位だったチームが、翌年断トツのドベになるとは予想できなかった)。